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2007年5月27日 (日)

新しい文化を作る  ベン・ウォン師 【特別礼拝】

本日は、ベン・ウォン師による特別礼拝の為、原稿が用意できませんでした。

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2007年5月20日 (日)

「口癖の効用」  マルコ 5:25~34 【特別礼拝】

本日は、中嶋長弘牧師による特別礼拝の為、原稿が用意できませんでした。

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2007年5月13日 (日)

健全な人間関係  【特別礼拝】

本日は、丸屋真也 師による特別礼拝の為、原稿が用意できませんでした。

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2007年5月 6日 (日)

宗教のむなしさ        マルコ7:1-13

 キリスト教はユダヤ教を母体として生まれたと言っても過言ではありません。でも、それはキリスト教が全く別な新しい宗教と言う意味ではありません。主イエス・キリストが、古くからあったものを完成し、そこに命を与えたのであります。私たちは、「キリスト教は、この世の宗教ではなくキリストと共に生きることだ」と信じています。しかし、私たちもまた、当時のユダヤ教が陥っていた同じ間違いを犯す傾向があります。なぜなら、人間には宗教性という1つの罪があるからです。私たちも、ぼーっとしていると、信仰を宗教にしてしまうのです。当時のユダヤ教は複雑で形ばかりで命がありませんでした。ともすれば、私たち教会も、複雑化し、形骸化し、偽善的になる恐れがあります。ですから、イエス様が当時のユダヤ教に対してしたことを理解するなら、教会も健全な歩みができるのではないかと思います。きょうは、単なる宗教にならないために、本質的なものは何なのかということを3つのポイントで学びたいと思います。

1.複雑からシンプルへ

 当時のユダヤ教には、道徳的なものから、儀式的な戒めまで、数え切れないほどの戒めがありました。なんと、彼らはモーセの律法の他に、口伝の律法を付け加えていたのです。イエス様は、そのことをマルコ7章で「人間の言い伝え」と言っています。マルコ7:8-9にこのように書いてあります。「あなたがたは、神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っている。」また言われた。「あなたがたは、自分たちの言い伝えを守るために、よくも神の戒めをないがしろにしたものです」。イエス様は、もとからある「神の戒め」に対して、「人間の言い伝え」とはっきりおっしゃっています。ここでは「洗いの儀式」が述べられていますが、確かに、旧約聖書でもそういう記事があります。祭司たちは祭壇の奉仕の前に、衣服や体を清めたとレビ記に書いてあります。しかし、当時、ユダヤ人がしていたことはそれ以上のことでありました。弟子たちが手を洗わないで食事をしたというのは、彼らが不潔だという意味ではありません。ユダヤ人たちが定めた決まりに従って、手を洗っていないという意味であります。つまり、言い伝えを破ったということであります。他にも安息日律法もありますし、神殿に奉納物をささげる律法、結婚や日常生活に関しても、たくさんの戒めがありました。パリサイ人や律法学者は律法を研究し、またその律法を几帳面に守る宗教的な人たちでした。そして、それらの律法を守れない人たちを「罪びと」と見下げたのであります。イエス様はマタイ11章でこのように言われました。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」。「重荷を負っている人」とは、だれでしょう。実際にこのみことばの意味は、律法によってがんじがらめになっている人のことを指しているのです。イエス様は人間的な律法を取り去って、本当の休みを与えようとおっしゃっているのです。

 実は、キリスト教会も2000年の歴史の中で、やはり同じようなことをしてしまいました。それは何かと言いますと、教団・教派が持つ神学や伝統であります。プロテスタント教会は、ローマカトリックが聖書の他に、人間の言い伝えを加えているとプロテスト(反抗)して出ました。そのとき、ルターやカルバンが大活躍しました。その後、信条や教理問答書がたくさん作られました。さらに時代が進むと、神学者たちが学問的にいろいろ研究しました。たとえば、その中に礼拝学というものがあります。公同の礼拝をどのような項目をどのような順番に入れたら良いか。だれがそのように奉仕をすべきか。どんな賛美を歌い、どんな信条を告白し、聖書朗読や互読文はどうしようか。あれこれ取り入れると、礼拝の式順の項目が20個近くになります。この間、訪問した教会は23の項目がありました。よく聞くと、確かにそれを入れる神学的な理由や歴史性があるようです。しかし、プログラムを複雑にすればするほど、自由さとか、命、ダイナミックさが失われます。ビー、シンプルと私は言いたいです。なぜ、シンプルが良いのか?1つは、一般の人は複雑なことを理解できないからです。たとえ、そのときは理解したとしても、それを記憶することができません。だから、私は、礼拝は賛美とメッセージと応答の3つにしています。そして、メッセージ自体もシンプルに、できるだけ分かりやすくしています。大体、私が学者じゃなくてシンプルな人間だからです。かなり前に、聖学院大学設立の説明会に出席したことがあります。公演の中で、ドイツやアメリカの神学者の名前がたくさん出てきました。私はだんだん腹が立ってきて、退席したくなる誘惑と戦いました。「イエス様がそんな難しい話をしただろうか?」と思いました。

