« 2008年1月 | トップページ | 2008年3月 »

2008年2月24日 (日)

ペテロの裏切り       マルコ14:66-72

 ペテロはイエス様の一番弟子でした。「使徒の働き」を見ますと、初代教会において、使徒ペテロは第一の指導者であることは明らかです。でも、福音書は、ペテロの過去をはっきりと書きとめています。中国などの歴史書においては、新しい皇帝は前の皇帝をさんざん悪く書き、自分を良く書きます。決して、自分の失敗や悪事は書き残さないのであります。でも、聖書は赤裸々に、人の失敗を書いています。どんなに立派な神の人であっても失敗したことがありました。そして、聖書は彼らの汚点を包み隠さず書き残しています。1つは、神は完全であるけれど、人間はそうではない。神の栄光だけがあがめられますようにという願いがあるからでしょう。もう2つは、私たちが励ましを受けるためです。「1度や2度の失敗でめげるな。聖書で、神の人と言われる人は、あなたよりもひどいぞ」と言わんばかりです。アブラハムは自分の妻を妹と偽りました。モーセは人を殺しました。ダビデは姦淫と殺人の罪を犯しました。そして、新約聖書の使徒たちも、失敗したことがあります。きょうは、一番弟子のペテロの失敗から学びたいと思います。

1.誘惑に負けたペテロ

 ペテロはイエス様を3度も知らないと言いました。このところだけを見たならば、「ペテロはふがいない男だなー、なんと情けないことか」と思うかもしれません。でも、ここまで行くまでの段階を見ていきたいと思います。ペテロは勇敢にも、大祭司のしもべに撃ちかかり、その耳を切り落としました。また、ペテロは他の弟子たちと一緒に逃げはしたものの、「イエス様はどうなるんだろう」と後から追いかけました。少し前の14:53にこうかいてあります。「ペテロは、遠くからイエスのあとをつけながら、大祭司の庭の中まではいって行った。そして、役人たちといっしょにすわって、火にあたっていた」。ペテロはつい先ほど、イエス様を捕らえた役人たちのところに行きました。そして、何くわぬ顔で、一緒に火にあたっていました。ペテロは無用心にも、敵の真ん中に入っていたのです。これは、「ビー、ビー、ビー」と警報が鳴るような危険な状況です。なぜ、ペテロはこんなに簡単に敵の誘惑にはまってしまったのでしょうか?少し前に、ペテロは力をこめてイエス様こう告げています。「たとい、ご一緒に死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません」と誓いました。だから、主イエス様を完全に見捨てるわけにはいかなかったのです。そのため、つかず離れずと申しましょうか、裁判所に入るわけでもなく、遠くへ逃げるわけでもなく、中庭で座っていたのです。なんという中途半端な行為でしょうか?

 第二にこれはサタンである悪魔が関与していたということです。ルカ22:31でイエス様はあらかじめ、ペテロにこう言われました。「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。」つまり、ペテロはサタンが作った舞台セットにまんまと誘い込まれたのです。場所は大祭司の中庭。セットは、照明を落として、焚き火の光だけにする。中庭では役人たちが火にあたっている。ペテロが入ってきても気づかないふりをする。まず、女中Aがペテロに問いかける。その後、ペテロが逃げるはずだから、女中Bが出口付近でペテロに問いかける。するとペテロは焚き火のところに戻るだろう。こんどは役人たちがペテロに問いかける。最後に効果音、「コケコッコー」と鶏の鳴き声。サタンが映画監督のように、メガホンを手にして「さあー本番スタート」と言いました。そうは書いていませんが、最初にペテロに語りかけるのは、男性ではなく女性でなければなりませんでした。もし、ペテロが公開裁判で、「お前は、イエスを知っているか」と問われたならば、「もちろんです!」と胸を張って答えたでしょう。でも、そこは公のところではありません。お互いに顔も見えない暗がりです。火にあたりながら雑談する、いわば井戸端会議です。しかも、女中さんですから、たいしたことはありません。女中さんは、「あなたも、あのナザレ人、あのイエスと一緒にいましたね」と言いました。彼女は「あなたはイエスの弟子ですか」とは聞いていません。「あのイエスと一緒にいましたね」と、少し遠まわしに聞いています。ペテロは思わず、「わからない、見当もつかない」と否定しました。1度否定してしまったので、2度目は否定するわけにはいきません。撤回することの方が、勇気が要ります。自衛隊のイージス艦と同じです。最初、嘘をついてしまうと、そのまま嘘を貫き通したくなります。69節で別の女中さんが「この人はあの仲間です」と言いました。するとペテロは再び打ち消しました。三度目は、「毒を食らわば皿までも」と、のろいをかけて誓いました。「私は、あなたがたの話しているその人を知りません!」。最後は、完全な否定です。そして、鶏が「コケコッコー、バカペテロー」と鳴きました。ペテロはその時、我に帰りました。

 詩篇1:1にこのようなみ言葉があります。「幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人」。ここには、「歩まず、立たず、座らず」とあります。「立つ」「歩む」「座る」とだんだん、誘惑の深みにはまっていくプロセスをあらわしています。ペテロが誘惑に負けたのは、まさしく、この段階を踏んだからです。ペテロは中途半端に役人たちについて行きました。その後、彼らの中に立ちました。最後に、焚き火の中に座ってしまいました。彼らはイエス様の敵であり、イエス様をあざけっていたのです。それでもペテロは何食わぬ顔をして、彼らの中にいました。もう1つ原因があります。ゲツセマネの園で、彼はちっとも祈らないで、眠りこけていました。マルコ14:37-38でイエス様はペテロにこのようにおっしゃっていました。「シモン。眠っているのか。一時間でも目をさましていることができなかったのか。誘惑に陥らないように、目をさまして、祈り続けなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」シモンとは、ペテロの本名であり、葦、風にゆらぐ葦という意味です。福音書では人間ペテロを指すときに、あえて「シモン」と呼ばれています。ペテロは岩という意味ですが、シモンは葦です。一人の人間の中に、強い人と弱い人という二面性があるのでしょうか。それとも、イエス様を信じない生まれつきの人がシモンなのでしょうか?とにかく、彼は誘惑に対しては、無防備だったということです。

 ペテロは誘惑に負けました。でも、誘惑に負けないほど強い人はこの世にいるのでしょうか?では、誘惑に勝利する方法とは何でしょうか?それは、誘惑に近づかないのが一番です。ペテロは中途半端な気持ちで、イエス様を捕らえた敵の中に入り込みました。私はわざわざ、歓楽街や盛り場には行きません。また、誘惑は目から入りますので、そういうものを極力見ないことにしています。でも、偶然、目に入ってくるものもあります。電車でチラっと見えた、目に入った。しかし、二度目は自分の意思で見ないということです。チラッと目に入るのは罪ではありませんが、二度目に意識して見るならば、それは罪になります。誘惑に勝利する方法は、あえて誘惑と戦わない、迂回するなどして避けるということです。第二番目は自分がクリスチャンであるということを言えないような仲間とは付き合わないことです。詩篇1:1「幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人」とあります。伝道のために近づくことはあるでしょう。でも、それは信仰がある場合だけです。しかし、神を否定する人、神を敵として歩んでいるような人の仲間になってはいけません。聖書に「遊女と交われば1つになる」とか「異端の人とは挨拶もするな」とあります。第三番目は、目をさまして祈っているということです。これはイエス様が弟子たちにおっしゃったことであります。また、使徒パウロもエペソ6章で「どんなときでも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさまして祈れ」と命じています。では、ペテロはどう言っているのでしょうか?Ⅰペテロ5:8「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。」一度、悪魔にやられたペテロが述べているんですから、説得力があります。

 悪魔は、頭に角をはやし、口が耳まで裂けているような醜い姿ではありません。悪魔は堕落する前は美の極みだったと聖書に書かれています。おそらく、もっとも美しい姿であなたのところに近づいてくるでしょう。悪魔はその場限りの快楽、あるいは感情の爆発、あるいは破壊的な行為をあなたにもちかけてくるでしょう。誘惑自体に罪はありません。あなたがそれを選択し、実行してしまうなら罪になります。悪魔は私たちの弱点をだれよりもよく知っています。誘惑には近づかない。悪い人の仲間にならない。目をさまして祈っている。このような初期の段階で、対処しているならば、誘惑に負けることはありません。

