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2007年8月26日 (日)

天国のかけがえなさ      マルコ9:43-50

 私たちは、時々「かけがえのない命」という言葉を耳にします。これは、命は唯一のものであって、予備のもの、かわりになるものがないという意味です。しかし、命を聖書的に考えるならば、命には2種類あります。1つは、地上の命であります。詩篇90:10「私たちの齢は70年、健やかであっても80年、しかも、その誇りとするところは労苦と災いです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです」と書いてあります。私たちの人生は、朝は花を咲かせていても、夕べにはしおれて枯れる花のようであります。地上の命というものは、本当にはかないものであります。もう1つ聖書には、永遠の命が記されています。これは、イエス・キリストによって与えられる「救い」であります。父なる神様は私たちのために天国に永遠の住まいを用意して下さっています。私は、こういうお話は、告別式のときは、必ず話すようにしています。しかし、きょうは、告別式ではなく、日曜日の礼拝でありますので、地獄の話もしたいと思います。

1.天国のかけがえなさ

 43節から見て行きますと、人は死後、2箇所のいずれかに行く事が書かれています。1つはゲヘナであり、もう1つはいのちあるいは神の国であります。「いのち」とはゾーエーですから、永遠の命という意味です。また、「神の国」とはいわゆる「天国」であります。では、ゲヘナとはどういう意味でしょうか?ゲヘナのもとの言葉は、「ベン・ヒノムの谷」です。旧約時代にユダヤ人たちがこの谷に祭壇を築き、異教の神々に、息子や娘を火で焼いて人身御供を捧げました。しかし、ヨシアの時代にこの祭壇がこわされ、今度は、町の汚物や動物、罪人(ざいにん)の死体を焼却するようになりました。やがて、この谷ゲヘナは、神の審判の場所である地獄を意味するようになりました。ですから、英語の聖書では、ゲヘナをhell「地獄」と言い換えています。きょうは地獄の話をしなければなりません。語りたくなくても、あるいは聞きたくなくても、私たちは順番に聖書を学んでいますので飛ばす訳には行きません。地獄のメッセージは、49節と50節にありますように、信仰における塩気であります。ケーキのように甘い恵みばかりをいただいていますと、太ってしまいます。たまには、ピリッとしたものも必用なのであります。大人になると、苦いものや辛いものが欲しくなるのです。地獄のテーマほど、辛口なものはありません。

 イエス様は「何としてでも地獄を避け、永遠の命を得よ!天国に入れ!」と教えておられます。私たちに罪を犯させ地獄へといざなうものにはどのようなものがあるでしょう。43節「もし、あなたの手があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨てなさい。不具の身でいのちにはいるほうが、両手そろっていてゲヘナの消えぬ火の中に落ち込むよりは、あなたにとってよいことです。」手は、罪を犯させる道具になります。私たちはこの手でたくさんの罪を具体的に犯すです。人を殴ったり、盗みをしたり、痴漢をするのも手であります。「そんな手だったら、切り捨てよ、両手そろって地獄へ落ちるよりはましだ」というのです。その次は、足です。45節「もし、あなたの足があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨てなさい。片足でいのちにはいるほうが、両足そろっていてゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。」足とは、罪あるところに人を向かわせるものです。私たちはこの足で歓楽街とか、ギャンブル、行ってはならない場所へ行くでしょう。「そんな足なら切り捨てよ、両足そろって地獄へ落ちるよりはましだ」と言うのです。三番目は目です。47節「もし、あなたの目があなたのつまずきを引き起こすのなら、それをえぐり出しなさい。片目で神の国にはいるほうが、両目そろっていてゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。」「目」は罪の誘惑の入り口であります。大体、この目から入ったものが、心に入って欲望が膨らみます。男性は異性に弱いですね。先週、子どもを連れて稲毛の海浜プールに行きました。どうしても若い娘のビキニ姿が目に入ります。幸い私は近眼なので、良かったなーと思いました。しかし、回るプールに子どもと入りましたが、目の前に来ると近眼でも見えます。ま、守られて帰ってきました。女性の場合「目」は、むさぼりや嫉妬心と関係があります。バッグとか靴、宝石、「ああ欲しいなー」と思うでしょう。もし、目が罪を犯させるなら、それをえぐり出しなさい。片目で神の国にはいるほうが、両目そろっていて地獄に投げ入れられるよりは、あなたにとって良いことです。

 そして、48節「そこでは、彼らを食ううじは、尽きることがなく、火は消えることがありません」。聖書を良く見ますと、44節と46節が欠如しています。しかし、ある写本はこの48節のことばが、44節と46節に繰り返して書かれているとのことです。おそらく、「ベン・ヒノムの谷」を見た人たちの感想でしょう。動物や人の死体にはうじがおり、そばには火が燃えているのでしょう。地獄は「永遠の火」とも言われていますので、焼却炉の火のように火が燃えて尽きる事がないのです。メアリー・バクスターという女性が、『天国と地獄』という本を書いています。私はこういう本はうさんくさそうなので買って読むことはしません。でも、ホームページに、いくつかの抜粋が載っていたので、紹介させていただきます。『地獄にいた女性』の項目。最初の穴の中央から泣き声が聞こえました。骸骨(がいこつ)の形の中に一人のたましいがいて、「イエス様、あわれんでください!」と叫んでいるのが見えました。「ああ、主よ!」と、私は言いました。それはひとりの女性の声でした。私は彼女を見て、その火から彼女を引き出してあげたい、と思いました。彼女を見て、私は心が激しく痛みました。イエス様に話しかけたのは骸骨の形をした女性で、内側はきたない灰色の霧でした。ショックを受けながらも私は彼女の言うことに耳を傾けていました。腐った肉の切れっぱしが彼女の骨にぶら下がっていて、それが焼けると穴の底にはがれ落ちました。彼女の目があったところは、今はただ空っぽの穴になっていました。髪の毛はありませんでした。火は彼女の足元で小さな炎で始まり、上に達して彼女の体をおおうにつれて、大きくなりました。炎がほんの燃えさしである時も、彼女は絶えず焼かれているように見えました。彼女の内側の奥深いところから、絶望の泣き声とうめき声が聞こえて来ました。「主よ、主よ、私はここから出たいのです!」彼女はイエス様のほうに手を伸ばしたままでした。私はイエス様を見ました。イエス様の顔に大きな悲しみが現われていました。イエス様は私に言われました。「我が子よ、あなたが私と一緒にここにいるのは、罪の結果が死となることと、地獄が現実にあることとを、世界に知らせるためなのです」私がもう一度その女性を見ると、虫が何匹も、彼女の骸骨の骨から、うようよはい出ていました。それらの虫は火で焼かれてはいませんでした。イエス様は言われました。「彼女はあれらの虫が中にいることを知っており、また感じています」「神様、あわれんであげてください!」私が叫んだ時、火はそのピークに達し、また火があたり一面に激しく燃え始めました。激しい泣き声と深いすすり泣きとで、この女性のたましいの形が揺れ動きました。『地獄にいた男性』という項目もありましたが、その男性は、イエス様にこのようにお願いしています。「主よ、何人か私の知り合いがここに来るはずです。彼らも悔い改めることはないでしょうから。お願いです。主よ、私を彼らのところに送って、まだ地上にいる間に自分の罪を悔い改めなければいけない、と話させてください。私は彼らがここに来てほしくないんです。」

 私はメアリー・バクスターという女性が地獄を本当に見たのかどうか分かりません。しかし、聖書に地獄はあると明記されています。しかも、彼女が記していることとは、あまり矛盾していないようです。私は家内にも言いました。地獄が本当にあるなら、ゆうちょなことをしていて良いのだろうか!お父さんやお母さん、友人のところに行って、襟首を捕まえてでも「イエス様を信じてください。さもないと、死後、地獄に行ってしまうんですよ」と説得すべきじゃないだろうか。DL.ムーディというアメリカの大伝道者は、「もし、いっぺんでも地獄を見たなら、火の玉のようになって伝道するだろう」と言いました。ということは、私たちクリスチャンの多くは、「地獄」を単なる脅しくらいにしか思っていないのでしょうか?私は信じた頃は、「信じる者は天国、信じない者は地獄なんだ」と、燃えて伝道しました。しかし、それでは人から馬鹿にされるので、今度は上品になり過ぎたようです。天国の話はしますが、地獄の話はあまりしません。今のこの時も、大勢の人たちが、永遠の滅びに向かっています。昨年、大阪の原祐二という牧師が私たちにこうチャレンジしました。「日本では、1年間に約90万人が死んでいる。1ヶ月だと約7万5千人、1日に約2500人死んでいる。日本のクリスチャン人口は微々たるものである。地獄の前に行列ができていることを想像したらどうだろうか。1日に2500人の日本人がそこに並んでいるとしたら、どうだろうか。」正直、言って、私は「がんばらなくちゃ!」とは思いませんでした。それよりも、「日本は仕方がない、しょうがない」と諦めがありました。牧師自身がこうだから、あまり救われないのだと思います。私たちはもっと、日本の滅び行く魂に対して、愛と情熱を持つべきではないでしょうか。神様に「天国だけではなく、地獄も一目でも見させてください」と祈るべきではないでしょうか。

