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2007年12月30日 (日)

一番大切な戒め        マルコ12:28-34

 今年最後の聖日礼拝です。52回目になります。ひょっとしたら、52回一度も休んでいない人もおられるかもしれませんね。日曜学校では、皆勤賞とか精勤賞があるようです。でも、聖日礼拝よりも大切なことが起こったりしますので、律法でありませんから休まれても大丈夫です。でも、きょうのみことばに「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」とありますので、礼拝を守るためにベストを尽くすことは大切だと思います。もちろん、日曜日お仕事の場合もありますので、工夫して他の日を聖別してくだされば良いと思います。病気や高齢のために、来たくても来れない人がいるのですから、聖日礼拝を捧げられることは、恵みであります。浦和に三崎さんというクリスチャンのパン屋さんがおります。座間教会時代のとき、大川先生の礼拝テープを購入しておられた方です。安海先生からお聞きしましたが、三崎姉妹は今は、老人ホームからタクシーを飛ばして、聖日礼拝を守っているそうです。きょうは12月30日、この世では、くそ忙しい時ですが、私たちは主の前に静まり、みことばに耳を傾けたいと思います。おせち一品、多くするよりも、マリヤのように主の足元でみことばを聞く方が幸いです。ハレルヤ!

1.一番大切な戒め

イエス様は数ある多くの戒めをたった2つにまとめられた。それらは、神である主を愛することと、自分のように隣人を愛することです。第一の戒めは申命記6章からの引用です。29-30節、イエスは答えられた。「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』「聞け!」はヘブル語で「シェマー」ですが、この命令自体を「シェマー」と言いました。イスラエルの子供たちは、幼いときから「シェマー」を毎日、たたきこまれました。彼らは家ですわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、これを唱えたのであります。さらに、忘れないようにこの戒めを書いた紙を手に結びつけたり、記章として額の上に置きました。旧約の祭司の服は、山伏の衣装とそっくりです。はっきりしたことは言えませんが、山伏も記章のようなものを額の上に結びつけています。「神を愛せよ」は、すべての信仰者に対しての第一の戒めです。人類、すべての人に対して言いたいところですが、そうではありません。生まれつきの人は神様から離れていますので、神を敬うことも愛することも知りません。ここに「あなたの神である主を愛せよ」とあります。主というのは、王様とか主人という意味があります。罪人が神様によって贖いを受け、「あなたは私の神であり、私の主です」と告白しなければなりません。神様を愛するためには、まず神様から大いなる愛を受ける必要があります。

私たちは夜空の月のように、太陽の光を反射しているような存在です。自らの力では神を愛することができません。神様からの無限の愛をいだだいて、一生懸命、愛を反射させるのであります。月でも三日月、半月、満月、新月もあります。神様に半分しか顔を向けていない人は半分しか、反射できません。三日月はかなり、顔を背けています。何か告白していない罪があるのでしょうか?新月の人は救われているのになおも、神にさからって生きている人かもしれません。頭の後ろだと、ダメです。光があたっていてもぜんぜん輝きません。私たちは満月のように、神様にまっすぐ顔を向けて歩みたいと思います。Ⅰヨハネ1:7-9「しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」アーメン。何か罪があるならただちに神の前に告白し、神様から100%の反映をいただきましょう。

 この律法学者は「先生。そのとおりです」とイエス様のことばに同意しました。それに対して、イエス様は何と答えられたでしょう。34節「イエスは、彼が賢い返事をしたのを見て、『あなたは神の国から遠くない』と答えられました。律法学者は律法を熟知していたので、何が最も大切な戒めなのかを知っていました。それで、彼は「神の国から遠くない」と言われたのです。神の国から遠くないとは、近いということです。近いんです。でも、彼はまだ神の国には入ってはいません。律法を知っていても、たとえ律法すべてを行ったとしても、神の国には入れないのです。これが人間の限界です。神の律法を知ることも重要です。でも、もっと知らなければならないことがあります。それは、自ら愛のないことを悟り、救い主を受け入れなければならないということです。律法学者は救い主が前にいるのにもかかわらず、「先生、そのとおりです」と対等になって同意しただけでした。それではダメです。心砕かれて、主の前にぬかずき、「主よ、神を愛する愛と隣人を愛する愛をください」と願わなければならないのです。それなのに、イエス様に質問をし、イエスさまが答えたら、「先生、そのとおりです」なんて、自分を何様のように思っているんでしょうか。マタイ5:3「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです」とあるとおりです。心砕かれ、心が貧しくなった者にだけ、天の御国が与えられるのです。ですから、立派で道徳的な人が神の国に入れるわけではありません。彼らは自分の努力で、限りなく近く神の国の近くまで達することができるかもしれません。でも、入るのと近いのでは大違いであります。どうぞ、私たちは自分に神も隣人も愛する愛がないことを認め、救い主にすがりましょう。そして、救いを受け、神の国に入ったならば、神様の愛を受け、神様と隣人を愛することができるのです。神様と向き合い、神様の反映を受ければ、だれでも可能なのです。

2.神を愛せよ

 この世の宗教は、お布施とかお勤め、あるいは修行とかがあるかもしれません。もちろん、してはいけないこともあるでしょうが、その理由は祟りとか罰を受けないためであります。怖いから、あるいは身に害が及ばないために、それらの戒めに従うのであります。しかし、私たちの神様は愛なるお方であります。そして、愛なるお方が私たちにも「愛せよ」と命じます。しかし、すべての戒めの中で最も大切なものが、「神を愛せよ」というのが、この世界の宗教、どこにあるでしょうか?私はキリスト教を宗教と思っていません。愛なる神様との人格関係だと思います。なぜ、偶像礼拝をしないのか?なぜ、故意に罪を犯さないのか?それは愛なる神様を悲しませたくないからであります。もちろん、神を恐れます。神様は私たち人間とは違いますので、恐れなくてはいけません。畏敬の意味の恐れはありますが、愛というぬくもりの中で、私たちはリラックスして生きることができます。なぜなら、私たちはイエス・キリストの十字架によってすべての罪がすでに贖われているからです。たとえどんな罪を犯したとしても、永遠の滅び(地獄)に落とされることはありません。こういう神様の全き愛の中で、私たちは生かされているのです。前のポイントでも言いましたが、「愛せよ」と命令する限りは、神様は愛を私たちに注いでくださるのです。神様の愛が私たちに注がれたら、その愛で私たちは神様を愛することが可能なのです。ローマ5:5「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです」。アーメン。神の霊、聖霊様が私たちに神様の愛を注いでいてくださるのです。

 私たちのなすことすべて、神様の愛を受け、神様を愛するという動機でなされていなければなりません。では、「神を愛する」とは具体的にどういうことでしょうか。こういう礼拝も神様を愛するからです。奉仕も献げ物も神様を愛することが動機になっていなければいけません。肉でやったとしても、ダメです。ローマ8:8「肉にある者は神を喜ばせることはできません」とあります。神様は私たちが肉で、やっていることには全く興味がありません。また、そうすることを望んでもいません。神様を愛するという動機と、聖霊によって注がれる愛が源であることが期待されています。私たちは、神を愛するがゆえに、聖書を読み、祈り、礼拝ささげ、献金するのであります。それらは義務とかお勤めではありません。また、私たちが罪を犯さないのは、神が怖いからではありません。愛する神様、イエス様を悲しませたくないからであります。私たちは神を愛するがゆえに、みこころを行おうとするのです。しかし、私たちの周りにはグレーゾーンもある。グレーゾーンとは、神様は私たちに喜んで、OKとおっしゃっていないことがらであります。喫煙は絶対ダメとは聖書に書いてありません。でも、聖書には「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい」とあります。私たちの体の中には聖霊がご自分の宮として住んでいらっしゃるのです。もし、聖霊様をタバコの煙でいぶり出してしまうならどうなるでしょうか?未信者との結婚は、聖書にはふさわしくないと書いてあります。でも、「そんなことは私の自由でしょう」と言うかもしれません。でも、だれであっても、神様の愛よりも優先させてはならないのです。聖書に書かれていない、グレーゾーンは「それは神様を愛することと何の関係があるだろうか」「それは愛なる神様を悲しませることにならないだろうか」という質問で、ほとんど解決するのではないでしょうか?

 愛なる神様は私たちの思いや行動を1つ1つ細かくチェックするお方ではありません。もし、「あなたがどうしてもしたい」と言うのであれば、「まあ、それも仕方ないでしょう」と許すことでしょう。でも、それは神様ご自身がみこころを変えたのではありません。あなたがそれを選択することによって、後日、実を刈り取り、そこから自ら学ぶしかないと考えておられるからです。ルカ15章の放蕩息子の父親は、弟息子を「家から出て行ってはいけない」と縛っておいたわけではありません。弟息子は自ら痛みを経験して、自分の意思で父のもとに帰ったのです。父はそれまで、息子のために祈り、そして待っていたことでしょう。私たちは救われても、新生しても、なお頑なな者です。悲しいことに、自分の思いや願いを神様のみこころよりも、優先させてしまいます。どうぞ、選択にまよったら、神様、イエス様の御顔を仰いでみましょう。OKと喜んでおられるか?それとも、「まあ、それも仕方ないでしょう」とおっしゃっておられるだろうか?私たちはいつも、神様との愛の関係を維持することを、第一に考えるべきであります。「イスラエルよ(あなたの名前を入れる)。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』アーメン。

