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2007年12月16日 (日)

イエスの意味      マタイ1:18-25

 「メリー・クリスマス」と日本中で祝っています。イエス様を知ろうと知るまいと、お祝いをしていること自体はすばらしいと思います。でも、クリスマスということばの中に、キリストという名前が入っているということを知っている人がどのくらいいるんでしょうか?世の中の人は、それでも喜び、はしゃいでいます。キリスト教会の方が「俺たちは本当の意味を知っているぞ」と言いながらも、暗いかもしれません。私たちはクリスマスの本来の意味を知っているんですから、彼らの10倍、いや100倍は、喜ぶべきであります。メガと言うことばが、マクドナルドで使われているようですが、メガは本来ギリシヤ語から来たものです。ルカ2章の「すばらしい喜び」と訳されていることばは、メガ、「大きな」であります。本日も、聖書を学びながら、神様から大きな喜びをいただきたいと思います。

1.イエスの意味

 「名は体を現わす」と言いますが、聖書の人物は不思議なほど、その人と一致しています。「アダム」という名前の意味は、「土」であり、アダムが土からできたことを表しています。ダビデを呪った「ナバル」という人物がいますが、その意味は「愚か」という意味です。だれも、「ナバル」なんて付けたくないですね。シモン・ペテロの「シモン」は葦であり、「ペテロ」は岩という意味です。彼は葦の不安定さと、岩の強固さの両面の性質を持つ人物でした。では、「イエス」とはどういう意味でしょうか?私たち日本人は、「イエス・キリスト」と言うと、イエスが名前でキリストが苗字みたい思ってしまいます。キリストは職務を表すことばであり、「油注がれた者」、つまり「メシア」という意味です。また「イエス」とは、旧約聖書のヨシュアのギリシヤ語化したものです。ヘブル語では「イェーシューア」であり、これをギリシヤ語にすると「イエースース」であります。カトリックで、イエズスと呼んでいるのはそのためです。そして、その意味は「主は救い」という意味です。イエス様のご自身の意味が、「救い」ですから、そのまんまであります。では、何から救う方なのでしょうか?主の使いがその意味を教えていますマタイ1:21「マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」御使いは、「ご自分の民をその罪から救ってくださる方」と言っています。このことばからいくつかのことが連想できます。「ご自分の民」とは、ユダヤ人だけでしょうか?そうではなくて異邦人の私たちも含まれているでしょう。でも、世界のすべての人という意味でしょうか?「あらかじめ、神様がご自分の民と選んでおいた人々」とも受け取ることができます。ジョン・カルヴァンは、救いのための選びということを強調しました。また「その罪」とは、「彼らの罪」という意味です。つまり、イエス様がこの地上に来られた目的は、人々を罪から救うためであります。

 この世では様々な問題があります。戦争、貧困、自然災害、犯罪、殺人、死、苦しみ、不条理があります。今年ももうすぐ終わろうとしていますが、そういうことに満ちていました。でも、聖書は「それらはすべて罪の結果である」と言います。つまり、罪の結果、死、病、貧困、争い、苦難、呪い、そして永遠の死がやって来たのです。この罪をなんとかしなければ、人類は根本的に救いを得ることはできないのです。また、罪の問題は政府では、どうすることもできません。政府は、法律を定めたり、経済問題を解決したり、福祉を進めればなんとかなると思っています。でも、法律をたくさん作っても、犯罪はちっとも減りません。また、教育でも、医学でも、人を罪から救うことはできません。だいたい、この世は「罪」ということ自体、受け入れようとしません。罪と言えば、それは犯罪のことであり、私は刑務所に入るほど悪くはないと言います。聖書で言う、罪は神様から離れ、神様に反逆するということです。ローマ1章にありますように、神様を神様としてあがめず、自分勝手に生きているので、様々な悪が起こってくるのであります。しかも、罪は外側に現れる前に、まず心の中で犯すものです。悪意、争い、殺意、欺き、ねたみ、高ぶり…みんな心の中から始まります。法律では心の中で起きていることを裁くことはできません。法律は、実際、起こった結果をさばくだけです。それでは、人間を変えることはできません。だから、罪は、まず心の中から始まるので、私たちの心を直さなくてはならないのです。そのため、イエス・キリストは人間の中の罪を解決するために、この世に来られたのです。では、どうしたら、罪を解決することができるのでしょうか?

 罪のそもそもの始まりは、源なる神様と人間が断絶していることです。テレビや冷蔵庫、パソコンですらも、電源とつながっていなければ、ただの箱であります。人間も、源なる神様と離れているので、霊的に死んだ状態です。霊が死んで、己の魂だけで、思うままに生きているのが、生まれつきの人間であります。源なる神様は聖く、正しく、愛であり、善なるお方です。このお方と私たちが結ばれるならば、神様からの聖さや正しさ、愛、善なるものが流れてくるのではないでしょうか?宗教はreligionと言いますが、もとになったラテン語の意味は「神と人とのきずなを結び直す」という意味です。宗教というと人間が作り出した神様に思えますが、元来はそうではありません。源なる神様と私たちが再び結ばれることであります。でも、この罪をなんとかしなければなりません。この罪がある限り、私たちは神様に背き、様々な罪を犯し、最後には永遠のさばきを受けるしかありません。しかし、クリスマスとは、私たちの罪を解決するために、神様が御子イエスをこの世に遣わした日であります。神は、人間の罪を赦すために、御子を人間として生まれさせました。そして、御子イエスに人類のすべての罪を負わせ、その罪をさばき、その罪を取り除こうとされたのです。これを「贖い」と言いますが、人間が考えたのでも、人間から神に願ったのでもありません。神様の方から、一方的になされた、救いの手立てです。人間的にはとっても愚かに見えますが、これは神の知恵でした。

