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2007年11月25日 (日)

二国での責任       マルコ12:13-17 

 先週は三重県の尾鷲教会に招かれて、土日と2回のメッセージをさせていただきました。片道5時間弱かかり、「とにかく、遠いなー」という感じがしました。最近、近くの熊野古道が世界遺産になったそうです。朝、散歩がてら、近くの漁港に行きましたが、市場一面に、とんび、からす、しらさぎ、かもめと4種類の鳥が群がっていました。売り物にならない魚を食べるんでしょう。それはもう、かなりの数で「どんだけー」と思いました。私は尾鷲ではなく、これじゃ尾鳶じゃないかと一人つぶやきました。教会は、なんと平均年齢が70何歳かで、最高齢の方が93歳でした。私は会衆を見ながら、その牧師に「老人ホームやっているんじゃないのー」と言ってしまい、傷つけたかなーと思いました。でも、ああいうところで謙遜に、頑張っている若い牧師がいるんだなーと感動しました。きょうのテキストは、ふだん仲の悪い、パリサイ人とヘロデ党が結託して、イエス様を陥れるという箇所です。パリサイ人はユダヤの独立を願い、税金なんか納めたくありません。一方、ヘロデ党はローマ政府のもとでうまい汁を吸っていました。ですから、税金を納めない者を訴えるでしょう。イエス様はどっちに答えても、不利で、逃げ道なしという罠をしかけられたのです。もし、イエス様が「カイザルに税金を納めよ」と言えば、ローマにへつらう者であり、売国奴とか偽教師と言われ、人気をなくすでしょう。また、イエス様が「カイザルに税金を納めなくても良い」と言えば、謀反を起す危険な輩として、ローマに引き出されるでしょう。

1.この世に対する責任

「カイザルのものはカイザルに」とは、この世に対する責任あるいは義務のことを言っています。当時はユダヤに対してだけではなく、一人あたり、いくらいくらという「「人頭税」をローマ政府に納めることになっていました。これはローマに対する服従を意味するもので、パリサイ人にとって屈辱的なものでした。イエス様は「納める銀貨を持って来て見せなさい」と言われました。これは、1つの実物教育であります。その当時、銀貨の表面には、ティベリウスの胸像が刻まれており、「ティベリウス、カイザル、聖なるアウグトゥストの息子、大祭司」という銘が刻まれていました。貨幣にカイザルの像が刻まれているということは、その貨幣がカイザルの所有物であるということを示していました。ですから、それは「カイザルに返す」、つまり納税の義務は果たすべきであるということです。つまり、イエス様はここで、「この世に対する責任と義務を果たしなさい」と教えているのであります。では、ローマがユダヤのために何かためになることをしているのでしょうか?「世界の道はローマに通ず」と言われえているように、山賊や盗賊が取り除かれ、ユダヤ人たちはどこへでも安全に旅ができました。そればかりか、ユダヤは他の国と違い、宗教の自由がある程度認められていたようです。でも、被支配国であるユダヤに対して、極悪非道なこともなかったわけではないでしょう。実際、紀元70年には、ローマによってエルサレム神殿が破壊され、イスラエルという国そのものがなくなってしまいました。

私たちは日本という国家のもとで平和に暮しています。ですから、政府が決めた税金を納め、さまざまな法律や義務にしたがわざるを得ません。税金も所得税ばかりではなく、住民税、固定資産税、消費税、物品税…いろいろあります。最近、地方税の地域格差ということが言われています。東京都はもうかっているようですが、地方はとても厳しいようです。そこで地方税が何かを調べてみました。福祉や教育、消防・救急、ゴミ処理といった様々な住民サービスを提供する上で、重要な原資だということです。いざという時、救急車呼べるもの感謝、毎週ごみを出せるのも感謝であります。交通のおまわりさんは嫌いですが、国からいろいろお世話になっているなーという感じがします。でも、最近のニュースを見て、選挙のポースター代もそうですが、「政治家の領収書はいい加減だなー」と思います。海外にもお金をばらまき、税金の無駄使いをしているんじゃないかと思います。でも、みなさん、極端かもしれませんが、当時のローマと比べたら良い方ではないかと思います。イスラエルは完全にローマに支配されており、自由がきかなかったのであります。だから、イスラエルの民は、ローマを倒してくれるメシヤを待望したのであります。でも、イエス様は「ローマに税金を納めよ」と言ったのであります。

福音書やパウロ書簡を見ますと、「ローマを倒せ」みたいな教えは1箇所もありません。それよりも、彼らの宣教を考え、親ローマになっているようにも見えます。福音書ではローマの百卒長が自分の家来のために、癒しをもとめて来るところがあります。また、十字架の死後、「あの方は、まことの神の子だった」と胸を打って嘆く百卒長がいました。パウロは伝道旅行を何度もしましたが、迫害する人たちはユダヤ人で、暴徒から守ってくれるのはローマ兵たちでした。パウロはローマ13章でこのように言っています。「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。・・・彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神のしもべであって、悪を行なう人には怒りをもって報います。」上に立つ権威の中には、ローマのカイザルも含まれていると思います。おそらく、ローマ時代の人たちが福音書やパウロの書簡を読んで、キリスト教の敵だとは思わないでしょう。

でも、起源100年前後は、クリスチャンに対して、ものすごい迫害がありました。これは、難しいテーマになりますが、この世が神の分を冒したときは、従ってはいけません。むしろ、断固として戦うべきであります。黙示録13章には、悪魔化した政府が記されています。666のナンバーの刻印のない者は、売り買いできないと書いてあります。こういう場合は、信仰を守るために、戦わなければなりません。残念ですが、ナチスドイツのとき、教会は彼らの非道さに対して黙認していました。宗教改革が起こった国とは思えません。では、日本ではどうでしょうか。内村鑑三などは、勇敢に戦った一人であります。残念ですが、キリスト教会は戦時中、神棚を祭って戦勝祈願をしたのであります。教会は全く、地の塩、世の光の役目を果たしませんでした。そういう反省をふまえ、この世に対して「我関せず、そんなの関係ない」といわないで、旧約聖書の預言者たちのように見張っていく必要があります。私たちクリスチャンは、世の中の見張り人だということです。世の中はますます物質主義に染まり、不正がはびこり、愛が冷えていくでしょう。私たちは、この世と妥協せず、何が善で何が神様に受け入れられることなのか、神のことばの上に立ち続けるべきであります。