3.隣人を愛せよ

 2つ目の戒めは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」です。これまで、日本の牧師たちは、「隣人を愛する前に、あなた自身を愛さなければならない」と説いてきました。私もその一人で、そのためにはセルフイメージの回復、癒しが必要だといろんなことをやってきました。講師を呼んでセミナーを開いたり、解放のキャンプをしました。しかし、多くの場合、自分を愛することが目的になり、そこで終りになって、隣人を愛することまで達していなかったのではないでしょうか。これがカウンセリング、心理学の限界です。ある人たちは「自分の気持ちに正直に生きて良いんだ。良かった、感謝します」と言います。そして、「嫌いは嫌い、好きは好きと言って良いんだ」と言います。この間、車を運転しながらラジオを聴いていました。あるお店のマスターが歌を作りました。やりたくないことは「やりたくない」と言って良い。嫌いな人は無理して好きになる必要はない。その後、彼がコメントしました。「私の店には好きな人だけが集まる。嫌いな人はたとえ客であっても追い出す。嫌いな人はどんなに親切にしてくれても嫌いなものである」と言いました。それを聞いていた、もう一人の女性DJは「嫌いなものは嫌いで良いんですね。無理しなくても良いんですね。ほっとしました」と喜んで答えていました。確かに、日本人は本音を隠して、建前で生きています。本心が嫌いなので、好意を持っているかのような顔をします。でも、その顔はひきつっています。そのことに対して、「自分の気持ちに正直になれ」というのはうなずけます。自分の感情や意思を表すことに反対はしません。私なんかは、ありのまんまに生きています。通訳の津倉さんとセルの関係でよく会うことがあります。私は「日本の成長している教会の牧師っていうのは、みんな変わっているよね。北海道のごんべい先生、仙台ラブリーの藤本先生、蒲郡の石原先生もそうだし…」とかいろんな先生の名前をあげました。すると、津倉さんは「鈴木先生もかなり変わっているうちの一人だと思います」と言われました。聖職者ならば自分の感情を隠すべきなのかもせれません。しかし、私の場合は喜怒哀楽がはっきりしすぎであります。教会の姉妹に対しても、「好きだ」とか言ったりします。これは問題です。

 メッセージをもとに戻します。では、自分の気持ちに正直になって、好きな人は好き、嫌いな人は嫌いで良いのでしょうか?しかし、イエス様がおっしゃる第二の戒めは、命令であります。「あなたの隣人を愛せよ」という命令なんです。これは、自分の感情とか、自分の好み以上のものであります。神の命令ですから、選択の余地はありません。隣人を愛さないならばそれは不服従の罪を犯すことになります。自分の感情のおもむくままに生きるのが私たちのゴールではありません。抑えていた感情をあらわにし、解放されることも重要です。しかし、解放はゴールではなくプロセスです。私たちは神様から自分が愛されているように、隣人を愛するという任務を遂行するべきなのです。神様の命令なんですから、私たちは従うしかないのです。今の人たちは、命令に対して、非常に反抗的です。命令に対して、リベリオン、反抗心を持っている人は、癒しが必要です。子供のときに、父か母に対して怒ったのかもしれません。あるいは、すべての男性に対して、すべての女性に対して、すべての権威ある者に対して、反抗を誓ったのかもしれません。神様の命令は私たちを不幸にするためではなく、私たちを幸福にするためのものです。もし、あなたが自分の思いや感情のままに、これからも生きていくならば、実りがとても少ないでしょう。エレミヤ書4:3「耕地を開拓せよ。いばらの中に種を蒔くな」とあります。いばらの地にいくら種を蒔いても、収穫をすることはできません。いばらを抜き、耕地を開拓する必要があります。そのような人にでも、やはり愛が必要です。愛しか、その人を耕すことができません。神の愛、隣人の愛しか変えることができない。だけど、私たちには拒絶や反逆を乗り越えて、与えるほどの愛がありません。

 ルカ10章には、「あなたの隣人を愛せよ」という戒めの直後、サマリヤ人の物語が記されています。一人の旅人が強盗に襲われ半死の状態でした。その脇を祭司やレビ人も通りましたが、見て見ないふりです。ところが、サマリヤ人だけが、彼を介抱してあげました。ユダヤ人はサマリヤ人を嫌っていました。「エルサレムからエリコに下っていた」と書いてありますから、旅人はユダヤ人だったかもしれません。自分たちを嫌っていた人を助けるなんてできるでしょうか。祭司やレビ人は自分の仕事を優先させました。そんな人と関わるとあとあと面倒になる。それが、私たちの心です。最近はマンションの隣にだれが住んでいるか分かりません。隣の人が強盗に入られ、悲鳴を上げているのに、通報もしないということがあるようです。数ヶ月前、東京拘置所から1通の手紙が届きました。「字の大きな聖書があまっていたら、送ってください」とありました。60代の受刑者だったと思いますが、「ギデオンの聖書はあるけど、あまっている聖書なんかないなー」で終わってしまいました。サマリヤ人のように、隣人になるというのはリスクもあるし、損をするかもしれません。これは、生まれつきの人間の愛では、無理であります。嫌いな人、自分を軽蔑している人、これももちろん無理であります。でも、神様の命令は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」であります。隣人を限定したいところですが、隣人を限定すること自体が、神様の愛とかけ離れたものであります。さきほど、神様を愛するためには、神の愛をいただいて、その愛を反映することだと言いました。隣人を愛するためにも、同じように神の愛をいただいて、その愛を反映するしかありません。重要なことはイエス・キリストと出会うことです。かつての自分は、強盗であるサタンに襲われて倒れていた旅人でありました。みんなが、自分をさけて通り過ぎて行きました。もちろん、自分を助けてくれた親友もいました。それは人生の宝で幸いなことです。でも、もっともすばらしい親友であり隣人は、主イエス・キリストしかいません。イエス様が、罪と汚れに満ち、滅びに向かっていた私を抱き、引き上げ、安全な場所に移してくれたのです。自分がどんなところで、イエス様に出会ったのか。だれも助けてくれない、だれも理解してくれない、孤独のど真ん中にいたときに、イエス様が私を受け入れ、救ってくれたのです。私に何か価値があったからとか、何か良いことをしたからではありません。罪の中にいたときに、イエス様がどん底まで降りて来てくださったのです。そういう意味では、イエス様に愛の借りがあるのです。使徒パウロがローマ13章でこう言いました。「だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことについては別です。他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです」。これは「人から物やお金を借りっぱなしにしてはいけない、すぐ返せ」という戒めです。でも、1つだけ例外がある。「愛はいつも借りているなー。愛は返さなければならない」という負い目があるということです。愛は返してもこれで良いということはありません。愛はいつも借りている借金のようなものなのです。愛は一生、「返さなければならない」と思っていなければなりません。なぜなら、私たちは無尽蔵の愛を、神様から既にいただいているからです。今も、これからも、です。愛の負債を私もあなたも負っているのです。これを一生、支払い続けるしかありません。でも、神様は、そのときに必要な愛をいつでも注いでくださいます。

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2007年12月23日 (日)

イエス様は貧困であられたか   Ⅱコリント8:9

 「メリー・クリスマス!」。クリスマスおめでとうございます。今から20年前、私たち家族は座間からこちらに引っ越してきました。亀有に招かれたというか、赴任してきたわけです。その当時は、教会堂も古く、来られている方も少人数でした。クリスマスは私が飾り付けをし、出し物では、私が2歳の娘とダンスしました。また、イブ礼拝ではオー・ホーリーナイトを独唱しました。しかし、今は若い方々が増えて、教会堂の内外にデコレーションを施し、クリスマスの祝い方もパワーアップしました。唯一私がやるのは、メッセージとビンゴゲームぐらいです。また昨日は盛大なゴスペルコンサートが開かれ、もう、年中行事になっています。大変にぎやかなクリスマスを迎えられることを感謝します。きょうは、クリスマスではあまり語られないと思いますが、お金と繁栄について聖書から共に学びたいと思います。多くは、ケネス・ヘーゲン著の『クリスチャンの繁栄』を参考にしました。いわゆるパクリかもしれませんが、良いものは分かち合いたいと思います。

1.イエス様は貧困であられたか

 私たちは、お金や繁栄に対してバランスを取ることが必要です。これを道路にたとえて考えてみたいと思います。道の両側には溝があり、極端な考えの人たちはその溝にはまっています。私たちは極端にならないで、道の真ん中を進まなければなりません。では、道の片方の溝に陥っている人たちはどうでしょうか。「イエス様はとても貧しい生活をされたので、私たちも貧しくあるべきだ」「お金は悪いものだ」「繁栄とは物質的なものではなく、もっと霊的なものだ」という考えです。長い間、日本のキリスト教会は「清貧に甘んずる」という考え方が主流でした。そのため、牧師は「清貧に甘んずる」という模範を示さなければならなかったようです。大川牧師がご自分の子どもの頃を証ししておられました。当時は卵が贅沢品でした。ですから、お家で卵を食べた後は、見られないように、殻を新聞紙でくるんで捨てたそうです。また、教会員が「これ使ってださい」と使い古したものや欠けた茶碗を献品したそうです。少年であった大川先生は、「教会は偽善者の集まりだ。こんな教会、火を付けてやろうと」真剣に思ったそうです。大川先生が座間教会に赴任して15年くらいたった頃でしょうか。教会堂が入りきれなくなって、オープンしたばかりの厚木のホテルで、合同クリスマス礼拝を持つことにしました。そのとき、大川先生が「ホテルでのクリスマスですから、ちょっぴりめかしこんで来てください」とアナウンスしました。すると、古くからいた信徒数名と元牧師をなさっていた方が反対しました。「ホテルに行けない貧しい人たちもいる。だいたい、教会がクリスマスを華美に祝うのはおかしい」そのように言っていました。このような人たちは、キリスト教会は清貧に甘んじるべきだという考えなのでしょう。

 では、もう一方の極端とはどういうものでしょうか?それは、「富を獲得することが信仰の中心である」「神様の大きな関心ごとは、あなたが物質的に豊かになることである」「豊かさこそ、その人の祝福を量る真のはかりだ」という考えです。今から3,40年前、アメリカから「繁栄の神学」が入ってきました。「旧約聖書のアブラハム、イサク、ヤコブなどの族長はみんな豊かだった。私たちもアブラハムの祝福を得るべきだ」ということです。韓国の教会もその路線を走り、「牧師先生は神様の使いだから、豊かでなければならない」と言いました。牧師たちは新車や住まいが与えられ、ものすごい待遇を受けます。繁栄の神学は、「貧しさや病気や苦しみは敵である。私たちは神様に、祝福を大胆に求めるべきだ。貧しいのは信仰が足りないからだ。健康で、経済的に祝福を受けているのは、神様から愛されている証拠である」と言います。教会堂が古くてみすぼらしかったり、牧師が軽自動車に乗っていたら、神様から祝されていないということになります。だから、できるだけ大きくて立派な会堂を建てようとします。繁栄の神学は、神様の祝福を目的にします。献金をささげるのも、神様からその幾倍もの祝福を受けるためです。貧しさや病気や苦しみは悪ですから、なんとしてでもそこから脱出しなくてはなりません。しかし、これも極端です。なぜなら、祝福は目的ではなく、神様からのボーナスだからです。また、お金や物質だけが祝福のはかりになるものではありません。私たちはどちらの極端にも陥らず、道の真ん中を進むべきであります。

