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2007年4月15日 (日)

伝道牧会のビジョン(4つのM)   マタイ6:9-10 

聖務表によりますと、本日のメッセージは「信じようとしなかった」でありますが、先週そのことも話してしまいました。ですから、本日は、予定を変えまして総会資料に基づいたお話をします。教会員でない方は資料がないので、まことに淋しい気がするかもしれません。でも、どういう教会を作りたいかというビジョンに関しては、来られている方みんなに理解してもらいたいと思います。総会資料の中身をそのまま週報に書いてありますので大丈夫です。一番上に「伝道牧会のビジョン、4つのM」とテーマがあります。英語の嫌いな方には大変申し訳ありませんが、頭文字Mでみんな統一しています。むりやりに当てはめたという見方もありますが、自分では大変気に入っています。なぜなら、神様が与えてくれたような気がするからです。いわゆる「導き」であります。牧師は何でも「導き」にしてしまうので危ない気もしますが、一緒に学びながら、主を礼拝したいと思います。

1.Meditation

第一はMeditationです。Meditation とは、上なる神様との関係です。主の祈りのように、「御名があがめられ、私自身に御国が来るように」ということです。このMeditationは、神様との交わりであり、礼拝をコンパクトにしたものです。ところでMeditationとは、「みことばを瞑想する、黙想する」という意味です。教会では、ディボーションとか、QT(静思の時)などと言います。東洋の蝉やヨガでも瞑想をします。しかし、彼らの場合は、人格のない神様であります。私たちの場合は、この世界を創造し、私たちを愛しておられるキリストの神様と交わるのです。神様との交わりのときに欠かせないのが聖書であります。神様のラブレターである聖書を、自分に語られた神のみことばとして瞑想しながら読むわけです。でも、従来はこういうやり方をしませんでした。だれかが書いたディボーションの本を読んで、ディボーションしたわけです。榎本保郎先生の『旧約聖書一日一章』とか、スポルジョン、FBマイヤー、カウマン夫人などの本がたくさんあります。でも、それらは人が作った料理であり、レトルト食品です。でも、自分で聖書を聖霊の助けを借りながら読むと、「こんなことが書いてあるのか!」と新しいことを発見します。また、その日に必要なみことばの糧、あるいは神様の励ましや約束をいただくことができます。

私は前の教会から早天祈祷会に出席し、亀有教会に赴任してからもしばらく早天をやっていました。しかし、ディボーションと出会ってから早天祈祷会をやめました。今までは、人に教えるため、人に語るために聖書を読んでいました。でも、ディボーションは神様とのデートみたいで非常に楽しいです。マイペースで読めるし、何を祈っても良いんです。神様との交わりは、スウィート、甘い楽しいひとときです。多くの孤児を育てた、信仰の父ジョージミューラーという人がこのように言いました。「以前は、朝起きてすぐ祈りました。はじめの30分以上は、いろいろな心の騒ぎや雑念に悩まされました。でも、聖書を黙想してから祈ると、する実際的な交わりに入ることができます。私が気を一番使うことは、私が神様のために何をするか、何をすべきかということにあるのではなく、自分の魂が幸福の状態に至ることです。自分の魂が幸せにならないで、人を教えたり、苦しんでいる人を助けても、それは中身のない空っぽのものに過ぎません」。アーメンです。

でも、みなさん、私はインドネシアのエディ・レオ師に会ってから、朝のディボーションだけではダメだということが分かりました。17世紀にブラザー・ローレンスという人がいました。彼は神学者ではなく普通のクリスチャンでした。彼は、コックであり、修道院の厨房で料理を作っていました。しかし、彼は「コランデォー」と言う、神の臨在の前に生きるということを実践した最初の人物です。彼は父なる神と24時間、親しい関係を持つということをしました。彼は父といつもどのように語るかを学び、「神の臨在を実践する」と言う本を書きました。その本は、400年にわたるベストセラーであり、ほとんどの有名な牧師が影響を受けたそうです。彼がしたことは、とても単純でした。料理を作っているときに、神様と話しました。「お父さん、感謝します」と、毎日、話しました。彼の人生に何が起きたでしょうか。福音を宣べ伝える必要がありませんでした。食事を持ってきてくると、人々が彼の顔を見て、「ああー」と涙を流して悔い改めました。なぜなら、彼の顔が神の栄光に満ちていたからです。彼の本から学んだ人にチャールズ・フィニーがいます。彼がある工場に行きました。工場では人々が機械のそばで働いていました。チャールズ・フィニーは説教しないで、ただ、この工場を歩いて過ぎ去るだけでした。人々が彼の顔を見たら、「ああー」と倒れた。みんなその床に倒れました。チャールズ・フィニーは非常に力強い人でした。なぜなら。彼はこの神の臨在と言うことを実践したからです。私たちも「コランデォー」、主の御目のもとで生きる、主の臨在と共に生きるということです。お仕事中も、家事をしているときも、学校で勉強しているときも、道を歩いているときも、主の御目のもとで、主とともに生活する。これはものすごく力があります。