 「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい」と言うのは、この世と神の国の二元論を言っているのではありません。この世のことと、教会のこととは別だという考えは、間違っています。ナチスドイツの支配のとき、勇敢に立ち向かった人たちもいます。ボン・ヘッファーという牧師は、ヒットラーを暗殺しようとしたかどで捕らえられ、殺されました。彼は「主は1つである。神の国の主だけではなく、この世においても主である」と主張しました。残念ながらドイツの国教会は、「宗教と政治とは別だ、教会は政治に口を出さない」という、契約をヒットラーから交わされていました。つまり、骨抜きにされていたのです。同じようなことが、戦時中の日本基督教団にもありました。戦時中は、政府の力で、すべての教団教派が日本基督教団の中に入れられていました。それでないと、宗教活動ができなかったわけです。宗教活動ができるかわり、戦勝祈願をさせられました。戦後、平和になってから、「日本の教会もボン・ヘッファーのように戦うべきだった」と言います。でも、まわりが戦争一色のときは、何も言えないのであります。その点、韓国教会は偉いと思います。日本政府が本当に韓国の教会を迫害しました。なぜなら、彼らは神社参拝をせず、侵略と信仰の自由のために対抗したからです。「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい」とは、私たちはこの世と神の国の両方の責任を負っているということです。でも、この世と神の国は、対等のものではありません。神の国の下に、この世があるのです。この世は神に逆らっている駄々っ子であります。何故、この世にいろんな悪や不条理が起こるのでしょうか?それは神の国、つまり神の支配がきていないからです。ギリシャ語で罪とは元来、「的をはずす」という意味があります。この世の人たちは、一生懸命頑張っているつもりですが、的をはずしている存在なのです。何故、当時のクリスチャンがローマ支配のもとで、平気だったのでしょうか?それは、ローマの上に神の国があることを信じていたからです。本当の支配者はキュリオス・カイザルではなく、キュリオス(主)イエス・キリストであると信じていたからです。私たちはどんなところであっても、主のご支配のもとで暮すなら、的をはずさず、この世の不条理からも守られるのです。

2.神に対する責任

 イエス様は「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい」と言われました。彼らはイエスに驚嘆したとあります。私たちは「それって、何なの?」と首をかしげるかもしれません。これは、イスラエル人が神の国という理解があるので、イエス様のことばが有効なのであります。異邦人である日本は、神様に対する義務なんか全く感じていないでしょう。「教会に行く人だけが、献金して、宗教的な義務を果たせば良い。そんなの関係ない。」と言っているんじゃないでしょうか?でも、神に対する責任あるいは義務は、信じている者たちだけのものなのでしょうか?ローマのデナリ銀貨には、カイザルの肖像と銘が刻まれていました。それは、この貨幣がカイザルの所有物であるということを示していました。それと同じように、人間には神の肖像、イメージが刻まれているのです。創世記1章には、「神のかたち(イメージ)に似せて、人を創造された」とあります。クリスチャンであろうとなかろうと、人はすべて、神の肖像、イメージが刻まれているのであります。ということは、人間は本来、神の所有物であり、神様に対して義務と責任を負う存在なんだということです。でも、神から離れた罪人は我が物顔に、この地上で生きているのであります。神様はそれでも、私たちに恵みを施しておられます。マタイ5章には「それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです(5:45)」とあります。私は聖書を読み始めたころ、太陽は良いもので、雨が降るのは良くないことだと思いました。みなさんも、天気予報で、雨マークがついていると、イヤだなーと思うでしょう。ところが、そうではなく、旱魃の多い地方では、雨は恵みなんです。つまり、神様は誰に対しても、ある程度の恵みを与えておられます。これを、神学的には一般恩寵と言います。

 イエス様は「神のものは神に返しなさい」と言われました。伝道者の12章には「神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってのすべてであると書かれています。少し古い、口語訳の聖書は「神を恐れ、その命令を守れ。これはすべての人の本分である」と訳されています。「本分」なんて現代はあまり使われませんが、「本来、尽くすべきつとめ」という意味です。すべての人の本分とは、神を恐れ、その命令を守ることです。なんと、シンプルで力強いことばでしょう。新約聖書では、イエス様は「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。これより大事な命令は他にない」と言われました。神と隣人を愛することが、人間の義務であり責任なのです。世の中、あまりにも複雑になりすぎています。私はときどき、テレビの討論会を見ることがあります。みんな口から泡を飛ばして激論しています。でも、そこには残念ですが、絶対的なものがありません。みんな勝手なことを言っているという感じがします。箴言19:18「幻がなければ、民はほしいままにふるまう。しかし律法を守る者は幸いである」と書かれています。神様のことばがなければ、それは、烏合の衆であります。神のことば、神の命令を守ることが、私たちの義務であり責任だと確信します。

 では、クリスチャンはこの世の義務を果たし、神の国の義務も果たすので、損をしているのでしょうか?だって、私たちクリスチャンは国に税金も納めるだけではなく、神様に献金しているわけですから大変です。また、この世では罪でないことも、神様の前では罪だということがたくさんあります。クリスチャンは心の中で人と憎んでも罪だし、情欲を抱いただけでも罪なんです。貪欲や高慢、人を赦さないことも罪です。もちろん、姦淫や偶像崇拝や占いも罪です。こんなに窮屈な思いをして、信仰生活を続けるのに何か意味があるのでしょうか?あります。さきほど、神様は「悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださる」と言いました。でも、それは一般恩寵、一般的な恵みです。でも、みなさんクリスチャンの場合は、一般ではなく、特別な恩寵であります。私たちはイエス様を信じて、神様と親子の関係になったのです。そして、イエス様は主であり、私たちは彼に従う弟子であります。弟子でないクリスチャンもいるかもしれませんが、クリスチャンの標準はキリストの弟子であります。するとどうなるのでしょうか?あなたは国に対して税金を納め、様々な義務を果たしています。そのため、ある程度の人権も守られますし、保護も受けられます。同じように、神様との関係を回復するとどうなるのでしょうか?あなたは神の国の住民であり、神様があなたを保護し、必要と守りを与えてくれるのではないでしょうか。これは世の人が持っている一般恩寵ではなく、特別な恩寵です。世の人は運、不運という運命に翻弄されて生きていますが、私たちクリスチャンは万軍の主の摂理のもとで、生きて行くことができます。主の御手が私たちにあるので、運命や不条理に翻弄されることはありません。主から特別な守りを与えられ、すべてのことが益とされるのです。