それでも、日本の教会は、「牧師やクリスチャンは清貧に甘んずるべきだ」という考えが多いと思います。物質的な繁栄に反対する人々が使う議論の1つは、「イエス様は地上で生活された時は貧しかったはずだ」というものです。確かに、イエス様は馬小屋にお生まれになり、飼い葉桶の中に寝かされました。また、イエス様は奉仕の期間は家を持たず、「人の子は枕するところがない」と言いました。そして十字架に死なれた後は、人から借りた墓に葬られました。イエス様が貧しかったという考えは何度も繰り返し語られ、長い間、受け継がれてきました。ですから、ほとんどの人はそのことを疑問に思うこともなく、聖書的に正しいことであるかのように理解しています。確かに、イエス様がお生まれになったとき、ヨセフとマリヤは馬小屋にかくまわなければなりませんでした。彼らはイエス様を産着でくるみ、飼い葉桶の中に寝かせました。しかし、「彼らは部屋を借りるお金が足りなかったから馬小屋に泊まった」とは、聖書に書いてありません。あの時は、カイザルの勅令で住民登録するために、ベツレヘムの小さな町に人々がごったがえしたのです。そのために、宿屋には彼らの部屋がなかったのです。このことは決して貧しさを意味してはいません。また、ヘロデ王が幼な子の命を狙っていたので、ヨセフとマリヤはただちにエジプトに逃れました。博士たちが捧げた宝物が、彼らの旅費や滞在費のために、役に立ったことは十分に考えられることであります。

 次に、イエス様の公生涯を見てみたいと思います。イエス様は、ルカ9:53で「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません」と言われました。この箇所は、「イエス様はとても貧しい生活をされたので、彼は一度もご自分の家を所有されたことがなく、地上の伝道生涯を始められてからは寝泊りする場所もなかった」という意味にしばしば解釈されています。イエス様はホームレスだったのでしょうか?聖フランチェスコのように裸足で歩き、托鉢して生活しておられたのでしょうか?しかし、福音書を見るとそうではありません。イエス様はご奉仕を開始すると同時に12人の弟子たちを召されました。3年半、イエス様とその小さな一団は、パレスチナ全土、ガリラヤ地方全体、さらにヨルダン川からユダヤの丘々、そしてエルサレムまで旅をしました。多くの人たちを同行させるにはかなりの出費がかかったはずです。食料とか衣類、旅行の出費のための資金を十分確保することが求められたはずです。そのお金はどこから来たのでしょうか?ルカ8:2,3「七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリヤ、ヘロデの執事クーザの妻ヨハンナ、スザンナ、そのほか自分の財産をもって彼らに仕えている大ぜいの女たちもいっしょであった」とあります。おそらく、イエス様にはご自分の生活の維持を助けてくれる、奉仕のパートナーがいたことでしょう。また、マルコ2:1,2「数日たって、イエスがカペナウムにまた来られると、家におられることが知れ渡った。それで多くの人が集まったため、戸口のところまですきまもないほどになった」とあります。イエス様には確かに家があったことをみことばが示しています。また、イエス様は貧しい人々に対して援助をしておられたようです。ユダが最後の晩餐の時、どこかへ行きました。ヨハネ13:29「ユダが金入れを持っていたので、イエスが彼に、『祭りのために入用の物を買え』と言われたのだとか、または、貧しい人々に何か施しをするように言われたのだとか思った者も中にはいた」とあります。ここから、定期的に貧しい人たちに施しをするという習慣があったことが想像できます。ユダは金庫番をしていました。しかし、彼はその中からいつもお金を盗んでいました。イエス様と弟子たちが十分な額を持っていたので、ユダが時々盗んでも気付かれなかったのです。

 また、イエス様ご自身は、自分のことを「貧しい人」とは呼ばれませんでした。ある時、イエス様に対して、一人の女性が一年分の給料に値する、高価な香油を注ぎました。そのとき、イエス様は少しも当惑せず、受け入れました。弟子たちは「ああ、もったいない。300デナリで売って、貧しい人々に与えられるのに」と言いました。それに対して、イエス様は「そのままにしておきなさい。マリヤはわたしの葬りの日のために、それを取っておこうとしていたのです。あなたがたは、貧しい人々とはいつもいっしょにいるが、わたしとはいつもいっしょにいるわけではないからです」(ヨハネ12:7,8)と言われました。富を所有することに不慣れな貧しい人なら、300デナリに相当するものが、自分の足にそそがれることに対し、くつろいだ態度ではいられなかったはずです。でも、イエス様はマリヤのご自分に用いた香料の価値を認めてあげました。イエス様は本来どのようなお方なのでしょうか。コロサイ1:16「なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです」。ハレルヤ!イエス様は今も昔も、世界の創造者であられます。イエス様は父なる神様とご一緒に天と地を造られました。また、黙示録にあるように、黄金と宝石のエルサレムをデザインされるお方です。詩篇24:1「地とそれに満ちているもの、世界とその中に住むものは主のものである」。このような表現が、旧約聖書には何箇所もあります。

 イエス様は地上の奉仕で、物に不足したことがあったでしょうか?ルカ22:35「それから、弟子たちに言われた。「わたしがあなたがたを、財布も旅行袋もくつも持たせずに旅に出したとき、何か足りない物がありましたか。」彼らは言った。「いいえ。何もありませんでした。」アーメン。イエス様の地上の生活での終りの時期に、弟子たちは自分たちが何かに不足したことは一度もなかったと証言しました。私たちは「弟子たちは、十分な供給を受けていたはずだ」と考えることができます。しかも、イエス様は立派な服を着ていたことが福音書から分かります。イエス様が十字架につけられた時、彼の衣は、兵士たちが自分たちの間で分け合いました。なぜなら、その上着はくじ引きにするほどまでに立派なものだったからです。ローマの兵士たちが、ぼろぼろに破れた服や、着古した服のために、くじ引きをするでしょうか。もちろん、そんなことはしないでしょう。これまで、イエス様の赤ん坊の時から、奉仕の期間、十字架に付けられるまで見てきました。これらのみことばは、イエス様が貧しい方ではなかったという証拠であると思います。でも、イエス様は浪費的あるいは、ぜいたくな生活をされたと言っているわけではありません。しかし、イエス様は地上での生涯でご自分の様々な必要が満たされたことは事実です。それゆえに、イエス様は父なる神様がご自分にお求めになったことを行うことができたのです。

 では、最初にお読みしましたⅡコリント8:9はどうなるのでしょうか?Ⅱコリント8:9「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです」。まず、考えられることは神様が人となって、この地上に降りてこられた。このこと自体がすでに貧しいことであります。ピリピ2章にありますように、イエス様は神のあり方を捨てて、ご自分を無にして、人間と同じ姿になられました。そのこと自体が貧しいのです。でも、イエス様が人間として貧しい生活をしていたかというとそうではありません。むしろイエス様がなされたことは、十字架で貧しさを担われたということです。イザヤ書53章にありますように、イエス様は私たちの病を負い、私たちの痛みを担われました。キリストは木につけられ、私たちのために、呪われたものとなってくださったのです。でも、「このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです」とガラテヤ3章に書いてあります。つまり、イエス様が十字架で死なれたのは、私たちに豊かな恵みをもたらすためだったのです。イエス様がそうされたのは、私たちが健康と義と祝福と繁栄を受けることができるためでした。ですから、父なる神様は、私たち神の子供に対して、豊かに供給してくださるのです。サンタクロースのようにクリスマスの日だけではありません。日々、生ける限り、天国に行くまでであります。ハレルヤ!

2.繁栄の目的

 前半では、イエス様が繁栄しておられたことを、たくさんの聖書箇所を引用して、述べさせていただきました。イエス様の生活様式は、浪費的でも贅沢でもありませんでした。当時はローマが強大な権力によってイスラエルの民を支配し、搾取していました。しかし、イエス様の様々な個人的必要は満たされたのです。イエス様には、父なる神様の働きをしながら、その国を自由に移動する余裕がありました。また、一緒に旅する12人の弟子たちをサポートすることもできたのです。なぜ、イエス様にはそのような比較的豊かな資力をもっておられたのでしょうか。それは、父なる神様のみこころを行うためであります。イエス様は会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、病の人たちを癒してあげました。イエス様は、自分の富を神様の働きと福音宣教のために用いたのであります。では、クリスチャンの繁栄の目的は何でしょうか?大邸宅を構え、高級車に乗り、高価な衣服をまとい、ごちそうを食べ、ぜいたくな娯楽を楽しむためでしょうか。そうではありません。私たちもイエス様がなさったことを、すべきであります。クリスチャンの繁栄の目的も、父なる神様の働きとみこころを行うためであります。神様が一番関心をもっておられるのは、失われた人が救われることです。マルコ16章でイエス様は「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさいと命じられました。私たちはこの大命令をどうやって成就させるのでしょうか?それは、十分の一の献げ物によってであります。十分の一の献げ物とは、とは、収穫物あるいは、受け取った利益分の10%のことです。大宣教命令と神様の働きは、神の民の十分の一の献げ物によって成就されるのです。