2.愛されたペテロ

 マルコ14:72「するとすぐに、鶏が、二度目に鳴いた。そこでペテロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは、わたしを知らないと三度言います。」というイエスのおことばを思い出した。それに思い当たったとき、彼は泣き出した。」イエス様はペテロに「あなたは、わたしを知らないと三度言うよ」とあらかじめ告げていました。それは預言かもしれません。それに対して、ペテロは何と答えたのでしょうか?マルコ14:31、ペテロは力を込めて言い張った。『たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」では、ペテロはそのとき嘘をついたのでしょうか?そうではないと思います。ペテロは本心で、そう言ったのだと思います。でも、その本心というのは、自分の力、自分の意思、自分の思いでした。聖書はこれを「肉」と呼んでいます。ペテロは心理学的に言うと多血質かもしれません。彼は弟子たちの中ではリーダー的な存在であり、何か聞かれると「はい、はい、はい」と答えました。考えないうちに、口がもう勝手に動いているのです。ペテロは積極的で、大胆で、自信家でした。また、イエス様に対する忠誠心は、他のだれよりも勝っていたかもしれません。でも、それは所詮、肉の力です。彼の本名はシモンでした。シモンは水辺に植わっている「葦」という意味です。葦は風にゆらぎます。多血質の人は「意志の面で弱く、持続力に欠け、途中で投げ出す」性質があるそうです。ま、そういう性格はともかく、神様はペテロの生まれつきの性質、肉を砕く必要がありました。「砕く」というのは、神様の「取り扱いを受ける」ということです。イエス様はあえて、サタンの誘惑を許し、ペテロが肉に死んで、神様により頼む人になるように取り扱ったのです。ペテロは自分に力ではなく、完全に神様により頼む人になる必要があったのです。

 聖書を見ますと、神様に用いられた人は必ずと言って良いほど、「取り扱い」を受けています。実は、「取り扱い」というのは、ホーリネス的な表現です。十日くらい前、小笠原先生とお会いしました。小笠原先生は聖協団というホーリネスの流れを汲む、教団の先生です。横田先生という副牧師が神様のお取り扱いを受けてから、変わったと述べていました。私は冷やかし半分に、「先生、お取り扱いなんて、さすがホーリネスですね。でも、今の人はそのような表現は分かりませんよ」と言いました。通訳の津倉さんに聞いたら、英語には「取り扱い」という表現ないようですねーと言っていました。でも、ホーリネス、聖め派にはあります。私は「自我が砕かれる経験」の方が分かりやすいと思いますが、神様に用いられた人は必ずそのような取り扱いを神様から受けています。信仰の父アブラハムは75歳で神様に召されました。しかし、なかなか約束の子供が与えられませんでした。かなり回り道して、なんと100歳のときにイサクが生まれました。ひとり子イサクは犠牲としてささげられましたが、あやうくの所で助け出されました。人を押しのけるヤコブは20年間、ラバンの家で仕えました。夢を見たヨセフは13年間、エジプトで奴隷生活を余儀なくされました。解放者モーセは40年間、ミデヤンの荒野で訓練されました。80歳になり「自分は一体何者でしょうか?」と言いました。イスラエルの王ダビデは、サウルに追われて荒野をさまよい、息子のアブシャロムからも追い出されました。預言者エリヤは、3年半、からすとやもめに養われました。神の人が訓練を受けないで、用いられたことはありません。ペテロもまさしく、そういうお取り扱いを神様から受けたのです。

 でも、イエス様はペテロを特別に愛しておられました。ルカ22:32「 しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」イエス様は、ペテロがサタンにふるわれ三度も知らないと言うことをあらかじめ知っておられました。それだけではなく、ペテロの信仰がなくらないように、祈られたのであります。同じ弟子ながらも、ユダの場合は違いました。「しかし、人の子を裏切るような人間はのろわれます。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです」(マルコ14:21)とおっしゃいました。なんという違いでしょうか。ペテロはイエス様を3度も知らないと言いました。イエス様はマタイ10章において、「人の前で私を知らないと言うような者なら、私も天におられる私の父の前で、そんな者は知らないと言う」とおっしゃられました。ペテロは1度ではありません、3度も知らないと言いました。最後は、のろいをかけて誓ったのであります。ユダはイエス様を祭司長たちに売り渡しました。裏切りとしては、両者はそんなに違いはありません。なぜ、ペテロは赦され、ユダはのろわれたのでしょうか?極論と思われることがローマ9章に書いてあります。ローマ9:15「私は自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ」と書いてあります。これは神様の一方的な選びであり、人間の願いや努力によるものではありません。宗教改革者ジョン・カルヴァンは「神の選び」ということを強調しました。ある人は、「これはひどい、悪魔の教えだ」という人もいます。初めから、救われる人と滅びる人が選ばれているなんて、私も信じたくはありません。でも、「神の選び」というものは存在すると思います。クリスチャンになるのは、必ずしも善人ではありません。ある人は、「あんな人でも救われるの?世の中の人の方がよっぽど正直で、まじめじゃないか」と言います。でも、そうなんです。罪びとの方が天国に近いのです。私も最初は自分がキリストの神を信じたと思いました。でも、1年もたたないうちに、「そうじゃない。恵みによって救われ、あわれみによって選ばれたのだ」と知りました。

 それでは、人間の側は全く関係ないのでしょうか?私は選ばれている人と、そうでない人とでは神様への態度が若干違っていると思います。ペテロは自分の罪を悔いて泣きました。ユダも自分の罪を悔いて泣いたでしょう。ユダは「イエスが罪に定められたのを知って後悔し、銀貨30枚を祭司長、長老たちに返して、『私は罪を犯した。罪のない人の血を打ったりして』と言った」とマタイ27章に書いてあります。ペテロもユダも後悔したのです。でも、ペテロは後悔で終わりませんでした。イエス様のところに行ったのです。「どの面下げて」と言われても、復活の朝、墓へ走っていきました。ユダはイエス様のところへは行かず、外へ出て行って、首をつりました。彼は自分で自分の罪を始末したのです。ペテロは「イエス様は私のことをきっと赦してくださるに違いない」と信じて、イエス様のところへ戻りました。でも、ユダは「イエス様は私のことを赦しては下さらないだろう。自分で自分の罪を始末するしかない」と自殺したのです。つまり、イエス様に対する信仰があるかないかであります。しかし、この信仰も神様がくださるものであり、人間が生まれつき持っているものでもありません。信じられるというのも、聖霊の助けによるものであります。結局は、みなさん、イエス様を信じられるというのは神様の恵みです。イエス様はヨハネ6:44で「父が引き寄せられないかぎり、だれも私のもとに来ることはできません」と言われました。ここに来られている方々は偶然ではなく、神様が引き寄せてくださったからです。みなさんの上に神様の選びがあると私は心から信じます。

 ペテロはイエス様を3度も否みました。どの面下げてイエス様のところに戻れましょう。でも、ペテロはイエス様の限りない愛を信じて、戻って行きました。昔、山口百恵が「これっきり、もうこれっきりーですかー」という歌を歌いました。私たちの愛は、これっきりの愛しかありません。1度目ならばなんとか許せるかもしれません。でも、2度目ならどうでしょうか?かなり、信頼度が落ちるでしょう。でも、3度目ならどうでしょう。「ああ、この人はこういう人だ」と見切りをつけるんじゃないでしょうか?ペテロはイエス様を3度も否みました。3度目はのろいをもって誓ったほどです。さらにイエス様は復活の朝、ペテロに合ってこのように質問しました。「ヨハネの子シモン、あなたは私を愛しますか」と聞きました。なんと、同じことを3回尋ねました。ペテロは心を痛めて「主よ。私があなたを愛することを知っておいでになります」と答えました。ペテロは3度イエス様を否定しましたが、イエス様は3度ペテロに「私を愛するか」と尋ねました。ペテロは心に痛みを覚えましたが、それによって癒されたのではないでしょうか?私たちの愛はこれっきりの愛かもしれません。でも、イエス様の愛は永遠の愛です。終わりのない愛、エンドレスの愛です。エレミヤ31:3「永遠の愛をもって、私はあなたを愛した。それゆえ、私はあなたに、誠実を尽くし続けた。おとめイスラエルよ。私はあなたを建て直し、あなたは建て直される。再びあなたはタンバリンで身を飾り、喜び笑う者たちの踊りの輪に出て行こう」とあります。おとめイスラエルとは、新約聖書では私であり、あなたです。神様は永遠の愛で、あなたを愛し、あなたを回復してくださるのです。

| | トラックバック (0)

2008年2月17日 (日)

