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2008年4月20日 (日)

神様との会話    Ⅰテサロニケ5:15-22

 きょうは、「タッチングヘブン・チェンジングライフ」の第三週目を学びたいと思います。「神様との会話」と題して、3つのポイントで学びたいと思います。祈りとは神様との会話であります。私たちはイエス様を信じた瞬間から、神様との和解が成立しました。神様は天のお父様となり、私たちは子供となったのです。私たちは神様の子供として、何でも、気兼ねなく、お話できるという特権が与えられました。人との電話はbusy、話し中というのがありますが、神様との電話は「話し中」ということがありません。24時間、いつでもopenなのであります。今どきの人たちのほとんどは、携帯電話を持っています。残念ながら、父なる神様に電話する人は稀です。人間と会話はいくらやっても平面的な解決しか与えられません。でも、父なる神様との会話によって、垂直的な、つまり天からの解決が与えられるのです。

1.祈りの継続性

Ⅰテサロニケ5:17に「絶えず祈りなさい」とあります。「絶えず祈れ」とは、どういう意味でしょうか?英語の聖書には、「祈りをやめないで、絶え間なく祈れ」とか「継続的に祈れ」というふうに書いています。絶えず祈るためには、教会の早天祈祷会や水曜祈祷会、徹夜祈祷会もあります。朝のディボ-ションも大切です。私はそれらのことは全部やってきました。でも、日中、仕事場とか家庭では、ほとんど祈りませんでした。なぜなら、「神様は教会堂など、聖い場所にはいらっしゃるけれど、世俗的なところにはいらっしゃらない」と思っていたからです。ある姉妹が、「私は自転車をこぎながら祈っています」と言っていたのを聞いて、びっくりしました。また、ある男性は「私は車を運転しながら祈ります」と言いました。「えー?目をつぶったんじゃ、危ないんじゃないの」と思いました。私たちは「祈りとは、両手を組んで、目をつぶって、祈るものだ」と日曜学校かどこかでおそわっています。もちろん、そういう祈りもあるでしょう。でも、「絶えず祈れ」ということを実行するためには、場所を選んだり、正式な祈りの姿勢を取ることは不可能です。でも心の中で祈るなら、家事をしながら、仕事をしながら、買い物しながら、歩きながら、電車に乗りながら、あるいは人と会話をしながらも祈ることが出来ます。先週、男性は1日に240回、4分毎に誘惑を受けると申し上げました。しかし、それは主を礼拝し、主と交わることのできるすばらしいチャンスでもあります。

イエス様は父なる神様と共に歩みました。父に語りかけ、父を見ることができました。1日に24時間、そうすることができました。みなさんは、「いやいや、イエス様は神様だからね。でも、私のような者がどうしてそのようなことが出来るでしょう」と言うかもしれません。Ⅰヨハネ2:6に「神のうちにとどまっていると言う者は、自分でもキリストが歩まれたように歩まなければなりません」と書いてあります。イエス様は父なる神様と1つでありました。ヨハネ14:10でイエス様は「わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです」とおっしゃいました。イエス様は父なる神様ととても親密な関係を持っていました。イエス様は父なる神様といつも交わり、父なる神様がおっしゃることを語りました。また、イエス様は、父なる神様がなさるわざを行いました。イエス様はすばらしい愛のお方でした。でも、イエス様はイエス様ご自身の愛を用いたのではありません。イエス様は父なる神様から、無条件の愛をいただいて人々を愛することができたのです。また、イエス様がなさった数々の奇跡もそうであります。イエス様は神様ですから、ご自分の力でやろうと思ったらできたのですが、いつも父なる神様の力でなさいました。イエス・キリストは私たちのために模範となられたのです。それだったら、イエス様がいつも父なる神様と交わっていたように、私たちも父なる神様と親しく交わるべきであります。そうするならば、私たちもイエス様と同じようなことができるんじゃないでしょうか?でも、私たちはイエス様の品性を真似ることはできません。イエス様のように愛の人になろうと努力します。ある人がやってきて「あなたが愛の人になるように、手伝ってあげましょう」と、あなたの片方のほほを「バシッ」と叩きました。あなたは1回はなんとが我慢できるかもしれません。でも、それが2度、3度になると、「いい加減にしろ」と怒って、相手のほほを3倍にして殴り返すんじゃないでしょうか?私たちはイエス様の品性をまねることはできません。でも、イエス様のライフスタイルは真似ることができます。イエス様はいつも父なる神様と親しく交わっていました。いつも、父から聞いて、行動していました。

