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2007年3月18日 (日)

短期宣教       マルコ6:7-12

 日本の学校教育は西洋のスタイルを真似たものであります。しかし、日本古来の教育は寺子屋とか塾であり、今とはかなり違っていたのではないかと思います。また、知的なものばかりではなく、生活の術とか、何かの技術を会得させることも必要だと思います。その点、ユダヤ人は、まことにバランスのとれた教育をしていたようであります。「教育ママ」は英語で「ジューイッシュ・マーム」と言うようですが、日本人の「教育ママ」とは違います。神の法に基づいた生きた教育をしていたと思います。また、イエス様の弟子たちへの訓練は、今の神学校とかなり違います。一言で言うなら、体験的に教えていたということです。

1.短期宣教の戦略

 マルコ3章には、イエス様が12弟子を任命した記事が記されていました。それは、彼らを身近に置いて訓練するためでした。イエス様は彼らと生活を共にしながら、教えて来られました。そして、ある程度、時間がたってから、これまで学んだことを実践する機会を与えました。それがきょうの箇所であります。イエス様は短期間ではありますが、弟子たちを伝道旅行に遣わしました。そのとき、大切なことを3つ教えておられます。そのことを「短期宣教の戦略」と言って良いかもしれません。

①チームワーク

マルコ6:7「また、十二弟子を呼び、ふたりずつ遣わし始め、彼らに汚れた霊を追い出す権威をお与えになった」。イエス様が弟子たちを二人一組で遣わしたのは、チームで伝道するためです。このときはだれとだれがコンビになったのかは定かではありません。使徒の働を見ますと、やはり二人ひと組で伝道しているのが分かります。たとば、使徒3章には、「ペテロとヨハネ」「ペテロとヨハネ」と何度も出てきます。また、アンテオケ教会から、「バルナバとサウロ」を遣わしました。その後で、「パウロとシラス」「バルナバとマルコ」と二チームを遣わしました。一人よりも二人が良いのであります。伝道の書4章に、すばらしいみことばがあります。「ふたりはひとりよりもまさっている。ふたりが労苦すれば、良い報いがあるからだ。どちらかが倒れるとき、ひとりがその仲間を起こす。倒れても起こす者のいないひとりぼっちの人はかわいそうだ。・・・もしひとりなら、打ち負かされても、ふたりなら立ち向かえる」。このみことばは、結婚式でも引用されますが、奉仕の上でも適用することができます。私が神学生のとき、伝道実習というクラスがありました。川越だったと思いますが、先輩と二人一組で家々を訪問しました。私はドアを開けるなり、主婦の方に「神様はおられます。あなたも信じたら、生活が変わります」みたいにストレートに語りました。その方は驚いて、立ちすくんでしまいました。先輩は欠かさず脇から口をはさみ、「この近くに新しく教会ができましたので、ぜひお越しください。チラシを置いていきます」と言いました。私はそのとき、「ここで伝道しなければ」と思ったんです。ところが、それはやり過ぎだったようです。その先輩は、京都で喫茶店伝道をしていたので、言葉が上品でとても洗練されていました。元現場監督にはセールスみたいなことは、むずかしいなーと思いました。あのときは、みんなで出掛けたので、なんとかできました。

また、二人で行くには、もう1つの理由があります。それは互いに祈り合うことができるからです。マタイ18章に「もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからですとあります。互いに祈り合うことによって、信仰が燃やされます。また、それぞれの賜物を補い合うこともできます。何年か前に、台湾に伝道旅行に行ったときがありました。そのときは新松戸の津村先生と共に祈ることができました。また、手束先生がメッセージした後、津村先生が一人ひとり癒しの祈りをしました。私は、祈られた人が後ろに倒れても大丈夫なように、支える役をしました。台中のある教会で奉仕したとき、オルガンを弾いていた若い姉妹がいました。集会後、お母さんが「娘のためにお祈りください」とその姉妹を連れて前に出てこられました。津村先生が「病の霊よ、この娘から出て行け」と命じました。驚いたのか、人々が後ろへ、2,3メートル、ぱーっと引きました。その教会は長老教会だったので、そういうことをしたことがなかったようです。伝道旅行はすばらしいです。弟子たちもそうだったと思いますが、何か特別な力が与えられます。柏兄弟もカンボジアやフィリピンに短期宣教に行かれたことがあります。日本では一信徒であったとしても、外国に行くと、いっぱしの伝道者であります。あちらでは、日本から来たというだけで、「おおー」と一目置かれるわけです。不思議なことに、日本人が祈ると人々が癒され、救われたりします。一番驚いているのは、当人でありす。本当に、目覚しいことが起こるんですね。とにかく、伝道は二人もしくは、チームで行くと良いです。励まし合い、助け合い、祈り合うことができるからです。