 何故、シンプルにした方が良いがもう1つの理由があります。現代の若者たちは長々とした文章や難しい話に耐えられないからです。今の人たちは大体、映像で判断します。目から入る情報が半分以上あるでしょう。だから、一瞬見たとき、あるいは聞いたとき、大体の概念をキャッチしてもらう必要があります。教会でも、絵と文字による、パワーポイントによるデモンストレーションもさかんです。でも、あまり情報が多すぎると、人間の頭が追いつきません。アップ、アップ状態になり、最後には何も残らなくなります。イエス様はシンプルにする天才でありました。イエス様は数え切れない律法をたった2つにまとめました。私たちもこれを理解して、実行するならば、この世の法律や決まりごとを超越して自由に生きることができます。マルコ12:29-31です。イエスは答えられた。「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。」神を愛し、隣人を愛すること、究極的には、この2つの戒めを守れば良いのです。

2.形からまことへ

 イエス様は彼らを偽善者と呼んでいます。イザヤ書を引用し「この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、私から遠く離れている・・・あなたがたは、神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っている」と言われました。つまり、形ばかりで真実がなかったということです。宗教は時間がたつと、どうしても形骸化する可能性が出てきます。「仏教のお葬式でお焼香をするとき、何回、頭を下げるのだろう。どういうことばを使ったら良いのか」と心配になります。そして、自分でも分からないのに「ご愁傷様」などという言葉を使います。教会の葬儀のとき、「初めてなんですけど、どういう袋が良いのですか」という問い合わせがあります。マルチン・ルターがまだ若い頃、市内の教会を訪れました。人々がミサをあげていましたが、あまりにも形式的で驚きました。特に「主の祈り」が、ペラペラとものすごい速さで祈られていて、全く心がこもっていなかったそうです。聖公会では「祈祷書」を今でも使っています。文章的にはすばらしい祈りです。でも、それは自分の祈りじゃないので、そこに気持ちを乗せるのが一苦労するでしょう。私も結婚式やお葬式のとき、いちおう、式文を用います。でも、お祈りはできるだけ、聖霊が与える自由な祈りにしようと思っています。説教者の服装もガウンや背広にネクタイが圧倒的に多いでしょう。でも、私はできるだけカジュアルにしようと心がけています。なぜでしょう?公の礼拝が日常と離れすぎると、いろんな弊害が起こるからです。「礼拝のときだけ、敬虔であれば良い。他は無礼講」。信仰は、日曜日の教会に来ている間だけという人も出てくるかもしれません。神様との交わりは、日曜日の1時間半が大事なのではありません。月曜日から土曜日までどう生きるかの方がもっと大事なのです。