 ある人たちは、「10分の1も献げたら生活できないよ」と嘆くかもれません。しかし、それは逆です。10分の1を献げていないがゆえに、貧して不足してしまうのです。マラキ3:10-12「十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。――万軍の主は仰せられる。――わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。わたしはあなたがたのために、いなごをしかって、あなたがたの土地の産物を滅ぼさないようにし、畑のぶどうの木が不作とならないようにする。――万軍の主は仰せられる。――」このみことばから、十分の一献金することとは繁栄と結びついていることが分かります。神様は、十分の一の献げ物をする人を、神様が2つの仕方で祝福してくださいます。1つ目は作物が豊かになること。これは商売やビジネスが祝されるということでもあります。2つ目はその作物がダメになってしまわないように守ることです。主は「あなたがたのために、いなご(喰い荒らす者)を叱る」とおっしゃっています。現代的に言いますと、事故や悪者から守られるということです。

ケネス・ヘーゲン先生は、具体的に教えておられますので、少し長いですが本から引用します。あなたが十分の一献金をするなら、私はあなたに地上の物資的祝福を与えましょう。「技術者であるあなたには、私はすぐれた技能を与えましょう。私は雇用者たちがあなたに目を留めるようにしましょう。あなたが最高額の賃金を受けるようにしましょう。ストライキがあっても、あなたに悪影響を及ぼすことはありません。私はあなたと共におり、あなたに必要なものが備えられるようにします」。「ビジネスマンであるあなたを、私は繁栄させましょう。私はあなたの取引がうまくいくようにしましょう。私は購入者たちをあなたの周囲に送りましょう。私を信じないあなたの隣人が破産するようになっても、その呪いはあなたに触れることがないようにしましょう。私はあなたの支払いが期限内にできるように取り計らいましょう。私はあなたの銀行口座にたくさんのお金が入るようにしましょう。一言で言えば、私はあなたのパートナーなのですから、あなたのビジネスの様々な関心ごとについて取り計らいましょう。「知的仕事に携わっている人、すなわち自分の頭脳で生計を立てているあなたに対しては、私はあなたの思考力を明晰にしてあげましょう。私はあなたの産み出すものが人々の心を感動させるものとなるようにしましょう。私はあなたの作品が人々から求められるようにしましょう。私は、人々があなたの心と頭脳から産み出されたものを購入するようにしましょう。ただ私にあなたの十分の一を支払いなさい。そうすれば、私はあなたが面倒をみてもらえるようにしましょう。「農夫よ、私はあなたが必ず収穫の時を迎えるようにしましょう。私はあなたの穀物を祝福しましょう。私はあなたの蓄えをふやしましょう。あなたの農場では、枯れることも、かびがはえることもないにようにしましょう。覚えておきなさい。私はアブラハム、イサク、ヤコブの神なのです。私が彼らに対して行ったように、私はあなたにも行いましょう。彼らもしたように、ただ私を覚えていなさい。「私はあなたがたすべての者に健康を与えましょう。あなたの幼い子供たちが死によって奪われることはないようにしましょう。彼らが長寿を迎えるまで生きるようにしましょう。私は天の窓を開いて、あなたがたに祝福を注ぎ、それを受け入れる十分な余地がないまでにしましょう。」

献金も仕事も、仕方なく、いやいやながらするのでは祝福は与えられません。イザヤ1:19「もし喜んで行い、また聞くなら、あなたはこの国の良い物を食べることができる」(英語の直訳)と書いてあります。このところで、食べるとは物質的な繁栄と考えることができます。もし、あなたがこの国の良い物を食べていないとしたら、その理由は何でしょうか。それは、その条件を満たしていないからです。条件とは「喜んで行う」ということです。献金も仕事も、喜んで行うことが大切なのです。私は確かに十分の一献金をしました。この1年間、郵便局のアルバイトもしました。でも、私は発見しました。私は決して喜んでやっていませんでした。「ああー」とか、ため息をついてやっていましたので、条件を満たしていなかったのです。でも「もし喜んで行い、また聞くなら、あなたはこの国の良い物を食べることができる」のです。アーメン。

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2007年12月16日 (日)

イエスの意味      マタイ1:18-25

 「メリー・クリスマス」と日本中で祝っています。イエス様を知ろうと知るまいと、お祝いをしていること自体はすばらしいと思います。でも、クリスマスということばの中に、キリストという名前が入っているということを知っている人がどのくらいいるんでしょうか?世の中の人は、それでも喜び、はしゃいでいます。キリスト教会の方が「俺たちは本当の意味を知っているぞ」と言いながらも、暗いかもしれません。私たちはクリスマスの本来の意味を知っているんですから、彼らの10倍、いや100倍は、喜ぶべきであります。メガと言うことばが、マクドナルドで使われているようですが、メガは本来ギリシヤ語から来たものです。ルカ2章の「すばらしい喜び」と訳されていることばは、メガ、「大きな」であります。本日も、聖書を学びながら、神様から大きな喜びをいただきたいと思います。

1.イエスの意味

 「名は体を現わす」と言いますが、聖書の人物は不思議なほど、その人と一致しています。「アダム」という名前の意味は、「土」であり、アダムが土からできたことを表しています。ダビデを呪った「ナバル」という人物がいますが、その意味は「愚か」という意味です。だれも、「ナバル」なんて付けたくないですね。シモン・ペテロの「シモン」は葦であり、「ペテロ」は岩という意味です。彼は葦の不安定さと、岩の強固さの両面の性質を持つ人物でした。では、「イエス」とはどういう意味でしょうか?私たち日本人は、「イエス・キリスト」と言うと、イエスが名前でキリストが苗字みたい思ってしまいます。キリストは職務を表すことばであり、「油注がれた者」、つまり「メシア」という意味です。また「イエス」とは、旧約聖書のヨシュアのギリシヤ語化したものです。ヘブル語では「イェーシューア」であり、これをギリシヤ語にすると「イエースース」であります。カトリックで、イエズスと呼んでいるのはそのためです。そして、その意味は「主は救い」という意味です。イエス様のご自身の意味が、「救い」ですから、そのまんまであります。では、何から救う方なのでしょうか?主の使いがその意味を教えていますマタイ1:21「マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」御使いは、「ご自分の民をその罪から救ってくださる方」と言っています。このことばからいくつかのことが連想できます。「ご自分の民」とは、ユダヤ人だけでしょうか?そうではなくて異邦人の私たちも含まれているでしょう。でも、世界のすべての人という意味でしょうか?「あらかじめ、神様がご自分の民と選んでおいた人々」とも受け取ることができます。ジョン・カルヴァンは、救いのための選びということを強調しました。また「その罪」とは、「彼らの罪」という意味です。つまり、イエス様がこの地上に来られた目的は、人々を罪から救うためであります。

 この世では様々な問題があります。戦争、貧困、自然災害、犯罪、殺人、死、苦しみ、不条理があります。今年ももうすぐ終わろうとしていますが、そういうことに満ちていました。でも、聖書は「それらはすべて罪の結果である」と言います。つまり、罪の結果、死、病、貧困、争い、苦難、呪い、そして永遠の死がやって来たのです。この罪をなんとかしなければ、人類は根本的に救いを得ることはできないのです。また、罪の問題は政府では、どうすることもできません。政府は、法律を定めたり、経済問題を解決したり、福祉を進めればなんとかなると思っています。でも、法律をたくさん作っても、犯罪はちっとも減りません。また、教育でも、医学でも、人を罪から救うことはできません。だいたい、この世は「罪」ということ自体、受け入れようとしません。罪と言えば、それは犯罪のことであり、私は刑務所に入るほど悪くはないと言います。聖書で言う、罪は神様から離れ、神様に反逆するということです。ローマ1章にありますように、神様を神様としてあがめず、自分勝手に生きているので、様々な悪が起こってくるのであります。しかも、罪は外側に現れる前に、まず心の中で犯すものです。悪意、争い、殺意、欺き、ねたみ、高ぶり…みんな心の中から始まります。法律では心の中で起きていることを裁くことはできません。法律は、実際、起こった結果をさばくだけです。それでは、人間を変えることはできません。だから、罪は、まず心の中から始まるので、私たちの心を直さなくてはならないのです。そのため、イエス・キリストは人間の中の罪を解決するために、この世に来られたのです。では、どうしたら、罪を解決することができるのでしょうか?

 罪のそもそもの始まりは、源なる神様と人間が断絶していることです。テレビや冷蔵庫、パソコンですらも、電源とつながっていなければ、ただの箱であります。人間も、源なる神様と離れているので、霊的に死んだ状態です。霊が死んで、己の魂だけで、思うままに生きているのが、生まれつきの人間であります。源なる神様は聖く、正しく、愛であり、善なるお方です。このお方と私たちが結ばれるならば、神様からの聖さや正しさ、愛、善なるものが流れてくるのではないでしょうか?宗教はreligionと言いますが、もとになったラテン語の意味は「神と人とのきずなを結び直す」という意味です。宗教というと人間が作り出した神様に思えますが、元来はそうではありません。源なる神様と私たちが再び結ばれることであります。でも、この罪をなんとかしなければなりません。この罪がある限り、私たちは神様に背き、様々な罪を犯し、最後には永遠のさばきを受けるしかありません。しかし、クリスマスとは、私たちの罪を解決するために、神様が御子イエスをこの世に遣わした日であります。神は、人間の罪を赦すために、御子を人間として生まれさせました。そして、御子イエスに人類のすべての罪を負わせ、その罪をさばき、その罪を取り除こうとされたのです。これを「贖い」と言いますが、人間が考えたのでも、人間から神に願ったのでもありません。神様の方から、一方的になされた、救いの手立てです。人間的にはとっても愚かに見えますが、これは神の知恵でした。

