« 2007年6月 | トップページ | 2007年8月 »

2007年7月29日 (日)

天国の逆説     マルコ8:34-38

イエス様は時々、群集を振り向いて、「私について来たいか?」というチャレンジを与えられました。それは、弟子としてついて来たいかという意味です。つまり、そのようにして群集をふるいにかけたわけです。その結果、「イヤだよ」と去る者もいれば、「分かりました」と決心してついて来る者もいました。イエス様についていくという、弟子の道とはどんな道でしょうか?その教えは、逆説、パラドックスになっています。パラドックスとは「矛盾のようで、実は正しい説」です。もとのギリシャ語では、パラ(反する)とドクサ(栄光)と組み合わされたもの。パラドックス「不思議」とも訳せることばであります。栄光が隠されているわけです。

1.自分を捨て

①捨てるべきもの=自分

34節「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て・・・。」「自分を捨て」は、原文では「自分を否定して」という意味です。弟子の道は、自己否定の道です。私たちが一番難しいことは、自我を捨てることではないでしょうか?だれでも、自分が一番かわいいです。たとえば、集合写真を見るとき、一番最初に見るのはだれの顔でしょう。自分の顔です。他の人はともかく、自分が目をつぶっていれば、その写真は買いません。では、何に対して自分を否定するのでしょうか?それは、神のみこころに対してです。自分の「おこころ」と神の「みこころ」が対立するときがあります。キリストの弟子として、どちらを捨てて、どちらを選ぶべきでしょう?そのとき、神のみこころが正しければ、自分の意思を捨てなければなりません。弟子の道とは、主に従う道です。でも、これが一番、安全で確かな道なのであります。

でも、「自分を否定し、自分を捨てたら、果たして自分はどこへ行ってしまうのだろうか?」と心配になります。ルカ9:25「人は、たとい全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の得がありましょう」とあります。ある英語の聖書では、自分自身をtrue-selfと訳しています。つまり、本当の自分です。つまり、神様のみこころを優先させ、自分を捨てると、なんと本当の自分が出てくるということです。たとえば、ヨハネは雷の子、怒りっぽかったです。しかし、キリストに出会い、キリストに従ってから変えられ、愛の人となりました。パウロも厳しい律法的な人でしたが、寛容な人になりました。自分を捨てたら自分がいなくなるのではなく、神様が用意しておられる本当の自分に出会うことができるのです。

②捨てるべきもの=いのち

自分とは、8:35、36を見ますと「いのち」に置き換えられています。35節「いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。」自分のいのちを守ろうとすることは、人間の本能です。自分が餓死寸前で、もし、ここにパンが1ヶしかないならば、人には与えないで自分が食べるでしょう。イエス様と自分のいのち、どちらが大切でしょうか?言葉を変えるなら、信仰と自分の生活、どちらが大切でしょうか?本日は、選挙の日ですが、ある党は「生活第一」と打ち出しています。生活第一とは、自分のいのちが第一であり、神様は第二か第三か第四ということになります。政党のスローガンはともかく、生活第一で本当に良いのでしょうか?日本人は「経済が安定すれば、景気が回復すれば」と躍起になっています。でも、その前にやることがあるのではないでしょうか。

イエス様はマタイ6章で「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」と言われました。つまり、神様を第一とするとき、すべての必要が与えられるということです。Ⅰ列王記17章にこういう物語があります。ききんのため、やもめと子どもは最後の一握りの粉でパンを焼いて死のうとしていました。そこへ、へエリヤがやって来てこう言いました。「私のためにそれで小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい。」やもめは、「このひとでなし?」と思ったかもしれません。しかし、彼女は行って、エリヤの言葉どおりにしました。すると、「かめの粉は尽きず、つぼの油は尽きなかった」とあります。やもめは、主のことばに従いました。すると、不思議なことが起こったのです。このように、主のために、いのちを失う者はそれを救うのです。

