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2008年1月27日 (日)

高価なナルド油         マルコ14:1-9

きょうは、純粋で高価なナルドの香油をささげた女性のお話です。ナルドの香油について調べて見ました。「ナルド油は、ヒマラヤ原産のナルドという植物の根茎から取った香料による香油で、非常に高価である。この香油は石膏の壷、あるいは瓶に詰めて、インドから輸入された。ユダヤ人やローマ人は、この香油を、死体を葬るのに用いた。ナルドの香油は、今日はすでに古典香料の1つとして入手困難である」。そのように書いてありました。実は先週、中板橋のある教会を訪ねましたら、ナルドの香油と出会いました。「イスラエルで買ったのですか?」と聞いたら、オアシスだと言う。一滴、手の甲に付けてもらったら、けっこう強い香りがしました。表現しづらいのですが、甘い香りではありませんでした。ある姉妹が、中東の皇太子の通訳をしたそうです。そのとき、お礼にとナルドの香油をいただいたそうです。ある牧師が、それを聖書に一滴落としてもらいました。半年くらい良い香りがしたということです。

1.純粋

 3節の半ばに、「純粋で、非常に高価なナルド油」とあります。「純粋」とは混ざり物がないということです。これは、彼女のイエス様に対する愛と献身が純粋だったということを象徴しています。では、当時の宗教家たちはどうだったでしょう? 1節後半、「祭司長、律法学者たちは、どうしたらイエスをだまして捕らえ、殺すことができるだろうか、とけんめいであった。彼らは『祭りの間はいけない。民衆の騒ぎが起こるといけないから』と話していた」とあります。彼らは仮にも宗教の指導者ですから、モーセの十戒を知っているはずです。十戒の6番目は「殺すな」です。そして、9番目は「偽証をたてるな」ですから、2つの戒めを破っています。さらに、神様の目よりも、人の目を恐れています。これだったら、全くの偽善者です。イエス様をだますとか殺すなんて、「ひどい」と思うかもしれませんが、私たちは結構やっているんじゃないでしょうか。クリスチャンは、大嘘はつかないかもしれませんが、小嘘はつくかもしれません。私は郵便局でアルバイトをしていますが、先週、あることで「本当は関係あるのに」、つい白を切ってしまいました。そのときの状況というか、流れがあって正直に言えませんでした。では、「イエス様を殺す」とはどういうことでしょうか?私たちは罪を犯すとき「この場には、イエス様にいて困る。この際、無視しよう」という気持ちになります。神様とイエス様の存在は信じているのですが、「この際、いないことにしよう」。そして、神様が悲しむことを行う。これは、イエス様を殺していることになるかもしれません。ある人は、「イエス様に日曜日だけ復活してもらい、月曜日から土曜日までは眠ってもらう。日曜日の礼拝のときだけは、ハレルヤ、感謝します。」お家に帰ったら、知らんぷりでは、当時の宗教家をさばくことはできません。

この女性は神様に対して純粋な信仰を持っていました。これは動機が純粋だったということです。私たちは神様に仕えているとはいいながら、自分のためにしているかもしれません。ピリピ1章には「人々の中にはねたみや争いをもってキリストを宣べ伝える者もいる」(ピリピ1:15)と書いてあります。やっていることはすばらしいことかもしれません。でも、その動機は純粋でしょうか?動機は、内側に隠されて見えません。ことばや行いは正しくても、動機が汚れているということはありえます。政治家がそうじゃないでしょうか。ある人が、ナルドの香油を買ったそうです。でも、この香油はあまり良くなかった。なぜなら、純粋ではなく、混ざりものが入っていたからです。私たちの奉仕やささげ物は、香りでわかるんです。動機が純粋であれば、いつまでもキリストの香りがします。でも、混ざりものがあれば、香りではなく、臭みになります。「私がやったんだ」とか「私がいなければできなかったんだ」とか、肉が出てくることがあります。それではせっかくの奉仕やささげ物が台無しです。お金や賜物、能力のある人ほど要注意です。詩篇にすばらしいみことばがあります。詩篇139:23,24「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。」ここに「傷ついた道」とあります。心の傷や怒りが動機になる場合もあるということです。ベン・ウォン先生がおっしゃっていました。「人を指差して責めると、一本は相手、もう1本は神様、そしてあとの3本は自分を指す」ということです。神様を責め、自分をも責めているということです。なぜなら、神様がその人を贖い、その人を生かしているからです。そして、神様と良心と悪魔の3者が自分を責めます。「そういう、お前はどうなのか!」と、神様、良心、そして悪魔が指差すのです。私たちは神様から動機をチェックしてもらう必要があります。

この女性は純粋な香油をささげました。純粋は英語でpureです。なんかpureと言うと、こっ恥ずかしくなります。この世では、CMでpureという言葉を平気で使います。pureと言いながらも、かなりの偽装があるのではないでしょうか?では、どのようにしたら私たちは、純粋な奉仕とささげものができるのでしょうか?ローマ8:8「肉にある者は神を喜ばせることができません。けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。」とあります。第一に、私たちは肉によって、神様を喜ばせる必要はいのです。しても無駄です。自分の知恵、能力、努力は一見、良さそうでも、神様には届かないのです。神様は神様なので、私たちの助けやささげものなどは不要なのです。私たちの真心が欲しいのです。でも、私たちは贖われた罪人なので、pureなものがありません。では、どうしたら良いのか?神の御霊、聖霊がそのことをしてくださるのです。神の御霊によって、神様に仕え、神様にささげるのです。クリスチャンであるなら、もれなく聖霊が与えられています。どうぞ、肉ではなく、御霊によって歩みましょう。聖霊に導かれ、聖霊の力によってなすときに、神の前に純粋になるのです。

2.高価

14章3節の半ばから、5節までをお読みします。「ひとりの女が、純粋で、非常に高価なナルド油のはいった石膏のつぼを持って来て、そのつぼを割り、イエスの頭に注いだ。すると、何人かの者が憤慨して互いに言った。『何のために、香油をこんなにむだにしたのか。この香油なら、三百デナリ以上に売れて、貧乏な人たちに施しができたのに。』そうして、その女をきびしく責めた」。1デナリは1日分の給料ですから、300デナリは、1年分の給料に当たります。今だったら、300万円くらいの価値があるでしょう。なんと、彼女はおしげもなく全部、イエス様の頭の髪の毛から足先まで、注いだのであります。イエス様は「彼女は葬りの用意をしてくれたんだ」とおっしゃっていますが、イエス様はあと2日後に十字架にかかります。おそらく、その香りはピラトの法廷に、またヴィアドロローサに、またゴルゴタの丘にまで香り続けたことでしょう。ヨハネによる福音書には彼女の名前が書いてあり、ベタニヤのマリヤだということです。お姉さんがマルタで、弟がラザロです。ラザロは一度死にましたが、イエス様によって甦らされました。マリヤはその感謝もこめて、イエス様に高価なナルド油を全部注いだのではないかと思います。詩篇116:12「主が、ことごとく私に良くしてくださったことについて、私は主に何をお返ししようか」というみことばがあります。

 では、弟子たちはどう反応したのでしょうか?「何のために、香油をこんなにむだにしたのか。貧しい人々にほどこせばよかったのに」と憤慨し、彼女をきびしく責めたとあります。簡単な言葉で言うなら、「ああ、もったいない」と言うことです。ヨハネ福音書を見ますと、イスカリオテ・ユダが声を大にして言ったことがわかります。ヨハネ12:6「しかしこう言ったのは、彼が貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼は盗人であって、金入れを預かっていたが、その中に収められたものを、いつも盗んでいたからである。」ユダは「ああ、香油を売った金を自分のものにできたのにナー。ちっ、惜しいことをしたなー」と思ったのです。つまり、ユダ他、数人の弟子たちは、「イエス様にささげるのはもったいない」と思ったのです。みなさんも、献金するとき「ああ、もったいない」と思ったことはないでしょうか?自分のことのためには、お金を使うけれど、いざ神様のことのためにというと、ケチになる。これは人間の本性かもしれません。イエス様の弟子たちですら「むだだ」とか「もったいない」と言ったのです。

