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2007年4月29日 (日)

夜中の三時ごろ         マルコ6:45-56

 本日の聖書箇所を読むといくつかの疑問が起こります。弟子たちは夕方から午前3時まで少なくとも8時間くらいは湖の上にいたことになります。舟の上で何をしていたんでしょう。そんなにも時間がかかるものなのかなーと不思議に思います。また、イエス様が真っ暗な湖の上を歩いてきました。弟子たちは「幽霊だ」と思って、恐れました。イエス様が舟に乗り込まれると、風がやみ、ほどなく向こう岸に着くことができました。イエス様が湖の上を歩いてやって来る、しかし、これがどんな意味があるのだろうか?んー、正直言って、今日の箇所は説教者泣かせであります。みなさんも個人で聖書を読んでいたなら、ぱーっと、あまり考えずに読み過ごしてしまう箇所ではないでしょうか?私の恩師、大川従道先生は、「人生論的アプローチ」で、聖書からよく語られます。私もこの物語を、私たちの人生と絡ませながら、語りたいと思います。

1.人生における向かい風

 弟子たちは漁師でありましたが、思った以上に向かい風が吹きまくっていました。みなさんは、ここでモーターボートとかディーゼル・エンジンの船を連想してはいけません。帆掛け舟を思い出してください。向かい風ですから、帆は使えません。手で漕いでいくしかないのです。8時間も頑張ったので、手もいたいんです。お腹も減ってきて、疲労もたまってきました。そういう状況の中で、イエス様が湖の上を渡って近づいてこられたのです。私たちの人生においても向かい風もあれば、追い風もあります。だいたい、人生を振り返ると順調に行ったことは、記憶からすぐ失せます。それよりも、「あのときは苦労したなー」と辛いことの方がよく残るのではないでしょうか?失業や失恋もあるでしょう。ひどい職場に派遣されたとか、人から裏切られた。赤字で借金だらけだった。事故や怪我、あるいは病気で入院してひどい目にあった。何をやっても失敗の連続だった。こういう記憶の方が、よく残るのであります。

でも、みなさん、そんなとき、イエス様に出会ったんじゃないでしょうか?イエス様に出会ってから、あなたの人生が変わったんじゃないでしょうか?でも、最初は、救い主じゃなくて、幽霊か、悪魔に思えて、受け入れがたかったでしょう。最初から「はい、信じます!」なんて受け入れた人は恐らくだれもいないと思います。あの弟子たちだって、イエス様を「幽霊だ!」と恐れたんですから。でも、どうにかこうにか、メッセージを聞いたり、人の証を聞いて、心が開かれ受け入れた。あるいは、人生の嵐の中で、イエス様と出会うきっかけがあったのかもしれません。聖歌472番に『人生の海のあらし』という賛美があります。「人生の海の嵐に、もまれきしこの身もー、不思議なる神の手により、命拾いしぬー。いと静けき港に着き、われは今、やすろう。救い主イェースの手にある身はいとも安しー。悲しみと罪の中より救われしこの身に、いざないの声も魂ゆるぶることえじー、いと静けき港に着き、われは今、やすろう。救い主イェースの手にある身はいとも安しー、すさまじき罪の嵐の・・・」。みなさん、これが人生であります。人生という嵐の中で、イエス様に出会い、あなたも私も命拾いしたのです。あー、嬉しいですねー、よかったですねー。しかし、クリスチャンになったら、再び人生の嵐に遭遇しませんか?もう、順風満帆でしょうか?向かい風など1つもありませんか?ありますねー。

 あなたはクリスチャンになって、「これが私の生きる道!」と目的や使命を持たれたと思います。クリスチャンになりますと、「食べて寝て起きて、食べて寝て起きて」という人生ではなくなります。おそらく、神様から「このように生きなさい、こういうことをしなさい」と大小の差はあれ、目的や使命をいただいたのではないでしょうか?でも、この世の嵐、向かい風にあったのです。それでもう挫折したり、風にもてあそばれ、しまいには目的や使命を忘れることもあります。どうぞ、まず、あなたが神様からいただいた目的や使命を思い起こしてください。週報にも書いてありますが、あなたが抱いている目標は何でしょうか?次に、向かい風は何ですか?その次には、追い風は何ですかという項目があります。本日は説教後、分かち合いの時間がありますので、このことを分かち合っても良いかもしれません。実はこの考え方は、以前、小笠原先生から学んだ分析法であります。三つの項目がありまして、真ん中に「あなたが目指すこと、目指すものを」書きます。私ならば「日本のモデルとなるようなセル教会」と書くでしょう。みなさんだったら、「自分の賜物を生かす奉仕」とか「宣教の働きの拡大」というのもあるかもしれません。「家でセル集会を開く」とか、「素敵な人と結婚してクリスチャンホームを造る」あるいは、「心身のカウンセラーになる」というのもあるかもしれません。そんな崇高なものでもなくても良いです。「老後は温泉付きの家に住みたい」(私のことですが・・・)。なんでも良いです。あなたが目指すものであります。そして、左側には「追い風」です。これはあなたの目標を達成するために推進力となるものです。人材やお金、聖霊の助け、これまでの経験などがあるでしょうか。いわゆるプラスの要素です。今度は、右側に「向かい風」の欄があります。これはあなたの目標を達成するための妨げになっているものです。不景気の嵐、人材不足、資金不足、能力不足、時間不足、あるいは、反対者がいるかもしれません。マイナスの要素です。

 私の場合は、最初、目標自体が間違っていました。大きい教会と大きな建物、いわゆるメガチャーチを目指していました。しかし、セルチャーチはこのメガチャーチをあきらめなければなりません。人数の多さよりも一人ひとりの質が大事です。つまり、量よりも質を目指さなければらないということです。正直、「ともかく人が集まれば良いーなー」という誘惑があります。これは、たなぼた式のリバイバルです。こういうのは海外に良くあります。私もこういうのを求めてきました。確かにあることはありますが、私が生きているうちにあるかないか分かりません。3億円の宝くじが当たる夢を見るようなものかもしれません。それよりも、聖書的な目標があるはずです。私は数年前から「でかい教会よりも、良い教会を目指すべきだ」と示されています。4月15日付けのリバイバル新聞の大一面にこのような記事がありました。見出しが『牧会を職業にするな』で、ジェムス・フーストン師の公演からのものでした。彼は、現代のキリスト教界の一部にある「教会員が多い教会こそが良い教会」という意識を批判し、教会の人数より一人ひとりの信仰を重視する必要を説き、牧師たちに対し、牧会が機械的になるあまり、人々が疎外されていないかと訴えました。また、神が与えるアイデンティテイを再認識する必要を説き、まず「牧会者としての奉仕を自分の職業にしてはいけない」と述べました。そして、専門意識が高まることは知識の蓄積や職業倫理の徹底といった面で良いにせよ、学位や資格を重んじる弊害を生み出し、世俗化する傾向を持つ。自分が何であるかを職業で定義してはいけない。また「どれだけ成功しているか」で自分を捉えるのではなく、「どれだけ神に忠実に仕えているか」で自分を捉えるべきだと説きました。私よりも先輩の牧師たちの多くは、会社を経営するように牧会してきたようです。目標を誤ると、とんでもないことになります。

 なぜ、向かい風で弟子たちが翻弄されていたのでしょうか?しかも、せっかく、近づいて来られたイエス様を「幽霊だ」と恐れおののいたのはなぜでしょうか?52節「というのは、彼らはまだパンのことから悟るところがなく、その心は堅く閉じていたからである」。この箇所は、イエス様が男性だけでも5000人を養われた奇跡の直後でした。「人々はみな、食べて満腹した」と42節に書いてありますので、弟子たちは、最初は肉体的に満たされていたわけです。いや、心も満たされていたことでしょう。ヨハネ6章には、奇跡の直後、人々はイエス様を王様にしようとしたと書いてあります。弟子たちも大きな夢を抱いたことでしょう。「我らがイエス様は、経済的な問題を解決してくださる王様だ。このお方に着いていけば食いっぱぐれはないぞ。イエス様が王様になれば、俺たちは大臣になれるかも。ガリラヤの一漁師からイスラエル王国の大臣だ!うれしいなー、うれしいなー。やったなー、やったなー。」このように、彼らは肉体的にも精神的にも満たされていたので、多少の向かい風で舟を漕いでも、問題がなかったのではないかと思います。でも、向かい風はおさまりそうもありません。漕いでも、漕いでも、進みません。もうあたりも真っ暗で、どっちが正しい方角かわからなくなったんじゃないでしょうか?彼らの望みは、この世において偉くなることでした。イエス様がヨハネ6章でなんとおっしゃったでしょうか?ヨハネ6:27「なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。この人の子を父すなわち神が認証されたからです。」なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働くことが重要だったのです。私たちがしている仕事、家事、学業、何かを買い求めることも、すべて手段であります。何か重要なポストにつくこと、お金をいっぱい稼ぐことも、偉い人になること、これらは目的ではありません。当時のパリサイ人や律法学者は、虚栄心というパン種によって膨らませていました。しかし、イエス様のパンの奇跡は、神の永遠の命から来るものでした。私たちはこの世の栄華のためではなく、永遠に至るもののために労するべきであります。

2.人生におけるイエス様の介入

 6:48-50「イエスは、弟子たちが、向かい風のために漕ぎあぐねているのをご覧になり、夜中の三時ごろ、湖の上を歩いて、彼らに近づいて行かれたが、そのままそばを通り過ぎようとのおつもりであった。しかし、弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、叫び声をあげた。というのは、みなイエスを見ておびえてしまったからである。しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、『しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない』と言われた」。弟子たちは湖の上を歩いて近づいてこられた方が、まさかイエス様だとは思いませんでした。彼らは、「あれは幽霊だ!」と恐れて叫んだのであります。「イエスは、弟子たちが、向かい風のために漕ぎあぐねているのをご覧になり」とありますように、イエス様は山の上から超自然的に、見ておられました。しかし、イエス様は遠くから見守っているだけの方ではありません。私たちの人生に介入しようと近づいてくださるのです。「湖の上を歩いて、彼らに近づいて行かれたが、そのままそばを通り過ぎようとのおつもりであった」。イエス様も薄情だなーと思います。そのままそばを通り過ぎようとされました。何故でしょう?彼らは湖の上に、8時間もいたわけです。最初は、こんな嵐はたいしたことない、何とかなると思ったことでしょう。なぜなら、彼らの多くは元漁師であり、ガリラヤ湖を良く知っていたからです。おまけに、頭の中には「もうすぐ、イスラエル王国の大臣になれるぞ!」というやましいことを思いがありました。自分たちの経験を過信していたこと、世の欲望があったので、神様に頼ろうとはしなかったのです。おそらく、この8時間、一度も主の名を呼んで助けを求めなかったと思います。だから、イエス様は彼らが乗っている舟のそばを通り過ぎようとされたのではないでしょうか?

