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2007年10月28日 (日)

神の信仰を持て    マルコ11:19-25

 イエス様はエルサレム郊外に植わっていた、いちじくの木を呪われました。そのいちじくは葉っぱばかりが生い茂り、実が1つもありませんでした。先週学びましたように、いちじくはイスラエルを象徴していました。彼らには立派な宗教がありましたが、形ばかりで命がありませんでした。それで、イエス様は呪ったのであります。次の朝、通りかかるとそのいちじくの木は、根まで枯れていました。呪われたいちじくは可愛そうでありますが、イエス様はそのことを通して、信仰の大切さを教えておられます。

1.神の信仰を持て 

 マルコ11:22イエスは答えて言われた。「神を信じなさい…。」日本語の聖書では「神を信じなさい」となっています。しかし、原文では、「神の信仰を持て」となっています。つまり、信仰とは自分の中からがんばって生み出すというものではなく、神様からいただくものなんだということです。特に奇跡を起こすような信仰などは、生まれつきの私たちにはありません。このような信仰はある時、神様から一方的に与えられるものです。ところが、私たちの方が、その信仰を受け取らなければ、神様のみわざは起こらないのであります。まず、神様はご自身の信仰をその人に与えようとします。もし、その人が神の信仰を持ったならば、今度は神様がその信仰を通して奇跡的なみわざをなすことができるのです。みなさんは自転車の乗り方を子供に教えたことがあるでしょうか。子供にハンドルを握らせます。パパは後ろから荷台を支えながら、押してあげます。子供は、ただハンドルを握っていれば良いだけです。あとは、ちゃんと倒れないように押して上げられます。でも、子供が「パパ、怖いよー」とハンドルを放したらどうなるでしょうか。ハンドルが右か左に、がくんと曲がってしまって、もう後ろから押すことができません。それと同じです。旧約聖書で最も大きな奇跡は、紅海が真っ二つに分かれたことです。「十戒」という映画で何度も見たことがありますが、ものすごい迫力がありました。モーセのすべきことは、杖を上げ、手を海の上に差し伸ばすことでした。主がなしたことは、強い東風で海を退かせ、海を陸地とすることでした。聖書で神様は何度も「恐れるな」とおっしゃっています。それは、「恐れて信仰を捨ててはいけない。あなたが信仰を持っていれば、私が道を開く」とおっしゃっているのです。

次に、信じることが何より先であることを学びたいと思います。マルコ11:24「だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」たいていの人は、受け取ってから信じようとします。しかし、それはあべこべです。信じることが最初に来るのです。祈ることはとても大切です。でも、人が繰り返し、繰り返し同じことを求めるならどうなるでしょうか。たとえば、子供が私に「あのおもちゃを買ってくれ」と求めたとします。私は「わかった、今度の給料日に買ってあげるよ」と約束しました。それなのに、子供が次の日、「パパ、あのおもちゃ、きっと買ってね」と求めました。私は「OK、買ってあげるよ、楽しみに待っていてね」と答えます。ところが、子供は三日後にまた「パパ、あのおもちゃ、きっと買ってよ」と言ったらどうなるでしょうか。私は少々怒りながら「パパをどうして信じることができないの。必ず買ってあげるから待っていなさい」と答えるでしょう。ケネス・へーゲンの『祈りにおける神のみこころ』という本にこのように書いてありました。もし、だれかが同じことを再度求めるとすれば、最初に求めた時、それを受けたと信じてはいなかったのです。もし、それを受けたと信じていたら、彼はそのことのゆえに神に感謝しているはずであり、また、それが明らかになるはずです。私たちは自分の肉眼で答えが見えていなくても、「私が祈り求めているものを、私は受け取っている」と心で信じるべきです。このことは肉体の癒しにも当てはまります。しかし、肉体の癒しのために信仰を実行することは、他の何よりも難しいように見えます。なぜなら、私たちには体があり、様々な感覚や症状と戦わなければならないからです。たいていの人は、自分の症状が良くなったとわかってから、あるいは、様々な症状(兆候)がなくなってから、「神は癒して下さった」と信じます。自分で見てわかることなら、だれでも信じることができます。イエス様がこの箇所で教えておられるのは、「私たちは祈る時に信じるべきであり、そうすれば、その後で私たちは受け取るようになる」ということなのです。

ケネス・へーゲン先生が、長年にわたって実行してきた信仰は、そのような信仰でした。マルコ11:24は、先生の頼りとするみことばになっており、病気の癒しだけではなく、生活のどんな分野についても当てはまると言っています。つまり、それは物質的必要でも、霊的必用でも、あるいは経済的必要でも、そのように受け取ることができるということです。どういう信仰だったでしょうか?それは自分の肉眼で答えが見えていなくても、「私が祈り求めているものを、私は受け取っている」と心で信じるということです。私の尊敬する先生の中に、チョー・ヨンギ先生がいらっしゃいます。私はチョー先生の賜物は「信仰」だと思います。この教会に来られた、メルボンド師も同じ賜物があると思います。牧師は羊飼いとして、神様から任された羊の世話をするべきでしょう。家庭を訪問したり、カウンセリングしたり、教えたり、祈ってあげたり、具体的に助けてあげたり色々なことをすべきでしょう。でも、チョー・ヨンギ先生は、何十万人もの信徒たちをどのように養われたのでしょうか?日本の牧師なら100人も信徒がいたら、大忙しでしょう。本当に世話をしようと思ったら、10人でも多いくらいです。たとえば、チョー先生が病の癒しをなさるとき、一人ひとりに手を置いて癒しを行っていません。また、一人ひとりを呼んでカウンセリングもしていません。もし、そんなことをしていたら、体と時間がいくらあっても足りないでしょう。チョー先生がなさることは、神のことばを人々に与えることです。癒しのことばを宣言したとき、人々が「アーメン」と信じたとき、人々が癒されます。手を置いていないのです。信徒が自分でみことばを信じて癒されるのです。また、経済的に祝されるように、祝福のことばを聖書から宣言します。そのとき、人々が「アーメン」と信じとき、人々が祝福の中を歩むようになるのです。また、先生は自分で聖書を読んで、みことばから信仰を得なさいと教えておられます。もちろん、何十万人もの区域長が1つ1つの家庭をお世話しています。が、チョー先生は、区域長たちも含め、信徒たちに神の信仰を与えて養っておられるのです。

牧師ができる最大のことは何でしょう。それは聖書のことばから神の信仰を持つように勧めることであります。もし、自分が一人ひとりを手助けするなら、命がいくつあっても足りないでしょう。でも、彼らが聖書を読み、約束のことばを握って、求めるならどうでしょう。神様ご自身が、彼らを癒し、彼らに経済的な必要を与え、彼らを様々な困難から救ってくださるでしょう。つまり、実際にみわざをなして下さる神様を紹介し、聖書のことばから信仰を持つことを勧めることが何よりも大事なのです。チョー先生がよくおっしゃっておりました(今も生きておられますが)。もし、あなたが救いのことばを語るなら、人々が救われます。もし、あなたが聖化(きよめ)のことばを語るなら、人々は聖められるでしょう。でも、あなたが来る日も来る日も聖めのことしか語らないならどうなるでしょう。人々は聖められるかもしれないけれど、癒しや経済的な祝福は得られないでしょう。だから、あなたは福音の1部分だけではなく、福音の全部を語りなさい。そのように教えられたことがあります。日本のクリスチャンは霊的なことだけを求める傾向があります。経済的な祝福や病気の癒しは、ご利益信仰だと馬鹿にして退けます。だから、教会は貧しく、病気の人たちがたくさんいるのです。なぜなら、そういう分野の信仰を説いていないからです。私たちは天国に行ったら、倉庫に案内されるかもしれません。神様が私たちに与えようとしていたものが、受取人不在のために山積になっていたら、どんなにがっかりするでしょう。天国は豊かなところなので、そういうものはもう不要です。でも、父なる神様が神の子たちが、この地上で豊かに生活できるように、多くのものを用意しておられるのです。ですから、神の信仰を持ちましょう。イエス様がおっしゃいました。「だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」肉眼で答えが見えていなくても、「私が祈り求めているものを、私は受け取っている」と心で信じましょう。