イエスの裁判        マルコ14:51-65

 イエス様がゲツセマネで祈り終わる頃、追っ手はすぐ側まで迫っていました。おそらく、午前零時は過ぎていたと思われます。イエス・キリストが捕らえられ、まさしく、暗闇が支配する時が来ました。昨年、ナルニア王国物語の『ライオンと魔女』という映画がありました。ライオンが少年の罪を贖うために、魔女たちに捕らえられました。そのとき、ライオンが縛られた上に、立派なたてがみが切られました。ライオンの丸刈りの状態が、神の権威が剥奪されたことを象徴していました。本日の箇所から、神の子イエスが闇の子らに捕らえられ、好き勝手にされるという受難が始まります。

1.イエスの捕縛

 イエス様が祈り終わる頃、イエス様を捕らえようと、たいまつを手にした群衆が山を登ってきました。ヨハネ福音書を見ますと、「一隊の兵士と千人隊長、それにユダヤ人から送られた役人たち」と書いてありますから、数百人はいたと思われます。かなり前になりますが、オーム真理教の上九一色村の本部に武装した機動隊が攻め入りました。まさしく、祭司長、律法学者、長老たちは、「イエスという教祖」を捕らえるために、一隊の兵士と役人たちをオリーブ山に送ったのであります。その群集の先頭に立って、手引きをしたのが弟子の一人、ユダでした。彼は「私が口づけをするのが、その人だ。その人をつかまえよ」という合図を決めていました。ユダは「先生」と言って、ハグして口づけをしました。マタイ26章には、そのあとイエス様が「友よ。何のために来たのですか」と言ったと書いてあります。なんと、ユダは友愛のしるしで「口づけ」で主を裏切ったのであります。少し前、ユダは銀貨30枚でイエス様を祭司長たちに売り渡しています。このようなユダの行為は、一体何を意味するのでしょうか?ユダはイエス様を憎んでいたのではないでしょうか?「こいつがメシヤだと思って従ってきたのに、メシヤでもなんでもなかった。俺の人生を台無しにしやがって!」と憎しみと怒りがこめられていたと思われます。ユダもそうですが、弟子たちは地上的なメシヤを求めていました。他の弟子たちの場合は、失望と落胆でしたが、ユダは怒りと憎しみという強い方に出ていたのではないかと思います。

 人々はイエス様を手にかけて捕らえましたが、48節でイエス様は「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って私を捕らえに来たのですか?」とおっしゃっています。祭司長、律法学者、長老たちが何故、このような人たちを差し向けたのでしょうか?1つは「イエスが奇跡的な力をもって、はむかって来るかもしれない?あのイエスを失敗しないで捕らえるためには、棒と剣を持った一隊の兵士が必要だろう」ということでした。彼らの必死さがここに現わされています。もう1つは、ポーズであります。イエスが強盗に等しい悪者で、神殿を荒らす者として成敗しなければならない。「イエスは神殿を汚す犯罪者だ」ということを世間に知らしめるためだったかもしれません。弟子たちの1人、ペテロは勇敢にも剣を抜いて、大祭司のしもべに撃ちかかり、耳を切り落としました。マタイ福音書でイエス様はこの後、ペテロにこのように言われました。「剣をもとに納めなさい。剣を取る者は剣で滅びます。それとも、私が父にお願いして、12軍団よりも多くの御使いを、今わたしの配下に置いていただくことができないとでも言うのですか」。1軍団は6,000人編成ですから、その12倍は、72,000人になります。列王記19章を見ますと、主の使いが、一夜のうちに18万5000人を撃ち殺したという記事があります。それだけ力のある御使いが12軍団、72,000もいたら人間はひとたまりもありません。でも、イエス様はご自分の力でもなく、また御使いを呼ぶこともなく、だまって捕らえられました。祭司長、律法学者、長老たちは勝ち誇ったかもしれませんが、イエス様は自らの意思で、捕らえられたのです。なぜでしょう?

 49節後半には「しかし、こうなったのは聖書のことばが実現するためです」と書いてあります。イエス様は直前に、杯を飲む決断をされていました。そして、そのことは聖書のことばが実現するためであることを知っておられまさした。「聖書のことば」とは、イザヤ書53章をはじめとする、メシヤの贖いの死であります。創世記からマラキ書にいたるまで、直接的あるいは間接的に、「人類を贖うためには、だれかが死ななければならない。それは女の末であり、ダビデの子孫であり、主のしもべである」ということが書かれています。さらにまた、イエス様ご自身も、「人の子は長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならない」と少なくとも3回は語っておられます。イエス様が言われたことは預言であり、また新約聖書の一部でもあります。イエス様は神のことば、聖書に対し、全面的に従いました。なぜでしょう?聖書は父なる神様のみこころであり、法律であり、命令であるからです。先週は、ディボーションの講師として招かれ、1泊2日で御殿場東山荘に行ってきました。大和カルバリーから30名近くの青年たちが集まりました。彼らが一番、悟ったことは、「みことばを聞くだけではなく行わなければならない」ということです。ある人から「先生のところは、みんながディボーションを守っているのですか?」と、聞かれました。「ま、そこそこやっているんじゃないかなー」と答えておきました。ディボーションの奥義は、みことばを瞑想することです。すると必ず神様は必要なことを教えてくださいます。でも、もう1つの課題は、適用であります。自分の生活において、実行することです。これがないと、信仰の成長はないし、神様のわざも起こりません。聖書を重んじることは信仰生活の「いろは」基本中の基本であります。

イエス様は聖書のことばをとても重んじられました。イエス様ご自身がことばそのものなのに、そのことばにご自分を制限しておられます。みことばは真理であり、神様も真理です。もし、イエス様がみことばに逆らうなら、父なる神様にも逆らうことになります。イエス様は「しかし、こうなったのは聖書のことばが実現するためです」と言われました。ということは、イエス様を縛っていたのは人々のロープではなく、聖書、神様のことばだったということです。イエス様は贖いのわざを成し遂げるために、あえて、捕縛されたということです。私たちの人生の中においても、あえてみことばによって、自分を縛る。みことばの枠を越えないようにする。こういう生き方は、不自由かもしれませんが、かえって、自分を守るのではないでしょうか。十戒の中には、「殺すな」「姦淫するな」「盗むな」「偽りの証言をするな」「むさぼるな」という戒めがあります。新約聖書では「自分を愛するように隣人を愛せよ」「妻を愛せよ」「夫に従え」「へりくだれ」「死に至るまで忠実であれ」…たくさんの命令とか戒めがあります。これらは一見、不自由に思えます。でも、神様の戒めや命令は、実は私たちを守るものです。イエス様が神のことば聖書を重んじられたように、私たちも聖書を重んじ、みことばに喜んで従うべきであります詩篇119篇を引用いたします。詩篇119:93,94「私はあなたの戒めを決して忘れません。それによって、あなたは私を生かしてくださったからです。私はあなたのもの。どうか私をお救いください。私は、あなたの戒めを、求めています。」私たちも聖書を重んじ、みことばを慕い求めたいと思います。

2.イエスの裁判

 この箇所を読むと、混乱してしまいます。本来、主イエス・キリストこそが裁判官であり、人間を裁くことのできる唯一のお方です。しかし、イエス様がこの地上におられた時は、人々から裁かれ、死刑宣告を受けました。昔、『猿の惑星』という映画がありました。猿の方が人間よりも偉くて、人間が奴隷です。猿によって人間が裁かれるというシーンもありました。しかし、神の御子が人間から「罪あり」と裁かれるというのは、それ以上のことであります。イエス様を捕らえ、裁判にかけたのは当時の宗教家たちです。当時はユダヤではサンヒドリンという最高議会がありました。祭司長、律法学者、長老たち70人によって、構成されていました。彼らのほとんどがイエス様を憎んでいました。イエス様がたとえ話で彼らに語ったことがあります。ある主人が農民たちにぶどう園や酒ぶねを全部貸して旅に出かけました。季節になると、主人は収穫の分け前をいただこうと思ってしもべたちを遣わしました。しかし、彼らはそのしもべたちを袋叩きにし、何も持たせないで送り返しました。別のしもべたち遣わしましたが、彼らは袋叩きにしたり、殺したりしました。最後に、「私の息子だったら敬うだろうと」思って息子を遣わしました。だが、農夫たちは「あれはあと取りだ、あれを殺してしまえば、財産はこちらのものだ」と言って、息子をつかまえて殺、ぶどう園の外に投げ捨てました(マルコ12:1-8)。このたとえのようにユダヤ教の指導者たちは、神のものを盗んでいたのです。そして、あととりである御子イエスを殺そうとしたのです。この裁判は不当な裁判です。なぜなら、裁判というのは、夜が明けてから公式になされるべきです。だが、彼らは真夜中、用意周到に、イエス様を死刑にするために集まったのです。

