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2007年9月 2日 (日)

結婚の奥義       マルコ10:1-9

平野耕一牧師が、高校生の時、国語の先生からこんな話を聞いたそうです。ソクラテスの弟子が「先生、結婚したほうが良いでしょうか、しないほうが良いでしょうか」と聞きました。ソクラテスが答えました。「どちらでも同じだよ。結婚してもしなくても、後悔することになるよ。結婚すればしなければ良かったと思うし、結婚しなければすれば良かったと思うようになるよ。」平野青年は「どうせ後悔するなら、結婚して後悔したほうが、結婚しないで後悔するより良い」と考えたそうです。ところで、どうして、この世の中に離婚が多いのでしょうか?1つの原因は、準備不足にあります。ほとんどの人たちは、結婚式の準備はするかもしれませんが、結婚生活の準備はしません。みな、出たとこ勝負であります。大体、この世の中に、結婚について教えてくれるところがありません。しかも、両親をはじめ私たちの周りに、結婚の良い模範があれば良いのですが、そうでない場合が多いと来ています。つまり、結婚について何も知らないで、一つ屋根の下で生活する。そこから悲劇が始まるのではないでしょうか?「もう手遅れだなー」と思っている人は癒しを受けるために、「これからどうしょう」と思っている人は希望を抱くために、一緒に学びたいと思います。

1.結婚の土台

 何事も土台、ファンディーションが大事であります。ファンディーションと言ってもお化粧のことではありません。結婚に関する土台とは何でしょうか?6節「しかし、創造の初めから、神は、人を男と女に造られたのです」。飛んで、9節「こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。」結婚とは、人間が考え出したものではなく、神様が創設したものです。つまり、神様は一人の男と一人の女が結ばれて、家庭という共同体を造ることを計画されたのです。ところが、神様から離れた人間は、結婚を1つの手段として考えました。昔は女性は男性の所有物であり、気に入らなかったら離婚できたようです。モーセの時代も、離婚状を書いて妻を離別することができました。しかし、イエス様は「それは人々が頑なだからだ」と言われました。今、NHKで大河ドラマ『風林火山』をやっています。あの時代は、女性は隣国と和議を結ぶための生贄のような存在でした。いわゆる、政略結婚が当たり前だったようです。ついこの間まで、結婚とは個人同士ものではなく、両家を結ぶものでした。そのため、結婚相手は親同士が決めていました。今でも、結婚式場に行きますと、「○○家と○○家」になっています。形はともかく、現代の多くの人たちは自分のために結婚します。好きだから、寂しいから、都合が良いから、幸せになりたいから、結婚します。それぞれの動機は自由かもしれませんが、結婚の土台がないために破綻してしまうのです。

 結婚の土台とは何か、それは「神が結び合わせた」という信仰であります。神様が「新しい家庭を作るために、一人の男性と一人の女性を結び合わせた」と信じなければなりません。もちろん、「好き」とか「愛」も大切です。でも、「自分が好きだったからこの人を選んだ」という土台に立つとどうなるでしょうか?好きだという感情はいつまでも続くわけではありません。もし、嫌いになったら、「ああ、自分の選択は間違っていた。この結婚は失敗だった」となるかもしれません。しかし、「神がお互いを結び合わせた」という信仰に立つとどうなるでしょうか?「ああ、自分は、今は失敗した」と考えているけど、これは一時的なものである。神様があの人を私に与えたのだから、踏ん張ろうと努力するでしょう。私は幸い、クリスチャンになってから結婚しました。残念ながら、私の両親は結婚の良い模範ではありませんでした。父は酒を飲んでは母を殴りました。母は子どもたちの前で、父のことをさんざん悪く言いました。私たち8人兄弟は、そういうのを見て育ちました。だからと言うわけではありませんが、3人の兄弟は離婚を経験しました。私もクリスチャンでなかったなら、離婚を考えたかもしれません。男性と女性、なぜこうも違うのでしょう?離婚をしないのが不思議であります。幸い、私の場合は「神が結び合わせたのだから、間違いはない」と、そこに立ち続けることができました。カトリックの神父さんは生涯、独身であります。その点、プロテスタントは結婚が許されています。体験のないカトリックの神父さんは理想論を語れるかもしれませんが、私の場合は自ら苦しんでいますので、同情とか、痛みをもって語ることができます。