マルコではおなじ「いのち」になっていますが、ヨハネ12章を見ますと、2種類のいのちがあることがわかります。ヨハネ12:25「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。」原文のギリシャ語を見ますと「いのち」は、いわゆる「地上のいのち」「一般的ないのち」です。しかし、そのいのちを憎む、つまり捨てるとどうなるのでしょうか?「永遠のいのちに至る」と書いてあります。こちらの「いのち」は、ギリシャ語ではゾーエーであり、「復活のいのち」「神のいのち」という別のいのちです。もし、私たちが地上のいのちばばかりに気を留め、そればかりを守ろうとすると、永遠のいのちを失ってしまうということです。考えてみると、地上のいのちは長くてどのくらいでしょうか?先日、発表されたところによりますと、日本の女性の平均寿命が85.81歳、22年連続で長寿世界一のようです。皆さん、たとえ、人間が120歳まで生きられたとしても、永遠と比べたらどうでしょうか。しかも、神のいのちは、若々しいいのちです。たとえ、この地上のいのちが30に満たなくても、永遠のいのちをいただいたら、もうけものであります。皆さん、イエス様を信じている人は、もれなく永遠のいのちをいただいているのです。ジャンボ宝くじで3億円当たるのもすばらしいですが、それ以上のものをあなたがたはいただいているのです。

③捨てるべきもの=魂

「いのち」は、ギリシャ語ではプシュケー「魂」と訳せる言葉です。8:35を言い換えるとこうなります。「魂を救おうと思う者はそれを失い。私と福音のために魂を失う者はそれを救う。」私たちの生まれつきの魂は、どういうものでしょうか?創世記3章に書いてありますが、アダムが食べてはならない木から取って食べました。そのとき「ふたりの目が開かれた」とあります。これはどういうことかというと言うと、魂が異常に発達したということです。それまでアダムは、霊によって神様と親しく交わり、神様に聞き従う存在でした。しかし、善悪の木から食べたアダムは、神のように善悪を知るようになりました。つまり、神様に聞かないで、自分の魂で判断して生きる存在になったのです。つまり、自我の塊になったということです。神様を追い出し、「世界の中心は私である」と、自己中心の罪に陥ったのです。しかし、その代償として何を得たでしょうか。霊が死に、代わりに魂には恐れと不安が入ってしまいました。神様から離れた魂には平安がないのです。アダムとエバは、いちじくの葉で自分を覆い隠そうとしました。今日の私たちも同じことをしています。いちじくの葉とは、学歴、お金、持ち物、美貌、権力、名声であります。今も、人間はそういうもので、恐れと不安を隠しているのです。でも、そんなものは一時的であって、決して長持ちしません。

では、魂、自我を捨てるとはどういうことでしょうか?それは、イエス・キリストの贖いを着て、キリスト中心に生きることです。37節「自分のいのちを買い戻すために、人はいったい何を差し出すことができるでしょう。」人は、「自分のいのち」つまり、「自分の魂」を買い戻すために何もできません。しかし、イエス様が私たちの代表となって、この世に来てくださり、ご自身を捧げてくださいました。イエス様が私たちの罪を贖ってくださったのです。だれでも、イエス様を信じるだけで、恵みによって救われるのです。私たちがイエス様を救い主、人生の主として受け入れるときは、自分の魂、自我を捨てなくてはなりません。多くの人は福音を理解しても、イエス様を信じようとしません。なぜでしょう?それは、これまでの自分を捨てなければならないからです。「イエスとやらを信じたら、私自身は一体どこに行ってしまうのだろうか?」と恐れるのです。それまでの自分を失いたくないのです。しかし、自分に諦め、自分の魂、自我を捨て、イエス様を受け入れるのです。同時にそれは政権交代がなされる時です。つまり、心の王座をキリストに明け渡すのです。するとどうなるか?心の中に光が差し込み、恐れと不安が消え去ります。魂に平安がやってきます。

捨てるべきものには3つありました。実は、「自分」「いのち」「魂」はすべて同じものです。ただ、見方を換えただけです。では、それらを捨てたらどんな報いがあるのでしょうか?「自分」を捨てると「true-self 本当の自分」が与えられます。「いのち、地上のいのち」を捨てると、「ゾーエー、永遠のいのち」が与えられます。「自我、魂」を捨てると、「平安な魂」が与えられます。この世の神、悪魔は、盗み、殺し、滅ぼそうとします。しかし、イエス様はこう言われました。ヨハネ10:10「わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つため。私は良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」アーメン。