2.天国と地獄の神学的な意味

 私が当教会に赴任して間もない頃ですが、役員会で「地獄は本当にあるか」という話題になりました。「地獄はないと思う人?」と聞きましたら、2人が手をあげました。私は「教会の役員さんが、地獄を信じてないの?」と唖然としました。そのとき、山崎長老さんが「聖書に書いてあるから、私はあると思う」と言われました。私は「さすがだなー」と思いました。山崎さんは、何とか一人でも救われるようにと、数え切れない人を集会に誘ってきました。別の機会に、手をあげた一人に「どうして地獄はないと思うのですか?」とお聞きしました。その人は「愛なる神様が、地獄を作るわけがありません」と答えました。役員さんではありませんでしたが、「神様は、最後にはみんな救ってくださるに違いない」と答えた人もいました。テレビ伝道をしておられる、中川先生がこのようにおっしゃっていました。「イエス様を信じなくても、だれでも天国に行けるなら、天国はこの地上と変わらなくなる」と。ところで、「愛なる神様がなぜ、地獄を作ったのか?」という問にどう答えたら良いのでしょう。確かに神様は愛であられます。しかし、聖書を良くみますと、神様は愛であられると同時に義なるお方です。義というのは全く正しいという意味です。もし、神様が「どんなに罪を犯した人でも良いよ、赦すよ」と言ったら、その神様は神様でなくなるでしょう。なぜなら、神ご自身の義が成り立たなくなるからです。義なる神は、一片の罪をも赦さず、裁かなければなりません。しかし、同時に神様は愛なので、罪人を赦したいのです。滅びに行ってもらいたくないのです。神様は、どのようにして相反する考えを解決されたのでしょうか?それはイエス・キリストの十字架においてです。神様はキリストに全人類の罪をかぶせて、キリストを代わりに罰しました。それによって、ご自身の義が満足されたのです。しかし、キリストは「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになられたのですか」と神から捨てられ、地獄を体験しました。神は、そのキリストを三日目によみがえらされ、復活の初穂とされました。それ以来、愛なる神は、キリストを信じる者がひとりも滅びないように、救いの道を与えられたのです。新約聖書とは、新しい契約という意味ですが、人は行いではなく、信仰によって、恵みによって御国に入ることができるのです。

 では、地獄とはどうして存在するのでしょうか?黙示録を見て分かりますが、本来、地獄とは悪魔とその手下のために作られたものです。でも、みなさん、人間は神のかたちに似せて作られたので、魂が永遠に生きるようになっています。この魂を滅ぼすためには、永遠の火でなければならないのです。人類の先祖、アダムが罪を犯したために、その子孫である私たちは地獄に行くことが定まっていました。私たちは裁かれて地獄へ行っても文句が言えなかったのです。しかし、神様は救いの道を備え、御子イエスを信じる者は義とされ、裁きが免除されるようにしてくれたのです。人が天国に行けるということは、特権であり滅多にない事なのであります。皆さん、私たちはイエス様を信じたら「救われる」と言います。では、一体、何から救われたのでしょうか。それは永遠の滅びから救われたのです。だから、嬉しいのです。信じても信じなくても、救われて、天国に行けるとしたら、そんなに喜ぶ必用はありません。ある人が言いました。人間は死刑を待つ、死刑囚と似ている。「きょうは生きられたが、もしかしたら明日、刑を執行されるかもしれない」とびくびくして生きている存在。そして、人が、救われるとは、死刑囚が無罪放免になることだ。「あなたの罪は赦された。無罪放免、ここから出て良い」ということなのです。このことを言っている箇所は、ローマ3:23-24です。「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」

 戦時中のことですが、リトアニアに杉原千畝という人いました。彼はリトアニアの領事館の大使でしたが、ある日からポーランドにいるユダヤ人たちがどっと押し寄せてきました。ナチスによるユダヤ人狩りが迫っており、「日本通過のビザを発行してくれ」とのことでした。杉原氏は日本の外務省に何度も許可を求めましたが、「ドイツに逆らってはならない、否」でした。まもなく、ソ連と日本から退去命令が出ました。それでも、杉原氏は自分の良心で、ビザを発行しました。朝から夕方まで、昼食も取らず、手書きでビザを書くものですから、疲労困憊です。1ヶ月くらい頑張ったのでしょうか?もう、退去しないと国から出られなくなります。列車の窓からも、ビザに代わる許可証を発行しました。列車が走り出して、もう書く事ができません。ホームに立つユダヤ人は深々と頭を下げました。そして、だれから「バンザイ、ニッポン」と叫ぶと、みんなが、同じように叫び、手を振りました。杉原氏が書いたビザは6000であります。このビザを持っている人たちはソ連と日本を通過して、第三国に逃れることができました。しかし、他の人たちはアウシュビッツ送りです。ビザが命の分かれ目になったのです。これは、イエス・キリストを信じることによって与えられる、天国の行きのビザとよく似ています。一般に、他の国に入るためにはビザが必用です。旅行など、短期間の場合は免除される国もありますが、長く滞在する場合はビザや永住権が必要であります。天国も同じであり、ビザなしでは入ることができません。でも、恵み深い神様はそのビザを「あなたのために喜んで発行します」とおっしゃっているのです。そのみことばが、ヨハネ3:16、聖書で最も有名な言葉です。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」ですから、信仰というビザが必用なのです。ヨハネ黙示録20:14-15にもそのことが書いてあります。「それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。」

 もう、何年も前になりますが、仙台のある宣教団体がキリスト教のチラシを配りに来たことがあります。車から「キリストを信じなさい」と、ラウドスピーカーで叫ぶ団体であり、私はあまり好きじゃありませんでした。当教会の板橋姉妹が伊勢家かどこかでうどんを食べていたそうです。そこへお店のお孫さんでしょうか、1枚のチラシをもって家族に話しかけていました。「おばあちゃん、どうしたら天国に行けるか、知ってる?」。「それりゃー、良いことをたくさんしなければならないでしょう」。「ちがうよ、おばあちゃん。ここに、信じれば天国に行けると書いてあるよ」と答えたそうです。近くで聞いていた、板橋姉妹は嬉しくて、もっと説明したくなったそうです。そうなんです。私たちは行いではなく、信仰によって天国に入ることができるのです。あるところに、正直なお寺の住職さんがいたそうです。ある人が「どれだけ良いことをすれば、極楽に行けるのですか?」と聞きました。住職さんは、「そうだなー、そりゃー死んで見なけりゃ、分からないなー」と答えたそうです。みなさん、死んでからでは遅すぎるのです。生命保険と同じように、生きているうちに契約をしなければならないのです。神様との契約です。私が福音書において最も感動する物語はこれです。ルカ23章の犯罪人です。イエス様はお一人で十字架にかかられたのではなく、右と左に、犯罪人が十字架に付けられていました。片方の犯罪人が、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え」と言いました。すると、もう片方の犯罪人は彼をたしなめて「お前は神をも恐れないのか。われわれは自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ」と言いました。さらに彼は「イエス様。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください」と言いました。英語の聖書では、"Jesus remember me"であります。彼は十字架に付けられていますので、聖書を読むこともできません。もちろん、手足が釘付けされていますので、何か良いこともすることができません。彼はまもなく死ぬのです。でも、その直前、「イエス様、私を思い出してください」と願いました。イエス様は何と答えたでしょうか?「何をいまさら、手遅れだよ」と答えたでしょうか。いいえ、「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、私と共にパラダイスにいます」と言われました。みなさん、これが福音です。地獄へ行ってから「私を思い出してください」では遅すぎます。今、息をしているうちに、イエス様を救い主として受け入れ、神様と契約を結びましょう。はっきり言いますが、人は死んでから天国に入るのではありません。生きているうちに、天国に入るのです。そして、クリスチャンは、この世の命と、神からの永遠の命の両方を持って生きるのです。やがて、この世の命は尽きるでしょう、でも、安心してください。神からの永遠の命は肉体の死に左右されません。魂はパラダイスに引き上げられ、死んだ肉体は復活を待つのです。世の終り、イエス様が再び地上に来られるでしょう。そのとき、私たちの朽ちた肉体がよみがえり、新しい天と地に永遠に住まうのです。

