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2007年9月30日 (日)

仕えるために     マルコ10:32-45 

 旧新約聖書は、全部で66巻あります。これは66の書物が集められたという意味です。神学校のとき、「各書には中心的な聖句、つまり鍵となる聖句がある」と教えられました。マルコによる福音書の、中心的な聖句とは、この10章45節であります。ここには、イエス様が「仕えるために来られた」と書いてあります。つまり、マルコはイエス様を「牛のように働くしもべ」として書いたということです。また、マルコ福音書は、ローマ人を対象に書かれたとも言われています。ローマ人は、ギリシャ人のように理論的ではありません。彼らは「何ができるか」ということに興味があります。そのため、マルコ福音書は「すぐに行動するメシア」を書いたのです。きょうは、マルコ10章45節を2つに分けて学びたいと思います。ここには、イエス様がこの世に来られた理由が記されています。「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」

1.仕えるため

 イエス様がこの地上に来られた第一の目的は、仕えられるためではなく、仕えるためであります。御子イエスは、神の国の王になるお方でした。しかし、イエス様が地上に来て、「自分は王であり、主である」とおっしゃったことは一度もありません。まず、イエス様は人間として人々に仕え、十字架について死なれ、陰府にくだる必用がありました。その後、父なる神様からよみがえらされ、天に昇られてから「主」になられたのであります。主とか王という肩書きは、苦難のしもべを通過した後であったということは実に興味深いことであります。また、イエス様が人々に仕えた理由は、この世とは全く違うリーダーシップを自ら示したかったからであります。なぜなら、教会はこの世の権力体制ではなく、イエス様に倣う必要があるからです。残念ながら、当時の弟子たちは、この世の権力体制から影響を受けていました。本日のテキストをみますと、ヤコブとヨハネがイエス様の右と左に座らせてくださいと頼んでいます。他の福音書を見ますと、お母さんが二人の息子を連れてきて、お母さんが頼んでいるようであります。彼らはイエス様がエルサレムに到着したなら、この地上にイスラエル王国が建てられる。そのとき、イエスが王になるはずだから、二人の息子を、それぞれ右大臣、左大臣にしてもらいたいと頼み込んだのです。41節で、「十人のものがこのことを聞くと、腹を立てた」と書いてありますが、彼らも同じようなことを考えていたので「抜け駆けはずるいぞ!」と腹を立てたのです。彼らは、たびたび、「自分たちの中で、だれが一番偉いだろうか」と議論していました

イエス様は偉くなること自体は否定しませんでしたが、この世の権力体制とは別の道を示されました。異邦人の支配者はどのようにふるまっていたでしょうか?異邦人の支配者とはだれでしょうか?エジプトのファラオ、聖書ではパロと呼ばれています。ギリシャではアレキサンダー、そしてローマではカイザルでありました。どの国の支配者も、人々を支配し、権力をふるっていました。この世の権力体制は、みな同じです。政府、軍隊、企業も、偉い人が権力をふるい、下の者たちは偉い人たちに仕えているのではないでしょうか?中には、主任牧師に信徒が仕えている教会もあるかもしれません。キリスト教の大会を開くときに、大教会の牧師が大会会長になります。偉い先生とそうでない先生との格付けがなされます。教会はリーダーシップを学ぶときに、この世の権力体制をそのまま取り入れています。しかし、イエス様はこの世とは全く逆の道を示されました。それは、人々に仕える道であります。しもべのように仕えていくと、やがて、人々が権力によって強制されてではなく、自らの意思で従うようになるのです。

