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2007年6月24日 (日)

まだ悟らないのですか       マルコ8:14-21

イエス様はわずかなパンで大勢の人たちを養うという奇跡を2回行われた。パン切れがかごいっぱいに集まったということは、奇跡が実際にあったという証拠。決して、精神的に満たされたとか、パンが水でふやかされたということではない。その後、イエス様は15節で「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とに十分に気をつけなさい」と言われた。パン種とはパンを膨らませるイースト菌。だが、パン種が入ると、腐敗が早くなるというデメリットもある。

1.パリサイ人のパン種

パリサイ人とは、聖書の戒めをうわべだけを守っている人たち。彼らは形式的であり、偽善的であった。そのくせ、戒めを守れない人たちを見下げる高慢なところがあった。つまり、パリサイ人のパン種とは、形式的、偽善的、高慢という意味。わずかなパン種でも、パン全体を膨らませる力がある。彼らは外から見たならば、立派で、信仰深く、宗教的であったに違いない。しかし、内側はどうか?マタイ23章には「白く塗った墓のようなものです。外側は人に正しく見えても、内側は偽善と不法でいっぱいです」と書いてある。先月、「ロシア皇帝の至宝典」に行った。ロシア正教会は、きらびやかで贅沢、まさしく宗教そのものであった。

信仰が、形式的あるいは偽善的になるのは何故か?ガラテヤ5:9「わずかのパン種が、こねた粉の全体を発酵させるのです」。律法主義が偽善を生み出すと書いてある。パリサイ人や律法学者たちは、律法の精神を忘れ形だけを守っていくうち、偽善的になった。表と裏、外側と内側の差が出てきた。私は以前、きよめ派に属していた。聖さを求めるのは良いが、パリサイ人たちのように聖くない人たちをさばく。「祈らなければ」「伝道しなければ」「聖くならなければ」という律法からくる弊害・・・信仰生活が抑圧的。ローマ7章にあるように、肉は律法に対して逆らい、全うすることができない。パウロは熱心なパリサイ人であった。パウロは、キリストに出会ってから、自分の力や真面目さではなく、恵みによって生きるようになった。Ⅰコリント15:10「私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです」。パウロほど神に用いられた人はいないが、彼は「私にある神の恵み」と言った。

日本には律法はないが、人の目とか評価(世間体)が律法になっている。本音と建前で生きる。「・・・しなければならない」「・・・らしく」と自らにプレッシャーをかける。過度な責任感、義務感のため精神が病むが増えている。卓球の愛ちゃんと天才少女は、毎日猛練習。日本人は、頑張ればなんとかなると思っている。だが、そこにないのは「神の恵み、神から下る賜物」である。チョー師「日本人ほど勤勉な国民はいない。だが、ウサギ小屋に住んでいる。日本人は神様を信じていないので、稼いだお金が、神様を信じている国に流れるようになっている」。日本人は、神の恵みを知らない。イエス様は、わずかなパンで、大勢の人たちを養われた。神様にはそれができる。イエス様は「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです」と言われた。詩篇127「 主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。あなたがたが早く起きるのも、おそく休むのも、辛苦の糧を食べるのも、それはむなしい。主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる」。私たちの神様は、天と地を造られた供給者。神様の恵みは、生活の必要、能力(タラント)、聖い生活まで及ぶ。

2.ヘロデのパン種

マタイ16章には、「パン種のことではなく、パリサイ人やサドカイ人の教え」と書いてある。ヘロデとサドカイ人が同族。彼らが共通していることは、世俗主義である。ヘロデはローマの代わりにユダヤを治める国主、弟の妻ヘロデヤと結婚しヨハネの首をはねた。サドカイ人は、祭司たちで神殿に仕えていたが信仰的に堕落、金儲けの手段にしていた。世俗主義とは、来世のことを信じないで、この世のことだけのことしか考えない。天使とか霊を信じないで、目に見えるものがすべて。日本の新興宗教もだいたいが、現世利益を説く。宗教を金儲けの手段にしている。