2.告白の力

マルコ11:23 まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。信仰がやってきても、その後にすぐ疑いがやってくるでしょう。そのためには、私たちは信じたことを告白することがとても重要です。私たちは告白というと、すぐ思い出すのは、罪の告白であります。Ⅰヨハネ1:9には、罪を告白するなら、その罪が赦され、すべての悪からきよめられると書いてあります。罪の告白はもちろん大切ですが、それは告白の消極面であります。イエス様はこのところで、告白の積極面を教えておられます。23節に何と書いてあるでしょうか。だれでも、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。ここに、「言って」「言った」と告白が、2回出てきます。ケネス・ヘーゲン先生は、この聖句をこのように訳しています。「だれでも…言って、心の中で疑わず、自分の言っていることが起こっていると信じるなら、何でも彼が言うことは彼になる」。つまり、イエス様は「あなたが言うとおりになる」と言われたのです。もしあなたが心の中であることを信じるなら、…それが積極的なことであれ、あるいは消極的なことであれ…そして自分の口でそれを言うなら、あなたは現実にそれを得るようになるのです。前も学びましたが、イスラエルの民は悪い報告を受け入れ、「我々にはできない。我々はあの地を占領することはできない」と言いました。実際、彼らが占領することはありませんでした。イスラエルの民は、自分たちの言ったとおりのものを受け取りました。彼らはみな、死ぬまで荒野をさまよい続けたのです。一方、カレブは「私たちは上って行ってそこを占領しよう。必ずそれができるから」と言いました。ヨシュアも「ただ、主にそむいてはならない。彼らは私たちのえじきとなるからだ」と言いました。つまり、ヨシュアとカレブは「私たちの神は、彼らを私たちの手に渡すことが十分できる方です。私たちは彼らに打ち勝つことが十分可能です」と言いました。そして、自分たちが言ったとおりのものを受け取ったのです。みなさんにプリントでお分けしましたが、「あなたは自分の口で言うものを受け取ることができるのです」。

失敗する人の特徴は、失敗することばかりしゃべっていることです。まだ、失敗していないのに、失敗することを想定し、失敗することを準備しているのです。もちろん、失敗することもあるでしょう。でも、成功を常に考えている人は、失敗も貴重な体験になるのです。でも、失敗を予想している人は、「ああ、やっぱり失敗したか」とそこに座りこんでしまうでしょう。箴言6:2「あなたは口のことばによって、あなた自身がわなにかかり、あなたの口のことばによって、捕らえられる」と書いてあります。ということは、私たちの語ることばによって、幸いが来たり、災いが来たりするのです。なぜなら、私たちの語ることばと信仰とは深い関係があるからです。ケネス・ヘーゲン先生がこのように教えています。私たちが言うことが、私たちの告白なのです。そして私たちの告白、すなわち言うことは、私たちを支配するのです。イエス様はそのように言われました。「自分の言っていることが起こっていると信じるなら、何でも彼が言うことは成るからである」。ヘブル4:14に「さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか」とあります。正しい告白とは何でしょうか。それは、私たちには偉大な大祭司、神の子イエスがおられるということです。そして、間違った告白とは、敗北とか失敗を告白したり、サタンがすぐれていることを告白することです。彼らは、悪魔がどんなに自分を病気にしているか、束縛しているか、どんなに苦境にあるか話します。けれども、彼らがしているそういう告白は、無意識のうちに、私たちの父なる神様は失敗者であると宣言していることなのです。どうぞ、悪魔やサタンのことを話すのはやめましょう。私たちには十字架で罪と死とサタンを滅ぼして復活された、大祭司イエスがいるのです。「私たちの中におられる御霊が、この世の霊よりも大きい」と信じて、告白し続けましょう。もし、私たちがみことばのとおり告白するならば、私たちの大祭司は行動を起してくださるのです。アーメン。

 イエス様は、「心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります」と言われました。私たちは信仰を一度持ったならば、恐れと疑いに勝利しなければなりません。別な言い方をするなら、ずっと信仰のことばを告白し続けなければならないということです。私たちは自然の領域で恐れを感じることがあるでしょう。もっと病気がひどくなるんじゃないかとか、借金が増えて破産してしまうんじゃないかという思いがくるかもしれません。しかし、それでも、恐れを告白すべきではありません。なぜなら、恐れは神から来るものではないからです。私たちの内には聖霊様がおられます。聖霊は恐れの霊ではありません。Ⅱテモテ1:7に「神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です」と書いてあります。では、恐れはどこから来るのでしょうか。それは、外側から来て、あなたを捕らえようとするものです。それは、敵である悪魔から来るものです。ですから、私たちは恐れを告白すべきではありません。むしろ私たちは、力と愛と慎みとを告白をすべきであります。それと同じことが疑いについても当てはまります。「疑いを認めるな」と言うわけではありません。たとえ、疑いがやって来ても、それを口に出して言ってはいけないのです。なぜなら、疑いは悪魔から来るからです。疑いはクリスチャンに属するものではないので、私たちは疑いを話題にすべきではありません。ある人たちは、自分に正直になることが大切だと主張します。だからと言って、疑いがやってきたから疑いを言って良いわけではないのです。私たちは疑いを抱くように誘惑されたとしても、悪魔に抵抗することによって、悪魔を敗走させることができるのです。ですから、疑いを告白しないようにしましょう。信仰を告白しましょう。

ヤコブの手紙3章に舌のことが書いてあります。「舌は馬のくつわのようであり、からだ全体を引き回すことができます。舌は火であり、小さい火でも大きい森を燃やします。舌は私たちの器官の1つですが、からだ全体を汚し、人生の車輪を焼きます」とあります。私たちはこの舌を良いことに用いるなら、すばらしいことが起こります。逆に、悪いことに用いるなら、破壊的なことが起こるでしょう。説教を聞いて、聖書を読んで信仰がやってきました。その後、信仰のことばを告白すれば良いのですが、「やっぱ現実は厳しいからなー」と言ったりします。あるいは、聖書のみことばから「キリストの御霊によって私は癒された」と信仰を持つことができました。でもその後、友人から「あなたの病気はどうですか」と聞かれます。すると思わず「なかなか治らないですね」と答えます。ということは、あなたの舌が、神からいただいた信仰をキャンセルしてしまったということです。先日、年配の方々が自転車を乗りながら、ことばを交わしていたのが耳に入りました。一人の人が「もう、年だから、どこかかしか悪くなるよねー」と言ったら、もう一人の人も「本当にそうだよね。俺も○○だ」と答えていました。ひょっとしたら、自分が持っている病気の自慢大会が続いたのかもしれません。「俺は血圧が高くて薬飲んでんだ」と言うと、「俺は肝臓が悪くて医者通いだよ、もう先長くないよ」。「私は手足の関節が痛くて」と言うと、「私なんか椎間板ヘルニヤだよ、いつか歩けなくなるよ」なんて答える。ある人は「もう年だから、病気の1つや2つ当たり前だね。一病息災というけど、なんか病気があるから、体を大事にするんだよね」と、病気を肯定したりします。ヤコブは、「舌は体で最も小さな器官であるが、体全体を引き回すことができる」と言いました。あなたが「自分は年だから」と言うなら、言語中枢が「体全身よ、全力をもって老化を進めよ」と命令するでしょう。もし、「最近、物忘れがひどくて、ボケが始まったのかな」と言ったとします。すると、言語中枢が「頭脳よ、さらに物を忘れ、ボケになるように」と命令するでしょう。どうぞ、体の感覚や世の中の常識に左右されないようにしましょう。私たちは聖書のことばをもって、自分に言い聞かせ、信仰を与えるようにすべきです。イザヤ書40:31「 しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない」。アーメン。「モーセが死んだときは120歳であったが、彼の目はかすまず、気力も衰えていなかった」(申命記34:7)とあります。「老眼だ、老眼だ」と言っていれば、ますます老眼になります。「私はモーセのように、目はかすまず、気力も衰えない。アーメン」と告白すればそうなると信じます。どうぞ、聖書を読んで、神のみことばと同じことを告白しましょう。そして、神のことばと反するようなことばを一切、口から出さないようにしましょう。もう一度、繰り返します。「私が祈り求めているものを、私は受け取っている」と心で信じましょう。「あなたは自分の口で言うものを受け取ることができるのです」アーメン。

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2007年10月21日 (日)