 私はよくものをなくしますが、まず、一生懸命自分でさがします。そして、いよいよ見つからないなーというときに、跪いて祈ります。探すために、手足が勝手に動いて、静まろうとしないのです。でも、努力をやめて、静まって祈るとどうでしょう?ふっと、どこからか見つかるんです。また、車でもよく道に迷います。私の車にはカーナビがありません。私はそういうものを頼らないで、地図と感で運転するのが正攻法だと思っています。ある人はそれを「カンナビね」と言いました。学校の春休みに伊東の方まで行きました。熱海から厚木にかけて、有料道路がとても多いんです。しゃくにさわるので、帰りは一般道で厚木まで来ようとしました。しかし、秦野付近で迷い、なかなか、厚木のインターまで来れないんですね。家内は「だれかに聞いたら?」と言いますが、私はあまり人に聞くのも嫌なんですね。もう、30分くらいぐるぐる回って自分がどこを走っているのかわからない。お昼何も食べていないので、コンビニに入って、やっとそこで道を聞きました。悔しいというか、なんでだよーという思いがいっぱいでした。もし、私が一寸、車を止めて祈るならば、そんなに迷うことはなかったと思います。弟子たちは30分ではなく、8時間もそうしていたのであります。まだ、私の方がまだましです。弟子たちは、主に祈り求めなかったのです。だから、せっかく近づいて来られたイエス様を「ああー、幽霊だ」と恐れたのです。クリスチャンになる前はともかく、クリスチャンになってからも、肉に頼るところがあるのではないでしょうか。恐らく、神様に頼らないのは、自分がよく知っていて、経験豊かな分野かもしれません。そういう分野は、とことん、行き詰まらないと、神様に願い求めないのです。ああー、なんと私たちは頑固なんでしょう。

週報にもありますが、

あなたがイエス様に頼ろうとしない分野は何ですか?

とことん打ちのめされた後、祈ったことはありますか?

あなたは今後、どのような態度を取ろうと思いますか?

 どうぞ、このことも分かち合ってください。時間がなければ、前半のポイントもしくは、後半のポイントどちらか選択してください。旧約聖書に「うなじのこわいもの」とあります。これは、馬やロバが手綱を動かしても、首を動かさないことです。転じて、心が頑なで神様の言うことをきかないということです。イスラエルの民は、うなじのこわいものだと言われました。私たちも主が「そうしなさい」とおっしゃっているにもかかわらず、逆の方に行こうとするところはないでしょうか?私たちはとことん、向かい風に、打ちのめされないと、言うことを聞かないのであります。弟子たちは8時間たっても、それができず、イエス様がようやく登場されたのです。しかも、近づいてこられたイエス様を幽霊だと勘違いました。それでもイエス様は「しっかりしなさい。私だ。恐れることはない」と励ましました。「私だ」とは、ギリシヤ語では「エゴー・エイミー」であり、神宣言であります。イエス様は私は幽霊じゃない「神である」とおっしゃったのであります。マタイによる福音書には、弟子たちが「確かにあなたは神の子です」とイエス様を礼拝したと書いてあります。

 では、イエス様が弟子たちの乗っている舟に来られたら、どうなったでしょうか?51節「そして舟に乗り込まれると、風がやんだ。彼らの心中の驚きは非常なものであった。」。おそらく、スムースに、舟は対岸に着いたことと思います。さっきまでの悪戦苦闘が嘘のようであります。みなさん、これがイエス様が乗っておられる人生であります。その当時は、イエス様は山の上におられれば、舟には同時におられませんでした。なぜなら、肉体を持っていたからです。でも、今の時代は、イエス様は聖霊によってこちらにおいでになっておられます。古い英語の聖書は、聖霊をホーリー・ゴーストと呼んでいます。今もそのように呼ぶ人がいます。聖なる幽霊であります。でも、聖霊は、幽霊ではありません。イエス様の霊であり、私たちの人生のただ中に、介入してくださいます。ある人は、「神様どうぞ見守ってください」と祈ります。悪い祈りじゃありませんが、これは「私がやりますので、あなたは見ていてください」という意味合いがあります。これよりも、「イエス様、一緒にやりましょう」「イエス様、一緒に行きましょう」「イエス様あなたが先立ってください。私が後から従っていきます」。こういう信仰の方が、だんぜん良いと思います。どうぞ、神様を祭り上げないでください。信仰は生命保険やアクセサリーではありません。信仰とは小さいことから大きなことまで神に頼ることであります。この間、道を歩いていましたら、危ない目に二度も合いました。一度は私が道を歩いていたとき、急に車が左折してきました。二度目は自転車に乗っていたとき、小路から若者が乗った自転車が飛び出してきました。どちらも、すんでのところで助かりました。交通事故の場合は、こちらが正しくても、相手がいますのでどうなるか分かりません。本当に、イエス様に助けていだだかないと、いつこの命を落とすかわかりません。みなさんの人生、大きいことから日常のことまで、イエス様を歓迎しましょう。

 詩篇107:28-30は、今日の聖書箇所にふさわしいみことばです。「この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から連れ出された。主があらしを静めると、波はないだ。波がないだので彼らは喜んだ。そして主は、彼らをその望む港に導かれた」。聖書には、嵐の記事がいくつかあります。旧約聖書のヨナ書における嵐、マルコ4章と6章にガリラヤ湖の嵐があります。使徒27章は地中海の嵐です。聖書では海は悪魔的なものとみなされています。なぜなら、絶えず変化するからです。黙示録を見ますと、完成された神の国には海がありません。「それがどうした」思うかもしれませんが、この世にいる限りは、海の嵐がつきものなのです。困難の嵐は必ずやってきます。世の人も嵐に遭遇しますし、クリスチャンも例外ではありません。しかし、決定的な違いは何でしょうか。イエス様が私たちの人生に共におられるということです。イエス様と一緒だったら、必ず、乗り越えられるのです。たとい死の嵐がやって来ても、乗り越えられるのです。ここ2週間、当教会で2回の葬儀がありました。香港の新村兄弟の葬儀は中野雄一郎先生が司式をなされました。もう1つは先週、日本キリスト教団系の改革派の葬儀に会堂をお貸ししました。司式は改革派の神学校の元教授でした。ホーリネス系の中野先生は200%の力で、涙を流し、声を張り上げ、勇猛多感に福音を語りました。ある人は歌舞伎のようだと言いました。一方、教団の改革派の先生はぼそぼそ声で、しかも四方山話ばかりで、一体やる気があるのかと思いました。私はPAに座っていて、こんなに違うのかなーと愕然としました。両者とも、詩篇23篇を引用しておられました。中野先生は「たとえ、死の陰の谷を歩くことがあっても、私は災いをおそれませーん」と歌舞伎調に声を張り上げて宣言されました。もう一人の先生は、ただ詩篇23篇を朗読しただけであります。私が葬儀をしてもらうなら、だんぜん、中野先生のようにやってもらいたいなーと思いました。中野先生は、いかに、故人が主の恵みによって、人生の荒波を乗り越えてきたことを語ってくれました。参列者一同は、悲しみの中でありましたが、大きな励ましをいただきました。イエス様が葬儀の中にもいらっしゃるなーと思いました。先生は火葬場でも祝祷され、骨壷の前でも祝祷されました。なんと、四つ木の斎場にも主イエス・キリストがおられるなーと思いました。イエス様はすぐそばにおられます。でも、あなたが自分自身を頼り、呼ばなければイエス様は通り過ぎてしまうでしょう。どうぞ、イエス様を人生のどんな場面でもお迎えしましょう。イエス様をお乗せした、人生という航海を進ませていただきましょう。

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2007年4月22日 (日)

羊飼いのない羊         マルコ6:30-44

本日の午後は教会総会があります。先週は、総会資料の冒頭にあります「伝道牧会のビジョン、4つのM」についてお話しました。その中の4つ目のMは、Ministry であると申し上げました。Ministryとは、「仕える、奉仕する」という意味です。神様は私たちが奉仕できるように、御霊の賜物を与えておられます。私たちは、神様から与えられたおのおのの賜物を用いて、奉仕すべきであります。また、本日の箇所を見ますと、奉仕に関していくつかの注意すべき点が書かれています。神様と人々に仕えることはすばらしいことです。でも、これら3つのことを注意しないと、奉仕者自身が目的を見失い、倒れてしまいます。本日の箇所にあります5000人の給食は、イエス様がなされた、最も華々しい奇跡の1つであります。私たちは奇跡に目が行き勝ちでありますが、見えないところに神様の御心が示されています。奉仕もこの世と同じで、結果重視になりがちですが、そうであってはなりません。見えないところに大切な要素があります。

1.奉仕における休息

 奉仕には休みが必要です。6:31「そこでイエスは彼らに、『さあ、あなたがただけで、寂しい所へ行って、しばらく休みなさい。』と言われた。人々の出入りが多くて、ゆっくり食事する時間さえなかったからである。そこで彼らは、舟に乗って、自分たちだけで寂しい所へ行った」。飛んで、6:45,46「それからすぐに、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませ、先に向こう岸のベツサイダに行かせ、ご自分は、その間に群衆を解散させておられた。それから、群衆に別れ、祈るために、そこを去って山のほうに向かわれた」。マルコ6章の前半に書いてありますが、弟子たちは、短期宣教に遣わされました。彼らは福音を宣べ伝え、病を癒し、悪霊を追い出し、意気揚々として帰ってきたことでしょう。「あんなことがあった、こんなことがあった」と次々と報告したと思います。するとイエス様は「寂しい所へ行って、しばらく休みなさい」と言われました。人々の出入りが多くて、ゆっくり食事をする時間さえもないほど忙しかったからです。イエス様ご自身も、この奇跡のあと、群集を解散させ、祈るために山のほうに向かわれました。ここから学ぶことは、奉仕の合間に休みが必要だということです。子どものころ、「馬鹿も休み休みに言え」と叱られたことがあります。それと似ていますが、「奉仕も休み休みに行なえ」と言うことです。電池も休み休み使うと長持ちします。ゴムもずーっとひっぱられぱなしだと、のびきってしまいます。私たちの肉体と魂には限界があります。ずっとストレスをかけてがんばると、しまいにはバーン・アウト、燃え尽きてしまいます。名古屋の方に「聞き屋」をしていたグループがいました。駅前に出かけ、椅子に腰掛けて、人の話を聞くという奉仕であります。そのグループは、必要を覚えている人には食べさせ、自分たちの家にも泊めてあげました。電話もメールもしょっちゅう来ます。「夜回り先生」という人がいますが、彼と同じようなことをし続けました。しかし3年でバーン・アウトしていまい、牧師は牧会からも離れ、教会も閉鎖しています。

 神様は全能ですが、私たちはそうではありません。いや、創世記には、神様も7日目に休まれたと書かれています。また、本日のテキストでも、イエス様も群集を解散させて、祈るために山のほうに向かわれたと書かれています。イエス様も肉体をもっておられたので、休息する必要があったということです。私も牧会、20年目なので、1,2年は安息年をいただくということになりました。ま、休むと言っても、礼拝説教だけは、やらさせていただきます。説教は牧師の生命線であり、説教することによって牧師自身が生かされるからです。