 私は元来、キリスト教には無知な存在でした。私は23歳で建設会社を辞めて、小田急線の町田に住んでいました。英語事務の仕事がしたくて、町田のタイピングスクールに通っていました。ほとんどが女性で、男性は一人か二人でした。しかも、私は無職だったので、クラスの中でとても肩身の狭い思いをしていました。あるとき、町田の通りで二人の外人が声をかけてきました。イエス・キリストがどうのこうのと言うのだけが分かりました。そのとき私は、「I don’t like キリスト」と答えました。むちゃくちゃな英語でした。今、思えば、彼らはモルモン教徒じゃなかったかなーと思います。断って良かったと思うのですが、「キリストは嫌いだ」と言ったことは確かです。「イエスの反対はノー」とか言って、私は平均的な日本人ではなかったかと思います。そんなのが、高いところにたって、罪がどうのこうのと言っているんですから、大したもんです。なぜ、あんな無知と偏見の塊のような私が、クリスチャンになり、しかも牧師になったのでしょうか?それは、私と同じ立場に立って、私に伝えてくれた人がいたからです。職場の先輩はクリスチャンでした。信じるまで、1年半かかりました。それまで、先輩の個人伝道が、会社や彼のお家で、毎日のように続きました。先輩は「罪」について、私にこう教えてくれました。「罪は英語で、sinと言うんだ。Sはsouth(南)。Nは、north(北)、つまり地球のことを言うんだ。その中心にIがある。神様は宇宙の外に追いやっている状態。自己が世界の中心になっていることを罪と言うんだ」。私はなるほどーと思いました。1年半後、洗礼を受けて、その年の12月に青年会のクリスマス会に参加しました。私も青年のときがあったのです。プログラムはタイプライターで私が作りました。そして、その年に洗礼を受けた、人たちがローソクに点火しました。なんだかおごそかな感じがしました。そして、そこに集まっている人たちがみんな聖い人たちのように思えました。もう1つ記憶に残る出来事があります。クリスチャンになって、祈祷会の司会をしたことがあります。司会者の特権として、自分が好きな聖歌をリクエストできます。そのとき、聖歌402番「丘にたてる荒削りの」を選びました。3節「あけにそみし荒削りの、十字架はうるわし、赦し与え、きよくするはただ主の血あるのみ。十字架にイエスきみ、我を贖いたもう。十字架の悩みは我が罪のためなり」。全く、そのとおりだなーと思いました。祈祷会の後、オルガニストの姉妹が、私にこう言いました。「私もあの曲、大好きなんです。涙が流れて、譜面がよく見えなかったわ」。「わー、教会に来ている人たちって、本当に聖い人たちなんだなー」と思いました。

 罪が解決されて、神と和解した人たちには、平安があります。religion、イエス様は、神と人とのきずなを結び直すために来られたのです。イエス様は、ご自身の民を罪から救ってくださるお方です。人類が負っている罪の問題は、イエス・キリストしか解決できないのです。

2.インマヌエルの意味

 23節「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)インマヌエルはイザヤ7:14の引用です。クリスマスの日、神が肉体を取って、その民の中のうちに住まわれるという預言が成就しました。つまり、このことはイエス様がはじめてだったのです。もちろん、それまで神様が民の中に臨在することはありました。確かに、主は幕屋や神殿に臨在しました。でも、イエス・キリストにあって、はじめて人間の肉体の中に、神がともに住むということが実現したのです。イエス様こそ、最初に神がともにおられたお方なのです。みなさん、一番、近くにいる状態はどこでしょうか?真上、脇、側も良いですが、一番近いのは、中じゃないでしょうか?中に神様を持っているならば、落としたり、なくしたりすることはありません。お守りだって、肌身離さずというわけにはいかないでしょう。お風呂に入るとき、お守りをぶらさげて入るでしょうか?私たちの神様は「お守り」みたいな、携帯用の小さな神様ではありません。全宇宙を想像された方が、私たちの内にいてくださるのです。そのことを一番最初になさったお方が、イエス・キリストであります。ヨハネ14章で、イエス様は「わたしが父におり、父がわたしにおられる」と言われました。また、ニコデモというユダヤ人の指導者が、イエス様に対してこのように告白しました。ヨハネ3:2「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことができません。」ニコデモは、サンヒドリンの議員であり、パリサイ人の指導者でした。お金も名誉もあるすばらしい人でした。でも、たった1つ自分にないものがありました。神がともにいるということです。彼は、「イエスには神がともにおられる。だから、あのような奇跡やしるしができたのだ」と考えたのです。つまり、神がともにいるということは、普通にはありえないこと。もし、その人と神がともにおられたら、もう何もいらないくらい素晴らしいことだということです。どのくらい素晴らしいかは、後にして、どうしたら神がともにおられるのでしょうか?

 イザヤ書にはもう1箇所、インマヌエルのことを預言しているところがあります。イザヤ57:15 いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方が、こう仰せられる。「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。まず、このところに神様がどういうお方かが書かれています。神様は、聖ととなえられる方であり、高く聖なる所に住んでおられます。もともと、「聖」とは、道徳的清さではなく、「かけ離れた」という意味です。神様は私たちとはかけ離れた存在です。でも、そういういと高き方が、地上に降りて来られ、ともに住む人がいます。どんな人でしょうか?「へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かす」と書いてあります。神様は高く聖なる所にお住みになるのに、同時に、地上に降りて来て、へりくだった人とともに住まわれる。この文脈から、へり下った人とは、「自分の罪を知る人」「砕かれた人」と言うことが分かります。人は、「自分には罪があるなー」と、神の前に砕かれなければ、キリストを信じることはありえません。最初のメッセージで「罪とは自分が世界の中心にいて、神様を宇宙に除外することだ」と言いました。すべての人間は、自分が王様であって、何者にも束縛されたくありません。人は、何も持っていないようでも、自我だけは持っています。キリストは救い主であり、王です。このまんまでは、人は絶対、キリストを内に受け入れ、王座を明け渡すことはしません。何が必要でしょうか?そうです。砕かれることが必要なんです。砕かれるとは、簡単に言いますと「自分には罪があって、このままではダメだ」ということです。イザヤ自身は神様の栄光を見たとき「ああ、私はもうダメだ。私は滅びるばかりだ」と言いました。個々の罪の自覚も必要ですが、私の存在ものものが罪であって、聖なる神の前には立てないことを自覚しなければなりません。

 心理学は「あなたには価値がある。あなたはすばらしい」と言います。そして、心理学は自我に目覚めることを目標とするでしょう。私も心理学的なアプローチを説教でよくしますので、心理学を全部悪いと言っているわけではありません。でも、私たちの救いは、自我に目覚め、自分の気持ちに正直に生きることがゴールではありません。聖書が言うゴールは、自我に死に、キリストに王座を明け渡し、キリストにあって生きることです。ガラテヤ2:20にこう書いてあります。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」。アーメン。自分がますます小さくなり、キリストがますます大きくなります。そうすると、神がともにおられることを体験することができるのです。神がともにおられることを、一番邪魔しているのは、私たち自身です。悪魔や悪霊でもありません。一番問題なのは、私たち自我なんです。つまり、私たちが神様にサレンダー、降参することがへり下ることなのです。自分が小さくなり、神が大きくなる。そうなるなら、悪魔も悪霊も怖くなりなります。使徒パウロは神がともにいるということを、別の表現を用いています。パウロは、ローマ8:31で「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう」と言いました。「神様が私たちの味方なら、死も、迫害も、悪魔も、権威ある者も、どんな被造物も問題ない」と言っています。キリストを信じる前は、私たちは神様の敵でした。しかし、キリストによって和解を受けた今は、神様が私たちの味方になってくださったのです。ハレルヤ!もう、こわいものなんかありません。だから、神様がともにおられるということがすばらしいのです。

 マタイ福音書は、神がともにおられるということを1章だけではなく、18章と28章でも言っています。つまり、マタイ福音書の始めと真ん中と終りです。マタイ18:20「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」これは、一人の中にキリストがともにいるだけではなく、人と人との間にいるということです。このことは、コロサイ1:27にも書いてあります。「この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。」教会とは、まさしく、神がともにおられるところです。それは建物ではなく、キリストの名によって集まっている人々の中です。キリストにあって集まっている人々こそが教会であります。そして、最後のマタイ28:20「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」この意味は世の終り、この世が消えてなくなるまで、永遠にという意味です。神がともにいることと私たちの死とはどんな関係にあるのでしょうか?私たちが死ぬときも、神さまがともにいて、向こうまで行くときも神がともにいるということです。人が死ぬとき、どんなに愛していても、死の向こうまでともに行くことはできません。たとえ、心中したとしても、死ぬときはバラバラであります。でも、イエス様は一緒に死の川なみを渡ってくださいます。ジョン・バニヤンの『天路歴程』には、クリスチャンが死の川を渡るシーンがあります。そのとき、「希望」という人が彼を励ましてくれます。希望とは、聖霊のことであります。イエス様は聖霊によって、私たちとともにいて、死の川なみを越えさせてくださるのです。ハレルヤ!どうぞ、このクリスマス、神が人となって、私たちの中にいてくださることになったことを喜びましょう。私たちは孤独ではありません。神様がともにいらっしゃるし、神様が味方なのです。また、キリストを信じる人たちの間にも、神様がともにいらして、私たちの祈りを聞いてくださいます。世の中には、あまり希望がありません。しかし、私たちには世の終りが来ようとも、希望があります。インマヌエル、神が私たちとともにおられるからです。

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2007年12月 9日 (日)

処女降誕の理由    ルカ1:30-38

 教会の建物が、クリスマス一色という感じです。私はノータッチで、すべて兄弟姉妹たちがやっています。だから、これほどまでできるんだなーと思います。当教会は、セルチャーチであり、ほとんどの活動は、兄弟姉妹が自主的になさっています。でも、ある牧師が「信頼して任せるとの、丸投げとは違う」と言いました。私の場合は、「丸投げみたいな所があるかなー」と少し反省させられました。ベン・ウォン先生が、私たちはプログラム活動ではなく、関係作りにもっと時間をかけるべきであると言いました。私もこれからは冗談を飛ばすだけでなく、リーダーたちと個人的にコーチングの時を持つべきだと思います。コーチングの一番の基礎は、友達関係になることだと教えられました。プログラム活動を否定するわけではありませんが、共に時間を共有する時を持ちたいと思います。きょうから、クリスマスに関するメッセージを聖書からお届けしたいと思います