2.Mentoring

Mentoringは内である兄弟姉妹との関係です。 Mentoringというのは、ギリシャの叙事詩からきたもので、戦争に出かけた父の代わりに、子どもを育てる人です。父代わりですから、それだけ信頼の篤い人だったわけです。現代では、Mentoringと同じような意味で、コーチング、ファーザリングなどがあります。私はファーザリングが好きなのですが、「女性にはどうかな?」と思って、Mentoringにしました。では、聖書のどこそのような考えがあるのでしょうか?Ⅰヨハネ2章には教会には3種類の人がいると書いてあります。第一は子どもたちです。神様と出会って罪の赦しを経験した人です。第二は若者たちです。悪い者である悪魔に打ち勝ち、神のみことばに留まった人です。第三は父たちです。この人は父なる神様の心を持った人です。また同時に、霊的な子どもを育てている人です。一般の世の中でも、成人になればみな父になれるわけではありません。子供を生み、育てている人が父であります。同じように、クリスチャンも時間がたったら父になれるわけではありません。自分のことばかりではなく、霊的な子供を養育する人が父であります。総会資料の表紙には、カタツムリのようなイラストがあります。子ども、若者、父となっています。でも、父と子どもが接するところがあり、「養育」と矢印がついています。で、カタツムリはどこを見ているかというと、イエス様の似姿になることです。どこに進んでいるかというと、マタイ28章の大宣教命令であります。亀有ですから、亀のイラストに直しても良いと思います。

それはともかく、私は当教会においてセルチャーチを目指してきました。昔は神様と私の関係で良いと思いました。祈祷会で「隣に座っている人と一緒に祈りましょう」なとど言われるとぞっとしました。皆さんの中でも、「さあ、席から立ってお互いに挨拶しましょう」と言われると「イヤだなー」と思う人がおられるでしょう。それと同じです。でも、聖書には「互いに」ということばが、たくさん出てきます。「互い」にというのは、だれか他の人がいないとできないことです。人間は人間関係、つまり共同体で生きる生き物です。人間関係がうまくいくと幸せであり、人間関係がうまくいかないと不幸せなように造られているのです。今まで、人間関係で嫌な思いをし、たくさん傷ついたかもしれません。でも、教会は新たな人間関係によって、その傷を癒す場であります。父や母に似た人がいます。兄や姉に似た人がいます。あるいは私を傷つけた人物に似た人がいるかもしれません。人間関係で得たこのトラウマをどのように癒すのでしょうか。神の国の人間関係であります。主にある兄弟姉妹の交わり、「互いに」によって、心の傷が癒されるのです。だから、聖書には「互いに愛し合いなさい」「互いに励ましあいなさい」「互いに赦しあいなさい」「互いに祈り」「互いに慰め」「互いに戒め」「互いに重荷を負いあいなさい」と書いてあるのです。でも、私たちは自然のままだとこういうことができません。だから、小グループ、セルを作ることにしたのです。教会によっては、壮年会、婦人会、青年会があります。でも、そういう不特定多数の会衆では深い内容を話すことができません。秘密を守り、お互いに責任を負い合えるセルグループが必要です。そこに参加した人は、すばらしいことを体験します。イエス・キリストは個人の中にいるだけではなく、私たちの間にいらっしゃることを。コロサイ1:27「この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです」と書いてあります。

でも、その中のリーダー(メンター)はとても重要です。セル(細胞)には核があり、核はDNAを持っています。セルグループの核にあたる人がセルリーダーです。セルリーダーに何が一番必要なのでしょうか?それは「父の心」です。私たちの神様は天の父ですが、天の父と同じ心が必要です。日本人の「リーダー」は、石原慎太郎のように強い人をイメージするかもしれません。でも、聖書のリーダーは、メンター、父の心を持った人であります。現代は父が必要です。日本人には父がいません。人々は父をさがしています。それは天の父であり、父の心を持った人です。もちろん、メンターは女性でも可能なのです。お互い、父の心を持つ者になりましょう。

