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2007年9月30日 (日)

仕えるために     マルコ10:32-45 

 旧新約聖書は、全部で66巻あります。これは66の書物が集められたという意味です。神学校のとき、「各書には中心的な聖句、つまり鍵となる聖句がある」と教えられました。マルコによる福音書の、中心的な聖句とは、この10章45節であります。ここには、イエス様が「仕えるために来られた」と書いてあります。つまり、マルコはイエス様を「牛のように働くしもべ」として書いたということです。また、マルコ福音書は、ローマ人を対象に書かれたとも言われています。ローマ人は、ギリシャ人のように理論的ではありません。彼らは「何ができるか」ということに興味があります。そのため、マルコ福音書は「すぐに行動するメシア」を書いたのです。きょうは、マルコ10章45節を2つに分けて学びたいと思います。ここには、イエス様がこの世に来られた理由が記されています。「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」

1.仕えるため

 イエス様がこの地上に来られた第一の目的は、仕えられるためではなく、仕えるためであります。御子イエスは、神の国の王になるお方でした。しかし、イエス様が地上に来て、「自分は王であり、主である」とおっしゃったことは一度もありません。まず、イエス様は人間として人々に仕え、十字架について死なれ、陰府にくだる必用がありました。その後、父なる神様からよみがえらされ、天に昇られてから「主」になられたのであります。主とか王という肩書きは、苦難のしもべを通過した後であったということは実に興味深いことであります。また、イエス様が人々に仕えた理由は、この世とは全く違うリーダーシップを自ら示したかったからであります。なぜなら、教会はこの世の権力体制ではなく、イエス様に倣う必要があるからです。残念ながら、当時の弟子たちは、この世の権力体制から影響を受けていました。本日のテキストをみますと、ヤコブとヨハネがイエス様の右と左に座らせてくださいと頼んでいます。他の福音書を見ますと、お母さんが二人の息子を連れてきて、お母さんが頼んでいるようであります。彼らはイエス様がエルサレムに到着したなら、この地上にイスラエル王国が建てられる。そのとき、イエスが王になるはずだから、二人の息子を、それぞれ右大臣、左大臣にしてもらいたいと頼み込んだのです。41節で、「十人のものがこのことを聞くと、腹を立てた」と書いてありますが、彼らも同じようなことを考えていたので「抜け駆けはずるいぞ!」と腹を立てたのです。彼らは、たびたび、「自分たちの中で、だれが一番偉いだろうか」と議論していました

イエス様は偉くなること自体は否定しませんでしたが、この世の権力体制とは別の道を示されました。異邦人の支配者はどのようにふるまっていたでしょうか?異邦人の支配者とはだれでしょうか?エジプトのファラオ、聖書ではパロと呼ばれています。ギリシャではアレキサンダー、そしてローマではカイザルでありました。どの国の支配者も、人々を支配し、権力をふるっていました。この世の権力体制は、みな同じです。政府、軍隊、企業も、偉い人が権力をふるい、下の者たちは偉い人たちに仕えているのではないでしょうか?中には、主任牧師に信徒が仕えている教会もあるかもしれません。キリスト教の大会を開くときに、大教会の牧師が大会会長になります。偉い先生とそうでない先生との格付けがなされます。教会はリーダーシップを学ぶときに、この世の権力体制をそのまま取り入れています。しかし、イエス様はこの世とは全く逆の道を示されました。それは、人々に仕える道であります。しもべのように仕えていくと、やがて、人々が権力によって強制されてではなく、自らの意思で従うようになるのです。

先日、ベン・ウォン師が関東コーチングに来られ、「権力行使」という、お話をされました。第一種類は、「強制と圧力」です。それは、ピラミッド型の権力 です。 「私がリーダーだ。お前を追放することもできる」と言います。政府の権力、官僚制度の権力、軍隊の権力も同じです。職場ではどうでしょうか?社長は、「逆らう奴はクビだ!」と言うことができます。幼い子どもに対する父親もそうです。「宿題をしないと、ゲーム機を取り上げるぞ」と言えます。でも、その権力には限界があることをご存知でしょうか?職場では勤務時間が終わったら聞き従う必要はありません。そして、会社を辞めたら、もう何の関係もなくなります。子どもも小さいうちは、親の言うことを聞きます。でも、やがては、体力的に親よりも勝ってきます。親が殴ったら、殴り返される場合もありえます。つまり、強制と圧力は、特定の状況でしか使えないということです。第二番目は、交渉と利益という道です。「もし、あなたが○○を成し遂げたら、ご褒美をやる」という方法です。会社では昇進、昇給があります。「業績が上がったらボーナスもアップだ。」「売り上げが目標に達したらハワイ旅行に行かせてあげる。」子どもにも、「成績がアップしたら、あのおもちゃを買ってあげる。」これが「交渉と利益」の道です。しかし、この道にも限界があります。「そんなの欲しくない」と言われたらどうなるでしょうか。「ハワイじゃ嫌だ、ヨーロッパが良い」と言うかもしれません。第三番目は、「尊敬と尊重」の道であります。じつは、第一と第二は、あなた次第で、できることです。しかし、第三の「尊敬と尊重」の道は、他の人次第であります。つまり、他の人たちがあなたをどれだけ尊敬、尊重するかにかかっています。そうしたら、「あなたに従います」と他の人たちから権力を与えられることになります。

イエス様は神様であられましたが、徹底的に人々に仕えました。人々の病を癒し、御国の福音を教え、あるときは食物を与えられました。最後の晩餐のときは、弟子たち一人ひとりの足を洗って模範を示されました。最後には、十字架で「父よ、彼らをお赦しください」と身代わりに死んでくださいました。イエス様を信じて救われた人はどうなるでしょうか?「主よ、あなたに従います」と願うようになるでしょう。それは、イエス様を神様として尊重したからであります。この世は肩書きが、最初に来ます。「私が部長なんだから、あなたがたは従いなさい」と言うでしょう。従わないと給料が下がるか、昇進にも影響があるので、仕方なく従います。教会でも「私が牧師なんだから、あなたがたは従いなさい」と言うこともできます。でも、会社と違ってあまり利害関係はありません。だから「もう、来週から、来ません」と言われるかもしれません。でも、牧師はこうも言えます。「牧師に逆らうことは、神様に逆らうことです。あなたは、この教会を去ったなら、きっと呪われます」と言ったら、カルトです。恐れや罪責感を与えて支配することも可能です。しかし、イエス様の方法ではありません。イエス様は、ただ愛して、人々に仕えました。その結果、人々がイエス様を敬い、従うようになったのです。牧師や伝道師、セルリーダーも同じであるべきです。当教会はセルチャーチあるいは、セルチャーチを目指している教会ですが、セルチャーチの5つモットーがあります。第一は「仕える心、コントロールしない」。この理念はマルコ10:45から取ったものです。偉い人ほど、仕えるということです。第二は「パートナーシップ、階級組織ではない」ということです。セルの先生方は、みんな平等、友達です。この間は、小笠原先生の髪型が話題にあがりました。左右から、奥からも持ってきます。私は「小笠原流」と言いましたが、あまり受けませんでした。第三は「コーチングし合う、管理統制なし」です。上から「教える」というよりも、分かち合います。いやだったら、やめても良いわけです。第四は「与える心、受けるだけではない」。あなたの教会は私の教会、私の教会はあなたの教会。良いものは何でも分かち合います。第五は「神の国中心、自分の教会中心ではない」。私は、かつて「自分の教会さえ成長すれば、他の教会はどうでも良い」とやってきました。しかし、それはお城の城主になるようなものです。やはり、日本全体のこと、神の国が前進するように願うべきであります。このように、イエス様の仕える姿に学ぶとき、聖霊様が喜ばれる教会になるのです。この原理は、あなたの職場、あなたの家庭にも適用できるのではないでしょうか?「私に従え」と言わなくても、愛して仕えていくならば、尊敬を勝ち取り、おのずと従ってくるのではないでしょうか?イエス様はおっしゃいました。「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で、人の先になりたいと思う者は、みなのしもべになりなさい」。アーメン。

 

2.命を与えるため

マルコ10:45の後半、「また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」イエス様がこの地上に来られた第二の目的は、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためでした。「贖い」という言葉は、貝へんに買うという文字からできています。大昔は、貝がお金の代わりになりました。簡単に言うと「買い戻す」ということです。本来自分のものであったものが、何らかの理由で失って、後からそれを買い戻すということはないでしょうか?私には4人の子どもがいますが、上の3人は、みな自転車を放置したために、もって行かれたことがあります。駅前などに自転車を置きっぱなしすると、次の朝、おじさんたちが撤去して、保管場所にもって行きます。あとから、通知のハガキが来ます。「もし、いついつまで取りに来ないと、処分します」と書いてあります。綾瀬とか高砂に行きますと、昔は1000円くらいでしたが、今は3000円くらいするんじゃないでしょうか?こちらは考えます。「デスカウント・ショップだと、6000円くらいで新車が買える。どうしたら良いだろうか。まだ、乗れるだろう。」保管場所に行きますと、たくさんの自転車が並んでいます。1週間前、2週間前、1ヶ月前…持ち主が取りに来ない場合は、スクラップになります。お父さんは、仕方なく、行くのであります。「ああ、これだ!」2、3000円のチケットみたいなものを買って、用紙に貼ります。すると、係員が持ってきてくれます。私はそれを車に積んで帰ってきます。これを、自転車を贖うというのです。かつては我が家の自転車でした。でも、今は鎖につながれ、そのままだと滅びに行きます。そこへお金を出して、買い戻すわけです。これが贖いです。人間と似ていますね。かつては、神の作品でありましたが、罪の中で死んでいました。それをイエス様が買い戻してくれたわけです。ハレルヤ!