 さきほど、ビザの話をしたしましたが、ビザを発行するところは大使館であります。では、天国のビザを発行するところはどこでしょうか?それは、キリストの教会であります。そして、発行する権限をもった全権大使とは、私たちクリスチャンであります。私だけではなく、あなたも、あなたも、天国行きのビザを杉原千畝のように書く事ができるのです。本来なら、教会の入口に、ビザを求める黒山の人だかりができて良いのです。

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2007年8月19日 (日)

小さい者への配慮       マルコ9:33-42

 私たちは生まれてから生活していきますと、一定の考え方や見方を持ってしまいます。それを「世界観」と言います。世界観とは、めがねのレンズのようなものであります。そのレンズによって、ゆがめられたり、色づけされたり、フィールターがかけられます。結果的に、実体とはずいぶんと変わったものにとらえられてしまうのです。弟子たちが持っていた世界観とイエス様の世界観とでは、ずいぶん違っていました。弟子たちの世界観は地上の価値観に基づいたレンズでありましたが、イエス様の世界観は天国の価値観に基づいたレンズでありました。この地上ではとても価値があっても、天国ではさほど価値がないということがあるのです。ところで、弟子たちの価値の中心は何だったでしょうか?マルコ9章、33-34節。カペナウムに着いた。イエスは、家にはいった後、弟子たちに質問された。「道で何を論じ合っていたのですか。」彼らは黙っていた。道々、だれが一番偉いかと論じ合っていたからである。イエス様はだれが一番偉いかについて、2つの答え、つまり2つの世界観を提示しています。

1.仕える者となれ

 偉い人に関する、この世の世界観とはどういうものでしょうか?偉い人と言えば、多くの人を従える権力や力がある人ではないでしょうか。たとえばそれは大臣です。弟子たちは、イエス様がイスラエル王国をお立てになった暁には、自分たちこそが大臣になるんだと考えていました。ヨハネのお母さんは、「二人の子どもをイエス様の右と左に座らせてやってください」と、あるところでお願いしています。イエス様の弟子たちですら、この世の世界観を持っていたわけです。他に偉い人と言えば、社長であります。みなさんは、会社に入ったなら平社員でずっといたいでしょうか?2,3年後には係長になりたいですね。それから課長、部長へと昇進したいでしょう。できれば、取締役社長になりたい。大勢の人たちを従え、たくさんのお金も入る。ゴルフもできるし、美人秘書のお尻もさわれる。スポーツ界でもトップが良いに決まっています。お相撲でも、大関よりも横綱が良いですね。横綱は負けても、下に落ちる事はありません。調子が悪ければ、休場すれば良い。横綱は一番風呂、一番飯で、そしてみんなが仕えてくれるでしょう。教会もどうでしょうか?どうせだったら、牧師が良い。日曜日だけ、ちょっとメッセージして生活できる。平日は何をしているか分からない。日本の牧師は地位が低いので、韓国とかハワイの牧師が良い。「牧師先生どうぞ」とおいしいものを持ってきてくれる。これが、一般的な価値観、世界観ではないでしょうか?

 でも、「この世の世界観は、おかしいぞ!ちがうんじゃないかな?」と、ひずみが暴露されるときがあります。さっき言った大臣は、考えてみると、とても不安定な地位であります。「しょうがない」と言っただけで、退陣させられます。ある大臣は、実家を事務所にしていたとか、領収書が二重だったとかで更迭されました。総理大臣も良いかなーと思うけれど、支持率がコロコロ変わり、トップも楽ではありません。社長はどうでしょうか?確かに左うちわの時があるでしょう。でも、図に乗って悪い事をしだすとどうでしょうか?少し前は、お肉の中に、いろんな肉を混ぜていた社長がいました。とっても儲かっていたんですね。それがバレて、会社が倒産しそうです。また、「白い恋人」というお菓子があります。30年前に、大当たりし大変儲かりました。アミューズメントセンターを作ったり、サッカーのスポンサーにもなりました。でも、期限切れの商品の札を張り替えたということです。何かの菌が入っていたものをそのまま出荷したとか。それで、一夜にして社長職は失墜であります。内部告発って怖いですね。横綱はどうでしょうか?これまで負け知らずの、最強の横綱。私は母国でサッカーくらいしたってかまわないんじゃないかと思います。スポーツは強ければ良いと思いますが、国技はそうはいかないようであります。いやー、横綱もいつ転落するか分かりません。大教会の牧師だって安心できません。10年以上前のことですが、大阪の大教会の牧師が、教会に出入り禁止になったそうです。それまではすごく威張っていたのですが、教会から締め出しを食らいました。共通して言えることは何でしょう?大臣、社長、横綱、牧師・・・すべて上にあるものは、下にひっくり返り易いということです。人は上に昇るといつか慢心して、足元がすくわれてしまう恐れがあります。

 では、イエス様の世界観とは何でしょうか?35節、イエスはおすわりになり、十二弟子を呼んで、言われた。「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい。」イエス様は、「人の先に立ちたい」という人間の欲望に対しては、是認しています。言葉を換えると、「リーダーになるのは良いことだが、どういうリーダーになるのか」ということです。この世的なリーダーなのか、それとも天国的なリーダーかということです。この世のリーダーは権力をふるい、多くの人を自分に従わせます。どれほど多くの人たちが自分に仕えるか、これがリーダーの大小を決定します。牧師もどれほど多くの信徒が仕えるかで、大小が決まったらどうでしょうか?それは地上の価値観に基づいた教会です。イエス様は全く逆のことを言われました。「みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい」。しんがりとは、トップではなく最後尾です。仕える者とは、サーバント、給仕とか召使という意味です。わぁー、全くの驚きです。どうして、世の母親は子どもたちを良い大学に入れたいのでしょうか?給仕とか召使をさせるためでしょうか?そうではないです、多くの人を従える良い部署に就くためであります。公務員だったら幹部、会社だったら重役になるためであります。召使になるために大学へ行く人はいません。しかし、今、サーバント・リーダーシップというのが注目されています。従来のリーダーシップと言うのは、ピラミッド型です。上からの命令に下の者たちが従うというトップダウン方式です。これだとお客さんが一番したになります。それで、サーバント・リーダーシップと言うのは、逆三角形にして、社長を一番したにもっていったものです。もちろん、一番上がお客さんであります。この方式は、アメリカの軍隊でも最近、取り入れているようです。

 では、教会はどうあるべきでしょうか?残念ですが、ローマ・カトリックになってから、階層的な組織(ヒエラルキー)が定着しました。一番上が、「教皇」です。その下に、司教・司祭・助祭という聖職者がおり、一番下が平信徒であります。ルターは「万人祭司」を提唱し、プロテスタント教会は一応、平らということになっています。でも、教会が「リーダーシップ」を言う時、どうしても、この世のリーダーシップ、あるいはローマカトリックから、借用してしまうのです。「イエス様は何と言っているか」ということは、全く眼中になく、いろんな社会学者の本を持ってきます。イエス様は何とおっしゃっているでしょうか?「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい。」なぜ、このみことばが見えないのでしょうか?それは、私たちがこの世の世界観をもっているからです。今から30数年前、「日本の教会が成長しないのは牧師の権威が低いからだ」という考えが韓国の教会から入ってきました。その当時、韓国の教会はものすごいリバイバルでした。日本からも韓国へ勉強に行き、韓国からも日本にたくさんの講師がお見えになりました。特にチョーヨンギ牧師の純福音教会は、ピラミッド型で、何十万の信徒たちがいるのに整然としていました。「これは、すばらしい」ということで、区域長を任命し、区域集会を開きました。ところがあまりうまくいきませんでした。「何故か、それは牧師の権威が低すぎるからだ。もっと、牧師を高め、信徒は牧師を尊敬しなければならない。」という考えが広まり始めました。私もそういう考えで亀有を始めました。私の中にものすごい、フラストレーションがありました。なんで、牧師は掃除をしなければならないんだろう。なんで、牧師の車が軽自動車なのか。なんで、牧師の待遇(住まいとか給料)がそんなに良くないのか。イライラしました。挙句の果て、どういう答えを出したでしょうか?「人数が少ないからだ。韓国やアメリカのように教会が大きくなれば、牧師が尊敬されるし、待遇も良くなるんだ。そうだ、人数をふやせば良いんだ」。そんなふうに考えました。

