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2007年9月 9日 (日)

子どものように      マルコ10:23-31

先週は結婚についてお話しましたが、きょうのテキストは子どもについてです。家庭に子どもが与えられると、夫は父になり、妻は母になります。そういう意味で、「聖書のメッセージは連続していてすばらしいなー」と思います。皆さんの中には、子育て真っ最中の方もおられますし、子育てを終えた方もいらっしゃいます。でも、イエス様は「子どものように神の国を受け入れる者でなければ」と言われました。つまり、私たち大人も、子どもの特性を思い出し、子どもの良いところを真似なければならないということです。

1.子どもをそのままに

 13,14節「さて、イエスにさわっていただこうとして、人々が子どもたちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちは彼らをしかった。イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです」。飛んで、16節「そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された」。ここで言われている「子ども」とは、原文では「幼い子ども」であります。少し前の口語訳聖書では「幼な子」と訳されています。たぶん、イエス様は大勢の人たちにお話しておられたのでしょう。その近くに、幼な子を抱いたお母さんたちが列を作って並んでいました。お話しもひと段落したようなので、「子どもに手を置いて祝福してもらいたい」と、その人たちが前に出てきました。ある子どもたちは、お母さんの手を振り切って、イエス様のところによちよちと近づいて行ったでしょう。ところが、弟子たちは「先生はただ今、お忙しい。邪魔をしないように!」と、お母さん方を叱りました。おそらく弟子たちは、イエス様に煩いをかけないようにと気を使ったのでしょう。しかし、イエス様はそれをごらんになり、憤られました。イエス様が憤られたという箇所は、宮きよめと、ラザロの死のときぐらいですから、よっぽどのことです。イエス様は「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです」と、おっしゃって、子どもたちの上に手をおいて祝福されました。

 イエス様は何故、弟子たちを叱ったのでしょう?子どもたちが特別に好きだったからでしょうか?そうではありません。イエス様はたとえ幼な子であっても、神から創られた1つの人格があることを尊重されたのです。昔も今も、大人たちは、「子どもとは体力、知性、能力においても未熟だ。お金を稼ぐこともできず、親の世話になっているので半人前だ」と思っています。「まなべあきら」牧師が、子育ての本の中でこうおっしゃっています。「イエス・キリストが幼な子を抱いて祝福された時、キリストは人本主義な意味においてそうされたのではありません(先生は、今日の教育原理が定まらないのは、人本主義に立っているからだと指摘)。キリストはひとり一人の幼な子をごらんになったとき、そこに神によって生まれた人格、成長することによってやがて大きく花開く人格的可能性をごらんになって祝福されたのです。神は幼児のうちに大人のように成熟した人格をお与えになったのではありません。しかし神は、やがて幾重にも満開に花咲かせることのできる人格的命のタネをおあたえになったのです。多くの教育者たちはこの人間についての大真理を悟ることなしに、幼児の環境、条件、指導法についての教育法を発展させましたから、今日のごとく行き詰まってしまったのです」。私はここで、教育法を語るつもりはありませんが、「神が与えた人格的命」という言葉に感動しました。タネと同じように、人格的命は芽を出し、成長し、花を咲かせ、果を実のらせるのです。そうであれば、1才児は1才児の人生を、2才児は2才児の人生を、そして、3才児、4才児、5才児と、各々の人生を生きていく権利が神様から与えられているということです。つまり、子どもは確かに成熟していないけれど、立派な一人格者だということです。だから、弟子たちのように「うるさい!あっちへ行け!」と、邪魔者扱いしてはいけないということです。