 55、56節「さて、祭司長たちと全議会は、イエスを死刑にするために、イエスを訴える証拠をつかもうと努めたが、何も見つからなかった。イエスに対する偽証をした者は多かったが、一致しなかったのである。」いちおうは裁判ですから、死刑にあたる罪状がなければなりません。彼らは神に仕える身でありながら、次から次へと偽証をたてました。しかし、どれも一致するものがありませんでした。一致というのは、彼らの意見が一致という意味ではなく、イエス様の言動と一致しなかったということです。イエス様はことばにおいても、行いにおいても罪がなかったということです。彼らがそれを証明しているようなものです。「イエス様に罪がなくても、死刑にだけはしたい」とはどういう魂胆でしょうか。これが宗教の持つ恐ろしさです。歴史の中で教会が権力もって腐敗した時代がありました。たくさんの宗教裁判も開かれたことでしょう。そのたびごとに、権力にあぐらをかいた宗教的指導者たちが、独断的に審判を下しました。彼らは神の真理よりも、自分たちの利益や考えを優先させたのです。では、現代はないのかと言いますと、ないとは言えません。ある程度の歴史のある教団になりますと、地域教会よりも教団本部が力を持ちます。一握りの指導者とか理事たちが、教会を牛耳るということが起こります。大小の違いはあれ、現実に起こりうることであります。それだけ宗教というものは、恐ろしいものです。神様の権威を自分のために乱用し、誤用する恐れがあるからです。ですから、「ユダヤ教の指導者たちがイエス様を十字架につけた張本人だ」とは言えないのであります。傲慢な人間の罪がイエス様を十字架につけたのであります。私たちも当時の祭司長、律法学者、長老たちになりうる可能性は十分にあります。

 でも、ここに悪者の親分がいました。ヘブル書ではイエス・キリストがまことの大祭司だと書いてありますが、福音書ではどういう人が大祭司なのでしょうか?カヤパという大祭司が、イエス様に対して、決定的なことを言いました。ある意味で、彼は真実を語りました。イエス様は大祭司が真実を語ったので、真実で言い返しただけのことです。61節の半ばからお読みいたします。大祭司は、さらにイエスに尋ねて言った。「あなたは、ほむべき方の子、キリストですか。」そこでイエスは言われた。「わたしは、それです。人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見るはずです。」すると、大祭司は、自分の衣を引き裂いて言った。「これでもまだ、証人が必要でしょうか。あなたがたは、神をけがすこのことばを聞いたのです。どう考えますか。」すると、彼らは全員で、イエスには死刑に当たる罪があると決めた。大祭司は、「しめた、ひっかかった」と内心、喜びしました。そして、自分の衣を引き裂いて「あなたがたは、神をけがすこのことばを聞いた」と大きな声で叫びました。すばらしい演技です。そして、全員が「イエスは死刑に当たる罪がある」と決めました。正しい審判がなされたように思えますが、全くの茶番であります。ここで分かるのは、イエス様の罪は、冒とく罪だということです。イエス様はご自分を神と等しい者としたので、死刑になったのです。「人の子」というのは、ダニエル書では父なる神と同じ権威を持つ者であり、メシヤを指します。彼らは2つに1つという選択に迫られていました。目の前のイエスが、ご自分を神と等しい者、メシヤとしたのです。本来ならば、イエス様の前に全員ひれ伏さなければなりません。しかし、彼らはあざ笑い、メシヤに対して死刑を言い渡しました。そのあと、何をしたでしょう。イエス様につばきをかけ、顔をおおい、こぶしでなぐりつけ「だれが殴ったか言い当ててみろ」と言いました。役人たちはイエス様を受け取ってから平手で打ったとも書いてあります。

 彼らは眼の前にメシヤがいるのに、あざ笑い「お前は死刑だ」と言いました。そのあと、つばきをかけたり、こうぶしや平手で殴りました。なんということでしょう。でも、これは私たち人間にもあることです。もし、眼の前に「私は神と等しいメシヤである」という人が現れたらどうでしょう?信じるか、殺すかどちかしかありません。ある人たちは、「聖書の教えは大変ためになる」と言って聖書を読みます。ミッションスクールはそういう価値観で建てられた学校です。またある人たちは「イエスは最高の道徳家だ、偉人だ」と言うでしょう。でも、聖書の「イエスはキリスト、つまり、神と等しいメシヤである」ということばと出会ったらどうするでしょう。そのことばを受け入れて神を礼拝するか、もう1つはそのことばを殺すしかありません。日本人の多くは「さわらぬ神にたたりなし」ということで、見ることも聞くこともしません。「宗教は一切お断りです」と言います。無視や無関心も1つの拒絶の形であります。つまり、人は神様に出会ったなら、信じるかもしくは殺すしかないのです。ある人は「殺す?なんて乱暴な表現だ」と言うかもしれません。ここにコカコーラーと牛乳があるとします。英語で決断をdecision と言います。decisionはとても強いことばで、一方を選んだなら、他方は殺すという意味があるそうです。もし、コカコーラーを選んだなら、牛乳は殺すということです。ある人は「イヤです」とか言って、コカコーラーと牛乳を混ぜて飲むかもしれません。「えー、キモイ」といいたくなります。結婚も同じです。この女性を選ぶ、つまりdecisionしたら、他の女性は殺す(捨てる)しかないのです。ある人は「いやです」とか言って、他の女性とも結婚するならば、それは重婚罪になります。もちろん、イエス・キリストがどんなお方なのか、調べる必要があるでしょう。時間もある程度かかるでしょう。でも、遅かれ早かれ、この方を信じるかもしくは殺すか、decision決断しなければなりません。イエス・キリストも信じるけど、他の神様も信じるという訳にはいかないのです。キリスト教の神様は唯一絶対であり、他に神はいないのです。

 そして、イエス・キリストこそが宇宙の審判者です。イエス様が「人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来る」と言われました。それは世の終りに実現します。力ある方とは父なる神様のことです。そして、右の座とは権威の座を意味します。つまり、父なる神様が御子イエスに審判における、すべての権威を与えるということです。教会によっては、使徒信条というのを告白します。うちではやっていませんが、歴史的には洗礼式などのとき告白するようになっています。数年前、本郷台キリスト教会の祈祷会に合流したことがあります。セミナーが目的でありましたが、当教会の青年たちも何名か加わっていました。祈祷会で司会者が「さあ、みんなで使徒信条を唱えましょう」と言いました。ゴスペルで救われた姉妹方は「何の告白?」みたいな顔をして、みんな口パクでした。私は「申し訳ないことをしたなー」と思いました。使徒信条の後半はこのようなくだりになっています。「三日目に死人の内よりよみがえり、天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり、かしこよりきたりて生ける者と死にたる者とを審きたまわん」となっています。イエス・キリストが全能の父なる神の右に座し、生ける者と死にたる者とを審判するということです。いわゆる「最後の審判」であります。このことは黙示録20章にも書いてあります。死んだすべての者が復活し、神様とイエス・キリストの前に立つのです。みなさん、イエス様を信じている人は、神様の間に救い主イエス・キリストがおられます。でも、イエス様を信じていない人は、じかに神様の前に立つしかありません。だれも弁護する者はおりません。聖書では自分の義では神様の義に達することができないと書いてあります。全ての人は罪があり、神の栄光には達しないのであります。でも、イエス様を信じている人には、神の義が着せられていますので、もう罪は覆い隠されています。神様は「あなたには罪がない。義である」とおっしゃるでしょう。もしかしたら、神様の前にも立たないかもしれません。なぜなら、キリストの贖いのゆえに、審判はパスされ、キリストの花嫁に迎えられるからです。ヨハネ5:24にその証拠があります。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」ヨハネは、「キリストを信じる者はさばきに会うことがない」と言っています。英語ではyou shall not come into judgmentとなっています。単なる未来形ではなく、神様のご意思で、決してそうならないということです。