 しかし、1995年、セルチャーチと出会ってから、それはちょっと違うんじゃないかなーと思うのようになったんです。セルチャーチ・ムーブメントは、「初代教会に帰ろう!聖書の原則に帰ろう!」という中心的な考えがあります。常磐セルのある牧師は「尊敬される牧師ではなく、愛される牧師になりたい」と言いました。「ああ、そうだなー」と思いました。小牧者訓練会のときは、「能力のある強いリーダーを作ろう」と躍起になっていました。だから、そうなれない信徒を心の中でさばいていました。しかし、セルになってから「リーダーはだれでもできる。能力よりも関係作りだ」と考えるようになりました。牧師の価値観が変わったんですから、恐らく教会の雰囲気も変わったんじゃないかと思います。私自身、掃除をすることが何の苦にもならなくなりました。ただ1つ、セル教会になってがっかりしたのは、「ため口」が当たり前になったということです。家内によく、愚痴をこぼしました。すると、家内は「あなたがそういう教会にしたんでしょう」と返してきます。先ほどの、サーバントリーダーシップの図式を教会にあてはめるとどうなるでしょうか。一番上が未信者・求道者です。その下がいわゆる教会員。その下がリーダー・役員。そして、一番下が牧師ということになります。私たちは未信者・求道者のニーズをどうしたら満たすことができるのか、どのように仕えられるのか、考えなければなりません。

2.小さい者への配慮

 マルコ9:36-37、それから、イエスは、ひとりの子どもを連れて来て、彼らの真中に立たせ、腕に抱き寄せて、彼らに言われた。「だれでも、このような幼子たちのひとりを、わたしの名のゆえに受け入れるならば、わたしを受け入れるのです。また、だれでも、わたしを受け入れるならば、わたしを受け入れるのではなく、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。」この世の世界観で、偉い人とは、多くの人を従える権力や力がある人でしょう。その点、幼子はどうでしょうか?王様の子どもならともかく、一般的に幼子は無力で何もできません。その当時のローマ社会では、子どもに対しての価値観がものすごく低かったようです。ある夫が戦場から妻に「生まれた赤ん坊が女子であったら殺せ、男子だったら生かしておけ」という手紙を送っています。ユダヤの世界でも、人数に数えるときは20歳以上の男性だけです。女性や子どもは人数には入れなかったのです。だから、5つのパンの2匹の魚による、奇跡のときは、男性だけで5000人いたと記されています。だけどすばらしいことに、5つのパンの2匹の魚は子どもが差し出した弁当でした。ハレルヤ!イエス様は、42節で「わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、むしろ大きい石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです」と教えておられます。ですから、イエス様は子どもの人格、子どもの価値を回復したお方であります。

 しかし、子どもの人権が守られるようになったのは近年であります。ヨーロッパでは、産業革命の頃、子どもが働かされました。煙突のすす掃除をするのが子どもたちでした。そのため、胸の病気になる子どもが多かったのです。昔、日本では、子どもは多すぎると間引きされたり、売られました。口減らしの対象になるのが、子どもであります。エリヤハウスのジョン・サンフォードが「日本に働いている要塞」について語っています。要塞とは、固定した考えであり、世界観のもっと強力なものであります。日本に働いているのは、パフォーマンス志向という要塞である。パフォーマンス志向とは何から生まれるだろうか?それは、私たちが自分の存在ゆえに愛されているのではなく、がんばって、がんばって一生懸命、何かをしたから受け入れられるのだという偽りから来ている。だから日本人は、他の国の人たちと比べて類を見ないほど、愛を獲得するために働かなければならないという考え方に支配されている。エリヤハウスの教えは、人々の心の奥深くに「あなたが存在するそれだけで愛される価値がある」という福音を人々に伝えるものである。しかし、あなたの友人や周りには、この社会において「ちゃんとしないと受け入れられない」「何かをしないと愛されない」という思いに駆り立てられて生きている人が何と多いことだろう。この要塞的考え方の根底には、恐れがある。失敗することの恐れ、拒絶されることの恐れ、自分の居場所がなくなることの恐れ。どうかあなたの友人、知人、周りの人たちのために祈ってください。神様の愛にその人たちが、満たされるように祈ってください。なぜなら、完全な愛は恐れを閉め出すからである。・・・このようにサンフォード師は語っておられました。

 実は、先週、説教の準備をしようとこの箇所を一読しました。「えー?来週こんなところから話すの?何も浮かんでこないなー」と、モティベーションが上がりませんでした。なぜでしょう?私自身も日本人が持つ要塞の影響を受けているからです。私が子どもの頃、「子どもとは半人前、やっかい者、ジャリ」と思われていました。私はよく、「ガキ、ガキ」と呼ばれて育ちました。日本語で餓鬼とは、腹を減らした鬼っ子でしょう。なんてひどい!私などは8人兄弟の7番目ですから、1人の価値観が本当に薄い。私は盆と正月が大嫌いでした。兄と姉は偉そうに都会風を吹かせる。東京から帰って、「百姓、百姓」と馬鹿にする。兄や姉が結婚すると、その伴侶を連れてくるでしょう。彼らは枝豆とか刺身でビールをいただき、テーブルを占領しています。下の弟や妹の居場所がなくなるわけです。おこずかいとかお年玉も良いですが、何か卑屈になります。ただ、今思えば、母は年越しの日だけは、子どもたちに一人前ずつのお皿を出してくれたという記憶があります。ホウレン草のおひたし、赤い酢ダコの切り身、大根の酢のもの。しかし、年が明けて、お客さんが来ると、もう居場所がなくなります。しかし、詩篇16篇はすばらしいことを教えてくれました。詩篇16:5「主は、私へのゆずりの地所、また私への杯です。あなたは、私の受ける分を、堅く保っていてくださいます。」英語の聖書では、O Lord,You are the portion of my inheritance and my cup.ここにportionという言葉があります。portionとは、食物の1人前、分け前、相続分という意味です。神様は私に、食物の1人前を保ってくださる。そればかりか、ちゃんと受け継ぐべき相続を堅く保ってくださるということです。ハレルヤ!私は聖書の神様に出会って、かなり癒されました。

 「君は愛されるため生まれた」という歌が、キリスト教会でヒットしていますが、あの歌は、一人の子どもであっても、存在価値があることを歌っているのでしょう。イエス様がおっしゃりたいのは、権力や力の前に、一人の存在価値を大切にしなさいということではないでしょうか?本当の指導者は、数の多さとか能力の大きさにまどわされないで、一人の存在価値を大切にしなければならないということです。私も大教会の牧師にあこがれたことがあります(ついこの間まで)。みなさん、大教会は良いですが、一人の存在が薄くなっては困ります。私は前の教会では、献金の時、カウンターで会衆の頭数を数える奉仕をしていました。ですから、今でも人数に囚われるところが多少あります。しかし、クリスチャンとは、日曜日に礼拝に来ていればそれで良いということではありません。どういうクリスチャンになるかが問題であります。また、クリスチャン一人ひとりが、「神様に愛されて、自分は特別な存在なんだ」というセルフイメージの回復が必要であります。私もそうでしたが、自分の存在が薄いために、一生懸命がんばって「俺はここにいるんだ!」とパフォーマンスして生きてきました。それでは、いけません。人の評価によって上がり下がりしてしまうからです。私たちは歌手やタレントのように、拍手の数によって、上がり下がりしてはいけないのです。doing「行い」ではなく being「存在」の方がもっと大事なのです。そして、being「存在」こそが、doing「行い」を生み出すのです。また、私たちクリスチャンは赦された罪びとではありません。だれでもキリストにあるなら、神様の子どもです。神様が王様なんです。すると、神の子どもはどうなるでしょうか?それは王子であり、王女なのです。プリンスとプリンセスです。だから、イエス様は「子どもでも価値がある、躓かせてはならない」と教えられたのではないでしょうか?あなたは主にあって、プリンスとプリンセスです。頭に王冠をいただいているのです。うつむいたり、うなだれると、王冠がポロっと落ちてしまいます。だから、「私は主にあってプリンスです」あるいは「主にあってプリンセスです」と胸を張りましょう。そうすれば、あなたの後から、すばらしい環境と運命がついてきます。神様はあなたに食物の1人前ばかりか、天国においてちゃんと受け継ぐべき相続を与えておられます。このように自分が神様から大事にされ、受け入れられていることを知るとどうなるでしょうか?今度は、他者をも、幼子をも受け入れるようになれるのです。よく、自分の子どもを愛せない母親や父親がいます。なぜか、それは自分が子どものとき、無条件で愛されたり、受け入れられたという経験がないからです。「親の言うことを聞く良い子であれば愛する」「勉強ができれば、有名校に入れば受け入れる」と育てられてきたからです。そうではありません。私たちは主にあって存在そのものがすばらしいのです。イエス・キリストは私たち一人ひとりを贖うために、十字架にかかってくださいました。世界にあなた一人しかいなくても、イエス様は十字架にかかってくださったでしょう。そして、イエス様を信じるなら、神の子どもとなれます。神の子どもならば、神様が持っておられるものを相続することができます。私たちは何も持っていないようで、実は持っているのです。どうぞ、この世の世界観に惑わされないで、神様のめがねで見るようにしましょう。

