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2007年9月23日 (日)

神の国の報い     マルコ10:23-31

 収穫の秋になりました。お店に行くと、梨やくり、ぶどう、りんごが並んでいます。柿もそろそろ出てきました。先日は、ハウスみかんを食べてみました。皮が薄くておいしかったです。教会の花壇を手入れしてくれている方々がおります。ある人が、「果物のなる木を植えたい」とおっしゃっていました。でも、私は「ちょっと土地が狭くて、無理なんじゃないの」と思いました。エディ・レオ師がおっしゃっていました。「メガチャーチ(大教会)というのは、1本の木にたくさんのりんごを実らせることです。りんごの巨木から、1000個くらいのりんごを収穫することができるかもしれません。一方、セル・チャーチとは、りんごの木をたくさん植えることです。たとえ、1本のりんごの木が100個しかならせなくても、100本のりんごの木があったらどうでしょうか?10000個のりんごを収穫することができます。」りんごの巨木を作るのは名人芸でしょう?でも、たくさんのりんごの木を植えるのは、技術的に難しくはないでしょう。きょうは、「神の国の報い」と題して、収穫についてもお話ししたいと思います

1.神の国の報い

 ペテロは「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました」と言いましたが、その背景は先週学んだ、金持ちの青年役員にあります。彼は財産を捨てきれず、悲しみながら去って行きました。彼はこの世の富に執着し、永遠の命を失った気の毒な人でありました。その一部始終を見ていたペテロがイエス様に言ったのであります。マタイによる福音書の方がもっと詳しく書かれています。「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。私たちは何がいただけるでしょうか。」「何がいただけるでしょうか?」と言いました。もし、イエス様が意地悪であったなら、このように答えたでしょう。「ペテロ、お前は一体何を捨てたんだ。小さな舟と網ぐらいじゃないか。漁師の家を捨てたぐらいで何をいただけるかなんて、せこいぞ!」。イエス様は、そんな風にはおっしゃいませんでした。マタイ福音書には「世が改まって人の子がその栄光の座に着く時、十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばく」と書いてあります。では、マルコ福音書にはどのように書いてあるでしょうか?29,30節。イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てた者で、その百倍を受けない者はありません。今のこの時代には、家、兄弟、姉妹、母、子、畑を迫害の中で受け、後の世では永遠のいのちを受けます。」マタイ福音書の方はどちらかと言うと、御国が完成してからの報いを強調しています。でも、マルコは「今のこの時代でも報いを受ける。しかも、100倍を受けない者はない」とまで言っています。

 では、イエス様と福音のためにどのようなものを捨てる可能性があるのでしょうか?まず、家です。みなさんの中でクリスチャンになって家を捨てた人はいらっしゃるでしょうか?その次には、兄弟、姉妹です。みなさんの中でクリスチャンになって兄弟や姉妹を捨てた人はいらっしゃるでしょうか?その次は、母、子であります。ルカ福音書には「母、妻、子」と「妻」が入っています。では、みなさんの中でクリスチャンになって「母、妻もしくは夫、子ども」を捨てた人はいらっしゃるでしょうか?この辺になると、出てくるかもしれませんね。でも、信仰と関係がない場合は例外かもしれません。最後に、畑、もしくは土地を捨てた人はいらっしゃるでしょうか?案外、いないんじゃないでしょうか?と言うことは、私たちの信仰はそんなに過激じゃないということです。迫害もないけれど、報いもないということでしょうか?それでも、洗礼を受けるときとか、献身するとき、ある程度の献金をするときなどは、世の抵抗に会うでしょう。中には、洗礼を受けるとき離婚を覚悟した方もおられるでしょう。私は献身したとき、長男なかったので、何の問題もありませんでした。家内の方は、少しばかり問題があったようです。看護婦をやめて神学校に入るとき、岩手のお母さんが迎えに来ていたようです。私はまだ、無関係だったので「ああ、大変だなー」と傍目で見ていました。昔は勘当されることが、結構あったようです。初代教会の頃はどうだったでしょうか?使徒の働き4章後半を見ますと、地所や家を売って、ささげる人たちがたくさんいました。バルナバは畑を売って、その代金を使徒たちのところに持ってきました。また、使徒の働き8章を見ますと、迫害によって人々がユダヤやサマリヤの緒地方に散らされて行きました。その中には職や家をなくした人たちもいたでしょう。紀元100年前後の、ローマの迫害になるともっとひどかったかもしれません。彼らは家や親族よりも、イエス様と福音を愛したのであります。最終的には、ヨーロッパがキリスト教化されました。