呪われたいちじく    マルコ11:11-18

 最近礼拝の人数が少なくなるときがあります。私は「教会は人数じゃない」と言っていますが、それでもやっぱり気になります。英語で「コミットする」という表現があります。日本語で訳しにくいことばです。しいて訳すなら、献身するとか、専念するという意味です。つまり、他のことはさておいて、このことに自分は時間とお金をかけるか、優先順位のトップにするということです。みなさんは何にコミットしていらっしゃるでしょうか?何を優先順位のトップにしておられるでしょうか。きょうは、そのようなことを共に考えるようなメッセージです。

1.呪われたいちじく

イエス様はいちじくの木をご覧になって、実がないのでその木を呪われました。その理由は、「いちじくのなる季節ではなかったからである」と書いてあります。「えーなんでー?」と言いたくなるでしょう。いろんな解釈があり、ここは大変難しい箇所ですが、私なりにこのように結論付けております。そのいちじくの木は異常だったのであります。どうしてかと言うと、季節でもないのに葉っぱが生い茂っており、さも、実がありそうな感じだったのです。イエス様は、「季節でもないのにどうしてこんなに葉っぱが生い茂っているのだろうか。ひょっとしたら、実があるのかな」と探してみました。しかし、1個もなかったのです。実は、いちじくの木はイスラエルを象徴しています。ヨハネ1章に書いてありますが、ナタナエルは、いちじくの木の下で祈っていました。それは、イスラエルの繁栄の回復のため祈っていたのではないかと思います。エルサレムの郊外に植わっていたいちじく、葉っぱだけが生い茂り、実が1つもなかった。これはどういう意味でしょうか?イエス様はエルサレムに入り、彼らの信仰が形式的で、偽善的なことをつぶさに見るわけです。イエス様は確かにいちじくの木をのろいましたが、それはエルサレムのことだったのです。エルサレムは宗教的には確かに栄えていましたが、命がなく、形ばっかりだったのす。イエス様はマタイ23章で「忌まわしいものだ」と偽善的な律法学者やパリサイ人たちをさばいています。

そして、イエス様が15節から、「宮きよめ」をしています。ヨハネ2章には、イエス様は縄で鞭を作り、羊や牛を追い出し、両替人の金を散らし、その台を倒したと書いてあります。一般に、イエス様はおとなしい方と想像されていますが、そうではありません。マシンガンは持っていませんが、映画の「ランボー」に似たところがあります。イエス様は何をごらんになられたのでしょう。まず、人々が宮の中で売り買いしていました。日本でも、どこかの神社の縁日には、たくさんの店が出ています。近くに帝釈天というのがありますが、団子家さんとか、おみやげ品店が軒を並べています。また、イエス様は、両替人の台や鳩を売る者たちの腰掛けを倒したとあります。当時は、一般のところではローマの貨幣が使われていました。その貨幣にはカイザルの肖像が刻まれていたでしょう。しかし、神殿にささげるお金は、そんなお金じゃなく、イスラエルの貨幣が必要でした。そのため、神殿の中には両替商がいました。私たちは外国に行くとき、飛行場なので両替をします。交換するときに手数料がかかり、また円に戻す時も手数料がかかります。「エンカゲンにせーよー」と言いたくなります。両替人はお金を右から左に移しただけで、もうけているわけです。また神殿の中では鳩や羊も売られていました。なぜなら、人々が遠くから犠牲の動物を連れてくるのは大変です。また、傷や欠けのある動物はふさわしくないので、神殿の中にはちゃんとした動物が売られていたのです。これもまた、1つの商売になっていました。旧訳の預言書にも書いてありますが、「私は動物の脂肪には飽き飽きした。本当にささげるべきものは、あなた方自身の心なんだと」ということでしょう。そこには宗教はありましたが、人々の神様に対するまことの信仰がなかったのです。全く、形骸化し、命なかったのであります。

これは、現在のヨーロッパの教会にも言えることであります。私は実際には行ったことがありませんが、ロンドンのウェストミンスター寺院は今や観光地になっています。かつては、F.B.マイヤーやロイド・ジョーンズが説教した教会です。アメリカのメガチャーチはどうでしょうか?ステージに魅力的な歌い手やメッセンジャーが登場します。大ホールの中で、人々は目をつぶり、手をあげ、恍惚状態になっています。かつてはあのような教会に私もあこがれました。テレビを見ていて、「亀有教会は、あのブロックの1枡にもいかないだろうなー」と寂しく思いました。しかし、みなさんクリスチャンは礼拝堂にいるときが、大切なのではありません。礼拝堂で「ハレルヤー、主をあがめます」とやっても、家に帰って、妻や子供たちをビシバシ叩いたらどうでしょうか。教会では聖い手をあげているつもりですが、ビジネスや政治では、全く裏腹なことをしている場合もあるのです。イザヤ書58章には宗教に対してまことに辛らつなことが書いてあります。人々は断食までして非常に宗教的に熱心です。ところが、私生活において労働者をしいたげ、貧しい人には決して与えません。隠れたところでは、自分が好むことをし、おしゃべりばかりしています。もう、「宗教ごっこはやめてくれ」と言っているかのようです。つまり、教会はうわべだけの華々しさや、敬虔さに騙されてはいけないということです。ダンスや音楽が悪いと言っているわけではありません。集会とかイベントよりも、日々の神様との関係が大切だということであります。あっちこっちの集会やイベントを廻って、自分の生活を疎かにしているクリスチャンもいないわけではありません。

一番大切なことは何でしょうか。それは主の臨在であります。私たちが集っているところに、「主がおられるだろうか!」ということです。イエス様は「私の家は祈りの家と呼ばれるべきだ」とおっしゃいました。祈りは神様との交わりであり、そこに主がおられるということであります。でも、ふだんはちっとも祈らないで、すばらしい恵まれた集会に行けば良い。そこですばらしい音楽を聞いて、すばらしいメッセージを聞けば恵まれる。教会が劇場になって、1つの楽しみになる恐れがあります。ステージの人たちも演技をし、会衆も恵まれたクリスチャンを演技する。帰ってくると、普通の人になり、世の中の人と同じことをする。それではいけません。主の臨在とは私たち一人ひとりがかもし出すものであります。なぜなら、主の宮とは建物ではなく、私たち一人ひとりだからです。Ⅰコリント6章には「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか」と書いてあります。また、Ⅰコリント3章には「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられるのを知らないのですか」と書いてあります。Ⅰコリント6章では個人が神の神殿と書いてありますが、Ⅰコリント3章は「あなたがたが神の神殿」と言っています。つまり、神殿とは建物ではありません。また、華やかな劇場やイベントでもありません。私たち一人ひとりがキリストの御名によって集まり、組み合わさったものであります。ハレルヤ!教会とは建物ではなく、私たち自身です。御霊なるキリストを宿した者たちが集まる。すると、そこに生ける大いなる、主イエス・キリストが現れてくださるのです。私はそういう意味で、このような礼拝は大切ではないかと思います。なぜなら、ここで心を合わせ賛美し、心を合わせ祈るからです。ですから、まったく未信者さえも、この礼拝で神様を体験することができます。「ああ、ここに神様がおられるなー」ということが分かるのです。私たちは華やかな劇場のような教会ではなく、今も生きておられる主イエスを心からあがめる教会を作りたいと思います。そして、教会という建物の中で輝くのではなく、暗い世の中に遣わされて、「世の光」として輝きたいと思います。

2.祈りの家

「私の家」とは、イザヤ書56章からの引用であります。イザヤ56:2「幸いなことよ。安息日を守ってこれを汚さず、どんな悪事にもその手を出さない、このように行なう人、これを堅く保つ人の子は。56:6、7「また、主に連なって主に仕え、主の名を愛して、そのしもべとなった外国人がみな、安息日を守ってこれを汚さず、わたしの契約を堅く保つなら、わたしは彼らを、わたしの聖なる山に連れて行き、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。彼らの全焼のいけにえやその他のいけにえは、わたしの祭壇の上で受け入れられる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるからだ」。つまり、祈りの家とは、安息日礼拝と関係があります。これを新約的に言うならば、聖日礼拝を喜んで守るということです。私は座間キリスト教会では、「聖日礼拝厳守」と言われて育ちました。大川牧師はから「昔は這ってでも来いと言われたものだ。来ることができるのにサボるのはよくない。私たちの信仰を守る律法もある」と言われ、私は休んだことがほとんどありません。セルチャーチになってから、日曜日だけが礼拝ではなく、毎日が礼拝と思っていますが、週一回はなんとか工夫して、礼拝を守っていただきたいと思います。仕事や、ご商売で日曜日休めない人もおられると思います。他の日にでも結構ですから、ビデオやインターネットがあります。また、最近は衛星放送でキリスト教番組をいつでも見ることができます。1週間、1時間でも聖別して礼拝の時を持つのはすばらしいことです。なぜなら、一週間に一日休んで、これを聖としなさいというのは創世記や出エジプト、預言書にあるからです。そうしないと、私たちの信仰はこの世の価値観に吸収され、塩気がなくなってしまうでしょう。