「贖う」は、旧約聖書では、おもに2つの言葉があります。1つは「ゴエール、買い戻す」です。落穂拾いで有名な、ルツ記をご存知ですね。ルツの義母ナオミは、飢饉が来たのでモアブの地に逃れました。しかし、その地で夫が死に、二人の息子が死にました。ナオミと息子の嫁ルツが、故郷のベツレヘムに帰ります。ところが、自分の土地は既に他人に渡っていました。近親者が買い戻してくれなければ、自分の土地にはなりません。ところが、ボアズという人が土地を買い戻し、そしてルツと結婚し、ナオミの家を再興してくれたのです。ここには、罪という概念がありませんが、近親者が買い戻すというポイントがあります。ヘブル2章には「主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥としない」と書いてあります。悪いことをして警察に捕まっている子どもを迎えに行くためには親が引き取りに行くでしょう。イエス様がそれを恥としないで、贖いを引き受けて下さったのです。もう1つは「カーファル、覆う」であります。私たちの罪は消されると言うよりも、血で覆われるという方が正しいのです。旧約聖書のレビ記を見てわかりますが、人間の罪が赦されるためには、清い動物の生贄がささげられました。動物が罪を負い、その血を流すことによって、人間の罪が覆われたのです。贖いのためには、命である血が重要なのです。レビ17:11「なぜなら、肉のいのちは血の中にあるからです」と書いてあります。イエス・キリストは私たちの罪を負い、私たちの代わりに罰せられ、死なれました。そのときに流されたイエス様の血潮が、「なだめの供え物」となり、神の人類の罪に対する怒りがおさまったのです。これを私たちの立場から言うと、罪が贖われ、神のこどもとなるということなのです。とにかく、イエス・キリストの十字架の死が、贖いの中心、救いの根拠だということです。

でも、みなさん、神学的にはイエス様の贖いはとてもすばらしいと思います。でも、実際はどうでしょうか?イエス様は羊や牛のように、殺されたのではありません。いじめにいじめられ、犯罪人として殺されたのです。マルコ10:33-34「人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは、人の子を死刑に定め、そして、異邦人に引き渡します。すると彼らはあざけり、つばきをかけ、むち打ち、ついに殺します。しかし、人の子は三日の後に、よみがえります。」イエス様が、当時、極刑と言われる十字架に付けられる前に、どんなことがあったでしょうか?宗教家たちから不当な裁判を受けました。全く罪がないのに、「死刑だ」と判決がくだされました。彼らはイエス様をさんざんののしり、平手で打ち、つばきをかけ、髭を抜きました。当時、イスラエルはローマの属国だったので、死刑執行の権利はありませんでした。そのため彼らは「カイザルに叛く、謀反人としての死刑」を要求しました。ピラトはユダヤ人のねたみが原因であることを見抜きましたが、暴動を恐れ、十字架刑に渡しました。ローマ兵たちは、イエス様に紫のマントを着せ、いばらの冠をかぶせ、「ユダヤ人の王、バンザイ」とからかいました。その後、楽に死ねるようにと鞭を体中に浴びせます。ローマの鞭は先が数本に分れ、その先に鉛や動物の骨が編みこまれていました。パッションという映画を見た方はご存知だと思いますが、屈強の兵士たちが力まかせに背中や腹に力いっぱい鞭を浴びせます。肉が裂け、骨が見え、血があたり一面に飛び散ります。顔が顔でなくなってしまいます。その後、見せしめに重い十字架をゴルゴタの丘まで運ばされます。十字架の上に寝せられ、両手、両足を犬釘のような釘で打たれます。そのあと、30,40センチくらいの穴に、十字架が「どすん」と立てられると、体の重みが両手と両足だけにかかります。横隔膜が下がっているので、体を持ち上げないと、呼吸できないそうです。体を持ちあげるたびに、激痛が走ります。肉体の痛みだけではありません。道を通る人たちが、「他人は救ったが自分を救えないのか。十字架から降りてみろ」とあざけります。石を投げつける人もいたでしょう。イエス様が人類の罪の身代わりに死のうとしているのに、誰一人として感謝も、お願いもしていません。イエス様は人からも、神からも捨てられ、贖いの死を成し遂げるのです。

神学的には贖いをとても美しく語ることができますが、福音書はそうではありません。なぜでしょうか?私は十字架の死は罪の贖いの他にもう1つの意味があると思います。もちろん、「イエス様は、私の罪のために死なれました。この方を救い主として信じます」。これで人は救われます。これよりも大事なものはありません。でも、イザヤ書53章を見ると、私たちの背きの罪のほかに、もう1つの意味があることがわかります。イエス様は私たちの病を負い、私たちの痛みや悲しみを担ったのであります。そのことによって私たちは癒されたのであります。イエス様は悪いことを1つもしていないのに、犯罪人扱いされました。皆さんの中にも、不条理といういか、不当な扱いを受けた人がいらっしゃるでしょう。ちっとも悪くないのに…父や母からあるいは先生から叱られたことはないでしょうか?その傷があるため、何か不当な扱いを受けると、怒りが爆発するということはないでしょうか?また、生まれたとき、あるいは子どものとき拒絶されたという人はいないでしょうか?イエス様は人々から、そして父なる神様からも拒絶されました。イエス様はだれよりも、あなたの拒絶の痛みを知っておられます。また、喪失の悲しみもあります。大事なものを無くした、あるいは奪い取られた。これはセルフイメージに大きな傷を与えます。何をやってもダメなんだという諦めがあります。イエス様は人々からさげすまれ、のけものにされました。神の子の身分も、尊厳も奪い取られたのです。裸にされ、さらしものにされたのです。しかも、陰府にまで落とされたのです。しかし、父なる神は、御子イエスをよみがえらされたのです。同じように、父なる神様はあなたを癒して新しく復活させることがおできになります。もちろん、肉体の病も癒されます。贖いの中には、心と肉体の癒しが含まれているのです。

イエス・キリストは私たちに命を与えるために、この地上に来られました。ヨハネ10:10,11にはこのように書かれています。「私が来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。私は、良い牧者です。良い牧者は羊のために命を捨てます」。「豊かな命」とは、罪が赦され、心も体も癒された状態です。また、「豊かな命」とは、神様がくださる永遠の命でもあります。せっかく、私たちが「豊かな命」をもつために、イエス様が大事な命を捨ててくださったのです。でも、その命が無駄になることがあります。それは、イエス様がくださる「豊かな命」を受け取らないことであります。父なる神様が一番残念がるのは、御子イエスの十字架の死が無駄になることです。あなたが、せっかく差し出された、愛の贈り物を受け取らないならどうなるでしょう。罪の赦しが得られないばかりか、永遠の滅びに行くしかありません。悪魔は「救いとか豊かな命なんて嘘っぱちさ。この世で楽しく暮らせば良いじゃないか。死んだ先はどうなろうと関係ないさ。そんなの関係ない、そんなの関係ない」と。地獄とは神様と関係のない人が行くところであります。父なる神様は、滅びに向かっているあなたに、愛の関係を持つために十字架で死んでくださいました。それだけではなく、イエス・キリストは今も生きておられ、あなたが父なる神様と関係を回復できるように、仕えておられるのです。聖霊を遣わし、からだなる教会を与え、御父の前で今もとりなしてくださっているのです。救い主イエス様を受け入れましょう。また、既に受け入れておられる方は、イエス様のように、神様と隣人に仕えましょう。

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2007年9月23日 (日)

神の国の報い     マルコ10:23-31

 収穫の秋になりました。お店に行くと、梨やくり、ぶどう、りんごが並んでいます。柿もそろそろ出てきました。先日は、ハウスみかんを食べてみました。皮が薄くておいしかったです。教会の花壇を手入れしてくれている方々がおります。ある人が、「果物のなる木を植えたい」とおっしゃっていました。でも、私は「ちょっと土地が狭くて、無理なんじゃないの」と思いました。エディ・レオ師がおっしゃっていました。「メガチャーチ(大教会)というのは、1本の木にたくさんのりんごを実らせることです。りんごの巨木から、1000個くらいのりんごを収穫することができるかもしれません。一方、セル・チャーチとは、りんごの木をたくさん植えることです。たとえ、1本のりんごの木が100個しかならせなくても、100本のりんごの木があったらどうでしょうか?10000個のりんごを収穫することができます。」りんごの巨木を作るのは名人芸でしょう?でも、たくさんのりんごの木を植えるのは、技術的に難しくはないでしょう。きょうは、「神の国の報い」と題して、収穫についてもお話ししたいと思います

1.神の国の報い

 ペテロは「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました」と言いましたが、その背景は先週学んだ、金持ちの青年役員にあります。彼は財産を捨てきれず、悲しみながら去って行きました。彼はこの世の富に執着し、永遠の命を失った気の毒な人でありました。その一部始終を見ていたペテロがイエス様に言ったのであります。マタイによる福音書の方がもっと詳しく書かれています。「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。私たちは何がいただけるでしょうか。」「何がいただけるでしょうか?」と言いました。もし、イエス様が意地悪であったなら、このように答えたでしょう。「ペテロ、お前は一体何を捨てたんだ。小さな舟と網ぐらいじゃないか。漁師の家を捨てたぐらいで何をいただけるかなんて、せこいぞ!」。イエス様は、そんな風にはおっしゃいませんでした。マタイ福音書には「世が改まって人の子がその栄光の座に着く時、十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばく」と書いてあります。では、マルコ福音書にはどのように書いてあるでしょうか?29,30節。イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てた者で、その百倍を受けない者はありません。今のこの時代には、家、兄弟、姉妹、母、子、畑を迫害の中で受け、後の世では永遠のいのちを受けます。」マタイ福音書の方はどちらかと言うと、御国が完成してからの報いを強調しています。でも、マルコは「今のこの時代でも報いを受ける。しかも、100倍を受けない者はない」とまで言っています。

 では、イエス様と福音のためにどのようなものを捨てる可能性があるのでしょうか?まず、家です。みなさんの中でクリスチャンになって家を捨てた人はいらっしゃるでしょうか?その次には、兄弟、姉妹です。みなさんの中でクリスチャンになって兄弟や姉妹を捨てた人はいらっしゃるでしょうか?その次は、母、子であります。ルカ福音書には「母、妻、子」と「妻」が入っています。では、みなさんの中でクリスチャンになって「母、妻もしくは夫、子ども」を捨てた人はいらっしゃるでしょうか?この辺になると、出てくるかもしれませんね。でも、信仰と関係がない場合は例外かもしれません。最後に、畑、もしくは土地を捨てた人はいらっしゃるでしょうか?案外、いないんじゃないでしょうか?と言うことは、私たちの信仰はそんなに過激じゃないということです。迫害もないけれど、報いもないということでしょうか?それでも、洗礼を受けるときとか、献身するとき、ある程度の献金をするときなどは、世の抵抗に会うでしょう。中には、洗礼を受けるとき離婚を覚悟した方もおられるでしょう。私は献身したとき、長男なかったので、何の問題もありませんでした。家内の方は、少しばかり問題があったようです。看護婦をやめて神学校に入るとき、岩手のお母さんが迎えに来ていたようです。私はまだ、無関係だったので「ああ、大変だなー」と傍目で見ていました。昔は勘当されることが、結構あったようです。初代教会の頃はどうだったでしょうか?使徒の働き4章後半を見ますと、地所や家を売って、ささげる人たちがたくさんいました。バルナバは畑を売って、その代金を使徒たちのところに持ってきました。また、使徒の働き8章を見ますと、迫害によって人々がユダヤやサマリヤの緒地方に散らされて行きました。その中には職や家をなくした人たちもいたでしょう。紀元100年前後の、ローマの迫害になるともっとひどかったかもしれません。彼らは家や親族よりも、イエス様と福音を愛したのであります。最終的には、ヨーロッパがキリスト教化されました。