先日、ベン・ウォン師が関東コーチングに来られ、「権力行使」という、お話をされました。第一種類は、「強制と圧力」です。それは、ピラミッド型の権力 です。 「私がリーダーだ。お前を追放することもできる」と言います。政府の権力、官僚制度の権力、軍隊の権力も同じです。職場ではどうでしょうか?社長は、「逆らう奴はクビだ!」と言うことができます。幼い子どもに対する父親もそうです。「宿題をしないと、ゲーム機を取り上げるぞ」と言えます。でも、その権力には限界があることをご存知でしょうか?職場では勤務時間が終わったら聞き従う必要はありません。そして、会社を辞めたら、もう何の関係もなくなります。子どもも小さいうちは、親の言うことを聞きます。でも、やがては、体力的に親よりも勝ってきます。親が殴ったら、殴り返される場合もありえます。つまり、強制と圧力は、特定の状況でしか使えないということです。第二番目は、交渉と利益という道です。「もし、あなたが○○を成し遂げたら、ご褒美をやる」という方法です。会社では昇進、昇給があります。「業績が上がったらボーナスもアップだ。」「売り上げが目標に達したらハワイ旅行に行かせてあげる。」子どもにも、「成績がアップしたら、あのおもちゃを買ってあげる。」これが「交渉と利益」の道です。しかし、この道にも限界があります。「そんなの欲しくない」と言われたらどうなるでしょうか。「ハワイじゃ嫌だ、ヨーロッパが良い」と言うかもしれません。第三番目は、「尊敬と尊重」の道であります。じつは、第一と第二は、あなた次第で、できることです。しかし、第三の「尊敬と尊重」の道は、他の人次第であります。つまり、他の人たちがあなたをどれだけ尊敬、尊重するかにかかっています。そうしたら、「あなたに従います」と他の人たちから権力を与えられることになります。

イエス様は神様であられましたが、徹底的に人々に仕えました。人々の病を癒し、御国の福音を教え、あるときは食物を与えられました。最後の晩餐のときは、弟子たち一人ひとりの足を洗って模範を示されました。最後には、十字架で「父よ、彼らをお赦しください」と身代わりに死んでくださいました。イエス様を信じて救われた人はどうなるでしょうか?「主よ、あなたに従います」と願うようになるでしょう。それは、イエス様を神様として尊重したからであります。この世は肩書きが、最初に来ます。「私が部長なんだから、あなたがたは従いなさい」と言うでしょう。従わないと給料が下がるか、昇進にも影響があるので、仕方なく従います。教会でも「私が牧師なんだから、あなたがたは従いなさい」と言うこともできます。でも、会社と違ってあまり利害関係はありません。だから「もう、来週から、来ません」と言われるかもしれません。でも、牧師はこうも言えます。「牧師に逆らうことは、神様に逆らうことです。あなたは、この教会を去ったなら、きっと呪われます」と言ったら、カルトです。恐れや罪責感を与えて支配することも可能です。しかし、イエス様の方法ではありません。イエス様は、ただ愛して、人々に仕えました。その結果、人々がイエス様を敬い、従うようになったのです。牧師や伝道師、セルリーダーも同じであるべきです。当教会はセルチャーチあるいは、セルチャーチを目指している教会ですが、セルチャーチの5つモットーがあります。第一は「仕える心、コントロールしない」。この理念はマルコ10:45から取ったものです。偉い人ほど、仕えるということです。第二は「パートナーシップ、階級組織ではない」ということです。セルの先生方は、みんな平等、友達です。この間は、小笠原先生の髪型が話題にあがりました。左右から、奥からも持ってきます。私は「小笠原流」と言いましたが、あまり受けませんでした。第三は「コーチングし合う、管理統制なし」です。上から「教える」というよりも、分かち合います。いやだったら、やめても良いわけです。第四は「与える心、受けるだけではない」。あなたの教会は私の教会、私の教会はあなたの教会。良いものは何でも分かち合います。第五は「神の国中心、自分の教会中心ではない」。私は、かつて「自分の教会さえ成長すれば、他の教会はどうでも良い」とやってきました。しかし、それはお城の城主になるようなものです。やはり、日本全体のこと、神の国が前進するように願うべきであります。このように、イエス様の仕える姿に学ぶとき、聖霊様が喜ばれる教会になるのです。この原理は、あなたの職場、あなたの家庭にも適用できるのではないでしょうか?「私に従え」と言わなくても、愛して仕えていくならば、尊敬を勝ち取り、おのずと従ってくるのではないでしょうか?イエス様はおっしゃいました。「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で、人の先になりたいと思う者は、みなのしもべになりなさい」。アーメン。

 

