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2007年10月 7日 (日)

何をしてほしいのか   マルコ10:46-52

 本日のメッセージは、盲人のバルテマイが癒される箇所からです。バルテマイは、イエス様から「あなたの信仰があなたを救ったのです」とおほめのことばをいただきました。もちろん、癒してくださったのはイエス様ですが、バルテマイの信仰が関係していたことは確かです。私たちはどのような信仰を持ったならば、神様に受け入れられ、奇跡的な神のみわざが起こるのでしょうか?きょうは、この一連の出来事から、私たちが、が持つべき信仰について5つのポイントで学びたいと思います。救われて天国に行けるのも信仰ですが、毎日の生活の中で、信仰を用いるならば、わくわくするような人生を送ることができるでしょう。

1.聞く 

 まず、信仰とは聞くことから始まります。ローマ10:17「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです」と書いてあります。バルテマイは、エリコの町の門の近くで、物乞いをしていました。彼は道端に座って、毎日のように、人々から施しを乞うていました。ある日のこと、大勢の人たちが、町の門から出ようとしていました。近くの人に、「これはいったい何事ですか」と尋ねました。すると、だれかが「ナザレのイエスがお通りになるのだ」と教えてくれました。47節、ところが、ナザレのイエスだと聞くと、「ダビデの子のイエス様。私をあわれんでください。」と叫び始めた。おそらくバルテマイは、イエス様がいろんなところで、癒しや奇跡を行っていることを知っていたのでしょう。そのイエス様が、近くに来られたことを聞きました。そして、彼は「ダビデの子のイエス様。私をあわれんでください」と、叫び求めました。ですから、信仰を持つためには、まず「聞く」必要があります。神様は私たちに語っておられます。でも、どのようにしたら、神の御声を聞くことができるのでしょうか?残念ながら、肉声で聞くことは一生に一度あるかないかです。神様の御声を聞くためには、聖書を開いて読む必要があります。神様はみことばを通して、私たちの霊に語ってくださいます。ある人たちは病気や困難の中にいますが、口々に「私には信仰がありません」と言います。なぜ、信仰がないのでしょうか?それは、神様のことばである聖書を開いて、聞こうとしないからです。聖書の中には、私たちが求める根拠、つまり約束がいっぱい満たされています。

 箴言4章にすばらしい約束があります。箴言4:20-22「わが子よ。私のことばをよく聞け。私の言うことに耳を傾けよ。それをあなたの目から離さず、あなたの心のうちに保て。見いだす者には、それはいのちとなり、その全身を健やかにする。」主は、「私のことばをよく聞け。私の言うことに耳を傾けよ」と命じています。するとどうなるのでしょうか?「全身を健やかにする」と書いてあります。イエス様が言われた「救った」は、原文では、be whole 「全身が健やかになる」と同じ意味です。救いの中には、癒しも、社会的生活も含まれているということです。みなさん、聖書のみことばは、私たちに信仰を与えるための種です。何故、信仰が芽生えないのですか。それは、聖書を開いて、みことばを心の中に蒔かないからです。この間、ゴスペルクワイヤーで、心療内科で働いている看護師さんが証をしてくれました。本当に多くの人たちが通院していても、なかなか治らないということです。現代は、うつ病、摂食障害、不安障害、統合失調症など、たくさんの精神的な病があり、なかなか治りません。姉妹は、帰り際に「どうしたら治るんでしょうか?」と私に聞きました。私はそのとき、「うー」としか答えられませんでした。私は医者や薬を否定はしません。それらも神様が与えた一般恩寵だと信じます。でも、聖書には、特別恩寵について書いてあります。主は癒し主だということです。でも、その主に信仰をもって求めるために、私たちがなすべきことがあります。多くの人は、自分の声や人々の声、あるいは医者の声しか聞いていません。重要な鍵は、聖書を開いて、神様の御声に耳を傾けるこということです。「わが子よ。私のことばをよく聞け。私の言うことに耳を傾けよ」そうしたらどうなるのでしょうか?あるとき、突然、神様は啓示をもって語られます。すると、それが信仰になるのです「信仰は聞くことから始まる」からです。信仰は「んんんー」と、気張って生み出すものではありません。みことばを瞑想しているうちに、突然、上から与えられるものです。信仰の種である、みことばを心に蒔きましょう。聖書を開いて神様に聞きましょう。主があなたに奇跡を生み出す信仰を与えてくれます。