 それでは、報われる方を1つずつ見ていきたいと思います。まず、家ですが、英語の聖書は家々と複数になっています。もちろん、天国の家は大邸宅ですから、文字通り100倍の報いがあるでしょう。でも、地上ではどうでしょうか?初代教会では家々に集まって礼拝を持っていました。3120人の人たちが、家々に集まるためには、260ぐらいの家が必要です。おそらく「あなたの家は私の家、私の家はあなたの家」と集まりを持っていたのでしょう。「家の教会」として、家がたくさんふえたと想像できます。それから、兄弟・姉妹はどうでしょうか?クリスチャンになると、兄弟・姉妹がいっぺんに増えるんじゃないでしょうか?亀有教会に130人くらいの兄弟姉妹がいます。最近、顔を見ない人もいますが・・・。しかし、家族にだれかいなくても、平気というのは、本当の兄弟・姉妹じゃないかもしれません。あんまり言うと、自分の首を絞めることになるので、サラッといきたいと思います。とにかく、クリスチャンになると兄弟・姉妹がいっぺんに増えます。一人っ子だった人も、兄弟姉妹がたくさん与えられます。では、父や母は増えるでしょうか?母は英語の聖書では、mothersと複数形になっています。クリスチャンになりますと、霊的な父、霊的な母という意味で増えます。使徒パウロも、ローマ16章を見ますとたくさんの兄弟姉妹のほかに、「私の母」という存在がいいたことが分かります。私たちは霊的な父や母、つまりメンターを持つ必要があります。ある人は「私はだれからも指導を受けない」と言う人がいますが、それはかなり問題です。私たちはだれかから指導を受け、同時に、だれかを指導する人になるべきです。だれかからも指導を受けないで、人を指導することは不可能です。だれかから受けながら、だれかに与えるということです。神の家族には、父母、兄弟姉妹がたくさんいます。

 私たちは「報いを求める」ということは、クリスチャンとして良くないんじゃないかと思うかもしれません。もちろん、人からの報いを期待してはいけませんが、神からの報いは期待して良いのではないでしょうか?でも、キリスト教に対する迫害のない、平和な日本という状況の中では、報いの倍率が低いのではないでしょうか。現代でも共産国やイスラム圏で信仰を持っている人たちは、家を失ったり、家族を失うことが本当にあるようです。昨年の今頃、インドネシアから、エディ・レオ師が来られました。ある島ですが、イスラムのジハードによって村が襲撃されました。ある人の義理のお父さんとお母さんが殺され、奥さんと娘が拉致されました。奥さんと娘はレイプされ、娘は死んだそうです。奥さんの方はジハードの子どもをお腹の中に宿しました。軍も警察も助けにならないので、教会で救出作戦に出ました。もちろん命がけです。やっとのことで奥さんを救出しましたが、問題は夫婦がこれからやっていけるかどうかです。ご主人は祈ってから奥さんだけでなく、お腹の子どもも受け入れました。彼らはお腹の子どもを育て、今度はジハードの宣教に送り出すというビジョンを持ったそうです。インドネシアや中国もそうですが、迫害を受ければ受けるほど、教会が成長するそうです。つまり、きょうのテキストは、迫害の中で読むしかありません。マルコ10:30に「迫害の中で受ける」と書いてあるからです。

やはり、迫害によって失うことがないと、報いの程度も低いということです。でも、クリスチャン人口の少ない日本においても迫害は少なからずあります。未信者のご主人が洗礼を受けたばかりの奥さんに対して「もう教会に行くな!」とドアに鍵をかける場合もあるかもしれません。そのとき、「夫に従えば、いつか救われるだろう」と、奥さんが妥協するならば、そこで終りです。ご主人や子どもも救われないばかりか、自分の信仰も冷え切ってしまうでしょう。神の国の報いを受けるためには、迫害を恐れてはならないということです。日本人は肉親の情が深いので、捨てるのが難しいところがあります。けれど、日本は江戸時代、キリシタンの大迫害がありました。実際、家や家族、命さえも捨てた人たちも大勢いたのです。日本も捨てたものじゃありません。多くの血が流されているのですから、私たちの時代に報いが来るかもしれません。神の国の報いを受けるためには、迫害を避けてはならない、失うことを恐れてはならないということです。何よりもイエス様と福音を大事にしましょう。もっと過激になりましょう。失うことを恐れないようにしましょう。なぜなら、神からの豊かな報いがあるからです。アーメン。