しかし、ベタニヤのマリヤは「高価な香油」をおしげもなく注ぎました。ある本には、「その香油は家宝であり、お嫁に行くときに持っていくものだ」と書いてありました。マリヤは「自分の結婚はともかく、イエス様のためにささげたい」と願ったのであります。彼女は自分の人生をイエス様にささげたのであります。弟子たちよりも、このマリヤの方がよっぽど愛があり、献身的でありました。どうでしょうか?イエス様にささげる時間よりも、テレビを見たい。聖書や信仰書を買うよりも、他の雑誌や娯楽費が大事。献金よりも、あれこれショッピングしたい。あんまり言うと、律法的でいやみになりますので、この辺でやめます。でも、私たちは神様の恵み、神様のご恩を体験しなければ、ささげる気持ちにはなりません。ベタニヤのマリヤには、死んだ弟を生かしてもらったという感謝がありました。また、マリヤとマルタの姉妹はイエス様の愛を受けた人たちであります。なぜなら、イエス様はエルサレムに上ったときは、必ず、ベタニヤの姉妹の家に立ち寄りました。マルタは一生懸命、もてなしました。そして、マリヤはイエス様の足元で、メッセージを聞いていました。だから、マリヤは「イエス様のためにできる限りのことをしたい」と思って、純粋で高価なナルド油を注いだのであります。

 私たちも神様の恵み、神様のご愛をもっと体験しましょう。そうすれば義務ではなく、喜びをもってささげることができます。いや、ささげることが喜びになります。イエス様は弟子たちの彼女に対する非難を制してこのように言われました。「この女は、自分にできることをしたのです」。さらに「世界中のどこででも、この福音が宣べ伝えられるところなら、この人のした事も語られて、この人の記念になります」と言われました。イエス様は彼女のささげものを受け入れ、評価し、それが、世界中の人たちの記念になると預言されました。ものすごい、報いであります。彼女のささげたナルドの香油は、その部屋いっぱいに広がりました。それだけではありせん。時代を超えて、聖書から良いかおりが湧き立ってきます。2000年間、聖書の読まれるところで、マリヤのしたことが、評価され、模範とされているのです。私は300デナリの元と取ったどころか、その何百、何千倍もの報いを受けたと信じます。私たちはイエス様をもっと、高価な方とすべきです。また、私たちはイエス様の御名をもっと、高めるべきであります。

3.時

 もう一度、7節と8節。「貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。それで、あなたがたがしたいときは、いつでも彼らに良いことをしてやれます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。この女は、自分にできることをしたのです。埋葬の用意にと、わたしのからだに、前もって油を塗ってくれたのです。」イエス様は、「貧しい人たちへのほどこしはどうでも良い」と言ったのではありません。「貧しい人たちへのほどこしは、これから先もできるでしょう。でも、私はもうすぐ世を去ります。この女性は、埋葬の用意にと、私のからだに、前もって油を塗ってくれたのです」とおっしゃったのです。つまり、イエス様のためにささげられる時は、今しかないということです。あと、2日すれば、イエス様は十字架につけられ、殺されてしまうからです。この大事な時を知って、イエス様に持っているものをささげたのは、マリヤしかいなかったのです。あとから、ニコデモとアリマタヤのヨセフがたくさん捧げます。彼らがささげた30キログラムの没薬とアロエは、王様の葬りに等しい量だということです。しかし、それはイエス様が死んでからでした。

 では、なぜ、ベタニヤのマリヤはその時を逃さなかったのでしょうか?それは、マリヤがいつもイエス様の足元に座って、お話を聞いていたからです。マリヤは姉のマルタよりも静かです。マルタの方がはるかに行動的です。マルタが怒って、イエス様に「マリヤが接待のお手伝いをするように言ってよ」とお願いしたことがあるくらいです。しかし、マリヤはいつも、主の足もとに座って、みことばに聞き入っていました。実はそのことの方が大事なのです。だから、他の弟子たちにはわかりませんでしたが、マリヤにだけは、「イエスさまがまもなく死なれる」ということが分っていたのです。そして、「今」という時を逃さないで、香油をイエス様に塗ってあげたのです。伝道者の書13章にすばらしいみことばあります。「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。植えるのに時があり、植えた物を引き抜くのに時がある。・・・黙っているのに時があり、話をするのに時がある。愛するのに時があり、憎むのに時がある。戦うのに時があり、和睦するのに時がある。・・・神のなさることは、すべて時にかなって美しい」。アーメン。ここに「死ぬのに時がある」と書いてあります。先週、鈴木勝美兄の葬儀がありました。昨年の11月8日に「いよいよ危ないので、お祈りに来てください」と言われ、病院にでかけました。勝美兄は一人ひとりに遺言みたいなことばを語り終えた直後でした。そして、私は聖書を朗読し、お祈りしました。一緒に「いつくしみ深き」を賛美しました。しかし、それから2ヶ月と2週間生き延びて、1月22日天に召されました。実は私は11月と12月はとても忙しかったんです。エディ・レオの集会で掛川に行ったり、コーチングで練馬教会にも出かけました。そして、12月はクリスマスです。年明けはネットワーク会議で本郷台。「いつ呼び出しが来るかなー」とハラハラしていました。そして、一段落したとき、天に召されたのです。少し、不謹慎かもしれませんが、時があるんだなーと思いましが。

 また、先週は日曜日の夕方、3名の方が教会を訪れました。私はちょうど笑点のおおぎりを見ていました。笑点の時間は申し訳ありませんが、電話も取らないし、人が来ても玄関にも出ません。しかし、5時50分、来客です。「えー?」私は呼びに来た姉妹の友人だろうと思って、終わるまで見ていました。6時におもむろに行くと、そうではありませんでした。全くの求道者で、お一人は平日に一度、立ち寄った方です。先週は息子さんと、息子さんの彼女を連れて、計3人で来られました。向こうから興味を持ってこられるなんて、本当に珍しいケースです。日本にもこういう人たちがいたのかなーと不思議に思いました。彼らは「聖書は読んでいて、神様は信じている。しかし、キリスト様のことがわからないので教えて欲しい」と言われました。私は「聞く」よりも、「教える」賜物がありますので、このときとばかり、まくしたてました。どうも分ったみたいで、「イエス様、信じるお祈りをしませんか?」と勧めると、「今ですか?」と驚きながらもOKしてくれました。また、お父さんのほうは聖霊についても興味があるようなので、「信じたら即いただけますよ」と言いました。お父さん、息子さん、そして息子さんの彼女がそれぞれ、イエス様を信じる祈りをしました。その後、私がそれぞれ、背中に手を置いて聖霊が臨むようにお祈りしました。そうしたら、みなさんが「熱い!」「熱い!」と言うんですね。私はそのとき、使徒の働きの「コルネリオ一家」のことを思い出しました。彼らはまだ洗礼を受けていないのに、聖霊を受けました。布施さんと言うのですけど、神様はこういう方々を世の終りに備えていらっしゃるんだなーと思いました。すべてには時があります。「明日、信じます」と言っても、今晩、死ぬかもしれません。パウロも言いましたが「今は恵みの時、今は救いの日です」。

 信じるには時があります。人は自分の意思や考えでは「イエスは主である」とは告白できません。Ⅰコリント12章には「聖霊によるのでなければ、だれも『イエスは主です』と言うことはできない」とあります。つまり、人は聖霊が臨んだ時はじめて、罪を悔い改め、イエス様を信じることができるのです。これは人間の努力や行いではなく、神様の恵みであります。ですから、福音を聞いたときに、「今だ、今しかない」と思ったときがチャンスなのです。ある人は生きているうち好きなことをして、死ぬ直前に信じるという人がいます。しかし、それは無理です。人は死ぬ直前になると、死を恐れ、信仰どころじゃなくなります。イエス様も「光のある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい」(ヨハネ12:36)と言われました。私は仕事柄、病院に良く行きます。年をとってボケてくると、知性が暗くなります。もう、何を言っても通じなくなります。光のある間に、光であるイエス様を信じるしかないのです。聖霊様が救いの光を当ててくださるときは、人生にそう何度もありません。ふぁーと見えるときもありますが、チャンスをなくすと、何年も何十年も先になるかもしれません。ある姉妹は高校生のときに教会に行きましたが、結婚して、子育てが終り、40年たってやっと教会に来ることができました。もう、60歳近くであります。17歳から40年間は暗かったのです。「17歳で光であるイエス様を信じて、光の子となったら、なんぼ良かったろうに」と思います。最後に伝道者の書12章をお読みして終えたいと思います。「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない。」と言う年月が近づく前に。太陽と光、月と星が暗くなり、雨の後にまた雨雲がおおう前に。」