また、「私の家」とは、実際に神殿で祈りをささげるということです。新約時代においては、マタイ18:19,20が重要な聖句だと思います。「 まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」共に集まって心を合わせて祈る、ことがとても大切です。なぜなら、一人で祈るよりも、主がそこに臨在して、どんな祈りもかなえてくださるからです。ですから、使徒の働きを見ますと、初代教会はよく祈っていたことがわかります。使徒の1章では、120人が聖霊を待ち望んで祈っていました。使徒1:14「この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念していた」。10日後、彼らが集まっていたところに、聖霊が火のように風のように下って来たのであります。また、迫害が始まったときも集まって祈りました。使徒4:24「これを聞いた人々はみな、心を一つにして、神に向かい、声を上げて言った」。29-31「主よ。いま彼らの脅かしをご覧になり、あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。御手を伸ばしていやしを行なわせ、あなたの聖なるしもべイエスの御名によって、しるしと不思議なわざを行なわせてください。」彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだした」。ペンテコステの再来を見るようであります。また、ペテロが捕らえられたとき、「教会は彼のために、神に熱心に祈り続けていた」と使徒12:5にあります。

 個人のディボーションとセルによる祈りを強調してから、いわゆる「祈祷会」を開かなくなりました。ある人から「祈祷会のない教会は教会ではない」とお叱りのことばをいただいたことがあります。私はこう見えても、信仰を持った時から早天祈祷会、水曜祈祷会、断食祈祷会、徹夜祈祷会、合心祈祷…なんでもやってきました。韓国の教会から影響を受けたからかもしれません。でも、早天祈祷会よりも、個人で神様と聖書を通して交わるディボーションは、10倍くらい喜びを感じました。また、1990年にラルフネィバー師が来日して、セルチャーチについて話されたとき大変ショックを覚えました。彼は「教会では祈祷会を開いて祈るが、実際に問題のある人のところへは行かないで遠隔操作で祈っている。なぜ、問題のある人のところへ直接行って祈らないのか」と言いました。確かに、祈祷会では祈りますが、個人の深い悩みや問題は打ち明けません。全体的な祈りの課題だけになったり、人の手前、美しい祈りをしてしまいます。でも、セルの集まりでは、もっと深刻な課題も祈り合うことができます。ですから、私はある時から、早天をディボーションに、祈祷会をセルに変えたのであります。もう、10年以上たちますが、少し反省点もあります。セルの祈りは深い祈りはできますが、とりなしの祈りがどうしても自分たちのものだけになります。また、大声で宣言するということもとても大事です。私たちは顔を上げて「そうなることを信じます」と口で言うことがとても大事なんです。そういうチャンスはあるでしょうか。祈祷会という単なるプログラムになるのは反対ですが、祈りの勇士たちが、祈り会を開くというのは大賛成です。今、ヨシュアの祈り会が毎週土曜日開かれています。こんど、11月3日は断食をもって祈る日と決めているようです。ぜひ、なさってください。

 日本で、祈祷会を大事にして成長している教会がいくつかあります。それは母教会の大和カルバリーチャペル、主都福音百合丘教会、儀間先生の沖縄リバイバル教会…他にもあります。大川牧師は聖日礼拝は潮干狩り的説教で、初めて教会に来た方でも分かり易くて溺れない説教をします。でも、水曜と木曜の祈祷会では、もっと堅い食物、チャレンジを与える説教です。でも、私は「セル教会いのち」になりましたので、逆戻りする気はありません。日本の教会は礼拝と祈祷会をやっていれば良いというところがあります。でも、多くの祈祷会は10名未満のところが多いと聞きます。私もこの教会では平均5名くらいでした。それよりも、私はセルグループが週に一度、集まってみことばを分かち合って共に祈ることを強くお勧めいたします。また、とりなしの重荷が与えられた人たちが、共に集まって祈り会を持つということもすばらしいと思います。そして、時々、聖会も開いたらとっても祝福されます。聖会は旧約聖書のところどころに書かれています。献身とか聖めのメッセージ、あるいは癒しと解放、聖霊充満ための按手ができます。なかなか、聖日礼拝では泣いたり、叫んだりはできません。泣けば良いというものじゃありませんが、聖会は恵まれます。インドネシヤでは男性のための集会や女性のための集会があります。エディ・レオ師などは、3日間の聖会で、10回近く話してくれます。もう、みことば漬けであります。むこうの国の人たちは、日本と違って、長い話が喜ばれます。せっかく遠くから来たのに30分じゃもったいない。1時間のメッセージを休憩を挟んで、何度もしてもらいます。私もそういうのは大好きです。みなさん、1週間に30分のメッセージを聞いただけで、人生が変わるでしょうか。それで、霊性が維持できるでしょうか?月に1度の人だっていますので、よっぽど工夫しないと、聖書から離れてしまします。信仰は生き物です。個人で聖書や信仰書を読み、祈りのときを持つ。また、共に集まりみことばを分かち合い共に祈る。そして、公の集会で共に賛美し主を礼拝する。テレビを見ていると1時間、2時間がすぐたってしまいます。なんとか、主と交わる時を確保しましょう。

 日本はお隣の韓国と違って、リバイバルが来ていませんので、霊的環境がものすごく悪いです。外国に行くとものすごく祈りやすいのですが、日本に帰ってくると霊的な圧迫を感じて祈れないというのは事実だと思います。テレビや新聞には、悪いニュースがいつもいっぱいです。私は2,3日どこかのセミナーに出席すると、テレビや新聞を見ないので、とっても恵まれます。そして、外界に降りてくると、「ああ、あんな事件があった」のかと初めて気がつきます。正直言って、ニュースを全部知らなくても生きていけます。新聞はつまみ喰い程度にして、なんとか信仰的なことに時間を取ることはできないでしょうか。私は牧師として幸いなのは、毎週の日曜日、説教しなければならないことです。どうしても聖書を読んで、瞑想するでしょう。また、他の信仰書も読みます。ダイヤル一日一生もあり、その日の箇所を読んでちょっと解説します。本当に守られているなーと思います。説教の奉仕というのは、自分の信仰をキープするためにもありがたいのであります。一番大切なのは、霊的な飢え渇きであります。詩篇42篇は歌にもなっています。「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。いつ、私は行って、神の御前に出ましょうか。…わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。なぜ、御前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の救い、私の神を」。確かにこの地上で生活をしていますと、霊的にダウンするようなことがいっぱいです。でも、私たちは必死になんとか工夫して信仰を保っていく必用があります。どんな環境でも、信仰の火を絶やさないで燃やし続ける必要があります。ですから、私たちはすぐ側におられる、神様に近づくのです。神様は私たちが一歩近づくと、二歩近づいてくださいます。わずかな時間でもとって、みことばを読み、「ハレルヤ!主を感謝します。人にはできないことも神にはできます。アーメン」と口ずさむ。それだけでも、ぐーんとアップします。ときどき、否定的なことが浮かんだりするでしょう。悩みや誘惑が来るかもしれません。そのとき、「おお、主よ、私を贖ってくださって本当にありがとうございます。あなたに求めます。あなたはなんでも答えてくださいます。アーメン」。新約では、私たちが神殿なのです。私たちが移動式の神殿、祈りの家なのであります。ですから、どんな時でもどんな場所意でも、「おお、主よ」と祈ることができるのです。ある人が、「聖書は霊的な食物、祈りは霊的な呼吸」と言いました。私たちの信仰がいつも燃やされ、聖霊に満たされた歩みができますように。アーメン。

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2007年10月14日 (日)

