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2008年3月30日 (日)

大宣教命令     マルコ16:15-16

 マルコによる福音書は「イエス・キリストの福音のはじめ」と言う書き出しで始まりました。また、イエス様は公生涯において、町々や村々に出かけ、福音を宣べ伝えました。弟子たちも伝道旅行先で、福音を宣べ伝えました。そして、マルコ16章では、イエス様は天に戻られる前に、「福音を宣べ伝えなさい」と弟子たちに命令されました。考えて見ますと、最後のマルコ16章は福音のはじめではなく、福音の終わり、福音の完成であります。これは、イエス様が宣べ伝えた福音でもなく、伝道旅行先で宣べ伝えた福音でもありません。イエス様は、弟子たちだけではなく、すべての時代のクリスチャンに、この完成した福音を宣べ伝えなさいと命じられたのであります。それはどんな福音でしょうか?

1.宣教の大命令

マルコ16:15の鍵括弧をお読みします。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい」。まず最初に不思議に思うのは、なぜ、イエス様は人間と言わずに、「すべての造られた者に」と言われたのでしょうか?原文は「すべての被造物に宣べ伝えよ」となっています。すべての被造物だったら、ネコや犬も含まれるはずです。聖フランチェスコは鳥たちにも伝道したと言われています。シュバイツアー博士は、アフリカに宣教に行ったことで有名です。ある人がアフリカでライオンと出くわしました。「ああ、困った。どうしよう」、とっさに彼は死んだまねをしました。相手は熊じゃありません。でも、ライオンが襲ってくる様子がありません。薄目を開けて見ると、ライオンがお祈りをしているではありませんか?その人は「ああ、シュバイツアー博士はライオンにも伝道したんだ」と感動しました。「ライオンさんも祈るんですね、すばらしい」と言いました。ライオンは、「うん。今、食前のお祈りをしたところだ」と答えたそうです。これは、ジョークであります。

なぜ、イエス様が人間とは言わずに、「すべての造られた者に」とおっしゃったのでしょう。それは、「創造論から始めなさい」ということです。人間ははじめ神様から造られました。ところが堕落して、神様から離れ、滅びに向かって歩んでいます。しかし、イエス・キリストがこの地上に来られ、開口一番「神の国は近づいた、悔い改めて福音を信じなさい」と言われました。「悔い改める」とは、方向転換を意味します。神様に背を向けて滅びに向かっていた人生から、方向転換するのです。神様はあなたに、永遠の御国、神の国を用意しておられます。しかし、罪があるままでは神の国に入ることはできません。そのため、イエス・キリストは私たちの罪のために十字架にかかり、罪の代価をすべて払ってくださったのです。そして、三日目によみがえり、神様への道を設けてくださいました。あなたがイエス様を救い主として信じるなら、すべての罪が赦され、神の国に入ることができるのです。みなさん、これが完成された福音です。福音書でイエス様や弟子たちが宣べ伝えた福音は、十字架と復活がありませんでした。しかし、完成した福音には、十字架と復活があるのです。

イエス様はこの福音を「全世界に出て行って、宣べ伝えなさい」と命じられました。でも、弟子たち、つまり使徒たちはそうしませんでした。エルサレムにとどまっていたのです。変な話ですが、出て行って、異邦人に福音を伝える人などいませんでした。使徒の働きを見てわかりますが、ピリポという執事が、隣のサマリヤに行って福音を宣べ伝えました。その後、エルサレムに大迫害が起こり、名もない人たちが散らされながら、福音を宣べ伝えました。使徒13章を見ると分かりますが、アンテオケというところに異邦人の群れができました。彼らは朝から晩まで、「キリスト、キリスト」と叫んでいたので、人々は「あいつらはキリスト党だ」と馬鹿にしました。クリスチャンというのは、「キリスト党」という意味のあだ名であります。そのアンテオケから宣教師が遣わされ、小アジアやヨーロッパに宣教に行ったのであります。イエス様の弟子たちは、「全世界に出て行って、福音を宣べ伝えよ」という命令を実行するまでに、おそらく30年はかかったであろうと思います。しかし、残念ですが、日本においては、「全世界に出て行って、福音を宣べ伝えよ」という命令を未だに、実行している教会は少ないのであります。日本は16世紀にカトリック、19世紀にプロテスタントが入ってきました。数限りない宣教師や宣教団体が伝道してくれました。でも、日本の教会はいまだに、被宣教国であります。多くのクリスチャンは、「全世界に出て行って、福音を宣べ伝えるなんて、とんでもない」と思っているのです。

 私も人のことは言えません。でも、みなさん、マルコ16章のこのみことばは、マタイ28章の「あらゆる国の人々を弟子としなさい」と並んで、有名なみことばです。何故、有名かと言いますと、イエス様がこの地上を去るときの最後のことば、遺言だからです。これは全クリスチャン、全教会に対する大命令、ミッション、使命であります。もし、そうであるなら、どんなクリスチャンであっても、この命令を果たす責任があるということです。本来なら、生活の糧を得るために、仕事をしている間もこの大命令を忘れることはできません。本来なら、学校で勉強していても、この大命令を忘れることはできません。でも、私たちはこの世の生活に追われ、「そんな命令あったかな?」と簡単に忘れ去るのです。イエス様は「受けるより、与える方が幸い」であると言われました。私たちが一番、人に与えるべきなのは、この福音であります。なぜなら、この福音によって、人々が救われ神の国に入ることができるからです。神の国は死んでから入るのではありません。今、ここに神の国が来ています。神の国には病や死、貧困、争いもありません。クリスチャンはこの世にいながらも、神の国の祝福をいただき、生活することができるのです。アーメン。テレビでは毎日のように刃物で人々が殺されています。政治家は問題にしていませんが、日本は赤字大国であり、いつ破綻が来ても不思議ではありません。もし、関東に大地震が起こったら、経済はパンクするかもしれません。でも、それがチャンスです。人々の心が貧しくなり、福音を信じるようになるからです。クリスチャンは、大惨事が起こっても、世の人たちと同じようにしてはいけません。自分の命も大切ですが、それ以上に、福音を一人でも多くの人に宣べ伝えるのです。一人で神の国に入るのではなく、何人か道連れして入りましょう。

教会は、色んな交わりや活動をしていますが、「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えよ」という主のご命令を忘れてはいけません。インドネシアのアバラブ教会は、福音宣教と関係していないすべてのプログラムは、主イエスの御名によって、閉じたそうです。セルも良いです。賛美や交わり、勉強会も良いでしょう。でも、「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えよ」、そのことを、いつも頭の中に入れておきましょう。

2.宣教のゴール

 マルコ16:16「信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。」人が福音を信じるなら、罪赦され救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。これは、前の説教で既に申し上げましたが、人はやがて神様の前に立ちます。そのとき、その人が犯した個々の罪で裁かれるのではありません。そうではなく、「私が遣わしたイエス・キリストをどうして信じなかったのか」その一点でさばかれるのです。なぜなら、私たちが犯した罪は、イエス・キリストの十字架によって贖われているからです。せっかくイエス様がなされた贖いを無にした。それは神様の愛を無にしたことと同じなのです。しかし、ここには「信じてバプテスマを受ける者は、救われます」と書いてあります。「人は信じるだけで救われる」と言ったのに、なぜバプテスマ、洗礼が必要なのでしょうか?極端な例を申し上げますと、イエス様の十字架の隣にいた犯罪人はイエス様を信じました。でも、彼は十字架に付けられたまま死んだので、バプテスマを受ける時間がありませんでした。では、彼は救われていなかったのでしょうか?救われていたと思います。では、なぜ、信仰告白して、救われているのに、さらにバプテスマを受ける必要があるのでしょうか?

 ローマ10章には信仰告白のことが記されています。ローマ10:9、10「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」9節で言われている「告白」は人に対してではありません。人は神様に対して、「イエスは主です」と告白すれば救われるのです。もし、信仰告白を確認してくれる人がいないと救われないとしたら、無人島に流された人や独房にいる人は救われないことになります。ある人は、ラジオからの福音を聴いて信じる人もいるでしょう。でも、みなさん、イエス様はマタイによる福音書でこのように言われました。マタイ12:34「心に満ちていることを口が話すのです」と言われました。ハレルヤ!人が本当にイエス様を信じたなら、心の中にとどめておくことはできないのです。心にイエス様を信じたなら、口が「ああ、イエスは救い主です。私の主です」と言いたくなるのです。では、10節の「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです」という意味は何でしょうか?その人が、口で告白できるということは、救われている結果、証拠だということです。聖霊が確かにその人の心に信仰を与え、その結果、口から告白しているということです。

 では、マルコ16章の「信じてバプテスマを受ける者は、救われます」という意味は何でしょうか?私はここには、3つの意味があると思います。①信じたらバプテスマを受けるものだということです。さきほどの十字架の犯罪人のように、時間がない人は別です。交通事故など、死に瀕している人などは、バプテスマを受ける時間がありません。そういう人は例外です。対象は信じた後もまだ人生がある人です。その人は「信じたらバプテスマを受けよ」。これは神様からの命令です。「一度、キリストと共に死んで、キリストのともによみがえる。そのことを体験せよ」ということです。私は、バプテスマの水は罪を洗い清めるということよりも、キリストの死の中にバプテスマされる(一体化される)方が正しいと思います。「バプテスマを受けたあなたは前のあなたではない、新しい存在であることを体験を通して信じなさい」ということだと思います。「信じてバプテスマを受けよ」は神様のご命令です。ですから、「信じたけれど、バプテスマは受けない」ということはありえないのです。②バプテスマは伝道のゴールだということです。福音を伝えた後、ある人は「私は信じます」と言う人がいるかもしれません。それで安心しないでください。信じたらバプテスマを受けるべきです。それで、伝道が終了したのです。でも、それで終わりではありません。それから、信仰生活が始まるのです。でも、バプテスマを受けずに信仰生活は始まらないことを覚えてください。③マルコ16章の「救われます」は、環境からの救いだと私は考えます。人は心の中で信じるだけで救われるのに、なぜ、バプテスマを受けるのでしょう。バプテスマ式のときは、「あなたはイエス・キリストを救い主、人生の主として信じますか」と問われます。そのとき受ける人は、「はい、信じます」と答えます。その人は、そのとき初めて信じたのではありません。前から信じてはいたけれど、人々の前で公に告白したのであります。これはどういう効果があるのでしょうか。それは、その人が世界に対して、「私はイエス・キリストを信じたよ」と告白したのです。その告白を神様や天使が聞いているでしょう。でも、悪魔も聞いているのです。そして、あなたが職場や学校、家庭でも「私はクリスチャン、イエス様を信じています」と告白します。するとあなたは、環境からも救われるのです。世の人があなたがクリスチャンであると知ると、あなたを悪い遊びに誘惑しなくなるでしょう。同僚は「クリスチャンだったらそういうことはしないだろうなー」と誘わなくなります。でも、あなたが自分がクリスチャンであることを秘密にしているなら、この世の人たちは、どんどん誘惑してくるでしょう。隠れキリシタンは世の誘惑にすこぶる弱いのです。どうぞ、旗印を明確にしてください。世の光として、輝いてください。そうすれば、あなたは環境からも救われます。