 ですから、私たちが気をつけるべきことは、形でなくまこと(真実)だということです。マタイ23章には、律法学者やパリサイ人たちがいかに偽善的であったかということが記されています。彼らは人に見せるために、経札の幅を広くしたり、衣のふさを長くしました。見栄のために長い祈りをしたり、多くの施しをしました。しかし、イエス様は彼らに「あなたがたは白く塗った墓のようだ。外側は美しく見えても、内側は死人の骨やあらゆる汚れたものがいっぱいだ」と言われました。私は1995年からセル教会の先生と交わるようになりました。それ以前は、大教会の牧師先生と会うと緊張しました。特に韓国の教会から学んだ教会は権威的でありました。みんな偉そうに振舞っていました。私も牧師はそうであるべきだと思っていました。しかし、セル教会の先生方はみんなフラットで自然体でした。偉い人がいないのです。普通、キリスト教会で何かの大会を開く場合、大会会長、大会委員、実行委員、顧問などいろいろな役を決めます。しかし、セル教会の場合は、偉い人がだれもいなくて、みな世話役(コーディネーター)でした。私も数年前から、関東の世話役(コーディネーター)をしていますが、肩を張らずに気楽でOKです。この間も、セル教会の集まりがありましたが、「鈴木先生がコーディネーターなんですか?」と一番驚いたのが、当教会から来た人たちでした。偉そうに見えない、偉そうに見せる必要もない。私にとっては、セル教会のスタイルがとってもあっているなーと思います。ある先生たちは今でも、「牧師は偉いものだ、牧師には権威があるんだ」と主張します。しかし、そういう先生ほど、誘惑に負けて、牧師を辞めざるをえないケースが多いようです。

 Ⅰサムエル16章に「人はうわべを見るが、主は心を見る」と書いてあります。また、マタイ6章には「父なる神は、隠れた所で見ておられる」と書いてあります。ですから、私たちが形だけの宗教にならないためには、たえず真実を追い求めなければなりません。見えるところよりも見えないところ、表よりも裏、こういう礼拝式よりも普段の生活が大切なのです。

3.組織からいのちへ

 きょうは役員の任命式があります。やろうかやるまいか悩みましたが、ある本に「任命式はするべきだ」と書いてありましたので、したいと思います。教会には組織があります。これは宗教法人法で決められているからです。でも、法律で決められた以上の、組織を独自にもうけている教会も少なくありません。つまり、宗教法人法とは別の、きまりごとを定めています。日本キリスト教団では「教憲教規」と言い、改革派では「憲法」と呼んでいます。その中に、教会政治のあり方や組織、あるいは資格について細々と書かれています。こういうことを最初に始めたのが、カトリック教会でした。教皇を頂点とした、ヒエラルキー(階級)があり、制度というか組織が確立しました。プロテスタントでは、ジョン・カルバンが、ジュネーブでものすごいしっかりした教会政治を始めました。現代では、それが模範となっています。一番下には教会の役員会、教会総会があります。次には支区や教区総会があります。さらにその上には全国の総会というのがあります。日本キリスト教団もご他聞に漏れず、「役員会」「委員会」「総会」「総会」「総会」と、会議にものすごいエネルギーをかけています。では、その組織が生きているのか、というと必ずしもそうではありません。また、会議中は議論がなされますが、「本当にそれは意味のある内容なのか、時間の無駄ではないか」とよく思います。正直言って、今年は教団の総会に出席していません。というか、3月末は第一回セル関東に重なり、5月末は第二回セル関東に重なりました。どうしても優先順位を教会形成の方に置いてしまいます。当教会においても、毎月、役員会があり、年に一度教会総会があります。本当に、私はどうにかならないものか?もっと、実のあるものにできないものかと悩んでいます。会議と名がつくと、どうしても会議モードになり、議論の口調になります。私は主の教会においては決議ではなく、コミュニケーション、意思の疎通の方がもっと大事だと思います。確かに、中には決議しなければならないこともあるでしょう。でも、多くの場合は、各器官(からだの器官)の働きを理解し、協力し、共に祈り合うことがもっと大事なのではないでしょうか?みなさん、私たちの手と足が互いに議論しているでしょうか?そうではなく、すべての器官は頭(脳)から指令を受けて動きます。頭とはだれでしょうか?それは、みんなではなく、イエス・キリストであります。教会は民主主義ではなく、キリストの主権に従うキリストのからだであります。ですから、この世の組織や制度を教会にそのまま入れてはいけないとうことです。