教会の歴史において世俗主義のパン種が入った。イギリス産業革命、フランス革命以降、「人間の力は偉大だ。神から独立」。理神論なる神学が教会に入った。神が世界を創造した後、法則を与え、自然界は自動的に運行。自然(人間)は神なしでもOK.「神は死んだ!」しかし、リバイバルが起こり、信仰的に目覚める。どうしたか?世界を2つに分けた。1つは霊的なこと、神様の分野(信仰、伝道、聖書、神学)。もう1つは世俗のこと(仕事、科学、芸術、教育)。人々は教会で礼拝しているときは聖いことをしていると思った。だが、会社の仕事や政治は俗的なことだと思った。あげくのはて、宗教はこの世のことに口出ししない。教育や政治、公の場に、宗教は持ち出さない。福音派・ペンテコステ派は、霊的なことに熱心だが、この世のことは無関心。

30年前、教会に「この世でも祝福を受ける」という功利主義がはやる。アメリカや韓国、日本、シンガポール、オーストラリアの教会。Bless me, Bless me, Bless me.霊的な分野だけではなく、この世のビジネスでも祝福され、病が癒され健康になる。祝福が目的。もう1つの極端は、そういうご利益はおかしいと、世を離れ霊的なことに集中。しかし、政治とか教育、地域の人たちのニーズには無関心。もっぱら、魂の救いのみにエネルギーを注ぐ。神様にとって、霊的なことと世俗のことの区別はない。ベン・ウォン師「教会はあまりにも宗教的になりすぎている。セルチャーチとは、神の民である私たちが、この世のおける神の民となって、そしてこの世の光として輝くことである」。建物の中で行う日曜日だけが礼拝ではない。建物の外、月曜日から土曜日までも礼拝ができる。それは、何をするにしても、神の御顔の前で行うこと(コランディオー)。

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2007年6月17日 (日)

エパタ、開け        マルコ7:31-37

差別用語、不快用語の訂正。つんぼ=耳の聞こえない者、おし=口のきけない者。英語圏ではそういうことがないが、日本の場合は、残念だが、差別的な意味がこめられているものが多い。

1.肉体的な耳と口

33節「両耳に指を差し入れ、それからつばきをして、その人の舌にさわられた」

イエス様の癒し方は、パターン化されていない。言葉で命じたり、手を置いたり、つばきで泥こねたり、様々である。先日、来られた中嶋師は、その都度、聖霊の促しに従うそうである。

「開け」は受動態なので「(神によって)開かれよ」である。鼓膜なのか、神経の問題なのか分からないが、それまで閉ざされていた聴覚が開かれた。不通となっていた耳の回線がつながった。PAシステムで、音が入らないことがよくある。マイク、ミキサー、アンプあるいはケーブル。神様が設計者なので、癒すことができる。

 

イエス様が天を見上げたのは、父なる神の同意と力を仰いだからだろう。また、「深く嘆息」されたのは、この人に対する深いあわれみ(これまでどんなに不自由な思いをしてきたのかという同情)ではないかと思う。奇跡の力の源は神の力であり、動機はあわれみである。

昨今、介護の問題が取り上げられている。介護を金儲けの手段にしてはいけない。また、自分だけの頑張りにも限界がある。「人々は・・・連れて来て、願った」。協力と、力の源と動機が大切ではないかと思う。

2.霊的な耳と口

肉体的に耳の聞こえない人は、1%以下かもしれない。しかし、生まれつき霊的に耳が聞こえない人は100%である。また、私たちはまことの神に祈ったこともない、口のきけない者であった。だが、クリスチャンになると(回心すると)、霊的な耳が開かれ、神様の声がなんとなく分かるようになる。祈りも最初はもつれたような状態だが、だんだんとなめらかになる。

父なる神(聖霊)は、私たちに大切なことを語っているのかもしれない。しかし、私たちは神様の御声になかなか耳を傾けようとしない。いたずらに動き回り、この世の情報(テレビや携帯)に耳を貸している。Ⅰ列王記19:11,12「しかし、風の中に主はおられなかった。風のあとに地震が起こったが、地震の中にも主はおられなかった。地震のあとに火があったが、火の中にも主はおられなかった。火のあとに、かすかな細い声があった」。 おそらく、聖霊様の声は静かではないかと思う。ということは、私たちが神様の御声を聞くため、静まる時が必要である。