 それでは、報われる方を1つずつ見ていきたいと思います。まず、家ですが、英語の聖書は家々と複数になっています。もちろん、天国の家は大邸宅ですから、文字通り100倍の報いがあるでしょう。でも、地上ではどうでしょうか?初代教会では家々に集まって礼拝を持っていました。3120人の人たちが、家々に集まるためには、260ぐらいの家が必要です。おそらく「あなたの家は私の家、私の家はあなたの家」と集まりを持っていたのでしょう。「家の教会」として、家がたくさんふえたと想像できます。それから、兄弟・姉妹はどうでしょうか?クリスチャンになると、兄弟・姉妹がいっぺんに増えるんじゃないでしょうか?亀有教会に130人くらいの兄弟姉妹がいます。最近、顔を見ない人もいますが・・・。しかし、家族にだれかいなくても、平気というのは、本当の兄弟・姉妹じゃないかもしれません。あんまり言うと、自分の首を絞めることになるので、サラッといきたいと思います。とにかく、クリスチャンになると兄弟・姉妹がいっぺんに増えます。一人っ子だった人も、兄弟姉妹がたくさん与えられます。では、父や母は増えるでしょうか?母は英語の聖書では、mothersと複数形になっています。クリスチャンになりますと、霊的な父、霊的な母という意味で増えます。使徒パウロも、ローマ16章を見ますとたくさんの兄弟姉妹のほかに、「私の母」という存在がいいたことが分かります。私たちは霊的な父や母、つまりメンターを持つ必要があります。ある人は「私はだれからも指導を受けない」と言う人がいますが、それはかなり問題です。私たちはだれかから指導を受け、同時に、だれかを指導する人になるべきです。だれかからも指導を受けないで、人を指導することは不可能です。だれかから受けながら、だれかに与えるということです。神の家族には、父母、兄弟姉妹がたくさんいます。

 私たちは「報いを求める」ということは、クリスチャンとして良くないんじゃないかと思うかもしれません。もちろん、人からの報いを期待してはいけませんが、神からの報いは期待して良いのではないでしょうか?でも、キリスト教に対する迫害のない、平和な日本という状況の中では、報いの倍率が低いのではないでしょうか。現代でも共産国やイスラム圏で信仰を持っている人たちは、家を失ったり、家族を失うことが本当にあるようです。昨年の今頃、インドネシアから、エディ・レオ師が来られました。ある島ですが、イスラムのジハードによって村が襲撃されました。ある人の義理のお父さんとお母さんが殺され、奥さんと娘が拉致されました。奥さんと娘はレイプされ、娘は死んだそうです。奥さんの方はジハードの子どもをお腹の中に宿しました。軍も警察も助けにならないので、教会で救出作戦に出ました。もちろん命がけです。やっとのことで奥さんを救出しましたが、問題は夫婦がこれからやっていけるかどうかです。ご主人は祈ってから奥さんだけでなく、お腹の子どもも受け入れました。彼らはお腹の子どもを育て、今度はジハードの宣教に送り出すというビジョンを持ったそうです。インドネシアや中国もそうですが、迫害を受ければ受けるほど、教会が成長するそうです。つまり、きょうのテキストは、迫害の中で読むしかありません。マルコ10:30に「迫害の中で受ける」と書いてあるからです。

やはり、迫害によって失うことがないと、報いの程度も低いということです。でも、クリスチャン人口の少ない日本においても迫害は少なからずあります。未信者のご主人が洗礼を受けたばかりの奥さんに対して「もう教会に行くな!」とドアに鍵をかける場合もあるかもしれません。そのとき、「夫に従えば、いつか救われるだろう」と、奥さんが妥協するならば、そこで終りです。ご主人や子どもも救われないばかりか、自分の信仰も冷え切ってしまうでしょう。神の国の報いを受けるためには、迫害を恐れてはならないということです。日本人は肉親の情が深いので、捨てるのが難しいところがあります。けれど、日本は江戸時代、キリシタンの大迫害がありました。実際、家や家族、命さえも捨てた人たちも大勢いたのです。日本も捨てたものじゃありません。多くの血が流されているのですから、私たちの時代に報いが来るかもしれません。神の国の報いを受けるためには、迫害を避けてはならない、失うことを恐れてはならないということです。何よりもイエス様と福音を大事にしましょう。もっと過激になりましょう。失うことを恐れないようにしましょう。なぜなら、神からの豊かな報いがあるからです。アーメン。

2.あとの者が先に

マタイ福音書ではこの後、「ぶどう園のたとえ話」が続きます。朝早くから労苦したしもべは12弟子たちであり、数時間しか働かなかった人たちは異邦人でありましょう。ペンテコステの日、エルサレムで教会が誕生しました。教会員は1万人ぐらいいたかもしれません。でも、まもなく迫害が起こり、使徒以外の人たちは散らされて行きました。彼らは家も職も失いましたが、福音を宣べ伝えながら、あちこちに散らされていきました。やがて、北の方にアンテオケ教会が誕生しました。そこはギリシャ語を話す、異邦人の群れでした。そこからバルナバとパウロが小アジアに派遣されました。エルサレム教会は廃れていきましたが、アンテオケが宣教の中心的な役割を果たしていきます。「あとの者が先になった」とはだれのことでしょう。そうです。ローマまで宣教に行った使徒パウロのことであります。パウロは12弟子の一人ではありませんが、彼らよりもはるかに用いられました。弟子たちにとって、パウロこそ、「あとの者」と言えるでしょう。また、「あとの者が先になる」は、教会の歴史の中にもたびたび起こりました。かつては、東のコンスタンチノーブルが中心でした。でも、紀元4世紀からローマが中心になりました。ローマはカトリックの総本山として15世紀まで栄えます。でも、それからどうなったでしょうか?プロテスタントが興り、ドイツやイギリスが中心になっていきます。迫害の中で、リバイバルを何度も体験します。その後、福音は北アメリカに移り、すごい勢いで教会が増えました。でも、今ではアメリカよりもアジアとアフリカの時代です。アジアの成長率がアメリカを追い越したのです。ベン・ウォンが「もう、キリスト教の中心は欧米ではない。アジアの時代である」と言っておりました。もう、福音は一周して、イスラエルに戻ろうとしています。

「あとの者がさきになる」ということは、1教会の中にも言えるかもしれません。当教会は昭和24年、1949年に発足しました。それから50年たち、2000年以降、ゴスペルから、若い層が救われました。小さなリバイバルが起こったといえるでしょう。礼拝形式も変わり、淋しい思いをした方もおられたかもしれない。でも、先の者たちが一生懸命捧げて、教会の土地と建物を得たことを忘れてはいけません。若い方々が、我がもの顔で、この建物に集まり、賛美をささげ、交わっている。この建物が用いられていることはすばらしいことであります。でも、私たちの本当の目的は建物ではありません。見えないキリストの体なる教会を建てるということであります。私もあと10年が勝負ではないかと思っています。この間、ベン・ウォン師が10年後のビジョンを立てなさいとチャレンジしていました。誠に恐縮ではありますが、私がこの教会に残したいのは、セル・チャーチの価値観であります。その中には、まず第一に、聖書信仰があります。聖書を誤りなき神のことばとして信じないでは、何も始まりません。残念ながら、教団の神学校はそうではありません。みことばこそが私たちの信仰の土台であり、権威であります。第二は聖霊信仰です。すべてのキリスト教会は聖霊を信じているでしょう。でも、聖霊の賜物を信じているかは別であります。福音派の教会は、聖書が完成してからは、目を見張るような奇跡は必用なくなったと言います。そうではありません。今も、「使徒の働き」は続いているのであります。私たちのミニストリーはイエス様がなされたミニストリーと同じであります。第三は、宣教を含めた聖徒訓練であります。マタイ28章には「行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」という大命令があります。第四は、信徒中心の共同体を作るということです。総会とか委員会ではなく、各セルがかしらなるキリストから命令を受けて動くということです。だいたい、そういう価値観は、みなさんの中に受け止められ、基礎的なものは既にできていると信じます。

でも、この後、私は次の世代へとバトンタッチしなければなりません。もちろん、次の牧師を含めてであります。この教団に留まるかどうかも決断しなければならないでしょう。私は終末の時代は、教団ではなくネットワークであると信じます。残念ですが、日本に現存している教団・教派が、リバイバルの妨げになっていると言っても過言ではありません。保守バプテストのように、地方教会に任せている教団は言いのですが、教団本部が牛耳るのは良くありません。当亀有教会は、日本キリスト教団の中でも異質な教会と言えるでしょう。私は20年かけてなんとか、培ってきた聖霊信仰、聖書信仰、聖徒訓練、そしてセルの共同体をなくしたくありません。なんとか、これを拡大し、次の世代にバトンを渡したいと思います。できれば、ベン・ウォン師が言われるように、セルを増やして、教会の開拓をしたいですね。ベン先生は、1つのセルを教会と考えています。セルを増やすということは、教会を増やすことと同じだと捕らえています。練馬教会では、一人が10年間で、10ケのセル(教会)を増殖するというビジョンを掲げました。10人を導くのではありません。10のセル、あるいは教会を生み出すのであります。仮にそこに70人いたら、700であります。気が遠くなります。それはオーバーにしても、宣教と増殖ということが一番の課題であります。私たちの教会も、これからの10年、宣教と増殖ということを真剣に取り組んでいきたいと思います。