 教会では今、詩篇からディボーションしています。先日は、詩篇91篇を学びました。これこそが、特別恩寵の世界ではないでしょうか。詩篇91篇。いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る。私は主に申し上げよう。「わが避け所、わがとりで、私の信頼するわが神。」と。主は狩人のわなから、恐ろしい疫病から、あなたを救い出されるからである。主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。あなたは、その翼の下に身を避ける。主の真実は、大盾であり、とりでである。あなたは夜の恐怖も恐れず、昼に飛び来る矢も恐れない。また、暗やみに歩き回る疫病も、真昼に荒らす滅びをも。千人が、あなたのかたわらに、万人が、あなたの右手に倒れても、それはあなたには、近づかない。あなたはただ、それを目にし、悪者への報いを見るだけである。それはあなたが私の避け所である主を、いと高き方を、あなたの住まいとしたからである(詩篇91:1-9)。いやー、「千人が、あなたのかたわらに、万人が、あなたの右手に倒れても、それはあなたには、近づかない」。私は丸愛軽金属株式会社の朝祈会に月一度招かれて、奨励をいたします。天に召された山崎長老さんが朝祈会で「千人がかたわらに、万人が右手に倒れても、私たちには近づきません」と祈っていました「なんと自分勝手な祈りだろう」と、思えば、思えないわけでもありません。でも、神様は自分の子どもたちを特別に守っておられるのは真実です。今から数年前、インドネシアに大地震がありました。エディ・レオ師がこのようにおっしゃっていました。被害にあったプーケットとかジョグジャカルタは、ものすごいイスラムの原理主義の場所で、教会がほとんどない。いつも教会を迫害する。でも、津波が来てもクリスチャンは奇跡的に助け出され、イスラムの人たちはそれを見て、本当に驚いたそうです。津波のあとに、たくさんの教会ができたそうです。なぜなら、奇跡だけではなく、クリスチャンの愛に触れたからです。

 日本でいるとクリスチャンが少数派(マイノリティ)で、貧乏くじを引いているような錯覚を起してしまいます。ノンクリスチャンの方が、楽しく暮しているような気がします。しかし、それは錯覚であり、真実ではありません。ヒリピ3:19,20「彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。」アーメン。私たちクリスチャンには2つの国籍があります。また、私たちはこの世の命と神の命の2つを持っています。いずれこの世の市民権がなくなり、戸籍から抹消される時が来るでしょう。でも、そんなの関係ありません。私たちはやがて、むこうで永住するのです。向こうの大邸宅には、家具調度品が備わっています。からだ1つで行けるのです。でも、皆さん、私たちの信仰は天国に行くためだけのものではありません。この地上にあっても、神の命が役に立つのです。私たちが肉体的に精神的に限界だなー、四方から患難を受けているなーと思うときがあります。でも、私たちはパウロのように、土の器の中に宝をもっているので、イエス様のいのちが現れるチャンスとなるのです。ハレルヤ!靴屋さんが狭い作業所でいつもお仕事をしていました。ある人が「いつも大変ですね。それじゃ、気が滅入ってしまうでしょう」と心配して声をかけました。「いやぁ、大丈夫でさあ。気が滅入るときは、後ろの木戸を開けるんですよ」と答えた。戸を開けると、なんと大海原が見えたそうです。私たちは、この世にありながらも、すでに永遠の世界で生きているんです。礼拝とは、後ろの木戸を開けて、天国を垣間見るときであります。

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2007年11月18日 (日)

アブラハムの子孫

本日は、川栄智章 師を迎えての特別礼拝になりますので、
原稿が用意できませんでした。

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2007年11月11日 (日)

ぶどう園のたとえ       マルコ12:1-12

 先週は教会のお掃除がありましたが、本当に、みなさんは教会を愛しているなーと思いました。一番すらばしいのは、自主的になさることであります。掃除もそうですが、お花や植木、勉強会、祈り会、賛美…みな自主的です。来月は、クリスマス祭りをなさるそうですが、飾りつけやローソクまで、みなさんがやります。私は母教会のときから、どこからか木を切ってきてリースとかツリーを作りました。しかし、こっちに来たら山がないのに驚きました。どこかに雑木林があるかなーと、流山まで行ったことがあります。実際は、江戸川の手前に杉の枝が山積みになっていました。捨てられていたと解釈して、それで飾りを作ったことがあります。正直、クリスマスは忙しくてイヤでしたが、最近はみなさんがやってくれるので、クリスマスが好きになりました。きょうは、イエス様のたとえ話しから学びたいと思います。

1.たとえの意味

 イエス様がここで、たとえを用いたのは訳があります。「彼ら」というのは、祭司長、律法学者、長老たちでした。彼らはイエス様に対して敵意を抱いておりました。もし、ダイレクトに話したなら、彼らは怒り狂って、イエス様に襲い掛かかるでしょう。しかし、たとえは、物語ですので、遠まわしに、暗に気付かせることができます。これはイエス様の知恵であります。1つ1つ説明しなくても分かるかもしれませんが、たとえをご一緒に見て行きたいと思います。

 「ある人」と言うのは、ぶどう園の主人であり、父なる神様です。父なる神様は、世界を創造されました。また、アブラハムの子孫を特別に愛し、パレスチナの地を与えました。バビロン捕囚もありましたが、帰還した後はギリシヤ、ローマ時代を生き残ります。彼らユダヤ人は特別に、神様の愛顧を受けた民であります。

 「ぶどう園」とは、まさしく乳と蜜のあふれるカナンの地であります。でも、もっと広い意味では、神の国であります。マタイ21:43には「神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ国民に与えられます」と書いてあります。教会の中に、一部ではありますが神の国を見ることができます。