2.求める 

 バルテマイは求めました。どのように求めたのでしょうか?彼は目が見えませんでしたので、イエス様がどこにいるか分かりません。そのために、イエス様のところにも歩いて行けないのです。しかし、彼ができることが1つだけあります。それは、大声で叫んで、イエス様の足を止めることです。でも、あんまりうるさかったので、人々はどうしたでしょうか?48節、そこで、彼を黙らせようと、大ぜいでたしなめたが、彼はますます、「ダビデの子よ。私をあわれんでください。」と叫び立てた。すごいですね。妨げが起こっても、彼は黙りませんでした。もし、彼が「じゃあ、この次にするか」と諦めたらどうなったでしょうか?次はないのです。イエス様はエリコからエルサレムに向かわれました。エルサレムで、十字架で死なれますので、今回が最後だったのです。人生において、チャンスはそんなにありません。チャンスの神様は、キューピーちゃんに似ているとある人が言いました。キューピーちゃんは、はだかの可愛い赤ん坊です。前にだけ髪の毛がちょこんとあり、うしろはつんつるりんです。チャンスが向こうからやって来ました。ああ、通り過ぎてしまった。でも、うしろはつんつるりんで、すべってつかめません。やはり、チャンスは「来たな!」とタイミングを合わせ、手を出して、ぎゅっと掴まなければなりません。バルテマイはチャンスを逃さずに求めました。「だまれ!うるさい!」とたしなめられても、やめません。さらに、大きな声で叫び求めました。

 49節。すると、イエスは立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい。」と言われた。そこで、彼らはその盲人を呼び、「心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたをお呼びになっている」と言った。イエス様は聞こえていなかったのでしょうか?私はバルテマイの存在を超自然的に知っておられたのではないかと思います。でも、イエス様が立ち止まったのは、彼が必死に求めたからであります。ルカ18章に不正な裁判官とやもめのたとえ話があります。裁判官は神を恐れず、人を人とも思わないひどい人でした。が、そのやもめが、ひっきりなしにやって来て、うるさくて仕方がないので、彼女のために裁判してあげました。主は「まして神は、夜昼叫び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか」と言われました。つまり、イエス様は、その男が、あきらめないで求め続けるかどうかご覧になっておられたのです。イエス様の場合は、決死の覚悟で、エルサレムに向かっています。その日の施ししか、求めない盲人の乞食に対しては興味がなかったでしょう。でも、「ダビデの子、イエスよ!私をあわれんでください」と叫び続けているこの男性に、イエス様は信仰を見たのです。バルテマイの求める信仰こそが、イエス様の足を止めたのです。マタイ7:7「求めなさい」と書いてありまが、原文は「求め続けなさい」とう継続形です。つまり「求め続けなさい。そうすれば与えられます。捜し続けなさい。そうすれば見つかります。たたき続けなさい。そうすれば開かれます」ということであります。