2.あとの者が先に

マタイ福音書ではこの後、「ぶどう園のたとえ話」が続きます。朝早くから労苦したしもべは12弟子たちであり、数時間しか働かなかった人たちは異邦人でありましょう。ペンテコステの日、エルサレムで教会が誕生しました。教会員は1万人ぐらいいたかもしれません。でも、まもなく迫害が起こり、使徒以外の人たちは散らされて行きました。彼らは家も職も失いましたが、福音を宣べ伝えながら、あちこちに散らされていきました。やがて、北の方にアンテオケ教会が誕生しました。そこはギリシャ語を話す、異邦人の群れでした。そこからバルナバとパウロが小アジアに派遣されました。エルサレム教会は廃れていきましたが、アンテオケが宣教の中心的な役割を果たしていきます。「あとの者が先になった」とはだれのことでしょう。そうです。ローマまで宣教に行った使徒パウロのことであります。パウロは12弟子の一人ではありませんが、彼らよりもはるかに用いられました。弟子たちにとって、パウロこそ、「あとの者」と言えるでしょう。また、「あとの者が先になる」は、教会の歴史の中にもたびたび起こりました。かつては、東のコンスタンチノーブルが中心でした。でも、紀元4世紀からローマが中心になりました。ローマはカトリックの総本山として15世紀まで栄えます。でも、それからどうなったでしょうか?プロテスタントが興り、ドイツやイギリスが中心になっていきます。迫害の中で、リバイバルを何度も体験します。その後、福音は北アメリカに移り、すごい勢いで教会が増えました。でも、今ではアメリカよりもアジアとアフリカの時代です。アジアの成長率がアメリカを追い越したのです。ベン・ウォンが「もう、キリスト教の中心は欧米ではない。アジアの時代である」と言っておりました。もう、福音は一周して、イスラエルに戻ろうとしています。

「あとの者がさきになる」ということは、1教会の中にも言えるかもしれません。当教会は昭和24年、1949年に発足しました。それから50年たち、2000年以降、ゴスペルから、若い層が救われました。小さなリバイバルが起こったといえるでしょう。礼拝形式も変わり、淋しい思いをした方もおられたかもしれない。でも、先の者たちが一生懸命捧げて、教会の土地と建物を得たことを忘れてはいけません。若い方々が、我がもの顔で、この建物に集まり、賛美をささげ、交わっている。この建物が用いられていることはすばらしいことであります。でも、私たちの本当の目的は建物ではありません。見えないキリストの体なる教会を建てるということであります。私もあと10年が勝負ではないかと思っています。この間、ベン・ウォン師が10年後のビジョンを立てなさいとチャレンジしていました。誠に恐縮ではありますが、私がこの教会に残したいのは、セル・チャーチの価値観であります。その中には、まず第一に、聖書信仰があります。聖書を誤りなき神のことばとして信じないでは、何も始まりません。残念ながら、教団の神学校はそうではありません。みことばこそが私たちの信仰の土台であり、権威であります。第二は聖霊信仰です。すべてのキリスト教会は聖霊を信じているでしょう。でも、聖霊の賜物を信じているかは別であります。福音派の教会は、聖書が完成してからは、目を見張るような奇跡は必用なくなったと言います。そうではありません。今も、「使徒の働き」は続いているのであります。私たちのミニストリーはイエス様がなされたミニストリーと同じであります。第三は、宣教を含めた聖徒訓練であります。マタイ28章には「行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」という大命令があります。第四は、信徒中心の共同体を作るということです。総会とか委員会ではなく、各セルがかしらなるキリストから命令を受けて動くということです。だいたい、そういう価値観は、みなさんの中に受け止められ、基礎的なものは既にできていると信じます。