では、休むことには、どんなメリットがあるのでしょうか?いろいろありますが、心身がリフレッシュされるということです。キリスト教的には、リニューアルの方が良いかもしれません。休むことによって、疲れがとれるばかりか、新しいアイデア、新しい力が与えられます。しかし、日本人は勤勉すぎるところがあって、休むのは一日か二日で、1週間も休むのは入院するときくらいです。「みのもんた」と言う人は、ものすごく忙しいようです。彼はご病気になり、1年くらい前、入院しました。しかし、今は朝、昼、晩、テレビに出っぱなしです。彼のモットーは「仕事は断らない。させられる仕事は喜んでさせていただく」ということのようです。でも、遅かれ早かれ、倒れてしまうでしょう。睡眠時間が3時間以下のようであります。彼はずーっとしゃべっています。でも、新しいアイデアや新しい力がなくなり、視聴者も、同じ顔ばかりで飽きてしまうでしょう。それはともかく、私たちには休息が必要です。イエス様は多くの奉仕をなされていました。しかし、人々のニーズに振り回されていたわけではありません。主導権はいつもご自分にありました。父なる神様にお聞きし、父のみこころに従って奉仕していたのです。その当時、困っている人はパレスチナだけではなかったでしょう。世界中に、困っている人がいたと思います。でも、イエス様はご自分をパレスチナの小さな地域に制限しておられました。「私が働かなければ、会社がなりたたない、家がなりたたない」そういうことはありません。父なる神様が世界を創造し、世界を保持しておられます。私たちは被造物です。神様の御手の中で安らぐときが必要なのです。神様のもとで安らぐとき、神様からすばらしい創造力や新しい力が与えられるのです。

2.奉仕における動機

 奉仕においては動機が大切です。この世においては目に見える結果がすべてであります。スポーツ、ビジネス、学校の成績でも結果オンリーというところがあります。でも、キリスト教の神様、まことの神様は私たちの心をご覧になっておられます。イエスさまはたくさんの奇跡を行いましたが、イエス様の動機は何だったのでしょうか?マルコ6:34「イエスは、舟から上がられると、多くの群衆をご覧になった。そして彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを深くあわれみ、いろいろと教え始められた」。イエス様は、この直後、成人男性だけでも5000人たちの人々の食物を与えました。女性や子どもたちを加えると、1万人以上はいたでしょう。この偉大な奇跡をなされたイエス様の動機は「あわれみ」でありました。ヨハネ6章を見ますと、この直後、人々はイエス様を王様に祭り上げようとしたと書いてあります。人々は「これで食べ物のことは心配ない。イエスこそ経済的な問題を解決してくれる王様だ」と思ったからであります。でも、イエス様はすでに「神の子なら、石をパンに変えなさい」という悪魔の誘惑に勝利していました。イエス様にとって、経済的問題を解決することが第一だったのではありません。また、ご自分がメシアであることを誇示するために、奇跡を行なったのではありません。羊飼いのない羊のような群集をご覧になって、深くあわれんだからであります。私たちの奉仕もこれと同じであります。目をみはるような立派なことをしたとしても、動機が何なのか問われます。使徒パウロはⅠコリント13章で「たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私の体を焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にもたちません」と言いました。あなたを動かしている動機、つまりエネルギーの源は何でしょうか?ある人は、怒りでやっている人がいます。李光雨先生はそれを「怨念晴らし」と言いました。つまり、「馬鹿にしたやつらを、きっと見返してやるぞ!」「オレだってできるんだということを見せて、やつらをぎゃふんと言わせるぞ!」ということです。怒りはものすごいエネルギーを与えてくれます。しかし、怒りは神の義を全うすることができないと箴言に書いてあります。また、ある人は心の傷から動いています。劣等感、プライド、貪欲、競争心、人から認められたい、人から必要とされたい、そういう思いが根底にあります。

私は留学している長男のため、あるところでアルバイトしていますが、自分が一生懸命やるタイプだなーと分かりました。仕事でも、あえて困難なところを選びます。そして、その中で自分が翻弄されつつ、なんとか仕事の山を減らして行く。一途というか、悲壮感にあふれたところがあります。李英洙(ヨンス)先生が私にメシアニック・コンプレックスがあると言いました。ずけずけと、よく言ったもんであります。しかし、そうかもしれないなーと思いました。私の家は8人兄弟で私が7番目。父はあまり働かなかったので、家はかなり貧しかったです。母は長男や長女を頼りにしていました。私は下ですから、あまり期待されていません。でも、母が縄をなっていたので、その藁を打って一生懸命手伝いました。また、母が竹の子(小さな)取りに行くと、私もしゃにむに取りました。一握り15円くらいで売れたからです。子どもながらも、なんとか家をささえなければならないと思っていたのでしょう。しかし、長男や長女、他の兄や姉と比べたら、私のしたことは微々たるものです。せかせかと、動いている私を傍で見て、2種類の人が出てきます。1つは「一生懸命やって偉いね!」とほほえみながら、ほめてくれる人。私はそういう人には一生懸命尽くそうとします。しかし、「牧師のくせにちょこまか動いて軽いね。指導者はもっとどっしり構えなけりゃ!」と軽く見る人がいます。ある人は、「あなたは、こういうところがなってないよ」なとど足りないところを指摘するでしょう。そう言われたら、私は「ああ、そうですか。それでも結構ですよ」と開き直り、もうその人と絶縁(絶交)するでしょう。なぜでしょう?自分は一生懸命やっているという自負心があるからです。ですから、一生懸命も問題であります。なぜなら、自分を動かしているものが、悲壮感、悲しみだからです。

 ピリピ1章には、「ねたみや争いをもってキリストを宣べ伝える者がいる。純粋な動機からではなく、党派心をもって、キリストを宣べ伝えていた」と書かれています。日本のキリスト教会はそういうところがあります。負けたくないあまり、足を引っ張り合うところがあります。また、自己実現のために奉仕をする場合もあります。心理学では自己実現は最も崇高な動機であり、罪であるとは言われていません。でも、ミニストリーを自己実現の場にしてしまうと、キリストの御名があがめられなくなります。「おれがやった」「私がやってあげた」になります。神様は私たちの助けが必要な小さい方でしょうか?私たちが奉仕しなければ、神様は何もできないのでしょうか?神様に手や足や口がないのでしょうか?神様はご自分で何でもできるのですが、あえて私たちを用いてくださるのです。それは私たちと喜びを共にしたいからです。イエス様はエルサレム入場のとき、ロバの子どもを用いられました。イエス様を乗せたロバは、鼻高々だったでしょう。自分が行く先々に、やしの木の葉っぱや、上着が敷かれます。みんな、「ホサナ、ホサナ」と賛美して迎えてくれます。子ろばは「みんな、俺のことを礼拝している。ひょっとしたら、俺は本当は偉いのかも」と思ったでしょう。でも、それは勘違いでした。人々はロバではなく、ロバの上のイエス様を歓迎し、イエス様を礼拝していたのです。ここんところを忘れると、その人の奉仕、ミニストリーは台無しになります。おいしいスープにハエが1匹飛び込んでしまいました。みなさんは、ハエをスプーンでどけて、残りのスープを食べますか?そんなことはしないでしょう。皿に入ったスープ全部を捨てるでしょう。同じように、私たちの動機が汚れている場合、その奉仕全体に影響を与えてしまいます。動機は、表面に出て来ないので、最初はわからないかもしれません。でも、キリストのかおりがしないのです。私たちは動機をきよめていただく必要があります。イエス様のように、愛とあわれみという、ピュアーな動機で奉仕をしたいと思います。

3.奉仕における主役

 奉仕における主役はだれでしょうか?私たちは神様のためにやっていると思っているかもしれません。でも、神様が私たちを用いているのであって、主役は神様なのです。いかなる奉仕であっても、神様が私たちを通して働くのであって、私たちが神様を助けるということではありません。本来、神様は全知全能であり、私たちの助けを必要とされません。献金もそうであります。神様は私たちのお金が必要なほど貧乏なのでしょうか?そうではありません。神様は全宇宙、全世界を創造された万物の所有者です。私たちがささげなければならないほど貧しいわけではありません。神様が求めておられるのは、私たちのささげる心であります。本日の聖書箇所を見て見たいと思います。人間がやることと、神様がなさることとがはっきりわかります。弟子たちは群集を見て、パンがどれくらい必要か見積もって見ました。おそらく1万人位いたでしょうから、200デナリのパンでも足りるかどうかという計算をしました。200デナリは今なら、200万円です。1万で割ると、一人200円です。パンが2つくらい買えるかもしれません。しかし、37節を見ますと、イエス様は弟子たちを試しているのがわかります。37節。すると、彼らに答えて言われた。「あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。」そこで弟子たちは言った。「私たちが出かけて行って、二百デナリものパンを買ってあの人たちに食べさせるように、ということでしょうか。」答えは、200デナリものパンを買って来ることではありません。イエス様はすでにどうするか考えておられたのです。現実には、5つのパンと魚が2匹でした。「現実は厳しい」といいたくなります。でも、イエス様はその5つのパンと2匹の魚を用いて、奇跡を起こしました。イエス様は、全くなにも無いところからでも、奇跡を起こすことができたでしょう。でも、あえて、わずかなパンと魚を用いて奇跡を行なったのです。では、弟子たちの奉仕、ミニストリーとは何だったでしょう?イエス様が命じられたように、人々を100人、50人、と固まって席につかせました。イエス様が5つのパンと2匹の魚を取り、天を見上げて祝福しました。そして、パンを裂きました。おそらく、そのとき、パンがどんどん増えていったことでしょう。弟子たちの奉仕は、イエス様からパンを受け取って、人々に配ることでした。魚も同じです。ここに奉仕の重要なポイントがあります。5000人、いや1万人の人々を養った奇跡の主役は、イエス・キリストであります。弟子たちは、イエス様が増やしたパンを人々に配ったのです。つまり、イエス様と人々との間に立ったわけです。病の癒しも同じです。ベニー・ヒンが癒すのではありません。聖霊様が人々を癒すのであり、ベニー・ヒンは癒しのチャンネル、管にすぎません。私たちは器が大事だといいます。いいえ、器よりも器を用いる神様のほうが大事なのです。

 神様はロバのあごの骨も用います。私たちはディボーションで士師記を読みました。神様はかなり問題のあるサムソンを用いました。サムソンは女性に弱い人でした。あるときサムソンはペリシテ人に囲まれたとき、道端におちていたロバのあごの骨を用いました。ペリシテ人はその当時、最新の武器である鉄の剣を持っていました。イスラエル人は棍棒か、良くて青銅の武器でした。しかし、サムソンが用いたのはロバのあごの骨でした。それで、1000人を打ち殺しました。聖書を見ると、神様は取るに足りないものをあえて用いられます。ギデオンの家はマナセのもっとも弱い分団であり、ギデオンはその家で一番若い人でした。神様はそういうギデオンを用いたのであります。また、将軍シセラを倒したのはバラクではありません。一人の女性が、天幕の鉄のくいで、彼を倒しました。アビメレクは町を火で焼き、破壊しました。しかし、ひとりの女性がアビメレクの頭にひき臼の上石を投げつけました。彼の頭蓋骨が砕けました。なんと、ひき臼の石であります。戦いの主役はだれでしょうか?サムソンであり、ギデオンであり、女性たちでしょうか?あるいは、ロバのあごの骨、たいまつ、鉄のくい、ひき臼の石でしょうか?そうではありません、主であり、神様です。神様がそういう人や器具を用いて、敵を倒したのです。私たちはどうしても、器に目が行きます。「ああ、あの人は神の人だ!すばらしい器だ!」そうではありません。バプテスマのヨハネは「神はこの石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになる」と言いました。私たちは神様の器であり、道具なのです。主役は神様です。ペンテコステ教会やカリスマ教会は、神様よりも、人間に栄光を当ててしまいます。それは、栄光のどろぼうであります。神様はすべてのものを私たちと分かち合いたいと願っていますが、栄光だけは別であります。栄光は神様だけのものであり、牧師や伝道者のものではありません。ハレルヤ!