先日、来られたベン・ウォン師。牧師たちは、神様からの促しに応じてやっていないことがある。組織を運営するために、「これをしなければいけない、あれをしなければいけない」と考える。すると教会はしだいに伝統的になる。だが、時には、少し退く必要がある。イエス様は何を望んでおられるのだろうか。思い巡らすことや、評価しなおすことは、非常に大切。毎週、数時間さいて自分の生活を再吟味する。組織を運営するためではなく、神様からの促しをうけて進みたい。少年サムエルは、「お話しください。しもべは聞いております」(Ⅰサムエル3:10)

結構、神様は私たちに語っておられるのかもしれない。「このまま進むとあなたは危ない」「あなたはこのところを変える必要がある」「あなたにこういうアイデァを提供したい」「あなたにこういうことをやってもらいたい」「問題の解決の糸口はここにある」「これこそ隠された真理だ」「あなたにこのことを取り成してもらいたい」。そして、主ははっきりと求める祈りを待っておられる。主よ、「あなたの御声を聞く耳と、あなたにはっきりと求める祈りを与えたまえ」。

3.心の耳と口

ある心理学者が「耳は2つあり、口は1つある」と言った。親はなかなか、子どもの話に耳を傾けることが難しい。子どもがお母さんの顔を描いた。口ばかり大きくて、耳がなかった。営業時には、耳を傾け、丁寧な口調で話す。しかし、家族にはぶっきらぼうということがある。家庭では、なかなか、耳を傾け、丁寧な口調で話すことができない。

クリスチャンになってから、「なんと自分のコミュニケーションがいい加減だったのか」と気づかされた。私たちの耳は、自分の都合の良いこと、自分の意見と同じものしか聞かない。人の注意や批判、自分の意見と違うものには耳を閉ざす。また、口がきけないわけではないが、肝心なことを話す段になると、どもってしまう。単なる礼儀作法ではなく、心からの感謝とか、徳を高めることばは、聖霊の助けなしではできない。ペンテコステの日、弟子たちは「みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに・・・話し出した」(使徒2:4)。

IT時代と言われます。人々はパソコンのE-mailとかチャット、掲示板で話しができるかもしれない。だが、本当のコミュニケーションは顔と顔を合わせて、行うもの。相手の顔を見て、話に耳を傾け、そして、自分も話す。いわゆる、会話のキャッチボール。教会はイエス・キリストによって罪が贖われた人たちの共同体。キリストのからだとしてのコミュニケーション必要。

「神よ。私の救いの神よ。血の罪から私を救い出してください。そうすれば、私の舌は、あなたの義を、高らかに歌うでしょう。主よ。私のくちびるを開いてください。そうすれば、私の口は、あなたの誉れを告げるでしょう。」(詩篇51:14,15)

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2007年6月10日 (日)

機知と信仰に富んだ女        マルコ7:24-30

1.女の信仰

ツロはガリラヤの北、海辺の町。昔は海洋貿易で栄え、Ⅰ列王記ではツロの王ヒラムが神殿のためにレバノン杉を供給。ツロは自然の要塞に囲まれ難攻不落な町で、アッシリアの攻撃にも耐え抜いた。だが、エゼキエル書では高慢の町ツロは「漁師が網を引くところとなる」と呪っている。

      この女性は異邦人、マタイではカナン人の女と言われている。異邦の町の異邦人。ユダヤ人たちは異邦人を「犬」と呼んだ。彼らにとって、犬は野獣、汚れたもの、軽蔑すべきもの。

女性は、自分の娘から悪霊を追い出してくださるようにイエスに願い続けた。英語の聖書ではbegged乞食のように乞う。マタイ15章では「ダビデの子よ。わたしをあわれんでください」と叫びながら、あとについて来た。弟子たちはうるさいから、追い返してくれと頼んだ。

      信仰とは求めること。願い求めること。彼女は娘のために、叫び、足元にひれ伏し、願い続けた。恥も外聞もなく、願い続けた。マタイ15章で、イエス様は彼女に「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように」と言われた。あなたは神様になりふりかまわず祈れるだろうか?