 「農夫たち」は小作人とも訳されていますが、ユダヤ人の指導者です。祭司長、律法学者、長老たちであります。彼らは神様から祭司の国になるように、契約と律法を与えられました。

 「しもべ」とは、旧約聖書の預言者たちです。アモス、イザヤ、エレミヤ、そしてバプテスマのヨハネもその中に入ります。彼らの多くは迫害され、殺されました。

 「愛する息子」は、御子イエスであります。神様は「私の息子なら、敬ってくれるだろう」と最後にご自分の息子を遣わしました。

 「他の人たち」とは異邦人であります。異邦人とは、神様から約束が与えられていない、選ばれていない民という意味であります。新しいイスラエルと言えるかもしれませんが、神の国は、私たち異邦人に与えられるということです。

 私は聖書の参考書である、注解書はあまり見ません。例外ですが、福音書では、イギリスのJ.C.ライルが書いたものがすばらしいですね。でも、英語ですから、読むのがめんどうで、とても時間がかかります。J.C.ライルは1816-1900年の人ですから、産業革命以降、もっとも栄えた頃の人です。ビクトリア女王の頃、イギリスはアフリカやアジアに植民地を広げます。ところが、女王の死後、世界大恐慌、植民地における独立運動が起こり、次第に陰りを見せていきます。J.C.ライルはマルコ12章の解説において、自国のことを取り上げ、このようにおっしゃっています。「グレート・ブリテンは神様から特別な憐れみを受けた国ではないだろうか。中国のような異教徒の国でもなく、インドのようなヒンズー階級があるわけでもない。私たちが特別な愛顧を受けてきたのは、神様のおかげである。私たちが良かったとか、価値があったからではなく、一方的な神様の恵みである。私たちは神様から愛顧を取り去られないように、高慢にならないで、もっと謙遜にならなければならない。イスラエルが特権を受けた国であったように、イギリスもそうであった。イスラエルに起こったことがイギリスにも起こらないように、私たちは注意をしなければならない。」すごいですね。さすが、ビジョップ・ライルであります。これは、アメリカにも言えることであります。そして、日本にも言えることです。私たちの国が、敗戦後、植民地にならないで、奇跡的な復興を遂げました。神様は忍耐の限りを尽くして、待ってきました。でも、福音宣教が根づかないで、教会も成長していません。マザーテレサがおっしゃっていましたが、日本は霊的にとっても貧しい国であることを自覚しなければなりません。

2.神様はどういうお方か

 次に、このたとえから、神様がどのようなお方かを学びたいと思います。たとえの中である人は、どのようなものを備えてくださったでしょうか?1節を見ますと、「ぶどう園を造り、垣を巡らし、酒ぶねを堀り、やぐらを建て、それを農夫たちに貸して旅に出かけた」とあります。農夫たちは何もしていません。彼らはただで、そこに住まわせてもらい、毎年、収穫を得ることができました。人は6日目、地球の環境が整えられてから造られました。そして、すべてが備えられたエデンに住むことを許されました。アダムは妻エバも与えられ、善悪を知る木の実以外は、すべてのものが満たされていたのです。でも、神に逆らって、エデンの園から追い出されました。それから神様はアブラハムを選び、その子孫を約束の地に住まわせると約束しました。でも、その子孫は、400年間、エジプトの奴隷生活を余儀なくされていました。主はモーセを立てて、エジプトから脱出させ、乳と蜜の流れるカナンの地へと向かわせます。民の不従順のため40年間、道草を食いましたが、ヨシュアの指導のもとに、カナンの地に住むことができました。戦いはありましたが、主ご自身が、7つの先住民を追い出してくださったのです。彼らはやがて、サムエルに「私たちの王様が欲しい」とねだりました。本当は神様が王様なのに、他国のように王様を求めたのです。ソロモン王のときがもっとも栄えましたが、その後は、南北に分かれました。神様の刑罰として、アッシリアやバビロンの侵略を受けます。それでも、人々は悪事をたくらみ、偶像礼拝を行い、神様から全く離れた生活をしていました。多くの預言者が、神様に立ち返りなさいと言ったにもかかわらず、逆らい続けました。彼らは、神様が遣わしたしもべたちを、辱め、殺しました。神様は自分の息子なら敬ってくれるだろうと思って、最後に、御子イエスを遣わしました。それでも、だめでした。彼らは、「あれはあと取りだから、あれを殺そう。そうすれば、財産はこちらのものだ」と、息子を殺しました。ゴルゴタの十字架でそのことが成就しました。彼らの失敗は、神様のものを横取りしたということです。

 ここで知るべきことは2つあります。1つは神様がとても忍耐深いお方だということです。民たちが悔い改めるまで、忍耐の限りを尽くして待っておられるということです。もう1つは、私たちは所有者ではなく、管理者だということです。これは現代にも言えることです。現代は、環境破壊が進み、砂漠化、地球温暖化を引き起こし、歯止めがきかない状態です。ルカ15章にほうとう息子の物語があります。「彼は放蕩して、湯水のように財産を使い果たした」とあります。私たちも「自分の人生を私が何と生きようと関係ない。そんなの関係ない」と浪費しているのではないでしょうか?私もイエス様を信じる25歳までは、全くそうでした。でも、イエス様を信じて、人生の目的が与えられてから、「暇をつぶす」ということがなくなりました。酒もパチンコもマージャンもやらなくなりました。酒を飲むと、頭がぼーっとして、考えることができなくなります。私はそれがとってもイヤでした。子供たちは、ゲームがとっても好きですが、あれこそ時間の無駄だと思います。すべての娯楽がダメだと言っているわけではありません。私たちは神様から与えられた時間、この肉体、能力、お金、そしてすべての資源を無駄に使ってはいけないと思います。新約聖書の、私たちは恵みだけではなく、神様に対する義務も負っています。週報には、マラキ書から10分の1献金のことを書いています。ぶどう園を借りていた農夫たちが、神様におさめるべきものを納めなかったということと関係しています。マラキ3:9,10「あなたがたはのろいを受けている。あなたがたは、わたしのものを盗んでいる。この民全体が盗んでいる。十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。――万軍の主は仰せられる。――わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。」