 この奇跡から学ぶことは、私たち奉仕者は神様との間に立つ仲介者みたいなものだということです。5つのパンと2匹の魚を差し出したのは人間(子ども)です。大群衆に対して、本当にわずかな量であります。でも、それをイエス様のところにもって行きました。そして、パンと魚を増やしたのはイエス様でした。奇跡を行なわれる方はイエス様です。そして、その増えたパンや魚を群集に配ったのは弟子たちでした。私たちも神様からの恵み、神様からの力、神様からの知恵、神様からの賜物を人々に手渡すことによって仕えることができます。しかし、あくまでも私たちは仲介者に過ぎません。みわざをなすのは、神様であり、イエス・キリストであり、聖霊様です。牧師もそうであります。もし、私が人々を救い、教え、諭し、導き、弟子に作り変える・・・とんでもないことです。もちろん、みことばを語り教える必要はあります。でも、人々を救い、人々を変えるのは神様です。私たちも癒しの祈りをしますが、祈るのは私たちであり、癒すのは神様です。また、私たちは福音を伝えますが、救うのは神様です。奉仕も、神様が私たちを御手で握って、私たちを用いるのです。私たちはロバのあごの骨であり、たいまつであり、鉄のくいであり、ひき臼の石くらいのような存在です。だから、あんまり緊張する必要もありません。また、何かできたからと言って誇る必要もないのです。「私のロバのあごの骨はものすごく硬いぞ!」「いや、私のロバのあごの骨の方が硬い!」そういう馬鹿馬鹿しい自慢をするのは愚かなことです。でも、実際はやっています。大きい教会は、小さい教会を見下すところがあります。小さい教会は、大きい教会に対して卑屈になるところがあります。でも究極的には、大きい、小さいは、神様がそうしているのであります。器が大きいとか器が小さい、これも神様がお決めになることです。私たちは与えられたものに忠実であれば良いのです。奉仕、ミニストリーで忘れてはならないことは、私たちは神様の道具だということです。いや、道具に徹するべきだという方が良いでしょう。

 本日は、奉仕、ミニストリーの心得みたいなものを学びました。なぜ、神様は私たちを用いたいのでしょうか?その答えは、マタイ25章のタラントのたとえにあります。マタイ25:23をお読みして終えたいと思います。これは2タラントもうけたもべに対して言ったことばであります。「その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』」全能なる神様が私たちを用いるのは、喜びを共にしたいからであります。

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2007年4月15日 (日)

伝道牧会のビジョン(4つのM)   マタイ6:9-10 

聖務表によりますと、本日のメッセージは「信じようとしなかった」でありますが、先週そのことも話してしまいました。ですから、本日は、予定を変えまして総会資料に基づいたお話をします。教会員でない方は資料がないので、まことに淋しい気がするかもしれません。でも、どういう教会を作りたいかというビジョンに関しては、来られている方みんなに理解してもらいたいと思います。総会資料の中身をそのまま週報に書いてありますので大丈夫です。一番上に「伝道牧会のビジョン、4つのM」とテーマがあります。英語の嫌いな方には大変申し訳ありませんが、頭文字Mでみんな統一しています。むりやりに当てはめたという見方もありますが、自分では大変気に入っています。なぜなら、神様が与えてくれたような気がするからです。いわゆる「導き」であります。牧師は何でも「導き」にしてしまうので危ない気もしますが、一緒に学びながら、主を礼拝したいと思います。

1.Meditation

第一はMeditationです。Meditation とは、上なる神様との関係です。主の祈りのように、「御名があがめられ、私自身に御国が来るように」ということです。このMeditationは、神様との交わりであり、礼拝をコンパクトにしたものです。ところでMeditationとは、「みことばを瞑想する、黙想する」という意味です。教会では、ディボーションとか、QT(静思の時)などと言います。東洋の蝉やヨガでも瞑想をします。しかし、彼らの場合は、人格のない神様であります。私たちの場合は、この世界を創造し、私たちを愛しておられるキリストの神様と交わるのです。神様との交わりのときに欠かせないのが聖書であります。神様のラブレターである聖書を、自分に語られた神のみことばとして瞑想しながら読むわけです。でも、従来はこういうやり方をしませんでした。だれかが書いたディボーションの本を読んで、ディボーションしたわけです。榎本保郎先生の『旧約聖書一日一章』とか、スポルジョン、FBマイヤー、カウマン夫人などの本がたくさんあります。でも、それらは人が作った料理であり、レトルト食品です。でも、自分で聖書を聖霊の助けを借りながら読むと、「こんなことが書いてあるのか!」と新しいことを発見します。また、その日に必要なみことばの糧、あるいは神様の励ましや約束をいただくことができます。

私は前の教会から早天祈祷会に出席し、亀有教会に赴任してからもしばらく早天をやっていました。しかし、ディボーションと出会ってから早天祈祷会をやめました。今までは、人に教えるため、人に語るために聖書を読んでいました。でも、ディボーションは神様とのデートみたいで非常に楽しいです。マイペースで読めるし、何を祈っても良いんです。神様との交わりは、スウィート、甘い楽しいひとときです。多くの孤児を育てた、信仰の父ジョージミューラーという人がこのように言いました。「以前は、朝起きてすぐ祈りました。はじめの30分以上は、いろいろな心の騒ぎや雑念に悩まされました。でも、聖書を黙想してから祈ると、する実際的な交わりに入ることができます。私が気を一番使うことは、私が神様のために何をするか、何をすべきかということにあるのではなく、自分の魂が幸福の状態に至ることです。自分の魂が幸せにならないで、人を教えたり、苦しんでいる人を助けても、それは中身のない空っぽのものに過ぎません」。アーメンです。

でも、みなさん、私はインドネシアのエディ・レオ師に会ってから、朝のディボーションだけではダメだということが分かりました。17世紀にブラザー・ローレンスという人がいました。彼は神学者ではなく普通のクリスチャンでした。彼は、コックであり、修道院の厨房で料理を作っていました。しかし、彼は「コランデォー」と言う、神の臨在の前に生きるということを実践した最初の人物です。彼は父なる神と24時間、親しい関係を持つということをしました。彼は父といつもどのように語るかを学び、「神の臨在を実践する」と言う本を書きました。その本は、400年にわたるベストセラーであり、ほとんどの有名な牧師が影響を受けたそうです。彼がしたことは、とても単純でした。料理を作っているときに、神様と話しました。「お父さん、感謝します」と、毎日、話しました。彼の人生に何が起きたでしょうか。福音を宣べ伝える必要がありませんでした。食事を持ってきてくると、人々が彼の顔を見て、「ああー」と涙を流して悔い改めました。なぜなら、彼の顔が神の栄光に満ちていたからです。彼の本から学んだ人にチャールズ・フィニーがいます。彼がある工場に行きました。工場では人々が機械のそばで働いていました。チャールズ・フィニーは説教しないで、ただ、この工場を歩いて過ぎ去るだけでした。人々が彼の顔を見たら、「ああー」と倒れた。みんなその床に倒れました。チャールズ・フィニーは非常に力強い人でした。なぜなら。彼はこの神の臨在と言うことを実践したからです。私たちも「コランデォー」、主の御目のもとで生きる、主の臨在と共に生きるということです。お仕事中も、家事をしているときも、学校で勉強しているときも、道を歩いているときも、主の御目のもとで、主とともに生活する。これはものすごく力があります。

2.Mentoring

Mentoringは内である兄弟姉妹との関係です。 Mentoringというのは、ギリシャの叙事詩からきたもので、戦争に出かけた父の代わりに、子どもを育てる人です。父代わりですから、それだけ信頼の篤い人だったわけです。現代では、Mentoringと同じような意味で、コーチング、ファーザリングなどがあります。私はファーザリングが好きなのですが、「女性にはどうかな?」と思って、Mentoringにしました。では、聖書のどこそのような考えがあるのでしょうか?Ⅰヨハネ2章には教会には3種類の人がいると書いてあります。第一は子どもたちです。神様と出会って罪の赦しを経験した人です。第二は若者たちです。悪い者である悪魔に打ち勝ち、神のみことばに留まった人です。第三は父たちです。この人は父なる神様の心を持った人です。また同時に、霊的な子どもを育てている人です。一般の世の中でも、成人になればみな父になれるわけではありません。子供を生み、育てている人が父であります。同じように、クリスチャンも時間がたったら父になれるわけではありません。自分のことばかりではなく、霊的な子供を養育する人が父であります。総会資料の表紙には、カタツムリのようなイラストがあります。子ども、若者、父となっています。でも、父と子どもが接するところがあり、「養育」と矢印がついています。で、カタツムリはどこを見ているかというと、イエス様の似姿になることです。どこに進んでいるかというと、マタイ28章の大宣教命令であります。亀有ですから、亀のイラストに直しても良いと思います。

それはともかく、私は当教会においてセルチャーチを目指してきました。昔は神様と私の関係で良いと思いました。祈祷会で「隣に座っている人と一緒に祈りましょう」なとど言われるとぞっとしました。皆さんの中でも、「さあ、席から立ってお互いに挨拶しましょう」と言われると「イヤだなー」と思う人がおられるでしょう。それと同じです。でも、聖書には「互いに」ということばが、たくさん出てきます。「互い」にというのは、だれか他の人がいないとできないことです。人間は人間関係、つまり共同体で生きる生き物です。人間関係がうまくいくと幸せであり、人間関係がうまくいかないと不幸せなように造られているのです。今まで、人間関係で嫌な思いをし、たくさん傷ついたかもしれません。でも、教会は新たな人間関係によって、その傷を癒す場であります。父や母に似た人がいます。兄や姉に似た人がいます。あるいは私を傷つけた人物に似た人がいるかもしれません。人間関係で得たこのトラウマをどのように癒すのでしょうか。神の国の人間関係であります。主にある兄弟姉妹の交わり、「互いに」によって、心の傷が癒されるのです。だから、聖書には「互いに愛し合いなさい」「互いに励ましあいなさい」「互いに赦しあいなさい」「互いに祈り」「互いに慰め」「互いに戒め」「互いに重荷を負いあいなさい」と書いてあるのです。でも、私たちは自然のままだとこういうことができません。だから、小グループ、セルを作ることにしたのです。教会によっては、壮年会、婦人会、青年会があります。でも、そういう不特定多数の会衆では深い内容を話すことができません。秘密を守り、お互いに責任を負い合えるセルグループが必要です。そこに参加した人は、すばらしいことを体験します。イエス・キリストは個人の中にいるだけではなく、私たちの間にいらっしゃることを。コロサイ1:27「この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです」と書いてあります。