主がお入用なのです   マルコ11:1-10

 イエス・キリストがエルサレムに入城するのは日曜日です。そして、その週、十字架にかけられ、次の週の日曜日復活します。そのことが、マルコ11章から16章まで書かれています。マルコによる福音書は16章までですから、全体の三分の一が、一週間に起こった出来事であります。ということは、マルコ福音書は十字架が中心と言っても過言ではありません。ところで、イエス様はろばの子に乗って、エルサレムに入城したわけですが、そのことが一体どういう意味があるのでしょうか。2つのポイントで学びたいと思います。

1.ろばの子に乗って

 ニュースでは、総理大臣の支持率というのがよく取り上げられています。就任したときが一番高くて、数年たつと、低迷していくようです。イエス様の支持率は群衆にパンを与えたときがピークでしたが、だんだん落ちてきました。なぜなら、相変わらず、ローマがイスラエルを支配しており、政治的にも経済的にも全く変化がなかったからです。しかも、「人の子は捕らえられ殺され、三日の後によみがえる」などと、訳のわからないことを言っています。メシヤが死んでしまったら、元も子もありません。しかし、この日曜日、もう一度、支持率が高まり、人々は「ホサナ、ホサナ」とイエス様を歓迎しました。彼らの心の中に、「もしかしたら、イエスがエルサレムで革命を起してくれるんじゃないか」というわずかばかりの期待があったのでしょう。でも、その期待は見事に裏切られ、同じ群衆が今度は「十字架につけろ!十字架につけろ!」と暴徒と化すのであります。人々の支持率というか、群集の心というものは、まことにいい加減なものであります。それでも、イエス様は人々の歓迎を受けて、エルサレムに入城しました。しかし、そのスタイルと言いましょうか、方法が、まことに奇妙であり暗示的でした。普通、王様が入城する場合は、二頭立ての馬車もしくは着飾った軍馬が当たり前であります。ところが、イエス様の場合は、あえてろばをしかも、子どものろばを用いたのであります。どうでしょう、王様がろばの子どもにまたがって、入城するというのは少し滑稽ではないでしょうか?

 まず、11章のはじめを見て、不思議に思いませんでしょうか?イエス様はオリーブ山のふもとにいるのに、「向こうの村にろばの子がつないである」ということを超自然的に知っていました。そして、飼い主が「なぜ、そんなことをするのか」と言ったら、「主がお入用なのです」と答えなさいと言いました。二人の弟子が向こうの村に出かけると、ことばどおり、ろばの子がつないでありました。それで、飼い主に「主がお入用なのです」と言うと、「ああ、そうですか」と許してくれました。イエス様が申し送ったことばに、その人は従わざるを得なかったのであります。なぜなら、イエス様のことばは、生きており、力があったからです。それはともかく、なぜ、イエス様はロバ、しかも子ろばにまたがったかであります。マルコ福音書ではわかりませんが、マタイの福音書には、旧約の預言の成就であると書いてあります。ゼカリヤ書に、その預言があります。ゼカリヤ9:9「シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜わり、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。」メサイヤでは、ソプラノのソロが、このところを Rejoice, rejoice greatly と美しく歌います。ゼカリヤ書には、メシヤの預言がありますが、大きく分けて二段階あります。第一段階は、初臨のメシヤであり、とても謙遜なメシヤであります。クリスマスで地上に生まれ、人間として成長し、十字架にかかって死ぬメシヤです。もう一段階は、世の終りに現れる再臨のメシヤです。再臨のメシヤは、恐るべき王であります。黙示録19章にはこのように書かれています。「また、私は開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、『忠実また真実。』と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。その目は燃える炎であり、その頭には多くの王冠があって、ご自身のほかだれも知らない名が書かれていた。」世の終り、メシヤは馬に乗って来られ、しかも、世をさばくために来られる王の王であります。「メシヤは二段階で、来られる」とはどういう意味でしょうか?ろばの子に乗られるメシヤは、神との和解をもたらす平和の君であります。イスラエルの人たちは、世をさばくメシヤが来られると期待しましたが、その前に、イエス様にはなすべきことがありました。それは、メシヤ自身が罪の贖いとなり、神との和解の道を開くということです。神様は、神の国を完成する前に、神の国に入る人々を招きたいのです。だれであれ、イエスを救い主として信じたなら、神の国に入ることができるのです。今は恵みの時、今は救いの日です。でも、それはいつまでも続くわけではありません。やがて、裁き主としてメシヤがこの地上に再び来られるまでであります。

 ヨブ記にすばらしいみことばがあります。これは、テマン人エリファズが言ったことばですが、このことばは真理であると思います。ヨブ22:21,22「さあ、あなたは神と和らぎ、平和を得よ。そうすればあなたに幸いが来よう。神の御口からおしえを受け、そのみことばを心にとどめよ。」

「神と和らげ」とは、神様と仲良くせよ、和解せよという意味です。そうしたら、平和と幸いが来るのです。ローマ人への1章から3章の半ばまで、神様が人類に対して怒っているということが書かれています。「被造物を見て、神様がおられるということを知りながら、感謝もせず、あがめもしない。かえってその思いは空しくなり、滅ぶべき人間や動物を拝んでいる。神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡された。義人はいない、ひとりもいない。神を求める人はいない」と書いてあります。しかし、3章の半ばで、イエス・キリストがその血によるなだめの供え物となってからはどうでしょう。神の罪人に対する怒りがおさまり、信仰による者を義と認めるようになりました。そしてローマ5:1にこう書いてあります。「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」ハレルヤ!義と認められた私たちは、神との平和を持っているのです。なぜなら、主イエス・キリストによる贖いのゆえです。あなたも、私もイエス様を信じた結果、平和がやって来たのです。なぜなら、神様と和らいだからです。神様と和解したからです。よく、写真を撮るときに、「ピース、ピース」と言います。本来、ピースとは、イエス様を信じて得たことの平和であります。「私は、神様と和解して、平和を得ました。私は世の終りが来ても、裁かれないのです。本当に感謝です。ピース、ピース。」これが、本当のピースであります。

 皆さん、二頭立ての馬車や着飾った軍馬だったら、近づくことはできません。でも、子どものロバに乗っているメシヤだったら背丈が低いですから、「ホサナ、ホサナ」と容易に近づくことができるでしょう。ホサナとは「今、救ってください」という意味のことばです。最初に来られたメシヤが、柔和で謙遜であられたから、良かったのです。いきなり、目が火で燃えている、恐ろしいメシヤだったら、もうだめでした。思えば、イエス様はこの世に生まれたときから謙遜でした。宮殿ではなく、きたない馬小屋でした。育ったところは、「ナザレから何の良いものが出ようか」という片田舎でした。しかも、最初の追従者と言えば、教育のないガリラヤの漁師たちです。エルサレム大学を出た人たちではありませんでした。日本のプロテスタントはインテリ層への伝道が主流でした。明治には全国にキリスト教を土台とする大学がたくさんできました。あれから120年たちましたが、人口の1%満たないのです。その代わり、民衆に向けて布教した新興宗教が圧倒的に広まりました。天理教、立正佼成会、創価学会。共産党は無神論という1つの宗教です。そういう新興宗教が下町と言われる足立区、葛飾区には多いのであります。情報の乏しかった地方は、明治前の神道と仏教がそのまま残りました。イエス様は民衆に、庶民から先に伝道しました。初代教会もそうでした。おかしくなったのは、ローマにおいて国教会になってからであります。聖職者と言われる人たちが、教会を支配し、一般の人たちを教会の外に出したのです。そして、哲学と神学を学ぶための大学を建てました。キリスト教はますますアカデミックになりました。学問が悪いといっているわけではありません。でも、私たちはロバの子にまたがり、柔和で謙遜であられたイエス様を忘れてはいけません。私たちは、初臨と再臨の間に生きています。教会は、イエス様がこの地上で成された和解を一人でも多くの人たちに、受け入れてもらうためにあるのです。「さあ、あなたは神と和らぎ、平和を得よ。そうすればあなたに幸いが来よう」「私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい」「確かに、今は恵みの時、今は救いの日です」。