 結婚式で一番大切なのは、神様の前で約束するということであります。決して、披露宴の豪華さが結婚生活を保証するわけではありません。芸能人が良い例でありましょう。今は、結婚式をしないで、籍を入れるだけの人もいます。あるいは、神様を除外して、人前結婚というものもあるようです。結婚は神様の前での、契約であります。契約には2種類あります、1つはcontract、人との契約です。人との契約は、一時的、条件付き、そして部分的であります。そして、もう1つは、covenant神との契約です。神との契約は、全生涯にわたるものであり、無条件で全体的であります。全体的ということは後でお話ししますが、結婚とは、人との契約ではなく、全生涯に渡る神との契約であります。だから、夫婦は「健やかな時も、病む時も、死が二人を別つまで」と、忠誠を誓い合うのです。しかし、人間がそんな約束をできるのでしょうか?はっきり言って、生身ではできません。「自分ではできませんが、主にあってそうできますように助けてください。」これが信仰であります。信仰と信念とは違います。私たちの信念や意思では、無理であります。しかも、私たちには無条件の愛などありません。相手が嫌になったり、むかついたり、このやろーと思うことが幾度となくあるでしょう。でも、「主よ、助けてください。あなたが最善の人を結び合わせたと信じます。あなたの愛と希望を与えてください。アーメン」。そうやって祈ると、いつか、不死鳥のように愛が再び芽生えてくるのです。ハレルヤ!「いつか」が問題であります。でも、ゆだねて忍耐していると、神様からその愛がやってくるのです。大切なのは、忍耐です。Ⅰコリント13:7、8「すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを耐え忍びます。愛は決して耐えることがありません」。「愛は決して耐えることがありません」は、ある英語の聖書には、Love is never give up.と訳されています。never give upです。アーメン。

2.結婚の条件

 結婚にはいくつかの条件があります。それが、7、8節です。「それゆえ、人はその父と母を離れて、ふたりの者が一心同体になるのです」。結婚とは一心同体になることですが、その前に、人はその父と母を離れなければなりません。父と母を離れるとは、経済的にも精神的にも自立するということです。親から結婚相手を決めてもらったり、親からお金を出してもらって豪華な結婚式を挙げる、ついでに家も建ててもらうなどと言うのは愚の骨頂であります。古いでしょうか?日本人の場合は、親離れ・子離れができていない共依存の親子が結構あります。結婚してからも、何か問題が起こるとすぐ実家に帰って相談する。とんでもないことであります。家庭の最小単位は夫婦であります。ですから、まず夫と妻が十分に話し合い、祈り合うべきです。伴侶を飛ばして、お父さんやお母さんに相談すると、横槍が入り、ますます複雑になります。テレビに『渡る世間は鬼ばかり』という番組があります。あれほどくだらない日本的な番組はありません。1つの問題を、3代に渡って突っつきあっています。また、子どもが生まれてからも、相談相手は夫か妻であるべきです。妻は夫が家にいないために、子どもに相談するでしょう。しかし、それが重なると親子逆転が起こり、子どもにとっても良くありません。家庭の中心は妻と夫であり、親子ではありません。夫は妻よりも子どもを愛してはいけません。同時に、妻は夫よりも子どもを愛してはいけません。夫と妻が愛し合う、そのおこぼれで子どもは十分なのです。そして、子どもが年頃になると、家から追い出す準備をするのが良いのです。

 また、一心同体になるためには心の癒しが必要です。どういう意味かと申しますと、結婚したとたん、自分の伴侶が自分の親と二重写しになるということです。良くあるケースは、夫は自分の妻が、実のお母さんとダブルということです。一方、妻は自分の夫が、実のお父さんとダブルのです。たとえば、自分のお母さんがヒステリックで口うるさかったとします。そして子どもの頃、「女とは本当にうるさいものだなー。僕は口うるさい女とは結婚しないぞ!」と誓ったかもしれません。そういう男性が結婚するとどうなるでしょう?妻が口うるさいと、「本当にうるさいなー」と、お母さんに抱いていた同じ感情を抱くことになります。妻にしてみれば、自分がうるさくするように引き出される感じがします。また、自分のお父さんが横暴で無責任なために、怒りをもっていたとします。そして子どもの頃、「男とは横暴で無責任なものだなー。私は無責任な人とは結婚しないぞ!」と誓ったかもしれません。そういう女性が結婚するとどうなるでしょうか?夫が少々無責任だと、「男とは本当にいい加減よ」とお父さんに抱いていた同じ感情を抱くことになります。そして、その妻は夫を尊敬しないばかりか、夫を出し抜こうとするでしょう。なぜ、こんなことが起こるのでしょう。それは、自分のお母さん、もしくはお父さんを赦していないからです。子ども時代からの、怒りや裁く気持ちが残っているのです。どうぞ、亡霊や怨念から解放されるように、自分のお母さん、お父さんを赦しましょう。主が与えた親として尊敬しましょう。あなた自身が癒されると、伴侶を見る目が変わってきます。そういう意味で、父と母を離れる必用があるのです。