 すこし前、東京聖書教会で「恵みの歩み」のセミナーがありました。私たちは律法の時代ではなく、恵みの時代に生きているんだというメッセージでした。ある人が、「10分の1献金は旧約聖書にあるので、新約の時代に生きる私たちに、どう関係があるのですか?」と質問しました。講師は何と答えたでしょうか?「新約の私たちは10分の1ではなく、10分の10である。すべてが神様のためであり、神様の栄光のために用いられるべきだ」と答えました。使徒パウロは、Ⅰコリント10:31「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい」と言いました。食べても、飲んでも良いのです。買い物をしても良いし、遊んでも良いのです。でも、何をするにしても、ただ神の栄光を現わすためであります。テレビを見ますと、2つか3つのチャンネルで、テレビ・ショッピングをしています。青汁もあれば、宝石類、なんとかジャパン、「ああー」と思います。この間、なんとなく見ていたら、電動足もみ器が出ていました。「ああ、これは家内に良いなー」と思って、666・666に電話をしました。でも、生産が追いつかないようで、11月末になるそうです。神の栄光を現わすためなら、テレビ・ショッピングをしても良いのです。でも、私たちは忘れてはならないのは、神様がすべての所有者であり、私たちは管理者だということです。私たちには、肉体の他に、時間、お金、家庭、職場、さまざまな能力、霊的賜物があります。また、信仰、神の権威、聖書のみことば、福音の奥義もまかされています。使徒パウロは、Ⅰコリント4:2「この場合、管理者には、忠実であることが要求されます」と言っています。アーメン。

3.イエス様はどういうお方か

 最後に、このたとえから、イエス様がどのようなお方かを学びたいと思います。このたとえの中の「主人の息子」と言うのは、主イエス・キリストであります。でも、彼らは「息子をつかまえて、殺してしまい、ぶどう園の外に投げ捨てた」とあります。イエス様はたとえのとおり、エルサレムの外で、十字架で殺されました。しかし、イエス様は詩篇を引用して、ご自分のことをお示しになられました。「家を建てる者たち」とは、ユダヤ人の指導者たちです。イエス様はユダヤ人に捨てられましたが、別の建物の礎石となりました。別の建物とは、新しいイスラエルである教会であります。主イエス・キリストこそが、私たちの信仰の土台だということです。エペソ2:20には、「あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となる」と書いてあります。イエス様が礎石ならば、私たち一人ひとりは、建物のブロックであります。私たちが組み合わされることによって、神の宮になるということです。旧約聖書には、ソロモンが建てた立派な神殿がありました。しかし、バビロンによって破壊され、跡形もなく壊されました。バビロンからもどったユダヤ人が、第二神殿を建てました。それもギリシヤ人によって汚されました。最後にヒロデ王が40年以上もかけて、神殿を建てました。でも、紀元70年にローマによって破壊されました。もう、神の神殿はないのです。現在、エルサレムに行っても、壁しかありません。代わりにイスラム教の黄金の寺院が建っています。しかし、イエス様の敵たちは、何と言っていたでしょうか?「イエスが神の神殿をこわして、それを三日のうちに建て直せる」と言ったと証言しました。でも、彼らの言ったことは間違いではありませんでした。イエス様が神の神殿の礎石で、私たち一人ひとりが神殿の建物だということです。と言うことは、私たちの内に神様が宿っておられるということです。

 このように考えますと、教会は建物ではなく、私たち一人ひとりだということです。どうしても私たちは「教会」というと、教会堂をイメージしてしまいます。実際、教会でも「日曜日は、教会へ」と案内しています。正確には、「日曜日は教会堂へ」であります。もし、「日曜日は、教会へ」と言うならば、月曜日から土曜日までは、お休みと言うことになります。だから、日本はサンディ・クリスチャンが増えるのであります。教会は建物ではありません、私たち一人ひとりが教会なのです。確かに、日曜日は教会堂に共に集まって神様を礼拝します。でも、礼拝が終わったら教会は次の日曜日までお休みなのでしょうか?そうではありません、礼拝が終わったら、教会はこの世に出て行って、歩き出します。私たちは、月曜日から土曜日まで、この世において、教会をしているわけです。なぜなら、私たちが生ける神の宮であり、私たちの中に聖霊なる神が宿っておられるからです。考えたら、すごいことだなーと思います。日本には8000近くの教会があります。教会のない町や村がまだまだ、たくさんあります。でも、イエス様は「二人、三人が私の名において集まるところに私もいる」とおっしゃいました。ですから、3人集まれば、1つのセルになります。もし、1つのセルを教会として考えたら、いっきょに増えます。亀有教会に20のセルができたら、20の教会になります。もっと、信仰によって励み、100のセルを持った教会にして、この地にはびこっていきましょう。

 Ⅰペテロ2章では、キリストが礎石であることを詳しく述べています。Ⅰペテロ2:6-8なぜなら、聖書にこうあるからです。「見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。」したがって、より頼んでいるあなたがたには尊いものですが、より頼んでいない人々にとっては、「家を建てる者たちが捨てた石、それが礎の石となった。」のであって、「つまずきの石、妨げの岩。」なのです。彼らがつまずくのは、みことばに従わないからですが、またそうなるように定められていたのです。ユダヤ人はイエス様につまずき、イエス様を捨てました。でも、幸いなことに、イエス様が私たちの礎の石となりました。ペテロは旧約聖書を引用して、「彼に信頼する者は、決して失望させられることがない」と言いました。使徒パウロも9:33で「彼に信頼する者は、失望させられることがない」と言っています。私たちは失望させられることがよくあります。それは人間を頼っているからです。では、人間を決して信頼してはいけないかというとそうではありません。イエス様を土台とし、その上に人間を置くわけです。鈴木牧師を本当に信頼できるのだろうか?信頼したら、ずぶずぶと、一緒に沈んでしまうんじゃないだろうか?特に、亀有は地盤が悪いので、地震が起きたら液状化が起こります。でも、牧師の下にイエス様という礎石があったらどうでしょうか?あなたの夫、あなたの妻、教会の兄弟姉妹、信頼できるでしょうか?イエス様なしでは、完全に信頼できる人なんかいません。ある教会は、若い牧師がいつかないそうです。主任牧師が完璧主義なので、若い牧師には任せられないと思うのでしょう。本当はその牧師だって、若い頃は信頼に足りる者じゃなかったはずです。ですから、牧師自身も信徒や奉仕者を主にあって、信頼しなければなりません。