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2008年1月20日 (日)

天地は滅びる         マルコ13:24-37

先週、説教を準備するために、本日の説教箇所を一読しました。「なんだかなー」という感じで、モチベーションが上がりませんでした。何故でしょう。それは、私たちの生活とかけ離れた話題だからです。このところを読んでも、家庭生活や仕事、人間関係に役立つわけではありません。しかし、この何度か読んでピーンときました。もし、「私たちのニーズは何か」ということに、ポイントを当てる説教だったら、決してこのようなところからは語らないでしょう。でも、私たちは連続して、聖書から学んでいます。そして、こういう箇所に出くわします。この箇所は私たちのニーズではなく、神様の私たちに対するニーズなのです。私たちは蟻んこのように、この地上で、毎日の生活に追われて生活しています。でも、神様は「目をあげて、時代を見分けよ」と私たちにチャレンジしておられます。31節「この天地は滅びます。しかし、私のことばは決して滅びることはありません」。なんと力強いことばでしょうか。イエス様は「この世がいつまでも続くと思ったら大間違いだ。この天地は滅びる。だが、私が預言したことは必ず成就する」とおっしゃっているのです。この天地の存在よりも、イエス様のことばの方が、確かで永遠であるということです。世の終り、イエス様が再び来られることを再臨と言いますが、背筋がピンとします。聖歌には再臨の歌が、たくさんあります。「夕べ雲やくる、空を見れば、主の来たりたもう、日のしのばるー。ああ、神の前に我れいそしまん。わざやむるときのー、間近き今」(聖歌622)。本当に再臨のメッセージは、厳粛な気持ちになります。きょうは、「天地は滅びる」と題して、3つのポイントで語りたいと思います。

1.見る

 再臨の第一のキーワードは「見る」であります。24-25「だが、その日には、その苦難に続いて、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。そのとき、人々は、人の子が偉大な力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです」。世の終り、イエス様が再び来られるとき、人々は偉大な力と栄光を帯びたイエス様を見ることでしょう。でも、主役が登場する前に、舞台装置が作られるべきです。どんな舞台装置でしょうか?「太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ちる」のです。つまり、自然の光が全くなくなり、暗闇になるということです。そうすると、超自然的な「光」が顕著になります。真っ暗だった空に、まばゆいばかりの光で、ひとり子なる神の栄光があふれます。かつて、弟子たちは変貌の山で、栄光に輝いたイエス様を垣間見たときと同じです。そのとき、地球は真っ暗です。カーテンが上がり、まばゆいばかりの光で、イエス様が登場します。地球の周りにきらめくイエス様の栄光を、すべての人が見ることでしょう。マタイ24:27「人の子の来るのは、稲妻が東から出て、西にひらめくように、ちょうどそのように来るのです」。闇夜に、稲妻が雷鳴を響かせ、天空の端から端まで、かけめぐってひらめき渡ります。すると、だれでも「ああ、稲妻だ」と分かります。そのように、イエス様のすさまじい来臨は、誰の目にも明らかになるのです。

 でも、そのとき2種類の人がいます。嘆く人たちと喜ぶ人たちです。黙示録1:7「見よ、彼が、雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。しかり。アーメン。」「なんてこった!イエスが本当に来るなんで!」と嘆くのです。そのとき、まだイエス様を信じていないユダヤ人たちがいるでしょう。また、反キリストと偽預言者、そして神に逆らう地上の王たちが嘆くことでしょう。イザヤ2:21主が立ち上がり、地をおののかせるとき、人々は主の恐るべき御顔を避け、ご威光の輝きを避けて、岩の割れ目、巌の裂け目にはいる」とあります。光に照らされたゴキブリのように、パーッと逃げるわけです。その後に、ハルマゲドンの戦いがあり、主とその軍勢が勝利します。黙示録19章には、「獣と獣の刻印を受けた人々、偽預言者は、硫黄の燃えている火の池に生きたまま投げ込まれた。残りの者たちも、馬に乗った方の口から出る剣によって殺され、すべての鳥が、彼らの肉を飽きるほど食べた」と書いてあります。一方、主が再び来られるのを待ち望んでいる人たちもいます。先週、大艱難が起こる前、もしくは、その後に天に引き上げられると申し上げました。彼らは反キリストによる大迫害にもめげず、命がけで信仰を守り抜いた人たちでしょう。黙示録7:9,14「その後、私は見た。見よ。あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っていた。・・・彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです」。

 26節に「見る」ということばがあります。これは世の終り、イエス・キリストが目に見えるお姿で再びやってこられる時であります。今から2000年前は、弟子たちがこの地上で、イエス様を見ることができました。これを初臨と言います。まことに残念ですが、私たちは初臨と再臨の間に生きていますので、イエス様を肉眼で見ることができません。実際、この肉眼で見えるものはわずかです。目の前にはラジオやテレビ、携帯など、さまざまな電波が飛び交っています。でも、見えないからと言って、電波が存在しないでしょうか?ここに受信する物を持ってきたら、ちゃんと見ることができます。では、イエス様を霊的に見るために、何が必要なのでしょうか?信仰という受信機です。実際に、見たことも、会ったこともないのに信じているとしたら、私たちは不思議な人種です。世の人たちは「ああ、妄想に取り付かれている気の毒な人たちだ」と言うかもしれません。でも、大丈夫です。Ⅰペテロ1:8,9にその答えがあります。「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです」。げー、肉眼で見たこともないのに、イエス様を慕っている。それは、「たましいの救いを得ているから、信仰の結果である」と書いてあります。つまり、信仰とは見て信じるものではなく、信じてから見えるものだということです。イエス様は疑い深いトマスに「見ずに信じる者は幸いです」と言われました。でも、それはむやみに信じるという意味ではなく、聖書のみことばから信じるということです。聖書はイエス・キリストのことを啓示している、神のことばだからです。私たちは自分の知性ではなく、神からの啓示によって、信じるしかないのです。世の終り、肉眼で見る前に、霊のまなこでイエス様を見ておきましょう。

2.集める

 再臨の第二のキーワードは「集める」であります。27節「そのとき、人の子は、御使いたちを送り、地の果てから天の果てまで、四方からその選びの民を集めます」。世の終り、四方から救われている人たちが集められます。もちろん、このとき死んでいた人たちは復活してから、集められるのです。Ⅰコリント15:52「終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。」聖歌634はそのことを歌っています。「世の終りのラッパ鳴り渡るとき、世はとこよの朝となり、救われし者は、四方(よも)の隅より、すべて主のもとに呼ばれん。その時、我が名も、その時、我が名も、その時、我が名もー、呼ばれなば必ずあらん」。「そのとき眠れる聖徒よみがえり、栄えの体に変わり、我らも共に携え上げられ、空にて主に会いまつらん。その時、我が名も・・・」。世の終り、ラッパつまり、角笛が吹かれ、救われている人たちが四方(よも)から集められるということです。旧約聖書にありますが、角笛は集合の合図や軍事行動の合図に用いられました。大和キリスト教会に宮田四郎先生がおられますが、彼はN饗と東京交響楽団のホルン奏者でした。「聖書のいたるところに、角笛があるのに感動し、世の終りの救いためにホルンを吹きます」と献身しました。「手弁当で行きますよ」という年賀状も来ました。世の終り、集合ラッパが鳴り渡り、選ばれた人たちが集められるのです。毎日、夕方4時半頃、チャイムが鳴り、「遊んでいる子供たちは、お家に帰りましょう」という放送が聞こえます。ままごとしていた子供たち、砂のごはん、葉っぱのお皿をそこに残し、手をぱんぱんと叩いてから、お家に帰ります。私たちの地上の生活は、影のようなものです。やがて来る御国の方が、本体であり永遠に続くのです。