3.Mission

3つ目のMはMissionです。Missionは外であるこの世との関係です。もともと、Missionは「使命をおびて派遣される」という意味があります。クリスチャンはこの世に派遣されている存在です。でも、何のためでしょうか?神の国の福音を伝えるためであります。そういう意味では、クリスチャンはすべて伝道する義務があるんです。でも、「伝道」と言われると、急に緊張して何も言えなくなります。私は伝道という言葉はあまり好きじゃありません。マタイ24章にすばらしいみことばがあります。マタイ24章は世の終わりについて預言している箇所です。イエス様は「世の終わりには偽キリスト、戦争、地震やききんが起こりますよ」と言われました。もう1つの兆候は、マタイ24:14「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから世の終わりが来ます」とあります。私は福音が宣べ伝えられるというところにしか目が行きませんでした。しかし、みことばには「この御国の福音は、すべての国民にあかしされ」とも書いてあります。これはどういう意味でしょうか?それは御国の福音を体験した人が証をするのです。そしてそれが国レベルに達するということです。だれか伝道者がメッセージするたけではなく、クリスチャン一人ひとりが、派遣されたところで、御国の福音を証するということです。「私にそんな大それたことができるでしょうか?」と言われるかもしれません。イエス様はマタイ5:14「あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません」と言われました。クリスチャンが世の光だということはだれでも聞いたことがあるでしょう。でも、後半の「山の上にある町は隠れる事ができません」とはどういう意味でしょうか?夜、山を見ますと、そこに家々があると灯りが点在しています。熱海なんか行くと、山中が灯りです。みなさん、クリスチャンがどこにおいても、イエス様と共に生きていますと、世の人が「あなたはどこか違うなー」と認めるということです。「柔和だし、謙遜だし、従順だし、愛があるし、誠実だし、やっぱり世の人とは違う」と、バレてしまうとうことです。イエス様は「世の光になれ!」とは言っていません。もう、あなたはすでに性質が変わり、世の光になっているんですね。だから、バレてしまうということです。

私も「伝道」というと、ストレスを感じてイヤになります。かつてした、宇都宮の路傍伝道はしたくありません。でも、職場の人や地域の人と友人になって、その人を愛して、その人に仕えて行く。その人をクリスチャンにするという駆け引きではありません。その人がクリスチャンになるならないは関係なく、福音の愛で愛する。つまり、人間関係を作りながら、福音を伝えるということです。チャンスが来れば、自分の救いの証をすることもできるでしょう。総会資料の「新年度の目標」に、「この1年、3人以上の未信者と友人になり、福音を証する」と書いてあります。みなさん、これやってみましょう。私もやりたいと思います。牧師は人に「やれ」「やれ」と言って、自分でやらない人が多いですね。でも、セルチャーチの牧師は、模範も示さなければなりません。私も世の中に出て行って、未信者の友達を作ります。その人が救われる、救われないは神様の問題です。でも、福音を宣べ伝え、福音を証するのは私たちの義務であり、特権です。香港のベン・ウォン師は、私たちにものすごいチャレンジを与えています。セル集会をどうして、教会という建物の中でやるんだ。なまじっか教会があるからダメなんだ。教会が焼けてしまえば良いとまで言います。うゎー、過激ですね。日本人の家の多くはうさぎ小屋ですから、10人も一緒に集まれる部屋がありません。だから、うちみたいに教会堂という建物があるのは、とても良いことです。でも、私たちはこの教会堂でなんでもかんでも行なおうとします。そのため、未信者がなんでもかんでも、亀有教会に連れて来なければ始まらないという考えを持ってしまいます。ベン・ウォン師が言っていますが、教会とは建物ではなく、私たち一人ひとりです。私たちが遣わされたところが教会なんです。海にはヤドカリがいます。みんなお家を背負っています。私たちも教会を背負って、歩き回っている存在です。伝統的な教会は牧師が人々に洗礼を授け、聖餐式を行ないます。でも、本当のセルチャーチは、信徒が自分の導いた人に洗礼を授け、セル集会で聖餐式を行ないます。だから、伝統的な教会から、「秩序が乱れる」と、危険視されているところがあります。でも、初代教会はそうでした。もちろん、教会堂でセルの集まりを持っても構いません。でも、いつも忘れないことは、セルが外向きになるということです。新しい未信者を加え、増殖するというゴールを持つということです。人間の細胞もたえず増殖しています。古い細胞が死んで、新しく生まれ変わっているのです。セルも同じ人で2年も3年もやらないでください。増殖して、新しいセルを作るのであります。あなたが、新しいセルのリーダー(メンター)になるのです。「世の中に出て行って福音を証し、新しい人を加え増殖する」これがセル教会Missionです。