 私は洗礼準備会のとき「バプテスマを結婚式のようなものです」と答えます。結婚は区役所に婚姻届を持って行けば成立します。そういう人たちも実際おられます。でも、どうでしょうか?神と人々の前で二人が愛を誓い、人々から祝福してもらう。その誓いや祝福が二人の結婚にものすごい支えになるでしょう。公にしたのですから、もう、浮気や離婚が簡単にできないのです。同じように、バプテスマを受け、神の家族に加えられるならどうでしょうか?互いに愛し合い、互いに祈り合い、互いに助け合い。信仰が成長し、拡大していくことは間違いありません。兄弟姉妹があなたを支えてくれるでしょう。そういう意味でも、バプテスマは大切なのです。

3.宣教に伴うしるし

マルコ16:17,18「信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」とんで、16:20「そこで、彼らは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた」。みなさん、教会では「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福-音を宣べ伝えなさい」というみことばは、良く説かれます。しかし、17-18節の内容は、どういうわけか説かれません。特に福音派の教会はそうです。彼らは、伝道は一生懸命行います。でも、悪霊の追い出しや病の癒しは皆無であります。おかしいんじゃないでしょうか?ある先生方は、「聖書が完成した時代は、そういうのは終わった、必要ない」と言います。馬鹿じゃないかと思います。彼らは聖書を誤りなき神のことばと信じているくせに、その内容を全部、受け入れているわけではないのです。それが神学の限界であり、神学の罠です。聖書を誤りなき神のことばと信じるならば、言われている内容もそのまま受け入れるべきであります。伝統的な教会は福音宣教しかしないので、収穫が乏しいのではないでしょうか。

本当は、福音宣教と病の癒しや悪霊追い出しはペアーなのです。ペアーというのは、2つで1つという意味です。手袋や靴下は2つで1のペアーです。靴も2つで1のペアーですね。それから眼鏡もズボンもペアーと言うんですね。みなさん、靴を片方しか履いてないとどんな気分になるでしょうか?ヘタンコ、ヘタンコ。それで外へ出て行ったら、笑われてしまいます。ローマ10:15「福音を伝える人々の足は、なんと立派でしょう」とあります。でも、片方しか靴を履いていないとしたら、かっこ悪いというか、福音をうまく運べないですね。同じように、福音を宣べ伝えるときは、病の癒しと悪霊追い出しは必ず必要だということです。イエス様も福音書において、福音を宣べ伝え、病を癒し、悪霊を追い出されました。そういう箇所をたくさん探すことができます。また、伝道旅行のとき、イエス様は弟子たちにどう命じられたでしょうか?マタイ10:7-8「行って、『天の御国が近づいた。』と宣べ伝えなさい。病人を直し、死人を生き返らせ、らい病人をきよめ、悪霊を追い出しなさい。」アーメン。なんと、「死人を生き返らせよ」と、まで命じられています。インドネシアのアバラブ教会ではここ数年間に、3人の人が、生き返ったそうです。ですから、お葬式を行う前は、必ず、死んだ人をみんなが起こして、お祈りするそうです。それで生き返らない場合は、「やっぱり死んだんだ」ということで、お葬式をするそうです。

マルコ16:20「主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた」とあります。イエス様は一度、天にお帰りになられてから、聖霊として戻ってこられました。そして、みことばにともなうしるしを与えてともに働いておられるのです。初代教会もしるしを行わせてくださいと必死に祈りました。使徒4:29、30「主よ。いま彼らの脅かしをご覧になり、あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。御手を伸ばしていやしを行なわせ、あなたの聖なるしもべイエスの御名によって、しるしと不思議なわざを行なわせてください」。また、使徒パウロもこのように言っています。Ⅰコリント2:4「そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行なわれたものではなく、御霊と御力の現われでした」(Ⅰコリント2:4)。このように、使徒たちもイエス様に倣ったのであります。だから、当然のごとく、教会も福音宣教を行う時に、病の癒しと悪霊の追い出しを一緒にすべきなのです。

ジョン・ウィンバーが「伝道のエンゲル係数」ということを言いました。人々は奇跡やしるしを体験するとき、福音に対して心が開きやすいということです。17節に、信じる人々のしるしとして、「新しいことばを語る」とあります。ペンテコステ系の人たちは「これは異言だ」と言います。しかし、それだけではありません。Ⅰコリント12章には「知恵のことば」「知識のことば」という御霊の賜物がしるされています。イエス様は伝道のとき、「知恵のことば」「知識のことば」あるいは「預言」をふんだんに使っています。たとえば、イエス様は「ザアカイ、急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから」(ルカ19:5)と言いました。なぜザアカイは、喜んでイエス様を迎えたのでしょう?イエス様が、木の上で隠れている自分の名前を知っておられたからです。彼はそれでいっぺんに心が開いたのです。ナタナエルの場合も同じです。イエス様は「ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見たのです」(ヨハネ1:48)と言いました。「まだ、会ったことのないのに、イエス様が私をご存知なんて?」彼もいっぺんに心が開かれ「あなたは神の子です」と告白しました。サマリヤの女性に対して「あなたには夫が五人あったが、今あなたと一緒にいるのは、あなたの夫ではない」と言いました。彼女は「先生、あなたは預言者だと思います」と答えました。このように、イエス様は伝道するとき、超自然的な力を用いました。だから、彼らの心が開かれ、福音を受け入れたのです。神様は、今も働いておられ、私たちが福音を宣べ伝えようとするとき、しるしと不思議を伴ってくださいます。なぜなら、神様は「すべての人が救われて、真理を知るように望んでおられる」(Ⅰテモテ2:4)からです。だから、私たちは一人で福音を伝えているわけではないのです。三位一体の神様が共に働いていてくださるのです。どうぞ、あなたもこの尊い、福音宣教に参加しようではありませんか。神様が自分と共に働いてくださることを体験しましょう。

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2008年3月23日 (日)

アンビリーバブル     マルコ16:1-14

 イースターおめでとうございます。また、本日は洗礼式がありますので、もう1つおめでとうございます。日本では、イースターよりもクリスマスが有名であり、それも国中でお祝いをします。でも、教会の歴史をみますと、イースターはすぐ定着したようですが、クリスマスは西暦200年頃からお祝いされたようです。ということは、イースターの方が、クリスマスよりも忘れてはならない出来事だということです。きょうは、アンビリーバブルという説教題でありますが、事務をしています岩本姉から「アンビリーバブルって何ですか?」と聞かれました。私は「え?アンビリーバブル知らないの?もう日本語になっているくらいよく使われているよ」と答えました。今、思えば冷たい答え方だったかなーと反省しております。数年前、日本ハムの ヒルマン監督が優勝したとき「ジンジラレナーイ」と言いました。世界の歴史で、最も信じられない出来事は、死んだ人がよみがえられたことです。

1.御使いのメッセージ

 3人の女性たちは、日曜日の朝早く、墓に向かいました。道の途中、「墓の入口から、あの石をころがしてくれる人が、だれかいるだろうか」と、話し合っていました。が、近くに行って、目を上げてみると、大きな石が既にころがしてありました。マタイによる福音書には、「主の使いが天から降りて来て、石をわきへころがした。番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった」と書いてあります。おそらく、女性たちが到着したのは、ローマ兵が逃げ去った直後だと思います。女性たちが墓の中をのぞくと、真白な長い衣をまとった青年が座っていました。御使いを青年だと思ったのでしょう。6-7節まで、御使いは2つのことを彼女らに伝えています。ギリシヤ語で御使いをアンゲロスと言いますが、「知らせる、報告する」という言葉から来たものです。では、御使いはどんなことを知らせたのでしょうか?第一に、「ナザレのイエスはよみがえられた、墓の中にはおられない」ということです。聖地に行くと、イエス様の墓らしきほら穴があり、そこには英語の看板がかけられているそうです。He is not here.「彼はここにはおられない」と書いてあるそうです。そうやって、みなさんが空の墓を見るわけです。この間の20日は、お彼岸でした。日本では、この日に墓参りする習慣があります。亀有教会から駅まで行く間に、お墓を2箇所くらい通らなければなりません。お線香の香りがモァーとしました。先日、テレビでやっていましたが、「五重塔は何でしょうか?」という問題がありました。実は、五重塔とはお墓であり、その中にお釈迦様のお骨(シャリ)が納められているということです。日本人はよっぽどお墓が好きな国民だなーと思います。

 御使いが残した第二のメッセージは、7節です。ですから行って、お弟子たちとペテロに、『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます。』とそう言いなさい。」「お弟子たちとペテロ」とわざわざ言われたのは何故でしょう?ペテロは、イエス様を3度も知らないと言いました。自己嫌悪と後悔のどん底にいるにちがいありません。だから、他の弟子たちとは別格にして、ペテロに「必ずガリラヤに来なさいよ」と言うことなのでしょう。弟子たちの多くは、ガリラヤでイエス様から弟子として召されました。ですから、弟子として、再献身、再出発するために「もう一度来なさい」ということなのでしょう。イエス様がいつガリラヤのことを話したかと言いますと、マルコ14:28です。オリーブ山でイエス様が「あなたがたはみな躓きますよ」と言った直後に、ご自身がよみがえるここと、ガリラヤで待っていることを予告されたのです。御使いは、念を押すために、もう一度、イエス様のことばを繰り返したわけです。イエス様の思いやりは、すばらしいですね。ペテロや弟子たちの失敗をちゃんと予測して、その後のことまで準備しておられたのです。私たちは、思いがけないことが起きた場合、「まさか、こんなはずじゃなかった。もう絶望だ」と頭をかかえて、その場に座り込んでしまうでしょう。でも、神様にとって、「まさか」とか「絶望」などはありません。神様は永遠でありますから、私たちの先のこともちゃんと見越しておられるのです。私たちは近視眼なので、「えー、なんで、こんなことが!」と怒ったり、つぶやいたりします。そのときこそ、自分が神様の御手にあることを覚えたいものです。