イエス様は一言も答えなかった。最初は無視していた。しかし、叫びながらついてくる彼女に何と言っただろうか?27節「まず子どもたちに満腹させなければなりません。子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」

      もし、プライドの高い女だったら?「なにさ、犬呼ばわりして、ふざけんじゃないわよ!」とさっさと帰っただろう。ツロは高慢の町であった。エゼキエル28:11「あなたは全きものの典型、知恵に満ち、美のきわみであった」。イエス様が冷たくあしらったのは、女を試すためであった。求めても、神様はあなたの信仰を試すときがある。そこから信仰の深化が始まる。プイとくびすを返して立ち去るか、それともさらにへりくだって求めるか?

しかし、この女はへりくだって求めた。28-29「主よ。そのとおりです。でも、食卓の下の小犬でも、子どもたちのパンくずをいただきます。」そこでイエスは言われた。「そうまで言うのですか。それなら家にお帰りなさい。悪霊はあなたの娘から出て行きました。」

      「犬でも結構です。子どもたちのパンくずをいただきとうございます!」イエス様は「そうまで言うのか!」と感心された。パンくずとは、あまりもの、おこぼれでも結構ですという意味。崔しじつ(ハレルヤおばさん)。「はい、あなたは異言が出ましたよ」。祝福を求めに行ったら「はい、祝福します!」ほんの2,3秒。日本からわざわざ来たのに!

あなたは神様に求めるのに、なりふりかまわず、ストレートにもとめられるだろうか?

       ベン・ウォン師が若者に「神様!」と叫んでごらんとチャレンジ!

2.女の機知

この女性は信仰だけではなく、機知にも富んでいた。イエス様も「子犬」と呼んでいる。当時、犬には2種類のことばがあった。マタイ7章の「聖なるものを犬に与えるな」は、ギリシャ語「クノー」野獣、軽蔑すべきもの。しかし、ここは「クナリオン」愛玩用の犬、飼い犬。イエス様は彼女を「犬呼ばわりしたのではない」。やさしさがこめられている。

      これに対して、彼女は「食卓の子犬でも、子どもたちのパンくずをいただきます」と答えた。イエス様のことばにとんちで返した。確かに、飼い犬だったら、食卓のパンくずをいただく。ユダヤ人が子どもであり、自分は異邦人の子犬。パンくずでももらえるはず!

ユーモアとか機知(ウィット)はとても大切。ユーモアは人間の心に訴えるおかしさ。ウィットは知的なおかしさ。

      日本人は深刻しすぎる。なんでもストレート。ギスギスして遊びがない。外国映画などでは、どんな困った状況、悲劇でさえも「笑い飛ばす」ところがある。ふざけても良いということではないが、明るく肯定的に考える必要がある。また、ウイットはユーモアよりも、レベルが上。「あなたのお庭のバラはなんとお綺麗でしょう」。「うちのバラたちは、あなたがなんとお美しい女性でしょう」と言っています。

    聖書にはウィットに富んだ人々がたくさん出てくる。

      出エジプト1章、助産婦たち「ヘブルの女は活力があるので、助産婦が行く前に生んでしまう」

      ヨシュア2章、遊女ラハブは二人の斥候をかくまった。ラハブの家族全員が救われた。

      Ⅰサムエル25章、ナバルがダビデを呪う。妻アビガイルが贈り物を差し出してとりなす。

    Ⅱ列王記5章、ナアマン大将のしもべたち「むずかしいことを命じたらできたでしょう」。

      マルコ2章、屋根をはがし、穴をあけて、中風の友人を寝かせたままで降ろした人たち。

      箴言3:13「幸いなことよ。知恵を見出す人、英知をいただく人は。」

私たちは「神様に求めたけどだめだった!」1回であきらめることはないだろうか?この女性は、イエス様につきまとい、叫びつづけた。無視され、犬呼ばわりされても諦めなかった。しかも、深刻になりすぎず、ウィットに満ちていた。全能者の影に宿るなら、そんなに深刻になることはない。詩篇91:1,15 「いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る」「 彼が、わたしを呼び求めれば、わたしは、彼に答えよう。わたしは苦しみのときに彼とともにいて、彼を救い、彼に誉れを与えよう」。

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2007年6月 3日 (日)

霊的なレントゲン          マルコ7:14-23

 3週間メッセージがなかった。安息年?いろんなタイプがあるんだなーと分かった。最初の丸屋先生とこの間のベン・ウォン師とは「静と動」。神様はいろんな人を用いられる。共通して言えることは(中嶋先生もそうだったが)、みんな説教が長かった。私は30-35分。