 でも、ありがたいですね。ユダヤ人がイエス様につまずき、イエス様を捨てました。だからこそ、イエス様が異邦人である私たちの救い主になったということです。私はときどき、島田伸介の鑑定の番組を見ます。あれは面白いですね。つぼとか、掛け軸、茶器、香炉…いろいろな骨董品が出てきます。だいたい、おじいちゃんが骨董屋から高く買った家宝が、実はガラクタだったということが良くあります。でも、だれかが捨てたものが、実はお宝だったということがたまにあります。ある人が倉庫を壊したら絵が何枚か出てきたそうです。その絵を外に放置していたので、通りがかりの人が「これもらって良いですか?」と1枚もらいました。その人が、鑑定に出したら、ものすごい絵だったというのを見たことがあります。ユダヤ人は「あのイエスはガラス玉だ」と捨てたんです。ところが、イエス様は本物のダイヤだったんです。私たちは本物のメシヤ、キリストをいただいているということです。私たちの人生において、いろいろ、誤った選択をしてきたかもしれません。結婚相手はそんなことないと思いますが、まがいものを買わされた、貧乏くじを引かされたとか、あるでしょう。でも、救い主イエス様を選ばせていただいた、信じさせていただいた。この選択があれば、他のマイナスはどうってことありません。ある人が競馬と先物取引でお金をすった。奥さんは「もし、競馬をしなかったなら、家が2件は建っていた」と言いました。でも、その人は死ぬ前にイエス様を信じて洗礼を受けました。ご病気で10年以上も苦しみましたけど、イエス様を信じて、天国に行けるんですから、元を取れたのではないかと思います。人生の最大の恵みは、主イエス・キリストに出会えたことではないでしょうか。「彼に信頼する者は、決して失望させられることがない」のです。主イエス・キリストに信頼する者は、決して失望させられることがありません。

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2007年11月 4日 (日)

何の権威によって    マルコ11:27-33

 いよいよ、エルサレムを支配していた宗教家たちとの論争が始まります。彼らは、このあと、嫉妬と怒りに燃えて、イエス様を十字架にかけます。彼らはイエス様が両替人の台や鳩を売る者たちの腰掛を倒したことを知っていたでしょう。また、勝手にエルサレムの中で教えたり、福音を宣べ伝えたことが許せなかったのです。それで、「何の権威によって、これらのことをしているのか、誰が、これらのことをする権威をさずけたのか」とクレームをつけてきました。イエス様が「私は神の子であり、神からの権威でやったんだ」と言えば、彼らは「神を冒瀆する者だ、許せない!」と怒り狂うでしょう。でも、知恵のあるイエス様は逆に「バプテスマのヨハネは、天から来たのですか、人から出たのですか」と質問し返しました。でも、彼らはどちらも都合が悪いので「わかりません」と答えました。それでイエス様も、「何の権威によってこれらのことをするのか話すまい」と言われたのです。きょうは、イエス様の権威の性質について3つのポイントで学びたいと思います。

1.隠された権威

祭司長、律法学者、長老たちは衣服や態度によって、自分たちがいかにも権威があるように見せました。お寺のお坊さんの袈裟もそうですが、刺繍をほどこした長袖の服を着て帽子をかぶり、顔を長くして、もったいぶった言い方をします。現代でも、ローマカトリックや聖公会、ギリシャ正教教会もその傾向があります。パッションという映画で見ましたが、彼らはいかにも宗教家という格好をしていました。私なんかは宗教的なのは好きじゃありません。では、イエス様の権威とはどういうものだったのでしょうか?イエス様は一般の人と同じ身なりをしていました。聖画のように、決して頭の上に輪があって、それが光っていたわけではありません。そしそうであったならどうでしょうか。イエス様はゲツセマネの園で真夜中、捕らえられました。ユダが手引きしてイエス様を捕らえようとしたとき、ユダは「あの頭の光っているヤツがそうだ」と言えばよかったのです。イエス様は、見かけは普通の人と全く同じだったのです。ただ、内側から権威がにじみ出ていたわけであります。私などはだまっていれば権威がありそうに見えるのですが、いざ、しゃべり出したり動き出すと、とたんに権威がなくなります。イエス様はそうではありません。

たとえば、イエス様が人々に教えられた後、人々はどう感じたでしょうか。マルコ1:22「人々は、その教えに驚いた。それはイエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである」とあります。また、イエス様は病を癒し、悪霊を追い出しました。ある時は、一言で嵐を静めました。マルコ1: 27、々はみな驚いて、互いに論じ合って言った。人々は、「これはどうだ。権威のある、新しい教えではないか。汚れた霊をさえ戒められる。すると従うのだ」と驚きました。つまり、宗教家たちは権威がないのに、権威があるような格好をしていました。しかし、イエス様は本当に権威があったので、普通にしていて良かったのです。でも、いざ、教えたり、ミニストリーをすると権威が香りのように湧き出てくる。良いですねー。「ベンー・ハー」という映画をごらんになったことがあるでしょうか。ベンー・ハーが奴隷に売られて、砂漠を歩きます。もう喉はカラカラです。そのとき沿道の人が可愛そうなので、ひしゃくで水を差し出します。鎖につながれたベンー・ハーが口を出して、飲もうとしたとき、ローマ兵がひしゃくを「バーン」と払いのけます。すると、ちょうど近くにおられたイエス様がベンー・ハーにひしゃくの水を差し出します。それを見て、怒ったローマ兵が「何をするんだ!」と近寄ったとき、イエス様の顔を見ました。すると、ローマ兵の顔がみるみる変り、「悪いことしたなー」とうなだれた顔になりました。もう、彼は何もできませんでした。私はあのシーンを見て、とても感動しました。「イエス様の権威とは、ローマ兵をも黙らせるんだなー」と思いました。