 みなさん、主イエス・キリストを信じている人の魂には平安があります。たとえ今晩、心臓が止まっても、神様の前に立てるのです。こういう平安を持っている人の生き方は、世の人とは違います。世の人は平安を得るためにいろんなことをします。より多くのお金や持ち物、名声、資格、有力な知人、スティタス、願望の追及…でも、それは無理です。この世のものでは私たちの魂は満足するどころか、「まだダメだ、もっと欲しい」と叫ぶでしょう。主イエス・キリストしか、本当の平安は与えられないのです。みなさん、本当の平安を心に持っている人の生き方は違います。第一は、一日一日を感謝して大事に使います。なぜなら、自分は生きているのではなく、神様から生かされていることを知っているからです。第二は、だれか他の人からさばかれてもあまり気にかけることはありません。なぜなら、神様が何もかもご存知であり、神様がすべてをさばくからです。神様は絶対者です。日本には絶対者という考えがありません。だから不安定なのです。キリストにあって、絶対者なる神様が私の見方なら、どんな被造物も恐れることはありません。

| | トラックバック (0)

2008年2月10日 (日)

ゲツセマネの祈り        マルコ14:32-42

ゲツセマネは、「油絞り」という意味があります。ゲツセマネはオリーブの林で、その近くはオリーブの圧搾機があったようです。重い石臼を回してオリーブの実を圧搾すると、溝からタラタラとオリーブ油が搾り出されてきます。イエス様がゲツセマネで祈られましたが、イエス様はまさしく圧搾機にかけられるように搾られ、血の汗を流したのであります。現代はプレッシャーの時代と言われますが、みなさんはキリキリと締め付けられたことがあるでしょうか?きょうは、イエス様が十字架にかかる前の夜、ゲツセマネで必死に祈られた箇所から学びたいと思います。

1.イエス様の願い

 イエス様と弟子たちは過ぎ越しの食事を終えて、オリーブ山へ出かけました。ヨハネ福音書には「そこには園があった」と書かれています。ゲツセマネの園であります。たくさんのオリーブの木が植わっていたと思われます。真夜中でありましたが、イエス様はいつものように、祈るためにやって来ました。そのとき、ユダはすでにどこかへ出かけていました。ですから、イエス様は11人の弟子たちを連れてゲツセマネの園に来ました。そして、イエス様はペテロとヤコブとヨハネの3人を連れて、さらに奥の方に入っていきました。「何故、3人か」と言いますと、彼らが証言者となるためです。律法には、「2人もしくは3人の証言が必要だ」と書いてあります。テキストを読みますと、弟子たちが熟睡していたように思えますがそうではありません。ひどい眠気に襲われはしましたが、イエス様が祈られる様子を、時おり見ることができたのです。だから、イエス様がどのように祈られたかが、福音書に残されているのです。ずっと、寝入っていたのなら、こんな記事は書けません。しかし、このゲツセマネの祈りは、新約聖書の至聖所であって、軽い気持ちで入ることはできません。正念場ということばがありますが、イエス様はまさしくこれから十字架の正念場を迎えるところだったのです。このゲツセマネの祈りで勝利できたからこそ、不当な裁判やリンチ、嘲笑や鞭打ち、そしてゴルコタの十字架まで、黙して忍ぶことができたのです。

 では、ゲツセマネの祈りはどのようなものだったのでしょうか?まず、イエス様はご自分の気持ちを弟子たちに分かち合っています。33,34イエスは深く恐れもだえ始められた。そして彼らに言われた。「私は悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、眼をさましていなさい」。弟子たちは、こんなに恐れおののいているイエス様を見たことがありません。「悲しみのあまり死ぬほどです」と、そんなことを打ち明けられても、あまりにも重過ぎます。でも、とにかくイエス様はご自分の気持ちを愛弟子たちに分かち合いました。多少なりとも、自分のために祈ってくれることを願ったからです。でも、彼らは眠気に襲われ、1時間でも眼をさましていることができませんでした。きっと、そのとき悪魔とその手下どもがイエス様を打ち負かすために、やって来たのでしょう。悪魔はイエス様が贖いの死を成し遂げることを怖がってやめるように、必死に、誘惑しました。だから、弟子たちは悪魔がもたらした霊的圧力で、眼を開けていることができなかったのでしょう。『パッション』という映画がありましたが、ゲツセマネのシーンから始まります。そこいらじゅう、へびが這っていました。35節に「イエス様はひれ伏して祈った」とありますが、そんな格好の良いものじゃありません。外国人は額に片手を軽くかざして、「エィメン」などと祈ります。そうじゃありません。イエス様は地面にバタンと身を投げ出して、身をよじりながら祈ったのであります。手術前に検査をするとき、太い注射を打たれたりします。手術も大変ですが、その前に、血とか髄液とかを採取されます。あのような恐怖と痛みで身をよじるような感じです。「ああ、いやだ!やめてくれ!」と言いたいけど、我慢している、あの状態です。

 イエス様の祈り方に注目したいと思います。イエス様は決して、模範生でも良い子でもありません。このところだけを見ると、人類を救いに来たメシヤとはとても思えません。35節半ばから。「もし、できることなら、この時が自分から過ぎ去るように」と祈り、またこう言われた。「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯を私から取りのけてください」。わぁー、これを分かりやすい日本語にしたら「できたら、パスさせてくれ」ということです。私たちもイヤな役回りをさせられるとき、思わず「パス!」と言うでしょう。でも、イエス様が十字架の死をパスしたら、人類の贖いは成し遂げられなかったのです。もし、そうだったら、人類は今も死と罪の暗闇の中におり、私も皆さんも救いが得られなかったということです。イエス様は「この杯を私から取りのけてください」と祈られました。杯は「分け前」とか「運命」の意味を持ちますが、多くの場合、神のさばき、怒り、災い等悲しみや苦しみを表すのに用いられます。まさしく、イエス様は人類の罪に対する神の怒りを飲み干そうとしていたのです。かなり前ですが、広島から植竹先生を招いたことがあります。先生は、歌舞伎俳優みたいに語っていました。その杯は、全人類の罪が真っ赤に溶けた鉛のようにあふれていた。唇を少しでも近づけたなら、バチっとやけどをしてしまうであろう。悪魔がやって来て叫ぶ。「イエスよ!その杯を飲んでみよ。飲めるかイエスよ!さあ、さあ、さあー」。

 「どんだけー!」という言葉が、昨年の流行語になりました。イエス様が私たちの罪をかぶるのが「どんだけー!」大変だったかは知る由もありません。なぜなら、私たちは罪の中で生まれ、罪になれっこになっているからです。でも、イエス様には一片の罪もありません。Ⅱコリント5章には「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです」(5:21)と書いてあります。イエス様は全く、罪を知らない方でしたが、私たちの代わりに罪そのものとなられたのです。生まれたての赤ちゃん皮膚は薄くて柔らかです。私たちの皮膚はけっこう厚くて、ある程度のことには耐えられます。もし、その赤ちゃんが、腕とかどこかに、熱湯をかぶったらどうなるでしょう。もう、ギャーと泣き叫び、皮膚もおかしくなってしまうでしょう。それと同じように、罪を全く知らないお方が、全人類の罪をかぶり、神の怒りを身に受けたらどうなるでしょう。でも、聖書を見ると、神様からだけではなく、ご自分が造った人間から、めちゃくちゃにされ、最後に殺されるということです。顔を殴られ、つばきをかけられ、嘲笑され、裸にされ、茨の冠を押し付けられ、鞭を浴びせられ、最後には十字架です。私などは、この1つでも耐えられないでしょう。もし、私がイエス様だったら、「馬鹿ヤロー、コノヤロー」と、地球を破壊してから、天国に帰るでしょう。イエス様にはやろうと思えばできたんです。でも、しなかった。なぜなら、その杯の向こうに、私たちの顔を一人ひとり見たからです。「もし、私が罪をかぶりこの杯を飲むなら、あの人も、この人も、この人も、あの人も地獄に行かないですむ」。イエス様は神様だったので、自分の贖いを通して、数限りない人が救われるのが見えたのでしょう。だから、杯を飲み干すことができたのです。イエス様はここで覚悟を決めたので、すさまじい苦しみと十字架を耐え忍ぶことができたのです。本当に、イエス様に感謝したいと思います。