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2007年8月12日 (日)

不信仰から信仰へ       マルコ9:14-24

 去る8月4日、当教会の役員であり、また日曜学校の校長先生であられた松浦孝行兄が天に召されました。先週はお葬儀が当教会でありました。日曜学校の子どもたちとKGCが賛美をしてくださり、大変恵まれました。1つ感じたのは、遺影と申しましょうか、お写真のことです。今回はキリスト教の葬儀屋さんでしたが、お写真が49,000円もしました。小さな写真から拡大するために結構ぼやけてしまいます。それで、その額です。私からの提案ですが、そこの立花写真館で写真をあらかじめ撮っておかれたら良いです。おそらく、その3分の1の値段でかっこよくできるのではないかと思います。私も真面目に撮っておこうと思いました。10年ごとに1回撮っておけば、いざという時に使えるでしょう。多少若くてもだれも文句を言いません。今週は、お盆で、故郷に帰省された兄姉もたくさんおられると思います。逆に、こちらの方にお帰りになる方もおられるかもしれませんね。歓迎いたします。

1.山の下の出来事

 イエス様と弟子たちとの関係から見ていきたいと思います。先週学びましたが、3人の弟子たちは山の上で、天にも昇るような経験をしました。なぜなら、栄光に輝いたイエス様とエリヤとモーセに会ったからです。さらには、天の神様の声をじかに聞く事ができました。ところが、山を降りたら、とんでもない出来事が待っていました。9人の弟子たちが「悪霊も追い出すことができないのか」と人々からやりこめられていたのです。イエス様はがっかりしてこのように言いました。「ああ、不信仰な世だ。いつまであなたがたと一緒にいなければならないのでしょう。いつまであなたがたにがまんしていなければならないのでしょう。」わぁ、寛容なイエス様のお言葉とは思えません。なぜでしょう?イエス様は山から下りて、エルサレムに向かおうと決意を固めました。「ああ、十字架にかかる日がせまっているのに、こんな弟子たちに後を任せて、天に帰っても良いだろうか」と思っていたに違いありません。人間的な表現で申し訳ありませんが、あせりと言いましょうか、いらだちと言いましょうか、そういうものを感じておられたのではないでしょうか。でも、イエス様はすばらしい教師であります。おそらく、超自然的に弟子たちがこうなることは知っておられたのに違いありません。「弟子たちに悪霊追い出しを経験させてみよう。そして、失敗したなら、失敗から学ばせてみよう」と考えていたに違いありません。イエス様は、神学校のように頭にいっぺんに知識をつめこむのではなく、体験を通して教える方法をとっていたと思われます。

マルコ9:28,29、イエスが家にはいられると、弟子たちがそっとイエスに尋ねた。「どうしてでしょう。私たちには追い出せなかったのですが。」すると、イエスは言われた。「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出せるものではありません。」それでは、弟子たちは祈る代わりに、何をしていたのでしょうか?14節以降を見てわかりますが、弟子たちは律法学者たちと議論していたようです。祈らないで、議論していたのであります。ある人が言いました。韓国の教会は祈る教会。台湾の教会は賛美する教会。日本の教会は議論する教会。まさしく、そうかもしれません。悪魔は人間よりもはるかに賢いので、人間が議論して勝てる相手ではありません。悪魔が一番、怖いのは祈りであります。教会では総会とか役員会をしますが、議論をするよりも、共に祈った方がはるかに効果的なのです。では、イエス様はどのように悪霊を追い出されたのでしょうか?まず、イエス様は山の上で父なる神様とお会いし、御声を聞きました。「これは私の愛する子だ」と、ご承認を受けました。イエス様は山の上でお祈りをし、聖霊にも満たされていたのではないかと思います。その後、山から降りてきて問題に遭遇しました。それでは、イエス様は悪霊を追い出すとき、祈っているでしょうか?「父なる神様、悪霊が出て行きますように助けてください」と祈っているでしょうか?25節、イエスは、群衆が駆けつけるのをご覧になると、汚れた霊をしかって言われた。「おしとつんぼの霊。わたしが、おまえに命じる。この子から出て行きなさい。二度と、はいってはいけない。」イエス様は、ちっとも祈っていません。悪霊をしかりつけながら「この子から出て行きなさい。二度と入ってはいけない」と命じています。本当にすごいですね。神としての権威を感じます

では、私たちが悪霊を追い出すときは、どうしたら良いのでしょうか。「私が、おまえに命じる。この子から出て行きなさい。二度と入ってはいけない」と言って、悪霊が出て行くでしょうか?悪霊が「お前は何様だ?」と逆に襲い掛かって来るかもしれません。イエス様は「この種のものは、祈りによらなければダメだ」と言われました。では、悪霊を追い出すための祈りとはどういうものでしょう?「私」では権威がありません。「イエスの御名によって、おまえに命じる。この子から出て行きなさい。二度と入ってはいけない」と、言えば良いのです。私ではなく、イエス様の御名の権威を用いれば良いのです。これが、悪霊を追い出すときの祈りではないでしょうか?でも、29節は、「祈りと断食によらなければ」という写本もあるようです。断食は辛いので、できれば避けたいですね。安海先生が、インドネシアで活躍しておられた頃、しょっちゅう断食させられたそうです。「こんど、あの部族の祈祷師と対決しなければならないので、先生、お願いします」と頼まれる。あるいは、「あの悪霊を追い出してください」と頼まれる。すると、先生は断食して、祈りに行くわけです。もちろん、断食が必要な時もあるでしょう。でも、ここで学ぶべきことは、イエス様の御名の権威を用いて、祈るということです。正確には、祈りというよりも、イエス様の権威を行使するということです。マタイ28:18「私は天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って・・・」と書かれています。私たちに権威があるのではありません。イエス様に権威があるのです。そして、私たちクリスチャン、つまりキリストに属する者は、イエス様の権威を用いて良いと許可されているのです。