 私は元来、キリスト教には無知な存在でした。私は23歳で建設会社を辞めて、小田急線の町田に住んでいました。英語事務の仕事がしたくて、町田のタイピングスクールに通っていました。ほとんどが女性で、男性は一人か二人でした。しかも、私は無職だったので、クラスの中でとても肩身の狭い思いをしていました。あるとき、町田の通りで二人の外人が声をかけてきました。イエス・キリストがどうのこうのと言うのだけが分かりました。そのとき私は、「I don’t like キリスト」と答えました。むちゃくちゃな英語でした。今、思えば、彼らはモルモン教徒じゃなかったかなーと思います。断って良かったと思うのですが、「キリストは嫌いだ」と言ったことは確かです。「イエスの反対はノー」とか言って、私は平均的な日本人ではなかったかと思います。そんなのが、高いところにたって、罪がどうのこうのと言っているんですから、大したもんです。なぜ、あんな無知と偏見の塊のような私が、クリスチャンになり、しかも牧師になったのでしょうか?それは、私と同じ立場に立って、私に伝えてくれた人がいたからです。職場の先輩はクリスチャンでした。信じるまで、1年半かかりました。それまで、先輩の個人伝道が、会社や彼のお家で、毎日のように続きました。先輩は「罪」について、私にこう教えてくれました。「罪は英語で、sinと言うんだ。Sはsouth(南)。Nは、north(北)、つまり地球のことを言うんだ。その中心にIがある。神様は宇宙の外に追いやっている状態。自己が世界の中心になっていることを罪と言うんだ」。私はなるほどーと思いました。1年半後、洗礼を受けて、その年の12月に青年会のクリスマス会に参加しました。私も青年のときがあったのです。プログラムはタイプライターで私が作りました。そして、その年に洗礼を受けた、人たちがローソクに点火しました。なんだかおごそかな感じがしました。そして、そこに集まっている人たちがみんな聖い人たちのように思えました。もう1つ記憶に残る出来事があります。クリスチャンになって、祈祷会の司会をしたことがあります。司会者の特権として、自分が好きな聖歌をリクエストできます。そのとき、聖歌402番「丘にたてる荒削りの」を選びました。3節「あけにそみし荒削りの、十字架はうるわし、赦し与え、きよくするはただ主の血あるのみ。十字架にイエスきみ、我を贖いたもう。十字架の悩みは我が罪のためなり」。全く、そのとおりだなーと思いました。祈祷会の後、オルガニストの姉妹が、私にこう言いました。「私もあの曲、大好きなんです。涙が流れて、譜面がよく見えなかったわ」。「わー、教会に来ている人たちって、本当に聖い人たちなんだなー」と思いました。

 罪が解決されて、神と和解した人たちには、平安があります。religion、イエス様は、神と人とのきずなを結び直すために来られたのです。イエス様は、ご自身の民を罪から救ってくださるお方です。人類が負っている罪の問題は、イエス・キリストしか解決できないのです。

2.インマヌエルの意味

 23節「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)インマヌエルはイザヤ7:14の引用です。クリスマスの日、神が肉体を取って、その民の中のうちに住まわれるという預言が成就しました。つまり、このことはイエス様がはじめてだったのです。もちろん、それまで神様が民の中に臨在することはありました。確かに、主は幕屋や神殿に臨在しました。でも、イエス・キリストにあって、はじめて人間の肉体の中に、神がともに住むということが実現したのです。イエス様こそ、最初に神がともにおられたお方なのです。みなさん、一番、近くにいる状態はどこでしょうか?真上、脇、側も良いですが、一番近いのは、中じゃないでしょうか?中に神様を持っているならば、落としたり、なくしたりすることはありません。お守りだって、肌身離さずというわけにはいかないでしょう。お風呂に入るとき、お守りをぶらさげて入るでしょうか?私たちの神様は「お守り」みたいな、携帯用の小さな神様ではありません。全宇宙を想像された方が、私たちの内にいてくださるのです。そのことを一番最初になさったお方が、イエス・キリストであります。ヨハネ14章で、イエス様は「わたしが父におり、父がわたしにおられる」と言われました。また、ニコデモというユダヤ人の指導者が、イエス様に対してこのように告白しました。ヨハネ3:2「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことができません。」ニコデモは、サンヒドリンの議員であり、パリサイ人の指導者でした。お金も名誉もあるすばらしい人でした。でも、たった1つ自分にないものがありました。神がともにいるということです。彼は、「イエスには神がともにおられる。だから、あのような奇跡やしるしができたのだ」と考えたのです。つまり、神がともにいるということは、普通にはありえないこと。もし、その人と神がともにおられたら、もう何もいらないくらい素晴らしいことだということです。どのくらい素晴らしいかは、後にして、どうしたら神がともにおられるのでしょうか?