1.人を汚すもの

15節はたとえであるが、1-5節の手を洗う儀式と関係している。

パリサイ人たちは外から入る汚れを心配していた(食べ物、手、食器)・・・宗教的汚れ

しかし、イエス様は人(心)の中にあるものが人を汚すと言われた。

  イエス様は外から口に入るものは問題にしていない。19節「かわや」に出されてしまう。

  何を食べるか、器はきよめてあるか、手をきよめているか問題ではない・

  問題のなのは人から出るもの、心の中から出てくるもの・・・これが人を汚す。

心の中に、人を汚すものが本当にあるのだろうか?

人から言われたひとことで、眠れなかったり、一週間くらいイヤな思いが離れないことがある。

日本人は、よく「口は悪いが心は良い」と言う。

エレミヤ17:9「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう」。

   ベン・ウォンは隣の人と互いに「あなたの心は何よりも陰険ですと言いましょう」。

  口語訳「心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている」。

  これは修復不可能、改善不可能という意味。ボロ雑巾のようなもの。

私たちは汚れたことばを受けて育ってきた(親、兄弟、学校で)。

さらに、相手を傷つけることばを出して、仕返ししてきた。

今も、汚れ(悪いことば)が、頭にこびりついたり、心に蓄積しているのかもしれない。

  悪いことばがトラウマ、洗脳・・・私たちを支配

  三日ぼうずね、役立たず、落ち着きがない、くさい、

  こっちも負けずに言い返してきた。

外から入る、食べ物ではなく。私たちの心から出るものが人を汚しているのだ!

イエス様は「悟りなさい」と言われた。病識が大事なように、まず、「認識、気付き」が必要。

  「口は悪いが心は良い」と言ってては、いつまでも治らない。

  「ああ、心の中が汚れているなー。私には神様が必要だなー

   イエス様はマタイ5:3「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです」と言われた。

   

2.悪(罪)のリスト

体の中を診るのはレントゲン、心の中を診るのは「神のことば」である。

ヘブル4:12「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます」。

神のことばはよく切れる剣である。この剣を互いに人に向けるなら教会は「戦場」になる。

     だから、みことばの剣、聖書を自分にあてはめる。

   詩篇119「みおしえ、さとし、おきて、戒め、仰せ、定め」守る、愛する、従う、離れない。

   私たちも神のことばを愛する必要がある。

人を汚すとは、人間関係(共同体)を破壊する罪のことをさす。

たとえば、姦淫や不品行は当人同士の罪ではない。家庭や教会、社会を破壊する。

悪いことば(うわさ、陰口、嘲笑)も、共同体を破壊する罪である。エペソ4:29

   うわさや陰口は、羽のように広がって、後で取り戻すことができない

   今は新しい形でなされている・・・ブログというインターネットの日記・・・韓国の女優が自殺

   殺人も盗みもまわりがひどく苦しむ・・・共同体を破壊する。

イエス様は罪を神学的、概念的なものにしていない。非常に実際的である。

盗み、殺人、姦淫は心から始まり、心の中で最初に犯すのである。

神のことばのレントゲンによって、心の中にこれらの罪がないかチェックする必要がある。

  レントゲン検診で癌がわかったらどうするだろうか?軟膏を塗るだろうか?死に至る。

  みことばによって罪があると分かった。そのままにしていると外に表れる。死に至る。

  癌は初期であればあるほど良い。罪もそうである。根を張ると引き抜くのが大変。

道徳を教えたり、刑を重くしても罪を防ぐことはできない。発端である心を変えるしかない。

①霊的に生まれ神の愛を受ける

  罪のあがないを受ける。イエス様は十字架ですべての罪をあがなわれた。前金。

②きよめと癒しを受ける 

  傷の癒しも必要だが、罪は悔い改めるしかない!構造を十字架につける。

  悔い改めとは方向転換!クリスチャンになっても一生涯続く!

③共同体の中で訓練を受ける

  新しいライフスタイルを身に着ける。盗みから与える人。悪いことば人の徳を高める。

  教会は共同体であり、「どのくらいで人を傷つけるものなのか?」程度がわかる。

私たちは主を見上げ、栄光から栄光へと変えられている。プロセスをだとっている。

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