 私は丸屋先生から牧会カウンセリングを学んでいます。4月からすでに、5回も学んでいるのですが、先生の立場が良く分かりました。一般恩寵である医学や薬の力をとても大事にしておられます。でも、悪霊の影響とか、特別恩寵についてはほとんど語りません。先生はアメリカで18年も学ばれた臨床心理学博士です。確かに、すばらしい臨床心理学者かもしれませんが、やはり欧米のキリスト教の影響を受けていらっしゃいます。でも、私が不得意な「学問的な立場」というものを知るために、1年間くらいは通おうと思っています。聖書は悪霊のことがひんぱんに出てきます。今日は悪霊がいないのでしょうか?イエス様は「ああ、不信仰な世だ」と嘆かれました。「世」といういのは「時代」という意味であります。創造から世の終りにイエス様が来られて御国を完成するまでの「時代」であります。現代は、悪霊は本体を隠しながら、もっと巧妙に働いているのではないかと思います。心療内科はいろんな病名を付けることができても、直すのは別問題なのであります。医者は、この少年の病名は、てんかんを持った聾唖者だと言うかもしれません。もちろん、なんでも悪霊のせいにしてはいけません。でも、人間の罪や傷は、悪霊に対して付け込む隙を与えます。心の病が癒される方法は、もっとシンプルではないかと思います。まず、神の前で罪を悔い改めます。赦すべき人を赦します。そして、神様の愛によって、心の傷が癒されるように祈ります。その後、イエスの御名によって、悪霊に対して「この人から出て行きなさい。二度と入ってはいけない」と祈れば良いのです。現代は、科学や学問は発達しているかもしれませんが、「不信仰な時代」に変わりありません。私たちはイエスの御名というもっとも切れ味の良い剣を持っているのです。剣をさやにおさめて床の間に飾ってはいけません。良く管理していないと、錆びてしまい、いざというときに抜けないかもしれません。どうぞ、剣をいつも身に帯びて、悪霊をけちらして行きましょう。あなたにはイエスの御名の権威があたえられているのです。もし、なかったなら、今、この場で所持しましょう。「イエスの御名の権威をゲットします」アーメン。

2.不信仰から信仰へ(イエス様と父親との関係)

 31節以降をお読みします。「イエスはその子の父親に尋ねられた。「この子がこんなになってから、どのくらいになりますか。」父親は言った。「幼い時からです」。この霊は、彼を滅ぼそうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。ただ、もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。」するとイエスは言われた。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」イエス様は神なので、すべてのことが超自然的に分かっていたはずです。しかし、イエス様は父親に子どもの状況を尋ねているのは何故でしょうか。ひきこもりの治療で有名な服部氏は、カウンセリングの基本は、状況を聞く事だと言います。状況とか自分の感情を告げているうちに、当人自身が分かってくるとのことです。この父親は子どもが小さい時から悪霊によって滅ぼされそうになるのを幾度も見てきたのです。ですから、悪霊の脅威、悪霊の力を十分に知っていました。それでイエス様の弟子たちにもお願いしましたが、できませんでした。ですから、この父親は「悪霊は手ごわいぞ」という信仰ができていたに違いありません。それに対して、「イエス様はどうなんだろう。どれほどの力があるのだろうか?」この父親は、イエス様に対する信仰はあまりありませんでした。だから、イエス様に「ただ、もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。」これが彼の本音でありました。英語の聖書は、If you can do.であります。「もし、できるなら」とは、やはり不信仰な頼み方であります。この父親は、イエス様と話しているうちに、「自分には信仰がないことが分かったのです」。

 それで、イエス様はどうされたでしょうか。するとイエスは言われた。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」24節、するとすぐに、その子の父は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」イエス様は、すばらしいカウンセラー、信仰の導き手であります。この父親は、自分の不信仰を悔い改め、「信じます。不信仰な私をお助けください」と願いました。イエス様は、この父親に信仰を持ってもらいたかったのであります。それでも、彼の信仰はまだ十分とはいえません。日本語の聖書は、「不信仰な私」となっていますが、これだと信仰がないということになります。クリスチャンは自分を「不信仰な私」と謙遜してはいけません。原文から、「私の不信仰をお助けください」という訳がより正しいのではないかと思います。イギリスの聖書NEBは「信仰の足りないところを助けてください」となっています。つまり、この父親の信仰は本来100であるべきなのに、65くらいしかないのです。「あと35は、イエス様、あなたが足してください」という意味ではないかと思います。私たちは肉体を持っていますので、信じると言いながらも、どこかに疑いがあります。では、この信仰が完全になるまで待たなければならないのでしょうか。いいえ、そうではありません。私たちの信仰が不十分であっても、「信じます」と神様の前に出るのです。そして、イエス様に、「私の足りない信仰の部分を満たしてください」と願えば良いのです。私たちの信仰は不十分であっても、イエス様の信仰は完全です。ハレルヤ!足りない分は、イエス様が下さるのです。ですから、たとい、信仰が弱くても、多少疑いが混じっていても、主に叫び求めましょう。なぜなら、恵み深いイエス様がご自分の信仰によって、解決してくださるからです。

 中嶋先生が癒しのときに、良く言われます。中には「癒されるなんて信じられない」という人がいます。すると中嶋先生は、「あなたに信仰がなければ、私の信仰でやりますので、安心してください」と言います。教会では、「あなたに信仰がなかったから、癒されなかったんだ」と言うときがあります。そうすると、癒されなかった人は、もう1つの傷を負って帰ることになります。ですから、信仰があるとかないとかというプレッシャーを与えてはいけません。「本人に信仰がなければ、癒し手の信仰によって祈ります。癒し手になければ、イエス様の信仰によって祈ります」。これで良いのではないかと思います。信仰の祈りと言えば、マルコ11:22はあまりにも有名です。11:22,23 イエスは答えて言われた。「神を信じなさい。まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。この「神を信じなさい」は原文では、「神の信仰を持ちなさい」であります。私たちは元来、神の信仰がないのです。「信じます」と言いながらも、疑ったり、恐れたりします。だからこそ、神の信仰が必要なのです。私たちが、神の信仰をいただいて、祈り求めるときに奇跡が起こるのです。でも、私たちにとっては奇跡かもしれませんが、神様にとっては奇跡ではありません。神様にとっては普通のことなのです。私たちのこざかしい理性が自然と超自然を分けてしまったのです。私たちはこの父親のことを笑えません。私たちも疑いやすいものであり、完全な信仰を持ち合わせていません。でも、イエス様には完全な信仰があるのです。このように考えると、信仰生活って結構、楽だなーと思います。なぜなら、信仰、信仰と力まなくて良いからです。イエス様の信仰をいただいて、やれば良いからです。私たちの信仰は不完全ですが、イエス様の信仰は完全です。ハレルヤ!愛も同じです。自分の愛でなんとかしようとするからダメなのです。神様から愛をいただいて、愛すれば良いのです。神様の愛は太平洋の水よりも豊かなので、汲んでも、汲んでも枯れないのです。

 コンテンポラリー・イングリッシュ・ヴァージョンという聖書があります。昔、当教会の英会話スクールのテキストで使用されていた聖書です。これも、マルコ11章の「神の信仰を持ちなさい」と同じ考え方をしています。23節のイエス様の言葉。「なぜ、あなたは『もしできるなら』と言うのか。信仰を持つ者には、どんなことでも可能なのです。」24節の父親の言葉です。「私は信仰を持ちます。どうぞ、もっと持てるように助けてください」。前半は、悪霊を追い出すときの祈りは、イエスの御名を用いて祈ることだとメッセージしました。そして、後半は、イエス様から、神様の信仰をもらうように祈ることだと言いたいと思います。みなさん、私たちは生まれつきの信仰、つまり一般的な信仰はだれでもあります。みなさんは、今日の朝10時半から礼拝があると信じてここにやって来ました。私たちは明日も太陽が東から昇ることを信じています。飛行機や電車に乗るときも「安全だ!」と信じて乗ります。レストランで何かを食べるときも、「毒が入っていない」と信じていただきます。でも、みなさんそういう信仰はこの世において、体験的に得た信仰であります。私たちがもっと必用な信仰は、神様の信仰です。残念ながら、私たちには神の信仰がないのです。クリスチャンになって、ある程度は持っているかもしれませんが、いざというときに足りないのです。それではどうしたら良いか。この父親のように。「信仰を持ちます。どうぞ、もっと持てるように助けてください」と願えば良いのです。

しかし、悪魔は弱い者いじめをします。この子が、何をしたというのでしょうか?悪魔はこの子を滅ぼそうと「何度も火の中や水の中に投げ込んだ」ということです。おそらく子ども自身が偶像礼拝をしたとか、霊的な罪を犯したということではないでしょう。何故か?私はその子どもに可能性があったからではないかと思います。「この子が大きくなったら、神様の栄光を現すか、神様のしもべになるかもしれない。だから、今のうち滅ぼすんだ」と考えたのではないでしょうか?みなさんの中にも病気や悪霊に悩まされてきた人はいないでしょうか?それは、悪霊が将来、神に用いられるであろうあなたを恐れているからです。「火の中や水の中に投げ込んだ」というところからイザヤ書43章のみことばを思い出しました。43章の1節以降、引用して終えたいと思います。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。わたしが、あなたの神、主、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ。わたしは、エジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代わりとする。わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」ハレルヤ!力ある神様により頼みましょう。信仰とは、力ある神様により頼むことであります。高校野球がたけなわですが、多くの選手は、胸のところを握ってバットを構えます。このように胸を一度、握ってから、バットを構えるのです。おそらく、ユニホームの中にはお守りがあるんじゃないでしょうか?日本人は理性や科学を信じながらも、やっぱり何かにすがりたいのです。でも、お守りぐらいじゃダメなんです。「あなたの神は小さすぎる」と言いたいです。私たちは、この天地を創り、私たちの名を呼び、私たちを愛しておられる大能の神様を信じなければなりません。イエス様は贖い主ですが、同時に、どのようにしたら神の信仰を持てるのか教えてくださいました。答えは簡単です。その信仰を神様からいただけば良いのです。イエス様は「信じる者には、どんなことでもできるのです」と言われました。お祈りいたしましょう。