 イザヤ書にはもう1箇所、インマヌエルのことを預言しているところがあります。イザヤ57:15 いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方が、こう仰せられる。「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。まず、このところに神様がどういうお方かが書かれています。神様は、聖ととなえられる方であり、高く聖なる所に住んでおられます。もともと、「聖」とは、道徳的清さではなく、「かけ離れた」という意味です。神様は私たちとはかけ離れた存在です。でも、そういういと高き方が、地上に降りて来られ、ともに住む人がいます。どんな人でしょうか?「へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かす」と書いてあります。神様は高く聖なる所にお住みになるのに、同時に、地上に降りて来て、へりくだった人とともに住まわれる。この文脈から、へり下った人とは、「自分の罪を知る人」「砕かれた人」と言うことが分かります。人は、「自分には罪があるなー」と、神の前に砕かれなければ、キリストを信じることはありえません。最初のメッセージで「罪とは自分が世界の中心にいて、神様を宇宙に除外することだ」と言いました。すべての人間は、自分が王様であって、何者にも束縛されたくありません。人は、何も持っていないようでも、自我だけは持っています。キリストは救い主であり、王です。このまんまでは、人は絶対、キリストを内に受け入れ、王座を明け渡すことはしません。何が必要でしょうか?そうです。砕かれることが必要なんです。砕かれるとは、簡単に言いますと「自分には罪があって、このままではダメだ」ということです。イザヤ自身は神様の栄光を見たとき「ああ、私はもうダメだ。私は滅びるばかりだ」と言いました。個々の罪の自覚も必要ですが、私の存在ものものが罪であって、聖なる神の前には立てないことを自覚しなければなりません。

 心理学は「あなたには価値がある。あなたはすばらしい」と言います。そして、心理学は自我に目覚めることを目標とするでしょう。私も心理学的なアプローチを説教でよくしますので、心理学を全部悪いと言っているわけではありません。でも、私たちの救いは、自我に目覚め、自分の気持ちに正直に生きることがゴールではありません。聖書が言うゴールは、自我に死に、キリストに王座を明け渡し、キリストにあって生きることです。ガラテヤ2:20にこう書いてあります。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」。アーメン。自分がますます小さくなり、キリストがますます大きくなります。そうすると、神がともにおられることを体験することができるのです。神がともにおられることを、一番邪魔しているのは、私たち自身です。悪魔や悪霊でもありません。一番問題なのは、私たち自我なんです。つまり、私たちが神様にサレンダー、降参することがへり下ることなのです。自分が小さくなり、神が大きくなる。そうなるなら、悪魔も悪霊も怖くなりなります。使徒パウロは神がともにいるということを、別の表現を用いています。パウロは、ローマ8:31で「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう」と言いました。「神様が私たちの味方なら、死も、迫害も、悪魔も、権威ある者も、どんな被造物も問題ない」と言っています。キリストを信じる前は、私たちは神様の敵でした。しかし、キリストによって和解を受けた今は、神様が私たちの味方になってくださったのです。ハレルヤ!もう、こわいものなんかありません。だから、神様がともにおられるということがすばらしいのです。

 マタイ福音書は、神がともにおられるということを1章だけではなく、18章と28章でも言っています。つまり、マタイ福音書の始めと真ん中と終りです。マタイ18:20「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」これは、一人の中にキリストがともにいるだけではなく、人と人との間にいるということです。このことは、コロサイ1:27にも書いてあります。「この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。」教会とは、まさしく、神がともにおられるところです。それは建物ではなく、キリストの名によって集まっている人々の中です。キリストにあって集まっている人々こそが教会であります。そして、最後のマタイ28:20「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」この意味は世の終り、この世が消えてなくなるまで、永遠にという意味です。神がともにいることと私たちの死とはどんな関係にあるのでしょうか?私たちが死ぬときも、神さまがともにいて、向こうまで行くときも神がともにいるということです。人が死ぬとき、どんなに愛していても、死の向こうまでともに行くことはできません。たとえ、心中したとしても、死ぬときはバラバラであります。でも、イエス様は一緒に死の川なみを渡ってくださいます。ジョン・バニヤンの『天路歴程』には、クリスチャンが死の川を渡るシーンがあります。そのとき、「希望」という人が彼を励ましてくれます。希望とは、聖霊のことであります。イエス様は聖霊によって、私たちとともにいて、死の川なみを越えさせてくださるのです。ハレルヤ!どうぞ、このクリスマス、神が人となって、私たちの中にいてくださることになったことを喜びましょう。私たちは孤独ではありません。神様がともにいらっしゃるし、神様が味方なのです。また、キリストを信じる人たちの間にも、神様がともにいらして、私たちの祈りを聞いてくださいます。世の中には、あまり希望がありません。しかし、私たちには世の終りが来ようとも、希望があります。インマヌエル、神が私たちとともにおられるからです。

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