 きょうのテーマは「神の国の報い」ということでありました。ガラテヤ書6:8、9「自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。善を行なうのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。」私たちは「報い」と言うとどうしても、悪い方に捕らえがちであります。そうではなく、良い種を蒔くならば、豊かに刈り取るという「種まきの法則」を考えるべきです。1倍の収穫だけを期待して1粒の種を蒔く農夫が果たしているでしょうか?ホームページで調べましたが、1粒の米から、300-400粒取れるそうです。また、1粒のトウモロコシから2本取れるとすると、400粒取れるそうです。1粒のトマトからは普通25ケくらい実ります。でも、「ハイポニカ水栽培トマト」は、1300ケのトマトが実ったそうです。ですから、マルコが100倍と言っているのは、まんざら誇張ではなく、種まきの法則から言っているのではないでしょうか?私たちが一番蒔くべき種は、福音の種であります。福音の種を蒔かなければ、人は救われません。たまには、他の人が蒔いた種を刈り取ることもあります。こればっかりあてにしていると、問題であります。私たちは雨の日も風の日も、福音の種をまくべきであります。また、神の国の働きのためにささげる献金も、種と言うことができます。これは神の国の投資を言っても良いかもしれません。国債を買うよりも、天国貯金の方がよっぽど安全だと思います。大川先生がゲストに来られた東先生に謝礼を差し上げようと思いましたが受け取らなかったそうです。そこで、先生の聖書に1万円を忍ばせておきました。次の日、先生から「聖書の中に1万円ありましたが、大川先生でしょう。私たちは、100倍の祝福がありますように祈りましたので、どうぞ期待してください」と電話がありました。その後、会堂の返済で100万円足りない時がありました。そのとき、ひょっこり長老さんが訪ねてきました。「先生、困ったことが起こりました。」「何が起こったんですか。」「いやーね。先生のお祈りで家内の体が癒されたので、入院費として取っておいたお金が不要になったんです。どうぞ、神様にささげますので受け取ってください」と言いました。先生は、その分厚い封筒を見たら、ちょうど100万円入っていたそうです。大川先生はそのとき何と思ったでしょうか?「ああ、あのとき10万円、入れておけばよかったなー」と思ったそうです。

 私たちは迫害のために失うときがあります。また、私たちは自らの信仰でささげるときがあります。どちらにおいてもイエス様は100倍受けると約束されました。もし、自分が受けなければ、自分の子どもや次の世代が受けるかもしれません。刈り取るのが自分でなくても、後代の人が刈り取っても良いのではないでしょうか?そういう意味でも、私たちは種を蒔く必要があります。伝道者の書11章をお読みして、終えたいと思います。あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見いだそう。あなたの受ける分を七人か八人に分けておけ。地上でどんなわざわいが起こるかあなたは知らないのだから。雲が雨で満ちると、それは地上に降り注ぐ。木が南風や北風で倒されると、その木は倒れた場所にそのままにある。風を警戒している人は種を蒔かない。雲を見ている者は刈り入れをしない。あなたは妊婦の胎内の骨々のことと同様、風の道がどのようなものかを知らない。そのように、あなたはいっさいを行なわれる神のみわざを知らない。朝のうちにあなたの種を蒔け。夕方も手を放してはいけない。あなたは、あれか、これか、どこで成功するのか、知らないからだ。二つとも同じようにうまくいくかもわからない。

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2007年9月16日 (日)

立ち去った青年      マルコ10:17-22

 この間の台風が去った後、急に秋らしくなりました。先週は天気が良いせいか、礼拝人数も少なくてがっかりしました。そこで、私は思いました。何もこの建物の中で礼拝をしなくても良い。自宅や近くの公園でも、礼拝は守れます。聖書には、2人もしくは3人がイエスの名前で集まるとき、主もそこにおられるとあります。共同体の最低の数は3人です。3人以上集まれば、そこで礼拝ができます。私の説教原稿は午前9時にホームページで見ることができます。だれかが、その原稿をメッセージ風に読み、その後、分かち合いをして、祈ったら良いですね。みなさんが住んでいるところで礼拝をするなら、未信者の夫もしくは妻、子どもも参加することができるでしょう。何も亀有まで来る必用はありません。ここは教会ではなく、教会堂という建物です。みなさん一人ひとりが教会です。どうぞ考え方を変えましょう。将来は、柏や松戸、金町、綾瀬、墨田区、江東区にも開拓教会を建てたいですね。こう言うのは、先週、香港のベン・ウォンのセミナー出て、影響を受けたからであります。

1.人にはできない

 ひとりの人とは、ルカ福音書を見ますと、「ある役人」と書いてあります。ユダヤ教会の役員もしくは、エルサレムの議員かもしれません。また、マタイ福音書では「青年」とも書かれています。そして、彼はとても金持ちであり、かなりの財産を持っていました。もし、彼を現代風に言うならば、若手ながら区会議員であり、ある企業の社長の御曹司。数千坪の土地を所有し、ビルが5つ、数百億の資産を持っている。彼はたくさんのクラブに所属し、有名人とも付き合っている。車も外車を入れて7台持ち。その日は、スポーツタイプのベンツで、ダブルのスーツのいでたちでやって来た・・・というところでしょうか?彼は、イエス様のところに走りよって、御前にひざまずいて、尋ねました。「尊い先生。永遠の命を自分のものとして受けるためには、私は何をしたら良いでしょうか?」。イエス様の近くで、弟子たちがその一部始終を見ていました。弟子たちは何と思ったでしょうか?ユダヤでは金持ちとは、神様から特別に祝福を受けている存在、彼こそ神の国に入るのにふさわしいと思いました。イエス様の前に、ひざまずいて、「尊い先生、私は何をしたら良いでしょう?」と言っとき、「わー、今どきめずらしい謙遜で真面目な青年だ。すばらしい求道心の持ち主だ!」と思ったでしょう。さらに、この青年役員が、「先生、そのようなことをみな、小さい時から守っています」と答えたときは、「律法も守っているし、この人だったら申し分ない。さぞ、多く献金をしてくれることだろう。議員さんだったら、かなりの影響力もあるぞ」。こんなふうに思ったかもしれません。

 でも、イエス様の対応は、とっても意外でした。21、22節。イエスは彼を見つめ、その人をいつくしんで言われた。「あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」すると彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。なぜなら、この人は多くの財産を持っていたからである。弟子たちは、彼を追いかけて、このように言った。「まあ、まあ、イエス様が言われたことを真に受けないでください。全部ささげなくても良いのです。10分の1、いや、できるところから捧げれば良いですよ。私たちがやっている聖書研究会にお越しください。少しずつ神の国に関して、聖書から一緒に学びましょう」。残念ながら、そういう続きにはなっていません。イエス様は彼を去るままにしておきました。おそらく、これから10年かけて彼と聖書を学んだとしても、彼は信じないでしょう。イエス様は彼に対して、無駄な時間をかけることはしませんでした。では、なぜ、イエス様は「戒めを守っているか」とか「持ち物をみな売り払って、貧しい人たちに与えよ」と言われたのでしょうか?それは、彼の最初の質問にあります。彼は「永遠の命を自分のものとして受けるためには何をしたら良いのでしょうか?」と問うているからです。彼は地位、財産、お金、持ち物、趣味、たくさんの物を持っていました。他にないのが永遠のいのちでした。永遠のいのちをこれらのものに追加したかったのです。彼にとって救いは、1つのコレクションでした。

 では、なぜイエス様は十戒の5から10番目だけを聞いたのでしょうか。おそらく、この青年はイエス様が戒めを守っているかと聞いてくるだろうと予測していたのでしょう?だから、自信たっぷりに、「何をしたら良いでしょうか?」と尋ねたのです。案の定、イエス様は「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証をたてるな、むさぼるな、父母を敬え」と言われました。青年は、「待ってました」とばかり、「先生。私はそのようなことをみな、小さい時から守っております」と答えました。イエス様は一呼吸置いて、彼を見つめ「あなたには欠けたことが1つあります。あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そのうえで、私について来なさい」と言われました。この行為は、十戒の第一と第二にあたります。十戒の第一の第二は、「私の他に神があってはならない。私に似せた像を作ってそれを拝んではならない」という戒めでした。青年が顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った理由とは、青年にとって財産が神であり偶像だったからです。彼は神様よりも自分の財産に頼っていたことが暴露されたのです。彼はこれから先、10年、聖書研究会で学んでも、救われないでしょう。イエス様はそのことが分かっておられたのです。でも、誰に対してもイエス様は「財産を捨てて、私に従ってきなさい」とはおっしゃいません。この青年が、「永遠のいのちを受けるために、何をしたら良いか」と、聞いたからです。つまり、行い(自力)で救いを得ようとしたので、その道を教えたのです。神の戒めを完全に守って救いを得るためには、そこまでやらなければならないのです。

先週は「子どものように」と学びました。子どもであったら、彼のような小ざかしい求め方はしません。素直に「私に永遠のいのちをください」と求めたら良いのです。2000年前、救いはキリストの十字架によって完成されました。一番大切なのは、子どものように疑わないで、受け取れば良いのです。救いは既に完成されているのです。あなたが救われるための必用は、キリストによってなされた救いをもらえば良いのです。なぜなら、救いは行いではなく、恵みだからです。今日は、宮坂悠介君の洗礼式があります。伝道者の書12章に「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに」という御言葉があります。では、わざわいの日とはどんな日なのでしょうか?その続きがあります。伝道者の書12章をリビングバイブルで紹介させていただきます。「若い日に、神様を信じなさい。年をとり、陽の光や月、星がかすんでよく見えず、夢も希望もなくなってから、神様を思い出そうとしても手遅れです。やがて、手足が老齢のため震えるようになり、しっかりしていた足も弱くなり、歯がなくなって物もかめず、目も見えなくなる時が来ます。歯がなくなれば、物を食べる時でも、もぐもぐするばかりです。鳥がさえずり始める朝早く目が覚めても、あなたは耳が遠くて聞こえず、声もしわがれてきます。あなたは、高い所をこわがり、転ぶことを案じる白髪のしわだらけの老人となり、足を引きずりながら歩きます。性欲もなく、死の門のそばに立ち、死んだ人を嘆く者のように、永遠の家へと近づいて行きます。もう一度いいます。まだ若い今のうちに、あなたの造り主を思い出しなさい。銀色のいのちのひもが切れ、金のおわんがこわれ、水がめが命のそばでこわれ、滑車が井戸のそばでこわれない前に。」すでに永遠のいのちをいただいている人と、この世の命しかもっていない人とでは、ぜんぜん生き方が違います。若いクリスチャンなら、人生の目的を知っていますので、時間を無駄に使いません。では、年をとったらどうなるでしょうか?確かに肉体は他の人のように衰えてきます。でも、「内なる人は日々新しい」というか、年を取りません。うちの家内は、心は「20歳よ」と言いました。この間、区役所の集会で、ある姉妹のおばあちゃんの証しを聞きました。そのおばあちゃんは、年を取れば取るほど、輝いていたそうです。なんと「18歳」の娘のような心を持っていたそうです。その姉妹はまだ小学生だったそうですが、おばあちゃんを見て、自分もクリスチャンになりたいと思ったそうです。おばあちゃんは、「ハレルヤ!アーメン」と天国に帰って行ったそうです。救いは行いではなく、恵みです。プレゼントです。どうぞ、受け取ってください。