 弟子たちは十字架の前で逃げ去り、一度失敗しました。でも、イエス様が復活したゆえに、彼らも復活しました。私たちもたとえ絶望の淵に落ちても、復活が可能だということを信じたいと思います。北海道の旭川市のある姉妹から、突然、ファックスが届きました。「エディ・レオ師の第三回目のDVDを見ました。父の愛、シリーズ全部、送ってください」とのことでした。私は他の集会と重なっていたので、送るのが少し遅れました。すこし後で、亀有教会でなされたものだけじゃなく、掛川の集会とか、エディ・レオ師のメッセージ集など手元にあるものを全部送りました。まもなく、「ちょうど、落ち込んでいた頃、とどきました。感謝します」とういうメールが届きました。姉妹は、ご主人が亡くなった後、立ち直れない状態だったようです。「教会の兄弟姉妹から『今はわからないけど、あとで分かる』みたいに言われ、蹴飛ばしたくなるほど腹がたちました。でも、エディ・レオ師のメッセージを聞いてとても励まされました。感謝します。」という内容でした。突然の出来事に対して、人間のことばでは、慰めることはできないことがたくさんあります。でも、イエス様にとって、「突然」ということはないのです。イエス様は先のことを見越しておられます。どうぞ、まさかのときこそ、イエス様を信頼しましょう。賛美にこうのがあります。「明日はどんな日か、私は知らない。晴れか、嵐か、曇りになるか。だけど、私は心配しない。イエスが私を守られるから」。

2.アンビリーバブル

 御使いが女性たちに、弟子たちに「そう言いなさいよ」と告げました。その後、どうなったでしょうか?8節「女たちは、墓を出て、そこから逃げ去った。すっかり震え上がって、気も転倒していたからである。そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」ここを見ると、「何かの間違いではないだろうか」と思ってしまいます。それで、9節からは括弧になっています。つまり、ある聖書は、この8節で終わっているということです。「そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。フッツン!」であります。「そりゃーないよ」と言いたくなります。けれど、別の写本もあったようです。それが、9節以降の内容です。「少しホッとするなー」という感じです。女性たちは気を取り直して、イエス様が復活されたことを弟子たちに話しました。11節後半「それを信じようとしなかった」と書いてあります。また、さらに二人が復活のイエス様と出会い、弟子たちにそのことを知らせました。13節後半「彼らはふたりの話も信じなかった」。ガビーンであります。なんという不信仰でしょうか?これだったら、9節以降の文章があってもなくても同じだという感じがします。信じなかったのですから、恥の上塗りであります。ところで、神様も聖書も信じない人たちは「弟子たちが勝手にイエス像を作り上げたんだ」と言います。つまり、「弟子たちはイエスを神に祀り上げるため嘘を書いた」と言うのです。でも、復活物語を見ると、手を加えて嘘を書いたとはとても思えません。第一にイエス様の復活物語には統一性がありません。4つの福音書を見ても、バラバラであります。第二に復活を信じない弟子たちのふがいなさがそのまま書かれています。もし、だれかが作為的にイエス様のよみがえりを作ったとするなら、もっとうまく書くんじゃないでしょうか?世の中に、いろんな宗教書がありますが、教祖や弟子たちの美談にあふれているんじゃないでしょうか?しかし、聖書は「恐ろしかった」とか「信じなかった」とありのままを書いています。しかも、時間的にどれが最初で、どれが後なのか、よく分からないところがあります。

 その答えは簡単です。それだけ死んだ人がよみがえるということは信じがたいことだということです。3年半も一緒にいて、復活の預言を何度も聞いた弟子たちですら信じられなかった。それだけ、復活と言う出来事は、アンビリーバブルだということです。イエス様が死からよみがえられたのは、いわゆる蘇生とは違います。一時的に死んだけれど、生き返ったという人は何人もいるでしょう。イエス様も少なくとも福音書では3人を生き返らせています。旧約聖書でも死んだ人が生き返ったという奇跡があります。でも、彼らは、一度はよみがえりましたが、年を取って、やがてはみな死んでいったのです。でも、イエス様の場合は蘇生ではありません。もう二度と死なない体、栄光の体によみがえられたのです。ヨハネ福音書にはイエス様の頭に巻いていた布切れのことが書いてあります。その布は巻かれたまま、墓の中に残されていました。私たちは指を切ったとき、包帯を巻きます。でも、巻き方がゆるいと、すぽっと抜けます。イエス様の頭に巻いた布は、ほどいたのではなく、すぽっと抜けたようになっていたのです。また、弟子たちはユダヤ人を恐れ、戸を閉めていました。でも、イエス様はその部屋の中に入ることができました。そればかりではありません。Ⅰコリント15章には「キリストは500人以上の兄弟たちに同時に現れた」と書いてあります。この世の肉体であったら、そんなことは不可能です。栄光の体だからこそ、空間や時間に支配されることがなかったのです。だから、女性たちや弟子たちの証言が、バラバラなのです。彼らは自分たちが見たことを、そのまま書いただけのです。だから、矛盾があるように思えるのです。でも、矛盾があるからこそ、真実なのです。ハレルヤ!

 世界でもっとも、アンビリーバブルなこと、それは、死んだ人がよみがえられたことです。「復活節の高笑い」ということを聞いたことがあります。昔、ヨーロッパでは、イースターの夜明けの礼拝で、クリスチャンたちは大笑いしたそうです。礼拝堂の中は「ワッハッハッハ、ワッハッハッハ」と、高く大きな笑い声で満ちたと言われます。何故、大笑いしたのでしょうか?「死んだ人がよみがえられた。イエス様が死に打ち勝たれた。主にあって、もう死は怖くない」。だから、「ワッハッハッハ、ワッハッハッハ」と笑ったんじゃないかと思います。「礼拝堂で笑っていんですか?不謹慎じゃないでしょうか?」そうではありません。この笑いは「聖なる笑い」です。アンビリーバブルなことが起きた。イエス様はアンビリーバブルなことをされた。私の人生も、アンビリーバブルだ。「ワッハッハッハ、ワッハッハッハ」と笑うのです。少し前に「アンビリバボー」というテレビ番組がありました。世界中から「九死に一生を得た、死から生還した」という実話を集めたものです。そういうものを見ると、「よかったー」と感動します。でも、みなさん、歴史上、一番の「アンビリバボー」は、イエス・キリストがなさられたことです。キリストは十字架で私たちの罪を負い、身代わりに死なれました。とっても残酷な死でした。弟子たちもみんな諦めました。でも、日曜日の朝、イエス様は父なる神様によってよみがえらされました。キリストは死と悪魔に勝利されたのです。私たちもキリストにあって、死と悪魔に勝利することができるのです。アーメン。これほどすばらしいグッド・ニュースはありません。だから、キリスト教会はこのことを忘れないように、また、このニュースを広めたいために、毎週、日曜日、礼拝を守っているのです。

3.不信仰とかたくなな心

 いくら言っても、復活を信じない弟子たちに対して、イエス様はどうなされたのでしょうか?14節「しかしそれから後になって、イエスは、その十一人が食卓に着いているところに現われて、彼らの不信仰とかたくなな心をお責めになった。それは、彼らが、よみがえられたイエスを見た人たちの言うところを信じなかったからである。」信じないということは、罪なのであります。だから、イエス様は弟子たちを責めたのです。ヨハネ20:27で、疑い深いトマスに対してイエス様はこのように言われました。「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。さらに、ヨハネ20:31「あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るめである」と書かれています。信じるということは、私たちのいのちと深い関係があります。信じる者にはいのちがあり、信じない者にはいのちがないのです。ギリシヤ後で、この「いのち」はゾーエーであり、単なる命ではありません。ゾーエーは「復活のいのち」「神のいのち」「永遠のいのち」という意味があります。つまり、キリストを信じる者には、「復活のいのち」「神のいのち」「永遠のいのち」があるということです。信じるということは、神様の賜物をいただくための唯一の条件です。信じた人にだけ、ゾーエーが流れてくるのです。だから、信仰はパイプのようなものです。神様はゾーエーの大きな塊です。そこに、私たちが信仰というパイプを差し込む。するとそこから、ドーッと「復活のいのち」「神のいのち」「永遠のいのち」が流れ込んでくるのです。ハレルヤ!

イエス様は「彼らの不信仰とかたくなな心をお責めになられました」。また、イエス様はヨハネ福音書で「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と言われました。これだけ、神様のみこころがはっきりしているという箇所も他にないです。では、信じない人はどうなるのでしょうか?天国に行けないということでしょうか?もちろん、それもありますが、将来のことだけではありません。ヨハネ3:18「信じない者は、すでにさばかれている」と書いてあります。将来ばかりではなく、今、「すでにさばかれている」ということです。おだやかじゃない、というかただならぬことです。この世には「私は無神論者だ」という方が結構おられます。「キリスト教も宗教だから結構です」という人もおられます。そういう人たちは、私たちを「神がいると信じている哀れな人たち」と言うでしょう。しかし、「神はいない」といういのも1つの信仰であります。無神論も1つの信仰だと思います。「神はいない」という人の人生は、果たしてどんなものでしょうか?神がいないとは、報いてくださる方がいないということです。神がいないとは、真理も正義もないということです。神がいないとは、人生の目的も意味ないということです。神がいないとは、癒しも救いもないということです。神がいないとは、死んだら終わりで、今がすべてということです。つまり、神様を信じていない人は、将来ばかりでなく、現在、既に呪いとさばきが臨んでいるということです。詩篇14:1には、「愚か者は心の中で、『神はいない』と言っている。彼らは腐っており、忌まわしいことを行っている」と書いてあります。私もかつては、「神はいない」と信じていました。でも、今は「神はいない」と信じることなどとてもできません。年を重ねれば、重ねるほど、キリストの神様を信じてよかったなーと安堵しております。