2.命を与えるため

マルコ10:45の後半、「また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」イエス様がこの地上に来られた第二の目的は、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためでした。「贖い」という言葉は、貝へんに買うという文字からできています。大昔は、貝がお金の代わりになりました。簡単に言うと「買い戻す」ということです。本来自分のものであったものが、何らかの理由で失って、後からそれを買い戻すということはないでしょうか?私には4人の子どもがいますが、上の3人は、みな自転車を放置したために、もって行かれたことがあります。駅前などに自転車を置きっぱなしすると、次の朝、おじさんたちが撤去して、保管場所にもって行きます。あとから、通知のハガキが来ます。「もし、いついつまで取りに来ないと、処分します」と書いてあります。綾瀬とか高砂に行きますと、昔は1000円くらいでしたが、今は3000円くらいするんじゃないでしょうか?こちらは考えます。「デスカウント・ショップだと、6000円くらいで新車が買える。どうしたら良いだろうか。まだ、乗れるだろう。」保管場所に行きますと、たくさんの自転車が並んでいます。1週間前、2週間前、1ヶ月前…持ち主が取りに来ない場合は、スクラップになります。お父さんは、仕方なく、行くのであります。「ああ、これだ!」2、3000円のチケットみたいなものを買って、用紙に貼ります。すると、係員が持ってきてくれます。私はそれを車に積んで帰ってきます。これを、自転車を贖うというのです。かつては我が家の自転車でした。でも、今は鎖につながれ、そのままだと滅びに行きます。そこへお金を出して、買い戻すわけです。これが贖いです。人間と似ていますね。かつては、神の作品でありましたが、罪の中で死んでいました。それをイエス様が買い戻してくれたわけです。ハレルヤ!

「贖う」は、旧約聖書では、おもに2つの言葉があります。1つは「ゴエール、買い戻す」です。落穂拾いで有名な、ルツ記をご存知ですね。ルツの義母ナオミは、飢饉が来たのでモアブの地に逃れました。しかし、その地で夫が死に、二人の息子が死にました。ナオミと息子の嫁ルツが、故郷のベツレヘムに帰ります。ところが、自分の土地は既に他人に渡っていました。近親者が買い戻してくれなければ、自分の土地にはなりません。ところが、ボアズという人が土地を買い戻し、そしてルツと結婚し、ナオミの家を再興してくれたのです。ここには、罪という概念がありませんが、近親者が買い戻すというポイントがあります。ヘブル2章には「主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥としない」と書いてあります。悪いことをして警察に捕まっている子どもを迎えに行くためには親が引き取りに行くでしょう。イエス様がそれを恥としないで、贖いを引き受けて下さったのです。もう1つは「カーファル、覆う」であります。私たちの罪は消されると言うよりも、血で覆われるという方が正しいのです。旧約聖書のレビ記を見てわかりますが、人間の罪が赦されるためには、清い動物の生贄がささげられました。動物が罪を負い、その血を流すことによって、人間の罪が覆われたのです。贖いのためには、命である血が重要なのです。レビ17:11「なぜなら、肉のいのちは血の中にあるからです」と書いてあります。イエス・キリストは私たちの罪を負い、私たちの代わりに罰せられ、死なれました。そのときに流されたイエス様の血潮が、「なだめの供え物」となり、神の人類の罪に対する怒りがおさまったのです。これを私たちの立場から言うと、罪が贖われ、神のこどもとなるということなのです。とにかく、イエス・キリストの十字架の死が、贖いの中心、救いの根拠だということです。

でも、みなさん、神学的にはイエス様の贖いはとてもすばらしいと思います。でも、実際はどうでしょうか?イエス様は羊や牛のように、殺されたのではありません。いじめにいじめられ、犯罪人として殺されたのです。マルコ10:33-34「人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは、人の子を死刑に定め、そして、異邦人に引き渡します。すると彼らはあざけり、つばきをかけ、むち打ち、ついに殺します。しかし、人の子は三日の後に、よみがえります。」イエス様が、当時、極刑と言われる十字架に付けられる前に、どんなことがあったでしょうか?宗教家たちから不当な裁判を受けました。全く罪がないのに、「死刑だ」と判決がくだされました。彼らはイエス様をさんざんののしり、平手で打ち、つばきをかけ、髭を抜きました。当時、イスラエルはローマの属国だったので、死刑執行の権利はありませんでした。そのため彼らは「カイザルに叛く、謀反人としての死刑」を要求しました。ピラトはユダヤ人のねたみが原因であることを見抜きましたが、暴動を恐れ、十字架刑に渡しました。ローマ兵たちは、イエス様に紫のマントを着せ、いばらの冠をかぶせ、「ユダヤ人の王、バンザイ」とからかいました。その後、楽に死ねるようにと鞭を体中に浴びせます。ローマの鞭は先が数本に分れ、その先に鉛や動物の骨が編みこまれていました。パッションという映画を見た方はご存知だと思いますが、屈強の兵士たちが力まかせに背中や腹に力いっぱい鞭を浴びせます。肉が裂け、骨が見え、血があたり一面に飛び散ります。顔が顔でなくなってしまいます。その後、見せしめに重い十字架をゴルゴタの丘まで運ばされます。十字架の上に寝せられ、両手、両足を犬釘のような釘で打たれます。そのあと、30,40センチくらいの穴に、十字架が「どすん」と立てられると、体の重みが両手と両足だけにかかります。横隔膜が下がっているので、体を持ち上げないと、呼吸できないそうです。体を持ちあげるたびに、激痛が走ります。肉体の痛みだけではありません。道を通る人たちが、「他人は救ったが自分を救えないのか。十字架から降りてみろ」とあざけります。石を投げつける人もいたでしょう。イエス様が人類の罪の身代わりに死のうとしているのに、誰一人として感謝も、お願いもしていません。イエス様は人からも、神からも捨てられ、贖いの死を成し遂げるのです。