イエス様の権威は内側に隠されているのです。だから、子供たちも、罪びとや遊女までも気兼ねなく近づくことができたのです。イエス様は「私は権威があるんだぞ」なんて、人々に押し付けたりはしませんでした。神の御子のバッチをつけているわけでもありません。お側の人が、「この方をどなたとお思いか!頭が高いぞ!」と十字架のついた印籠を差し出す訳でもありません。本当に、人々の目から隠された権威でした。また、イエス様の中には、権威だけではなく、知恵と真理と愛と恵みが満たされていました。でも、隠れているので、人々が見過ごしてしまうのです。それは今の時代も同じです。私たちは大学教授とか専門家など、その道のオーソリティに意見を聞こうとします。クリスチャンでさえも、聖書のみことばよりも、NHKの放送番組を信じたりします。また、お医者さんやカウンセラーのことばを「神様のことば」のように受け取る人もいます。たとえば、お医者さんが「これは一生治りません」とか「もっても3ヶ月でしょう」などと断言します。彼らは責任を取りなくないので、最悪のことを言うわけです。でも、それを真に受けて癒しの信仰を捨てる人がいます。私は医者やカウンセラーを否定するわけではありません。でも、神様のことばが、イエス様がなんとおっしゃっているのでしょうか?果たして、どっちが権威があるのでしょうか?私たちは、せっかく燃えている信仰の火を、この世の考えで消すことはないと思います。イエス様の権威は、この世の人たちのようなパフォーマンスではありません。人々の目に隠されているのです。でも、それを見いだして、イエス様の権威に頼る人は幸いです。

私たちは毎日のディボーションで詩篇を学んでいます。詩篇62篇を少し引用させていただきます。1,2節「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私は決して、ゆるがされない」。7,8節「私の救いと、私の栄光は、神にかかっている。私の力の岩と避け所は、神のうちにある。民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神は、われらの避け所である。」アーメン。岩とかやぐら、避け所とは、神様の権威と力を象徴しています。どうぞ、この世のものではなく、イエス様の権威と力に身を寄せる者となりましょう。

2.コントロールしない権威

祭司長、律法学者、長老たちは恐れや圧力によって、人々を支配しました。彼らは神の律法や伝統ある教えをふりかざして、「人々にあれをせよ、これをしてはいけない」と説いたのです。もしも、従わなかったならどうなるでしょう。「神から断罪され、呪いと裁きをうける」と言う。また、彼らは「ユダヤ教の教会から破門されたならば、永遠に救いはない!」とまで言いました。だから、人々は仕方なく、恐る恐る彼らの言うことに従ったのであります。一方、イエス様の場合は、人々の自由意志を尊重しました。つまり、イエス様の権威は人をコントロールしない権威でした。神様ですから、生かすも殺すもできたはずですが、我らが救い主イエス様はそういうことはしなかったのです。黙示録3:20は、本当に心温まるみことばです。「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」私はこのみことばのたとえ話しでイエス様を心に受け入れました。私の心の中は、ちょうど私が住んでいた6畳一間と半畳の台所みたいなものでした。私は暗い部屋の片隅で膝っ小僧を抱いて座っていました。「人は何のために生きているのだろう。私はどこから来て、どこへ行くのだろう」と心の奥底で悩んでいました。でも、イエス様は長い間、私の名前を呼んで、心のドアを叩いていたのです。そのドアは、内側には取っ手がありますが、外側にはありません。イエス様は紳士なので、「開けろ!」とドアを蹴破ったりはしません。「私です。ドアを開けてください。一緒に食事をしましょう!」と親しい友のように頼んでいるかのようです。私はダメもとで、心のドアを開きました。そうすると光がバッと入ってきて、狭い天上が壊された感じがしました。次の朝になったら、何もかも変って、光り輝いて見えました。

しかし、イエス様はやさしいだけではなく、ときにはチャレンジされるときがあります。イエス様はあるとき、弟子たちをこのように召し出しました。マルコ1:17,18「イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」すると、すぐに、彼らは網を捨て置いて従った。「私について来なさい」、命令形にも取れます。でも、こちら側は、断ることもできます。現に、ある人たちは「エクスキューズミー。他に、どうしても用事があります」と断った人もいました。主は私たちのエクスキューズミーを受け入れてくださいます。「俺の言うことを聞かないヤツはもう知らん!どうにでもなれ!」とは言わないのです。私のように。でも、皆さん、イエス様のチャレンジに言い訳をしないで応答する人は幸いです。主の弟子になるとはこういうことです。「私はあなたに人生の主導権をお渡しします。これから私はあなたの仰せに、何でも従っていきますので、お導きください」と、約束することです。そうすると、主従の関係になります。イエス様が主人で、私はしもべだということです。イエス様に生かすも殺すもすべての権威があるということを認めたということです。そうするとどうなるでしょうか?私たちの人生がめちゃくちゃになるんですか?

もちろん、カルト宗教の教祖にそういう約束をしたら大変なことになります。実際にキリスト教会でも、「牧師に従わなければ呪われるぞ」とやるところもないわけではありません。そんなにストレートには言わなくても、祝福をなくすくらいは言うかもしれません。そうやって恐れによって人々をコントロールするかもしれません。そういう所にいる人たちは、神様に仕えているつもりで、組織や人間にあやつられているのです。キリスト教の場合は、人生が破壊されるかというとそこまではいきません。どういう教団や教会でも、やはり、神様のご加護があります。でも、その人は喜んで仕えているのではなく、恐れと律法のゆえに仕えているわけです。ですから、自由な考えや行動ではできません。いつも上の人にお伺いを立てながら、やるわけです。勝手なことをして失敗したら怒られるからです。しかし、こういう構造は、世の中と全く同じであり、キリスト教会が持つべき雰囲気とは違います。雰囲気とは何か空気みたいで、役に立たないように思えるかもしれませんが、そうではありません。カルト的なコントロールがかかっている教会と、御霊による自由がある教会では全く違います。そこにいるクリスチャンたちは、いつも笑っています。失敗を恐れないでチャレンジします。お伺いもたてる必要がなく、かしらなるキリストに聞いて、進んでやります。自分は価値ある存在と認められ、また信頼されているという安心感があるのです。これがキリストにある雰囲気です。うちの教会はそういう雰囲気があるんじゃないでしょうか。