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2007年8月 5日 (日)

メタモルフォー        マルコ9:1-10

イエス様が姿変わりされた山は、ピリポ・カイザリヤの北にあるヘルモン山といわれています。春はヘルモン山の雪解けの水がガリラヤ湖に注ぎ、ガリラヤ湖の水が死海に注ぎます。ですから、ヘルモン山が一番高いということになります。不思議なことにイエス様の地上での生活はこれと良く似ています。少し前に学びましたが、イエス様がキリストであるということをペテロが告白しました。その後、イエス様はヘルモン山に登られ、お姿が変わりました。厳密に言いますと、姿が変わったのではなく、神であるもとの姿に戻っただけです。ちなみに、黙示録1章には、光輝くイエス様が描かれています。イエス様はこのまま、天国にお帰りになることもできました。しかし、変貌山の出来事の直後、まっすぐにエルサレムに向かわれました。エルサレムとは十字架にかかるところであり、苦しみと死が待っているところであります。ですから、変貌山から、エルサレムの十字架へと下る構図になります。つまり、変貌山はイエス様の公生涯のターニングポイント(岐路)ということになります。

1.変貌山の出来事

 イエス様は変貌の山で何を話しておられたのでしょうか。4節「また、エリヤが、モーセとともに現われ、彼らはイエスと語り合っていた」。エリヤは旧約聖書中、最も力ある預言者の一人です。ですから、エリヤは預言者の代表と言えます。また、モーセは律法の代表です。不思議なことに、エリヤは竜巻で天に引き上げられ、死体を見たものはいません。また、モーセもピスガの頂で死んだようですが、死体は残されていません。ユダヤ人たちは、この二人に対しては特別なものを感じていたに違いありません。とにかく、預言の代表と律法の代表とが山の上で、イエス様と会談したわけです。ですから、変貌の山は、頂上会議、サミット会議と言っても過言ではありません。何を話しておられたかマルコ福音書には分かりませんが、ルカにはそれらしきことが書いてあります。ルカ9:31「 栄光のうちに現われて、イエスがエルサレムで遂げようとしておられるご最期についていっしょに話していたのである。」「ご最期」とは、「死」という意味であります。10年以上もなりますが、この箇所からメッセージしたことがあります。とのとき、読み方が分からなくて、「ごさいき」「ごさいき」と言っていました。家内があとから、あれは「ごさいご」と言うんじゃないのと教えてくれました。そうか?と思って調べたら、「命が尽きる時を最期」と言うことが分かりました。講壇から「ごさいき」「ごさいき」と言って、「ああー、どうだったんだろう」と目から火が出るような恥ずかしい思いをしました。テレビのクイズ番組に出そうな漢字であります。

ところで、「最期」は、原文のギリシヤ語ではエキサダスと書かれています。70人訳という旧約聖書のギリシヤ語訳がありますが、出エジプト記のことをエキサダスと呼んでいます。つまり、ルカ福音書の記者は、イエス様とエリヤとモーセは、「エルサレムで遂げようとしておられる出エジプトのことを話していた」ということになります。出エジプトとは、100万以上ものイスラエルの民がエジプトから脱出するという偉大な出来事であります。そのとき決め手になったのが、過ぎ越しであります。鴨居と柱に羊の血が塗られている家は、神の怒りが通り過ごしました。ところが、血が塗られていない家は、長男が神に打たれて死にました。その恐ろしい出来事が、エジプトの王家から奴隷の家、家畜まで起きたのです。そのために、パロ王はイスラエルの民を解き放つわけです。このことを新約に置き換えるならば、エジプトとはこの世であり、パロ王が悪魔であります。人類は悪魔のもとで罪と死の奴隷であります。ところが、神の小羊であられるイエス様がエルサレムで十字架にかかります。その日がちょうど過ぎ越しの日であります。イエス様が血を流されることにより、人々は悪魔の束縛から解放されるようになるということです。おそらく、このことをイエス様とエリヤとモーセは話し合っていたのではないかと思います。まさしく、サミット会議であります

ところが、ねぼけていたペテロは言わんでも良い事を言います。5、6節、すると、ペテロが口出ししてイエスに言った。「先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。私たちが、幕屋を三つ造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」実のところ、ペテロは言うべきことがわからなかったのである。彼らは恐怖に打たれたのであった。

言うべきことが分からなければ、だまっていれば良いのに「なんでやねん」と思います。ま、ペテロは私そっくりで親しみがあります。ペテロの間違いは2つあります。1つは、イエス様とモーセとエリヤを同じレベルに扱ったということです。イエス様のテント、モーセのテント、エリヤのテント、それぞれ3つ並べようとしました。もう1つの間違いは、テントを張っていつまでも山の上に留まりたいと願ったことです。「輝くイエス様、よみがえったモーセとエリヤと共にいつまでもいたい!ああ、ここにいるのは何と幸いだろう。」なんか、気持ちが分かるような気がします。昔は、夏になるとキリスト教の聖会が箱根や修善寺でよく開かれました。そこに有名な講師が招かれ、2泊3日くらいで、すばらしいお話を聞くわけです。主婦の方は炊事も洗濯もしなくて良い。恵まれたお話を聞いて、食事をして温泉に入り、部屋で楽しく語り合う。「もう、山を降りたくない。このまま、ずっとここでいたい」と思うわけです。ペテロも、ずっと山の上でいたいと思ったんでしょう。すると、にわかに雲がわき起こり、みんな見えなくなりました。雲とは神の栄光を現わしていますが、雲の中から声がしました。「これは私の愛する子である。彼の言うことを聞きなさい」。そのあと、あたりを見渡すとイエス様しかおりませんでした。これは、父なる神様が、「イエスは神の子であり、他の二人とは違う。彼に聞け!」と言ったのであります。つまり、ペテロのように3人を並べて、考えてはいけないということです。イエス様はメシヤであり特別な存在だということです。

 では、イエス様が3人の弟子たちに、変貌山の出来事を見せた理由は何でしょうか?イエス様は山を降りながら、「人の子がよみがえるときまでは、いま見たことを「だれにも話してはならない」と命じられました。ペテロはⅡペテロ1章で「私たちは、キリストの威光の目撃者なのです。・・・私たちは聖なる山で、天からかかった御声を自分自身で聞いたのです」と証言しています。申命記19章によると、「二人または、三人の証言によって、立証されなければならない」と書いてあります。つまり、ペテロとヤコブとヨハネの3人が選ばれたのは、キリストのご威光の証人となるためです。福音書をみますと、ヤイロの娘の生き返りやゲツセマネの園のときも、この3人が近くに呼ばれています。後から、重要なことを聖書で証言させるために、3人を選んだのだと思います。私たちは、「二人または、三人の証言によって」「ああこのことは、本当だったんだなー」と知るわけです。イエス様は12人を選んで訓練し、また3人には特別な体験を与えました。私は「イエス様は彼らをコーチングをされたんだなー」と思いました。香港からベン・ウォン師が来られ、コーチングが始まりました。私は1995年に、当亀有教会をセル教会に移行することに決めました。教会の組織やすべての集会を信徒中心の小グループに任せるようにしていきました。2000年以降、ゴスペルで若い人たちが救われ、セルの勢いがついてきました。でも、ベン・ウォン師の話を聞いてから、まだまだセル教会ではないということが分かりました。まず、メガチャーチ(大教会)を諦め、小さな教会をたくさん生み出すこと。ま、これは良いとしても、牧師の生活を変えることが一番のネックです。イエス様が主任牧師なら、私が牧師室にこもって、パソコンを打ってテキストを作れと言うだろうか?また、教会のメンバーに対しては、どうおっしゃるでしょう?イエス様と弟子たちのように、建物の中にいないで、外に出て行くべきではないだろうか?このようなチャレンジを受けました。もし、このままベン・ウォン師のコーチングを受けるのであれば、向きを変えなければなりません。従来の教会で良いか?それとも、新約聖書にあるような教会を本当に目指すかで、あります。私も残された奉仕は、あと10年そこそこです。イエス様はこの変貌山からまっすぐ、エルサレムに向かわれました。ただ、惰性で動くのではなく、神様が示す道へと、方向転換したいと思います。まさしく、今がターニングポイントであります。