でも、その中のリーダー(メンター)はとても重要です。セル(細胞)には核があり、核はDNAを持っています。セルグループの核にあたる人がセルリーダーです。セルリーダーに何が一番必要なのでしょうか?それは「父の心」です。私たちの神様は天の父ですが、天の父と同じ心が必要です。日本人の「リーダー」は、石原慎太郎のように強い人をイメージするかもしれません。でも、聖書のリーダーは、メンター、父の心を持った人であります。現代は父が必要です。日本人には父がいません。人々は父をさがしています。それは天の父であり、父の心を持った人です。もちろん、メンターは女性でも可能なのです。お互い、父の心を持つ者になりましょう。

3.Mission

3つ目のMはMissionです。Missionは外であるこの世との関係です。もともと、Missionは「使命をおびて派遣される」という意味があります。クリスチャンはこの世に派遣されている存在です。でも、何のためでしょうか?神の国の福音を伝えるためであります。そういう意味では、クリスチャンはすべて伝道する義務があるんです。でも、「伝道」と言われると、急に緊張して何も言えなくなります。私は伝道という言葉はあまり好きじゃありません。マタイ24章にすばらしいみことばがあります。マタイ24章は世の終わりについて預言している箇所です。イエス様は「世の終わりには偽キリスト、戦争、地震やききんが起こりますよ」と言われました。もう1つの兆候は、マタイ24:14「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから世の終わりが来ます」とあります。私は福音が宣べ伝えられるというところにしか目が行きませんでした。しかし、みことばには「この御国の福音は、すべての国民にあかしされ」とも書いてあります。これはどういう意味でしょうか?それは御国の福音を体験した人が証をするのです。そしてそれが国レベルに達するということです。だれか伝道者がメッセージするたけではなく、クリスチャン一人ひとりが、派遣されたところで、御国の福音を証するということです。「私にそんな大それたことができるでしょうか?」と言われるかもしれません。イエス様はマタイ5:14「あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません」と言われました。クリスチャンが世の光だということはだれでも聞いたことがあるでしょう。でも、後半の「山の上にある町は隠れる事ができません」とはどういう意味でしょうか?夜、山を見ますと、そこに家々があると灯りが点在しています。熱海なんか行くと、山中が灯りです。みなさん、クリスチャンがどこにおいても、イエス様と共に生きていますと、世の人が「あなたはどこか違うなー」と認めるということです。「柔和だし、謙遜だし、従順だし、愛があるし、誠実だし、やっぱり世の人とは違う」と、バレてしまうとうことです。イエス様は「世の光になれ!」とは言っていません。もう、あなたはすでに性質が変わり、世の光になっているんですね。だから、バレてしまうということです。

私も「伝道」というと、ストレスを感じてイヤになります。かつてした、宇都宮の路傍伝道はしたくありません。でも、職場の人や地域の人と友人になって、その人を愛して、その人に仕えて行く。その人をクリスチャンにするという駆け引きではありません。その人がクリスチャンになるならないは関係なく、福音の愛で愛する。つまり、人間関係を作りながら、福音を伝えるということです。チャンスが来れば、自分の救いの証をすることもできるでしょう。総会資料の「新年度の目標」に、「この1年、3人以上の未信者と友人になり、福音を証する」と書いてあります。みなさん、これやってみましょう。私もやりたいと思います。牧師は人に「やれ」「やれ」と言って、自分でやらない人が多いですね。でも、セルチャーチの牧師は、模範も示さなければなりません。私も世の中に出て行って、未信者の友達を作ります。その人が救われる、救われないは神様の問題です。でも、福音を宣べ伝え、福音を証するのは私たちの義務であり、特権です。香港のベン・ウォン師は、私たちにものすごいチャレンジを与えています。セル集会をどうして、教会という建物の中でやるんだ。なまじっか教会があるからダメなんだ。教会が焼けてしまえば良いとまで言います。うゎー、過激ですね。日本人の家の多くはうさぎ小屋ですから、10人も一緒に集まれる部屋がありません。だから、うちみたいに教会堂という建物があるのは、とても良いことです。でも、私たちはこの教会堂でなんでもかんでも行なおうとします。そのため、未信者がなんでもかんでも、亀有教会に連れて来なければ始まらないという考えを持ってしまいます。ベン・ウォン師が言っていますが、教会とは建物ではなく、私たち一人ひとりです。私たちが遣わされたところが教会なんです。海にはヤドカリがいます。みんなお家を背負っています。私たちも教会を背負って、歩き回っている存在です。伝統的な教会は牧師が人々に洗礼を授け、聖餐式を行ないます。でも、本当のセルチャーチは、信徒が自分の導いた人に洗礼を授け、セル集会で聖餐式を行ないます。だから、伝統的な教会から、「秩序が乱れる」と、危険視されているところがあります。でも、初代教会はそうでした。もちろん、教会堂でセルの集まりを持っても構いません。でも、いつも忘れないことは、セルが外向きになるということです。新しい未信者を加え、増殖するというゴールを持つということです。人間の細胞もたえず増殖しています。古い細胞が死んで、新しく生まれ変わっているのです。セルも同じ人で2年も3年もやらないでください。増殖して、新しいセルを作るのであります。あなたが、新しいセルのリーダー(メンター)になるのです。「世の中に出て行って福音を証し、新しい人を加え増殖する」これがセル教会Missionです。

4.Ministry

4つ目のMはMinistryです。Ministry はキリストのからだ(教会)との関係です。ministerは大臣とか聖職者という意味があります。でも、もともとは「仕える、奉仕する」という意味があります。神様は私たちが奉仕できるように、御霊の賜物を与えておられます。Ⅰコリント12章には、知恵、知識、信仰、いやし、奇跡、預言、霊を見分ける力、異言、異言を解き明かす力など、9つの賜物が記されています。ローマ12章やエペソ4章やⅠペテロにも記されています。Ⅰペテロ4:10-11「それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。語る人があれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕する人があれば、神が豊かに備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。栄光と支配が世々限りなくキリストにありますように。アーメン」。ここには、「それぞれが既に賜物を受けている」と書かれています。私は人がイエス様を信じたときに、一緒に、聖霊の賜物も与えられると信じます。神様は「その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい」と言われています。教会はキリストのからだにたとえられていますが、1つ1つの器官は、霊的賜物であります。種類や働きがそれぞれ違いますが、キリストのからだにつながっています。個人プレーではなく、それらがしっかりと組み合わされる必要があります。私はイエス様を信じてから、まもなく、「ああ、キリスト教信仰を分かりやすく教えたい」という篤い思いが与えられました。それはローマ12章の「勧める」賜物と一致していました。ある人は捧げる賜物の人がいます。先週、イースターの昼食愛餐会がありました。そのとき、お赤飯を大量に持ってこられた方がいました。私は「ああ、その方は捧げる賜物のある人だなー」と思いました。韓国の申賢均先生は「私は食べる賜物がある」と言われました。伝道のほかに、食べる賜物があったということでしょうか?他にもたくさん神様が与えた賜物があるはずです。使命感だけで奉仕すると長続きしません。でも、賜物でやりますと、喜びがあるし、あまり疲れません。

 総会資料に「何か奉仕を1つ見つけてそれを行なう」と書いてあります。もちろん、この奉仕とは教会内だけのことではありません。自分が遣わされている場所も含まれます。世の中の人は損得、利害関係で生きています。でも、クリスチャンは隣人を愛します。会社に行けばイヤな上司がいるでしょう。その人はあなたをコントロールしようとするでしょう。もしかしたら、その人はあなたの奥さんかご主人かもしれません。でも、マタイ5:41,42「あなたに1ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに2ミリオン行きなさい。求める人には与え、借りようとする者は断らないようにしなさい」とあります。一見、共依存のように思えますが、いやいやながらではなく、自分の意思で従っているので、結局は相手に勝利しているのです。イエス様は元来、王の王なのに弟子たちの足を洗ってあげました。世の中の人は、下手に出たら何をされるかと戦々恐々と生きています。でも、私たちはイエス様のように人々に仕えるのです。おそらく、世の人は、「今どきこんな人がいるのか?」と驚くでしょう。しかし、それも義務感からではなく、「神様がそうしなさい」と言われたらするのです。すべての人に仕えることは不可能です。神様に「私の隣人とはだれでしょうか?」とお聞きするのです。そして、そのように示されたら、仕えれば良いのです。神様はきっと、その力と能力を与えてくださるでしょう。アーメン。

きょうは、「伝道牧会のビジョン、4つのM」ということでメッセージさせていただきました。一般にビジョンと言うとすぐ数字をあげがちです。私もこれまでそうしてきました。でも、いずれも失敗しました。そうではなく、今度は、姿勢というか、動機を強調しました。これら4つのMはイエス様がなされたことです。私たちはイエス様の品性に似るとともに、イエス様がなされたわざも行いたいと思います。これら4つのMの源になるものは自分の力やがんばりではなく聖霊であります。聖霊様に満たされ、御霊によって歩むなら可能であります。ルカ4:18、19 「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。」アーメン。

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2007年4月 8日 (日)

ここにはおられません      マルコ16:1-8

イースターおめでとうございます。クリスマスとイースターとペンテコステは、教会の三大祭りです。でも、同時にそれは牧師泣かせでもあります。教会員の方は、「また同じ話だ」と思うからです。でも、私たちは復活を頭で信じるだけではなく、体験する必要があります。ですから、十分体験できるまで語り続ける必要があります。十分体験できるときはいつかと言うと、私たちが死んだ後です。ですから、世の終わりが来るときまで、復活のメッセージを語り続けるしかないのです。ハレルヤ!ところで、墓の中にいた御使いは女性たちに2つのことを伝えました。第一は、イエス様はよみがえられたので、墓の中にはおられないということです。第二は、イエス様は先にガリラヤ行くので、そこでお会いできるということです。