 と言いながら、私自身も神なき教育を家庭や学校で受けてきましたので、いざ、子どもを育てるとなると、忘れてしまいます。と言うか、もう手遅れかもしれません。でも、「50点くらいはもらいたいなー」と思っています。確かに、大人は子どもを立派な一人格者として認めていません。「うるさい!」のひとことで跳ね除けたり、「あとでね!」と体よくごまかしています。今、ひきこもりとか、不登校、家庭内暴力がものすごく増えています。その原因は、子どもとのふれあいがないことが一番の原因だと言われています。幼な子は親と接して信頼を学ぶべきなのに、無視されたり、拒絶されたりします。身体的接触も、温かい言葉のコミュニケーションもない。3歳で、既に心がひきこもっているということです。そして、少し大きくなると、「勉強して、有名校に入らなければうちの子じゃない」と、条件を付けます。親と先生が「勉強しろ!勉強しろ!」とあおるのですが、子どもにはその目的や意味がわかりません。さきほどのまなべ先生はこう述べておられます。「子どもたちは今や、教育という管理社会の中で追い込まれているのです。否、自分自身を追い込んでいます。その積み重ねによって、精神的な疲れが慢性化していきます。しかし周囲は『早くしないと間に合わない」と拍車をかけ続けます。子どもたちのまわりにあるのは点数による管理主義とムチのような拍車だけです。彼らに必用な愛や信頼のある人間関係がないのです。このような社会は子どもたちの目には、水も緑もない、希望も幻もない砂漠に見えるのです。それは彼らを更に疲れさせ、自殺へと追いやるのです。」全くそのとおりです。幼な子がちゃんとした人格的命を持っているならば、愛の光と信頼関係の水を与えなければなりません。人間は動物と違い、物や食べ物だけを与えているだけでは不十分です。いや、犬だって触れ合ったり、一緒に過ごさないと病気になるそうです。

 イエス様は一人ひとりの幼な子を抱きかかえ、手を置いて祝福されました。イエス様は幼な子を半分前の人間ではなく、一人格者としてお認めになられていたのです。そして、その幼な子が、4つの分野で成長するようにお祈りされたと想像できます。なぜなら、ルカ2章にイエス様ご自身のことがこう書いてあるからです。ルカ2:52「イエスはますます知恵が進み、背たけも大きくなり、神と人とに愛された」。まず、「知恵が進み」とは、かしこくなるという知的な成長です。「背丈も伸び」とは、身体的に成長するということです。「神に愛された」とは、霊的に祝されて成長することです。そして、「人から愛されるように」とは、社会的に、人間関係において成長するということです。そして、最終的にはこの子に与えられた、神のタネが成長し、神の栄光を現わすことができるようにと祈られたことでしょう。私たち大人であっても、想像というか、幻の中で、イエス様から私たちの「インナー・チャイルド」が癒され、成長するように祝してもらう必要があります。我々は、身体は大人なんですが、「内なる子ども」はどうでしょうか?「良い子を演じなければ受け入れられない」と緊張しているでしょうか?それとも「もう誰もボクを傷つけることはできないぞ!」と怒っているでしょうか。あるいは、「お前なんか大嫌いだ。悪いのはお前だ」と裁く心を持っているでしょうか?あるいは、「神様、これが本当にあなたの姿ですか」と色眼鏡を通して見ているでしょうか?あるいは「ほら、やっぱり」と最悪を期待している自分がいるでしょうか?どうぞ、イエス様からハグしてもらいましょう。そして、頭の上に手を置いてもらって祝していただきましょう。父なる神様も、イエス様に語られたように、あなたにも語っておられます。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」。私たちが本当に神様から愛され、受け入れられることを経験するときに、子どもを愛し、受け入れることができるのです。また、セルチャーチは神様だけでは不足です。父のような存在から、母のような存在からも、「愛しているよ」とハグされたら、もっと良いそうです。当教会に、名古屋の毛戸健二牧師が来られたことがあります。先生は幼い時に母親を亡くしました。先生が、小学校4,5年生のときに、友達の家に遊びに行きました。そこは教会で、友達のお母さんは牧師夫人でした。お母さんは毛戸少年のことを知っていたのでしょう。帰り際に、毛戸少年を何も言わず、ぎゅっと、抱きしめてくれたそうです。それが本当に嬉しかったそうです。そのことが、信仰の出発点になったことは間違いありません。