 この世においては、「覚悟を決める」とか「腹を決める」という言葉がありますが、ゲツセマネはイエス様にとって、腹を決める時でありました。イエス様はそのことを切なる祈りをもって、成し遂げられました。覚悟が決まったのですから、十字架の苦しみの半分は終わったようなものです。イエス様はこの後、捕縛され、裁判にかけられ、殴られ、馬鹿にされますが、ほとんどしゃべっていません。「私は悪くない」とか「お前らいい加減にせーよ」と、ひとことも言っていません。なぜなら、信仰による覚悟ができたからです。でも、弟子たちはそうではありませんでした。彼らは1時間も目をさましていることができませんでした。だから、この後、誘惑に負けて、逃げ去ってしまったのです。ペテロなどは、前の31節で「たとい、ご一緒に死ななければならないとしても、私はあなたを知らないなどとは決して申しません」と言いました。他の弟子たちもそうでした。でも、彼らはイエス様のように備えていなかったので、この後、散り散りばらばらになり、ペテロなどはイエス様を3度も知らないと言ってしまいました。もし、私たちがこの箇所から教訓を学ぶとしたら、祈ってから決断すべきだということです。人生に何度か大きなことがあります。就職、転職、結婚、出産、家を買うとき、手術を受けるとき、宣教に出かけるときなど、信仰が来るまで祈る必要があります。信仰による覚悟が決まったなら、その先、どんなことが起きてもうろたえることはありません。死も生も神様のものだからです。私たちの人生において、何度か、ゲツセマネのような祈りが必要なのであります。

2.自己否定の道

 イエス様の贖いは、私たちは真似することができません。なぜなら贖いの死はイエス様だけが成し遂げたものであり、私たちはその恵みに預かるしかありません。でも、イエス様の自己否定の道は、私たちが倣うべきものです。イエス様は父なる神に、何と祈られたでしょうか?イエス様はご自分の気持ちとか願いを率直に述べた後、「しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください」と祈りました。榎本保郎先生は、この「しかし」は偉大なしかしである。この「しかし」があったゆえに、人類の贖いが成し遂げられたのだと『一日一章』でおっしゃっています。アーメンです。しかし、イエス様はこの祈りを少なくとも、3回しています。1度目に祈り終えたあと、弟子たちを見ると眠っていました。再び祈りましたが、その後、弟子たちを見ると眠っていました。さらにまた、イエス様は祈りました。41節、イエスは三度目に来て、彼らに「まだ眠って休んでいるのですか」と言われました。ですから、同じような祈りを3回したことは確かです。3というのは聖書では完全数です。イエス様は完全に祈られたのです。イエス様の率直な願いは「この杯をわたしから取りのけてください」でした。人間になられたイエス様は罪をかぶるのがイヤだったのです。何のためにこの地上に来たのか。ご自分が人間となり、人間の身代わりに罪をかぶることでした。そんなことは百もご承知でした。でも、実際、人間になったら、できなくなったのです。なぜなら、人間の肉の中には、自己保存、自己絶対、自己義認という性質があるからです。「えー?イエス様は神様だったんでしょう?そんな罪の性質はなかったはずだろう」と言いたくなります。でも、ヘブル書には何と書いてあるでしょう。ヘブル2:9「ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方」とあります。また、ヘブル12章には「あなたがたはまだ罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません」と書いてあります。ヘブル4:7「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました」とあります。つまり、イエス様は生身の人間として、多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされたのです。つまり、イエス様は自分を否定し、父なる神に従順することがどれだけ重要なのかを、自ら示されたのです。

 使徒パウロはガラテヤ書2章でこのように言っています。ガラテヤ2:19,20「しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」自我に死に、キリストに生きることこそが、クリスチャンの真骨頂だということです。多くの人はクリスチャンになり、救われはしたものの、相変わらず自我で生きています。でも、神のみこころがやって来たときは、私たちは降参しなければなりません。すぐにはできないかもしれません。神のみこころと自分のおこころが対決するのです。イエス様もゲツセマネで血の汗を流して格闘しました。でも、何とおっしゃったでしょうか?「しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください」と祈りました。これこそが、自我が神の前に砕かれた人の祈りです。神様は私たちの自我を砕くために、様々な苦しみを与えます。あのイエス様ですら、苦しみによって従順を学ぶ必要があったのです。ましてや、罪の中で生まれた私たちは「どんだけー」の者でしょうか?救われた頃はハネムーン時代で、何でもうまくいきます。まわりの人たちもチヤホヤしてくれるでしょう。でも、いつまでもハネムーンは続きません。これは結婚した人はよーく知っています。嘘だと思ったら、おとなりの既婚者に聞いてみてください。でも、その後に、平和がやって来ます。嵐の後の静けさです。自我が砕かれ、主にすべてを明け渡したら、神からの平安がやってきます。

 もし、自分に死んでいたらどうなるでしょうか?死んだ人は、「ペシ、ペシ」と殴られても痛くもかゆくもありません。「馬鹿!」とか「お前なんか死んじまえ!」と言われても、もう既に死んでいるのです。あなたは、何か一言批判されて、ムカーッと来ますか?人間ですから条件反射的に、一時は腹を立てたり、落ち込んだりするでしょう。でも、それは一時です。成熟したクリスチャンであるなら「感情的にはむちゃくちゃ腹が立つけど…。そうか、私はキリストと共に死んでいるんだ。死んでいるなら平気か。アーメン」。この切り替えができます。初めはその一時が1日くらいかもしれません。しかし、ベン・ウォンは「今はたったの3秒だ」とおっしゃっていました。3秒間だけ腹を立て、落ち込む。しかし、4秒後には「ハレルヤ!アーメン」と復活する。すごいですね。でも、クリスチャンになってまもない人、あるいは聖められていない人は、一言、言われただけでプイとなって教会にも来なくなります。残念ですが、いくら賜物があっても、砕かれていない人を神様は用いることができません。ある女優さんの卵が「別にー」なんて、答えて、CMから干されてしまいました。それはこの世での出来事ですが、神の国にも共通するところがあります。心理学は「自我に目覚め、好きなものは好き、嫌いなものは嫌いと言って良い」と言います。私も、共依存から解放され、自我に目覚めることには反対しません。でも、それはクリスチャンのゴールではありません。クリスチャンのゴールは、目覚めた自我に死んで、キリスト中心に生きることです。「せっかく自我に目覚めたのに、ですか?」と言いたくなるでしょう。でも、そうなんです。

 ペテロの生まれつきの性質はどうだったでしょうか?マルコ14:31 ペテロは力を込めて言い張った。「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」ペテロは嘘を言ったのではありません。彼は本心からそう言ったのです。でも、彼はその後、イエス様を知らないと3度も言ってしまいました。それで、ペテロは男泣きに泣いて、悔い改めました。ヨハネ21章ではイエス様から「私を愛するか」と言われました。前のペテロだったら「もちろん、あなたを愛しますよ。他のだれよりも、です」と胸を張って答えたでしょう。でも、砕かれた後は「主よ、私があなたを愛することは、あなたがご存知です」と答えました。ペテロは主を愛することも、すべて、主に依存することを学びました。自分の力ではなく、主の力によって生きることを学んだのです。私たちは生まれつきの力でも、ある程度のところまでは行きます。でも、神様があなたを本当に用いたいと願うなら、あなたの自我を砕いて、焼いて、灰のようにします。灰にはなんの見栄えもありません。でも、灰は聖霊の風に、思いのまま従います。ペテロは使徒の2章で聖霊が注がれてから、豊かに用いられました。牢屋にぶちこまれても、まるで別人のように大胆になりました。ペテロは復活したのです。でも、ペテロの中には、自分は「イエス様を3度も知らないと言った」という傷があったのです。でも、その傷は傷跡だけです。ちょっと触ると「あのときは痛かったなー」と記憶はりますが、傷がうずいてはいません。私たちも砕かれるときはイヤーな思いがします。人を恨んだり、神様を恨んだりするでしょう。でも、それは訓練であり、レッスンなのです。そのとき、私たちもイエス様が祈られたように祈るのです。ヘブル5:7-10「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、神によって、メルキゼデクの位に等しい大祭司ととなえられたのです。」アーメン。

 この世の宗教は苦しみを避けるように願います。「災難や苦しみはまっぴらだ」と言います。なぜなら、ご利益宗教だからです。でも、聖書は「多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされる」とあります。ヤコブ1:2,3「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです」とあります。わぁー、「主にあって、苦しみは良いものだ」ということが分かります。みなさんも、「苦しみは良いものです」と言いましょう。「苦しみは良いものです!」アーメン。そのように苦しみに対して、腹が据わると、苦しみはもう苦しみでなくなります。「生きるのも死ぬも、主にお任せします!アーメン」。「どうせ、私はキリストと共に死んだ身です。痛くもかゆくもありません!アーメン」。人生には様々な正念場があります。でも、キリストと共に死に、キリストとともに復活した身であるなら、何とかなります。まだ、自分に死んでいない人は一度、死にましょう。そして、キリストと共に復活しましょう。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」。アーメン。

|

2008年2月 3日 (日)

