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2007年12月23日 (日)

イエス様は貧困であられたか   Ⅱコリント8:9

 「メリー・クリスマス!」。クリスマスおめでとうございます。今から20年前、私たち家族は座間からこちらに引っ越してきました。亀有に招かれたというか、赴任してきたわけです。その当時は、教会堂も古く、来られている方も少人数でした。クリスマスは私が飾り付けをし、出し物では、私が2歳の娘とダンスしました。また、イブ礼拝ではオー・ホーリーナイトを独唱しました。しかし、今は若い方々が増えて、教会堂の内外にデコレーションを施し、クリスマスの祝い方もパワーアップしました。唯一私がやるのは、メッセージとビンゴゲームぐらいです。また昨日は盛大なゴスペルコンサートが開かれ、もう、年中行事になっています。大変にぎやかなクリスマスを迎えられることを感謝します。きょうは、クリスマスではあまり語られないと思いますが、お金と繁栄について聖書から共に学びたいと思います。多くは、ケネス・ヘーゲン著の『クリスチャンの繁栄』を参考にしました。いわゆるパクリかもしれませんが、良いものは分かち合いたいと思います。

1.イエス様は貧困であられたか

 私たちは、お金や繁栄に対してバランスを取ることが必要です。これを道路にたとえて考えてみたいと思います。道の両側には溝があり、極端な考えの人たちはその溝にはまっています。私たちは極端にならないで、道の真ん中を進まなければなりません。では、道の片方の溝に陥っている人たちはどうでしょうか。「イエス様はとても貧しい生活をされたので、私たちも貧しくあるべきだ」「お金は悪いものだ」「繁栄とは物質的なものではなく、もっと霊的なものだ」という考えです。長い間、日本のキリスト教会は「清貧に甘んずる」という考え方が主流でした。そのため、牧師は「清貧に甘んずる」という模範を示さなければならなかったようです。大川牧師がご自分の子どもの頃を証ししておられました。当時は卵が贅沢品でした。ですから、お家で卵を食べた後は、見られないように、殻を新聞紙でくるんで捨てたそうです。また、教会員が「これ使ってださい」と使い古したものや欠けた茶碗を献品したそうです。少年であった大川先生は、「教会は偽善者の集まりだ。こんな教会、火を付けてやろうと」真剣に思ったそうです。大川先生が座間教会に赴任して15年くらいたった頃でしょうか。教会堂が入りきれなくなって、オープンしたばかりの厚木のホテルで、合同クリスマス礼拝を持つことにしました。そのとき、大川先生が「ホテルでのクリスマスですから、ちょっぴりめかしこんで来てください」とアナウンスしました。すると、古くからいた信徒数名と元牧師をなさっていた方が反対しました。「ホテルに行けない貧しい人たちもいる。だいたい、教会がクリスマスを華美に祝うのはおかしい」そのように言っていました。このような人たちは、キリスト教会は清貧に甘んじるべきだという考えなのでしょう。

 では、もう一方の極端とはどういうものでしょうか?それは、「富を獲得することが信仰の中心である」「神様の大きな関心ごとは、あなたが物質的に豊かになることである」「豊かさこそ、その人の祝福を量る真のはかりだ」という考えです。今から3,40年前、アメリカから「繁栄の神学」が入ってきました。「旧約聖書のアブラハム、イサク、ヤコブなどの族長はみんな豊かだった。私たちもアブラハムの祝福を得るべきだ」ということです。韓国の教会もその路線を走り、「牧師先生は神様の使いだから、豊かでなければならない」と言いました。牧師たちは新車や住まいが与えられ、ものすごい待遇を受けます。繁栄の神学は、「貧しさや病気や苦しみは敵である。私たちは神様に、祝福を大胆に求めるべきだ。貧しいのは信仰が足りないからだ。健康で、経済的に祝福を受けているのは、神様から愛されている証拠である」と言います。教会堂が古くてみすぼらしかったり、牧師が軽自動車に乗っていたら、神様から祝されていないということになります。だから、できるだけ大きくて立派な会堂を建てようとします。繁栄の神学は、神様の祝福を目的にします。献金をささげるのも、神様からその幾倍もの祝福を受けるためです。貧しさや病気や苦しみは悪ですから、なんとしてでもそこから脱出しなくてはなりません。しかし、これも極端です。なぜなら、祝福は目的ではなく、神様からのボーナスだからです。また、お金や物質だけが祝福のはかりになるものではありません。私たちはどちらの極端にも陥らず、道の真ん中を進むべきであります。