1.処女降誕の理由

 神の御子は人間を救うために、自ら人間イエスとなられました。これを神学的には、「受肉」と言います。それよりも、「クリスマス」と言う方が、私たちには分かりやすいでしょうか。でも、なぜ、神様が人間にならなければならないのでしょう?それは、私たち人類の身代わりになるためです。このことは、ギリシャ人にとっては、大きな躓きでした。なぜなら、彼らは「魂は善であるけれども、肉体は悪である。神様が肉体を取るなんて、そんなのありえない」と考えました。ある宣教師が、山で自給自足しながら修行しているヒンズー教の青年に伝道しました。彼もやはり「神が人になるなんて信じられない」と拒絶しました。ある時、彼が農作業をしている時、桑で蟻塚を掘り返してしまいました。蟻たちはパニックを起して、小川の方に行進しました。彼は「そっちは危ない」と、桑で止めようとしましたが、それを乗り越えて川に入って行きました。彼はそのとき「私が蟻になって、蟻のことばを話さなければダメだなー」と思いました。と、そのとき、神が人になった理由が分かったそうです。ジム・アーウィンと言えば、アポロ15号で月面に降りて、貴重な石を持ち帰った人です。その石は、月の年代を知る手がかりとなったので、創世記の岩「ジェネシス・ロック」と名付けられました。宇宙飛行士の多くは、地球に帰ってくると、人生が全く変ります。ジム・アーウィンの場合は、伝道者になりました。彼は「これまで何人もの人たちが月の上を歩いたが、歴史は変らなかった。ところが、2000年前、神が人となって、この地球を歩いた時から歴史が変った」と言ったそうです。

 でも、多くの人たちは「処女降誕」とか「聖霊によって身ごもった」と聞くと、非科学的だと言って躓きます。ある神学者たちは「それはその当時の神話の影響を受けて書かれたものだ。処女降誕は信じなくても良いから、イエスの十字架の贖いだけを信じれば救われる」とさえ、言います。しかし、私はそうは思いません。救い主の資格はアダムの子孫でありながら罪のないことでもありました。もし、一般的な受胎であるならば、アダムの原罪が転嫁されることになります。そこで、救い主は、聖霊によって処女マリヤから生まれる必要がありました。35節以降で御使いはこのように言っています。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。ご覧なさい。あなたの親類のエリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、今はもう六か月です。神にとって不可能なことは一つもありません。」つまり、これは、神の奇跡と言うことができます。聖書で言う奇跡とは、自然の法則を破壊したり、停止させるものではありません。それは、自然の法則を超えた、超自然であります。カトリック教会は「マリヤに罪はなかった」といいますが、私はそうは思いません。処女マリヤとて、罪がある存在でした。でも、聖霊の力が臨み、イエス様は罪のないお方としてこの世にお生まれになったのです。私たちは、「聖霊があなたの上に臨み」ということばから、創世記1章の世界の創造、あるいは使徒の働き1章の人間の新創造を連想することができます。クリスチャンは、自分が聖霊によって新しく生まれたという奇跡を体験していますので、処女降誕も別に不可能だとは思わないのであります。

また、旧約聖書には救い主が、女の末から生まれると何度も預言しています。一番、古いのは創世記3章です。3章15節には、「女の子孫がサタンの頭を踏み砕く」と書かれています。また、イザヤは、イエス様が地上に来られる、600年も前にこのように預言していました。イザヤ7:14

「それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける」。また、イザヤ9:6「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる」とあります。さらに、イザヤ11:1,2「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。その上に、主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である」。これでもか、これでもかと言うほど、預言者たちは御子の誕生を預言しています。つまり、イエス様がこの地上に来られることは、神のご計画であり、偶然ではなかったということです。うれしいですね。神様は人類が罪を犯した直後から、救い主をちゃんと計画していたということです。しかも、「女の末」であります。一番最初に罪を犯したのは、アダムではなく、エバでありました。アダムはエバの頭だったので、責任を負わされたのです。でも、神様はエバ、女性の汚名をすすぐかのように、あえて、「女の末」を用いたのであります。ハレルヤ!ですから、ゴマをするわけではありませんが、クリスマスは女性の回復のシーズンでもあります。

 でも、サタンは子供を生むことのできる女性を妬み様々な攻撃してきました。女性差別や蔑視、女性に対する性的暴力はその最たるものであります。少し前に、ある大臣が「女性は子供を産む機械である」と発言して大変な問題になりました。また、最近は川口で、最悪の事件が起こりました。なんとか未然に防げなかったものかと、憤りを感じます。本当に、あそこまでやるかなーと思います。本当に、女性はある意味で、サタンの攻撃の対象になっています。イエス様が処女マリヤからわざわざ生まれた。女性の力を借りたというのは深い意味があるのは確かなことです。先月の終り、エディ・レオ師ご夫妻が日本に来られました。今回は、JIGI、元日本教会成長研修所主催で招かれました。全国から120人以上もの牧師たちが、エディ先生のメッセージを聞けたわけですから、私は大変嬉しく思いました。その中で、男性と女性とが別々になって、3回程ですが集会を持ちました。私は女性の方はわかりませんが、男性も女性もそれぞれ、神様から与えられた特徴と使命があるということを教えていただきました。また、男性特有の罪や弱さ、女性特有の罪や弱さが話されました。私たちの敵であるサタンは、男女の関係を壊し、神の栄光を現わせないようにしています。しかし、神様は御子イエスがこの地上に来るとき、一人の男性と一人の女性を用いました。マタイによる福音書では、クリスマスにおいて、ヨセフのことが中心に書かれています。また、ルカによる福音書では、マリヤのことが中心に書かれています。どちらも、神の御使いが間をとりもっています。処女降誕は神の奇跡ではありますが、神様は、おとめマリヤとその婚約者のヨセフも必要だったのであります。というわけで、クリスマスは女性だけではなく、男性の回復でもあります。

2.マリヤの信仰

 マリヤは「どうしてそのようなことになりえましょう」と質問しました。少し躊躇したかもしれませんが、御使いのことばを聞いて信じました。そして、また、信じることの中には従順が含まれていることが分かります。マリヤは言いました。ルカ1:38「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」。原文では、「見よ(ご覧下さい)、私は主のはしためです」とあります。マリヤの信仰を伺い知ることができます。マリヤは両親にはもちろん、婚約者にも相談せずに従いました。当時、婚約は結婚と同じ重さがあり、その期間に他の人の子供をみごもることは姦淫罪として石打ちにされました。当時も今も、処女降誕などを信じる人は、そうはいないでしょう。それなのに、マリヤはだれとも相談せずに、短時間で決断をしています。だいたい、男性は左脳で考え、女性は右脳で考えると言われています。男性は知っていることを並べたて、それらを検討して結論を出します。一方、女性での場合は直感で、判断するところがあります。もし、マリヤがヨセフと相談したらどうなったでしょう。もし、マリヤが両親やラビたちと相談したらどうなったでしょう。また、議会や委員会にかけたらどうなったでしょう。おそらく、反対されたに違いありません。助言を聞くことや相談が悪いと言っているわけではありません。決断したり、結論を出すときには、神様との間でやるべきです。マリヤは、「どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」と言いました。これは、現代的に言いますと、みことばに信頼するということです。だれかが、「ああ言ったから」とかではありません。私たちの信仰は彼女のように、神のことばの上に、信仰を置くべきであります。

 マリヤはこの後、ただちに、親類のエリザベツのもとに行きました。御使いから、不妊のエリザベツが、しかも高齢で子供を宿したことを知ったからであります。マリヤが信じた1つの理由は、神様がエリザベツにも奇跡を行ったからであります。56節をみますと、3ヵ月ほど、エリザベツと暮したと書いてあります。体がある程度安定するまで、もしくはヨセフと距離をおくためだったかもしれません。マリヤはだれとも相談せず、一人で決断しましたが、エリザベツとだけは、3ヶ月間、共にいました。エリザベツだけが、マリヤのことを理解していたからでしょう。42節以降をお読みいたします。そして大声をあげて言った。「あなたは女の中の祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています。私の主の母が私のところに来られるとは、何ということでしょう。ほんとうに、あなたのあいさつの声が私の耳にはいったとき、私の胎内で子どもが喜んでおどりました。主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」エリザベツのことばは、むしろ預言の歌と言えます。エリザベツの胎内にいた子供は、バプテスマのヨハネですから、生まれる前から、イエス様と交流があったことになります。とにかく、マリヤとエリザベツは、神様の奇跡的な懐妊を共に喜び、ともに賛美しています。46節からマリヤが歌いますので、まるでミュージカルのようであります。二人は、まるで、詩篇133篇の記事のようであります。「見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。それは頭の上にそそがれたとうとい油のようだ。それはひげに、アロンのひげに流れてその衣のえりにまで流れしたたる。」アーメンであります。私たちは信仰を分かち合う友が必要であります。互いに愛し合うところに、神様が住んでくださり、すばらしい祝福を与えてくださいます。

当教会でも、姉妹たちが夜遅くまで、交わっています。日曜日、月曜日、金曜日、土曜日、戸締りが大変です。私なんかは「何をそんなに話すことがあるのだろうか?」と不思議に思います。でも、当人たちはそうじゃないようです。半年くらい前、香港からベン・ウォン師が来られました。そのときは、台湾からテモテさんも一緒に来られました。牧師館の1階で泊まってもらいましたが、夜中の2時頃まで話していました。話していたというよりも、笑い合っていました。何か1こと言うと、げらげらげら、また何か1こと言うと、げらげらげら。帰りに空港まで送りましたが、そのときも車の中で「話しては笑い、笑っては話す」という状態でした。ついこの間、ベン・ウォン師が練馬に来られました。私たちは8時くらいになると、もう遅いので帰ります。ベン・ウォン師は、さらに、青年たちと交わるためにマクドナルドに行きました。11時くらいまで話していたそうです。1日ご用したあとで、さらに、外に出かけるのですから、たいしたもんです。今回も話しておられましたが、関係作りのため時間をいとわない。これがコーチングのコツのようです。私たちは業績志向から解放される必要があります。日本人は、ただ話しているだけというのは、非生産的だと考えるでしょう。しかし、神の国の雰囲気というものがあります。それは、共に分かち合い、共に励まし、共に笑う。麗しい共同体の中に主が住んでくださり、みわざをなしてくださるのです。マリヤとエリザベツは3ケ月の間、楽しく共に暮していました。胎児のために、とってもよかったのではないかと思います。