 イエス・キリストは私たちの罪のために十字架で死なれました。そして、イエス様は十字架の上で「完了した」と叫ばれました。十字架で贖いのわざは完成したわけです。私たちのために死んで下さっただけでもありがたいのですが、復活にはどんな意味があるのでしょうか?これは神学的に、説明するのがとても難しいテーマなんです。ローマ4:24,25に「すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです」というみことばがあります。使徒パウロは、十字架の死とよみがえりを2つに分けて語っています。イエス様の十字架の死は、私たちの罪の赦しのためでした。そして、イエス様が死者の中からよみがえらされたのは、私たちが義と認められるためです。みなさん、罪の赦しというのは、犯した罪が取り消され、プラスマイナス・ゼロの位置に戻されることです。でも、義というのはどういうことでしょうか。義とは全く罪を犯したことのない、神の義の高さです。100%の正しさです。これは、人間にはありえないことであります。でも、この神の義が与えられないと人は真の意味で救われないのです。つまり、キリストがよみがえられたことにより、私たちは罪が赦されたというレベルよりももっと高い、神の義まで高められるということです。プラスマイナス・ゼロではなく、プラスプラスであります。私たちがイエス・キリストを救い主として信じるならば、神様の目から、義と認められるということです。イエス様の復活は、私たちをそのレベルまで高めるためのものだったのです。ハレルヤ!私たちはこのことを額面どおり、受け止め、自分は義であると見るのです。自分が、罪が赦されただけの罪人だったならば、また罪を犯してしまうでしょう。でも、自分は義とされている存在だということわかるなら、「ああ、罪は私には似つかわしくない」と思うでしょう。もちろん、罪を犯すことがあるでしょう。でも、それは彼にとって当たり前のことではなく、気持ち悪いことなのです。なぜなら、神様から義とみなされているからです。あるクリスチャンは何故、力がないのでしょう。それは罪が赦されていることだけしか信じていないからです。イエス・キリストは、「私たちが義と認められるために、よみがえられたのです」。

もちろん、キリストの復活の意味は他にもたくさんあります。それはキリストが眠った者の初穂としてよみがえったからには、私たちもやがてはよみがえるということです。キリストが死に勝利したので、キリストを信じる私たちも死に勝利できるという保障です。みなさんは、ポップコーンを作ったことがあるでしょうか?フライパンに乾燥したコーンを入れて、下から温めます。少し立つと、パーンという音がします。第一号です。その後、パパパパーンと次々と爆発します。2000年前、パーンと第一号としてイエス・キリストが死者の中から復活しました。もう少したつと、パパパパーンと次々と復活するのです。2000年、もうずいぶんと温まりました。墓の中に眠っている聖徒たちもむずむずしているでしょう。「主よ、来てください」と叫んでいるのです。イエス様は黙示録で「しかし、私はすぐに来る」と約束しておられます。主が再び来られるとき、死は勝利にのまれるのです。

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2008年3月16日 (日)

イエスの埋葬      マルコ15:35-47

 桜の花が、今月末に咲くんじゃないかということです。本当に嬉しい季節がやってきます。そして、来週は、イースター、復活祭です。キリスト教会では、今週は受難週です。私たちはマルコによる福音書を連続して学んでおり、先週、十字架のメッセージを語ってしまいました。本日は、イエス様が十字架で息を引き取られてから、埋葬されるところまでをお話したいと思います。

1.近づこう恵みの座へ

 マルコ15:37「それから、イエスは大声をあげて息を引き取られた」。何をおっしゃられたのか、ということは書かれていません。しかし、ヨハネ19:30「完了した」と言われたと書いてあります。おそらくはこの言葉であろうと思います。「完了した」というギリシャ語は、テテレスタイであり、商業用語です。ですから、「完済した」「支払った」という意味になります。その当時は、奴隷が市場で売られていました。檻のところに、「テテレスタイ」という札が掛けられている場合は、「売約済み」という意味になります。だれかが、お金を出して、この奴隷を買い取ったということです。イエス様は私たちを罪の奴隷から解放するために、ご自身の命を代価として、買い取ってくださったのです。ですから、「完了した」は、勝利のことばです。ローマ兵が死んでいるかどうか確かめるために、わき腹を槍で突き刺しました。「すると、ただちに血と水とが出て来た」とヨハネ19章に書いてあります。これは医学的に、イエス様の死は心臓破裂だったということです。心臓が破裂すると、そういう現象が起こると聞いたことがあります。イエス様は全人類の罪を負ったために、神様から断罪されました。「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになられたのですか!」と大声で叫ばれました。そのとき、イエス様の心臓が耐えられなくなり、破裂したんじゃないかと思います。数年前、松戸の津村先生が来られて、夕拝でこの箇所からメッセージしたことがあります。津村先生は「完了した」と、勝利の喜びがあまりにも大きかったので、心臓が耐え切れなかったとおっしゃいました。その解釈もすばらしいと思います。多くの人たちは、イエス・キリストは、復活したとき勝利したと考えていますが、そうではありません。イエス様は十字架上ですでに、勝利していたということです。ハレルヤ!

 38節に、「神殿の幕が上から真二つに裂けた」とあります。すぐ近くのエルサレムに神殿がありました。イエス様が息を引き取られた瞬間に、「神殿の幕が上から真二つに裂けた」のであります。地震で裂けたのではありません。マタイによる福音書には、そのあとに、地が揺れ動き、岩が裂けたと書いてあるからです。その幕は、聖所と至聖所を分けるための、隔ての幕です。その幕が下からではなく、上から真二つに裂けたのであります。つまりそれは、人為的なものではなく、神様がなされた奇跡ということになります。至聖所には神様が臨在するところであり、人間が入ることは許されません。年に一度だけ、大祭司が清い動物の血をたずさえて、入ることが許されました。つまり、聖所の幕は、俗なるものと聖なるものを分けるためにありました。でも、それが上から裂けたということはどういう意味でしょうか?キリストを通して、だれでも神様の御座に近づくことができるということです。そのことを、ヘブル人への手紙は多くの箇所で説明しています。ヘブル9章をみますと、「動物の血ではなく、大祭司キりストご自身の血によって、ただ一度で永遠の贖いを成し遂げられた」と書いてあります。さらに、ヘブル10:19,20「こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。」とんで、22節「そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。」アーメン。私たちは神様に近づくときに、「ああ、私のような罪深い人間は、神様には近づけないんじゃないだろうか」と罪責感を覚えるでしょう。でも、それは「邪悪な良心」から来るものです。私たちはその良心をキリストの血によって、きよめられ、「私は既に赦されている。私の罪は既にきよめられている。アーメン」と近づくことができるのです。そうです。私たちはキリストのゆえに、大胆に恵みの座に近づくことができるのです。みなさん、これが新約時代の恵みです。

 しかし、大変、残念ですが、ローマ・カトリック教会はこれにいくつかの制限を加えました。1つは聖職者が神様と信徒の間に入らなければならないということです。一般信徒は俗なる者であり、神様のところには近づけない。だから、「聖母マリヤとか、聖職者のとりなしが必要だ」という教えです。しかし、そういう教えは聖書のどこにも書いていません。また、もう1つの間違いはミサです。彼らの儀式の中には、「キリストの犠牲が今も繰り返されている」という意味が含まれているようです。ある人は、「キリストは今も血を流しておられる」と言います。でも、ヘブル人への手紙9章と10章を見ますと、「ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられた」と何度も書いてあります。もう、私たちの良い行いとか、犠牲は必要ないのです。ある人たちは、神様に近づくために、手ぶらではいけないんじゃないかと思っています。確かに旧約聖書ではきよい動物や穀物を携えてきました。キリストによって、贖いの業は既に完成されており、私たちは何1つ加えるものがないのです。もし、携えてくるとしたら、それは賛美のいけにえと、感謝の心であります。献金というのは、私たちの献身のしるしであり、お布施とは全く違います。「お金をささげたから、罪が赦される」などという考えは全く聖書的ではありません。神様はキリストの血によって満足されたのです。キリストの贖いに、私たちが加えるものなど1つもありません。キリストを信じる信仰だけで、私たちは罪あるままで、父なる神様のもとに近づく時に「ぱぁー」ときよめられるのです。ハレルヤ!

皆さんの中に、何か罪責感とか負い目はおありでしょうか?どうぞ、信仰によって、キリストの血の注ぎを心に受けてください。イザヤ書にこのようなみことばがあります。イザヤ1:18 ,19「さあ、来たれ。論じ合おう。」と主は仰せられる。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。もし喜んで聞こうとするなら、あなたがたは、この国の良い物を食べることができる。」アーメン。緋色は、染物の中で、一旦染まったら、二度ととれない色だそうです。でも、神様は、「あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる」と約束しておられます。でも、悪魔は「そんなに簡単には赦されないよ。お前は、自分が犯した罪のゆえに、償いがまだ必要だ。だから、お前は、幸せになってはいけないんだ。もうしばらく苦しい目にあわないと帳消しにはならない」と言います。でも、それは嘘です。お寺に行くと水子地蔵というのがあります。あれは、堕胎してしまった子供を供養するためにあるそうです。お寺に毎月、いくらいくらのお布施をしなければなりません。もし、忘れると、お地蔵さんの着物が脱がされるそうです。人の罪責感につけこんだ、ひどい宗教です。中絶した子供とお地蔵さんとは何の関係もありません。イエス・キリストは私たちが犯したすべての罪のために、また、これから犯すであろうすべての罪のために十字架で血を流し、代価を払ってくださったのです。もし、クリスチャンになっても、心に平安がない場合はどうしたらよいでしょう。Ⅰヨハネ1:9にその答えがあります。「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」アーメン。神様の前でありのままを告白するのです。そうすれば、神様はその罪を赦し、すべての悪からきよめてくださいます。もし、それでもダメなら、だれか親しい人に祈ってもらってください。ヤコブ5:16「ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。」特に自分でやめられない悪習慣、さまざまな罪の構造は、人から祈ってもらうと力になります。その祈りが楔になって、元に戻ろうとすることから防いでくれます。

2.イエスの埋葬

 不思議なことに、「イエス様が死んでから復活まで、何をなさっておられたのか?」ということはあまり語られません。使徒信条には、「十字架につけられ、死にて葬られ、陰府に下り、三日目に死人の内よりよみがえり」となっています。まず、イエス様が埋葬されたということは何を意味しているでしょうか?埋葬とは、完全に死んだという意味であります。マルコ15:46「そこで、ヨセフは亜麻布を買い、イエスを取り降ろしてその亜麻布に包み、岩を掘って造った墓に納めた。墓の入口には石をころがしかけておいた。」イエス様のお体は、アリマタヤのヨセフが提供した、墓に収められました。復活に反対する人たちは、「イエスは死んだのではなく、気絶していたのだ」と言います。でも、ローマの百人隊長がその様子を見ていました。彼は十字架刑で死んだ人たちを見てきた、いわばその道のプロであります。プロが死んだか、死んでいないか分からないわけがありません。そして、47節には「マグダラのマリヤとヨセの母マリヤとは、イエスの納められる所をよく見ていた。」とあります。彼女たちも、イエス様が死なれたことと、墓の中にちゃんと収められたことを目撃していたのです。イエス様は3日間、墓の中にいました。しかし、ユダヤ人の数え方は、私たちの数え方とは違います。向こうの1日は、日没から日没までが1日です。たとえば、イエス様が金曜日の午後3時亡くなったとします。午後6時が日没とすると、第一日目は3時間しか死んでいません。そして、二日目は土曜日の午後6時までですから、24時間となります。そして、イエス様が日曜日の朝5時に復活したとすると三日目は11時間です。三日間を合計しますと、38時間しか死んでいないことになります。ですから、3日間というよりも、足掛け3日という方が正確です。でも、ユダヤの計算では3日間なのです。