それでも、日本の教会は、「牧師やクリスチャンは清貧に甘んずるべきだ」という考えが多いと思います。物質的な繁栄に反対する人々が使う議論の1つは、「イエス様は地上で生活された時は貧しかったはずだ」というものです。確かに、イエス様は馬小屋にお生まれになり、飼い葉桶の中に寝かされました。また、イエス様は奉仕の期間は家を持たず、「人の子は枕するところがない」と言いました。そして十字架に死なれた後は、人から借りた墓に葬られました。イエス様が貧しかったという考えは何度も繰り返し語られ、長い間、受け継がれてきました。ですから、ほとんどの人はそのことを疑問に思うこともなく、聖書的に正しいことであるかのように理解しています。確かに、イエス様がお生まれになったとき、ヨセフとマリヤは馬小屋にかくまわなければなりませんでした。彼らはイエス様を産着でくるみ、飼い葉桶の中に寝かせました。しかし、「彼らは部屋を借りるお金が足りなかったから馬小屋に泊まった」とは、聖書に書いてありません。あの時は、カイザルの勅令で住民登録するために、ベツレヘムの小さな町に人々がごったがえしたのです。そのために、宿屋には彼らの部屋がなかったのです。このことは決して貧しさを意味してはいません。また、ヘロデ王が幼な子の命を狙っていたので、ヨセフとマリヤはただちにエジプトに逃れました。博士たちが捧げた宝物が、彼らの旅費や滞在費のために、役に立ったことは十分に考えられることであります。

 次に、イエス様の公生涯を見てみたいと思います。イエス様は、ルカ9:53で「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません」と言われました。この箇所は、「イエス様はとても貧しい生活をされたので、彼は一度もご自分の家を所有されたことがなく、地上の伝道生涯を始められてからは寝泊りする場所もなかった」という意味にしばしば解釈されています。イエス様はホームレスだったのでしょうか?聖フランチェスコのように裸足で歩き、托鉢して生活しておられたのでしょうか?しかし、福音書を見るとそうではありません。イエス様はご奉仕を開始すると同時に12人の弟子たちを召されました。3年半、イエス様とその小さな一団は、パレスチナ全土、ガリラヤ地方全体、さらにヨルダン川からユダヤの丘々、そしてエルサレムまで旅をしました。多くの人たちを同行させるにはかなりの出費がかかったはずです。食料とか衣類、旅行の出費のための資金を十分確保することが求められたはずです。そのお金はどこから来たのでしょうか?ルカ8:2,3「七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリヤ、ヘロデの執事クーザの妻ヨハンナ、スザンナ、そのほか自分の財産をもって彼らに仕えている大ぜいの女たちもいっしょであった」とあります。おそらく、イエス様にはご自分の生活の維持を助けてくれる、奉仕のパートナーがいたことでしょう。また、マルコ2:1,2「数日たって、イエスがカペナウムにまた来られると、家におられることが知れ渡った。それで多くの人が集まったため、戸口のところまですきまもないほどになった」とあります。イエス様には確かに家があったことをみことばが示しています。また、イエス様は貧しい人々に対して援助をしておられたようです。ユダが最後の晩餐の時、どこかへ行きました。ヨハネ13:29「ユダが金入れを持っていたので、イエスが彼に、『祭りのために入用の物を買え』と言われたのだとか、または、貧しい人々に何か施しをするように言われたのだとか思った者も中にはいた」とあります。ここから、定期的に貧しい人たちに施しをするという習慣があったことが想像できます。ユダは金庫番をしていました。しかし、彼はその中からいつもお金を盗んでいました。イエス様と弟子たちが十分な額を持っていたので、ユダが時々盗んでも気付かれなかったのです。

 また、イエス様ご自身は、自分のことを「貧しい人」とは呼ばれませんでした。ある時、イエス様に対して、一人の女性が一年分の給料に値する、高価な香油を注ぎました。そのとき、イエス様は少しも当惑せず、受け入れました。弟子たちは「ああ、もったいない。300デナリで売って、貧しい人々に与えられるのに」と言いました。それに対して、イエス様は「そのままにしておきなさい。マリヤはわたしの葬りの日のために、それを取っておこうとしていたのです。あなたがたは、貧しい人々とはいつもいっしょにいるが、わたしとはいつもいっしょにいるわけではないからです」(ヨハネ12:7,8)と言われました。富を所有することに不慣れな貧しい人なら、300デナリに相当するものが、自分の足にそそがれることに対し、くつろいだ態度ではいられなかったはずです。でも、イエス様はマリヤのご自分に用いた香料の価値を認めてあげました。イエス様は本来どのようなお方なのでしょうか。コロサイ1:16「なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです」。ハレルヤ!イエス様は今も昔も、世界の創造者であられます。イエス様は父なる神様とご一緒に天と地を造られました。また、黙示録にあるように、黄金と宝石のエルサレムをデザインされるお方です。詩篇24:1「地とそれに満ちているもの、世界とその中に住むものは主のものである」。このような表現が、旧約聖書には何箇所もあります。