 マタイによる福音書には、世の終りの「選び」のことがもっと詳しく書かれています。マタイ13章には「毒麦のたとえ」があります。13:30「収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい、と言いましょう」。世の終りに、毒麦は火で焼かれ、麦は倉に納められるということです。毒麦は反キリストとキリストを信じていない人たちです。救われた人たちは、麦のように天の御倉に入ります。また、マタイ25章には「羊と山羊のたとえ」があります。25:31-33「人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、羊を自分の右に、山羊を左に置きます。」山羊とは実を結ばない、名ばかりのクリスチャンです。そして、羊とは実際に救い実のが現れている人たちです。世の終りには、永遠の救いか永遠の滅びか、どちらかに選別されます。聖書の神様を信じていない人たちは、「馬鹿にすんなー!そんなこと信じるもんか!」とわめき散らすでしょう。もし私が、クリスチャンでなかったなら、こんな教えを聞くと、はらわたが煮えくり返ってどなり散らすかもしれません。「本当に私のようなものが…、本当に憐れみによって救われて、本当に良かったなー」と胸をなでおろす者のひとりです。よく、「本当に」「本当に」を証しの中に連発する人がいます。「本当に」はヘブル語で「アーメン」なんです。何と言いましょうか、こういう「選びと裁き」の箇所を見るたびごとに、「ああ、本当に良かった」と思います。多少の失敗とか、うまくいかなかったこと、あるいは悩みごとあっても、どうでもよくなります。8歳の息子は、漫画を見ているせいでしょうか?やたら難しい英語を使います。「なんとかエクスプロージョン!」、「アルティメイトなんとか!」と叫びます。「爆発」とか「究極」が大好きなようです。まさしく、世の終りとは、究極的な出来事です。クリスチャンは、究極を生きている者たちです。

久保有政という先生が『終末時代に起こること』という本を出しています。あるページにこうかいてありました。「それは『神につくか』が問われる時。ですから、終末の時は、神の側につくか、それともこの世の欲と罪のもとにとどまるかということが、最も問われる時となるでしょう。聖書は『世と世の欲とは過ぎ去る。しかし、神の御旨を行う者は、永遠にながらえる』(Ⅰヨハネ1:17)と述べています。神につくか、世につくかということは、私たちの生き方に対する、神の最終的な問いです。そして私たちがどちらかを選ぶかによって、私たちは永遠のいのち、あるいは滅亡のどちらかを選んでいるのです。世界の終末の時、すなわち神が世界に最終的に介入される時は、そう遠くはありません。おそらく間近でしょう。信仰をまだ明確に持っていない人は、一刻も早く明確にしなければなりません。やがて地の果てから果てまでのすべての人が、神の御前に立つ時が来ます。私たちは、神に立ち帰らねばなりません。そして、私たちが、神に立ち帰り、神に受け入れられるよう、道を開いてくださった方が、私たちの救い主イエス・キリストなのです」。実は、きょう洗礼式があります。きょう受ける兄弟は、11月末に来られ、先週、決断した人です。また、来月末にも洗礼式があります。その姉妹は、12月末に来られ、1月に決断しました。「何か早すぎて大丈夫ですか?」と役員さんから、クレームが付きそうです。でも、紹介した本には、「世の終りが間近なので、信仰をまだ明確に持っていない人は、一刻も早く明確にしなければなりません」と書いてありました。このお二人は、いつ世の終りが来ても大丈夫な人たちです。アーメン。イザヤ書にすばらしいみことばがあります。イザヤ55:6「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。」アーメン。

3.知らない

 再臨の第三のキーワードは「知らない」であります。13:32-33「ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。気をつけなさい。目をさまし、注意していなさい。その定めの時がいつだか、あなたがたは知らないからです。」イエス様は神様ですから、知ろうと思えば知ることができました。しかし、世の終りがいつくるかは、あえて知らない。御父におまかせしているということです。しかし、ここに多少のヒントも隠されています。13:28「いちじくの木から、たとえを学びなさい。枝が柔らかになって、葉が出て来ると、夏の近いことがわかります。そのように、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。」このところの解釈は、賛否両論がありますので、断言はできませんが、イスラエルの建国に関係があるようです。イチジクは、イスラエルを象徴する樹木です。実は紀元70年以来、世界中に散らされていたユダヤ人が、もとの場所に集まって国を再建しました。それはシオニズム運動と言いますが、1948年、パレスチナ人を追い出して、国を作ってしまいました。1900年も流浪していた民が国を再建するなんてありえないことです。もちろん、今も中東では、小競り合いが続いています。おそらく、イスラエルは、もともと所有していた国土を奪回し、エルサレムに第三神殿を建てるまでやめないでしょう。しかしやがて、異邦人の国の中に、強力な独裁者が現われ、野望を抱くようになります。彼は自分を神とし、キリスト教およびユダヤ教に対しても、激しく敵対するようになります。ともかく、イスラエルという国が再建したということは、「いちじくの葉が出ている」と解釈することも可能であります。

 しかし、これまでにおいて、様々な人が「再臨は何年だ」と予告しました。やたらに世の終りをあおる、エホバの証人(ものみの塔)があります。その創設者チャールズ・ラセッセルは1914年を選びました。なんども修正し、最後には「イエスは空中に来たんだ」とまで言いました。昭和5年頃、ホーリネス教団にリバイバルが起こりました。中田重治監督は「イエスは、まもなく来る」と予告しました。ある人たちは白い衣を着て、屋根にのぼり待っていたということです。その失敗の後、ホーリネス教団はあまり再臨のことを強調しなくなりました。ノストラダムスの大預言もはずれました。また、西暦2000年で、この世は終るだろうという説も出ました。しかし、もう2008年になってしまいました。おそらく「イエスはもう来ないんじゃないだろうか」と世の終りのことを話題にしなくなった頃だと思います。マタイ25章には「花婿を待つ、10人の乙女」のたとえがあります。その箇所を見ると、乙女たちは「花婿が来るのが遅れたので、みな、うとうとして眠り始めた」と書いてあります。ところが花婿は、夜中になって、突然やって来て、「わあ、大変だ」と乙女たちはともしびを整えました。ここで注目すべきことは、愚かな乙女も賢い乙女も、花婿が思ったより遅かったので、眠っていたということです。乙女は教会を象徴しています。世の終り、キリスト教会が「キリストなんか来ないんだ」と終末論すら話題にせず、霊的に眠りこけているときが、危ないのです。ですから私たちは、こういう箇所を飛ばさないで、「ああ、終末は忘れたことにやってくる」と思わなければなりません。

 イエス様は「すぐに来る」と言われたのにどうしたんでしょう?また、なぜ、イエス様が来られるのが思ったより遅くなるのでしょうか?Ⅱペテロ3章にその答えがあります。Ⅱペテロ38-10「しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。」神様にとっては、1000年も1日のようであります。2000年だったら、たったの2日です。私たちは自分たちの感覚でなく、神様の時間感覚で「すぐに」を捉えるべきであります。また、神様が終りの日が来るのを伸ばしておられるのは、「ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられる」からです。10年前に、世の終りが来たなら、ここにおられる半分の人たちは救われなかったでしょう。また、今晩、世の終りが来たならば、

まだキリストを信じてない、私たちの家族や友人たちが残されることになります。では、世の終りはずっとずっと遅くなるのでしょうか?そうではありません。マルコ13章の「世の終りの前兆」が成就しつつあります。世の終りが12時だとしたら、私たちは11時55分の人たちであると思ってもまず間違いありません。ですから、世の終りこそ、魂の救い、救霊に励むときであります。父なる神のみこころは「ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです」。アーメン。世の終りにおける教会の存在目的は、第一の使命は、福音宣教であると言っても過言ではありません。

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2008年1月13日 (日)

最後まで耐え忍ぶ        マルコ13:11-23

 イエス様は23節で、「気をつけていなさい。私は何もかも前もって話しました」とおっしゃられました。前もって、世の終りに苦難や迫害が起こるということ知っているなら、恐れたり、信仰を失うことがありません。ですから、きょうのメッセージは、ワクチンみたいなものです。私たちが生きている間にこういうことが起こるかどうか分かりません。でも、私たちは既に世の終りの時代に生きていますので、もしかしたら起こるかもしれません。どうぞ、聖書の話しをおとぎばなしのように聞かないでください。これは預言のことばであり、私たちも巻き込まれることがあるということです。でも、このことをあらかじめ知っておくなら、しっかりと信仰の内を歩むことができます。きょうは「最後まで耐え忍ぶ人は救われます」と題して、メッセージしたいと思います。