 47節以降の、マリヤの歌を見ますと、誤解や犠牲をも省みず、自分が救い主を宿す者になったことを喜んでいます。普通なら、「ああ、どうしよう。石打ちにされかもしれない?私生児を産んだとも言われるかもしれない」と心配するはずです。でも、彼女はメシヤの母になることをこの上もない特権であると思いました。神様の前に、いろんな奉仕がありますが、自分の胎をメシヤのために捧げるというのは、マリヤしかできなかったことであります。46節以降をお読みいたします。マリヤは言った。「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。力ある方が、私に大きなことをしてくださいました。その御名は聖く、そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に、代々にわたって及びます。」この歌詞で、たくさんの讃美歌が作られていることでしょう。マリヤは、「どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう」と歌いましたが、これも1つの預言であります。実際、マリヤほど高められた女性も世界ではいません。ローマカトリックでは、マリヤを神様と同じ高さまで、高めてしまいました。赤ん坊を抱いたマリヤ像が最も知られています。あれだど、救い主が赤ん坊のために、マリヤの方が偉大に見えてしまいます。ほめ殺しという言葉がありますが、行き過ぎはやはり問題です。今、「マリア」という映画が上演されています。ウェブサイトを見ましたが、「あなたはまだ、本当のクリスマスを知らない」とありました。また、マリヤがヨセフに対して、believe me!と言っていました。パッションと同じように、史実に基づいて、作られた映画だと思います。

私たちはマリヤの信仰を学ぶべきであります。ヨセフもそうでありますが、小さな自分たちの幸せを守るくらいの信仰ならば、決して、救い主誕生のために献身できなかったでしょう。マリヤは、婚約解消、石打の刑、世間の誤解を恐れませんでした。また、100キロ先のベツレヘムの洞窟で子供を産みました。宿屋がなかったためです。ある先生は、親戚の人が一緒にいたはずなのにどうしてなんだろう。「マリヤは私生児を宿した」と噂され、冷たくされていたのではないだろうかと言っておりました。また、赤ん坊が誕生してまもなく、ヘロデ大王が命を狙って、追っ手を差し向けました。二人は真夜中、エジプトに逃れます。逃亡者として、何年間か暮らすわけです。救い主の母になるということは、決してロマンチックなことではありません。ですから、信仰とは継続的なものであり、一時、信じれば良いというものではありません。途中に、山坂があるんですね。私たちの場合も同じです。「神様、あなたのためにやっているのに、何故ですか?」と文句を言いたくなるでしょう。でも、様々な困難を通過することによって、私たちの信仰がますます強くなり、神様との関係も深くなるのではないでしょうか。神様はこの世における問題やサタンの攻撃すらも、信仰の成長のために用いてくださるのです。主に用いられるということは、必ずしもかっこいいものでないことかもしれません。クリスマス・ページェントではいろんな役があります。ヨセフとマリヤは主人公ですから、とても良いかもしれません。しかし、2人だけです。東の博士もおれば、らくだや、羊の役も必要です。さらには、星の役も必要です。幕の後ろから、星を動かすのですから、セリフもありません。でも、星も大切であります。私たちもこの人生において、どんな役を賜わるかわかりません。私たちの信仰がどんなものであるか神様が一番ご存知です。ふだんの生活における信仰は、とても地味なものでしょう。でも、神様からチャレンジを受けたときは、大胆に従いましょう。そのときは、人から誤解されることも恐れず、マリヤのように喜んで従いましょう。「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。力ある方が、私に大きなことをしてくださいました。その御名は聖く、そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に、代々にわたって及びます。」

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2007年12月 2日 (日)

生きている者の神     マルコ12:18-27

 前回のストーリはパリサイ人とヘロデ党員がイエス様に論議をふっかけてきました。きょうのテキストでは、サドカイ人らがイエス様のところに来て難問をふっかけてきています。サドカイ人というのは、神殿を管理している祭司集団です。彼らはとても世俗的で、復活を信じていませんでした。当時は家を絶やさないためにこのような決まりがありました。兄が死んで妻をあとに残し、しかも子どもがない場合には、その弟をその女性の妻にして、兄のための子をもうけなければならないということです。彼らはその律法を逆手にとって、「次男が三男が四男がそして七男がその女性を妻としたが子を残さずに全員死にました。最後にその女性も死にました。復活の際、彼らがよみがえるとき、その女性はだれの妻なのでしょうか?七人ともその女性を妻にしたのですが」と質問しました。聖書で7と言う数字は、完全という意味ですから、徹底的にという意味合いがあります。それにしても、残酷なたとえ話しだなーと思います。8人も殺しているんですから。では、イエス様はどのようにお答えになったのでしょうか?

1.彼らの思い違い

 24,25節 イエスは彼らに言われた。「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからではありませんか。人が死人の中からよみがえるときには、めとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようです。イエス様は彼らが2つのことで無知だから、そんな思い違いをしているのだとおっしゃいました。彼らは第一に聖書を知らない。第二には神の力も知りませんでした。この2つを知らないで神様に仕えているんですから、よっぽど俗的な人たちなんだなーと思います。しかし、正統派と言われるキリスト教会ではどうでしょうか?聖書を知っているけれども、神の力を知らないという人たちはいないでしょうか?あるいは、聖書を知らないけれど、神の力を知っているという人たちはいないでしょうか?ゴスペルで救われた人たちは、聖書を知らないけれども、神の力を体験しました。しかし、それではダメだと悟って、聖書を学んでいますね。すばらしいですね。逆に、聖書を知っている人たちは、神の力を体験しなければならないということです。このことは福音派の教会に言われていることだと思います。サドカイ人たちは聖書も神の力も知らずに、よく神様に仕えていたなーと思います。宗教が単なる職業にならないように、自分も含めて自戒したいと思います。

 サドカイ人たちは聖書のモーセ五書しか信じなかったようです。聖書の後半、預言書には復活や千年王国のことが書いてあります。彼らは聖書を知っていたかもしれませんが、聖書の半分を切り捨てていたのです。私たちの中にも「聖書をあるところは信じていても、あるところは信じないで切り捨てている」そういうところがあるかもしれません。怖いですねー。サドカイ人たちは、復活が信じられなかったので、天国をこの世の延長としか考えていなかったのです。彼らは「天国で、彼女の本当の夫はだれになるのか?7人が彼女の夫となったんですから?」と聞いたのです。しかし、イエス様は天国では「めとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようです」と言われました。みなさん、残念ですが、あちらに行ったならば夫婦関係はありません。みな、兄弟姉妹の関係です。福沢満雄先生のお父さんはものすごい酒乱でした。お父さんが病気で倒れた時、大人になった福沢先生が伝道しました。お母さんは息子の福沢先生に尋ねました。「お父さんはイエス様を信じたのかい?」。先生は喜びながら「ええ、お父さんはイエス様を信じたので、すべての罪が赦されて天国に行けるんだよ。お母さんも、イエス様を信じるだけで天国に行けるんだよ」と答えました。お母さんは、暗い顔をして「ああ、そうかい。それだったら、イエス様は信じないよ」と答えました。「どうして?」と聞くと、「天国に行ってまでも、酒乱のお父さんとは一緒に暮したくない」と答えました。それから何十年もかかり、80歳になってやっとイエス様を信じたそうです。わあー、日本人も「天国」と言うと、そのように考えているんじゃないでしょうか?

 そうではありません。復活後の世界、つまり天国では永遠の命をもっているので、子孫を残す必要はありません。天使も永遠の存在ですが、私たちも永遠の存在になるのです。だから、結婚の制度そのものがなくなります。でも、あえて結婚と言うならば、小羊の結婚です。私たちクリスチャンが花嫁として、花婿なるキリスト結婚するのです。私たちはお互いに兄弟姉妹です。地上で、夫婦であっても向こうでは兄弟姉妹です。男性諸君は、「では、あのことはないのですか?」と聞きたくなるかもしれません。んんん、私も残念ですが、どうなんでしょう?分かりません。おそらく、天国はすべてのものが満ちたりて、あまりにもすばらしいので、その必要はないのかもしれません。ギリシャ語では「プレローマ」は満たしという意味ですが、密儀教という異端が好んで用いたことばです。彼らは神秘的な体験を通して、「プレローマ」を味わおうとしました。麻薬や大麻もそういうところがあります。でも、神様が下さる「プレローマ」は地上の私たちが想像できないような満足です。もし、今晩、夜空に広がるオーロラを見たならば、「あああー」と感激して、もう、他に欲しいものはなくなるんじゃないでしょうか?ちょっと違うかもしれませんが、とにかく、神様の栄光を見たならば、もう「プレローマ」です。私たちは神のくださる「プレローマ」を求めるべきです。これを少しでも味わうなら、いろんな依存症からも解放されます。この世には、アルコール、タバコ、薬物、ポルノ、ゲーム、ギャンブル・買い物、食べ物、人間、携帯…様々な依存症があります。どうぞ、神のくださる「プレローマ」、天国の「プレローマ」を求めましょう。

 サドカイ人たちは一応、信仰はありましたが非常に世俗的でした。なぜなら、聖書も神の力も知らなかったからであります。私たちも彼らを馬鹿にすることはできません。聖書も神の力も知らないなら、どんどん世の中のものに飲み込まれて行くでしょう。お昼の番組で、小堺一機が司会する番組があります。ゲストの方に「1日何を考えていますか?」と頭の中を円グラフで書いてもらいます。ある女性のタレントさんは、「着る物、睡眠、食べること」と3つのものに支配されていました。彼女は何を着るかに一番興味があるということです。「こいつ馬鹿かなー」とテレビを消してしまいました。最近は脳内なんとかという占いに似たものもあります。頭の中で何を考えているか?私たちは頭の中をからっぽにすることはできません。空っぽにしたら、世の誘惑や恐れや欲望がどんどん入りこんで来るでしょう。ですから、その代わり、聖書と神の力に対する信仰を入れましょう。詩篇119:97「どんなにか私は、あなたのみおしえを愛していることでしょう。これが一日中、私の思いとなっています」と書いてあります。すごいですね。この人は、一日中、神様のことばを思い巡らしているんです。さらにまた、神様の力を求め、神様の力を信じるなら、どんなに幸いでしょうか?そうすれば、恐れや心配に支配されることがありません。聖書と神様の力を知ることを求めましょう。頭の中を神の国のものでいっぱいにしましょう。たまにはテレビ・ショッピングを見るかもしれませんが、衝動買いはしなくなります。たまには他の異性に目が行くかもしれませんが、自分の伴侶に目が行きます。たまには恐れや誘惑が脳裏をかすめるかもしれませんが、キリストの信仰にとどまることができます。たまには脇道にそれることがあるかもしれませんが、すぐ神様の道に戻ることができます。アーメン。聖書と神様の力を知ることを切に求めましょう。