1.ここにはおられません

女性たちは、イエス様をとっても愛していましたが、信仰はありませんでした。安息日が終わった土曜日の夕方、没薬や香料を買いに行きました。イエス様に塗るため、あらかじめ準備しておいたのです。そして、日曜日の早朝、それらを携えて墓に向かいました。道々、「墓の入口からあの石をころがしてくれる人が、だれかいるでしょうか」と話しながら来ました。とろころが、墓に着くと石がすでにころがしてありました。墓の中に入ると、真っ白い衣をまとった青年が座っていました。それは、青年ではなく、御使い(天使)でした。御使いは「驚いてはいけません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められた所です」と言いました。驚くなといわれても、これほどの驚きが他にあるでしょうか?彼女らは墓を出て、そこから逃げ去りました。8節には、「すっかり震え上がって、気も動転していたからである。そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」と書いてあります。イエス様が何度も自分がよみがえることを預言しておられたのに、こっけいであります。でも、それが真実ではないかと思います。死んだ人がよみがえる、これほど驚くべきことは、世の中にありません。アンビリーバボーというのは、もはや日本語になりつつありますが、イエス様の復活に最もぴったりであります。面白いことに、古い写本は、8節で終わりになっています。つまり、「恐ろしくて何も言わなかった」ということです。本来ならば、キリストの福音を伝えなければならないはずが、「恐ろしくて何も言わなかった。おしまい。」シャレにならないと思いませんか。

そして、別の写本は9節からのことが書かれています。ある聖書学者は、9節以降は、後から書き加えられたものであり信頼できないと言います。でも、私はそうは思いません。言い足りなかったこととか、真実を補足するということは、よくあることです。あとからマグダラのマリヤが弟子たちに知らせたようです。11節「ところが、彼らは、イエスが生きておられ、お姿をよく見た、と聞いても、それを信じようとはしなかった」。「えー、何かの間違いでしょう?」と言いたくなります。さらに、他の二人が、弟子たちにイエス様が現れたことを告げました。でも、13節には「彼らはふたりの話も信じなかった」。14節では、イエス様は思い余って、ご自分の姿を現し、彼らの不信仰とかたくなな心を責めました。もし、これが後代の作り話ならこんな風には書かないでしょう。イエス様の復活物語が真実であったという1つの裏づけは、あの弟子たちですら信じられない出来事だったということです。もし、作り話にするならば、弟子たちの不信仰ぶりをこのように残すわけがありません。私たちはこれを見て安心します。2000年前、イエス様と3年半、一緒だった弟子たちが信じられないなら、直接、会ってもいない、私たちが簡単に信じられるわけがありません。でも、みなさん、クリスチャンであるなら、十字架と復活は絶対、信じているはずです。十字架と復活を信じていないクリスチャンはもぐりです。ここにおられるみなさんは、イエス様の十字架の死と復活が事実であったことを信じておられるでしょうか?では、あなたは見たんですか?2000年前、現場にいた女性や弟子たちが信じられないのに、我々に信じろ!と言っても無理な話でしょう。でも、信じているんですね。なぜでしょう?ある人は神学や弁証論から信じると言いますが、それは嘘です。神学や弁証論は、信仰の確信を与えるものであり、信じさせるものではありません。では、私たちはどのようにして、イエス様とイエス様の復活を信じるのでしょうか?

①聖書から信じる。 

聖書は、いわば預言者や使徒たちの証言を集めたものです。このマルコ16章も「見たこと、聞いたこと」をそのまま載せています。彼らもはじめは信じられなかったのです。でも、よみがえられたイエス様のお姿を見ました。ある弟子はイエス様に触りました。でも、彼らさえも、聖書からイエス様がよみがえるべきことを信じなければなりませんでした。つまり、信じるとは、啓示である神のことばを受け入れることであります。マルコ16:12の「ふたり」とは、エマオの途上の二人のことです。ルカ24章に詳しく書かれています。彼ら二人は復活のイエス様と一緒に歩いていたのに、その方がだれか分かりませんでした。しかし、イエス様が聖書から自分について書いてあることを説明されました。そのとき、彼らの心が燃えました。宿屋でパンを裂くしぐさを見て、イエス様だと分かりました。また、ペテロたちも、二階座敷で集まっているとき、詩篇からイエス様がよみがえるべき理由を知ったのです。つまり、信じるとは目とか耳ではなく、霊の世界であります。神の啓示を聖霊が悟らせてくださるのです。そういう意味では、2000年前の弟子たちも、私たちも変わらない部分があります。でも、実際、見て信じるのと、見ないでどちらが幸いでしょうか。イエス様は、ヨハネ21:29で「見ずに信じる者は幸いです」と言われました。つまり、イエス様を見て信じるよりも、聖書から信じる方がランクが上なのです。皆さん、実際、手で触って、見たならば信じる必要はありません。もう、事実なんですから、信仰は不必要です。天国も、イエス様も、肉眼では見えないので、信仰が必要なのです。信じるためには聖書が必要です。独房で、聖書を読んで信じる人もいます。こういうメッセージで信じる人もいるでしょう。ラジオの電波やチラシで信じる人もいます。でも、核となるものは神のことばです。そして、神のことばに聖霊が働くことにより、人が信じることができるのです。

②イエス様から信じる

 イエス様は、ヨハネ11章で、「わたしは、よみがえりです。いのちです。私を信じる者は、死んでも生きるのです」と言われました。イエス様は、そのことを証明するために、死んだラザロをよみがえらせました。こんどは、自分が死んで、よみがえったのです。イエス様は、ご自分が死の向こうに行って、戻ってきました。こういう方は歴史上、一人もいません。死に勝った人などひとりもいません。どんな教祖も、聖人と言われる人も死んで、その墓があります。しかし、イエス様にはないのです。しかも、イエス様は生前、3度も自分はよみがえると預言しておられます。もし、自分がよみがえると予告しておきながら、よみがえられないとしたら、それは嘘つきになります。大体、「私が道であり、真理であり、いのちである」と言える人は、神様か気が狂っている人かどちらかです。ある人たちは、イエス・キリストを立派な道徳家だと言うでしょう。でも、自分がよみがえると言っておきながら、よみがえられなかったらどうでしょう。そんな中途半端な呼び方はできません。神様かペテン師かどちらかです。イエス様の前に「私の主、私の神」とひれ伏すか、もしくは「このペテン師!」と唾を吐くかどちらかしかないのです。でも、福音書を見ると、イエス様は愛であり真実な方でした。イエス様は山上の説教をはじめ、崇高な教えをされました。しかも、ご自分が教えられたとおりに生きた方であります。また、人々の病を癒し、さまざま奇跡を行いましたが、1つも自分のためにやっていません。与えて、与えつくし、十字架で死なれました。この方が、狂人、宗教家作りの天才、あるいはペテン師でしょうか? 人が、イエス様に出会うとき、愛と真実の前にひざまずくしかないのです。

③人々の証言によって信じる

 これは、イエス様を信じた人たちがどれほど変えられたかということです。あのおくびょうな弟子たちは、死を恐れないで、福音を宣べ伝え歩きました。また、私たちは信仰の先輩たちから証を聞いて、「神様は本当にいるのだろうか。イエス・キリストは信じるに値するのだろうか?」と探し求めます。私も29年前、職場の先輩に出会わなければ、キリストを信じなかったでしょう。私ほど、クリスチャンになりにくい人もいなかったと思います。1年半も一緒に仕事をしながら語り合い、「ああ、神がいるなら信じてみたい」と思いました。私がイエス様を受け入れたのは、1979年4月15日、イースターの夜でした。礼拝が終わって、先輩が私のアパートに訪ねてきました。お昼の12時半から、夜の9時半まで、9時間、ずーっと話してくれました。個人伝道であります。私は根負けして、「じゃ、信じるよ」と言いました。その晩、寝て、朝起きたら、空や木の葉っぱが輝いていました。新しく生まれ変わったという体験をしました。私は救われ、永遠の命が自分の中にあるなーという実感がしました。そうしたら、私も彼女や友達に話したくなりました。残念ながら、信じてはもらえませんでしたが、篤い思いはどうにもなりませんでした。今、こうやって牧師になっているのもキリストに出会ったからです。後半は、人が、どう変えられるのかということをもう少し詳しくお話したいと思います。

2.ガリラヤへ行かれます

 御使いが伝えたもう1つの言葉をお読みしたいと思います。マルコ16:7「ですから行って、お弟子たちとペテロに、『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます。』とそう言いなさい。」ペテロをはじめ弟子たちは、すべてを捨ててイエス様に従ってきました。彼らはおそらく、このように信じていたでしょう。「まもなく、自分たちの先生が、イスラエルに御国を建ててくださる。その暁には、自分たちは王なるイエスの右か左に座らせられる。すべての労苦は報いられ、俺たちはイエス様と一緒に御国の支配者となるんだ。」ガリラヤの元漁師たちは、このような夢と希望をもって、従ってきたのです。ところが、ところがです。我らのイエス様が、十字架に磔にされ、殺されてしまいました。弟子たちは、「もうおしまいだ。先生が死んだので、御国も一緒になくなった」と思いました。「すべてをかけて従ってきたのに、あの夢と希望はどこに行ってしまったんだろう」。特にリーダー格のペテロはイエス様を三度も否みました。裏切りと失態は、拭っても拭いくれない汚点になりました。弟子たちは全く再起不能でした。しかし、イエス様はそういう弟子たちをガリラヤに呼び出し、再召命を与えたかったのです。16:7に「お弟子たちとペテロ」とあるように、ペテロは特別な存在でした。ヨハネ21章にガリラヤ湖での出来事が記されています。イエス様はペテロに、三度も「私を愛するか」と問われました。ペテロは心が苦しくなり、「はい、主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存知です」と答えました。ペテロは完全に癒されました。ペンテコステの日、大説教をして、1日で3000人が救われました。指導者たちに捕らえられても、全く恐れませんでした。ペテロたちは、全く別人になっていたのです。前は命がおしくて、イエス様を否みました。ところが、命を惜しまず、福音を全世界へ運ぶ器になったのです。このように、イエス様の復活の証拠の1つは、変えられた弟子にもあるのです。嘘のために命を捨てる人はいません。イエス様がよみがえられたので、弟子たちもあのように変えられたのです。

 これは私たちにも言えることですが、弟子たちのどこが、何が変えられたのでしょうか。私はイエス様の復活と大いに関係があると思います。イエス様は十字架で一度、死にました。そして死後、葬られました、葬られたということは、完全に死んだということを意味しています。人が死んで、埋葬されたならば、もう何も希望がありません。ジ・エンドであります。ところが、父なる神様は、御子イエスが罪を完全に支払ったので、もう墓にいる必要はないと思いました。使徒2:27「あなたは私の魂をハデスに捨て置かず、あなたの聖者が朽ち果てるのをお許しならない」と書いてあります。聖いイエス様にはもう墓はふさわしくないのです。それで、全能なる神は、御子を死人の中からよみがえらせました。イエス様はそのとき、ただ、生き返っただけではありません。再び死ぬことがない、栄光のからだとしてよみがえられたのです。ですから、この世で言う復活とは違います。この世でも、スポーツや芸能界でも「復活」と言います。それは、長い間ブランクのあった人が、再起することであります。でも、聖書の復活は、息を吹き返すことではありません。復活とは、高次元で、異質なものに生まれ変わることです。イエス様の弟子たちは、イエス様の死と復活を体験したのです。弟子たちの夢も希望も一度、死にました。かつて、ペテロは「私は決して躓きません。死んでも、あなたを知らないなどとは言いません」と豪語しました。しかし、そんな強いペテロが死んで、弱いペテロになったのです。弱いペテロになったら、こんどは聖霊によって大胆なペテロに変身しました。他の弟子たちも同じです。かつては自分の力と知恵により頼んでいました。しかし、イエス様の十字架と復活を通過してから、自分に頼るのをやめました。うわべは同じでも、彼らを支えている力の源が別のものになったのです。それは復活の力であり、聖霊の力です。肉体が死んでから復活するのが当たり前ですが、この地上で、死と復活を体験したのです。これがクリスチャンです。使徒パウロも同じ経験をしました。Ⅱコリント1:9「ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえられてくださる神により頼む者となるためでした」。ピリピ3:10「私はキリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです」。つまり、パウロにとって、キリストの死の様に等しくなるような時こそ、復活の力を体験する機会となったのです。