2.主がお入用なのです

 イエス様を乗せた、ろばはきっと有頂天になっていたでしょう。人々が道端にやしの木のはっぱを敷いたり、上着を敷いています。前を行く人も、あとに従う人も、「ホサナ、祝福あれ」と叫んでいます。ろばに私たちと同じ心があったら、「いやー、俺ってたいしたもんだ」と思ったのではないでしょうか。これは、私たち奉仕者にもよくある勘違いです。特に、人の前で立って奉仕をしている牧師や伝道者たちです。まるで、自分が人々からあがめられているようにいい気分になります。本当は自分がお乗せしているイエス様をあがめているのに、「ああ、勘違い」であります。私は牧師や伝道者は身分とかスティータスでも何でもなく、神様がくれた奉仕職だと思います。使徒パウロは自分のことを「キリストのしもべ」と言いましたが、全くそれと同じです。でも、牧師職よりももっと大事なことは、自分はクリスチャンであるということです。クリスチャンとはキリストに属する者という意味であります。牧師職は一時的でありますが、クリスチャンは永遠であります。昭和1桁かそれくらいの先輩たちは、牧師職を誇りにしてます。誇りにするのは良いのですが、身分とかスティータスにしています。レバレントや博士号をとても大事にしています。そういった人たちは、神学校の卒業式とか按手礼、何かの儀式のときは、みたことのないようなガウンを着ます。黒のガウンに赤い線が型や腕に何本も入っているものもあります。あの服は聖公会とか、ケンブリッジやオクスフォード大学のなごりであります。なんで、あんな権威をまとわなければならないのかがっかりします。みなさん、牧師や伝道者もすばらしいですが、それはこの地上の時だけであります。自分はクリスチャンであることこそが、一番大事であり、死ぬまで続くものであります。牧師や伝道者に引退はありますが、クリスチャンには引退がありません。

皆さんは「ちいろば」ということばを聞いたことがおありでしょうか。もう、天に召されましたが、四国に榎本保郎という牧師がおられました。『旧約聖書一日一章』はベストセラーで、私も10年以上、ディボーションの本として学ばせていただきました。三浦綾子先生が、『ちいろば先生物語』という、榎本先生の伝記を書いておられます。榎本先生が同志社の神学生の頃、同僚の林とこのような会話をしています。「な、林、ぼくは学校は出ても出えへんでも、ええんや。只信仰があれば、伝道者になれると思っとんのや」。「ぼくもおんなじや、榎本。神が共にいましてくださるなら、この世の牧師だの、伝道師などの資格などのうても、教会は成り立っていくと思う」。…この会話の後、子ろばの話になります。二人の会話です。「ぼくがな、もし何かに乗ろうと思ったら、ろばなんぞには乗らん。馬に乗るやろな。嘘かほんとか知らんが、ろばはな愚図な、魯鈍な動物やと聞いとる。ぼくなら、ろばには乗らん」「ぼくもそうやな」「ところがイエス様は、一度も人をの乗せたことのない子ろばに乗ろうとされた。ぼくなら、せめて何度も何度も人を乗せたことのある親ろばを使うわ。一度も人を乗せたことのないいう以上、ほんとの子ろばや、ろばの赤ん坊や。乗り物としては下の下や。そう思ったとき、林な、あ、ぼくも人間の中の下の下やと思ったんや。人を乗せたら、何歩でも参るかわからへん。そんな力なしや思ったんや。けどな、イエス様はな、小さな子ろばに乗って、エルサレムに入城なさった。ぼくもな、主の用なりと言われたら、愚図やけど、イエス様を乗せてどこへでも行こ、そう思って眠れへんかったんや」。…ちょっと関西弁が微妙ですが…。ここに林さんが登場していましたね。当教会の林兄は、榎本先生直系の家庭集会の出身です。

 榎本先生は「主の用なりと言われたら、愚図だけど、イエス様を乗せてどこへでも行こう」と思いました。私は洗礼を受けて、数ヵ月後に同じようなことを思いました。1979年の11月頃だったと思いますが、当時の座間教会の神学生から「こんど神学校の文化祭があるので来たら」と誘われました。その当時、座間には3人のうら若き神学生がおりました。その中に遠藤京子姉もおりましたが、誘ってくれたのは湯田民子姉でした。彼女は「救われた方のユダです」と自分で言っていました。私は「学校の文化祭」という軽い気持ちで、小田急線に乗りました。すると電車の網棚に、少年マガジンがあり「ラッキー」と思って見ました。しかし、読みきれなかったので、少年マガジンをかかえながら、会場とおぼしき新宿の教会に行きました。ところが、様子がだいぶ違っていました。みんな、聖書と聖歌を持っていました。私は、漫画雑誌!とにかく、前の方の席に座りました。すると、ペテロ建設の小林金太郎さんご夫妻の間に座り、聖書と聖歌を見せていただきました。後から分かるのですが、この方は、元亀有教会の役員さんで、隣の亀有福音教会に移った人でした。その集会は、若い献身者を募るための聖会で、文化祭でも何でもありませんでした。メッセージが始まり、亀有福音教会の高木先生でした。先生は、頭の上から出るような甲高い声で「主がお入用なのです」とこの箇所からお話しなさいました。私はそのとき、「主がお入用なんて、自分は物じゃないぞ、馬鹿にすんな!」と思いました。最後に先生はご自分の失敗談を語ってくれました。駆け出しの頃、ある伝道集会を準備し、ここが満席になると自信たっぷりに待っていました。自分は大伝道者になれると自負していたわけです。ところが、時間になっても、だれ一人としてやって来ない。そのとき「猫でもいいから、来てくれ」と思ったそうです。ま、先生は砕かれた訳です。どうつながったか忘れましたが、最後に、「主がお入用なのです。ご自分を主の前に献げたい方は、お祈りしますので、前に出てきて下さい。主がお入用なのです」と招かれました。「それにしても甲高い声だなー」と思いましたが、すくっーと席を立って、恵みの座に出て、ひざまずいて祈りました。いわゆる献身の招きに応じてしまったわけです、何も知らないで。その1ヶ月後の12月、私は大川牧師に、フルタイムの献身の告白をすることになります。「主がお入用なのです」ということばを聞くと、28年前のことを思い出します。

 私は「自分は主に自分自身をささげます」と恵みの座に、何度も出ています。でも、最近は、自分は牧師なんだし、ささげているつもりだと思っていました。恵みの座なんか、10数年、出ることもありませんでした。「今さら、こっぱずかしー」という感じです。ところが、この間の、台湾で開かれた東アジアサミットのことです。たくさんの宣教師が一粒の麦となって死んでいった話を聞きました。韓国の最初の宣教師はロバート・トーマスであり、本と聖書を持ってきました。当時は鎖国が敷かれており、人々は船を焼きました。彼は泳いで上陸するのですが、捕らえられてしまいました。そして、殺される前にパク・チュンガンに聖書を渡しました。その人は家に帰ってクリスチャンになったそうです。サムエル・モフィットも聖書を持ってきましたが、それを渡すことができませんでした。一人の人が川に浮かんでいたバラバラの聖書を拾って、家の壁にはりました。その人が救われ、ピョンヤンの最初の教会になったそうです。ある人がそれを拾って、家の壁一面にはっておいたそうです。その人は、それを読んでイエス様を信じました。その家族が救われ、ピョンヤンの最初の教会になったそうです。ルビー・ケンドリック(女性)は、医療宣教のため韓国に渡ってきました。しかし、病気のため10ヶ月後に死んでしまいました。たった25歳だったそうです。彼女は死ぬ前に、ある宣教師のことばを用いてこう言いました。「私が1000の命を持つことができたら、韓国は1000の命を受け取るべきです」。他に、中国、台湾の初期の頃の宣教師の話しを聞きました。ベン・ウォン師は、みんなにメッセージしました。宣教に行きたくないところは2つあります。1つ目は貧しいこところ、2つ目はイスラム圏です。ところが、世界地図を見ると、貧しいこところはアジア、そしてイスラムがいるのもアジアです。これからはアジアが出て行く時代です。でも、私たちはいつも「準備ができていない」と言います。ネビル宣教師は中国に伝道に行きました。彼を送り出したニュージーランドの教会は80人の教会でした。私たちはいつになったら準備ができるのか。今こそ、私たちの順番ではないだろうか。そして、ベン・ウォン師は、そのために祈ってもらいたい方は立ちなさいと言いました。四国から来られた牧師は立ちましたが、私は「宣教師などという召命はないし、もう私はすでに献身している」と立ちませんでした。集会が終わって、少し恥ずかしい思いがありました。