3.アクション 

 求めたら、今度は、アクションを起すということです。せっかくつかんだチャンスです。立ち上がって、信じたとおりに行動するしかありません。バルテマイは立ち上がり、イエス様のところに行こうとしました。でも、その前に、彼は妙な行動をしました。50節「すると、盲人は上着を脱ぎ捨て、すぐ立ち上がって、イエスのところに来た」。チョー・ヨンギ先生によりますと、この上着は政府が与えた特別な上着だということです。つまり、この上着は、どんなところでも、物乞いができる「許可証」みたいなものだと言うのです。乞食は3日やったらやめられないと言いますが、この上着さえあれば、なんとか生きて行けます。でも、彼はその大事な上着を脱ぎ捨てて、立ち上がり、イエス様のところに向かったのです。ということは、「もう乞食はしない。古い生活に逆戻りしない」ということの表明です。でも、彼の目は、まだ見えたわけではありません。もし、癒されなかったならどうするのでしょう。ヘブル11:1「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです」とあります。信仰とは、まだ見えないものをつかむ手であります。実際は、まだ、癒されていません。しかし、「イエス様のところへ行けば、必ず癒される」と、立ち上がって行動したのです。「もし、癒されなかったならどうしよう」そんな疑いを払いのけるように、古い生活を象徴する上着を捨てました。もう、逆戻りはできません。つまり、バルテマイはイエス様に賭けたのであります。そして、信仰によって一歩踏出したのであります。信仰とは後ろの橋を焼き捨てて、イエス様に賭けるということです。

 数年前、当教会にメル・ボンド師が来られたことがあります。そのとき、癒されるための3つのステップを教えていただきました。第一は、ただ、受け取ることに専念すること。祈る側は、イエスの御名によって問題を取り除く。第二は、リラックスする。第三は、アクション。アクションというのは、これまでできなかったことをしてみるということです。肉体は癒されたような感覚がありません。でも、感情や感覚に頼らないで、信仰によって行動を起します。腰を曲げたり、走ったり、腕を回したりする。すると、癒しがぐーんと進みます。なぜなら、信仰によって行動したからです。使徒3章には生まれつき足のきかない乞食の事が出てきます。ペテロが「金銀は私にはない。しかし、イエス・キリストの名によって歩きなさい」と言いました。そして、彼の右手を取って立たせました。「するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなって、まっすぐに立ち歩き出した」とあります。手伝ってももらいましたが、彼自らも立とうとアクションを起したのです。すると、足とくるぶしが強くなったのです。ヨシュアたちがヨルダン川を渡ったときもそうでした。川の水は雪解けのために、水かさが増していました。でも、神の箱を担いでいる祭司が、川に足を踏み入れたとたん、水が引き始めました。それまで、ごうごうと流れていました。彼らは川の水がなくなってから足を踏み入れたのではありません。まだ、流れている川に足を踏み入れたのです。すると、そのとき、ぱーっと川が干上がったのであります。信仰とは、肉眼では見えないものを見、手もとにないものを掴むという世界であります。

4.告白する 

 51節、そこでイエスは、さらにこう言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」すると、盲人は言った。「先生。目が見えるようになることです。」彼は、心の中に既に信じていたことを、ここで告白したのです。ローマ10 :10「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのですとあります。バルテマイは心で信じていたことを、イエス様の前で大胆に告白しました。なぜなら、イエス様にはそれができると、信じていたからです。最近、私は、ケネス・ヘーゲンが書いた本にはまっています。『告白の偉大な力』は、小さくてペラペラなのに950円もしました。読んだら、その価値があるなーと思いました。こんど、教会図書に入れておきます。その本に、こう書いてありました。「あなたが言うことは、あなたの信仰の表明です。あなたは自分の口で言うものを受け取ることができるのです」。ヨシュアとカレブはどのように告白したでしょうか?イスラエルの民は、8人の悪い報告を受け入れたために「私たちにはあの地を占領できない」と言いました。彼らは、「自分たちはそこを占領できない」と信じたので、実際、彼らが占領することはありませんでした。一方、ヨシュアは「私たちは上って行ってそこを占領しよう。必ずそれができるから」と言いました。ヨシュアとカレブだけが、その世代の中で約束の地に入りました。85歳になったカレブは何と言ったでしょうか?「この山地を私に与えてください」と言いました。そして、彼はそれを成し遂げたのです。