みなさん、私たちも死んでから復活するだけではなく、この地上でも、復活の力を体験できます。それはどんなときでしょうか?自分の力に絶望し、自分の夢と希望に死ぬときです。なまじっか生きているので、復活を体験できないのです。本当に死を通過した人が、キリストの復活のいのちに生かされることを体験するのです。世の中の人も、クリスチャンも外から見ただけではわかりません。世の中の人も年を取るし、クリスチャンも年を取ります。世の中の人も病気になるし、クリスチャンも病気になります。世の中の人も何かできますし、クリスチャンだって何かできます。世の中の人も失敗するし、クリスチャンだって失敗します。では、何が違うんでしょう。その人を生かしている命が違うんです。世の中の人は肉体の命しかありません。しかし、クリスチャンは肉体の命と神の命があります。神の命は復活のいのちと言っても過言ではありません。世の中の人は肉体の命がなくなれば倒れます。しかし、クリスチャンは肉体の命がなくなれば、神の命・復活のいのちが出てきます。車でも、ガソリンと電気で走るハイブリットカーというのがあります。知らない間に、電気に切り替わる。同じように、知らない間に、神の命に切り替わる。苦しめられるけれど窮しない。途方にくれても行き詰らない。倒れても、滅びない。いつでも、イエス様のいのちが私たちの身に現れるからです。旧約聖書を見ますとアブラハムが100歳、サラが90歳のとき、子どもを生みました。体が死んだも同然であったのに、神様が彼らを生かしたのです。また、モーセは40歳の壮年のときではなく、80歳から用いられました。モーセは120歳で死にましたが、「彼の目はかすまず、気力も衰えていなかった」(申命記34:7)と書かれています。ヨシュアとカレブだけが、40年荒野を通過したのち約束の地に入ることができました。カレブはこう言っています。「今や私は、きょうでもう85歳になります。しかも、モーセが私を遣わした日のように、今でも壮健です。私の今の力は、あの時と同様、戦争にも、またに日常の出入りにも耐えるのです。どうか今、主があの日に約束されたこの山地を私に与えてください」(ヨシュア14:11-12)とアナク人がいる城壁のある町をあえて求めたのです。なんというチャレンジ精神でしょう。これがクリスチャンです。私たちは肉体も能力も世の人とはあまり変わりありません。でも、違うのは私たちの内には私たちを生かす、神様の命があるということです。これは、復活の命、聖霊の力と言い換えても良いでしょう。

 先週から、教会総会の準備を始めました。「教勢」と関係がある礼拝出席の統計をしてみました。なんと昨年度は、平均76名でした。ガヒーン。2003年度は85名、その次の年は83名、79名、そして76名です。デクラレーション、あきらかに減少しています。「教会は人数じゃない」と言ってきましたがやっぱりショックです。「ああ、私ももうすぐ54になるし、人生、先細りだなー」とチラッと思いました。日本の教会は、リバイバル、リバイバルと祈ってきました。でも高齢化が進み、リバイバルではなく、サバイバル、教会が生き残るかどうか問題です。この間、常磐牧師セルで、松戸の岡野先生のお話をお聞きしました。先生は1990年に教会が潰れ、教会員ゼロになりました。先生ご夫妻は死んだような状態になりました。それから悔い改め、様々なイベントではなく、生活を通して伝道することに切り替えました。単純に、みことばに生きる弟子を目指しました。今、70-80名集まっているそうです。教会堂はありませんが、公民館を借りて集会をしているそうです。本当に復活したんですね。私たちも今、人間的な知恵やノウハウとかやめて、神様の力にだけ頼りたいと思います。生活の中で、「もうだめだ」と、死の様に等しくなるような出来事が起こります。でも、それは良いことなのです。あなたはそのことで自分を頼らず、死者を生かす神様により頼む者となるからです。なまじっか、力が残っているなら、また自分に頼るでしょう。そうではなく自分に死んで、キリストの命、復活の命に源を置くのです。もちろん、キリストの復活は、私たちが死しんでから体験できるでしょう。しかし、今も、神様はキリストをよみがえらせた力で私たちを生かしたいのです。どうぞ、キリストにつながり、復活の命に生かされましょう。必ずや大逆転、大勝利が訪れることでしょう。

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2007年4月 1日 (日)

拒絶されたイエス      マルコ15:33-39

来週は復活祭、イースターです。しかし、復活の前には、十字架があることを忘れてはいけません。きょうは、マルコ15章から、十字架のメッセージをお伝えしたいと思います。イエス・キリストはご自身がこの地上に来られた目的をご存知でした。それは、ご自分の命を捨てることによって、人類をあがなうためであります。福音書には少なくとも、3回、「人の子は、人々の手に渡され、殺され、三日目によみがえる」と予告しています。イエス様は十字架で罪のあがないとなることを十二分に知っていたはずです。でも、イエス様の十字架の叫びは、まことに不可解です。15:34「そして、三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ。」と叫ばれた。それは訳すと「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。きょうは、この聖句を中心に3つのポイントで学びたいと思います。

1.罪の悲惨さ

 まず、イエス様の叫びは、罪の悲惨さを表わしています。イエス様は全人類の罪を負ったために、神様から捨てられたのであります。Ⅱコリント5:21「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです」と書いてあります。イエス様は完全に正しい方であり、罪とは縁もゆかりもないお方でした。しかし、イエス様は私たちの罪をかぶり、罪そのものとなられました。ある人は、「イエス様は三日後に復活するんだから、平気じゃないの?」と言います。でも、みなさん、その前に、イエス様は罪そのものとなられたのです。この間、テレビで冤罪のゆえに2年間、刑務所に入っていた人のことが報道されていました。後から、真犯人が現れて、その人には罪がなかったということが分かったのです。その人は「無罪が証明されたので、良かった、良かった」と手放しで喜べるでしょうか?彼は一度、殺人犯としての汚名を着せられました。刑に服したため、仕事も人生も棒に振りました。無罪が証明されても、これから社会復帰できるでしょうか?イエス様は、今でも、「十字架にかかるほど、悪いことをした」と思われています。ほとんどの人は、自分の罪が、イエス様を十字架につけたとは理解していません。残念ならが、罪はあまり重大な問題とされていません。それよりも、政府は経済的な問題をどう解決すべきか協議しています。ある人は知識が足りないんだと教育の問題を取り上げるでしょう。また、ある人はさまざまな環境の問題を取り上げるでしょう。また、ある人は、人間の道徳性を取り上げ、精神が未発達だと言うかも知れません。経済、知識、環境、道徳・・・もちろんそれらの問題も大切です。でも、聖書は人類の根本的な問題は罪であると言います。ですから、本来ならば、私たちの罪をどうすべきか考えなければならないのです。

 でも、その当時の人たちも、罪のあがないに関しては全く無関心でした。いや、むしろ、イエス様が罪のあがないをなされることを妨害し、ののしり、あざけりました。だれ一人、「私たちの罪をあがなってくださり、ありがとうございます」と感謝していません。30節「十字架から降りて来て、自分を救ってみろ」、31節「他人は救ったが、自分は救えない」、32節「たった今、十字架から降りてもらおうか。われわれは、それを見たら信じるから」。これらの、一見、何の意味ないあざけりの言葉は、イエス様のあがないを完全に排除する言葉であります。イエス様にとって、どんなに大きな誘惑であったでしょうか?もし、イエス様が十字架から降りて、自分を救うならば、どうなるでしょうか?人類のあがないは、なされないことになります。彼らは「罪のあがないなんか必要ない!」と言っているようなものです。十字架のまわりにいた人々は、だれ一人、「イエス様、十字架のあがないをありがとうございます」などと言っておりません。反対に、「十字架から降りて自分を救え、そうしたら信じるから」とあがないを否定する言葉であります。こういうあざけりとののしりの中で、イエス様は十字架にご自身をお付けになっていたのです。イエス様を十字架につけていたのは、釘ではありません。イエス様が全人類をあがなうために、ご自身を十字架につけておられたのです。

 私たちは実のところ、罪がどれほど大きいのか分かりません。罪はイエス様を十字架につけるほど大きいということが分かりません。自分の行ないで償えるとでも思っているのでしょうか?「いや、あの人の罪はもっと重い。私のはまだ小さい方だ」と言うかもしれません。クリスチャンになりたての頃は、罪というものがあまりよくわかりません。洗礼で自動的に許されたように感じます。まるで、自動車の洗車みたいに、機械がせっけん水とブラシで洗ってくれます。あとでワックスをかけられ、風で乾燥してくれます。ああ、きれいさっぱり罪が許された。オーハッピイディ。確かにそのときは、そう思います。でも、クリスチャン生活を送って行くにつれて、結構、自分は罪深い存在だなーと気づきます。心の中には、赦せない心、自己義認、ねたみ、うらみ、高慢さ、疑い、怒り、復讐心、好色、貪欲、分派心があります。ふだんは底に沈んでいますが、何かが起こると、ぱーっと、舞い上がってきます。まるで三日も取り替えていないお風呂の水のようであります。上は透き通っていますが、一旦、体を入れますと、ぱーっと、舞い上がってきます。もちろん、クリスチャンになりますと、汚れたものが量的に減るかもしれません。でも、センサーが強力なので、よくわかるんです。使徒パウロはこう言いました。Ⅰテモテ1:15「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。パウロは罪人のかしらならば、私は罪人の帝王かもしれません。私たちはイエス様を思うと、他の人ではない、自分のあの醜い罪のために十字架にかかられたんだと思わなければなりません。イエス様の罪のあがないは、私たちの信仰のはじめであり、終わりなのです。私たちは毎週、礼拝において、イエス様のあがないを思い、イエス様のあがないを感謝し、イエス様のあがないの中にとどまることを願うのであります。