 イエス様は地上の奉仕で、物に不足したことがあったでしょうか?ルカ22:35「それから、弟子たちに言われた。「わたしがあなたがたを、財布も旅行袋もくつも持たせずに旅に出したとき、何か足りない物がありましたか。」彼らは言った。「いいえ。何もありませんでした。」アーメン。イエス様の地上の生活での終りの時期に、弟子たちは自分たちが何かに不足したことは一度もなかったと証言しました。私たちは「弟子たちは、十分な供給を受けていたはずだ」と考えることができます。しかも、イエス様は立派な服を着ていたことが福音書から分かります。イエス様が十字架につけられた時、彼の衣は、兵士たちが自分たちの間で分け合いました。なぜなら、その上着はくじ引きにするほどまでに立派なものだったからです。ローマの兵士たちが、ぼろぼろに破れた服や、着古した服のために、くじ引きをするでしょうか。もちろん、そんなことはしないでしょう。これまで、イエス様の赤ん坊の時から、奉仕の期間、十字架に付けられるまで見てきました。これらのみことばは、イエス様が貧しい方ではなかったという証拠であると思います。でも、イエス様は浪費的あるいは、ぜいたくな生活をされたと言っているわけではありません。しかし、イエス様は地上での生涯でご自分の様々な必要が満たされたことは事実です。それゆえに、イエス様は父なる神様がご自分にお求めになったことを行うことができたのです。

 では、最初にお読みしましたⅡコリント8:9はどうなるのでしょうか?Ⅱコリント8:9「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです」。まず、考えられることは神様が人となって、この地上に降りてこられた。このこと自体がすでに貧しいことであります。ピリピ2章にありますように、イエス様は神のあり方を捨てて、ご自分を無にして、人間と同じ姿になられました。そのこと自体が貧しいのです。でも、イエス様が人間として貧しい生活をしていたかというとそうではありません。むしろイエス様がなされたことは、十字架で貧しさを担われたということです。イザヤ書53章にありますように、イエス様は私たちの病を負い、私たちの痛みを担われました。キリストは木につけられ、私たちのために、呪われたものとなってくださったのです。でも、「このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです」とガラテヤ3章に書いてあります。つまり、イエス様が十字架で死なれたのは、私たちに豊かな恵みをもたらすためだったのです。イエス様がそうされたのは、私たちが健康と義と祝福と繁栄を受けることができるためでした。ですから、父なる神様は、私たち神の子供に対して、豊かに供給してくださるのです。サンタクロースのようにクリスマスの日だけではありません。日々、生ける限り、天国に行くまでであります。ハレルヤ!

2.繁栄の目的

 前半では、イエス様が繁栄しておられたことを、たくさんの聖書箇所を引用して、述べさせていただきました。イエス様の生活様式は、浪費的でも贅沢でもありませんでした。当時はローマが強大な権力によってイスラエルの民を支配し、搾取していました。しかし、イエス様の様々な個人的必要は満たされたのです。イエス様には、父なる神様の働きをしながら、その国を自由に移動する余裕がありました。また、一緒に旅する12人の弟子たちをサポートすることもできたのです。なぜ、イエス様にはそのような比較的豊かな資力をもっておられたのでしょうか。それは、父なる神様のみこころを行うためであります。イエス様は会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、病の人たちを癒してあげました。イエス様は、自分の富を神様の働きと福音宣教のために用いたのであります。では、クリスチャンの繁栄の目的は何でしょうか?大邸宅を構え、高級車に乗り、高価な衣服をまとい、ごちそうを食べ、ぜいたくな娯楽を楽しむためでしょうか。そうではありません。私たちもイエス様がなさったことを、すべきであります。クリスチャンの繁栄の目的も、父なる神様の働きとみこころを行うためであります。神様が一番関心をもっておられるのは、失われた人が救われることです。マルコ16章でイエス様は「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさいと命じられました。私たちはこの大命令をどうやって成就させるのでしょうか?それは、十分の一の献げ物によってであります。十分の一の献げ物とは、とは、収穫物あるいは、受け取った利益分の10%のことです。大宣教命令と神様の働きは、神の民の十分の一の献げ物によって成就されるのです。