 しかし、まあ「ふたりの者が一心同体になる」というのは、難しいことであります。だいたい、生まれも育ちも違います。生理的にも違うし、考え方、性質・・・違うことだらけであります。離婚の理由に性格の違いがよく言われますが、それは当たり前であります。結婚前は、「私たち好みも共通しているし、よく気が合うわね。うふ」などと言いますが、あれはお互い我慢しているからです。でも、結婚して1つ屋根の下に住んだら、1ケ月も経たないうちに地金が出てきます。「結婚とはさんたんたる誤解である」とある人が言いましたが、「ああ、こんなにも違うのかなー」と驚くばかりです。私も結婚して25年になりますが、最初の頃は大変でした。まず、女性は気分が男性ほど安定していないということです。たぶんですが、妻の方は「男性はどうして労わりとか思いやりがないのかしら?」と思ったかもしれません。1996年にオンヌリ教会のセミナーに出席しました。ある長老さんが、本当に分かりやすく男性と女性の違いを教えてくれました。「夫は経済的問題を解決してあげたら妻は満足すると思っている。しかし、妻が満たされたいものの中で、経済的問題は第4番目である。妻が一番満たされたいと思うのは、具体的な愛の表現である。自分の重要性を認めてくれる。愛の対話が欲しい。しかし、男性は細かいことよりも、全体的に物事を見ますので、小さなことなんかどうでも良い。そして、男性が願うことは、尊敬される事。妻からほめてもらうことが何よりも喜び。もし、妻がほめてくれないなら、お店に寄り道してくるだろう。また、性的満足においては、男性はトップであるが、女性は5つの中にも入らない。女性は小さいことで、幸せを感じるように造られている。ひとことでもねぎらいが欲しい。男性は視覚が敏感、自分の妻が美しく見えるとき、幸福感を覚える。醜いと、苛立ちを覚える」。女性は外では着飾っていても、家ではだらしない格好している。これではダメだということです。

 その長老さんが1つになる方法について教えてくださいました。夫が妻に、「あなたが私のところに来なさい」と言います。一方、妻が夫に「あなたこそ、私のところに来なさい」。これでは永遠に戦いが続きます。そうではなく、お互いの頂点にキリストを置くのです。三角形の底辺に夫と妻がいて、その頂点にイエス様を置きます。夫がイエス様のところに近づきます。妻もイエス様のところに近づきます。そうしていくと、夫と妻の距離が近くなっていきます。そればかりではありません。イエス様は一方は夫の手を握り、一方は妻の手を握って、和解をもたらしてくださいます。未信者の場合は、お互いの目標もなければ、和解の主もいません。しかし、私たちクリスチャンは、イエス様を見上げ、イエス様の中に入っていくとき、1つになることができるのです。イエス様こそが、和解の供えものであり、和解をもたらしてくださる主であります。

3.結婚のための努力

8節「ふたりの者が一心同体になるのです。それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです」。結婚とは、一心同体になることですが、どのようにしたら一心同体になれるのでしょうか?そこにはいくつかの努力も必要です。私はアバラブ教会から「結婚とは一致を体験することである。それは部分的なものではなく、全体的なものである」と学びました。真の約束とは、神の前に夫婦が一体となることです。その夫婦の一体化とはどういうことでしょうか?まず、お互いの霊が1つになることです。1つの霊になるためには、お互いが祈り合うことが必要です。どんなに性格や、考え方が違っていても、お互いに祈り合うと、最も深いところに一致が与えられます。ある夫婦が、教会の早天祈祷会に行って、1時間もお祈りしていました。ところが、家に帰ってくると、些細なことでも喧嘩をしてしまいます。二人は教会でそんなに長く祈っているのに何故でしょう。実は、彼らはそれぞれ神様の前で熱心にお祈りしますが、お互いに祈ったことがほとんどなかったのです。それで、今度はお互いに手を取り、祈り合うことにしたのです。そうすると、深いところに一致が与えられたということです。互いの祈りは家族の祭壇です。祭壇が崩れると、生活も崩れます。だから、お互いに祈り合いましょう。