2.地獄の恐ろしさ

 15:34「そして、三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ。」と叫ばれた。それは訳すと「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。イエス様はこのとき、神様から捨てられ、地獄を体験したのであります。本来ならば、私たちが「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と地獄の底から叫ばなければならなかったのです。では、地獄とはどういうところでしょうか?福音書では、「ゲヘナ」として度々、出てきます。ゲヘナとは、焼却炉という意味であり、永遠の火によって魂を焼き滅ぼすところであります。本来は、悪魔とその手下どものために作られたものですが、救い主を拒んだ人たちが投げ込まれる火の池でもあります。黙示録21:8「しかし、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行なう者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である」とあります。ある人たちは、「愛なる神様が地獄を作るわけがない。生前キリストを信じなかった人たちも、神様のあわれみによって救われるに違いない」と言います。しかし、それは聖書の福音ではありません。第一に、イエス様が何としても地獄を避けるように語られました。第二は、黙示録や他の書物にも記されています。第三は、神様は愛であると同時に、義なるお方です。第四は、救いは地獄(滅び)から救われることも含まれているからです。私たちはぜ、「私は救われた」喜び感謝するのでしょうか?もし、だれでも天国に行けるのであれば、伝道や宣教も不要であります。第五は旧約聖書の中で神のさばきが度々あったことです。ソドムとゴモラ、そしてノアの洪水、アッシリヤやバビロンへのさばきがありました。ノアのときは、「洪水によって決して滅ぼさない」と約束しました。しかし、終わりの日、神様は不敬虔な者どもを火で滅ぼすと聖書に書いてあります。

 地獄はあるのです。私たちはぜがひでも、何がなんでも、どのような犠牲を払ってでも、地獄に入らないようにしなければなりません。もちろん、救いは地獄からの救いだけではありません。他にたくさんの意味があり、救いの目的は、地獄を避けることだけではありません。でも、みなさん、地獄が本当にあるとしたら、信じない者が永遠の火に投げ込まれるとしたら、これはやっぱり、ただごとではないでしょう。アメリカの大伝道者D.L.ムーディは、「その人に地獄を1度でも見せることができたなら、火の玉のようになって伝道するであろう」と言いました。ムーディが伝道者のなりたての頃のことです、大勢の人に福音を話しましたが、「決断の時」を持たないで終わりました。ところがその晩、シカゴに大火事があり、300人もの人が死にました。そのとき、ムーディは「あの中に、決断をしないまま滅びに行った人がいる。私はどうして招きをしなかったのだろう!」と泣いて悔やみました。それ以来、ムーディは集会の後には、必ず、招きをするようになりました。日本人はよく、こういう言い方をします。「お父さんやお母さんがイエス様を信じないで地獄へ行ったならば、私も同じところに行きたい」と言います。つまり、私だけ天国には行けないということでしょう。これは、日本人は肉親の情が強いので、こういうことを言いがちです。でも、親子関係があるのは、この地上だけであります。人が一旦、地獄に行ったならば、もうそこには肉親の情などかけらもありません。ききんのときは、死んだ子どもの肉を食べるということがあったそうです。今、地上で親子の情があるのは、神様の一般恩寵、恵みであります。でも、地獄にはこのような恵みはないので、もう、親でもない、子でもない、自分のことが第一なのです。ルカ16章に、ハデス(陰府)に落とされた金持ちのことが書いてあります。ハデスは地獄の待合室のようなところですが、彼は父アブラハムこう願っています。「私には兄弟が5人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることがないように、よく言い聞かせてください」。これが、先に亡くなってまった人たちの願いです。彼らは、せめて、子どもや兄弟が救われてほしいと願っているのです。

 イエス様が神から捨てられ、地獄を体験されました。だから、イエス様を信じる人は、もうこの叫びをしなくても良いのです。この間、老人ホームにおられる五藤姉妹のお見舞いに行きました。実際、行ってみると彼女一人ではなく、他に4人のお友達が待っておられました。いくらなんでも、私がその場で説教するのは無理であります。でも、五藤姉妹は積極的に、自分がイエス様を信じるきっかけ、信じてどうなったか証しをされました。「私はイエス様を信じてから、いつ死んでも大丈夫、天国に行ける確信が与えられました。私はもう死がちっとも怖くありません。ドアのすぐ向こうに天国があるのよ」と証しされ、すごいなーと思いました。本当に姉妹の顔は輝いていました。残念ながら、他の4人の方にはそのような輝きはありませんでした。みなさん、これが救いであります。イエス様が地獄を体験されたので、私たちはもう死の恐れから解放されているのです。反対に、死後の世界、天国に行けることが楽しみでしょうがないのです。世の人は年を取れば取るほど、希望がなくなります。しかし、私たちクリスチャンは、年を取れば取るほど、天国に入れる希望が増してくるのです。ですから、死ぬときには、「ハレルヤ!お待ちしておりました!」と言いましょう。

3.拒絶の苦しみ

 イエス様は、福音書を見る限り、一度も御父を「わが神」と呼んだことはありません。いつも、「父よ」であります。神様を「神様」と呼ぶのは、罪人の私たちであります。でも、イエス様は、十字架上で罪そのものとなったために、もはや御父と呼べず、「わが神」と呼ぶしかなかったのです。もちろん、イエス様のこの叫びは、詩篇22篇の引用であり、イエス様がそらんじておられたみことばをこの時、語られたんだという考えもあります。たしかに、詩篇22:1に同じ、みことばがあります。でも、イエス様は聖書のヘブル語ではなく、当時、使われていたアラム語で叫ばれたのです。マルコによる福音書の記者は、イエス様の胸中をダイレクトに伝えたかったのでしょう。だから、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と書いてあります。これはイエス様の生の叫びでありますが、御父から捨てられたという拒絶の苦しみが伝わってきます。残念ながら、私たち罪人はイエス様の拒絶の苦しみがどれほどだったのか、わかる由もありません。なぜなら、神様から離れて生きてきたからです。でも、イエス様の場合は、永遠の昔から、御父と一緒でした。一度たりとも離れたことがないのです。地上に来られたときも、「父よ!」と祈れば、すぐそこにおられました。ところが、十字架にかかられたときはそうでありませんでした「さて12時になったとき、全地が暗くなって、午後三時まで続いたと書いてあります。その日は、過ぎこし祭りであり、満月であって、日食になることは絶対ありません。地球の前に太陽があるなら、月は地球の真裏にあることになります。曇りぐらいでは、真っ暗になりません。昼間なのに、真っ暗になるなんて、科学的にはありえないことです。しかし、これは御父が御顔を隠されたということを暗示しています。神様が「さらし者になっている、御子を見ておられない」ということもあるでしょう。でも、もっと正しい意味は、神様が御子を捨てたということであります。なぜなら、罪は、神様との断絶を作るからです。イエス様はご自分の罪ではなく、私たちの罪を負ったがゆえに、神様から断絶され、捨てられたのであります。これは、御子イエス様しか、わからない、拒絶の苦しみの境地であります。

 でも、イエス様が御父から拒絶を受けられたことは、私たちの癒しになります。私たちは生まれてこの方、拒絶を経験されたことのない人は一人もいないと思います。お腹の中にいたときに、母親から拒絶された人がいるでしょう。「本当は生みたくなかったけど、できちゃったので、生むしかなかった」。これは良くありがちな話です。また、生まれてから、父親から拒絶された人もいるでしょう。父親からだっこされたり、親しく話しかけられたことがない。特に、父親は仕事が忙しくて、家にほとんどいません。学校へ行くと、さらに、さまざまな拒絶を経験します。友達からあるいは、先生から拒絶されるでしょう。「拒絶」ということばは、一般的であります。具体的には、「あんたなんかきらいよ、あっちに行って」とか、「お前はいないほうが良いんだ」とか、「死んでしまえ」、「一緒に遊ばないよ」。大きくなれば、「役立たず」「無能」なども、拒絶のことばであります。異性からも「あなたんか嫌い」「気持ち悪い」「さわらないで」などと、拒絶されることもあります。先週、英国から来たノバの教師が殺害されました。悲しいことですが、若い女性が男性によって殺されるということはよくあります。いろいろな原因があると思いますが、男性として考えられることは、やはり、拒絶ではないかと思います。特に外国の方は、はっきり「ノー」と答えます。帰国子女も、そうであります。日本人は、「予定がある」とか「都合が悪い」とか、遠まわしに断ります。でも、いきなり「ノー」と言われると、グサッときます。また、心に傷のある男性が、女性から「あなたなんか興味ないわ」とか「サイテー」なんて言われると、逆上して、暴力を振るケースもあるでしょう。そのとき、親や友達、先生、これまで積もり積もった怨念を、晴らそうとするわけです。もし、その人が心の傷もなく、セルフイメージが高いならば、少しくらいの拒絶は、笑って済ますことができます。でも、傷が膿んでいる人は、ささいなことも、過剰に反応してしまいます。

 拒絶の苦しみを受けたことのない人はひとりもいないでしょう。ですから、だれでも拒絶を受けられたイエス様の癒しが必要なのです。イザヤ書53章はイエス・キリストの預言です。イザヤ53:3、4「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと」。イエス様は人々からさげすまれ、のけ者にされました。人が顔をそむけるほどさげすまれ、だれもイエス様を尊びませんでした。そして、御父からも捨てられ、拒絶されました。歴史上、神様から完全に捨てられた人はひとりもいません。イエス様が最初だったのです。それは私たちのそむきの罪のゆえでありました。でも、それだけではなく、イエス様は拒絶の苦しみ、悲しみ、恥を担ってくださったのです。イエス様だけが、拒絶された人を完全に癒すことができるのです。残念ですが、あなたの過去を変えることはできません。しかし、イエス様はあなたが過去において、拒絶を受けたときに、そこにおられたのです。イエス様は涙を流しながら、「私も残念に思うよ。でも、私はあなたを完全に受け入れるよ。私はあなたを決して捨てない」とおっしゃるでしょう。そして、傷ついたあなたを抱きしめてくれるでしょう。

 イエス様は神様から捨てられました。その理由は、あなたが犯した罪をあがなうためです。イエス様はあなたの罪を背負い、身代わりに罰を受けたのです。だから、あなたはもうそのことで自分を責める必要はありません。しかし、もう1つ十字架の意味があります。イエス様は被害者であるあなたを、癒すために苦しまれたのです。あなたが受けた拒絶、悲しみ、恥を担ってくださったのです。だから、あなたは神様の御目には高価で尊い、愛されるべき存在なのです。何ができるとか、できないではなく、あなたの存在そのものを神様は受け入れ、価値あるものとみなされているのです。では、罪の赦しと傷の癒しを受けた人はどうなるでしょうか?あの弟子たちのように、変えられるのです。使徒5:41、42「そこで、使徒たちは、御名のためにはずかしめられるに値する者とされたことを喜びながら、議会から出て行った。そして、毎日、宮や家々で教え、イエスがキリストであることを宣べ伝え続けた」。今までは、自分のために泣いていました。でも、癒されると、キリストのためにはずかしめを受けることを喜ぶのです。本当に癒しを受けた人は、馬鹿にされると、「ああ、イエス様に似る者とされた!これで私も一人前だ!」と喜ぶのです。かつては、不当な扱いを受けると逆上していたのに、「イエス様と同じ経験をさせていただいている。感謝だなー、アーメン」と、喜ぶことができる。そうなったら良いなーと思いませんか。

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