今から400年前、この原則を適用したクリスチャンがいます。彼の名前はブラザー・ローレンスと言います。彼は、神学者や牧師、偉大な説教者でもありません。彼は王様の邸宅の厨房で働く、一介の料理長でした。しかし、彼は父なる神様と24時間の関係を持つということを実践しました。神様の臨在を実践することを「コランデォー」と言います。ブラザー・ローレンスは料理するときも、神様と会話をしました。「お父さん、感謝します」と、毎日、会話をしました。彼の人生に何が起きたでしょうか。彼は福音を宣べ伝える必要がありませんでした。彼が食事を持ってきて仕えるとき、人々が彼の顔を見て、「ああー」と涙を流して悔い改めました。なぜなら、彼の顔が神の栄光に満ちていたからです。そして、彼は「神の臨在を実践する」という本を書きました。リバイバリストで有名な、チャールズ・フィニーも、彼の本から影響を受けました。チャールズ・フィニーが、どれほど力があるかご存知でしょうか。彼はある工場の操業風景を見るために、工場の中に入っていきました。紡績部門を通っていくと、大勢の若い女工がいるのが見えました。彼女たちは、チャールズ・フィニーを見つめ、何やらそわそわしていました。フィニーが彼女たちに近づくと、ますます落ち着き失ったように見えました。そのうちの一人はとても取り乱してしまったので、糸が切れてしまいました。彼女はそれを直そうとしましたが、手がブルブル震えて直すことができません。フィニーがじっと彼女たちのことを見つめていると、一人またひとりと仕事の手を止め、ひざまずきました。数分のうちに機械はすべて止まり、涙と嘆きの声が工場内に満ちました。後で分かったことですが、その大きな工場で働いていたほとんどの人がキリストに希望を見出したということです。このように、チャールズ・フィニーは非常に力強い人でした。なぜでしょう。彼はこの神の臨在と言うことを実践したからです。だから、そんな場所でも主の御顔を仰ぎ、神様との会話を実践しましょう。力強いことが起こると思います。

2.祈りの鍵

 祈るためには、平和な心を持たなければなりません。私は中川の橋を毎日のように渡ります。数日前は雨風が強かったので、川の水はとても波立っていました。でも、天気が良くて風のない日は、鏡のように真平らです。そういう日は、水面に小魚が群れをなして泳いでいるのが見えます。湖とか海へ行くと、天候によって、水面の変化がもっと激しいです。私たちの心も、この世で暮らしていますと、しぶきが立つくらい荒れるときがあります。そういう時は、祈るなんていうことはとてもできません。先週の金曜日は大雨が降っていました。家内が北千住に用事に出かけました。後から「北千住からだけど、亀有駅に迎えに来て」という電話が来ました。私は車で駅まで迎えに行きました。しかし、いくら待っても来ないんです。あそこのロータリーは車を駐車できないので、少しは停車して、車を動かし、4周くらい回りました。ようやく、家内が顔を見せ、車に乗りました。私は「電車に乗るときに電話したのか、何でこんなに時間がかかるんだ」とカンカンに怒りました。「ああ、今度は亀有駅から着いてから迎えに行こう」と思いました。最近、怒ったことはなかったんですが、久しぶりに怒りました。不当な扱いを受けたので、カチンと来たんですね。私は不当な扱いに弱いんですね。このように、怒りによって、心が波立つときもあります。また、心配事や思い煩いで心が波立つときがあるでしょう。そういうときこそ、祈らなければならないのですが、祈れないのが人間です。