②必要は与えられる

マルコ6:8 また、彼らにこう命じられた。「旅のためには、杖一本のほかは、何も持って行ってはいけません。パンも、袋も、胴巻きに金も持って行ってはいけません。くつは、はきなさい。しかし二枚の下着を着てはいけません。」私は、おそらく、1週間程度の短期宣教であったと思われます。いきなり、「1年間、行って来い」といわれても、それは無理であります。しかし、着替えやお金も持たないで出掛けるというのは、勇気がいります。だいたい、どこに泊まるでしょうか?食事にありつけるのでしょうか?これは大問題であります。私はこう思います。弟子たちは、人々の病を癒したり、悪霊を追い出したことでしょう。また、ある人は福音を信じて救われたでしょう。人々は感謝と喜びを具体的に現わしたいために、「まあ、どうぞ、どうぞ」とばかり、弟子たちをもてなしたのではないかと思います。普通だったら、高い医療費がかかるのに、ただで直った。あるいは、お金で買えない喜びが与えられた。「いやー、ありがとうございます。今晩、私の家でお泊りください。どうぞ、どうぞ」と言われたんじゃないでしょうか。Ⅰコリント9章で、パウロは、「もし私たちが、御霊のものを蒔いたのであれば、あなたがたから物質的なものを刈り取ることは行き過ぎでしょうか」と言っています。香港のベン・ウォン師は、MTCと言いまして、教会で独自のクラスを持っています。Mはミッションでありますから、宣教トレーニング・クラスかもしれません。一年間に3つの伝道旅行に遣わします。最初は、土日月の3日間です。ベン先生は彼らにこう言います。「週末、教会に来てはいけない。家にも帰ってはダメ。お金も持ってはいけない。ただ、イエス様に祈りなさい。神様が私をどこへ遣わすか、だれに話したら良いか、だれを救いたいのか、だれに仕えたら良いのか祈りなさい。食べるものが与えられたら食べて、泊まるところが与えられたら泊まりなさい。泊まるところがなかったなら、道端か公園で寝なさい。さあ、行きなさい」。若者たちが、3日後に、帰ってくると、ワンダフル。「私も、私も」と、たくさんの証をするそうです。3つ目の伝道旅行はフェイス・ミッション・トリップ、「信仰伝道旅行」であり、新婚旅行ではありません。彼らを2週間放り出します。彼らを5人、1チームで中国の町などに派遣するわけです。全く知り合いのいないところです。どこに泊まるか予約しないで、少しのお金だけ持っていきます。電車の往復チケットだけを渡します。だから、ホテルにも泊まれません。祈って行くと、神様が道を用意してくださることを経験します。人からお金を求めてはいけませんが、働いて食べさせてくれるところでは働きます。イエスの御名によって、彼らの人生が変わるそうです。これは、頭のトレーニングではなくて、人生のトレーニングであります。

経済的な問題に対する信仰は、最も大きな訓練の1つです。このことで、主が本当に生きておられるということが分かるからです。私も5日間だけですが、韓国の先生と、宇都宮に伝道旅行に行ったことがあります。宇都宮の駅から適当なバスに乗って降りました。近くの電話ボックスから、電話帳を見て、いろんな教会に電話をかけました。「今、牧師がいないので」「主任牧師と相談してからでないと」とか、言われました。日本キリスト教団の四條町教会の牧師が、「あんた方、面白いことするねー」と、車で迎えに来てくれました。レストランでお昼をご馳走なりながら、自分たちがだれで、どのようなお手伝いができるか話しました。そして、その教会の周りの家々を訪問しながら、特別集会のチラシをくばりました。夜は、バザーの品物が置いてある部屋で寝袋で寝ました。いやー、朝いただいたトマトがとてもおいしかったです。次の日は、宇都宮福音キリスト教会に行きました。そこでは、道端に立って辻説教というのを試みました。韓国の先生に、「恥ずかしいなー」と言ったら、「イエス様やパウロは道端で説教をしましたよ」と言われました。「ご近所のみなさん。私は東京の葛飾から伝道にまいりました。私は高校生のとき、野球で有名な、落合博之の同級生でした!」。やったら、できるものであります。一人の女子高生が「イエス様を信じます」と言ってくれたので、彼女のために熱く祈りました。その夜は、クリーム・シチューをごちそうになりました。3泊4日の旅でしたが、1日が3日分くらい濃かったです。でも、ストレスがあまりにも大きかったので、それ以来、訪問伝道はやっていません。でも、出て行くとなんとかなるんですね。まことに「主の山には備えあり」であります。