2.子どものように

 14,15節「イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。」イエス様は、幼な子と神の国がとても深い関係であることを教えられました。また、幼な子が持つ特性こそが、神の国に入る条件だということです。では、小さな子どもたちがどのようにして、イエス様のところに近づいて行ったのでしょう。私の恩師、大川牧師は幼な子はハイハイしながら、「アバ、アバ」と口ずさんでいたのでは、とおっしゃいます。「アバ」とは、お父さんに対する幼な子の呼び方であります。つまり、神様を「お父さん」と呼ぶ関係こそが、神の国に入る重要なことだという訳です。すばらしいですね。みなさん、この世界の人間すべてが、神様を「お父さん」と呼べる訳ではありません。アダム以来の人間は、神から失われ、神に敵対し、あるいは神を無視して生きている存在です。生まれつきの人間は、神の子どもではありません。神の子どもじゃないので、神様を「お父さん」とは呼べないのです。では、どうしたら良いでしょうか。唯一の神の子であるイエス・キリストが、十字架にかかり罪の贖いを成し遂げてくださいました。イエス様は父なる神と人間の和解を成し遂げてくださったのです。ですから、イエス様を信じて、和解を受け入れるなら、父と子どもの関係も回復するのです。しかし、幼な子はそんな理屈は分かりません。でも、「アバ、アバ」と、イエス様に近づいたのです。イエス様に近づくならば、イエス様が間に立って「OK!」と受け入れてくださるのです。でも、弟子たちはどう考えていたでしょうか?「聖なる場所に、近づいちゃいかん!」と考えていました。これは、旧約聖書の教えです。モーセのとき、民たちは「聖なる山に近づくと、打たれる」と警告を受けていました。しかし、それは旧約の時代です。では、新約の時代とは何でしょうか。新約とは、イエス様という仲介者によって、だれでも神様に近づくことができるようになったということです。そして、イエス様によってこの救いを受け入れるならば、だれでも、神様を「アバ、父よ」と呼べるということです。私たちはイエス様の十字架によって、罪あるまま、汚れたままでも、恵みを求めて父なる神様に近づくことができるのです。ハレルヤ!

 また、イエス様は「子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません」とおっしゃいました。これは、幼な子には大人にない、特性があるということです。それでは、幼な子の特性とは何でしょうか?第一に「疑うことをしない」ということです。大人は常時、疑っています。それは、大人が常にいろいろなことを通して、だまされているからです。ところが、幼児は、だまされることがありありと実在していても、疑いません。イエス様は、「子どものように神の国を受け入れる」とおっしゃいましたが、これは「子どものように疑わないで、神の国を受け入れる」というように言い換えることが可能です。私も子どもを4人も育てましたが(まだ最中ですが)、幼な子は親を信頼しきっています。高い、高いしたり、ふりまわしても、キャッキャ、キャッキャしています。決して、「落っことすんじゃないかなー」などと疑っていません。押し入れとか高いところから、親の胸めがけて飛び込んできます。親がもし、肩透かしをしたら、大怪我をするでしょう。幼な子は、本当に疑うことを知りません。ですから、ユダヤ人は、疑いを知らない子どものときに、信仰を植えつけます。トーラー(聖書)やミュシュナを用いて、神を愛すること、両親を敬うことを叩き込むわけです。「教育ママ」のもとは、ユダヤ人のお母さんという意味。そういう意味では、日曜学校はとても大切です。もし、幼い時に、まことの神様を信じることができたら、何と幸いでしょう。たとい思春期に迷うことがあっても、また戻ってくる可能性が大です。あるクリスチャンの親が、「信仰は子どもの自由だから」と言っていました。では、子どもが地獄へ行っても良いのでしょうか?賢い親は、子どもが素直な時に、信仰を持てるように導くのではないでしょうか?「洗礼も、高校生とか二十歳以上でなければ」という親もいますが、私は反対です。反抗期が来る前の小学校高学年の頃が、Goodではないかと思います。来週は、CSの宮坂悠介君の洗礼式があります。伝道者の書12章に「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに」とあります。