最後の晩餐         マルコ14:17-25

イスラエルの3大祭りの1つに「過ぎ越しの祭り」があります。イスラエルの先祖は長い間、エジプトの奴隷を、余儀なくされていました。主によって立てられたモーセが、パロ王に「私たちを出て行かせてくれ」と何度も願いました。しかし、なかなかOKを出してくれません。最後の最後、主は「羊の血を家の門柱とかもいに塗らない家を裁く」とおっしゃいました。エジプトの民はそれをしませんでしたので、奴隷からパロ王まで、長子が死にました。血を塗った家だけは、主の怒りが過ぎ越したのであります。イスラエルの民は家の中で、裂かれた羊の肉に苦菜を添えて食べました。そして、朝一番に彼らはエジプトを脱出したのであります。このことを忘れないために、イスラエルの民は毎年、「過ぎ越しの祭り」を行い、その中で過ぎ越しの食事をしました。種入れぬパンとぶどう酒がメインですから、晩餐とは言えないかもしれません。

1.過ぎ越しの食事の準備

 12節から16節まで、過ぎ越しの食事の準備の様子が記されていますが、少々、奇妙であります。弟子たちは「どこで過ぎ越しの食事をしたら良いでしょうか?」とイエス様に尋ねました。するとイエス様は「都に入ると水がめを運んでいる男性に会うから、その人について行きなさい。そして、その人が入って行く家の主人に、『弟子たちといっしょに過ぎ越しの食事をする、私の客間はどこです』と言いなさい」とおっしゃいました。実際、都に入るとそういう男性がいて、そこのご主人が、席が整い、用意のできた二階座敷を見せてくれました。これは奇跡であります。第一は、水がめを運んでいる男性に会うという預言です。男性はあまり、水がめを運ばないので、弟子たちにはすぐわかったことでしょう。第二は、ご主人に「イエス様が弟子たちと一緒に食事をする客間はどこですか」と聞いたら、そうなったということです。これは、イエス様のことばに権威があるということです。また、イエス様は全世界の創造者であり、所有者ですから、必要とあらばどうにでもなるということです。その男性は、神様に動かされて、イエス様と弟子たちのために過ぎ越しの食事を用意したのです。このようなことは福音書に何箇所もあります。

 たとえば、エルサレムに入城するとき、イエス様はロバを必要とされました。そのとき、弟子たちに「向こうの村へ行きなさい。そこにロバがつないであるから、ほどいて引いて来なさい。持ち主が、『なぜそんなことをするのか』と聞いたなら、『主がお入用なのです』と答えなさい」と言われました。出かけてみると、ロバの子どもが親ロバとつないであり、持ち主に、イエス様が言われたとおり話すと、ロバを貸してくれました。これも奇跡であります。イエス様はロバの存在を遠くから知っていました。そして、ロバの持ち主に「主がお入用なのです」と言ったとき、渡してくれました。これは、主のことばに権威があり、主が全世界の所有者だという証拠であります。また、ペテロに対して、「深みに漕ぎ出して、網をおろしなさい」と言いました。ペテロは「でも、ことばどおり、網をおろしてみましょう」と言って、網をおろしました。そうしたら、大漁で、舟ニそう分の魚が取れました。また、宮の納入金のとき、イエス様はどうしたでしょう?イエス様はペテロにこう言われました。「湖に行って釣りをして、最初に釣れた魚を取りなさい。その口をあけるとスタテル1枚が見つかるから、それを取って、私とあなたの分として納めなさい」(マタイ17:27)。実際に、釣れた魚の中からコインが出て気ました。これらのことから、イエス様が全世界の所有者だということがわかります。詩篇50:10、11「森のすべての獣は、わたしのもの、千の丘の家畜らも。わたしは、山の鳥も残らず知っている。野に群がるものもわたしのものだ」。ハガイ2:8「銀はわたしのもの。金もわたしのもの」。イエス様は人や自然界から無理矢理ではありませんが、神としての権威により、必要なときにそれらを用いたのであります。

 イエス様が、父なる神と等しい、創造者であり所有者であるなら、私たちはどうなるでしょうか。イエス様と共に生活するならば、イエス様が必要なものを供給してくださるということではないでしょうか?イエス様は、マタイ6:33「だから、神の国とその義とを、まず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」と約束されました。必要なものが備えられるための1つだけ条件があります。それは「神の国とその義とを、まず第一に求める」ということです。イエス様ご自身もこの地上におられたとき、「神の国とその義とをまず第一に求めた」のです。そして、すべてが与えられました。メル・ボンド師はアメリカインディアンですが、アメリカインディアンは世界で最も貧しい人たちだということです。おじいちゃんも貧しく、お父さんも貧しく、彼自身も貧しかった。メル・ボンドの車はポンコツ車で、ドアの開け閉めができず、番線でドアをくくりつけていた。乗り降りは、窓からするしかありませんでした。メル・ボンドは父なる神様に「マフィアですら、私の車よりもはるかに立派な車に乗っています。私はあなたの子供ですよ。私にふさわしい車を与えてください」と訴えました。そして、ディラーへ行ったら、紫色のビュィックが目に留まりました。父なる神様に「あの車が私にふさわしいです。あの車を私にください」と祈りました。係員は、下取りする車はほとんど見ませんでした。そして「お金はいくらあるのですか?」と聞きました。「え?これだけですか?」「はい」。係員は二階の店長となんども行き来しました。最後に、メル・ボンドは紫色のビュィックに乗って帰ってくることができたそうです。いくらで買ったかわかりません。とにかく破格のお値段だったことは確かです。また、メル・ボンドはたった1ドル銀貨で、何エーカーもの広さの土地を神学校のために買うことができました。しかし、所有者が死ぬとき、その1ドル銀貨を返してくれたそうです。その経緯は分かりません。でも、「これは主にあって、私のものです」と主張したそうです。「銀はわたしのもの。金もわたしのもの」「だから、神の国とその義とを、まず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」。

2.過ぎ越しの食事の悲劇

イエス様は12弟子たちと一緒に、過ぎ越しの食事をしましたが、悲しい出来事が1つありました。それは12人の中に、イエス様を裏切る者がいるということです。19-21、弟子たちは悲しくなって、「まさか私ではないでしょう。」とかわるがわるイエスに言いだした。イエスは言われた。「この十二人の中のひとりで、わたしといっしょに、同じ鉢にパンを浸している者です。確かに、人の子は、自分について書いてあるとおりに、去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はのろわれます。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」ここでは、それがだれとは書かれていませんが、ヨハネによる福音書を見ますと、イスカリオテのユダであることが分かります。それにしてもイエス様は、ひどいことを言われると思います。とても慈愛に満ちたイエス様のおことばとは思えません。イエス様が「そういう人は生まれなかったほうが良かった」というような人は、そんなにはいないと思います。でも、ある人たちは「ユダの立場をかばい、ユダも重要な役割を果たした」とか、「おそらくユダも救われただろう」と言います。でも、申し上げますが、イエス様がユダを呪ったのですから、私たちはユダを同情することはできません。テレビ伝道をしておられる中川健一先生がこうおっしゃいました。「ユダに対して同情する人がいるが、おそらくその人はユダと同じことをしているからだろう。純粋な信仰を持っている人は、ユダに対して怒りを持つことさえあっても、同情することはできない。」。そのようにおっしゃっていました。私も過去を振り返ると、青年会の一人にユダに対してとても同情的な人がいました。その人は、遠藤周作の本を愛読していた方で、江戸時代に転んだ人(信仰を捨てた人)に対しても同情していました。私は神様が呪うものは呪い、神様が嫌いなものは嫌いたいと思っています。ユダはこのように何度もチャンスが与えられましたが、それでも心の向きを変えることなく、ますます頑なになり、イエス様を裏切ったのであります。

では、私たちの中にユダ性、イエス様を裏切るような心がないかと言ったら、それは別問題です。だれでも、ユダになる可能性はあります。他の弟子たちは、口々になんと言ったでしょう?19節、弟子たちは悲しくなって、「まさか私ではないでしょう。」とかわるがわるイエスに言いだしたとあります。英語の聖書は、"Is it I?"となっています。昔、座間キャンプでイースターの集いに行ったことがあります。キャンプの中央にシアターがあり、教会員たちが劇をしました。みんな、レオナルド・ダビンチの最後の晩餐のように、席についています。彼らはまるで絵画のように、静止しています。面白いことに、ひとりが「自分はこうだんたんですよ。これかもこうします。"Is it I?"と言います。そのセリフを語っている人だけが動き、他の人たちは静止しています。また、他の弟子が同じようなことを語り、12人が"Is it I?"と言っては、またもとの静止画にもどります。英語の芝居だったので、はっきりとは分かりませんが、みんなが「私ではないでしょう」と言いました。でも、イエス様を直接的に裏切ったのはユダかもしれませんが、他の弟子たちもみんなイエス様を裏切ったのではないかと思います。なぜなら、イエス様が捕らえられ十字架にかかるとき、みんなイエス様を見捨てて逃げたからです。一番弟子のペテロなどは、「私はそんな人を知らない」と3度も言いました。最後は呪って誓ったほどです。ペテロはユダの次に、イエス様を裏切った人だと思っても間違いはないでしょう。つまり、12弟子は「まさか私ではないでしょう」と言いながらも、みんなイエス様を裏切ったのです。