 では、イエス様は3日間どこへ行っていたのでしょうか?「どこへ」って墓の中でしょう?と言うかもしれません。確かに肉体は墓の中に眠っておられました。でも、霊は使徒信条にあるように「陰府に下った」のであります。では、聖書的根拠はどこにあるのでしょうか?Ⅰペテロにそのことが書いてあります。Ⅰペテロ3:19「その霊において、キリストは捕われの霊たちのところに行ってみことばを宣べられたのです」。また、Ⅰペテロ4:6「というのは、死んだ人々にも福音が宣べ伝えられていたのですが、それはその人々が肉体においては人間としてさばきを受けるが、霊においては神によって生きるためでした。」これらのみことばは、セカンド・チャンスとして、大変物議をかもしている箇所です。セカンド・チャンスとは、一度も福音を聞かないで死んだ人たちが、陰府においてもう一度、福音を聞くチャンスが与えられるということです。ある人たちは、セカンド・チャンスをものすごく強調して、「死後にも救われるチャンスはある」とまで言います。私は「人はイエス様を救い主と信じなければ、救われない」と思います。そのために、私たちは一生懸命、福音を宣べ伝えるのであります。「死後にも救われるチャンスはある」としたら、命がけで宣教している人たちはガクッとくるでしょう。でも、神様は愛なる神様ですから、全く、福音を聞けなかった幼子や、ある時代の人たちは、ひょっとしたらそういうチャンスはあるかもしれません。でも、私はこのことを1つの神学として、提示することはしません。これはあくまでも、グレーゾーンであるからです。

 では、イエス様は陰府に下り、何をなさられたのでしょうか?Ⅰペテロ3章で言われている人たちとはだれでしょう?当時「ノアの時代、洪水で死んで行った人達は一体どうなってしまったのだろう」と質問する人たちがいたということです。なぜなら、ノアとその家族、合計8人しか救われなかったからです。聖書に「キリストは捕らわれの霊たちのところに行って、みことばを宣べられた」「死んだ人々にも福音が宣べ伝えられていた」と書いてあります。ある人は、「イエス様ご自身が勝利したと悪霊どもに宣言したんだ」と解釈します。でも、文脈から見ると、霊とは確かに死んだ人たちの霊であります。もう1箇所、これと似ている聖句があります。エペソ人への手紙4章です。エペソ4:4:8、9 そこで、こう言われています。「高い所に上られたとき、彼は多くの捕虜を引き連れ、人々に賜物を分け与えられた。」――この「上られた。」ということばは、彼がまず地の低い所に下られた、ということでなくて何でしょう。この聖句は、イエス様が一度、復活する前に、まず地の低い所に下られた。何のために?「多くの捕虜を引き連れ、人々に賜物を分け与えるため」でありました。Ⅰペテロの「捕らわれの霊たち」と「多くの捕虜」とは同じ人たちのことではないかと思います。で、イエス様は彼らをどうされたのでしょうか?ここから、組織神学の話をしたいと思います。これは保守的な立場における1つの説です。旧約時代にも義人という人たちがいました。ノアもアブラハムもダビデも義人でした。でも、旧約時代はすべての人が死んだら陰府に下って行きました。

ルカ福音書16章で、イエス様は陰府の様子を離しておられます。これは単なるたとえ話ではなく、実際にイエス様がご覧になった出来事ではないかと思います。あるところに、金持ちと貧乏人ラザロがおり、二人とも死にました。貧乏人ラザロは、御使いたちによって、アブラハムのふところに連れていかれました。一方、金持ちはハデスという所にいました。ハデスとは、陰府であります。地獄ではありません。でも、彼のいるところは、すぐそばで炎が燃えていました。ラザロはずっと上の方にいるようです。金持ちが「熱くてたまらないので、一滴でも良いから水をくれ!」と願います。でも、アブラハムは「こことお前たちの間には、大きな淵があります」と言いました。おそらく、旧約時代の陰府は二階建てになっており、上にいる人たちは義人であり、下にいる人たちはそうでない人たちであります。おそらく、「イエス様は上にいる義人たちのところへ勝利の宣言し、復活のとき、上の陰府を丸ごと引き上げたのではないだろうか。そして、それはやがてパラダイスになった。パラダイスとは、天国が完成するまで、霊たちが主と共にすごすところだ」。このように保守的な神学者たちは考えているのであります。私も賛成であります。でも、私は行った事がありません。ある人たちは、実際、見てきたと言います。「私は地獄を見てきた」とか「天国を見てきた」と言います。それらは、信じる人もいれば、「嘘だろう」という人もいます。私は彼らの証言を「励ましと警告」というレベルで信じています。

 イエス様が陰府まで下って行って、捕らわれた霊たちを引き上げてくださったということが大きな励ましになります。申命記33:27口語訳ですが「とこしえにいます神はあなたのすみかであり、下には永遠の腕がある」というみことばがあります。詩篇30:3「主よ。あなたは私のたましいを陰府から引き上げ」。詩篇139:8「私が陰府に床を設けても、そこにあなたはおられます」と書いてあります。ということは、私たちがたとえ陰府の底に下るようなことがあっても、そこにも主はおられ、どん底から引き上げてくださるということです。ところで、私は子供とお風呂に入った後、子供を寝かせるため一緒に寝ます。体があったまっているせいか、眠気がぐっと襲ってきます。「ああ、死ぬときもこんなんかなー」と思います。意識が遠のいて、らせん状の渦の中に下っていくようです。頭の中に思いがあっても、口で伝えられない。周りの人も私が何を思っているのか分からない。「死ぬ時というのは、きっとそうなのだろうなー」と思います。回りの人たちは、どうなっているか分からない。自分だけが、深い闇の中に落ちていく。だれも助けてくれる人はいない。でも、大丈夫です。「下には永遠の腕がある。私が陰府に床を設けても、そこにあなたはおられます」。イエス様は死の淵まで下ったことがあります。たとえ、私が陰府に下って迷っていたとしても、イエス様は私を捕まえて、パラダイスまで引き上げてくださる。仕事柄、今まで何人もの方を見送ってきました。でも、いつかは自分の番がきます。いつかは、あの火葬場の炉の中に入るときが来るでしょう。でも、大丈夫です。イエス・キリストは、死の向こうまで行って、こちらへ帰ってこられた唯一の方です。救いがあるということは、何と心強いことでしょう。あるいは、ボケちゃって、自分がだれか分からなくなるかもしれません。妻や子供の名前や顔も忘れるかもしれません。でも、大丈夫です。私が主を忘れることがあっても、主は私を忘れることはありません。信仰とは、自分に頼らないで、主に頼るということです。飛行機のパイロットは、計器だけを見て操縦する訓練を受けるそうです。明るいときは、回りを見て、機体の傾き具合がわかります。でも、真っ暗な海の上を飛ぶと、「自分が乗っている飛行機が水平なのか、斜めなのか、あるいは逆さまなのか。どのくらいの高度なのか」分からなくなるそうです。そのとき自分の感覚に頼らないで、計器だけを見て操縦する。ただ計器が示していることを信じなければならないのです。私たちが信じるべきものは、イエス様ご自身と聖書のみことばであります。世のものはすべて変わります。倫理道徳、人の価値観も変わるでしょう。でも、イエス様ご自身とみことばは永遠に変わることがありません。死の向こうまで行って、帰ってこられたイエス様を心に抱いていることは、本当にありがたいことです。いや、むしろ私たちは神様から抱かれているのです。イザヤ46:3-4「胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。」ハレルヤ!アーメン。

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2008年3月 9日 (日)

わが神、わが神     マルコ15:21-34

 先週は、私たちの被害者的な立場の癒しについて学びました。イエス様が十字架につけられる前に受けたさまざまな苦しみや不当な扱いは、私たちが受けた傷の癒しのためでした。イエス様は私たちが受けた傷、悲しみ、病を負ってくださったのです。キリストの打ち傷のゆえに、私たちは癒されたのです。そして、本日は私たちの加害者的な立場についてです。これは神に対して犯した罪、人々に対して犯した罪であります。イエス様は私たちの身代わりに十字架にかかり、私たちのために死なれました。そのことによって、私たちの罪が赦されたのであります。きょうは、キリスト教の中心である十字架の贖いについて共に学びたいと思います。

1.十字架を負わされた男

 マルコ15:21「そこへ、アレキサンデルとルポスとの父で、シモンというクレネ人が、いなかから出て来て通りかかったので、彼らはイエスの十字架を、むりやりに彼に背負わせた。」イエス様は、数えきれないほどの鞭を受けられた後、十字架を負わされました。イエス様は前の晩、裁判にかけられ、一睡もしていませ。朝はローマ兵からさんざん嘲弄された後、体中に鞭を浴びせられました。その後、イエス様は重い十字架を背負い、エルサレムの狭い石畳を歩まれました。疲労困憊していたので、途中、何度か倒れてしまいました。ローマ兵は「これでは、死刑執行が遅れてしまう」といらいらしてきました。沿道を見渡すと、背の高い色黒の男がいました。ローマ兵は「おい、お前がこれを担げ!」とその男に命令しました。当時は、ローマ兵はだれにでも、労役を課することができました。その男は、「十字架を負ったら、人々から自分が犯罪人と思われるじゃないか」と、顔から火が出るくらい恥ずかしい思いをしたでしょう。「ああ、なんと俺は運が悪いんだ!近所の者たちに見られたら物笑いにされるだろう。ああ、貧乏くじをひいた」と嘆きながら、十字架を背負いました。 

しかし、このところにその男の名前と二人の息子たちの名前が記されています。「アレキサンデルとルポスとの父で、シモンというクレネ人」です。シモンは、過ぎ越しの祭りに参加するために、クレネからエルサレムに上って来ていました。アレキサンデルとルポスは彼の息子たちで、おそらく初代教会では名の知れたクリスチャンではなかったかと思います。これは伝説ですが、シモンはそのとき、「ああ、へたこいたー」と本当に恥ずかしい思いをしました。ところが、あとから十字架につけられたお方がよみがえり、救い主キリストだということがわかりました。シモンはそのとき、「イエス様の十字架を担いだのは俺だよ。俺はなんと光栄なことをしたんだ!」と思ったことでしょう。それから、彼の妻も子供たちもイエス様を信じて救われたのではないでしょうか。その証拠となる、もう1つの記述はローマ16章にもあります。ローマ16:13「主にあって選ばれた人ルポスによろしく。また彼と私との母によろしく。」もし、パウロが言うルポスとマルコ15章のルポスが同じ人物だったら、お母さんもすばらしい人でした。使徒パウロから「私の母」と慕われるくらいのすばらしい人物でした。はっきりとは分かりません。しかし、これはキリスト教会では有名な美しい伝説です。