1.迫害の中における証し

使徒の働きを見ますと、ペテロやパウロは捕らえられ、議会に引き渡されました。そのとき、彼らは勇敢に証しをしました。私は聖書を読んで、長い間、疑問に思っていたことがありました。使徒パウロはコリントから、わざわざエルサレムに戻って、それからローマに伝道に行きました。多くの人たちは「やめなさい。エルサレムに行ったら、あなたは捕らえられますよ」と警告しました。預言者たちもそのように預言しました。しかし、パウロは「なぜ、あなたがたは私の気持ちをくじくのか」と言って、聞こうとしませんでした。案の定、パウロは捕らえられ、鎖につながれてしまいました。パウロは主にある囚人として、ローマまで行くことになります。もし、私がパウロだったら、エルサレムなどには戻らず、コリントからそのままローマに行くでしょう。私はそのことはパウロの失敗だったのではないかと思っていました。ところが、使徒23章にこう書いてあります。ある夜、主がパウロのそばに立ってこう言われました。「勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムで私のことを証ししたように、ローマでも証ししなければならない」(使徒23:11)。つまり、パウロがエルサレムで捕らえられることによって、議会に引き渡され、総督や王たちの前で証しができたのです。それは、神のみこころだったのです。もし、パウロがストレートにローマに行けば、そのようなチャンスはなかったのでしょう。きょうの箇所も、そのことが教えられています。9節に「それは彼らに対して証をするためです」とあります。また、11節に何と書かれているでしょうか?「彼らに捕えられ、引き渡されたとき、何と言おうかなどと案じるには及びません。ただ、そのとき自分に示されることを、話しなさい。話すのはあなたがたではなく、聖霊です。」アーメン。

 私たちは「証し」と聞くと、こういう会衆の前で、原稿をちらちら見ながら話すものだと考えるかもしれません。もちろん、そういう時もありますが、多くの場合、突然やって来ます。しかも、苦しみや問題のさなかで、証しをするときが多いでしょう。私たちは極限のところに立たされないと、「私なんかダメ」とか言って、話したがらないでしょう。イエス様は「あなたがたは世の光です」と言われました。ただいま、こういう礼拝では光の子がたくさん集まっているので、明るいのです。ここはもう照らす必要がないのです。また、この場所においては「私は明るくないかもしれない。私の証なんかたいしたことない」と思うかもしれません。でも、ここを出て、世の中に行くとどうでしょう。世の中には悲しいことや辛いことがたくさんあります。間違ったことも平気で行われています。そこへ光の子が行くとどうなるでしょう?周りが暗いんです。「あれー。私には光があるわ。けっこう輝いているジャン。私はやっぱり世の光だったんだわ」と気づくでしょう。しかも、私たちが一番、輝くのは、逆境に立たされたときです。「お前は、なんでキリストの神様なんか、信じているのか?」なんて、言われる時です。もちろん、コリントからローマへ直接行くように、迫害や苦難に会わない方法もあります。私たちは、自分が何者であるかを言わなければ、迫害を受けないでしょう。でも、やむにやまれず「私はクリスチャンなのでそんなことはしません」、「私はクリスチャンなのでそうします」ということが必ずあります。そのとき、多くの人の目があなたに集中するでしょう。パニック状態になって、もう何もできなくなるでしょうか?そうではありません。

11節「何と言おうかなどと案じるには及びません。ただ、そのとき自分に示されることを、話しなさい。話すのはあなたがたではなく、聖霊です。」そうです。あなたは自動的に、聖霊モードに切り替わるんです。そして、あなたの内におられる聖霊が証しをするのです。聖霊様が話させてくださるのです。ある時は、だまって耐え忍んでいるときが良いかもしれません。しかし、ある時は、勇気を出して証ししなければならないときがあります。そのときに、聖霊が何を話すか示してくださるのです。人々は「郷に入らば、郷に従え」なんて、土着の宗教や仏教を持ち出してくるかもしれません。でも、世界は神様が造られたものであり、すべての場所は神様がご支配するところであります。世界の神様に、郷なんかないのです。大丈夫です。まわりが暗ければ、暗いほど、あなたは「ああ、自分は世の光だ。けっこう明るい」と自分で気づくでしょう。教会の中で輝かなくても結構です。私たちは教会の外で、輝くべきなのです。こういう考え方は、ベン・ウォン師の影響であります。以前は、教会という建物の中ですべてのことをやろうとしていました。礼拝、祈祷会、学び会、伝道集会、コンサート、セル集会…そうしますとどうしても、内向きになります。教会に誘うことが主になり、人々のところに行こうとしなくなります。ベン・ウォン師はよく「教会が焼けてしまえば、良いんだ」というのはそのためです。ま、設備があることは良いことです。でも、迫害を恐れないで、世に出て行く。私たちこそが教会であり、教会をこの世に運んでいく存在だということです。

迫害がもっとも起こりうるのは、伝道のときでありましょう。キリストという名前を出さなければ、何もかも穏便です。人間関係にも波風立ちません。私たちは教会に連れて来て、そこでイエス様の話しを聞いてもらおうとします。そうではなく、私たちがいるところ、遣わされているところでも、イエス様の名前を言うべきであります。家内は老人ホームで看護師として働いています。でも、クリスチャンであることは話せても、信仰のことはダイレクトに話すことはできません。先週だったか、入居している人が病院に運ばれました。そのご老人は、もう先が長くないそうです。家内は病院にお見舞いに行き、そこで祈ることができたそうです。創価学会の人でしたが、祈ってあげたらとても喜んでくれたそうです。どことなしか、家内の頬が赤みがかっていました。勇気を出して、祈って来た、良かったというのが現れていました。私たちは迫害なしに、福音を伝えられたら良いなーと思います。福音を伝えたら、拒否される、恥ずかしい思いをする、人間関係が壊れる、いろんな恐れがあります。でも、多くの場合、迫害までに至ることはありません。嫌な思いを少しするくらいです。でも、中には「良く知らせてくれました」と喜ぶ人がいるんです。その確立は10人に1人か、20人に1人かもしれません。でも、いることは間違いありません。では、その情熱はどこから来るのでしょうか?それは祈りだと思います。祈ると神様からの愛が下ってきて、伝えずにいれなくなります。なぜなら、父なる神様の思い、キリストの愛が、こちらに迫ってくるからです。どうぞ、出て行きましょう。「聖霊様が本当に導いてくださった。神さまは生きて働いておられる」ということを体験しましょう。

先週の9日の夜、ベン・ウォンが当教会に来られました。昨年1年間、コーチングでベン・ウォンと何度も会いました。正直言って、「2年目はやりたくないなー、ベンとはもう会いたくない」と思っていました。なぜなら、ベンは「プログラムではなく関係が大事だ。人と個人的に会って訓練しなさい。牧師室に留まっていないで、外へ出て行って宣教しなさい」と会うたびごとに言います。だから、「ベンと会うのが嫌だなー、なんで亀有でやるのかなー、なんで水曜日の夜、話してもらうことにしたんだろう」と、後悔していました。いよいよ、夜の集会が始まりました。案の定、「私たちはもう聖書を十分に学びました。足りないのは学んだことを実行することです」と言いました。ベンは、神学校で学んだ人は、「まだ足りない、まだ足りない」という強迫観念がある。だから、あっちのセミナー、こっちのセミナー、あのコース、このコースと学ぶんだと言っていました。教会によっては、2,3年ごとに流行を追うかのように、いろんなセミナーやコースを取り入れます。その結果、何がなんだかわからなくなります。私はセルチャーチを軸にして、学んでいるつもりです。私はそんなにブレていないと信じています。でも、コーチングとかミッション(伝道)が全く欠けていることは確かです。まとめて勉強会はできても、一人ひとりをコーチするのがめんどう。外へ出て、今さら、嫌な思いをするのも…。若い頃、伝道で、十分嫌な思いをしたという自負心すらあります。ベンと会う前は、私は「まあまあ良い線、行っている」と思っていました。良い説教し、聖書を教えていれば、良いと思っていました。「でも、コーチングとミッションに欠けている。嫌だなー、やめたいなー。会いたくないなー。これは、AかBどちらかしかない。これまでの生き方を続けるか、あるいは全く別な生き方をするのか?ああーどうしよう」とメッセージ中も思っていました。でも、メッセージが終わって、ひとこと閉めなくてはなりませんでした。しょうがないから、集まっている兄姉に尋ねました。「ベンはいつも突き刺すので、私は辛い。実は、ベンに会いたくなかった。私も54歳、身についたものは変えられない。皆さんに尋ねます。これまでの私の生き方で良いと思う人は手をあげてください。」だれもいない。「では、新しく変えられた生き方をした方が良いと思う人は手をあげてください」と尋ねました。20人くらい集まっていたのでしょうか?みんな手を挙げ、中には両手を挙げている人もいました。私は牧師室にこもってテキストを作るのが好きなんですねー。でも、与えられた時間をもっと関係作りに使おう、使うべきだと決断しました。どうぞ、私のためにもお祈りください。恐れずに、嫌がらずに、おっくうがらずに人々のところに行くことができるように。アーメン。