2.神にはできる

 23-27節。イエスは、見回して、弟子たちに言われた。「裕福な者が神の国にはいることは、何とむずかしいことでしょう。」弟子たちは、イエスのことばに驚いた。しかし、イエスは重ねて、彼らに答えて言われた。「子たちよ。神の国にはいることは、何とむずかしいことでしょう。金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」弟子たちは、ますます驚いて互いに言った。「それでは、だれが救われることができるのだろうか。」イエスは、彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。」イエス様は、金持ちが神の国に入ることは、むずかしいと2度も言われました。では、なぜそんなに難しいのでしょうか?実は、24節に、もうひとこと加えている聖書があります。「子たちよ。富にたよる者が、神の国にはいることは、何とむずかしいことでしょう。」そうなんです。神様は目に見えませんが、お金は目に見えます。「やっぱり、神様よりもお金だよな」と、なるのです。両方頼った方が良いじゃないかと思うかもしれません。でも、ルカ16章には「しもべは二人の主人に仕えることはできません。神にも仕え、また富にも仕えることはできません」と書いてあります。ということは、お金や富は、神の国に入るための最大の妨げになるということです。私のように初めからない方が良いですが、なまじっかある人は気の毒です。皆さん、お金はあなたの主人もしくは、神様になりやすいのです。そうならないために、私たちは十分の一献金をするのであります。「私はお金に頼っていません。主よ、あなたに頼っています。あなたがすべての必要を満たしてくださいます。アーメン」と、捧げるのです。捧げていない人は、ひょっとしたら、神様よりもお金を信頼しているからかもしれません。

 では、富とお金を持っている人は神の国に入ることができないのでしょうか?イエス様は不可能だとはおっしゃっていません。「むずかしい」とおっしゃっているのです。どのくらい難しいか?25節「金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」「らくだが、針の穴を通過できるわけがないでしょう。いや、それは不可能だ」と思うかもしれません。イエス様は誇張と言うか、とてもユーモアの得意な方であります。イエス様は、マタイ6章で、人の目からちりを取り除く前に、自分の目の梁を取り除けなさい」と言われました。目に、梁(丸太)が入るでしょうか?また、偽善者たちに向かってこう言われました。マタイ23:24「目の見えぬ手引きども。ぶよは、こして除くが、らくだは飲み込んでいます」。果たしてらくだを飲みこむことができるでしょうか?9世紀に、この25節を、なんとかこれを解釈しようとした人たちがいました。「針の穴」という名の門がエルサレムにあった。夜は外敵から守るために正門を閉じるが、夜中に到着する旅人(隊商)もいる。そのとき、正門のすぐわきに「針の穴」の門がある。その門は、らくだが荷物を全部降ろして、ハイハイしながらでないとくぐれないほどの大きさである。つまり、金持ちが富みやお金を一旦下ろして、へりくだって神の国である。そのように解釈しました。マタイ7:13「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです」とあるとおりです。ということは、神様によって、貧しくさせられるなら、救われる可能性もあるということです。イエス様は「人にはできないが、神にはできる」とおっしゃいました。それは、たとえお金持ちであっても、救われる可能性はあるということです。

 歴史を見ますと、そういう人たちが何人かいました。今から 800年余り前、聖フランチェスコはアシジの富裕な織物商人の息子として生まれました。若いころの彼は、仲間たちと飲めや歌えの華やかな生活に溺れ、放蕩に身を持ち崩していました。そんな彼の夢は、騎士になり、武勲を立てることでした。ある日、戦場で病気に倒れた彼は、神の御声を聞きました。「お前は、主人と私のどちらに従うべきなのか。」戦いの虚しさの中、彼は故郷へ帰ります。そしてある日、道でハンセン病患者を抱擁したことが、人生の大きな転機となりました。やがて彼は、「私の壊れかけた家を建て直しなさい」という、キリストの声を聞きます。このときから、彼は持ち物を全て施し、家族に別れを告げ、荒布を身にまとい、清貧と謙遜のうちに、ただ天の御父にのみ頼って生きるようになるのです。聖フランチェスコは、マルコ10章の「富める若者」の逆を行った人であります。すべてを捨てて、神様のみに頼って生きました。彼の生き方に影響されて、多くの人たちが従って、やがてフランチェスコ修道会が生まれました。また、チョー・ヨンギ師の義理のお母さんに、崔子実、後の「ハレルヤおばさん」がおられました。崔子実は朝鮮動乱の後、「杼(ひ)」という紡績工場で使う部品で大当たりし、女社長になりました。彼女はソウルに行っても「崔社長!」、仁川に行っても「崔社長!」韓国中どこへ行っても、はぶりの良い彼女は、最高のもてなしを受けました。さらに彼女は、水産業にも手を出したので、タラ、サケ、イリコの漁獲のために、家庭を離れている時間が多くなりました。気まぐれに教会に立ち寄ってみると、讃美歌の終り頃だったり、主の祈りの終り頃だったりでした。ところが、信仰の篤い母と長女がほぼ同時に天に召されてしまいました。その後、韓国で、第一次貨幣改革が起こり、大変信用していた取引先の社長が不渡り小切手を出して、夜逃げ。社長ばかりでなく、専務も会計士も、集金したお金を持って逃亡。当然のごとく賃金無払いで会社はバッタリ倒産。目の前が真っ暗になり、心臓病に犯されてしまいました。そのとき、母が言っていた「子実、財産はわしのように飛び去ってしまうもんだよ。財産を愛してはいけないよ」という言葉を思い出しました。何日も苦しみ続けたあげく、自殺を選びました。三角山の方へ足を運んだそのとき、祈祷院が目に入りました。「山に登ったら、その場で薬を飲んで死のう」と覚悟したのに、いざ死ぬという段になるとできない。そうこうしているうちに20日余が過ぎてしまいました。昼は祈祷院に行って食事を取り、晩になると洞窟にもぐって、泣きながら夜を明かしました。もう泣く力もなく、いよいよ「死のう!今夜だ!」と最後の昼めしを食べるために、祈祷院の食堂に入って行きました。そのとき、ばったり親友に出会いました。親友にこれまでの一部始終をみな打ち明けました。親友は手を握り締め「子実、あんた聖霊を受けなさいよ」と言いました。親友に連れられ、天幕聖会に出席しました。そこで悔い改めの思いが、火山のように沸々と燃え始めした。夜更けの3時ごろ、突然、聖霊の力が臨み、口からは聞いたことのない言葉が出て、火だるまみたいに熱くなったということです。彼女は聖霊のバプテスマを受けてから、神学校に入り、伝道者になります。そして、おんぼろ天幕から伝道し、チョー・ヨンギ師と出会うわけです。まさしく、「人にはできないが神にはできる」であります。

 実は、この聖書を書いたマルコにも、同じような経験がありました。いや、マルコは「富める青年」に自分を見ていたに違いありません。マルコの家はエルサレム市内にあり、最後の晩餐やペンテコステの日にも、用いられていたようであります。家が広く、女中もいたり門があったりで、かなり裕福だったことが分かります。マルコ14章の「ある青年」は、マルコ自身だと言われています。彼は最後の晩餐のあと、弟子たちのあとを着いて行きました。ところが、兵士たちがイエス様を捕らえたとき、弟子たちはイエス様を見捨てて逃げました。そのとき、素肌に亜麻布を1枚まとったままの青年が近くにいました。人々が彼を捕らえようとしたとき、彼は亜麻布を脱ぎ捨てて、はだかで逃げたのであります。マルコはよく逃げる人で、第一次伝道旅行のときも、途中からエルサレムに帰りました。苦労知らずの、お金持ちのボンボンだったからかもしれません。ところが、彼はやがて、ペテロの通訳者となってローマで用いられます。やがて、この「マルコによる福音書」をまとめたと言われています。「富める青年」の物語は、マタイやルカにも書かれています。でも、マルコだけに書かれている言葉があります。それは、21節の「イエスは彼を見つめ、その人をいつくしんで言われた」です。イエス様はとても冷たそうでありますが、そうではありません。「彼を見つめ、いつくしんで言われた」のです。「いつくしむ」とは、「愛して」であります。イエス様は富める青年を愛して、そう言われたのです。おそらく、マルコ福音書の著者マルコは、同じイエス様のまなざしを受け止めたに違いありません。「あの富める青年は顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。私も自分の命が惜しいので、何度も立ち去った。しかし、もう逃げはしない。何もかも捨てて、イエス様に従おう」と決心したのです。みなさんは、イエス様のまなざしを想像できるでしょうか?一番弟子のペテロも「イエス様を知らない」と3度も否みました。その直後、裁判所から出てきたイエス様が、ペテロを見つめられました。イエス様のまなざしはどのようなものだったでしょうか?血走った、怒りの目でしょうか?「情けないなー」という軽蔑の目でしょうか?いいえ、そうではありません。いつくしみの目、愛のまなざしであります。だから、私たちは立ち返ることができるのです。「人にはできないが神にはできる」。このイエス様の愛に触れたとき、かたくなな心が解かされるのです。どうぞ、愛といつくしみに富んでおられるイエス様に出会いましょう。そして、イエス様を人生の主として受け入れて、従って行きましょう。

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2007年9月 9日 (日)

子どものように      マルコ10:23-31

先週は結婚についてお話しましたが、きょうのテキストは子どもについてです。家庭に子どもが与えられると、夫は父になり、妻は母になります。そういう意味で、「聖書のメッセージは連続していてすばらしいなー」と思います。皆さんの中には、子育て真っ最中の方もおられますし、子育てを終えた方もいらっしゃいます。でも、イエス様は「子どものように神の国を受け入れる者でなければ」と言われました。つまり、私たち大人も、子どもの特性を思い出し、子どもの良いところを真似なければならないということです。

1.子どもをそのままに

 13,14節「さて、イエスにさわっていただこうとして、人々が子どもたちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちは彼らをしかった。イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです」。飛んで、16節「そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された」。ここで言われている「子ども」とは、原文では「幼い子ども」であります。少し前の口語訳聖書では「幼な子」と訳されています。たぶん、イエス様は大勢の人たちにお話しておられたのでしょう。その近くに、幼な子を抱いたお母さんたちが列を作って並んでいました。お話しもひと段落したようなので、「子どもに手を置いて祝福してもらいたい」と、その人たちが前に出てきました。ある子どもたちは、お母さんの手を振り切って、イエス様のところによちよちと近づいて行ったでしょう。ところが、弟子たちは「先生はただ今、お忙しい。邪魔をしないように!」と、お母さん方を叱りました。おそらく弟子たちは、イエス様に煩いをかけないようにと気を使ったのでしょう。しかし、イエス様はそれをごらんになり、憤られました。イエス様が憤られたという箇所は、宮きよめと、ラザロの死のときぐらいですから、よっぽどのことです。イエス様は「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです」と、おっしゃって、子どもたちの上に手をおいて祝福されました。