ここで注目すべきことは「無理やり負わされた十字架」であります。シモンはそのとき、たまたまというか偶然にその場にでくわしました。しかも、ローマ兵につかまって、無理やり十字架を負うはめになりました。「ああ、なんというドジ間抜け、俺はついてないなー」と思ったことでしょう。でもそうではありません。後から、そのことは一生記念すべき恵みであり、特権となったのです。私たちの人生においても、無理やり負わされる十字架というものがあるでしょう。親の借金を負わされたとか、子供の病気、会社の責任もあるかもしれません。現代は、親の介護なども大きな問題です。「なんで俺が、なんで私が」と愚痴が出るかもしれません。でも、あとからそれが恵みになることがあります。教会に来るきっかけも様々で、自分の問題ではなく、家族のだれかの問題で来られる方が多いんです。昔、座間キリスト教会にいたときですが、「自分の子供が知恵遅れじゃないか」と悩みを持ってこられたお母さんがいました。あとから、ご主人も他の子供たちも救われました。あるとき、「弟が父をバットで殴った」ということで、お姉さんが教会に来られました。まずご兄弟が洗礼受け、その後、奥さん、さらにご主人が洗礼を受けられました。そのご主人は学校の先生でした。ある歯医者さんは、本田弘慈先生の特伝のとき、無理やり教会に連れられて来ました。本田先生が最後に招きをしました。「今日、イエス様を信じる人は立ってください」と言いました。そのご主人はあたりを見ながら、もじもじしていました。本田が「ほら、そこの人。もじもじしていないで立ちなさい」と言いました。彼は「うるせー、おやじなだー」とぶつぶつ言って立ちました。彼はそれでクリスチャンになりました。イエス様はヨハネ福音書で、「今は分からないが後で分かる」とおっしゃいました。私たちの人生において、無理やり負わされる十字架、それも恵みになるということです。また、無理やりにでなければ、イエス様の救いに預かれない人もいるということです。

 

2.十字架につけた

15:22-25 そして、彼らはイエスをゴルゴタの場所(訳すと、「どくろ」の場所)へ連れて行った。そして彼らは、没薬を混ぜたぶどう酒をイエスに与えようとしたが、イエスはお飲みにならなかった。それから、彼らは、イエスを十字架につけた。そして、だれが何を取るかをくじ引きで決めたうえで、イエスの着物を分けた。彼らがイエスを十字架につけたのは、午前九時であった。さいとうたかおの漫画に、「ゴルゴ13」というのがありますが、ここから取られたものです。イエス様は金曜日に十字架につけられましたが、13日が正しいかどうかは分かりません。その場所がなぜゴルゴタと呼ばれたのか、2つの説があります。1つはその丘の形がしゃれこうべに似ていたからだという説です。もう1つは、そこは刑場であり、人骨がたくさんころがっていたからだという説です。どちらにしても、あまり気持ちの良いものじゃありません。十字架は人間が考えだした最も醜悪な死刑の道具です。人を昆虫のように、虫ピンに刺し、ジワジワと殺すのが目的です。1週間も生きて、最後は発狂して死ぬ人もいたそうです。ローマの哲学者キケロは「ローマ市民に、十字架を触れさせてはならない」と言いました。そういう醜悪な死刑の道具が、なぜ、ネックレスになったり、病院や教会のシンボルになっているのでしょうか。

 24節には「それから、彼らは、イエスを十字架につけた」とあります。たった一言で終わっているのは、当時、十字架刑はだれもが知っており、わざわざ説明する必要がないからです。でも、現代人のためには少し説明が必要です。イエス様は仰向けに寝かされ、手と足に釘を打ち込まれました。釘と言っても、鉄をたたいて作ったもので犬釘のようにごついものでした。足は右と左、重ねられて釘が打ち込まれました。パッションという映画がありましたが、監督はメル・ギムソンでした。イエス様が釘で十字架に固定されるシーンがありました。そのとき、イエス様の手首をおさえつけた手は、メル・ギムソンの手だったそうです。彼は「自分がイエス様を十字架につけたんだ」ということを言いたかったのでしょう。その後、ロープでひっぱって、十字架を起こします。十字架の根元が、40センチくらいのくぼ地に「どすん」と落ちます。全身の体重が両手と足の3点に集中します。カトリックのある人が、イエス様と同じかっこうで十字架にかかってみたそうです。もちろん、釘ではなくロープでした。横隔膜が下にひっぱられ、そのままでは息ができません。息を吸おうと体を持ち上げると、両腕と足に体重がかかり、ものすごく痛い。その人は5分も耐えられなかったそうです。

イエス様はそれだけではありません、両脇の強盗、道を行く人たち、祭司長たちから馬鹿にされました。不思議なことに彼らが言ったことは共通していました。「他人は救ったが、自分は救えないのか。十字架から降りて来て、自分を救ってみろ。そうしたら信じる」でした。十字架は、私たちが考えるほど高くはなく、足元に触ろうと思えば触れた高さです。だから、彼らの声がはっきりと聞こえるのです。「十字架から降りて来て、自分を救ってみろ」は、イエス様にとって、最後で最大の誘惑でした。恐らく、サタンが人々の口を借りて、「十字架から降りて来て、自分を救ってみろ」と言わせたのではないかと思います。イエス様は降りようと思えば、それができたのです。もし、イエス様が「馬鹿馬鹿しくて、こんなのやってられない」と、十字架から降りたらどうなったでしょう?人類の贖いは、成し遂げられなかったことになります。私たちは今もなお、死と罪の暗闇の中にいなければなりません。でも、イエス様は肉体の苦しみと、人々の罵倒を耐え忍ばれました。ですから、イエス様を十字架にとどめておいたのは3本の釘ではなく、イエス様ご自身だったのです。イエス様は全類の罪、いや、あなたと私の罪をあがなうために、十字架に付けられていたのです。

『塩狩峠』という映画がありました。三浦綾子さんが、実話にもとづいて作った小説を映画化したものです。永野青年は、伝道師から「君はイエスを神の子だと信じるのですか」と問われたとき、「信じます」とキッパリ言いました。「しかし、人の前で、自分はキリストの弟子だということができますか」と問われたとき、「言えると思います」と答えました。「君はなぜイエスが十字架にかかったかを知っていますか」と問われたら、「この世のすべての罪を背負って、死なれました」と答えました。「しかし、永野君、キリストを十字架につけたのはあなた自身だということを、わかっていますか」と問いました。すると、「とんでもない、ぼくは、キリストを十字架につけた覚えはありません」と答えました。伝道師は「それじゃ、君はキリストと何の縁もない人間ですよ」と言いました。永野青年は反論しました。「先生、ぼくは明治の御代の人間です。キリストがはりつけにされたのは、千何百年も前のことではありませんか。どうして明治生まれのぼくが、キリストを十字架にかけたなどと思えるでしょうか」。伝道師は「何の罪もないイエス・キリストを十字架につけたのは、この自分だと思います。罪という問題を、自分の問題として知らなければ、わかりようもない問題なんですよ」と言いました。それから永野青年の求道生活が始まりました。彼は職場の同僚を良きサマリヤ人のように愛する決心をしました。しかし、隣人を心から愛せない自分を発見したとき、自分の罪深さが分かり、同時にイエス様の救いも分かりました。そうです。キリストを十字架につけたのは、人々ではなく、私たちの罪、私の罪なんです。イエス・キリストはあなたの罪、私の罪のために十字架につけられたのです。

3.わが神、わが神

 イエス様は朝の9時に十字架につけられました。12時になったとき全地が暗くなり、午後3時まで及びました。過ぎ越しの祭りの頃は満月なので、日食は起こりません。それなのに、あたり一面が真っ暗になったのです。まるで、父なる神様が御顔を隠されたかのようです。そしてイエス様は暗闇の中で、大声で叫ばれました。「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」。これは当時、語られていたアラム語です。歴史的に、南ユダはバビロンに70年間捕らえられました。彼らは帰還後、ヘブル語ではなくアラム語を使うようになりました。マルコは、あえてイエス様が語られたアラム語を福音書に残しました。その意味は、「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになられたのですか」です。ある新興宗教の人たちは、「俺たちの教祖は立派に死んでいったのに、あんたのところの教祖は、なんとみじめに死んでいったことか」と馬鹿にします。この十字架の言葉は、キリスト教会で最も「不可解な言葉」として知られています。イエス様はこの地上に何のために来られたのか十分に知っていたはずです。ゲツセマネでも覚悟ができていたはずです。なのに、この期に及んで、何故このような言葉を発せられたのでしょうか?実は、この言葉こそ、贖いにおける奥義であり、もっとも深遠な意味をもっています。1つの考え方は、イエス様は十字架上で詩篇22篇のことばを語っておられたのではないかということです。確かに、詩篇22:1は「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか」で始まります。そして、不思議なことに22篇はイエス様の十字架の苦しみをそのまま現しています。でも、それだけではありません。この詩篇の最後は、賛美と勝利で終わっています。ということは、イエス様の叫びは敗北ではなく、勝利に終わることがはっきりしていたということです。

 もう1つの解釈は、この時点において、イエス様は父なる神様から完全に捨てられたということです。イエス様は父なる神様と一瞬たりとも離れたことはありません、永遠から一緒でした。でも、全人類の罪を負ったために、神から断罪され、捨てられてしまいました。そのため、「父よ」とは呼べなくなり、「わが神、わが神」と呼ぶしかありませんでした。本来なら、私たちが地獄から「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか!」というべきだったのです。でも、イエス様が代わりに、地獄に落とされ、「わが神、わが神」と叫ばれたのです。少しへそ曲がりの人は、「どうせ、3日後によみがえるんだろう」と言うかもしれません。でも、そうではありません。使徒パウロはこのように言っています。Ⅱコリント5:21「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」イエス・キリストは罪を背負ったというよりも、罪そのものになられたのです。このことはたとえ、復活しても残ることです。職場で、デスクの中にあるはずのお金がなくなったとします。だれかが「取ったのはあなたではないか」と言いました。あなたに嫌疑がかけられました。みんなも白い目であなたを見ます。でも、3日目に、お金を無くした人が、「あった、あった。他の場所にしまっておいていた」と言いました。「ああ、やれやれ!これで解決した」ということになるでしょうか?あなたは3日間、嫌疑がかけられたんです。その罪の痛みはあなたの心に残るでしょう。イエス様は、一片の罪もないお方なのに、全人類の罪をかぶり、罪そのものとなったのです。父なる神から断罪され、地獄に落とされたのです。なぜでしょう。それはあなたと私を救うためです。