2.十字架を負って

34節「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」。この世の人たちも「十字架を負う」と言う表現を使うときがあります。その場合、十字架とは宿命的な重荷という意味です。たとえば、家族のだれかに障害者がいたりするとき、その人の世話をすることを「十字架を負う」と言うかもしれません。しかし、それは全く違います、聖書の意味ではありません。家内が私との結婚を決断するとき、家内は「十字架を負って従います」と神様に言ったそうです。すると、私が十字架なのでしょうか。そうではありません。十字架とは無理やり負わされる重荷のことではありません。だれか他の人に対して十字架を負うのではなく、自分のための十字架です。福音書を見ますと、負うべき十字架は2種類あります。第一は、肉なる人を十字架につけること。第二は信仰における迫害を指します。

では、肉なる人を十字架につけるとはどういう意味でしょうか?皆さん、私たちはイエス様を信じたとき、霊的に生まれ変わりました。でも、私たちの魂には肉の性質が宿っていて、天国に行くまで、完全に聖められることはありません。ガラテヤ5章に肉の行いは、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興とあります。毎週、月曜日、ゴスペルの練習(リハーサル)があります。ゴスペルでは、I love youとお互いに言うときがあります。私が姉妹方に近寄って、I love youと手を握ったりすると、避ける人がいます。どうも、私のloveは神の愛ではなくて、いやらしい愛だと勘違いしているようです。確かに、私の愛は100%ピュアーではありません。濁っているかもしれません。しかし、この地上では、肉の性質がどうしても宿っているからです。でも、肉の働きを十字架に渡して死なせると、御霊の実が現れてきます。御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、聖日、柔和、自制です。

もう1つ十字架につけるべきものは、生来の賜物です。ウオッチマンニー著『キリスト者の標準』でこのように教えています。私たちの生来の賜物、生来の愛を十字架によって、処理しなければなりません。私たちは自分の魂によって生きており、自分自身の生来の力によって働き、かつ奉仕しています。私たちは神から引き出していません。いのちがあふれ出る道に立って妨害しているのは、魂なのです。その魂を失って下さい。そうしてこそ満たしがあるのです。ウオッチマンニーは『霊の解放』という本の中でも、魂が砕かれるとき、霊があふれてくると書いてあります。生来の賜物とは、私たちの知性や運動能力、音楽、社交性、雄弁さなどです。あるいは生まれつき、霊感が強いという人もいるかもしれません。しかし、それら生まれつきの賜物は神様を喜ばせることができません。たしかに上手であり、申し分ないかもしれません。しかし、何かがおかしいのです。神の霊が働いていないからです。ですから、もう一度、すべての賜物を十字架につけるのです。そして、神様から聖別された賜物としていただきます。今度は、自分の力ではなく、聖霊の力によって神に仕えるのです。その働きによって、天国の香りが漂い、御名があがめられることでしょう。なぜなら、力のみなもとがあなた自身ではなく、聖霊だからです。

また、十字架を負うとは、もう1つの意味があります。それは、信仰による迫害です。38節「このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるような者なら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るときには、そのような人のことを恥じます。」十字架を負ってイエス様に従うとは、イエス様が受けた迫害や苦しみを甘んじて受けることです。

姦淫と罪に満ちたこの世においてイエス様に従って行く時、必ず迫害を受けるものです。もし、「私はクリスチャンとして生活していて、迫害なんかありません。気持ち良いです」という人がいたら、その人は信仰を曲げて、この世と妥協しているからかもしれません。Ⅱテモテ3:12「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。」親分のイエス様が十字架を負って迫害や苦しみを受けられたなら、子分の私たちが迫害や苦しみを受けるのは当然であります。ある人たちは「祝福や恵みは良いけど、苦しみや迫害はまっぴらごめん」と言うかもしれません。しかし、使徒の働きを見ますと、ペテロやパウロたちは迫害を受けています。神様はある程度は守ってくれたと思いますが、すべての迫害を取り除いてはくれませんでした。つまり、弟子として負うべき十字架があるということです。