 イエス様は何故、弟子たちを叱ったのでしょう?子どもたちが特別に好きだったからでしょうか?そうではありません。イエス様はたとえ幼な子であっても、神から創られた1つの人格があることを尊重されたのです。昔も今も、大人たちは、「子どもとは体力、知性、能力においても未熟だ。お金を稼ぐこともできず、親の世話になっているので半人前だ」と思っています。「まなべあきら」牧師が、子育ての本の中でこうおっしゃっています。「イエス・キリストが幼な子を抱いて祝福された時、キリストは人本主義な意味においてそうされたのではありません(先生は、今日の教育原理が定まらないのは、人本主義に立っているからだと指摘)。キリストはひとり一人の幼な子をごらんになったとき、そこに神によって生まれた人格、成長することによってやがて大きく花開く人格的可能性をごらんになって祝福されたのです。神は幼児のうちに大人のように成熟した人格をお与えになったのではありません。しかし神は、やがて幾重にも満開に花咲かせることのできる人格的命のタネをおあたえになったのです。多くの教育者たちはこの人間についての大真理を悟ることなしに、幼児の環境、条件、指導法についての教育法を発展させましたから、今日のごとく行き詰まってしまったのです」。私はここで、教育法を語るつもりはありませんが、「神が与えた人格的命」という言葉に感動しました。タネと同じように、人格的命は芽を出し、成長し、花を咲かせ、果を実のらせるのです。そうであれば、1才児は1才児の人生を、2才児は2才児の人生を、そして、3才児、4才児、5才児と、各々の人生を生きていく権利が神様から与えられているということです。つまり、子どもは確かに成熟していないけれど、立派な一人格者だということです。だから、弟子たちのように「うるさい!あっちへ行け!」と、邪魔者扱いしてはいけないということです。

 と言いながら、私自身も神なき教育を家庭や学校で受けてきましたので、いざ、子どもを育てるとなると、忘れてしまいます。と言うか、もう手遅れかもしれません。でも、「50点くらいはもらいたいなー」と思っています。確かに、大人は子どもを立派な一人格者として認めていません。「うるさい!」のひとことで跳ね除けたり、「あとでね!」と体よくごまかしています。今、ひきこもりとか、不登校、家庭内暴力がものすごく増えています。その原因は、子どもとのふれあいがないことが一番の原因だと言われています。幼な子は親と接して信頼を学ぶべきなのに、無視されたり、拒絶されたりします。身体的接触も、温かい言葉のコミュニケーションもない。3歳で、既に心がひきこもっているということです。そして、少し大きくなると、「勉強して、有名校に入らなければうちの子じゃない」と、条件を付けます。親と先生が「勉強しろ!勉強しろ!」とあおるのですが、子どもにはその目的や意味がわかりません。さきほどのまなべ先生はこう述べておられます。「子どもたちは今や、教育という管理社会の中で追い込まれているのです。否、自分自身を追い込んでいます。その積み重ねによって、精神的な疲れが慢性化していきます。しかし周囲は『早くしないと間に合わない」と拍車をかけ続けます。子どもたちのまわりにあるのは点数による管理主義とムチのような拍車だけです。彼らに必用な愛や信頼のある人間関係がないのです。このような社会は子どもたちの目には、水も緑もない、希望も幻もない砂漠に見えるのです。それは彼らを更に疲れさせ、自殺へと追いやるのです。」全くそのとおりです。幼な子がちゃんとした人格的命を持っているならば、愛の光と信頼関係の水を与えなければなりません。人間は動物と違い、物や食べ物だけを与えているだけでは不十分です。いや、犬だって触れ合ったり、一緒に過ごさないと病気になるそうです。

 イエス様は一人ひとりの幼な子を抱きかかえ、手を置いて祝福されました。イエス様は幼な子を半分前の人間ではなく、一人格者としてお認めになられていたのです。そして、その幼な子が、4つの分野で成長するようにお祈りされたと想像できます。なぜなら、ルカ2章にイエス様ご自身のことがこう書いてあるからです。ルカ2:52「イエスはますます知恵が進み、背たけも大きくなり、神と人とに愛された」。まず、「知恵が進み」とは、かしこくなるという知的な成長です。「背丈も伸び」とは、身体的に成長するということです。「神に愛された」とは、霊的に祝されて成長することです。そして、「人から愛されるように」とは、社会的に、人間関係において成長するということです。そして、最終的にはこの子に与えられた、神のタネが成長し、神の栄光を現わすことができるようにと祈られたことでしょう。私たち大人であっても、想像というか、幻の中で、イエス様から私たちの「インナー・チャイルド」が癒され、成長するように祝してもらう必要があります。我々は、身体は大人なんですが、「内なる子ども」はどうでしょうか?「良い子を演じなければ受け入れられない」と緊張しているでしょうか?それとも「もう誰もボクを傷つけることはできないぞ!」と怒っているでしょうか。あるいは、「お前なんか大嫌いだ。悪いのはお前だ」と裁く心を持っているでしょうか?あるいは、「神様、これが本当にあなたの姿ですか」と色眼鏡を通して見ているでしょうか?あるいは「ほら、やっぱり」と最悪を期待している自分がいるでしょうか?どうぞ、イエス様からハグしてもらいましょう。そして、頭の上に手を置いてもらって祝していただきましょう。父なる神様も、イエス様に語られたように、あなたにも語っておられます。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」。私たちが本当に神様から愛され、受け入れられることを経験するときに、子どもを愛し、受け入れることができるのです。また、セルチャーチは神様だけでは不足です。父のような存在から、母のような存在からも、「愛しているよ」とハグされたら、もっと良いそうです。当教会に、名古屋の毛戸健二牧師が来られたことがあります。先生は幼い時に母親を亡くしました。先生が、小学校4,5年生のときに、友達の家に遊びに行きました。そこは教会で、友達のお母さんは牧師夫人でした。お母さんは毛戸少年のことを知っていたのでしょう。帰り際に、毛戸少年を何も言わず、ぎゅっと、抱きしめてくれたそうです。それが本当に嬉しかったそうです。そのことが、信仰の出発点になったことは間違いありません。

2.子どものように

 14,15節「イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。」イエス様は、幼な子と神の国がとても深い関係であることを教えられました。また、幼な子が持つ特性こそが、神の国に入る条件だということです。では、小さな子どもたちがどのようにして、イエス様のところに近づいて行ったのでしょう。私の恩師、大川牧師は幼な子はハイハイしながら、「アバ、アバ」と口ずさんでいたのでは、とおっしゃいます。「アバ」とは、お父さんに対する幼な子の呼び方であります。つまり、神様を「お父さん」と呼ぶ関係こそが、神の国に入る重要なことだという訳です。すばらしいですね。みなさん、この世界の人間すべてが、神様を「お父さん」と呼べる訳ではありません。アダム以来の人間は、神から失われ、神に敵対し、あるいは神を無視して生きている存在です。生まれつきの人間は、神の子どもではありません。神の子どもじゃないので、神様を「お父さん」とは呼べないのです。では、どうしたら良いでしょうか。唯一の神の子であるイエス・キリストが、十字架にかかり罪の贖いを成し遂げてくださいました。イエス様は父なる神と人間の和解を成し遂げてくださったのです。ですから、イエス様を信じて、和解を受け入れるなら、父と子どもの関係も回復するのです。しかし、幼な子はそんな理屈は分かりません。でも、「アバ、アバ」と、イエス様に近づいたのです。イエス様に近づくならば、イエス様が間に立って「OK!」と受け入れてくださるのです。でも、弟子たちはどう考えていたでしょうか?「聖なる場所に、近づいちゃいかん!」と考えていました。これは、旧約聖書の教えです。モーセのとき、民たちは「聖なる山に近づくと、打たれる」と警告を受けていました。しかし、それは旧約の時代です。では、新約の時代とは何でしょうか。新約とは、イエス様という仲介者によって、だれでも神様に近づくことができるようになったということです。そして、イエス様によってこの救いを受け入れるならば、だれでも、神様を「アバ、父よ」と呼べるということです。私たちはイエス様の十字架によって、罪あるまま、汚れたままでも、恵みを求めて父なる神様に近づくことができるのです。ハレルヤ!

 また、イエス様は「子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません」とおっしゃいました。これは、幼な子には大人にない、特性があるということです。それでは、幼な子の特性とは何でしょうか?第一に「疑うことをしない」ということです。大人は常時、疑っています。それは、大人が常にいろいろなことを通して、だまされているからです。ところが、幼児は、だまされることがありありと実在していても、疑いません。イエス様は、「子どものように神の国を受け入れる」とおっしゃいましたが、これは「子どものように疑わないで、神の国を受け入れる」というように言い換えることが可能です。私も子どもを4人も育てましたが(まだ最中ですが)、幼な子は親を信頼しきっています。高い、高いしたり、ふりまわしても、キャッキャ、キャッキャしています。決して、「落っことすんじゃないかなー」などと疑っていません。押し入れとか高いところから、親の胸めがけて飛び込んできます。親がもし、肩透かしをしたら、大怪我をするでしょう。幼な子は、本当に疑うことを知りません。ですから、ユダヤ人は、疑いを知らない子どものときに、信仰を植えつけます。トーラー(聖書)やミュシュナを用いて、神を愛すること、両親を敬うことを叩き込むわけです。「教育ママ」のもとは、ユダヤ人のお母さんという意味。そういう意味では、日曜学校はとても大切です。もし、幼い時に、まことの神様を信じることができたら、何と幸いでしょう。たとい思春期に迷うことがあっても、また戻ってくる可能性が大です。あるクリスチャンの親が、「信仰は子どもの自由だから」と言っていました。では、子どもが地獄へ行っても良いのでしょうか?賢い親は、子どもが素直な時に、信仰を持てるように導くのではないでしょうか?「洗礼も、高校生とか二十歳以上でなければ」という親もいますが、私は反対です。反抗期が来る前の小学校高学年の頃が、Goodではないかと思います。来週は、CSの宮坂悠介君の洗礼式があります。伝道者の書12章に「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに」とあります。