 ある人たちは、「10分の1も献げたら生活できないよ」と嘆くかもれません。しかし、それは逆です。10分の1を献げていないがゆえに、貧して不足してしまうのです。マラキ3:10-12「十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。――万軍の主は仰せられる。――わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。わたしはあなたがたのために、いなごをしかって、あなたがたの土地の産物を滅ぼさないようにし、畑のぶどうの木が不作とならないようにする。――万軍の主は仰せられる。――」このみことばから、十分の一献金することとは繁栄と結びついていることが分かります。神様は、十分の一の献げ物をする人を、神様が2つの仕方で祝福してくださいます。1つ目は作物が豊かになること。これは商売やビジネスが祝されるということでもあります。2つ目はその作物がダメになってしまわないように守ることです。主は「あなたがたのために、いなご(喰い荒らす者)を叱る」とおっしゃっています。現代的に言いますと、事故や悪者から守られるということです。

ケネス・ヘーゲン先生は、具体的に教えておられますので、少し長いですが本から引用します。あなたが十分の一献金をするなら、私はあなたに地上の物資的祝福を与えましょう。「技術者であるあなたには、私はすぐれた技能を与えましょう。私は雇用者たちがあなたに目を留めるようにしましょう。あなたが最高額の賃金を受けるようにしましょう。ストライキがあっても、あなたに悪影響を及ぼすことはありません。私はあなたと共におり、あなたに必要なものが備えられるようにします」。「ビジネスマンであるあなたを、私は繁栄させましょう。私はあなたの取引がうまくいくようにしましょう。私は購入者たちをあなたの周囲に送りましょう。私を信じないあなたの隣人が破産するようになっても、その呪いはあなたに触れることがないようにしましょう。私はあなたの支払いが期限内にできるように取り計らいましょう。私はあなたの銀行口座にたくさんのお金が入るようにしましょう。一言で言えば、私はあなたのパートナーなのですから、あなたのビジネスの様々な関心ごとについて取り計らいましょう。「知的仕事に携わっている人、すなわち自分の頭脳で生計を立てているあなたに対しては、私はあなたの思考力を明晰にしてあげましょう。私はあなたの産み出すものが人々の心を感動させるものとなるようにしましょう。私はあなたの作品が人々から求められるようにしましょう。私は、人々があなたの心と頭脳から産み出されたものを購入するようにしましょう。ただ私にあなたの十分の一を支払いなさい。そうすれば、私はあなたが面倒をみてもらえるようにしましょう。「農夫よ、私はあなたが必ず収穫の時を迎えるようにしましょう。私はあなたの穀物を祝福しましょう。私はあなたの蓄えをふやしましょう。あなたの農場では、枯れることも、かびがはえることもないにようにしましょう。覚えておきなさい。私はアブラハム、イサク、ヤコブの神なのです。私が彼らに対して行ったように、私はあなたにも行いましょう。彼らもしたように、ただ私を覚えていなさい。「私はあなたがたすべての者に健康を与えましょう。あなたの幼い子供たちが死によって奪われることはないようにしましょう。彼らが長寿を迎えるまで生きるようにしましょう。私は天の窓を開いて、あなたがたに祝福を注ぎ、それを受け入れる十分な余地がないまでにしましょう。」

献金も仕事も、仕方なく、いやいやながらするのでは祝福は与えられません。イザヤ1:19「もし喜んで行い、また聞くなら、あなたはこの国の良い物を食べることができる」(英語の直訳)と書いてあります。このところで、食べるとは物質的な繁栄と考えることができます。もし、あなたがこの国の良い物を食べていないとしたら、その理由は何でしょうか。それは、その条件を満たしていないからです。条件とは「喜んで行う」ということです。献金も仕事も、喜んで行うことが大切なのです。私は確かに十分の一献金をしました。この1年間、郵便局のアルバイトもしました。でも、私は発見しました。私は決して喜んでやっていませんでした。「ああー」とか、ため息をついてやっていましたので、条件を満たしていなかったのです。でも「もし喜んで行い、また聞くなら、あなたはこの国の良い物を食べることができる」のです。アーメン。

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