 近年、アメリカ周りで「繁栄の神学」が日本の教会に入ってきました。「病や貧困、苦しみは悪魔から来るものである。神が下さるものは、健康と豊かさであり、平安である。苦しみはいらない!」と主張しました。私もそれを完全には否定しません。でも、聖書には何と書いてあるでしょうか?ローマ5章には「患難が忍耐を生み出す」と書いてあります。また、ペテロの手紙1章には、「しばらくの間、さまざまな試練の中で、悲しまなければならない・・・信仰の試練は称賛と栄光と栄誉に至る」とあります。ヤコブ1章にも「さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい」とあります。また、ローマ8章「 もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。」と書いてあります。マタイ5章には「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。・・・喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだからとあります。聖書は、神様があえて許可する、苦しみや試練があると教えています。もし、すべての苦しみを避けて生きようとするなら、薄っぺらい信仰生活を送ることになるでしょう。インドネシアのエディ・レオ師は「苦しみは良いものです。なぜなら、この苦しみに甘んじるとき、神様からの報いがあるからです。苦しみを喜びましょう。私たちは、苦しみに対して逃げない生き方をしたい。苦しみを通して私たちは、栄光から栄光へと変えられるからです。アーメン」と言われました。

中国の地下教会で捕らえられた人たちがこう言ったそうです。「私たちが迫害から守られるようにと祈らないでください。そうではなく、迫害を通して福音が前進するようにと祈ってください」。すごいですね。ある人が幻を見ました。「おお、主よ。あなたの道はいばらの道です」。だが、近くよって、いばらをよく見ると、すべてのとげが折られていたそうです。イエス様が先に通って行かれていたからです。十字架の道は険しいかもしれません。でも、イエス様が通られた道です。そして、イエス様が十字架の重い方を担いでくださっているのです。イエス様は「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです」(マタイ11:30)と言われました。

きょうは分かち合いの日です。前半のメッセージは、「自分を捨てる」ということでした。あなたは神様のみこころが明らかにわかっているにもかかわらず、我を押し通しているところはないでしょうか。みことばよりも、自分の価値観、自分の好み、自分の願いを優先させていないでしょうか?もし、そういうものが示されたならば、主にゆだねて放棄しましょう。そして、新しいライフスタイル、豊かないのちをいただきましょう。また、後半のメッセージは十字架を負うということでした。前半のメッセージと重なるところがあります。罪の性質、悪習慣、ねたみやそねみ、憎しみを十字架に付けましょう。そして、新しい性質を神様からいただきましょう。もし、キリストに従って迫害を受けているならば、喜びましょう。私たちの信仰が試さることによって、金よりも尊いものになるからです。それでは、ともにお祈りしましょう。

| | トラックバック (0)

2007年7月22日 (日)

あなたは、キリストです     マルコ8:27-33

先週は郷里に帰って、代わりに毛利姉、有田姉がメッセージしてくれ、感謝。台風も関東をかすめ大変だったと思う。秋田の方は雨が降らなかったので、自転車で動きまわることができた。本日の箇所は、マタイ16章でも語られている有名な箇所。マルコでは何が強調されているだろうか。

1.イエスはキリスト

 多くの人は、イエス・キリストと言うと、名前と苗字みたいに思っているかも。しかし、キリストは、「油注がれた者」という職名。旧約ではメシヤと言うが、「救い主」と訳すことができる。だから、「イエスはキリスト」とは、「イエスが私の救い主である」と信じるということ。これは大変なこと。Ⅰコリント12:3「聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です。』と言うことはできません」とある。ペテロは自分の考えではなく、神の霊によって、信仰告白できた。私たちも、イエス様を救い主、人生の主として信じられたのは、聖霊の助け、主の恵み。