幼な子の第二の特性は「愛情を素直に受け入れること」です。幼な子は、食べ物でもプレゼントでも素直に受け取ります。しかし、大人になると、「ただより怖いものはない」と、手を出しません。「救い」は行いによってではなく、恵みであります。「ただ」であります。一方、この世の宗教の場合は、お題目を唱えたり、修行や善行、お布施が必要です。しかし、大人は、「自分たちが何かを一生懸命することによって、救われる方が理屈にかなっている」と思うのです。でも、神様は救われる手立てを、既に完成してくれているのであります。この教えの直後に、金持ちの役員のお話が出てきます。きょうのテキストになぜ、マルコ10:17を入れたのか不思議に思った方もおられるでしょう。この男性はイエス様に何と言って近づいたでしょうか?マルコ10:17イエスが道に出て行かれると、ひとりの人が走り寄って、御前にひざまずいて、尋ねた。「尊い先生。永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか。」幼な子だったら、ひざまずいたりしません。また、幼な子は「尊い先生」なんてゴマをすったりしません。また、幼な子は「何をしたら、永遠のいのちを受けられるか」などと聞いたりしません。ただ「ちょうだい」と手を出すだけであります。この男性はなまじっか、律法を守り行っていたので、実力で、永遠のいのちを受けられると思っていたのかもしれません。「何をしたら」という言葉の中に、傲慢さが見えます。彼は永遠のいのち(救い)が無償であることが理解できなかったのであります。イエス様が「子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません」とおっしゃられたことと深い関連があると思えないでしょうか?使徒パウロは、Ⅰコリント14:20で「物の考え方においては子どもであってはなりません。悪事においては幼な子でありなさい。しかし、考え方においては大人になりなさい」と言いました。幼児性は困りますけど、こと信仰に関しては、幼な子であるべきです。

私たちがクリスチャンになれたのは、幼な子が持っていた特性を持っていたからでしょうか?みなさんは、神の国を疑うことなしに、あるいは素直に受け入れたでしょうか?子どものときに信じたのなら別ですが、大人になってからは結構大変だったのではないでしょうか?もうすでに、別の神様を信じていたかもしれません。「日本には日本の神様がいる。外国の神様なんかいらない」なんて言っていたのではないでしょうか?あるいは、学校で受けた教育が妨げになったかもしれません。進化論、啓蒙思想、世界史を学ぶと、「キリスト教も1つの宗教だなー」と考えるでしょう。私たちの心の中には躓きの石、偏見、無知がいっぱいあったに違いありません。でも、どうして、幼な子のような気持ちになって、神の国を受け入れることができたのでしょうか?それは、いろんな苦しみと出会って、「心が貧しくされた」かもしれません。詩篇119篇に「苦しみに会ったことは、私にとって幸せでした」とあります。また、人から裏切られたり、大切なものを失って悲しんだからかもしれません。子どもは何も持っていませんが、大人はたくさんのものを持っています。しかし、その大事なものを奪い取られるような悲しいことが起こります。マタイの5章に「悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです」とあるからです。交通事故や事件で家族を失い裁判になっているニュースをテレビで見ます。たとえ、相手の刑を重くしても、お金をたくさんもらっても解決できないでしょう。極論ですが、神様の慰めを知り、そして永遠の救いを発見したなら、一粒の麦になるのではないでしょうか?また、子どもは「なぜ、どうしてなの」とよく質問します。大人でも根本的な答えを持っていない時があります。マタイ5章に「義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです」とあります。私も物心ついたときから、何のために生きるのか分かりませんでした。「人は何のために生きるの?」と聞いても、納得のいく答えが帰って来ませんでした。でも、イエス様は「私が道であり、真理であり、命なのです」とおっしゃってくださいました。私は全部知らないけれど、神様は何でも知っておられる、これで十分なのです。他にもいろいろあると思いますが、共通していることは神の国に対する飢え渇きであります。これは苦しみや悲しみという環境もあるかもしれませんが、もう1つは聖霊様の導きであります。神の霊であられる聖霊が、私たちの魂に飢え渇きをもたらしてくださったのであります。「もし、永遠の真理があるならば信じたい」「もし、本当の愛があるなら受け入れたい」「もし、罪の赦しと再生があるならいただきたい」「もし、本当の親である神様がいるならばお会いしたい」。これは、大人が忘れていた質問であります。大人はあるときから諦めていたのです。でも、聖霊様が幼な子のようなあこがれを、私たちの内に抱かせてくださったのであります。おそらく、イエス様は、一度ではなく、なんべんも心のドアをノックしてくださったのであります。私たちは恵みによって、幼な子のような素直な心になって、救いを受け入れることができたのです。ハレルヤ!アーメン。

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2007年9月 2日 (日)

結婚の奥義       マルコ10:1-9

平野耕一牧師が、高校生の時、国語の先生からこんな話を聞いたそうです。ソクラテスの弟子が「先生、結婚したほうが良いでしょうか、しないほうが良いでしょうか」と聞きました。ソクラテスが答えました。「どちらでも同じだよ。結婚してもしなくても、後悔することになるよ。結婚すればしなければ良かったと思うし、結婚しなければすれば良かったと思うようになるよ。」平野青年は「どうせ後悔するなら、結婚して後悔したほうが、結婚しないで後悔するより良い」と考えたそうです。ところで、どうして、この世の中に離婚が多いのでしょうか?1つの原因は、準備不足にあります。ほとんどの人たちは、結婚式の準備はするかもしれませんが、結婚生活の準備はしません。みな、出たとこ勝負であります。大体、この世の中に、結婚について教えてくれるところがありません。しかも、両親をはじめ私たちの周りに、結婚の良い模範があれば良いのですが、そうでない場合が多いと来ています。つまり、結婚について何も知らないで、一つ屋根の下で生活する。そこから悲劇が始まるのではないでしょうか?「もう手遅れだなー」と思っている人は癒しを受けるために、「これからどうしょう」と思っている人は希望を抱くために、一緒に学びたいと思います。

1.結婚の土台

 何事も土台、ファンディーションが大事であります。ファンディーションと言ってもお化粧のことではありません。結婚に関する土台とは何でしょうか?6節「しかし、創造の初めから、神は、人を男と女に造られたのです」。飛んで、9節「こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。」結婚とは、人間が考え出したものではなく、神様が創設したものです。つまり、神様は一人の男と一人の女が結ばれて、家庭という共同体を造ることを計画されたのです。ところが、神様から離れた人間は、結婚を1つの手段として考えました。昔は女性は男性の所有物であり、気に入らなかったら離婚できたようです。モーセの時代も、離婚状を書いて妻を離別することができました。しかし、イエス様は「それは人々が頑なだからだ」と言われました。今、NHKで大河ドラマ『風林火山』をやっています。あの時代は、女性は隣国と和議を結ぶための生贄のような存在でした。いわゆる、政略結婚が当たり前だったようです。ついこの間まで、結婚とは個人同士ものではなく、両家を結ぶものでした。そのため、結婚相手は親同士が決めていました。今でも、結婚式場に行きますと、「○○家と○○家」になっています。形はともかく、現代の多くの人たちは自分のために結婚します。好きだから、寂しいから、都合が良いから、幸せになりたいから、結婚します。それぞれの動機は自由かもしれませんが、結婚の土台がないために破綻してしまうのです。

 結婚の土台とは何か、それは「神が結び合わせた」という信仰であります。神様が「新しい家庭を作るために、一人の男性と一人の女性を結び合わせた」と信じなければなりません。もちろん、「好き」とか「愛」も大切です。でも、「自分が好きだったからこの人を選んだ」という土台に立つとどうなるでしょうか?好きだという感情はいつまでも続くわけではありません。もし、嫌いになったら、「ああ、自分の選択は間違っていた。この結婚は失敗だった」となるかもしれません。しかし、「神がお互いを結び合わせた」という信仰に立つとどうなるでしょうか?「ああ、自分は、今は失敗した」と考えているけど、これは一時的なものである。神様があの人を私に与えたのだから、踏ん張ろうと努力するでしょう。私は幸い、クリスチャンになってから結婚しました。残念ながら、私の両親は結婚の良い模範ではありませんでした。父は酒を飲んでは母を殴りました。母は子どもたちの前で、父のことをさんざん悪く言いました。私たち8人兄弟は、そういうのを見て育ちました。だからと言うわけではありませんが、3人の兄弟は離婚を経験しました。私もクリスチャンでなかったなら、離婚を考えたかもしれません。男性と女性、なぜこうも違うのでしょう?離婚をしないのが不思議であります。幸い、私の場合は「神が結び合わせたのだから、間違いはない」と、そこに立ち続けることができました。カトリックの神父さんは生涯、独身であります。その点、プロテスタントは結婚が許されています。体験のないカトリックの神父さんは理想論を語れるかもしれませんが、私の場合は自ら苦しんでいますので、同情とか、痛みをもって語ることができます。

 結婚式で一番大切なのは、神様の前で約束するということであります。決して、披露宴の豪華さが結婚生活を保証するわけではありません。芸能人が良い例でありましょう。今は、結婚式をしないで、籍を入れるだけの人もいます。あるいは、神様を除外して、人前結婚というものもあるようです。結婚は神様の前での、契約であります。契約には2種類あります、1つはcontract、人との契約です。人との契約は、一時的、条件付き、そして部分的であります。そして、もう1つは、covenant神との契約です。神との契約は、全生涯にわたるものであり、無条件で全体的であります。全体的ということは後でお話ししますが、結婚とは、人との契約ではなく、全生涯に渡る神との契約であります。だから、夫婦は「健やかな時も、病む時も、死が二人を別つまで」と、忠誠を誓い合うのです。しかし、人間がそんな約束をできるのでしょうか?はっきり言って、生身ではできません。「自分ではできませんが、主にあってそうできますように助けてください。」これが信仰であります。信仰と信念とは違います。私たちの信念や意思では、無理であります。しかも、私たちには無条件の愛などありません。相手が嫌になったり、むかついたり、このやろーと思うことが幾度となくあるでしょう。でも、「主よ、助けてください。あなたが最善の人を結び合わせたと信じます。あなたの愛と希望を与えてください。アーメン」。そうやって祈ると、いつか、不死鳥のように愛が再び芽生えてくるのです。ハレルヤ!「いつか」が問題であります。でも、ゆだねて忍耐していると、神様からその愛がやってくるのです。大切なのは、忍耐です。Ⅰコリント13:7、8「すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを耐え忍びます。愛は決して耐えることがありません」。「愛は決して耐えることがありません」は、ある英語の聖書には、Love is never give up.と訳されています。never give upです。アーメン。