③1つの家を拠点とする

 マルコ6:10「また、彼らに言われた。「どこででも一軒の家にはいったら、そこの土地から出て行くまでは、その家にとどまっていなさい」。ルカによる福音書には、町には平安の子がいるものだと書いてあります。平安な子とは、霊的に備えられた人、あるいは影響力のある人です。1つの家にとどまりながら、その町を伝道するわけです。使徒パウロも同じ戦略を用いました。パウロは始めてヨーロッパに渡り、ピリピの町で説教しました。使徒16:14-15、テアテラ市の紫布の商人で、神を敬う、ルデヤという婦人が聞いていたが、主は彼女の心を開いて、パウロの語る事に心を留めるようにされた。そして、彼女も、またその家族もバプテスマを受けたとき、彼女は「私を主に忠実な者とお思いでしたら、どうか、私の家に来てお泊りください」と言って頼み、強いてそうさせた。ピリピでの初穂は、ルデヤの家族でした。パウロは、彼女の家を基地にして、伝道したものと思われます。でも、それは彼女の家の祝福にもなったと思われます。韓国では、伝道者を喜んでもてなし、家の祝福のために祈ってもらうそうです。申賢均先生から聞いたことがありますが、お風呂上りに、新しい下着がちゃんと用意してあるそうです。そして、家族全員が、先生から按手してもらうわけです。日本ではこういう習慣はありませんが、イスラエルでは、預言者がいつでも泊まれるように、屋上の間を用意していたようです。ある伝道者が兵庫県の高砂教会に行ったとき、ホテルに宿泊させられたそうです。その先生は「ワシをホテルに放っている」と文句をつけたそうです。その次は、教会のゲストルームに宿泊しました。しかし、高砂教会は信徒の出入りが朝から晩まであるので、騒がしいんですね。そのため、先生は、「うるさくてかなわん、次からはやっぱりホテルでいいわ」と言ったそうです。

 それはともかく、初代教会の頃は、家の教会が伝道の拠点でした。パウロの手紙の最後を見ますと、「その家の教会によろしく」という表現が、何べんも出てきます。現代は建物のある教会が、基地みたいで、人々は遠くから通ってきます。しかし、日曜日ではなく、ふだんクリスチャンが住んでいるところが、宣教地であります。ですから、「我が家は、自分が住んでいる地域の灯台なんだ」と思わなければなりません。各々が、ご自分の町のために、祈る責任があります。そうしますと、その町にリバイバルがやってきます。私が宇都宮に行ったとき、教会の周りの人たちは、快く迎えてくれました。「ああ、あの教会から来たのですか。うちの子供たちが幼稚園でお世話になったんですよ」と言ってくれました。でも、教会のない別の町へ行くと、人々の反応が本当に冷たかったですね。その町にどれくらいクリスチャンがいるかわかりませんが、霊的に冷たいという感じがしました。この亀有教会に来る、来ないは別として、ご自分が住んでいる地域の人たちのためにとりなす必要があると思います。そして導かれたならば、家庭を開放して、セル集会をもたれたら良いと思います。牛久の恵泉キリスト教会は、クリスチャンの家庭をベースにして開拓伝道をしています。クリスチャンの家族が転勤などで遠くへ引っ越したとします。普通なら、近くの教会へ行ってくださいと言いますが、その教会はそうではありません。「ご家族で、教会をはじめてください」とチャレンジします。母教会が牛久なのに、茅ヶ崎とか小平、戸田に開拓教会ができています。だいたい、牛久教会の母教会は山形の米沢なんですね。若者が学校を卒業すると、米沢から東京に就職します。その若者たちのために、関東に家の教会を作っちゃうのですね。その家の教会が、やがて教会になるんです。その方式をストロベリーなんとか方式と言うそうです。みなさんは、イチゴを栽培したことがおありでしょうか?イチゴは葉っぱつきの枝が何本か伸びて、そこに根を張ります。しばらくは、親から栄養をいただいていますが、やがて独立するわけです。それでどんどん増えていきます。教団が教会を開拓するのは難しいですが、教会が母体になると効率よくできます。遠くの方は、日曜日、ご家庭で礼拝を持っても構わないんですよ。そこに未信者の夫やお母さん、あるいは子どもを出席させるのです。メッセージは金曜日か土曜日にメールで送ることができます。また、ホームページには、日曜日の午前9時には、その日のメッセージを見ることができます。だれか、その原稿をメッセージ代わりに読むことができます。実行された方は、後で人数を報告してください。ついでに、礼拝の献金もおささげください。家の教会は、地域を伝道するために、イエス様が教えた力強い方法です。あなたの家を地域のベースキャンプにしてください。あなたの家を地域を照らす、家の教会にしてください。