2.荒らす憎むべきもの

3:14-16「『荒らす憎むべきもの』が、自分の立ってはならない所に立っているのを見たならば(読者はよく読み取るように。)ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。上にいる者は降りてはいけません。家から何かを取り出そうとして中にはいってはいけません。畑にいる者は着物を取りに戻ってはいけません。」13章のはじめを見ますと、「エルサレムの神殿の石がくずされるときはいつか」ということも問われています。つまり、イエス様の預言は、紀元70年のエルサレム崩壊のことと、世の終りのこととが平行(パラレル)になっています。確かに、紀元68年に、エドム人が神殿を荒らし、その後、ローマ兵がエルサレムを陥落させました。マサダでも知られているように、多くのユダヤ人は殺されるか、世界中に散らされてしまいました。しかし、この預言は、世の終りのことも預言していると考えられます。使徒パウロはⅡテサロニケ2章で「その時になると、不法の人が現れる」と書います。おそらく、「荒らす憎むべきもの」と「不法の人」は深い関係にあるのではないかと思います。「不法の人」は世界をまどわす反キリストであることは間違いありません。黙示録13章では「獣」と呼ばれています。彼は神に逆らい、自分を高く上げて神とします。さらに、彼は、宮の中に荒らす憎むべきものを立てます。そのとき、迫害がもっともひどくなり、666の刻印を額に押されていない者は売り買いできなくなります。

19-20「その日は、神が天地を創造された初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような苦難の日だからです。そして、もし主がその日数を少なくしてくださらないなら、ひとりとして救われる者はないでしょう。しかし、主は、ご自分で選んだ選びの民のために、その日数を少なくしてくださったのです。ここで問われるのは、「選民」とはだだれかと言うことです。選民とはユダヤ人なのか、それともクリスチャンかということです。私は世の終りのある時点において、クリスチャンが「携挙」、つまり天に引き上げられて、それから大艱難時代が来ると思っていました。つまり、クリスチャンはそういう苦しみに会うことはないということです。だれが苦しむのか?それはキリストを信じていない多くの人と、ユダヤ人であります。ユダヤ人は、迫害と苦しみの中で救われる。つまり、世の終りの時は、ユダヤ人が救いを受ける時であり、教会ではないと考えていました。しかし、ある神学者たちは、「そんな虫の良い話はない。私たちは艱難を経た後に天に引き上げられるのだ」と言いました。ここで、みなさんに聞くとしたら3つの立場に分かれるのではないかと思います。第一は、クリスチャンは大艱難に会うことはない。その前に、天に引上げられる。第二は、クリスチャンもユダヤ人も、大艱難を経て救われる。第三、そんなの関係ない。「世の終りのこと」などどうでも良い。自分が生きている間、平和であれば良い。多くのクリスチャンは、世の終りは自分が生きている間は起こらないと思って生きています。中には、クリスチャンでもこういう艱難を経ないで、地上に御国がやってくると信じている人もいます。第三の人たちは、再臨信仰のない人たちです。再臨信仰とは、この世はいつか終りが来る。その時、イエス様が私たちを迎えるために再びやって来られる。それは「主の日」であり、今日明日かもしれないし、10年先かもしれない。あるいは100年先かもしれないが、主は、必ずやって来られると信じることです。

 旧約聖書には「主の日」とは、さばきの日であり、恐ろしい日であると書かれています。でも、Ⅰコリント15章と、Ⅰテサロニケ4章には、主が再び来られるとき、死者はよみがえり、生きている者は栄光のうちに変えられ、天に引き上げられると書いてあります。問題は、艱難を経てなのか、その前なのかということです。私が尊敬している奥山実先生はうまいことをおっしゃっておられます。マタイ24章には「人の子(イエス様)は、ノアの日のように突然やって来る。盗人のように思いがけない時に来る」と書いてあります。マタイ24:40-44「そのとき、畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。」ここでは、ひとりは取られ、ひとりは残されるとあります。「取られる」とは天に引き上げられる、携挙されるということです。「残される」とは、この地上に残されて世の終りの艱難を経なければならないということです。奥山実先生がおっしゃるのは、二人とも信仰があるクリスチャンだということです。クリスチャンだからと言って、すべてが携挙されるわけではない。違いは何か?それは「世の終り、イエス様が来られた時、自分は携挙される」と信じているかどうかということです。これが再臨信仰です。イエス様を信じて洗礼を受けたけれど、教会の礼拝にも来ない聖書も読まないというクリスチャンもいます。また、教会の礼拝に来てはいても、自由主義(リベラル)で聖書をまともに信じていないクリスチャンもいます。そういう人たちも、この世の人たちと一緒に残されるということです。「ご苦労さん」と言って良いかどうか分かりませんが、私は奥山実先生の解釈に賛成です。もちろん、奥山先生に対してむちゃくちゃ反対する人もいます。

どうでしょうか?再臨信仰。いつイエス様が来られても大丈夫な生き方、霊的に目をさましている信仰生活です。もし、再臨信仰がなければ、私たちの信仰はあのノアの時代のような人たちのような生き方をするでしょう。洪水前の人々は、ノアが箱舟に入るその日まで、飲んだり、食べえたり、めとったり、とついだりしていました(マタイ24:38)。飲むこと、食べること自体、悪いことではありません。私たちは買い物をして、ご飯も食べます。また、めとったり、とついだりすることも悪いことではありません。結婚したければ、結婚することも良いでしょう。ただしパウロは、Ⅰコリント7章でこう言っています。「現在の危急のときには、男はそのままの状態にとどまるのがよいと思います。…たとい処女が結婚したからといって、罪を犯すのではありません。ただ、それらの人々は、その身に苦難を招くでしょう。私はあなたがたを、そのようなめに会わせたくないのです」(Ⅰコリント7:26-28)。もし、3年後に世の終りが来ると知っていたらどうでしょう。「それだったら、結婚しない」という人もおれば、「それだったら、結婚しておく」、どちらでも結構です。でも、忘れてならないことが1つあります。「主の日」は突然やって来るということです。再臨信仰を持ち、霊的に目覚めていなければ、この地上に残されるということです。『レフト・ビハンド(残されし者)』という本があります。アメリカで650万部、何ケ国で訳されミリオンセラーになっています。日本語にも訳されていますが、残された人たちの悲惨さが記されています。とにかく、この世はこのまま永遠に続くのではなく、いつか世の終りが来るということです。ノアの時は、大洪水からたった8人の人たちが箱舟で救われました。終りの時代は、教会こそがノアの箱舟です。イエス様を信じる者は、一人も滅びないで、永遠の命に入ることができるのです。私たちは再臨信仰を持つと、この世べったりの物質主義、あるいは快楽主義から解放されます。この世のものはすべてなくなります。最も大切なのは、信仰と命です。そうなると、シンプル・ライフを楽しむことができます。物がなくても大丈夫。必要な物さえあれば大丈夫という生き方です。どうぞ、シンプル・ライフ、身軽な生き方をしましょう。

 使徒パウロの手紙の結びのことばで終えたいと思います。Ⅰテサロニケ5:23,24「平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます。」アーメン。

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2008年1月 6日 (日)

世の終りの前兆         マルコ13:1-10

 聖書の十分の一は終末(世の終り)に関することです。聖書の教えには、終末がなければ理解できない、あるいは解決できないことがたくさんあります。私たちは終末の時代に生かされています。2008年になりましたが、また1年、私たちは世の終りに近づいたのであります。世の終りはこの世の人にとっては絶望的な知らせですが、私たちにとっては御国の完成の良い知らせであります。でも、御国はすんなりとは来ません。世の終りと御国の間には、苦難があるとはっきり聖書が述べています。マルコ13章全体は、紀元70年エルサレム崩壊のことと、世の終りのこととが平行的(パラレル)に預言されています。弟子たちはエルサレム神殿の崩壊について尋ねましたが、イエス様はそのことと同時に、世の終りの出来事についても預言されました。イエス様は神様ですから嘘はつきません。そして、イエス様は神様ですから、遠い先のことも明日のことのように見ることができます。さて、世の終り、イエス様が再び来られる直前、どのようなことが起こるのでしょうか。今朝は「世の終りの前兆」と題して、6つのポイントで聖書から学びたいと思います。