2.生きている者の神

12章、26,27節 それに、死人がよみがえることについては、モーセの書にある柴の個所で、神がモーセにどう語られたか、あなたがたは読んだことがないのですか。『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』とあります。神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。あなたがたはたいへんな思い違いをしています。」イエス様は、預言書から復活のことを教えてもよかったのですが、あえて彼らが信じているモーセ五書から復活の根拠を述べておられます。主が「私はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であった」とはおっしゃったらどうでしょうか?祖父のアブラハムが死に、父のイサクが死に、その子のヤコブが死んだ。彼らが生きていたときだけは、神様が共におられた。それでも良いような気がしますが、そうではありません。「わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」ということは、彼らが生きているうちはもちろん、彼らが死んでからも神であるということです。いや、彼らは地上では死んだかもしれませんが、今も神と共に生きているということです。イエス様は続いて、「神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。あなたがたはたいへんな思い違いをしています」とおっしゃいました。思い違いの2つ目は、神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神だということです。残念ながら、日本の多くの宗教は、神は死んだ者の神になっています。生きているうちはどうでもよく、お葬式のときだけやっかいになります。また、死んだ人を祭ったり、死んだ人を供養しています。毎日、葉っぱやお供え、お線香、お水などをあげています。生きている私たちが何かをしたからといって、死んだ人が果たしてどうなるのでしょうか?しかし、聖書の神は「神は死んだ者の神ではなく。生きている者の神です」ハレルヤ。

パスカルと言えば、数学者で哲学者、また文学者でもあります。学校でパスカルの原理というのを学んだことがあります。注射器、ポンプ、自動車の油圧ブレーキなどもこの原理を応用しています。また、彼は真空を発見した人でもあります。パスカルは父が死んだあとまもなく、妹が結婚し、家族の絆を失いました。そのため彼は、心の真空(空洞)を満たそうと、上流社会の様々な楽しみを求めました。その後、彼は幻滅を感じ、人間のむなしさをいっそう確信しました。はかない楽しみにも、偉大な業績の名声にも、彼の求める魂は満足できませんでした。1654年11月23日の夜、パスカルは聖書を読んでいるとき回心しました。彼は夜中にこう叫んだのです。「哲学者や学者の神ではなく、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神。確信、確信。万感の思い。喜び、平安。イエス・キリストの神。あなたは私の神です。その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。イエス・キリスト」。彼はこのことを忘れないために、このことばを書いた紙を小さく折りたたんで、愛用のコートの襟の内側に縫い付けておいたそうです。彼は世俗的な性質のものを全て放棄し、聖書の示しに完全に従いました。人間的な努力は、一切捨てました。彼は馬車と馬、りっぱな家具、銀の器なども売り払い、貧しい人々に金を与えました。充実した自分の図書室も見捨て、わずかな信仰書と聖書だけを手元に置きました。自分の著作に名前を残すことは二度となく、自分の名前が賞賛されるのを聞こうとしませんでした。私はどうパスカルが回心したか良く分かりません。でも、同時は哲学や神学といえば、形而上的なもの、観念的なものでした。しかし、聖書のことばとイエス・キリストの臨在は、哲学では理解しえない、それは啓示であり実存であることがわかったのでしょう。神様はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神が今も共におられることがわかったのです

ウォッチマンニーは『アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神』という本を書いています。彼は、「人は主を信じた後、必ずアブラハム、イサク、ヤコブの経験を追い求めるべきであり、それは神の民がみな持つべき経験です」と言っています。アブラハムがその長い一生で学んだことは、神が父であることを知ることでした。アブラハムの神とは、神がすべての源であるということです。また、イサクは若い時にモリヤの山で砕かれたので、何も苦労しないで、神様からすべてのものをいただきました。イサクの神とは、神の供給、神の倉という意味です。また、ヤコブに対しては、いつもはぎ取る神様でありました。ヤコブの神とは、肉を砕き霊の人にすることです。アブラハムは神の召し、イサクの従順、ヤコブの円熟、これら三つの特別な経験があってはじめて、クリスチャンの生活と奉仕は、神の御前で価値のあるものになります。つまり、クリスチャンは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神を順番に体験する必要があるということです。私たちの中には、アブラハムの神、つまり、救いの地点で留まっている人がいるかもしれません。次のイサクの神、神様の供給を受けるために従順になるということです。神様にゆだねた生活です。そして、ヤコブの神とは、自我が砕かれて聖霊の管理を受ける人になるということです。神様は私たちの自我を砕くために、ヤコブのように様々な試練を通されます。でも、その行き先は、神の皇太子、イスラエルです。

先週は、2泊3日で、エディ・レオの集会に行ってまいりました。私は1年ぶりに先生に会うことができ、とても感激しました。私は良い機会だと思って、先生のテキストやCDRを125部も作って、参上つかまつりました。何が一番良かったかと言うと、福音派の先生方が、エディ・レオ師のメッセージに触れることができるのを見たことです。今回、また先生のメッセージはグレードアップしていました。先生は天国の福音と神の国の福音とは違うとおっしゃっておりました。つまり、天国の福音とは、イエス様を信じたら罪が赦されて、天国に行けるということです。こ生きている間はどんな生活をしていても、最終的には天国に行けるから良いという感じがします。しかし、新約聖書の福音は、天国の福音ではなく、神の国の福音です。神の国の福音とは、イエス・キリストに従うという人生です。イエス様は「すべて疲れた人、重荷を負っている人は私のところに来なさい。休ませてあげます」とおっしゃいました。でも、それだけではありません。「私のくびきを負って、私から学びなさい。そうすれば魂に安らぎが来ます。私のくびきは負いやすく、私の荷は軽いからです」と言われました。私たちに負うべきくびきがあるとおっしゃいました。くびきとは、二頭の牛が一緒に作業できるための肩にかける木製の用具です。片方は先輩牛であるイエス様が負います。もう片方は私たちクリスチャンが負います。私たちはイエス様の進まれるところならどこへでも行きます。「主イエスと共に歩きましょう。どこまでも。主イエスと共に歩きましょう。いつも」であります。つまり、イエス様に24時間、従う人生であります。ですから、私たちは救われて天国に行けるという福音に留まってはいけません。イエス様のくびきを負って従うのです。そうすれば、魂に安らぎが来ます。

「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」とは、死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。そうであるなら、かつてアブラハムが負ったくびき、イサクが負ったくびき、ヤコブが負ったくびきを私たちも負うべきです。彼らの人生において、様々な試練がありました。私たちは「くびきがない方がなんぼ楽だろう。ま、天国だけは行けるから良いや」とくびきをはずします。でも、天国の福音だけでは、実を結ぶことができません。天国に自分がかろうじて行けるだけです。しかし、神の国の福音は、実を結ぶことができます。なぜなら、イエス様の弟子として、くびきを負うて従うからです。イエス様のくびきは負いやすい、ヒズヨーク・イズ・イジーなのです。もし私たちがイエス様のくびきを負わないで自由に生きようとするなら、この世のものがあなたを縛るでしょう。この世の欲、不安と恐れ、様々な依存症があなたが追うべきくびきとなるでしょう。天国に行けるだけの信仰ではなく、この地上において、神様のご支配を求めましょう。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神は、死んだ者の神ではありません。生きている者の神だからです。エディ・レオ師が牧会している教会は、どんどんと成長しています。「それに比べ、私は…」と淋しい思いもちらっとします。でも、良いんです。たとえ、歩みがのろくても、イエス様が共に歩んでくださるからです。

昨日午後は、亀青小学校の演奏会を見に行きました。まだメッセージができていないのに、10時頃家内と出かけました。全校生徒と父兄さん方ですから体育館はいっぱいです。いよいよ、小学校2年がステージにあがりました。1組から3組ですから約100人位います。ビデオを構えならが、「ゆうごはどこにいるんだろう」と思いました。「いました、いました」一番、左端に立ちました。「ああ、うるさいから、一番端っこに置かれたんだろうな」と思いながらも、ビデオでは中心にアップで撮りました。少しあわれに思いました。でも、「たとえ端っこでも、神様は同じように、私を一番愛しているんだろうなー」と思いました。一曲目が終り、二曲目になりました。ゆうごは、ステージを降りて大太鼓の横に立ちました。私は「ああ、そうか。二曲目、大太鼓を叩くために、左端に立っていたんだなー」と分かりました。痛い腕を固定して、ビデオを撮り続けました。でも、いっこうに太鼓を叩く様子はありません。最後の最後に、演奏があり、「ドン、ドン、ドン」と叩きました。「ゆうご、偉いなー」と思いました。私は思い出しました。自分も小学校の器楽のとき、大太鼓をやっていた。「私もうるさかったなー。でも、大太鼓をやっていた」。なんだか自分を見ているようでした。なんだかジーンときて心が癒されました。今のところ、「鈴木靖尋の神、鈴木有悟の神」となっています。初代のクリスチャンはどうしても荒削りです。二代目はボーっとしたイサクのようなのでしょうか?そして、三代目は押しのけるヤコブになるのでしょうか?ハレルヤ!天国に行けることもすばらしいですが、この地上で、主が共にいてくださることを感謝します。主に従って行くなら、この地上でも豊かな実を結ぶことができます。アーメン。

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