2.実践の必要性

 現代の神学校は建物の中に生徒を集め、三、四年、知識を詰め込めるだけ詰め込みます。そのあと、ポンと教会に牧師として派遣します。もちろん、数年、副牧師とかインターンのときはあります。でも、彼らは聖書の知識はあっても、技術がありません。知識がたくさんありすぎるため、恐れがあり何もできません。実際に使う以上の知識があり、かえって、それが邪魔になるわけです。しかし、イエス様の方法は現代の神学校とは全く違います。まず、教室スタイルではなく、生活を共にしながら教えました。一度に全部教えるわけではなく、少し教えてから、実践させました。すると、それまで学んだ知識を現場で生かすのです。頭で思っていたのと違うときがあります。失敗したら、どうして失敗したか分かります。水泳やゴルフもそうですが、一度、体得すると、体が覚えていますので、時間をあけても、すぐまたできます。頭の知識だと、すぐ忘れますが、体で覚えたものは忘れません。イエス様はこのように、体験的に教えたわけであります。先日、来られた香港のベン・ウォン先生は、「日本人の牧師は、知識は有り余るほどある。しかし、その知識を生かすスキル(技術)が乏しい。知識の問題ではなく、技術の問題である」とおっしゃっておりました。私が教えた「すずめの学校」あるいは、水曜・木曜日の勉強会、やっぱり知的な方に傾いていました。実践というか、技術を習得することに対して、疎かったと思います。勉強会に出ていない人でも、解放のキャンプでスポンサーをした人は、魂を扱う技能を持っていらっしゃいます。本当に偉いなーと思います。その人たちが韓国へ行って、「ああ、聖書の知識も必要だ」と気づいて、夜、集まって勉強しています。ですから、バランスが必要です。頭の知識だけではなく、実際に行うための技術であります。さらに、ベン・ウォン先生から「個人的に会って、リーダーたちをコーチングしていますか?」と聞かれました。グループでの勉強も良いけれど、その人を建て上げる目的をもって個人個人と時間を取る必要があるということでした。「いやー、やっていないなー」と反省させられました。雑談をする時間はあっても、目的を持って会うということはやっていません。ただ、問題が起こったときだけ会うわけです。それだと、「消防の火消しと同じだ」と言われました。そのため、牧師は問題の火を消すために走り回らなければなりません。「どうして、問題がない健康なときに、訓練しないのか」と言われましたね。そうですね。これから直面するであろう問題に対して、前もって教えておけば、将来、自分たちで解決できます。問題が起きてからだと、傷付け合うことが多くなるからです。「本当のリーダーシップは、自由にさせることではなく、ファザーリングすることである。ファザーリングとは、養育と訓練である」と教えられました。ああ、この年になって、またパラダイム・シフトが必要なのか、と愕然としました。みなさん、パラダイム・シフトとは、天動説から地動説になるような転換であります。昔、教会が天動説を唱えていたとき、コペルニクスという科学者が地動説を唱えました。パラダイム・シフトとは、私たちのこれまでの考えや生き方を全く換えることであります。これまでの、価値観を換えると言っても良いでしょう。それは、イエス様を信じたとき、だれでも経験なさられたと思います。でも、そればかりではありません。信仰生活を送って行く上で、いくつものパラダイム・シフトが必要であります。私たちは、案外、変えるべきところがあるのに、盲目にさせられていているのかもしれません。そして、これまでの古い方法にしがみついて暮らしているのです。でも、それは神様のみこころに反しており、神様の法則と逆のことを行っているわけです。それでは、効率が上がるわけがありません。時間とエネルギーの浪費であります。

どうぞ、みなさんも聖霊様が静かな御声で、「あなたのこのことを、パラダイム・シフトしなさい」と促してはいないでしょうか。パラダイム・シフトは方向転換という意味の悔い改めとも言って良いでしょう。パラダイム・シフト、悔い改める点があるならば大胆に悔い改めましょう。そして、主が用意しておられる契約の内を歩みましょう。古い馴染みの道を、新しい道に換えるためには勇気が必要です。また、新しい習慣が身につくまでは、数ヶ月かかるでしょう。私たちは、天国に行くまで、何度もパラダイム・シフト、悔い改めが必要なのであります。大胆に、方向転換いたしましょう

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