 この信仰告白のあった場所、ピリポ・カイザリヤとはどういう所か。ガリラヤの北、異邦の地。ヘレニズム時代は、高台にパンの神の神殿があった。紀元前20年、ヘロデ大王の息子ピリポがこの町を支配し、ローマ皇帝に敬意を表して「ピリポ・カイザリヤ」と付けた。つまり、自然神パンと皇帝崇拝がなされた場所。マルコ福音書が完成する頃は皇帝崇拝がますます盛んになり、迫害の時代へ突入。異郷の、偶像崇拝と皇帝崇拝がなされている地で、イエス様は「私をだれと言いますか?」と問われた。しかし、最初は遠回しに聞く、「人々は私をだれと言っていますか?」Bヨハネ、エリヤ、預言者の一人?「では、あなたがたは私をだれと言いますか?」(ぐさっ)。すばらしい教師。まず、イエス様は人に考えさせる。そして、自分で答えを出させるように導く。

 一番弟子と自負していたペテロが「あなたは、キリストです」と答えた。マタイ16章では、イエス様が「あなたは幸いです。あなたに天の御国の鍵をあげよう」と、お褒めの言葉。マルコになぜないか?マルコはペテロから聞いて書いたので、栄光を自分に帰するようなところはカットしたのかも。ペテロは、ピリポ・カイザリヤという偶像崇拝が盛んになされている地で告白。私は秋田に帰ったが、義兄は神社の役員さんのような務め。友人の奥さんはいろんな霊を信じていた。実家にも像や仏壇・・・日本は偶像に満ちた国。そのような国で、唯一の神を信じ、イエスをキリストと告白するのは、生易しいことではない。

 ペテロもそのときは、「イエスはキリスト」と告白できたかもしれないが、イエス様が捕らえられたときには、「私は知らない」と3度も否んだ。自分の身が危ないと思ったときは、否定した。西暦70年前後から、ユダヤ教とキリスト教の迫害がひどくなった。その当時は、カイサルが唯一の主(キュリオス)であった。イエスを主と言ったら、殺される。クオバデスという伝説があるが、ペテロはローマから逃げ去る途中、復活の主と出会ったらしい。その後ペテロは、ローマに戻り、信仰を告白し、逆さ十字架にかけられた。教会の中では「イエスはキリスト、救い主」と告白できるかもしれない。だが、イエス様を知らない、あるいは敵対しているところではどうだろうか。家庭、職場、地域社会においても、「イエスはキリスト、救い主」と告白したい。

2.苦難を経るキリスト

 確かにペテロはイエスをキリストと告白したが、その理解は不完全だったかもしれない。信じる対象自体は正しかったが、キリスト理解がまだ不完全。私たちも、完全に神様やイエス様を知らなければ救われないだろうか。この地上で、神様を完全に知ることは不可能である。だが、救われるための最小限の信仰はあるに違いない。車を運転するのに、車の構造全部知らなければならないだろうか。パソコンを使うのに、パソコンの構造全部知らなければならない?しかし、ペテロや弟子たちは重要なことを見逃していた。それは、キリストが苦難を経なければならないこと。イエス様が31節で「必ず多くの苦しみを受け、捨てられ、殺され、よみがえなければならない」と言われたが、そんなことは信じられなかった。イザヤ書53:1「私たちの聞いたことを、だれが信じたか」とある。イザヤ53章は受難のキリストのキリストを預言している書であるが、「だれが信じられるか」の意味。当時も今も、十字架はつまずきである。

 ペテロはイエス様をいさめたとあるが、キリストが死んだら困ると思ったのであろう。つまり、

イエス様が死んだら、地上における神の国も自分の夢もかなわなくなる。「人のこと」とは、この地上のこと、自分のことという意味。ペテロは信仰告白後、「下がれ。サタン」と言われ、天国から地獄に落とされた感じ。イエス様ご自身も、「多くの苦しみを受け、捨てられ、殺される」のがイヤだっただろう。だから、「必ず・・・しなければならない」と受難の必然性を強調している。おそらく、サタンはペテロの口を借りて、イエス様が受難をパスするように仕向けようとした。「神のことを思わないで、人のことを思う」とは、人本主義、ヒューマニズム。私たちは良かれと思ってしたことが、人本主義になることがある。過剰な親切、過干渉。かまいすぎ。その人のすべきこと(責任、役目)を奪うことになる。その人自身が苦しんで学ぶこともある。