イエス様は自由意志を尊重します。イエス様の御声に従うも従わないもあなた次第です。でも、ここに真理があります。神様の御声に従う者に対しては、神様の守りがあるということです。神様は、神の法律があるため、罪あるこの世に手を出すことはできません。テレビニュースや新聞紙上を見ると、さまざまな犯罪が起きています。「神様がおられるなら、どうしてこんなむごいことが起こるんですか!」と言いたくなるでしょう。でも、この世は、神様の権威を認めず、神様から離れて生きています。「神様、よけいなことはしないでくれ!」これが、神から離れた罪びとの世界です。でも、どうでしょうか?私たちが神様の主権を認め、神様に立ち返るならば、神様は御手を伸べることが合法的に可能になるのです。これはクリスチャンにも言えます。私たちがイエス様に従うならば、イエス様が私たちの生活を保障し、悪魔の支配からも私たちを守ってくださるのです。イエス様の権威に服することは、不自由になるのではなく、むしろ自由になるのです。イエス様の配下に属するなら、父なる神様が私たちの面倒をみてくださるのです。ハレルヤ!

3.神からの権威

祭司長、律法学者、長老たちの権威は借り物であり、偽ものでした。ヨハネ10章でイエス様はこうおっしゃいました。1節「まことに、まことに、あなたがたに告げます。羊の囲いに門からはいらないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です」。11,12節 「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。牧者でなく、また、羊の所有者でない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして、逃げて行きます。それで、狼は羊を奪い、また散らすのです。」ここに出てくる、「盗人で強盗、雇い人」とは、祭司長、律法学者、長老たちであります。なぜなら、彼らは神様の権威を横取りし、人々を食い物にしていたからです。この世にも宗教によって、人々を食い物にしている教祖がいっぱいいます。イエス様の時代、彼らが宗教を牛耳り、人々に対して救いの門を閉ざしていました。そして、神様の後取りであるイエス様が来られたとき、従うどころか殺そうとたくらんでいました。そのことは、マルコ12章に書いてあります。では、イエス様の権威とはどういうものだったのでしょうか?イエス様の権威は借り物ではなく、神様から与えられたまことの権威でした。三位一体の神である御子イエスも神たる権威はありました。でも、この地上に来られたときは、ご自分の権威を用いませんでした。なんと、イエス様は地上の生活において、父なる神様に完全に服従されたのです。ヨハネ5:19,27そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行なう以外には、自分からは何事も行なうことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行なうのです。・・・また、父はさばきを行なう権を子に与えられました。子は人の子だからです。

イエス様も神様でしたから、ご自分の意思と権威で、何でもすることができたのです。しかし、その権利を放棄したかのように、一切を父なる神様にゆだね、神様のご意思と権威に服したのであります。なぜでしょう?それは、私たち人類の代表となるためです。イエス様は私たちの代わりに完全に父なる神様に従い、十字架にかかられました。イエス様は私たちの代表として、また、私たちの代わりに父なる神様と契約を結ばれたのです。この地上のイエス様だけを見ると、イエス様は小さい神様のように見えます。現に、キリスト教の異端であるエホバの証人は、キリストの神性を認めません。神の被造物の中で最高のものがイエス様で、まことの神は旧約聖書のエホバだけだと主張します。エホバはまことの神であり大文字のGODですが、御子イエスは小文字のgodだと言います。ということは、神の三位一体性を認めていないということです。確かに地上のイエス様は父なる神に服従された方であります。しかし、もう一度言いますが、それは私たちの代表となり、また私たちの罪の贖いとなるためでした。でも、死んで三日目に復活し、天に昇り、神の右の座についてからはどうでしょう。イエス様は主の主、王の王になられ、父なる神様からさばきを行う権を与えられました。使徒2章に『主は私の主に言われた。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまではわたしの右の座に着いていなさい。』とあります。世の終り、御子イエスが生ける者と死にたる者とをさばいた後、父なる神に全権をお返しになるのです。

イエス様は私たち人間の代表として、父なる神様に完全に服従されました。十字架の死に至るまで従われました。その後、何が起きたでしょう?復活があり、昇天があり、着座がありました。イエス様は主の主、王の王となられたのです。ということは、私たちもイエス様のように、父なる神様に従うならば、たとえ死ぬようなことがあっても、神様は復活と冠を与えてくださるということです。イエス様を贖い主だと多くの人は認めますが、イエス様が私たちの模範者だとはなかなか認めません。とくにプロテスタント教会はそうです。「イエス様は神様だったから、あんなことができたんだ。罪に汚れている私たちは、100%従順することは無理だ」と諦めます。でも、1つだけ解決策があります。それは、イエス様ご自身もそうされました。ルカ4:1「聖霊に満ちたイエスは」と書いてあります。イエス様は聖霊に満ちて、何を最初になされたのでしょうか?悪魔の試みに会われました。いやですねー。でも、悪魔の試みに勝利してからどうなったでしょうか?ルカ4:14「イエスは御霊の力を帯びてガリラヤに帰られた」とあります。どうも、イエス様のように神様に従順し、神様のみこころを行うためには、聖霊が関係しているようです。聖霊に満たされ、御霊の力を帯びるとき、神様からの力と権威が与えられるのではないでしょうか?私たちはこの世で生きるために、神からの権威が必要です。それは悪魔を踏みつけ、罪に打ち勝つ力です。病を癒す権威、また世の人たちになめられない権威も必要かもしれません。うちの子供たちは、私が言うよりも、家内が言うことを聞きます。私は少々なめられているのかもしれません。その点は、家内の方が権威があるのかもしれせん。それはともかく、正しい権威は持つ必要があります。その権威とは外側だけを着飾るものではなく、内側からにじみ出てくるものです。外側はイエス様のように柔和で謙遜ですが、内側には神の子としての権威が備わっているべきです。そうでないと、私たちはこの世の罪と汚れにやられてしまいます。ある時は毅然として、罪に対してはノーと言わなければなりません。悪魔とその手下どもにも、「イエスの御名によって退け!」とはっきり命じるべきであります。そのような権威はどこから与えられるのでしょうか?それは、私たち自身が神様に従うことであります。私たちが神様に服従した分だけ、悪魔に対する権威が増し加わるからです。ヤコブ4:7「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」私たちは、神様の権威のもとに暮すとき、神様からの守りと神様からの権威が与えられるのです。

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