1.偽キリストや偽預言者の出現

昨年末のことですが、日本漢字能力検定協会が募集する「今年の漢字」一文字は「偽」と決まりました。聖書によれば、世の終わりを象徴する漢字一文字も「偽」とされます。世の終り、世界中にそして、教会内に「偽」モノがはびこるようになるということです。歴史上、数え切れない人が「私こそメシヤだ」あるいは「メシヤの生まれ変わりだ」と名乗りました。また、偽預言者たちは、聖書とは違う教え、あるいは聖書にまさる教えの方に権威を与えました。異端の特徴とは何でしょうか?第一は、キリストが人となってこの世に来たことを否定します。第二は、十字架によるキリストの贖いを否定するか、あるいは不十分なものとします。第三は、三位一体を否定し、キリストが神に作られたとか、神よりも劣る者であると主張します。第四は、聖書の解釈が自己流で、中には自分たちの独自の経典を持っていたりします。その教えに縛られて、反社会的になったり、教団の奴隷になったりします。

イエス様は13:5「人に惑わされないように気をつけなさい」と注意しておられます。日本人は聖書に馴染みがないので、簡単にだまされてしまいます。統一教会の文鮮明に日本はカモにされ、「聖書にこう書いてある」と言われて、コロっとだまされています。エホバの証人は聖書を持ち、自らもクリスチャンだと言っているので、世の人たちは見分けがつきません。異端ほど伝道に熱心だというのは皮肉的です。私たちは「自分たちこそが本物だ」と恵みの中にどっぷり浸かっています。恵み自体はすばらしいのですが、本物であるからこそ、神からの情熱がなければなりません。また、人に惑わされないためには、キリスト教会という群れに属している必要があります。ヨハネ10章にあるように、強盗や狼が羊を狙っています。囲いから出て孤立した羊は非常に危険です。私たちは大牧者なるイエス様のもとで、良い草を食べて信仰を守り、また勇敢に戦って信仰を拡大していくべき存在であります。聖書には、「まだ、囲いに属していない他の羊がいる」と書いてあります。潜在的なクリスチャンがこの世にはいっぱいいるということです。どうぞ、真理のみことばを手にとり、十字架の贖いから来る愛をもって、一人でも多くの魂を主のもとに獲得しましょう。

2.戦争や戦争のうわさ

戦史家によれば戦争が起こった回数は15,000回以上であると考えられています。そして、世の終りの戦争は、世界中が巻き込まれる大戦争です。まだ、100年たっていませんが、第一次、第二次世界大戦がありました。SF漫画や映画では、第三次世界大戦をテーマにしたものが数え切れないほどあります。世界では8つの国が核を保有しているようですが、核弾頭の数は28,000発もあるそうです。5つの国の保有している核を単純計算すると、約2千億人の死者をもたらし、地球上の人類を35回以上殺せることになるということです。ちなみに、中国の核ミサイル30基が日本をターゲットとして配備されているようです。水素爆弾の場合は、広島や長崎の原爆よりも、数千倍もの威力があるんですから、4発くらい日本に落ちたら日本はなくなります。これはわたしの考えですが、おそらく核戦争にはならないと思います。なぜなら、イザヤ書や黙示録には1000年王国、つまり自然界の回復の預言があります。もし、世界規模の核戦争が起こると、放射能で地球全体が汚染され、1000年王国の見込みがなくなるからです。それよりもテロなどのように、小規模でゲリラ的なものが増えるのではないかと思います。今もイラクは、そのような状態です。

7節に「それらは必ず起こることです。しかし、終りが来たのではありません」と書いてあります。多くの人たちは「世界が平和でありますように」と願ってはいますが、有史以来、戦争はやんだことがありません。少し前、『戦場のアリア』という映画がありました。1914年、第一次大戦下。フランス北部の村で、フランス・スコットランド連合軍と、ドイツ軍が連日砲弾を鳴り響かせていました。クリスマスだけは家族のもとへ帰りたいと兵士の誰もが願っていましたが、戦況はますます熾烈さを極めていました。やがて訪れたクリスマスの夜、ドイツ軍には10万本のクリスマス・ツリーが届けられました。一方、スコットランド軍の塹壕からはバグパイプの音が聞こえてきます。そして、奇跡は起こりました。大戦下のクリスマス・イブ、互いに敵対する者たちが、クリスマス・キャロルの歌声をきっかけに、戦闘の最前線で歩み寄り、挨拶をし、フランスのシャンパンで乾杯したという信じられないことが起こりました。フランス軍、スコットランド軍、ドイツ軍の兵士による「クリスマス休戦」という一夜限りの友好行為でした。でも、悲しいことがその後、起こりました。ドイツ軍の指揮をしていた隊長とその部隊は、危ない前線へと送り込まれました。スコットランドのチャプレンは、「恥ずかしいことだ」と戒められ、彼は司祭をやめて前線を去りました。みんな、その代償が大きかったということです。個人個人は戦争をする気持ちはないのですが、国同士がそうさせるのです。戦争は悪魔のリバイバルです。黙示録には、マルマゲドンの大戦争が必ず起こると預言されています。でも、戦争でこの世は終わりません。イザヤ2:4に「主は国々の間をさばき、多くの国々の民に、判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことは習わない」とあります主イエス・キリストによって、地上に恒久的な平和がやって来るのです。

3.民族の対立や内乱

第二次世界大戦後、国々が独立し、安定したかに見えました。しかし、世の終りのしるしとして、たくさんの民族同士の対立や小競り合いが起こっています。近年にはバルカン半島、朝鮮半島の民族の対立がありました。少し前は、ビルマやカンボジア、北インド、ネパールで内乱がありました。また、チェチェンなど黒海のあたりも独立問題でロシアと小競り合いがありました。アフリカではルワンダ、ブルンジ、ソマリヤ、ナイジェリアの民族同士の対立があり、何百万もの人たちが殺され、数え切れないほどの難民が出ました。難民がいるところには、食糧難ばかりではなく、エイズやマラリヤが猛威を振るっています。アフガンやイラクの争いは現在も続いています。テレビやニュースでご存知のとおり、パキスタンやフィリピンの政治も安定していません。確かに、国家は存在しているのですが、その内部で争いが絶えないのです。そこには人種の問題、宗教の違い、利権の争いが複雑に絡み合っています。

この間、休憩のとき、郵便局のバイト仲間に「北朝鮮の独裁制を早く取り除かないと、国民が餓死してしまうよ」と言いました。しかし、その人は「いや、中国も韓国もそれはしたくない。なぜなら、それをしたら、数えきれないほどの難民が、国境を越えて、自分たちの国に押し寄せてくるからだ」と答えました。つまり、そのまま独裁制を続けさせることによって、自分たちの国を守るということです。そのため、生かさず、殺さずの状態を維持して行くということでしょうか?独裁や内乱に対して、「国連は何もできないのか」と言いたくなりますが、どの国もとばっちりを受けたくないのです。下手に喧嘩の仲裁に入ったために、こちらがやられるということがあります。それと同じ理屈かもしれません。残念ですが、クリスチャンになったら、民族同士の争いがなくなるかと言うとそうでもありません。彼らは霊的には確かに生まれ変わるかもしれませんが、マインドというか、長い間持ち続けてきた考えが変わるためには、もう1つの変革が必要です。エペソ2章にあるように、「敵意は十字架によって葬り去られた」ということを経験しなければなりません。皆さんの中に、敵意はないでしょうか?嫁としゅうとめ、夫と妻、親と子、経営者と従業員、金持ちと貧しい人、健常者と身体に障害を持つ人…すべての敵意は人間の罪です。キリストによって神との平和を受けた者は、こんどは、敵意を十字架に付け、敵意が十字架によって葬り去られる必要があります。キリストの十字架しか、民族の対立や内乱の解決はありません。