 もう少し、その本から引用させていただきます。私はこういう質問を受けます。「なぜ、私がいやしを受けることができないのか、教えていただけますか?」。私は言います。「あなたはたった今、『私はできない』と私に言いましたね」。あなたは自分の口で言うものを受け取ることができるのです。彼らの言うことばが、彼らを突き放しているのです。人が何を言うかで、その人のことが分かります。人が告白することで、その人のことがわかるのです。私が人々のために祈るとき、私はその前に彼らから告白を引き出そうとします。私はこう尋ねます。「私があなたの上に手を置いて祈れば、あなたは今、癒されるでしょうか?」「はい、ヘーゲン兄弟、私は、えーと、えーと、きっと癒されると期待しています」。すると私はいつでも、こう言わねばなりません。「あなたは、いやされません。あなたは、いやされません」。おわかりのように、私は彼らがどういう人なのかを知ったのです。彼らが今どういう状態であるかが、分かったのです。彼らは信仰のうちにいません。彼らは単なる希望(期待)の中にいるのです。私たちは失敗する事を考え、失敗することを信じ、そして実際に失敗してしまうのです。しかし、私たちクリスチャンは、失敗も疑いも不信仰も決して口にするべきではありません。私たちは信仰を口にすべきです。もしあなたが敗北しているとすれば、あなた自身の口で言うことによって敗北しているのです。…これを読んで、発見しました。私は不信仰を告白していました。なぜ、人が増えないんだろう。なぜ、奇跡的な癒しが起こらないのであろう。なぜ、セルが増殖しないんだろう。みなさんも、切り替えましょう。「あなたはいつも、自分が信じて口で告白しているものを、生活の中で受け取っているのです」。聖書から正しい考えを学び、信仰的なことばを口から出しましょう。「あなたが言うことは、あなたの信仰の表明です。あなたは自分の口で言うものを受け取ることができるのです」。アーメン。

5.従う 

 ルカ福音書18章にも同じ記事があります。終りの部分だけを引用します。ルカ18:43「彼はたちどころに目が見えるようになり、神をあがめながらイエスについて行った。これを見て民はみな神を賛美した」。バルテマイは目が見えるようになりましたので、これからは自分の手で糧を得ることができるでしょう。自由になったんです。好きなことができます。「私は救われた、ハレルヤ!」彼はその後、どのような生活をしたでしょうか?「神をあがめながらイエスについて行った」とあります。つまり、彼は神様を礼拝する者となりました。そして、イエス様について行きました。これはイエス様に従う、従順の生活と言うことができます。しかし、そうしなかった人も福音書に書いてあります。10人のらい病人(ハンセン病患者)がイエス様のところにやって来ました。イエス様は「祭司のところに行って体を見せなさい」と言いました。10人が行く途中で、癒されました。でも、「感謝します」と帰ってきた人はサマリヤ人一人だったと書いてあります。他の9人は、「癒されたので、これからは好きなことをしよう」と去って行きました。みなさん、これではいけません。信仰とはイエス様に従う生活です。信仰と従順は、コインの裏表であり、この2つを引き離すことはできません。もっと、言いますと、イエス様は自分を助けてくれる救い主だけではないということです。もう1面あります。それは、私たちがイエス様を人生の主として仰いで、従って行くことが大事だということです。それでないと、私たちは罪と誘惑に負けて、悲惨な生活を送ってしまいます。

私たちは元来、わがままで自己中心なのです。この性質は残念ですが、救われてからも残ります。もし、従うべきお方がいないならどうなるでしょうか?犬は非常に忠実ですが、主人を持たない犬は、とてもわがままです。自分が主人になっているからです。私たちもある意味では同じです。主イエス様が「あの人を赦しなさい」と命じたら、「はい、わかりました。赦します」と言えば良いのです。主イエス様が「そんなことはやめなさい」と命じたら、「はい、わかりました。やめます」と言えば良いのです。私たちの信仰生活を複雑にしているのは、不従順です。私たちは主のしもべです。しもべは、主人の言うことは何でも聞き、主人の行かれるところへはどこへでも行くのです。勝利的な信仰生活を送る秘訣は、王様の席をイエス様に明け渡すということです。「イエス様が私の王であり、自分は仕えます。アーメン」。イエス様に従うとどうなるでしょうか?詩篇23篇「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。…まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。」となるのです。

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