次の日は、小学校の体育館で台湾スペシャルがありました。その夜は、私たちだけではなく一般の信徒も体育館の中に集まりました。この間来たジェームスの生徒たちのブレイクダンス、賛美、そしてカナダから渡って来たマカイ宣教師の劇がありました。彼は台湾の人たちから「野蛮人」と言われ、肥を頭からかけられたりしました。それでもマカイはめげず、教会設立だけではく、医療、農業、教育にも従事しました。1200本の虫歯を抜いてあげたそうです。彼は死ぬ前に、「私は、錆びるよりは、燃え尽きて死にたい」と言いました。また、劇の後で、ベン・ウォン師とテモテ師が招きをしました。「あなたがたは安全なところに身を置いていないだろうか。主の招きに答えたい人は前に出なさい」と言う声に、私は従いました。久しぶりに、恵みの座に出ました。きょうのメッセージは「主がお入用なのです」であります。福音宣教のために、あなたを、あなたを主がお入用なのです。人々に福音を語るのは私たちですが、人々を救うのはイエス様です。イエス様は人を乗せたこともないような「ちいろば」初心者をも用いられるのです。主の福音を運ぶ、「ちいろば」になって、主が行きなさいという所ならどこへでも行きましょう。

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2007年10月 7日 (日)

何をしてほしいのか   マルコ10:46-52

 本日のメッセージは、盲人のバルテマイが癒される箇所からです。バルテマイは、イエス様から「あなたの信仰があなたを救ったのです」とおほめのことばをいただきました。もちろん、癒してくださったのはイエス様ですが、バルテマイの信仰が関係していたことは確かです。私たちはどのような信仰を持ったならば、神様に受け入れられ、奇跡的な神のみわざが起こるのでしょうか?きょうは、この一連の出来事から、私たちが、が持つべき信仰について5つのポイントで学びたいと思います。救われて天国に行けるのも信仰ですが、毎日の生活の中で、信仰を用いるならば、わくわくするような人生を送ることができるでしょう。

1.聞く 

 まず、信仰とは聞くことから始まります。ローマ10:17「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです」と書いてあります。バルテマイは、エリコの町の門の近くで、物乞いをしていました。彼は道端に座って、毎日のように、人々から施しを乞うていました。ある日のこと、大勢の人たちが、町の門から出ようとしていました。近くの人に、「これはいったい何事ですか」と尋ねました。すると、だれかが「ナザレのイエスがお通りになるのだ」と教えてくれました。47節、ところが、ナザレのイエスだと聞くと、「ダビデの子のイエス様。私をあわれんでください。」と叫び始めた。おそらくバルテマイは、イエス様がいろんなところで、癒しや奇跡を行っていることを知っていたのでしょう。そのイエス様が、近くに来られたことを聞きました。そして、彼は「ダビデの子のイエス様。私をあわれんでください」と、叫び求めました。ですから、信仰を持つためには、まず「聞く」必要があります。神様は私たちに語っておられます。でも、どのようにしたら、神の御声を聞くことができるのでしょうか?残念ながら、肉声で聞くことは一生に一度あるかないかです。神様の御声を聞くためには、聖書を開いて読む必要があります。神様はみことばを通して、私たちの霊に語ってくださいます。ある人たちは病気や困難の中にいますが、口々に「私には信仰がありません」と言います。なぜ、信仰がないのでしょうか?それは、神様のことばである聖書を開いて、聞こうとしないからです。聖書の中には、私たちが求める根拠、つまり約束がいっぱい満たされています。

 箴言4章にすばらしい約束があります。箴言4:20-22「わが子よ。私のことばをよく聞け。私の言うことに耳を傾けよ。それをあなたの目から離さず、あなたの心のうちに保て。見いだす者には、それはいのちとなり、その全身を健やかにする。」主は、「私のことばをよく聞け。私の言うことに耳を傾けよ」と命じています。するとどうなるのでしょうか?「全身を健やかにする」と書いてあります。イエス様が言われた「救った」は、原文では、be whole 「全身が健やかになる」と同じ意味です。救いの中には、癒しも、社会的生活も含まれているということです。みなさん、聖書のみことばは、私たちに信仰を与えるための種です。何故、信仰が芽生えないのですか。それは、聖書を開いて、みことばを心の中に蒔かないからです。この間、ゴスペルクワイヤーで、心療内科で働いている看護師さんが証をしてくれました。本当に多くの人たちが通院していても、なかなか治らないということです。現代は、うつ病、摂食障害、不安障害、統合失調症など、たくさんの精神的な病があり、なかなか治りません。姉妹は、帰り際に「どうしたら治るんでしょうか?」と私に聞きました。私はそのとき、「うー」としか答えられませんでした。私は医者や薬を否定はしません。それらも神様が与えた一般恩寵だと信じます。でも、聖書には、特別恩寵について書いてあります。主は癒し主だということです。でも、その主に信仰をもって求めるために、私たちがなすべきことがあります。多くの人は、自分の声や人々の声、あるいは医者の声しか聞いていません。重要な鍵は、聖書を開いて、神様の御声に耳を傾けるこということです。「わが子よ。私のことばをよく聞け。私の言うことに耳を傾けよ」そうしたらどうなるのでしょうか?あるとき、突然、神様は啓示をもって語られます。すると、それが信仰になるのです「信仰は聞くことから始まる」からです。信仰は「んんんー」と、気張って生み出すものではありません。みことばを瞑想しているうちに、突然、上から与えられるものです。信仰の種である、みことばを心に蒔きましょう。聖書を開いて神様に聞きましょう。主があなたに奇跡を生み出す信仰を与えてくれます。

2.求める 

 バルテマイは求めました。どのように求めたのでしょうか?彼は目が見えませんでしたので、イエス様がどこにいるか分かりません。そのために、イエス様のところにも歩いて行けないのです。しかし、彼ができることが1つだけあります。それは、大声で叫んで、イエス様の足を止めることです。でも、あんまりうるさかったので、人々はどうしたでしょうか?48節、そこで、彼を黙らせようと、大ぜいでたしなめたが、彼はますます、「ダビデの子よ。私をあわれんでください。」と叫び立てた。すごいですね。妨げが起こっても、彼は黙りませんでした。もし、彼が「じゃあ、この次にするか」と諦めたらどうなったでしょうか?次はないのです。イエス様はエリコからエルサレムに向かわれました。エルサレムで、十字架で死なれますので、今回が最後だったのです。人生において、チャンスはそんなにありません。チャンスの神様は、キューピーちゃんに似ているとある人が言いました。キューピーちゃんは、はだかの可愛い赤ん坊です。前にだけ髪の毛がちょこんとあり、うしろはつんつるりんです。チャンスが向こうからやって来ました。ああ、通り過ぎてしまった。でも、うしろはつんつるりんで、すべってつかめません。やはり、チャンスは「来たな!」とタイミングを合わせ、手を出して、ぎゅっと掴まなければなりません。バルテマイはチャンスを逃さずに求めました。「だまれ!うるさい!」とたしなめられても、やめません。さらに、大きな声で叫び求めました。

 49節。すると、イエスは立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい。」と言われた。そこで、彼らはその盲人を呼び、「心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたをお呼びになっている」と言った。イエス様は聞こえていなかったのでしょうか?私はバルテマイの存在を超自然的に知っておられたのではないかと思います。でも、イエス様が立ち止まったのは、彼が必死に求めたからであります。ルカ18章に不正な裁判官とやもめのたとえ話があります。裁判官は神を恐れず、人を人とも思わないひどい人でした。が、そのやもめが、ひっきりなしにやって来て、うるさくて仕方がないので、彼女のために裁判してあげました。主は「まして神は、夜昼叫び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか」と言われました。つまり、イエス様は、その男が、あきらめないで求め続けるかどうかご覧になっておられたのです。イエス様の場合は、決死の覚悟で、エルサレムに向かっています。その日の施ししか、求めない盲人の乞食に対しては興味がなかったでしょう。でも、「ダビデの子、イエスよ!私をあわれんでください」と叫び続けているこの男性に、イエス様は信仰を見たのです。バルテマイの求める信仰こそが、イエス様の足を止めたのです。マタイ7:7「求めなさい」と書いてありまが、原文は「求め続けなさい」とう継続形です。つまり「求め続けなさい。そうすれば与えられます。捜し続けなさい。そうすれば見つかります。たたき続けなさい。そうすれば開かれます」ということであります。