 愛なる神様は全人類を愛したい。でも、罪がある限りは裁かなければなりません。「いいよ、いいよ。なんでも赦すよ」と言ったら、その場で神様でなくなります。罪ある人類を赦し、同時に神ご自身の義をどうしたら満足させることができるでしょう。これは大きなジレンマです。神様は、御子イエスに人類の罪をかぶせ、人類の代わりに罰するしかありませんでした。ヨハネ3:16「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」とあります。神様は、実に、そのひとり子を十字架の死にお与えになったほどに、あなたを愛されたのです。それは、御子イエスを信じる者が、ひとりとして滅びることなく永遠の命を持つためです。全人類の罪を負った御子イエスに、神の怒りが全部下りました。御子は断罪され、地獄に落とされました。そのことによって、神の怒りがなだめられたのです。使徒パウロは「なだめの供え物として、公にお示しになった」(ローマ3:25)と言いました。もう、神様は怒っておられません。和解の道が備えられました。あなたはイエス・キリストを信じるだけで、あなたの罪が赦され、神の前で義とされるのです。ヨハネは「私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです」(Ⅰヨハネ4:10)と言いました。つまり、十字架にこそ、神の愛が現されているのです。

すべての贖いのわざはキリストにあって完成しました。私の罪、あなたの罪の代価が、すでに支払われたのです。問題は、あなたがこのキリストをどうするかです。先ほどの、永野青年のように、「ぼくは、キリストを十字架につけた覚えはありません」と言うこともできます。確かに、イエス様は頼まれもしないのに、十字架で罪を負って死んでくださいました。そうです。私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったのです。十字架の贖いは、神様からの愛のプレゼントです。Ⅱコリント5章には「神が懇願しておられるようです」と書いてあります。神様は「どうか、神の和解を受け入れなさい」と懇願しておられるのです。全宇宙・全世界を創造された方が、あなたの前で懇願しているのです。なんということでしょうか?やがて、私たちは神様の前に立つときが来ます。ヘブル9章には「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」と書いてあります。もし、人が、イエス様を信じないで死んで、神様の前に立ったとします。神様は、あなたが犯した罪の1つ1つを裁くわけではありません。そんなのは小さな罪です。神様の前における最大の罪は、キリストを信じなかったことです。神様は「なぜ、キリストにおける私の愛を受け入れなかったのか」と、あなたをさばくことでしょう。

 羽鳥明という有名な牧師がおられます。『福音を恥としない』という説教テープがあります。その中に出てくるお話です。羽鳥先生には弟がおりまして、長い間、地下にもぐって共産党の活動をした人です。羽鳥先生がイースターの日、弟を誘って教会の礼拝に行きました。そこの牧師は土から掘られたような牧師で「福音のことをフグイン」とズウズウ弁丸出しで語ります。羽鳥先生は心の中で「うちの弟は東大の化学を卒業したんだよ。もっとインテリ向きの話をしてくれないかなー」と思いました。最後に、牧師先生は「イエス・キリストはあなたの罪のために十字架にかかり、三日目によみがえりました。イエス・キリストを救い主として信じる人は手をあげなさい」と言いました。羽鳥先生は目をつぶりながら「こんな単純な話で信じるわけがないだろう」と思いました。しかし、目を開けたら、弟がすっと手をあげていました。後から「純二や、話が分かったのか」と聞きました。弟は言いました。「僕はイディオロギーこそが社会を変えると思って、命がけで活動してきた。しかし、人間の醜い争いをいっぱい見てきた。お兄さん、イディオロギーじゃ、人は救われないことが分かったんだ。」使徒パウロが言いました。Ⅰコリント1:23,24「しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。」キリストの十字架はあなたに救いの力を与える、神様からの贈り物です。どうぞ、あなたもキリストを信じて救われてください。

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2008年3月 2日 (日)

十字架につけろ      マルコ15:6-20

 もうすぐイースター、復活祭です。でも、その前に十字架があります。十字架と復活はキリスト教の中心です。でも、福音書を見ますと、イエス様は直ちに十字架につけられたわけではありません。その前に、不当なさばきを受け、殴られ、さんざん嘲弄にされ、つばきをかけられ、鞭打たれ、それから十字架につけられたのであります。イエス様は何も悪いことをしていないのに、そのような不当な扱いを受けたのであります。「何も悪いことをしていないのに、不当な扱いを受けた」。みなさんは、こういう言葉を聞いて、心にぐっと来るものはないでしょうか?きょうは、イエス様が何故、不当な苦しみを受けられたのか、Ⅰペテロ2章のみことばをいくつか引用しながら学びたいと思います。 

1.不当な苦しみ

 Ⅰペテロ2:19-21「人がもし、不当な苦しみを受けながらも、神の前における良心のゆえに、悲しみをこらえるなら、それは喜ばれることです。罪を犯したために打ちたたかれて、それを耐え忍んだからといって、何の誉れになるでしょう。けれども、善を行なっていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです。あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。」この所では、「キリストもあなたと同じように不当な苦しみを受けましたよ」と教えています。では、そのことは私たちとどのような関係があるのでしょうか?

①宗教家たち

 マルコ15:1には、「祭司長、長老、律法学者らが協議をこらしたすえ、イエス様を縛って、ピラトに引き渡した」と書いてあります。彼らは真夜中、裁判を開き、「イエスが自らを神とした」というかどで死刑を宣告しました。ところが、当時、イスラエルはローマに支配されていたので、死刑の執行は勝手にできませんでした。彼らはイエス様をローマの法律で死刑にするために、冒瀆罪を騒乱罪にすりかえたのです。ルカ23:2にありますが、彼らはピラトにこのように訴えています。「この人はわが国民を惑わし、カイザルに税金を納めることを禁じ、自分は王キリストだと言っていることがわかりました。」神に仕える者たちが、このような嘘をでっちあげて良いのでしょうか?彼らは嘘をでっちあげるために協議したのです。私は、祭司長、長老、律法学者たちは、正義がなされない社会を代表しているように思います。

たとえば、イージス艦の事故、真相解明が、なぜこんなに長引くのでしょうか?海上保安本部で一番最初に取り調べるべきなのに、防衛相らが航海長を取り調べていたということです。なんだか、口裏を合わせていたというか、怪しいなーという感じがします。あの事故に対する防衛省の対応が報道されてから、国民中が怒ったと思います。なぜでしょうか?私たち一人ひとりの中に、国家という巨大な組織に対する、怒りがあります。なぜなら、正義が行われていないからです。でも、個人の力はあまりにも微力で何もできません。長いものに巻かれ、泣き寝入りするしかありません。でも、その国の自衛隊の大きな船が漁船を大破させた。イージス艦はちっともどけないで、小さな漁船が右往左往している。しかも、事故直後も救助もせず、原因を隠蔽している。「なんとひどい!」。私たち一人ひとりが持っている、国家とか巨大な組織に対する怨念が、そこに向けられているんじゃないかと思います。皆さんにも、「正義がちっともなされていない」という、怒りがないでしょうか?

②ピラト(ローマ総督)

 ピラトはローマの総督でした。彼はイエス様には罪がなく、ユダヤ人の嫉妬が原因だとわかっていました。ピラトには目の前のイエス様を許すこともできました。マルコ15:15「それで、ピラトは群衆のきげんをとろうと思い、バラバを釈放した。そして、イエスをむち打って後、十字架につけるようにと引き渡した。」とあります。ピラトは妥協の人であり、真理などどうでも良いのです。自分の生活、自分の立場、自分の名声が大事なのです。ピラトの妻は「あの正しい人には関わり合わないでください。ゆうべ、私は夢で、あの人のことで苦しい目にあいましたから」(マタイ27:19)と言いました。ピラトもピラトなら、その妻も妻であります。

 ピラトと彼の妻は、私たちにとって何を象徴しているでしょうか?社長と社長夫人、つまり権力を持っている経営者ではないかと思います。みなさんもそういうところで、仕事して嫌な思いをしていませんか?Ⅰペテロ2章には「横暴な主人」として書かれています。横暴な主人のもとで、働く人々は大変です。うまくゴマをする人が、出世する世の中であります。正しいこと正しいと主張するなら、職を失うか左遷されてしまいます。「真理がうとんじられている、世の中、公平じゃない」そういう怒りはないでしょうか?

③群衆

 1週間前、イエス様がエルサレムに入場したとき、人々は「ホサナ、ホサナ」と歓迎しました。ところが、こんどは一変して「十字架につけろ、十字架につけろ!」と叫びました。なんという変わりようでしょうか。扇動した宗教家たちも悪いけれど、それにふりまわされる、群集も何とおろかでしょうか?私は、群衆はいい加減なことを言う世間を代表していると思います。「世間が何と言うだろう」「世間様に申し訳がたたない」「世間の恥さらしだ」。日本では、「世間」という、だれかわからない存在を恐れて生きています。ウェブで調べてみましたが、「世間」という言葉は、仏教用語だそうです。世間の「世」は「移り変わること」。また「間」は「ものが個々別々に差別化されて見られる」。つまり、世間は、本来、平等であるものに区別を作って、それにこだわって生活しているので、真実がおおわれ、無常で、破壊的なんだということです。よくわかりそうでわからない?

とにかく、ここで言う世間と言うのは「人の目」ということです。都会ではあまり感じませんが、田舎に行けば行くほど、この「人の目」が気になります。また、「世間」は親族であるかもしれません。普段は何も助けないくせに、冠婚葬祭になるときに口を出します。また、子供たちが行く学校もある意味では「世間」かもしれません。そこには神の真理とは別な価値観とか「きまり」があります。また、子供たちは、先生や生徒の間で、たえず気を配りながら生活しなければなりません。私にとっては学校は本当に窮屈で嫌なところでした。不登校の子供の気持ちがよくわかります。私の場合は家の中が学校よりもひどかったので、学校へ行かざるをえませんでした。現代は、ひきこもりたくさんいるようですが、私の場合はひきこもる場所がありませんでした。私は世間には反発しながらも、目を気にしていました。会社でも「使い物にならない」と言われないように、一生懸命働いていました。みなさんはいかがでしょうか?人の目、近所、親戚、学校、会社は気にならないでしょうか?それに対する怒りはないでしょうか?