 テキストのP.18にありますが、「私たちが平和な心をもって祈ることができるために、2つの鍵があります」と書いてあります。第一は、私たちのすべての心配を主に手渡すことです。どのようにしてでしょうか?ピリピ4:6,7「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」ここには、「感謝とともに祈りと願いをささげよ」と書いてあります。感謝ってできないですよね。特にうまくいっていない時には…。テキストには「私たちが感謝をささげるとき、私たちは神様の臨在を感じることができる。感謝は私たちの心を変える」と書いてありました。うまくいっていない状況や環境を見て、不平不満を言うのは簡単です。私などは、問題が起こったときは、自然に不平不満を言うのがに慣れっこになっています。「何でだよー」と叫ばずにはおられません。でも、聖書は「すべてのことを感謝しなさい」「感謝をもって祈りと願いをささげよ」と命じています。なぜでしょう?何の根拠があってでしょうか?それは、神様がそういう状況の中にもおられるからです。そして、全能なる神様が「すべてのことを働かせて、益にしよう」と待ち構えておられるのです。それなのに、私たちが不平不満を言ったり、つぶやくならば、神様は手を引くしかなくなります。そうすると悪いことは悪いまま、問題は相変わらず問題として残るでしょう。でも、私たちが信仰を働かせて、「今、こういう状況でも神様は働いておられます。だから、感謝します。ハレルヤ!」と、告白するならどうでしょうか?心が平安になり、祈りがさらに出てきます。「神様、こういう状況で私は悩んでいます。これがこうして、ああなったのです。でも、神様はどんなことでもおできになります。あなたにゆだねます。」こういうふうにして、神様との会話が進みます。どういう訳か、後から思うと、試練の中にいるときが、真近に神様を体験できるのです。こちらが真剣に神様に求めると、やはり、神様も真剣に答えてくださるということです。感謝には力があることを覚えましょう。どんな力でしょうか?主の臨在をもたらす力です。

第二番目の平和な心を持つ鍵は、積極的なことを考え続けることです。ピリピ4:8「最後に、兄弟たち。すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい」とあります。使徒パウロは、合計8つの良いことに心を留めよと勧めています。すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいことです。その次には、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いことです。これで6つです。そして、他に心を留めることとは、徳といわれること、称賛に値することです。合計8個になりました。「心に留める」とは、「頭の中でそういうことを考えよ」ということです。これらの8つは、聖書にありますが、聖書だけではありません。この世の中にも、あります。神様はこの世界を創造されたときに、「良かった、良かった、非常に良かった」と言われました。しかし、アダムとエバが堕落してから、この世界も罪によって汚染されました。しかし、完全ではありませんが、この世界の中に、8つの良きものが宝石のように散りばめられているということです。問題は、私たちの目です。グレーのサングラスで見るなら、何でもグレーに見えてしまいます。つまり、物事を批判的に否定的に見るならば、何を見ても良くありません。もし、私たちが宝石を捜すように、この世界を見るならば、神様の「創造のかけら」を発見することができるのではないでしょうか?未信者の中にも、映画や一般の書物にも、8つの良きものがあります。どうぞ、そういう良きものに心を留めましょう。人が刺されたとか、だれかが不正を働いたというニュースはさらっと聞き流し、もっと良きものに心を留めましょう。そうすれば、心の平安が保たれ、いつでも主と会話をすることができます。