 34節以降に、イエス様がなぜ、十字架で死ななければならないか書かれている。イエス様だって、自分の命は捨てたくなかった。だが、人々の命を買い戻すために、ご自分の命を差し出した。これは、キリストの使命であり、イエス様がこの世に来られた目的。もし、イエス様が自分の命を捨てるのがイヤで、十字架をパスしたなら、人類の贖いはなされなかった。だから、「必ず多くの苦しみを受け、捨てられ、殺され、よみがえなければならない」と言われた。No cross no crown.

 では、私たちにとって、最も大切な信仰とは何か?神様に対して、どういう告白が必要なのか。それは、だれでもない私のためにイエス様が十字架にかかり、罪を贖ってくださったこと。「私のために」が大切。イザヤ53章にも、「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた」とある。人は自分には罪があると気付くまで結構時間がかかる。だが、その後、「ああ、キリストが死なれたのは私の罪のためだたんだ。アーメン」とならなければならない。キリストによる、罪の赦し、罪のあがないこそが、私たちの信仰の土台。岩。

| | トラックバック (0)

2007年7月15日 (日)

「聖霊について」

本日は、奨励の為、原稿が用意できませんでした。

| | トラックバック (0)

2007年7月 8日 (日)

イエス・キリストを知る幸い  【特別礼拝】

本日は、安海靖朗 師による特別礼拝の為、原稿が用意できませんでした。

| | トラックバック (0)

2007年7月 1日 (日)

何か見えるか       マルコ8:22-26

 イエス様は福音書において、数々の癒しや奇跡を行われた。多くの場合、一瞬にしてみわざが起こるが、ここだけは、序々に癒されている。もしろん、他でもそのようなことがあったかもしれないが、この箇所で、イエス様は「癒し」について教えておられるのではないかと思う。

1.奇跡と癒し

 Ⅰコリント12章に御霊の賜物が記されている。その中に、「いやしの賜物」と「奇跡を行う力」がある。奇跡は「力あるわざ」とも言われているが、病の癒しも奇跡的に癒される場合がある。奇跡と癒しの違いをあえて言うならば、奇跡は瞬間的、癒しは漸進的(だんだんと良くなる)。イエス様は両方の賜物で病を癒されたのではないかと思う。25節「すっかり直り」は、「回復させられた」が正しい。つまり、この人の場合は、だんだんと回復したので、むしろ癒しではないか。私は、癒しの賜物にはいくつかの段階があると思う。第一ステージはマルコ16章「信じる人々には次のようなしるしが伴います。・・・病人に手を置けば病人はいやされます」。すべてのクリスチャンはある程度の癒しができる。背骨の矯正、腰のゆがみくらいはだれでもできる。第二ステージは、創造の癒し。片方の足が5センチくらい短い、それが伸びる場合。眼球のない人の目が新たに創られる。歯のない人の歯が生える。つまり、第二ステージは「奇跡」とも言うことができます。しかも、第二ステージの場合は、いつでもできるというのでなく、特別な聖霊の介入が必要。中嶋先生は、「私はあんまり区別していない。だんだんやっていくうちにパワーアップしてきました」と言われた。タラントのたとえ、「だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです」(マタイ25:29)。

2.何度も祈るべき

 イエス様ですら、直すために2度も祈られた。だったら、私たちは何度も祈るべきではないか。Ⅱ列王記13章、ヨアシュが矢を3回放ってやめた。エリシャは「あなたは、5回、6回打つべきだった」。何度も祈ることは不信仰なことではない。むしろ、癒しが染み込んで行くsoaking prayer。エリヤハウスに通っているとき、講師のエッガー夫人は、非常に姿勢が悪かった(猫背)。背骨と骨盤の癒しをした。その後、先生は「目が白内障のため良く見えない」と訴えた。何回か、手を当てて祈ったら「かなり良く見えるようになった」とおっしゃっていた。私たちは奇跡を期待して、瞬時に結果が出ないと諦めてしまう。だが、癒しの場合は、「癒しが染み込んで、だんだん良くなっていくんだ」というイメージをもって行う。真光とか、新興宗教の方々が手を当てて祈っているが、本来はイエス様がなさっておられたこと。私の下の子どもは、喘息気味、歯並びも悪いので、毎晩のように祈っている。まず、身近な人からやってみる。癒しが染み込んでいるというイメージを持つ。