④ローマ兵

 ローマ兵は高慢で偏屈なユダヤ人を憎んでいました。ユダヤ人は彼らにとって、最も扱いにくい存在だったのです。ところが、目の前にユダヤ人の王が現れました。彼らはここぞとばかりに、ユダヤ人の王様に憎しみをぶつけたのです。ローマ兵の赤いマントは古くなると、紫色に変色します。彼らはこれをイエス様に着せました。また王様には冠ですが、だれかが茨の冠を編んで、イエス様の頭にかぶせました。棘とげの冠をかぶせたというよりも、ぐさっと押し付けました。そして、王様の杓の代わりに、葦の棒を持たせました。その後、彼らは次々とイエス様の前にひざまずき、「王様、ばんざい」と叫びました。だんだん、エスカレートしてきて、今度は葦の棒を取り上げ、イエス様の頭、つまり茨の冠の上からたたきました。鋭くて長いとげが、イエス様の額に食い込んだでしょう。彼らはよってたかってつばきをかけ、嘲弄しました。イエス様の顔はつばきでびしょびしょになり髭にまでしたたりました。それから、裸にされ、鞭を体中に浴びせられました。ローマの鞭は先端が何本にも分かれ、その先には動物の骨や鉛が埋め込まれていました。パッションという映画をご覧になった方もおられると思いますが、屈強なローマ兵たちが、力まかせに鞭を振り下ろします。背中が終わったと思ったら、今度は裏返しにして、お腹や顔にも撃ち当てます。鞭の先端が体に食い込み、その鞭を引っ張るときに、皮膚だけではなく肉までも引き裂かれるでしょう。パッションではあたりが血の海でした。ユダヤ人の鞭は39回ですが、ローマの鞭は制限がなかったんじゃないかと思います。

 イエス様を嘲弄して、残酷なことをしたローマ兵とはあなたにとってだれでしょうか?それはあなたを馬鹿にし、あなたの尊厳を奪い、あなたを傷つけた人ではないでしょうか。大変残念ですが、その人は、お父さんやお母さんの場合があります。おじさん、おばさん、お兄さん、お姉さんかもしれません。学校時代、悪口を言ったり、暴力を与えた人がいるでしょう。友達ではありません「あいつ、あの野郎」です。学校の先公も敵だったんじゃないでしょうか。会社に入ると、憎っくき上司がいたかもしれません。自分を裏切った、友人、彼女、彼氏。中にはだれか名前も知らない人に危害を加えられた人もいるかもしれません。そういう人たちが、あなたのローマ兵です。

 では、不当な扱いを受けたイエス様はどのように対処されたでしょうか。Ⅰペテロ2:22,23「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。」アーメン。イエス様は何も悪いことをしていないのに、馬鹿にされ、痛めつけられたのです。でも、「ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました」。ローマ12章で使徒パウロこう言われました。「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる」(ローマ12:19)。どうぞ、みなさんが持っている、怒りを憎しみを、神様のところに持って行きましょう。父なる神様にゆだねましょう。

2.癒しを受けるため

 Ⅰペテロ2:24「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです」。十字架は私たちが犯した罪をあがなうためであり、加害者としての面を取り扱います。一方、十字架まで、イエス様が受けた数々の苦しみは、私たちが受けた傷の癒し、つまり被害者の側面を扱います。戦後、多くの宣教師たちが日本に来て、福音を宣べ伝えました。アメリカやヨーロッパで、リバイバルが起きましたが、その流れを汲む人たちがやってきたわけです。でも、そのメッセージの多くは「罪を悔い改めよ!」でした。「あなたがたは罪びとです。このままでは地獄に行きます。罪を悔い改めなさい。キリストはあなたの身代わりになり十字架で死なれました。あなたも救い主イエスキリストを信じなさい」と言います。間違ってはいません。でも、アメリカやヨーロッパはキリスト教国です。かつてはイエス様を信じていたのに、信仰から離れていたわけです。でも、日本は全く福音が届いていない国でした。そこに、「罪を悔い改めなさい」と大上段でバッサリ。本来は恵みで信じるべきなのに、さばきが怖くて信じるという人が多かったのではないでしょうか。また、聖書をよく見ると、罪のあがないと同時に、癒しも語られています。もちろん、罪を犯したという加害者としての面が重要でありますが、悪を受けたという被害者としての面も忘れてはいけません。日本人の場合は、被害者としての傷が癒され、神の愛を体験し、その後、罪を犯したことの悔い改めという順番も成り立つのではないかと思います。とにかく、聖書は両方を語っています。

 イザヤ書53:3-6「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」イザヤ書はキリストの受難の預言ですが、やはり、2つの面が語られています。イエス様は私たちの悲しみや病、恥、痛みを担ってくださいました。まさしく「キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです」。もう1つの面は、来週語りますが、イエス様は私たちが犯した罪や咎を負ってくださいました。そのために、イエス様は刺し通され、懲らしめられ、砕かれたのです。それは十字架のあがないの死であります。傷の癒しと罪の赦しの両方が必要であります。もし、極論を言うならば、傷の癒しよりも罪の赦しの方が重要です。でも、救われて、恵まれたクリスチャンを送るためには癒しも必要です。

 先週、私はエリヤ・ハウスに行ってきました。そのセミナーは、学びを終了した人たちのものでした。でも、行くとさらに深い取り扱いを受け、癒しから変革へと進みます。午後は、ワークショップと言って、実際にミニストリーを受けます。私は手稲教会の益田先生ご夫妻と奈良から来られた宮谷牧師夫人から祈ってもらいました。私の父は酒乱で母に暴力をいつも振るっていました。父になぐられ、うめいている母の声が今も忘れられません。兄弟同士でもよく喧嘩をしました。ある正月は流血沙汰になりました。すぐ上の兄は、理由もないのに私をよく殴りました。小学生のとき、何かの憲章で縦笛が当たりました。茶とアイボリーの縦笛です。兄は「俺に貸せ」と学校に持っていき、壊れたかなくなったという記憶があります。また、私は記念切手を集めていました。登校前に、郵便局に並んで買った貴重なものもありました。ある時、兄が国体の切手シートをよこせと言いました。私は嫌だと言い、引っ張り合っていました。兄はそれをぐちゃぐちゃにしました。私はワァーと泣きわめきました。そばで見ていた、父が「そんなもんあるからだ」とストーブにくべてしまいました。それ以来、私は切手も他のコレクションもしなくなりました。私の家は無政府状態でした。私には家でも学校でも、守りがありませんでした。まさしく、不当な扱いを受けていると感じました。ですから、私の心の叫びは「なんでだよ、俺は悪くないのに。ちくしょー、ちくしょー」でした。だから、私が好むテレビ番組は、水戸黄門、遠山の金さん、必殺仕置き人です。この間「三匹が斬る」という昔の番組を見ました。最後に、正義の味方が悪いやつらを切ってくれる。私は気が付いたら、涙を流していました。悪代官とか、盗賊は、私を苦しめた人たちなんでしょう。しかし、家内はそんなテレビはつまらないと言って、サスペンスとか救急救命士みたいなものを見ます。私は人が騙されたり、ひどい目に合わされるのを見るとドキドキして見ることができません。そのドラマと一体になってしまうんです。だから、見たくないのです。

 詩篇には神様のことをこのようにたとえています。主は私の岩、やぐら、とりで、避けどころ、要塞。私たちを守ってくれるお方です。私には守りがありませんでした。しかし、万軍の主が私たちたちを守ってくださいます。また、神様は正義を行い、悪をさばくお方です。その神様が私の見方であるならなんと幸いでしょうか。そして、イエス様は私たちが打たれた傷、受けた苦しみや恥を癒してくださいます。どのように癒してくださるのでしょうか?私たちの過去を変えることはできません。それは確かに起った事実です。ある人は、それがあまりにもひどかったので、「あれは嘘であり、だれか他の人のことだったんだ」と思っています。それは、トラウマから自分を守るための1つの本能です。でも、それでは問題の解決にはなりません。トラウマは思いがけないときに、ひっこり出てきては、私たちを暗くするからです。イエス様は永遠の神様ですから、私たちの過去にも行ってくださいます。イエス様にとって過去も現在も未来もありません。イエス様は過去に行って、私たちの記憶を癒してくださいます。私は過去のことを言ってから、3人の先生方に祈ってもらいました。私の家はふすまとか障子で、プライベートがありませんでした。私はいつも飯台で勉強していました。広い8畳の部屋の真ん中にテーブルを置いて、座っていました。先生の一人が「イエス様はどこにおられますか?」と言われました。最初はぼんやりでしたが、白い衣を来たイエス様がおられるようでした。「変貌山のイエス様かな?」と思いました。裾が長い衣でした。よく見ると、小さな私がイエス様の衣の中に隠れていました。頭も背中もすっぽり入っていました。聖書に衣の裾をつかんだ女性が出てきますが、衣の中に入るというのは滑稽な感じがしました。でも、その衣は私の恥を覆い隠し、私を守ってくれる衣でした。集会の終わりのころ、ある先生が「めん鳥がひなを翼の下にかばうように、あなたを集める」という聖句を引用しました。そのとき、「ああ、そうか!」と、そのときの幻の意味が分かりました。

 最後は私の体験談でしたが、皆さんの中にも人から受けた傷があるのではないでしょうか。ある人は、「神様、なんであのとき助けてくれなかったの!」と神様を恨んでいるかもしれません。ある人はとても乱暴な人でした。祈り手が、「目をつぶって子供のころを思い出してください」と言いました。お父さんは酒を飲むと荒れて、家中のものをひっくり返しました。少年だったころの自分が、部屋の片隅で泣いていました。しばらくすると、台所の窓が見えました。その窓ガラスは、お父さんが物を投げたために、穴がぽっかり開いていました。「ああ、あの窓は、数日前にお父さんが暴れた時のものだったなー」と思い出しました。もう少し、家の中を見回してみました。すると、イエス様が穴の開いた窓の外から家の中を見ておられました。「あー、イエス様だ」と彼は言いました。祈り手が「イエス様はどんなお顔をしているの」と尋ねました。彼は突然、泣き出しました。「イエス様が悲しそうな顔をして、僕を見ていたよ」と言いました。あなたにも暗い、触れたくない出来事があると思います。さんざん馬鹿にされ、傷つけられたイエス様は「私も残念だと思うよ」「私も気の毒に思うよ」とおっしゃって、あなたを慰めてくださいます。

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