 また、教会でもっとも大切なのは、いのちであります。組織や構造よりも、生きているか死んでいるかが重要です。教会に立派な組織や構造があっても、死んでいたらダメなんです。前も言いましたが、私は1995年からセル教会に切り替えようと努力してきました。正直、言って、私はセルにしたら教会は成長するだろうと思ったんです。でも、この間、ベン・ウォン先生がまことにうがったことをおっしゃいました。「死んだ教会が、セル教会になっても、それは死んだセル教会になるだけです。セル教会も1つのシステムです」と言われました。教会にはいろんな組織ややり方があります。セル教会もその1つであります。かつての中国の指導者に鄧小平がこう言ったそうであります。彼は「白い猫であろうと黒い猫であろうと、どっちだって構わない。ねずみを捕まえさえすればそれは良い猫である」と言いました。つまりこういうことです。教会には、監督制、長老制、会衆制、組合制、そしてセル教会があるでしょう。大事なのは組織や構造ではなく、教会に命があるかどうかです。命があれば、どんな組織や構造をとっても良いということです。だから、セル教会にすれば良いというわけではないということです。ガーン。では、どんな教会が生きた、命のある教会でしょうか?いろんなしるしがありますが、1つは救われる人が起こされているかです。細胞ならば、増殖しているかです。教会ならば教会を生み出しているかです。これが1つの見分け方です。命は命を生み出します。しかし、死は命を生み出すことはできません。では、教会の命とは何でしょうか?それはキリストであります。イエス・キリストが私たち一人ひとりに、そして私たちの間に、生きて働いていらっしゃるかであります。ガーン。つまり一番大事なのは、かたちや組織ではなく、命だということです。命!ベン・ウォン先生はさらにこのように言われました。「組織があなたの教会を変えるのではなくて、命があなたの教会を変える。私の命が変わるならば、私の教会も変わる。もしあなたが父親であるなら、あなたの人生が変わるなら、あなたの子どもも変わる。子どもにシステムを用意するのではない、あなたが変わることが大事、命が大事である」。そのようにおっしゃっておりました。ベン・ウォン先生は5月27日の聖日礼拝から30日まで、いらっしゃいます。28日の月曜日7時半から、亀有スペシャルということで、特別なメッセージをしていただく予定です。どうぞ、ご参加ください。

 イエス様は宗教を作るためにこの世に来られたわけではありません。道と真理と命を与えに来られたのです。道とは神を第一にするシンプルな生き方です。真理とは偽善のないまことの生き方です。また、命とはキリストのからだにつながって生きることです。その当時、イエス様と一緒に生活していた弟子たちはどうだったでしょうか?当時の宗教家たちは、あの律法この律法、あの形式この形式、あの組織この組織で、大変窮屈な生き方をしていました。でも、イエス様と一緒にいた弟子たちには自由があり、喜びがありました。彼らはそのことを非常にねたみました。弟子たちは、洗いの儀式なんか気にしないで、食事をすることができました。宗教家たちは「ああ、どうして汚れた手で、パンを食べるんですか!」とクレームをつけました。弟子たちは一度、食べかけた手を休めたでしょう。でも、イエス様は「手ではなく、心が問題です。すべての食物はきよいから大丈夫」と言われました。それでまたパクパクと食べたことでしょう。あるときは、「ヨハネの弟子たちは断食しているのに、イエスの弟子たちはそうしていない」と文句をつけました。イエス様は「花婿と一緒にいる友人たちは断食しないんだ」と言いました。そこで、また弟子たちは、またホットしたでしょう。イエス様が地上を去り、弟子たちが残されました。弟子たちはユダヤ人の組織に入り、ラビから学んだわけではありません。でも、ペンテコステで聖霊を受けてからどうなったでしょう。3000人救われ、さらに5000人が救われ、エルサレム中がそちらに傾き始めました。そのとき、大祭司や長老、学者たちが「ペテロとヨハネが、無学な、普通の人であるのを知って驚いた」と聖書に書いてあります。「無学な」とは、専門に学んでいない、素人という意味であります。当時の宗教家たちから見たら、イエス様の弟子たちは「素人」だったのです。今で言うなら、神学校に行って資格を取ったレバレントだったわけではありません。いわゆる「素人」だったのです。しかし、彼らの中に何があったんでしょう。宗教家たちにはない、聖霊の力、命、喜びがありました。ハレルヤ!初代教会の人たちは、宗教をしていたのではありません。十字架で死んで、よみがえられたイエス様と共に生きていたのです。どうぞ、私たちは宗教的な長い顔、うわずった口調、重々しい服装、仰々しい態度、堅い組織を改めましょう。それよりも、イエス様が共におられることから来る自由と喜びと真実のもとで、シンプルライフを謳歌したいと思います。イエス様を祭り上げるのではなく、イエス様と一緒に生活しましょう。

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