2.メタモルフォー

 9:2にイエス様の「御姿が変わった」とあります。「メタモルフォー」というのは、ギリシヤ語で「姿を変える」という動詞であります。毎週、日曜日午前9時半から、「プリキュア」という少女番組があります。5人の少女が変身するとき、「メタモルフォーセス」と言うようです。「メタモルフォー」が一番良く分かるのが、昆虫の変態であります。たとえば、ヤゴからトンボに変わるときは、ものすごい変化です。泥沼から天上へと、生活する場所も変わります。また、モコモコと這う青虫がさなぎになり、そのあと蝶が誕生します。セミもそうであります。セミは7年から10年地中で暮らします。この夏に地面から這い出てきて、変身します。薄羽かげろうも、アリ地獄の虫が変身したものですね。ですから、「メタモルフォー」とは、全く、別の姿に変わるという意味であります。だから、「変身!」という意味で使っても良いわけです。今から、15年くらい前になりますが、関西に松見先生という方がおられました。ある聖会で、松見先生がお話されました。とっても、ユーモアに満ちた先生で、笑いっぱなしでした。最後に、先生が「お祈りしてもらいたい方は前に出て来なさい」と言われました。そのとき、私は「よし!」と思って、前に進み出て、ひざまずきました。先生が私の背中に手を置き、「姿変わり!」と大きな声で言われました。そのとき、背中がボーっと熱くなり、聖霊に満たされ感動しました。「姿変わり!」は、まさしく、私に必用なことだなーと思いました。この「姿変わり」こそ、「メタモルフォー」であります。

みなさんは、姿変わりしたくはないでしょうか?しかし、これは外見のことではありません。お化粧することを英語で、cosmeticと言います。しかし、cosmeticは「表面的な、外見だけの」という意味であります。これは化けることであり、姿変わりではありません。姿変わりとは、内側から、本質的に変えられるということです。つまり、肉体よりも、霊と魂であります。実は、本当の美しさというものは、内的なものが外に出てくることを言うのであります。ですから、年齢は関係ないということになります。箴言31:30「麗しさはいつわり、美しさはむなしい。しかし、主を恐れる女はほめたたえられる」とあります。叶野姉妹の麗しさは偽りであり、藤原紀香の美しさもつかの間であります。この世は、外側の美しさにお金をかけようとします。しかし、クリスチャンは内面の麗しさを追及すべきでありましょう。これが、本当の姿代わりであり、永遠に続くものであります。Ⅱコリント3章に姿代わりのことが書いてあります。最初はモーセの顔のことが記されています。モーセがシナイ山から降りてきたら、顔の肌が光を放っていたとあります(出エジプト34:29)。その理由は、モーセがシナイ山で主と話していたからです。しかし、その光は時間が経つと消えて行きました。だから、モーセは栄光が消えていくのを人々に見せないために、顔におおいをかけました。そして、また主とお会いすると顔が再び輝きました。人々は輝いた顔のモーセを見ました。しかし、また栄光が消えて行くので顔におおいを掛けました。つまり、律法には限界があるということです。では、新約の時代はどうなったのでしょうか?Ⅱコリント3:16-18「しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」

これは、栄光が一時的なものではなく、だんだんと増し加えられていくということです。つまり、主と交わることによって、聖霊が私たちを栄光から栄光へと変わらせてくださるということです。では、具体的にどうしたら良いのでしょうか。マタイ6章でイエス様は「自分の奥まった部屋に入り」神様と交わるということです。つまり、みことばを瞑想して、主と交わる時を持つ。そうすると、私たちは霊的に麗しくなるということです。私は、メッセージの準備の時は、みことばを真剣に瞑想します。聖書を何回も読んだ後、 その後、目をつぶってあれこれ瞑想すると、必ず主からメッセージをいただくことができます。椅子にひざまずき、目をつぶると、自分が部屋のどの位置にいるのか分からなくなります。目をつぶりながら、主のみこえに耳を傾けます。しばらくすると、思いという画面に、浮かび上がってきます。お祈りには、大きく分けて、求める祈りと交わる祈りがあると思います。求める祈りはけっこう疲れます。なぜなら、こっちが一生懸命、神様に訴えるからです。一方、交わる祈りは、こちらが話すというよりも、「これは、どういう意味でしょうか?」と聞く方がメインになります。こちらが聞くと、主は必ず答えてくださいます。私は「将来のこと、ビジョン、どのように行くべきか、なぜ聞かないのだろうか?」と思います。考えたり、思い悩んだりすることは多々あります。しかし、静まって、目を閉じて、瞑想しながら聞なら、主はきっと答えてくださるでしょう。でも、私たち邪魔するものは、肉であります。肉がそうさせまいと忙しくさせたり、他のことに興味を持たせたりします。はっきり言って、みなさん、人間には解決がありません。イザヤ2:22「鼻で息をする人間をたよりにするな」とあります。人間に相談するのが悪いとは言いませんが、主なる神に解決を求めなければなりません。主こそがベスト・カウンセラーであります。そして、さらにすばらしいことは、主ご自身と交わるとき、私たちが変えられるということです。

 詩篇46:10には「やめよ。私こそ神であることを知れ」とあります。悩みがあるとき、問題にぶち当たった時、困った時、すべてのことをやめて、神様に聞くのです。戸を閉じて、静まって、主と交わりのです。この世は、あまりにも喧騒に満ちています。車の騒音、テレビの音が何時も鳴っています。電話や携帯も切って、人から離れて、聖書1つ手にとって部屋に入るのです。もう、だれも、そこにいません。だから、ひざまづいても、うつぶせになっても、ねっころがっても恥ずかしいことはありません。私の誘惑は本を読んだり、何か作業をすることです。勉強も良いかもしれませんが、それよりも勝るものは、聖書と瞑想です。ザ・ブックと祈りです。みなさん、これが力の源です。勉強をして知識を増し加えても、力は出てきません。逆に、恐れが増してきます。なぜなら、「ああ、まだまだ、知らないことがいっぱいある」と気付くからです。そして、「もっと知識を得なければ」と不安になります。でも、主のとの交わりは、ミラクルがあります。神様が英知を与えてくださいます。英知とはこの世の知恵や知識にまさるものです。今はIT時代で、いろんな知識や情報を得ることができます。もちろん、それも重要です。でも、神様は真理を創造された、永遠なるお方です。この世のすべてのものは変わります。しかし、みことばと神様とご自身は変わることがありません。ここに、私たちの霊のチャンネルを合わせるのです。すると、天国の放送が聞こえてきます。それは一般的なものではありません。あなたのものです。神様が、あなただけにコネクトしているのです。あなたは神様を独占しているのです。そのことは、聖霊様によって可能となりました。昔は預言者だけが、そのことができました。でも、新約時代は聖霊によって、ホットラインが開かれたのです。神様との緊急電話いつでもOK!話し中がありません。問題があっても、主と交わっているとどうなるでしょうか。問題を主にゆだねます。実は、問題と自分が癒着していて苦しかったのです。問題を主にゆだねると、平安がやってきます。同時に、私たちの霊が強められ、信仰が湧いてきます。そして、神様ご自身が、裏から手を差し伸べてくださるのです。

 変貌山で弟子たちは何をお聞きしたのでしょうか?「これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい」。そうです。イエス様に聞くのです。どうぞ、時間と場所を作って、主と交わる時を持ちましょう。私たちの力の源は、密室の祈りにあると言っても過言ではありません。私たちがキリストの香りを放つ秘訣は、御霊によって主と交わることです。こういう複雑な時代だからこそ、みことばと祈りというシンプルなものが必用なのです。みことばと祈りは霊的なライフラインです。これがなければ、私たちは霊的に枯渇してしまいます。鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、主を求めましょう。

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