神学的には贖いをとても美しく語ることができますが、福音書はそうではありません。なぜでしょうか?私は十字架の死は罪の贖いの他にもう1つの意味があると思います。もちろん、「イエス様は、私の罪のために死なれました。この方を救い主として信じます」。これで人は救われます。これよりも大事なものはありません。でも、イザヤ書53章を見ると、私たちの背きの罪のほかに、もう1つの意味があることがわかります。イエス様は私たちの病を負い、私たちの痛みや悲しみを担ったのであります。そのことによって私たちは癒されたのであります。イエス様は悪いことを1つもしていないのに、犯罪人扱いされました。皆さんの中にも、不条理といういか、不当な扱いを受けた人がいらっしゃるでしょう。ちっとも悪くないのに…父や母からあるいは先生から叱られたことはないでしょうか?その傷があるため、何か不当な扱いを受けると、怒りが爆発するということはないでしょうか?また、生まれたとき、あるいは子どものとき拒絶されたという人はいないでしょうか?イエス様は人々から、そして父なる神様からも拒絶されました。イエス様はだれよりも、あなたの拒絶の痛みを知っておられます。また、喪失の悲しみもあります。大事なものを無くした、あるいは奪い取られた。これはセルフイメージに大きな傷を与えます。何をやってもダメなんだという諦めがあります。イエス様は人々からさげすまれ、のけものにされました。神の子の身分も、尊厳も奪い取られたのです。裸にされ、さらしものにされたのです。しかも、陰府にまで落とされたのです。しかし、父なる神は、御子イエスをよみがえらされたのです。同じように、父なる神様はあなたを癒して新しく復活させることがおできになります。もちろん、肉体の病も癒されます。贖いの中には、心と肉体の癒しが含まれているのです。

イエス・キリストは私たちに命を与えるために、この地上に来られました。ヨハネ10:10,11にはこのように書かれています。「私が来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。私は、良い牧者です。良い牧者は羊のために命を捨てます」。「豊かな命」とは、罪が赦され、心も体も癒された状態です。また、「豊かな命」とは、神様がくださる永遠の命でもあります。せっかく、私たちが「豊かな命」をもつために、イエス様が大事な命を捨ててくださったのです。でも、その命が無駄になることがあります。それは、イエス様がくださる「豊かな命」を受け取らないことであります。父なる神様が一番残念がるのは、御子イエスの十字架の死が無駄になることです。あなたが、せっかく差し出された、愛の贈り物を受け取らないならどうなるでしょう。罪の赦しが得られないばかりか、永遠の滅びに行くしかありません。悪魔は「救いとか豊かな命なんて嘘っぱちさ。この世で楽しく暮らせば良いじゃないか。死んだ先はどうなろうと関係ないさ。そんなの関係ない、そんなの関係ない」と。地獄とは神様と関係のない人が行くところであります。父なる神様は、滅びに向かっているあなたに、愛の関係を持つために十字架で死んでくださいました。それだけではなく、イエス・キリストは今も生きておられ、あなたが父なる神様と関係を回復できるように、仕えておられるのです。聖霊を遣わし、からだなる教会を与え、御父の前で今もとりなしてくださっているのです。救い主イエス様を受け入れましょう。また、既に受け入れておられる方は、イエス様のように、神様と隣人に仕えましょう。

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