幼な子の第二の特性は「愛情を素直に受け入れること」です。幼な子は、食べ物でもプレゼントでも素直に受け取ります。しかし、大人になると、「ただより怖いものはない」と、手を出しません。「救い」は行いによってではなく、恵みであります。「ただ」であります。一方、この世の宗教の場合は、お題目を唱えたり、修行や善行、お布施が必要です。しかし、大人は、「自分たちが何かを一生懸命することによって、救われる方が理屈にかなっている」と思うのです。でも、神様は救われる手立てを、既に完成してくれているのであります。この教えの直後に、金持ちの役員のお話が出てきます。きょうのテキストになぜ、マルコ10:17を入れたのか不思議に思った方もおられるでしょう。この男性はイエス様に何と言って近づいたでしょうか?マルコ10:17イエスが道に出て行かれると、ひとりの人が走り寄って、御前にひざまずいて、尋ねた。「尊い先生。永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか。」幼な子だったら、ひざまずいたりしません。また、幼な子は「尊い先生」なんてゴマをすったりしません。また、幼な子は「何をしたら、永遠のいのちを受けられるか」などと聞いたりしません。ただ「ちょうだい」と手を出すだけであります。この男性はなまじっか、律法を守り行っていたので、実力で、永遠のいのちを受けられると思っていたのかもしれません。「何をしたら」という言葉の中に、傲慢さが見えます。彼は永遠のいのち(救い)が無償であることが理解できなかったのであります。イエス様が「子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません」とおっしゃられたことと深い関連があると思えないでしょうか?使徒パウロは、Ⅰコリント14:20で「物の考え方においては子どもであってはなりません。悪事においては幼な子でありなさい。しかし、考え方においては大人になりなさい」と言いました。幼児性は困りますけど、こと信仰に関しては、幼な子であるべきです。

私たちがクリスチャンになれたのは、幼な子が持っていた特性を持っていたからでしょうか?みなさんは、神の国を疑うことなしに、あるいは素直に受け入れたでしょうか?子どものときに信じたのなら別ですが、大人になってからは結構大変だったのではないでしょうか?もうすでに、別の神様を信じていたかもしれません。「日本には日本の神様がいる。外国の神様なんかいらない」なんて言っていたのではないでしょうか?あるいは、学校で受けた教育が妨げになったかもしれません。進化論、啓蒙思想、世界史を学ぶと、「キリスト教も1つの宗教だなー」と考えるでしょう。私たちの心の中には躓きの石、偏見、無知がいっぱいあったに違いありません。でも、どうして、幼な子のような気持ちになって、神の国を受け入れることができたのでしょうか?それは、いろんな苦しみと出会って、「心が貧しくされた」かもしれません。詩篇119篇に「苦しみに会ったことは、私にとって幸せでした」とあります。また、人から裏切られたり、大切なものを失って悲しんだからかもしれません。子どもは何も持っていませんが、大人はたくさんのものを持っています。しかし、その大事なものを奪い取られるような悲しいことが起こります。マタイの5章に「悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです」とあるからです。交通事故や事件で家族を失い裁判になっているニュースをテレビで見ます。たとえ、相手の刑を重くしても、お金をたくさんもらっても解決できないでしょう。極論ですが、神様の慰めを知り、そして永遠の救いを発見したなら、一粒の麦になるのではないでしょうか?また、子どもは「なぜ、どうしてなの」とよく質問します。大人でも根本的な答えを持っていない時があります。マタイ5章に「義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです」とあります。私も物心ついたときから、何のために生きるのか分かりませんでした。「人は何のために生きるの?」と聞いても、納得のいく答えが帰って来ませんでした。でも、イエス様は「私が道であり、真理であり、命なのです」とおっしゃってくださいました。私は全部知らないけれど、神様は何でも知っておられる、これで十分なのです。他にもいろいろあると思いますが、共通していることは神の国に対する飢え渇きであります。これは苦しみや悲しみという環境もあるかもしれませんが、もう1つは聖霊様の導きであります。神の霊であられる聖霊が、私たちの魂に飢え渇きをもたらしてくださったのであります。「もし、永遠の真理があるならば信じたい」「もし、本当の愛があるなら受け入れたい」「もし、罪の赦しと再生があるならいただきたい」「もし、本当の親である神様がいるならばお会いしたい」。これは、大人が忘れていた質問であります。大人はあるときから諦めていたのです。でも、聖霊様が幼な子のようなあこがれを、私たちの内に抱かせてくださったのであります。おそらく、イエス様は、一度ではなく、なんべんも心のドアをノックしてくださったのであります。私たちは恵みによって、幼な子のような素直な心になって、救いを受け入れることができたのです。ハレルヤ!アーメン。

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