4.地震と飢饉

 まず、飢饉からでお話ししますが、国連食糧農業機関(FAO)の1999年の報告によりますと、開発途上国で約8億人が栄養不足と飢饉で苦しんでいるそうです。また、世界銀行の「世界開発報告2001」によりますと、貧困国の子供の半数は栄養失調であるということです。度重なる内乱や自然災害、旱魃が主な原因です。地球温暖化による砂漠化も非常に問題です。日本は大丈夫だと思っているかもしれませんが、日本の食料自給率は40%で、世界で最も低い国の1つです。オーストラリアが300、アメリカが120、イギリスが71、韓国が50です。日本はどの国よりも多く食物を輸入しています。果物や魚、肉類の半分近くを輸入に頼っています。先日、テレビでやっていました。コンビニ弁当のおかずのシャケはフィンランドから、鶏肉はブラジルから、インゲンはオマーンから、レタスはカルフォルニアから船や飛行機で運ばれてきます。CO2を撒き散らしながらです。しかし、その弁当はかなりの%で売れ残り、そのまま廃棄されるそうです。国際飢餓対策機構の神田先生は、東シナ海が封鎖されて、船が来なくなったら、日本は1ヶ月もたないと言われました。

その次に地震です。マグニチュード7以上の大地震はこれまで世界で100年間に10件あるかないかでした。ところが、20世紀には100件以上発生しました。大地震の発生数は終末になればなるほど、うなぎのぼりです。日本にもいつ大地震が起こるかわかりません。東海沖地震が最も危ないようです。駿河湾から御前崎沖かけては、1854年の安政東海地震(M8.4)発生以後、実に140年以上も大地震が発生していません。また、関東の場合は、関東大震災から85年たっています。首都直下型地震がお昼頃に起きた場合、帰宅困難者が1都3件で650万人になると言われています。葛飾区は液状化現象が最も起こりやすい地域の1つです。東京湾一体は埋立地ですが、ディズニーランドは大丈夫でしょうか?今から30数年くらい前、韓国の申賢均牧師が幻を見たそうです。ある日の早天祈祷会の後、体を伸ばしてウトウトしていました。すると、目の前に高層ビルが見えました。突然、ビルに亀裂が入り、「ガラガラ、ドスーン」とものすごい地響きで崩れました。申賢均先生は、ガバット跳ね起き「主よ。これは何ごとですか」とお聞きしました。すると、主が「これは日本の東京だ。日本が悔い改めなければこのようになる」とおっしゃったそうです。申先生はそれ以来、毎年4、5回、リバイバルの火を付けるため日本に来られました。申先生は天に召されるまで、30年近くも、日本に続けて来られ「日本が偶像崇拝と淫乱の罪を悔い改めなければあのようになる」とメッセージされました。8節に、「これらのことは、産みの苦しみの初めです」とあります。ということは、さらに悪いことが起こるということです。ヨハネの黙示録には、災害によって人類の3分の1が死ぬと書いてあります。神様は経済問題や地震で日本を揺り動かして、霊的な目覚めを与えようと願っているのかもしれません。

5.宗教的迫害、背教と躓き

 マタイ24:9-10「そのとき、人々は、あなたがたを苦しい目に会わせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。また、そのときは、人々が大ぜいつまずき、互いに裏切り、憎み合います」とあります。そして、マルコ13:9にはそういう迫害こそが、あかしのチャンスとなると書かれています。リバイバルの起こるところには、迫害がつきものです。中国やインドネシアにリバイバルが起こっていますが、同時に迫害もあります。サタンが妬んで、反キリストを用いて迫害を起します。日本には迫害もありませんが、リバイバルもありません。なぜなら、日本のクリスチャンはあんまり熱心じゃないからです。熱心になると、この世が反対します。でも、迫害を受けるくらい熱心にならないと、リバイバルも進まないのです。私たちはできる限り、人と争わないで福音を証ししようとします。外堀と内堀を埋めるのに時間がかかり、結局は何も伝えられなかったということがあります。私たちは初心に帰り、熱い心を取り戻して、多少スマートさに欠けても良いからキリストを証しすべきです。使徒たちは、「御名のためにはずかしめられるに値する者とされたことを喜んだ」(使徒5:41)とあります。「迫害を受けないうちは、まだ半人前のクリスチャン」とは言いませんが、迫害を受けたら「ああ、やっと私は一人前のクリスチャンになった」と思うべきです。どうぞ、迫害を恐れないで、証しし続けましょう。

6.世界宣教の拡大

 10節、「こうして、福音がまずあらゆる民族に宣べ伝えられなければなりません」。また、マタイ24:14「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます」と書いてあります。みことばには、「すべての人が信じたら、世の終りが来る」とは書かれていません。福音が全世界に宣べ伝えられたら世の終りが来るのです。福音はイスラエルから、ヨーロッパ、南北アメリカ、そして、アジア、アフリカに渡りました。今、イスラムの西アジアが少し残っています。国際聖書協会の発表によりますと、世界中の聖書協会が2001年11月から2002年12月の14ヶ月に配布・販売した聖書(全体、または一部)は5億7千800万部に及ぶそうです。この他にも、様々な団体が聖書を配布・販売しています。また、聖書の全体、または一部は、2002年の時点で2,303の言語に翻訳されています。福音は、電波や衛星放送でも、世界各国に伝えられています。かなり前のことですが、毛沢東の近衛兵が、遠く宇宙から飛んでくる電波に乗ってくる福音を聞きました。最初は「これは悪魔の放送だ、危ない」と思っていましたが、心の飢え渇きには勝てません。夜中、毛布を頭からかぶり、こっそり聞きました。美しい賛美歌と聖書のみことばで、その人はイエス様を信じたのです。

 世の終りのしるしをいくつか取り上げました。1.偽キリストや偽預言者の出現 2.戦争や戦争のうわさ 3.民族の対立や内乱 4.地震と飢饉 5.宗教的迫害、背教と躓き。私たちは「ああ、なんという時代に生かされているんだ。ああ、世の終りに生きる私は不幸だ。これからは、命がいくつあっても足りたもんじゃない。恐ろしいことだ!」と嘆くかもしれません。しかし、すべてのことは第六番目にかかっています。それは、宣教の拡大のためにあるのです。私たちも戦争や地震、迫害に巻き込まれるかもしれません。しかし、私たちにはすでに永遠の命と天の御国があります。神様はあえて、私たちと一緒にこの地を揺るがすのです。私たちだけはそれらの災難から助かりたいと思いますが、神様のみこころは他にあります。神様は偽キリスト、戦争、内乱、地震、飢饉、迫害をとおして、人々の心が砕かれて、福音を受け入れるようになることを望んでおられるのです。戦争や災害、飢饉、迫害は嫌なことです。でも、それらのマイナスを通して、人々の心がやわらかくなり、福音の種を受け入れやすくなるのです。私たちはチャンスを逃さないで、福音の種を蒔かなければなりません。終りの時代は、最も多くの人々が救われる時でもあります。つまり、世の終りの裁きと収穫は、ほぼ同時に起こるのです。世の終りにおいて人々は、滅びと救い、永遠の死と永遠の命、どちらかを選択しなければなりません。世の終りには、中道、真ん中などないのです。

日本人は中道、真ん中がとても大好きです。でも、日本も振るわれます。キリストを信じて救われるか、信じないで滅びに行くか。神を敵とするか、神と和合するかのどちらかです。神様は日本のクリスチャンに「熱いか冷たいかであってほしい。なまぬるいのは口から吐き出そう」と言われます。これまで平和な時代では、なまぬるくてもやって行けたかもしれません。「私は天国に行けたらそれで良い。死ぬまでは好きなことをさせていただきたい」。それも許されたかもしれません。しかし、世の終りには迫害が強くなり、キリストを取るかこの世を取るか2つに1つになります。ですから、世の終りは、真の信仰が輝く良い時でもあるのです。人々が経済的に振るわれ、地震で揺り動かされているとき、こちらは「ハレルヤ、主よ。感謝します」と賛美しています。すると、その人たちは「あなたは何がすばらしいものを持っているんですか?隠し金庫でもあるのですか?シェルターでも持っているのですか」と問うでしょう。そのとき、私たちはこのときとばかり証しするのです。「私には振るわれないものがあります。それはイエス・キリストによる救いと永遠の御国です。あなたも、ぜひ、キリストを信じて救われてください」と証しすることができるのです。

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