4.Ministry

4つ目のMはMinistryです。Ministry はキリストのからだ(教会)との関係です。ministerは大臣とか聖職者という意味があります。でも、もともとは「仕える、奉仕する」という意味があります。神様は私たちが奉仕できるように、御霊の賜物を与えておられます。Ⅰコリント12章には、知恵、知識、信仰、いやし、奇跡、預言、霊を見分ける力、異言、異言を解き明かす力など、9つの賜物が記されています。ローマ12章やエペソ4章やⅠペテロにも記されています。Ⅰペテロ4:10-11「それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。語る人があれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕する人があれば、神が豊かに備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。栄光と支配が世々限りなくキリストにありますように。アーメン」。ここには、「それぞれが既に賜物を受けている」と書かれています。私は人がイエス様を信じたときに、一緒に、聖霊の賜物も与えられると信じます。神様は「その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい」と言われています。教会はキリストのからだにたとえられていますが、1つ1つの器官は、霊的賜物であります。種類や働きがそれぞれ違いますが、キリストのからだにつながっています。個人プレーではなく、それらがしっかりと組み合わされる必要があります。私はイエス様を信じてから、まもなく、「ああ、キリスト教信仰を分かりやすく教えたい」という篤い思いが与えられました。それはローマ12章の「勧める」賜物と一致していました。ある人は捧げる賜物の人がいます。先週、イースターの昼食愛餐会がありました。そのとき、お赤飯を大量に持ってこられた方がいました。私は「ああ、その方は捧げる賜物のある人だなー」と思いました。韓国の申賢均先生は「私は食べる賜物がある」と言われました。伝道のほかに、食べる賜物があったということでしょうか?他にもたくさん神様が与えた賜物があるはずです。使命感だけで奉仕すると長続きしません。でも、賜物でやりますと、喜びがあるし、あまり疲れません。

 総会資料に「何か奉仕を1つ見つけてそれを行なう」と書いてあります。もちろん、この奉仕とは教会内だけのことではありません。自分が遣わされている場所も含まれます。世の中の人は損得、利害関係で生きています。でも、クリスチャンは隣人を愛します。会社に行けばイヤな上司がいるでしょう。その人はあなたをコントロールしようとするでしょう。もしかしたら、その人はあなたの奥さんかご主人かもしれません。でも、マタイ5:41,42「あなたに1ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに2ミリオン行きなさい。求める人には与え、借りようとする者は断らないようにしなさい」とあります。一見、共依存のように思えますが、いやいやながらではなく、自分の意思で従っているので、結局は相手に勝利しているのです。イエス様は元来、王の王なのに弟子たちの足を洗ってあげました。世の中の人は、下手に出たら何をされるかと戦々恐々と生きています。でも、私たちはイエス様のように人々に仕えるのです。おそらく、世の人は、「今どきこんな人がいるのか?」と驚くでしょう。しかし、それも義務感からではなく、「神様がそうしなさい」と言われたらするのです。すべての人に仕えることは不可能です。神様に「私の隣人とはだれでしょうか?」とお聞きするのです。そして、そのように示されたら、仕えれば良いのです。神様はきっと、その力と能力を与えてくださるでしょう。アーメン。

きょうは、「伝道牧会のビジョン、4つのM」ということでメッセージさせていただきました。一般にビジョンと言うとすぐ数字をあげがちです。私もこれまでそうしてきました。でも、いずれも失敗しました。そうではなく、今度は、姿勢というか、動機を強調しました。これら4つのMはイエス様がなされたことです。私たちはイエス様の品性に似るとともに、イエス様がなされたわざも行いたいと思います。これら4つのMの源になるものは自分の力やがんばりではなく聖霊であります。聖霊様に満たされ、御霊によって歩むなら可能であります。ルカ4:18、19 「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。」アーメン。

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