3.アクション 

 求めたら、今度は、アクションを起すということです。せっかくつかんだチャンスです。立ち上がって、信じたとおりに行動するしかありません。バルテマイは立ち上がり、イエス様のところに行こうとしました。でも、その前に、彼は妙な行動をしました。50節「すると、盲人は上着を脱ぎ捨て、すぐ立ち上がって、イエスのところに来た」。チョー・ヨンギ先生によりますと、この上着は政府が与えた特別な上着だということです。つまり、この上着は、どんなところでも、物乞いができる「許可証」みたいなものだと言うのです。乞食は3日やったらやめられないと言いますが、この上着さえあれば、なんとか生きて行けます。でも、彼はその大事な上着を脱ぎ捨てて、立ち上がり、イエス様のところに向かったのです。ということは、「もう乞食はしない。古い生活に逆戻りしない」ということの表明です。でも、彼の目は、まだ見えたわけではありません。もし、癒されなかったならどうするのでしょう。ヘブル11:1「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです」とあります。信仰とは、まだ見えないものをつかむ手であります。実際は、まだ、癒されていません。しかし、「イエス様のところへ行けば、必ず癒される」と、立ち上がって行動したのです。「もし、癒されなかったならどうしよう」そんな疑いを払いのけるように、古い生活を象徴する上着を捨てました。もう、逆戻りはできません。つまり、バルテマイはイエス様に賭けたのであります。そして、信仰によって一歩踏出したのであります。信仰とは後ろの橋を焼き捨てて、イエス様に賭けるということです。

 数年前、当教会にメル・ボンド師が来られたことがあります。そのとき、癒されるための3つのステップを教えていただきました。第一は、ただ、受け取ることに専念すること。祈る側は、イエスの御名によって問題を取り除く。第二は、リラックスする。第三は、アクション。アクションというのは、これまでできなかったことをしてみるということです。肉体は癒されたような感覚がありません。でも、感情や感覚に頼らないで、信仰によって行動を起します。腰を曲げたり、走ったり、腕を回したりする。すると、癒しがぐーんと進みます。なぜなら、信仰によって行動したからです。使徒3章には生まれつき足のきかない乞食の事が出てきます。ペテロが「金銀は私にはない。しかし、イエス・キリストの名によって歩きなさい」と言いました。そして、彼の右手を取って立たせました。「するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなって、まっすぐに立ち歩き出した」とあります。手伝ってももらいましたが、彼自らも立とうとアクションを起したのです。すると、足とくるぶしが強くなったのです。ヨシュアたちがヨルダン川を渡ったときもそうでした。川の水は雪解けのために、水かさが増していました。でも、神の箱を担いでいる祭司が、川に足を踏み入れたとたん、水が引き始めました。それまで、ごうごうと流れていました。彼らは川の水がなくなってから足を踏み入れたのではありません。まだ、流れている川に足を踏み入れたのです。すると、そのとき、ぱーっと川が干上がったのであります。信仰とは、肉眼では見えないものを見、手もとにないものを掴むという世界であります。

4.告白する 

 51節、そこでイエスは、さらにこう言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」すると、盲人は言った。「先生。目が見えるようになることです。」彼は、心の中に既に信じていたことを、ここで告白したのです。ローマ10 :10「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのですとあります。バルテマイは心で信じていたことを、イエス様の前で大胆に告白しました。なぜなら、イエス様にはそれができると、信じていたからです。最近、私は、ケネス・ヘーゲンが書いた本にはまっています。『告白の偉大な力』は、小さくてペラペラなのに950円もしました。読んだら、その価値があるなーと思いました。こんど、教会図書に入れておきます。その本に、こう書いてありました。「あなたが言うことは、あなたの信仰の表明です。あなたは自分の口で言うものを受け取ることができるのです」。ヨシュアとカレブはどのように告白したでしょうか?イスラエルの民は、8人の悪い報告を受け入れたために「私たちにはあの地を占領できない」と言いました。彼らは、「自分たちはそこを占領できない」と信じたので、実際、彼らが占領することはありませんでした。一方、ヨシュアは「私たちは上って行ってそこを占領しよう。必ずそれができるから」と言いました。ヨシュアとカレブだけが、その世代の中で約束の地に入りました。85歳になったカレブは何と言ったでしょうか?「この山地を私に与えてください」と言いました。そして、彼はそれを成し遂げたのです。

 もう少し、その本から引用させていただきます。私はこういう質問を受けます。「なぜ、私がいやしを受けることができないのか、教えていただけますか?」。私は言います。「あなたはたった今、『私はできない』と私に言いましたね」。あなたは自分の口で言うものを受け取ることができるのです。彼らの言うことばが、彼らを突き放しているのです。人が何を言うかで、その人のことが分かります。人が告白することで、その人のことがわかるのです。私が人々のために祈るとき、私はその前に彼らから告白を引き出そうとします。私はこう尋ねます。「私があなたの上に手を置いて祈れば、あなたは今、癒されるでしょうか?」「はい、ヘーゲン兄弟、私は、えーと、えーと、きっと癒されると期待しています」。すると私はいつでも、こう言わねばなりません。「あなたは、いやされません。あなたは、いやされません」。おわかりのように、私は彼らがどういう人なのかを知ったのです。彼らが今どういう状態であるかが、分かったのです。彼らは信仰のうちにいません。彼らは単なる希望(期待)の中にいるのです。私たちは失敗する事を考え、失敗することを信じ、そして実際に失敗してしまうのです。しかし、私たちクリスチャンは、失敗も疑いも不信仰も決して口にするべきではありません。私たちは信仰を口にすべきです。もしあなたが敗北しているとすれば、あなた自身の口で言うことによって敗北しているのです。…これを読んで、発見しました。私は不信仰を告白していました。なぜ、人が増えないんだろう。なぜ、奇跡的な癒しが起こらないのであろう。なぜ、セルが増殖しないんだろう。みなさんも、切り替えましょう。「あなたはいつも、自分が信じて口で告白しているものを、生活の中で受け取っているのです」。聖書から正しい考えを学び、信仰的なことばを口から出しましょう。「あなたが言うことは、あなたの信仰の表明です。あなたは自分の口で言うものを受け取ることができるのです」。アーメン。

5.従う 

 ルカ福音書18章にも同じ記事があります。終りの部分だけを引用します。ルカ18:43「彼はたちどころに目が見えるようになり、神をあがめながらイエスについて行った。これを見て民はみな神を賛美した」。バルテマイは目が見えるようになりましたので、これからは自分の手で糧を得ることができるでしょう。自由になったんです。好きなことができます。「私は救われた、ハレルヤ!」彼はその後、どのような生活をしたでしょうか?「神をあがめながらイエスについて行った」とあります。つまり、彼は神様を礼拝する者となりました。そして、イエス様について行きました。これはイエス様に従う、従順の生活と言うことができます。しかし、そうしなかった人も福音書に書いてあります。10人のらい病人(ハンセン病患者)がイエス様のところにやって来ました。イエス様は「祭司のところに行って体を見せなさい」と言いました。10人が行く途中で、癒されました。でも、「感謝します」と帰ってきた人はサマリヤ人一人だったと書いてあります。他の9人は、「癒されたので、これからは好きなことをしよう」と去って行きました。みなさん、これではいけません。信仰とはイエス様に従う生活です。信仰と従順は、コインの裏表であり、この2つを引き離すことはできません。もっと、言いますと、イエス様は自分を助けてくれる救い主だけではないということです。もう1面あります。それは、私たちがイエス様を人生の主として仰いで、従って行くことが大事だということです。それでないと、私たちは罪と誘惑に負けて、悲惨な生活を送ってしまいます。

私たちは元来、わがままで自己中心なのです。この性質は残念ですが、救われてからも残ります。もし、従うべきお方がいないならどうなるでしょうか?犬は非常に忠実ですが、主人を持たない犬は、とてもわがままです。自分が主人になっているからです。私たちもある意味では同じです。主イエス様が「あの人を赦しなさい」と命じたら、「はい、わかりました。赦します」と言えば良いのです。主イエス様が「そんなことはやめなさい」と命じたら、「はい、わかりました。やめます」と言えば良いのです。私たちの信仰生活を複雑にしているのは、不従順です。私たちは主のしもべです。しもべは、主人の言うことは何でも聞き、主人の行かれるところへはどこへでも行くのです。勝利的な信仰生活を送る秘訣は、王様の席をイエス様に明け渡すということです。「イエス様が私の王であり、自分は仕えます。アーメン」。イエス様に従うとどうなるでしょうか?詩篇23篇「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。…まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。」となるのです。

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