2.結婚の条件

 結婚にはいくつかの条件があります。それが、7、8節です。「それゆえ、人はその父と母を離れて、ふたりの者が一心同体になるのです」。結婚とは一心同体になることですが、その前に、人はその父と母を離れなければなりません。父と母を離れるとは、経済的にも精神的にも自立するということです。親から結婚相手を決めてもらったり、親からお金を出してもらって豪華な結婚式を挙げる、ついでに家も建ててもらうなどと言うのは愚の骨頂であります。古いでしょうか?日本人の場合は、親離れ・子離れができていない共依存の親子が結構あります。結婚してからも、何か問題が起こるとすぐ実家に帰って相談する。とんでもないことであります。家庭の最小単位は夫婦であります。ですから、まず夫と妻が十分に話し合い、祈り合うべきです。伴侶を飛ばして、お父さんやお母さんに相談すると、横槍が入り、ますます複雑になります。テレビに『渡る世間は鬼ばかり』という番組があります。あれほどくだらない日本的な番組はありません。1つの問題を、3代に渡って突っつきあっています。また、子どもが生まれてからも、相談相手は夫か妻であるべきです。妻は夫が家にいないために、子どもに相談するでしょう。しかし、それが重なると親子逆転が起こり、子どもにとっても良くありません。家庭の中心は妻と夫であり、親子ではありません。夫は妻よりも子どもを愛してはいけません。同時に、妻は夫よりも子どもを愛してはいけません。夫と妻が愛し合う、そのおこぼれで子どもは十分なのです。そして、子どもが年頃になると、家から追い出す準備をするのが良いのです。

 また、一心同体になるためには心の癒しが必要です。どういう意味かと申しますと、結婚したとたん、自分の伴侶が自分の親と二重写しになるということです。良くあるケースは、夫は自分の妻が、実のお母さんとダブルということです。一方、妻は自分の夫が、実のお父さんとダブルのです。たとえば、自分のお母さんがヒステリックで口うるさかったとします。そして子どもの頃、「女とは本当にうるさいものだなー。僕は口うるさい女とは結婚しないぞ!」と誓ったかもしれません。そういう男性が結婚するとどうなるでしょう?妻が口うるさいと、「本当にうるさいなー」と、お母さんに抱いていた同じ感情を抱くことになります。妻にしてみれば、自分がうるさくするように引き出される感じがします。また、自分のお父さんが横暴で無責任なために、怒りをもっていたとします。そして子どもの頃、「男とは横暴で無責任なものだなー。私は無責任な人とは結婚しないぞ!」と誓ったかもしれません。そういう女性が結婚するとどうなるでしょうか?夫が少々無責任だと、「男とは本当にいい加減よ」とお父さんに抱いていた同じ感情を抱くことになります。そして、その妻は夫を尊敬しないばかりか、夫を出し抜こうとするでしょう。なぜ、こんなことが起こるのでしょう。それは、自分のお母さん、もしくはお父さんを赦していないからです。子ども時代からの、怒りや裁く気持ちが残っているのです。どうぞ、亡霊や怨念から解放されるように、自分のお母さん、お父さんを赦しましょう。主が与えた親として尊敬しましょう。あなた自身が癒されると、伴侶を見る目が変わってきます。そういう意味で、父と母を離れる必用があるのです。

 しかし、まあ「ふたりの者が一心同体になる」というのは、難しいことであります。だいたい、生まれも育ちも違います。生理的にも違うし、考え方、性質・・・違うことだらけであります。離婚の理由に性格の違いがよく言われますが、それは当たり前であります。結婚前は、「私たち好みも共通しているし、よく気が合うわね。うふ」などと言いますが、あれはお互い我慢しているからです。でも、結婚して1つ屋根の下に住んだら、1ケ月も経たないうちに地金が出てきます。「結婚とはさんたんたる誤解である」とある人が言いましたが、「ああ、こんなにも違うのかなー」と驚くばかりです。私も結婚して25年になりますが、最初の頃は大変でした。まず、女性は気分が男性ほど安定していないということです。たぶんですが、妻の方は「男性はどうして労わりとか思いやりがないのかしら?」と思ったかもしれません。1996年にオンヌリ教会のセミナーに出席しました。ある長老さんが、本当に分かりやすく男性と女性の違いを教えてくれました。「夫は経済的問題を解決してあげたら妻は満足すると思っている。しかし、妻が満たされたいものの中で、経済的問題は第4番目である。妻が一番満たされたいと思うのは、具体的な愛の表現である。自分の重要性を認めてくれる。愛の対話が欲しい。しかし、男性は細かいことよりも、全体的に物事を見ますので、小さなことなんかどうでも良い。そして、男性が願うことは、尊敬される事。妻からほめてもらうことが何よりも喜び。もし、妻がほめてくれないなら、お店に寄り道してくるだろう。また、性的満足においては、男性はトップであるが、女性は5つの中にも入らない。女性は小さいことで、幸せを感じるように造られている。ひとことでもねぎらいが欲しい。男性は視覚が敏感、自分の妻が美しく見えるとき、幸福感を覚える。醜いと、苛立ちを覚える」。女性は外では着飾っていても、家ではだらしない格好している。これではダメだということです。

 その長老さんが1つになる方法について教えてくださいました。夫が妻に、「あなたが私のところに来なさい」と言います。一方、妻が夫に「あなたこそ、私のところに来なさい」。これでは永遠に戦いが続きます。そうではなく、お互いの頂点にキリストを置くのです。三角形の底辺に夫と妻がいて、その頂点にイエス様を置きます。夫がイエス様のところに近づきます。妻もイエス様のところに近づきます。そうしていくと、夫と妻の距離が近くなっていきます。そればかりではありません。イエス様は一方は夫の手を握り、一方は妻の手を握って、和解をもたらしてくださいます。未信者の場合は、お互いの目標もなければ、和解の主もいません。しかし、私たちクリスチャンは、イエス様を見上げ、イエス様の中に入っていくとき、1つになることができるのです。イエス様こそが、和解の供えものであり、和解をもたらしてくださる主であります。

3.結婚のための努力

8節「ふたりの者が一心同体になるのです。それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです」。結婚とは、一心同体になることですが、どのようにしたら一心同体になれるのでしょうか?そこにはいくつかの努力も必要です。私はアバラブ教会から「結婚とは一致を体験することである。それは部分的なものではなく、全体的なものである」と学びました。真の約束とは、神の前に夫婦が一体となることです。その夫婦の一体化とはどういうことでしょうか?まず、お互いの霊が1つになることです。1つの霊になるためには、お互いが祈り合うことが必要です。どんなに性格や、考え方が違っていても、お互いに祈り合うと、最も深いところに一致が与えられます。ある夫婦が、教会の早天祈祷会に行って、1時間もお祈りしていました。ところが、家に帰ってくると、些細なことでも喧嘩をしてしまいます。二人は教会でそんなに長く祈っているのに何故でしょう。実は、彼らはそれぞれ神様の前で熱心にお祈りしますが、お互いに祈ったことがほとんどなかったのです。それで、今度はお互いに手を取り、祈り合うことにしたのです。そうすると、深いところに一致が与えられたということです。互いの祈りは家族の祭壇です。祭壇が崩れると、生活も崩れます。だから、お互いに祈り合いましょう。

第二番目は心と心が一つになることです。1つ心となるためには、会話が必要です。正直に何度も話し合うということはとても重要です。男性はこのことが非常に弱い。ある心理学者が「男性は1日に500ワード、女性は2000ワード話すことによって満足する」と言いました。残念ながら、男性は会社の営業で500ワード全部使い果たしてしまうのです。家に帰ったら「飯、風呂、寝る」くらいの言葉しかありません。しかし、家にいる主婦であれば、2000ワードをほとんど残っています。だから、夫にいろいろ尋ねたり、話したりするのです。そのときに、夫は「くだらない。そんなことどうでもいいだろう」と言ってはいけません。心から愛をもって聞くのです。先ほども言いましたが、女性はささいなことで幸せになるのです。これは私にとっても課題であります。

第三番目は肉体と肉体が一つになることです。1つの肉体となるためには、肉体の交わり、セックスが必要であります。男性はこれが優先順位のトップですから、教えられる必用は全くありません。残念ながら、日本ではセックスレスの夫婦が増えているそうです。ずっぅとしない。セックスは神様が夫婦にお与えになった賜物です。『トータルウーマン』という本が昔ありました。中身は忘れましたが、彼女はセックスをもっと積極的なものとして捕らえていました。アメリカなどでは性的問題をカウンセラーのところに行って、あからさまに話すのですが、日本ではそうはいきません。私ももっと枯れてからではないと相談は受けられないなーと思います。しかし、どの牧師も言いますが、霊の一致と心の一致があると、肉体の一致も祝福されるということです。

第四番目は1つのビジョンを持つということです。夫婦の賜物が違っていても、「神様のために仕えたい」というビジョンがあったらなんと幸いでしょうか?岸義紘先生ご夫妻は、「青年宣教大会」を15年くらい続けられました。岸先生はメッセンジャーですが、お金のことはさっぱりと言う感じです。しかし、奥様は管理がとても達者という感じでした。でも、両者とも、日本の魂を愛することは共通していました。ご夫婦が神様に仕える、これほどすばらしいことはありません。

第五番目は1つの会計ということです。これは、夫婦がお金を別々にしないということです。イエス様はあなたの宝のあるところに心もあるとおっしゃいました。会計が別々で、お互いに貸し借りをしていたなら、分裂の始まりです。どちらが大蔵省をしても結構ですが、会計は一緒にいたしましょう。

第六番目は1つの親です。義理の父も義理の母も、「あなたの父であり、あなたの母」なのです。夫はときどき、「あなたのお母さんはこうだ」とか「あなたのお父さんはこうだ」と少々さばく気持ちで言います。すると、妻は「あなたのお母さんこそ変だわ」とか、「あなたのお父さんこそ変よ」と返します。身内を馬鹿にされると、「あんたから言われたくない」とばかり、どんなに正論でも腹が立つものです。結婚したら、相手の親も、自分の親と思わなければなりません。

 イエス様がこの地上で最初になされた奇跡は、水をぶどう酒に変えた奇跡です。夫婦が結婚式の最中から、喜びの象徴であるぶどう酒が尽きてしまいました。イエス様はなんの変哲もない水を、最も良いぶどう酒に変えてくださいました。でも、その前に何をする必要があったのでしょうか。第一に、水瓶の古い水を捨てなければなりませんでした。それは古いライフスタイルを捨てること、つまり悔い改めです。第二は、深い井戸から水を汲むということです。これはものすごい労働であります。結婚には努力と忍耐が必要だということです。第三は、イエス様のところに持っていくということです。物語では6つの水瓶を満たしました。これは律法である神の要求を満たすということです。でも、それだけではうまく行きません。6は律法の限界を象徴しています。しかし、イエス様のところに持っていくとどうでしょう。恵みがあらわれてきます。イエス様は、今まで飲んだことのない、良いぶどう酒をあなたのために取っておかれています。イエス様に期待しましょう。結婚しているしないに関わらず、イエス様は良いぶどう酒を、あなたのために取っておかれています。聖書には、キリストが花婿であり、教会が花嫁と書いてあります。

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