第二番目は心と心が一つになることです。1つ心となるためには、会話が必要です。正直に何度も話し合うということはとても重要です。男性はこのことが非常に弱い。ある心理学者が「男性は1日に500ワード、女性は2000ワード話すことによって満足する」と言いました。残念ながら、男性は会社の営業で500ワード全部使い果たしてしまうのです。家に帰ったら「飯、風呂、寝る」くらいの言葉しかありません。しかし、家にいる主婦であれば、2000ワードをほとんど残っています。だから、夫にいろいろ尋ねたり、話したりするのです。そのときに、夫は「くだらない。そんなことどうでもいいだろう」と言ってはいけません。心から愛をもって聞くのです。先ほども言いましたが、女性はささいなことで幸せになるのです。これは私にとっても課題であります。

第三番目は肉体と肉体が一つになることです。1つの肉体となるためには、肉体の交わり、セックスが必要であります。男性はこれが優先順位のトップですから、教えられる必用は全くありません。残念ながら、日本ではセックスレスの夫婦が増えているそうです。ずっぅとしない。セックスは神様が夫婦にお与えになった賜物です。『トータルウーマン』という本が昔ありました。中身は忘れましたが、彼女はセックスをもっと積極的なものとして捕らえていました。アメリカなどでは性的問題をカウンセラーのところに行って、あからさまに話すのですが、日本ではそうはいきません。私ももっと枯れてからではないと相談は受けられないなーと思います。しかし、どの牧師も言いますが、霊の一致と心の一致があると、肉体の一致も祝福されるということです。

第四番目は1つのビジョンを持つということです。夫婦の賜物が違っていても、「神様のために仕えたい」というビジョンがあったらなんと幸いでしょうか?岸義紘先生ご夫妻は、「青年宣教大会」を15年くらい続けられました。岸先生はメッセンジャーですが、お金のことはさっぱりと言う感じです。しかし、奥様は管理がとても達者という感じでした。でも、両者とも、日本の魂を愛することは共通していました。ご夫婦が神様に仕える、これほどすばらしいことはありません。

第五番目は1つの会計ということです。これは、夫婦がお金を別々にしないということです。イエス様はあなたの宝のあるところに心もあるとおっしゃいました。会計が別々で、お互いに貸し借りをしていたなら、分裂の始まりです。どちらが大蔵省をしても結構ですが、会計は一緒にいたしましょう。

第六番目は1つの親です。義理の父も義理の母も、「あなたの父であり、あなたの母」なのです。夫はときどき、「あなたのお母さんはこうだ」とか「あなたのお父さんはこうだ」と少々さばく気持ちで言います。すると、妻は「あなたのお母さんこそ変だわ」とか、「あなたのお父さんこそ変よ」と返します。身内を馬鹿にされると、「あんたから言われたくない」とばかり、どんなに正論でも腹が立つものです。結婚したら、相手の親も、自分の親と思わなければなりません。

 イエス様がこの地上で最初になされた奇跡は、水をぶどう酒に変えた奇跡です。夫婦が結婚式の最中から、喜びの象徴であるぶどう酒が尽きてしまいました。イエス様はなんの変哲もない水を、最も良いぶどう酒に変えてくださいました。でも、その前に何をする必要があったのでしょうか。第一に、水瓶の古い水を捨てなければなりませんでした。それは古いライフスタイルを捨てること、つまり悔い改めです。第二は、深い井戸から水を汲むということです。これはものすごい労働であります。結婚には努力と忍耐が必要だということです。第三は、イエス様のところに持っていくということです。物語では6つの水瓶を満たしました。これは律法である神の要求を満たすということです。でも、それだけではうまく行きません。6は律法の限界を象徴しています。しかし、イエス様のところに持っていくとどうでしょう。恵みがあらわれてきます。イエス様は、今まで飲んだことのない、良いぶどう酒をあなたのために取っておかれています。イエス様に期待しましょう。結婚しているしないに関わらず、イエス様は良いぶどう酒を、あなたのために取っておかれています。聖書には、キリストが花婿であり、教会が花嫁と書いてあります。

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