罪を犯すということは、愛であり真実なる神様を裏切るということです。でも、日本には愛なる神様もいないし、真実なる神様もいません。大体は、人から嫌われないようにとか、人がどう思うかが基準であります。だから、人に害を及ぼしていなければ、人に迷惑をかけていなければたいしたことはないと考えます。でも、私たちが罪を犯すのは、人ではなく、神様の前なのです。イスラエルの王、ダビデはウリヤの妻バテシバと姦通しました。そして、バテシバがみごもったと知ると、夫のウリヤを戦場から呼び戻しました。「ウリヤ、ご苦労さん。足を洗ってお家に帰りなさい」と言いました。ウリヤは「主人も仲間も戦場で野営しています。それなのに、私だけが家に帰り、飲み食いして、妻と寝ることができましょうか」と家に帰りませんでした。それが2日も続きました。ダビデは「これは困った」と思い、ヨアブに手紙を書き、それをウリヤに持たせました。その手紙には、「ウリヤを激戦の真正面に残して、他のものは退いて、彼が打たれて死ぬようにせよ」と書いてありました。軍長ヨアブはダビデの命令通りしたので、ウリヤは戦死しました。ダビデ王は何食わぬ顔で、バテシバを王宮に召し抱えました。その後、神様から遣わされた預言者ナタンがこのように告げました。「イスラエルの神、主はこう仰せられる。『わたしはあなたに油をそそいで、イスラエルの王とし、サウルの手からあなたを救い出した。さらに、あなたの主人の家を与え、あなたの主人の妻たちをあなたのふところに渡し、イスラエルとユダの家も与えた。それでも少ないというのなら、わたしはあなたにもっと多くのものを増し加えたであろう』(Ⅱサムエル12:7,8)。ダビデは詩篇でどのように言っているでしょうか?詩篇51:4「私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行ないました。」

ダビデは主の恵みによって、一介の羊飼いからイスラエルの王に召し出されました。それなのに、姦淫と殺人の罪を犯しました。それは自分を選んで下さった神様を裏切ることでした。また、ダビデは人ではなく、神様に対して罪を犯したのです。私たちは日本に住んでいますので、神様よりも人の目を気にする傾向があります。私たちは神を恐れる必要があります。神を恐れるとはどういうことでしょうか。それは人が見ていようと、見ていまいと、神の御前で正しく生きるということです。イエス様は罪の世から私たちを救い出し、神の子どもとし、義の衣を与えてくださいました。私たちは神様の恵みによって、主の信頼に答えるべきであります。使徒パウロは、Ⅰテモテ1:12「キリストは、私をこの務めに任命して、私を忠実な者と認めてくださったからです」と言いました。イエス様が私たちをそのようにご覧になっているのです。私はそのように人から是認された経験がありません。イエス様は私を忠実な者と見ておられる。だから、イエス様の信頼に応えたいのです。アーメン。

3.過ぎ越しの食事の意味

 イエス様は22節以降、過ぎ越しの食事の意味を教えておられます。それはとりもなおさず、私たちが毎月行っている聖餐式の意味でもあります。イエス様はパンを裂きながら、「取りなさい、これはわたしの体です」と言われました。また、杯を取りながら、「これは私の契約の血です」と言われました。そのことをもっと詳しく書いているのがヨハネ6章です。ヨハネ6:53-55「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。」このことばを聞いた弟子たちの何人かは、「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか」とつぶやいて、去って行きました。「肉を食べ、またその血を飲む」とはどういう意味でしょうか?それはイエス様を自分の中に取り込み、イエス様と一心同体になるということです。このことは信仰を表しています。イエス様を自分の中に受け入れたら、もしかしたら死ぬかもしれないし、中毒になるかもしれません。先週、中国から輸入した餃子の中に、毒物が入っていたということで日本中大騒ぎになりました。食べるということは、自分の中に取り込むということです。それは、イエス様を受け入れることを同じです。どうでしょうか?イエス様を受け入れた人は気がおかしくなったり、あるいは死にそうな目にあったのでしょうか?そうではありません、イエス様を内に取り込んだ人は、死に打ち勝つ神の命、永遠の命が与えられたのです。

 また、イエス様は杯に対して、「私の契約の血です。多くの人のために流されるものです」と言われました。出エジプトのときは、一歳の雄羊がほふられました。人々はその血を家の門柱とかもいに塗りました。主は血を塗った家だけを過ぎ越しました。血を塗った家の中にいた者たちはさばかれなかったのです。クリスチャンとは、神の怒りがふりかかることはありません。なぜなら、イエス様が身代わりにさばかれ、血を流してくださったからです。ヘブル人への手紙9-10章を見ますと、「血」ということばが何度も出てきます。古い契約はきよい動物の血をささげました。モーセは「これは神があなたがたに対して立てられた契約の血です」と言いながら、民と契約を交わしました。しかし、イエス様は、ただ一度、ご自身をいけにえとしてささげました。そして、流された血潮によって、新しい契約が交わされたのです。それは律法ではなく、信仰による救いです。イエス様ご自身がささげられたことによって神様は満足されました。そのために、罪のために動物をささげることは廃止されました。そのとき私たちはどこにいたのでしょうか?キリストの内にいたのです。キリストが私たちの代わりに、神様と契約を結んでくださったのです。私たちが神様と100回契約を結ぶなら、100回とも失敗するでしょう。でも、イエス様が神からの仲介者として、私たちの代表となって神様と契約を結ばれたのです。大切なのは、キリストの内にいるということです。エディ・レオ師は「契約の内を歩みましょう」と言われました。それは、恵みによって神様のみことばを守り、行うということです。神様はそれができるように、信じる者の心を新たにし、さらに聖霊を与えてくださいました。新しい契約の内にある人は、旧約の人たちとは違います。霊的に生まれ変わり、さらには聖霊が与えられているのです。

 では、聖餐式は何のためにあるのでしょう。私はキリストのあがないを体験し、契約の内を歩んでいることを確認する時です。パンを食べるとき、「あがないの命を感謝します。あなたの命は死に打ち勝つ神の命です。アーメン。あなたの命を取り込みます。死にたる体を生かしてください。そして、神の健康を与えてください」と祈ります。ぶどう液を飲む時はどうでしょうか。「あなたの血による契約を感謝します。私たちは失敗することがあっても、あなたは失敗することがありません。あなたの契約によって、永遠に救われていることを感謝します。どうか私が契約の内を歩むことができますように、導いてください。アーメン」。私たちはこの世に住んでいます。この世は神を否定する死の世界です。私たちは天国の民ではありますが、この世に住んでいますと、肉体と魂が少しずつやられてしまいます。そうならないために、みことばをいただき、神様と交わります。そして、聖餐によってあがない主を覚え、あがないの命を取り込みます。私たちはキリストに合体しますので、キリストの命が私たちは入り込んでくるのです。また、私たちはキリストの血潮によって、罪責感から解放されます。それだけではなく、新しい契約の中にいることが分かりますので、積極的に神様に従う者となるのです。

私は礼拝の中で、あるいは聖餐式の中で、何度も祝福しています。祝福は単なる言葉ではありません。これは実体です。みなさんは礼拝に来ている間、知らず知らずのうちに、祝福を受けているのです。神の健康が与えられ、罪の鎖から解放され、聖霊の新たな息吹が与えられます。そのことによって、肉体と魂と霊がリユーアル(刷新)されます。天国に行ったら、リユーアルは不要です。でも、この世ではたえず私たちはリユーアル(刷新)される必要があります。みなさんは、恵みと信仰と祝福を携えて、この世に遣わされて行くのです。だから、神様に礼拝をささげられるということは、すばらしいことなのです。アーメン。

| | トラックバック (0)

« 2008年1月 | トップページ | 2008年3月 »