3.祈りの目的

祈りの目的は、私たちの生活を主にご支配していだたくために、神の王国を招くことであります。マタイ6:10「御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように」とあります。「御国」とはどういう意味でしょうか?ギリシャ語では、バシレイアーと言いますが、「王国」とか「支配」という意味です。もし、私たちの生活に、神の王国、神の支配がやってきたならどうなるでしょうか?エデンの園のように潤い、すべてのものが輝き、命にあふれるでしょう。では、どのようにして神の王国が私たちの人生、私たちがいるところにもたらされるのでしょうか?その答えは、イエス様を招くのであります。イエス様は神の王国の王です。イエス様が来られるならば、神の王国も一緒に来るのであります。私たちはイエス・キリストにあって、どのようなことを経験できるのでしょうか?ピリピ2:1に「こういうわけですから、もしキリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら」と書いてあります。私はこれまで、この御言葉をほとんど気にとめたことがありません。でも、このことがキリストにあって経験する御国、神の王国であるとしたらどうでしょうか?ここには5つの事柄が示されています。励まし、愛の慰め、御霊の交わり、愛情、あわれみです。わあー、私の人生、キリストに出会う前は、こういうものが全くありませんでした。いや、今もこの世にはありません。私も郵便局で少しだけアルバイトをしていますが、「励まし、愛の慰め、御霊の交わり、愛情、あわれみ」ほとんどありません。本当に殺風景です。大体、この世はそういうものです。そういう中で仕事をしていらっしゃる方は本当にご苦労さまです。

でも、みなさん、もし私たちがそういうところに神の国をもたらすことができたら何と幸いでしょうか?考えてみますと、2000年前、イエス・キリストと神の王国が一緒に来ました。イエス様が行くところ、どこにでも人々は、神の王国を体験することができたのです。福音書を見ますと、まさしく人々は「励まし、愛の慰め、御霊の交わり、愛情、あわれみ」を受けました。イエス様は人々を支配というかコントロールしていません。もちろん、時々、命令はしていますが、コントロールではありません。イエス様の「励まし、愛の慰め、御霊の交わり、愛情、あわれみ」を受けた人々はどうなったでしょうか?弟子として、イエス様に従ったのであります。そして、自分もイエス様のように神の王国をもたらす人になりたいと志願したのではないでしょうか?でも、みなさん、それを「教会制度、教会組織」という箱に入れてしまいました。すると、本来あるべき、何がなくなったのでしょうか?それは、ピリピ2:2の内容です。ピリピ2:2「私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。」まことに、残念ですが、人々が神の王国を「教会制度、教会組織」に置き換えてからどうなったでしょう。一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせる、志を1つにするということが不可能になったのです。教団や教派でライバル心を持ちました。「うちはこういうことを強調し、こういうことに優れている」と分派心を持ちました。相手を自分よりも低いものと見るようになったのです。神の王国は、いわゆる教会に来るのではありません。人々の心の中に来るものなのです。なぜなら人々が教会そのものだからです。

 ですから、私たちは神の王国の民として、教会をとらえるべきです。どうぞ、制度とか組織にしないでください。私たちの内にキリストの支配を歓迎するときに、結果的に、パウロが持っていたような喜びに満たされ、一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つになるのです。ですから、神の国は私たちの心に来なければなりません。イエス・キリストを私たちの心に王様として招き入れるのです。そうするならば、私たちの心に神の王国がやってきます。では、心とは何でしょうか?テキストには、「私たちの意思と思いと感情である」と書いています。そうです。私たちの意思と思いと感情をイエス様に明け渡しましょう。そうすれば、イエス様は私たちを豊かな神の王国へと導いてくださるのです。私たちは可能な限り頻繁に「神様、私の意志と、私の思いと、私の感情を導いてください」と言って、これを習慣化させる必要があります。私は25歳でイエス様を信じはしましたが、それまでの古い習慣がまだ、身について残っています。自分の意思、自分の思い、自分の感情を優先させるときがあります。これはやっぱり、意識的に、神様に願う必要があります。箴言3:3-6は、このことを具体的に示しているすばらしいみことばです。箴言3:3-6「恵みとまことを捨ててはならない。それをあなたの首に結び、あなたの心の板に書きしるせ。神と人との前に好意と聡明を得よ。心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」アーメン。ヨハネ:14に、イエス様は「恵みとまことに満ちておられた」とありますから、まさしく、イエス様を捨ててはなりません。イエス様を首に結び、心の板に書き記すほど、親しく交わるのです。そして、心を尽くして主イエス様に拠り頼むのです。自分の悟りにたらないで、行く所どこにおいても、主イエス様を認めるのです。そうするなら、神の王国、つまり「キリストにある励まし、愛の慰め、御霊の交わり、愛情とあわれみ」をもっと体験することができるのです。

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