3.途中で様子を尋ねてみる

 「何か見えるか」と、途中でたずねるのは勇気のいること。もし、「何も」と言われたらショック。この人は「人が、木のようですが、歩いて見えます」と正直に答えた。見えていないのに、「信仰によって見えたと信じます」と無理して言うことはない。癒されていれば、何か変化があるのは当然だから、それを繰り返す。何年か前、アメリカからメルボンド師が来られた。聾唖者が前に出てきて、先生が祈られた。「何か聞こえますか?」「・・・」。また祈った。「何か聞こえますか?」「・・・」。3回か4回やっても効果なし。私は海外でこういうことが起こっているので、よっぽど自信があると思った。そして、諦めない真摯な態度に感銘した。中嶋先生は、様子を聞いてから、再び祈る。お医者も、患者さんの状態を聞いて処方する。私はそうしていくうちに、祈られる人も癒しに対する信仰が増すのではと思う。25「見つめていると」は、原文では「しっかりと見ていると」、見ようという意思がある。見ているうちに、だんだん見えてきた。

4.いろいろな方法で祈る

 23節「つばきをつけ」は原文では「目につばきをして」ということ。「ぺっ」と目に唾をかけた。きたないと思うかもしれないが、ヨハネ11章では、つばきで泥をこさえて、目に塗られた。あるときはことばで、あるときは手を当てて、またあるときは何かを用いる。私たちも聖霊に導かれたら色んな方法で祈ってよい。ただし、異性の場合は注意しないとセクハラに間違えられる。ヤコブ5章には「主の御名によって、オリーブ油を塗ってもらいなさい」と書いてある。しかし、いつでもオリーブ油を塗れば良いというのではない。魔法になったり、パターン化してはいけない。イエス様はあるときは、祈らないで「祭司に見せなさい」「家に帰りなさい」と言われたこともある。エリシャはナアマン大将の顔も見ないで「ヨルダン川で七回からだを洗え」と言った。ナアマン大将はエリシャが、主の名を呼んで、患部の上に手を当てて直してくれると思っていた。

5.教祖(カリスマ)にならない

 死人のよみがえりや、重い患者の癒しの場合、イエス様は人払いされました。33節「そこで、イエスは、その人だけを群集の中から連れ出し」と書いてある。イエス様は決して、パフォーマンスで癒しや奇跡を行っていない。むしろ、隠れて癒しのわざをし、それを人に話さないように注意している。これは、7章の聾唖者のときも同じ。なぜか、それは人々は地上的なメシヤ観をもっていた。奇跡で人々が騒ぎ出し、イエス様は町に入って、福音を伝えられなくなった。これは私たちで言うと、自分が教祖のような特別な存在になること。外国でもそうだが、癒しや奇跡を行う人は、特別扱いされ、「あの人しかできない」とカリスマ的になる。そうではない。使徒14章でバルナバとサウロが生まれつきの足なえを癒した。人々は「神々が人間の姿をとって、私たちのところにお下りになったのだ」と言って、礼拝しようとした。二人は衣を裂いて「皆さん、どうしてこんなことをするのですか。私たちも皆さんと同じ人間です」と言った。つまり、癒しをなさるのは、神ご自身であって、私たちは癒しの管(チャンネル)。たとい、死人が生き返ることがあったとしても、栄光は主のもの。しかし、私たちは誘惑に弱いので、自分を何者かに思ってしまう。だから、癒しや奇跡はある意味では危険である。癒すのは主ご自身!私たちは道具。

| | トラックバック (0)

« 2007年6月 | トップページ | 2007年8月 »