でも、この後、私は次の世代へとバトンタッチしなければなりません。もちろん、次の牧師を含めてであります。この教団に留まるかどうかも決断しなければならないでしょう。私は終末の時代は、教団ではなくネットワークであると信じます。残念ですが、日本に現存している教団・教派が、リバイバルの妨げになっていると言っても過言ではありません。保守バプテストのように、地方教会に任せている教団は言いのですが、教団本部が牛耳るのは良くありません。当亀有教会は、日本キリスト教団の中でも異質な教会と言えるでしょう。私は20年かけてなんとか、培ってきた聖霊信仰、聖書信仰、聖徒訓練、そしてセルの共同体をなくしたくありません。なんとか、これを拡大し、次の世代にバトンを渡したいと思います。できれば、ベン・ウォン師が言われるように、セルを増やして、教会の開拓をしたいですね。ベン先生は、1つのセルを教会と考えています。セルを増やすということは、教会を増やすことと同じだと捕らえています。練馬教会では、一人が10年間で、10ケのセル(教会)を増殖するというビジョンを掲げました。10人を導くのではありません。10のセル、あるいは教会を生み出すのであります。仮にそこに70人いたら、700であります。気が遠くなります。それはオーバーにしても、宣教と増殖ということが一番の課題であります。私たちの教会も、これからの10年、宣教と増殖ということを真剣に取り組んでいきたいと思います。

 きょうのテーマは「神の国の報い」ということでありました。ガラテヤ書6:8、9「自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。善を行なうのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。」私たちは「報い」と言うとどうしても、悪い方に捕らえがちであります。そうではなく、良い種を蒔くならば、豊かに刈り取るという「種まきの法則」を考えるべきです。1倍の収穫だけを期待して1粒の種を蒔く農夫が果たしているでしょうか?ホームページで調べましたが、1粒の米から、300-400粒取れるそうです。また、1粒のトウモロコシから2本取れるとすると、400粒取れるそうです。1粒のトマトからは普通25ケくらい実ります。でも、「ハイポニカ水栽培トマト」は、1300ケのトマトが実ったそうです。ですから、マルコが100倍と言っているのは、まんざら誇張ではなく、種まきの法則から言っているのではないでしょうか?私たちが一番蒔くべき種は、福音の種であります。福音の種を蒔かなければ、人は救われません。たまには、他の人が蒔いた種を刈り取ることもあります。こればっかりあてにしていると、問題であります。私たちは雨の日も風の日も、福音の種をまくべきであります。また、神の国の働きのためにささげる献金も、種と言うことができます。これは神の国の投資を言っても良いかもしれません。国債を買うよりも、天国貯金の方がよっぽど安全だと思います。大川先生がゲストに来られた東先生に謝礼を差し上げようと思いましたが受け取らなかったそうです。そこで、先生の聖書に1万円を忍ばせておきました。次の日、先生から「聖書の中に1万円ありましたが、大川先生でしょう。私たちは、100倍の祝福がありますように祈りましたので、どうぞ期待してください」と電話がありました。その後、会堂の返済で100万円足りない時がありました。そのとき、ひょっこり長老さんが訪ねてきました。「先生、困ったことが起こりました。」「何が起こったんですか。」「いやーね。先生のお祈りで家内の体が癒されたので、入院費として取っておいたお金が不要になったんです。どうぞ、神様にささげますので受け取ってください」と言いました。先生は、その分厚い封筒を見たら、ちょうど100万円入っていたそうです。大川先生はそのとき何と思ったでしょうか?「ああ、あのとき10万円、入れておけばよかったなー」と思ったそうです。

 私たちは迫害のために失うときがあります。また、私たちは自らの信仰でささげるときがあります。どちらにおいてもイエス様は100倍受けると約束されました。もし、自分が受けなければ、自分の子どもや次の世代が受けるかもしれません。刈り取るのが自分でなくても、後代の人が刈り取っても良いのではないでしょうか?そういう意味でも、私たちは種を蒔く必要があります。伝道者の書11章をお読みして、終えたいと思います。あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見いだそう。あなたの受ける分を七人か八人に分けておけ。地上でどんなわざわいが起こるかあなたは知らないのだから。雲が雨で満ちると、それは地上に降り注ぐ。木が南風や北風で倒されると、その木は倒れた場所にそのままにある。風を警戒している人は種を蒔かない。雲を見ている者は刈り入れをしない。あなたは妊婦の胎内の骨々のことと同様、風の道がどのようなものかを知らない。そのように、あなたはいっさいを行なわれる神のみわざを知らない。朝のうちにあなたの種を蒔け。夕方も手を放してはいけない。あなたは、あれか、これか、どこで成功するのか、知らないからだ。二つとも同じようにうまくいくかもわからない。

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