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2007年3月25日 (日)

ヘロデヤとその娘      マルコ6:19-29

バプテスマのヨハネは、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と、主の道を備えた最後の預言者であります。彼はイエス・キリストに洗礼を授けたのち、しばらくたって、ヘロデによって捕らえられました。なぜなら、彼はヘロデに対して「兄弟の妻を自分のものとしていることは不法だ」とさばいたからであります。きょうの箇所は、バプテスマのヨハネがどのようにして殺されたのか記しています。ですから、読んでもあまり恵まれる箇所ではありません。みなさんも、「神様に仕えたバプテスマのヨハネがなぜ、このように殺されなければならないのか!」と憤りを覚えてしまうでしょう。残念ながら、悪が栄えるときがあるのです。でも、それは一時的であります。きょうは、「こういう人たちのようになってはいけませんよ」と反面教師的に、学びたいと思います。

1.二心のヘロデ

 ここに出てくるヘロデは、ヘロデ大王の息子、ヘロデ・アンテパスであります。彼は「王」と呼ばれてはいますが、本当は王ではありません。その当時はローマが世界を支配して、カイザルが王でありました。しかし、ユダヤの地方は治めるのがむずかしいので、国主という中間的な支配者を置いていたのです。いわば、ヘロデはローマから雇われている王様だったのです。最近、日本では「県知事の待遇が行き過ぎるのでは」とずいぶんマスコミでたたかれています。人は権力を持つとだんだん腐敗するものでありますが、ヘロデも同じでした。彼は異母兄弟の妻、ヘロデヤを奪って、自分の妻にしました。ヘロデヤには前の夫との娘(連れ子)がいました。ヨセファスという歴史家は、その娘の名はサロメであったと記録しています。このサロメが王の誕生日に、あやしげな踊りをしたのであります。ヘロデは大変、喜んで「何でもほしい物を言いなさい。お前が望むなら、私の国の半分でも、与えよう」と誓いました。さきほども言いましたが、彼は本当の王ではなく、国主、知事です。それなのに大きな口をたたいたのであります。サロメが母ヘロデヤのところに行って「何を願いましょうか」と聞きました。すると「バプテスマのヨハネの首を」と言うので、そのままヘロデに伝えました。ヘロデは、「そんな馬鹿な願いを聞くわけにはいかない」と退けることもできたはずですが、メンツを気にして、受け入れました。気持ち悪い話ですが、ヨハネは首を切られ、その首が盆に載せられて運ばれて来ました。本当に、神様がおられるのだろうか?どうしてこういう横暴が許されるのだろうか!と言いたくなります。しかし、歴代の預言者の多くはこのように殉教して行ったのであります。

 まず、私たちはヘロデという人物に焦点を当てて、反面教師的に学びたいと思います。マルコ6:20が彼の性格を表しています。マルコ6:20「それはヘロデが、ヨハネを正しい聖なる人と知って、彼を恐れ、保護を加えていたからである。また、ヘロデはヨハネの教えを聞くとき、非常に当惑しながらも、喜んで耳を傾けていた」。ヘロデは根っからの悪党ではありません。彼はバプテスマのヨハネが正しい聖なる人であると知っていました。また、彼はヨハネの教えを非常に当惑しながらも、喜んで耳を傾けていました。それなのに、ヨハネを解放しないで、そのまま牢に閉じ込めていたのであります。こういう性格の人をこの世では、優柔不断とか、中途半端と言うかもしれません。でも、聖書ではこういう人を「二心の人」と言います。ヤコブ1:6-8「疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。そういうのは、二心のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠いた人です」。一人の心の中に、神様を信じたいという思いがあります。しかし、一方では、「信じるといろいろ、不自由なことが起こるからやめよう」という思いもあります。ヘロデは国主であったので、ある程度の権力が与えられていました。しかし、神様に従うと、おいしいところがとられてしまいます。だけど、全く信じないというわけにもいかない。このような人、私たちのまわりにいないでしょうか?みなさん、この世を愛しながら、同時に神様を愛することはできません。イエス様も「二人の主人に仕えることはできない」と言われました。しかし、私たちはヘロデのことを悪くは言えません。だれでも、ある程度は、ごまかして生きています。クリスチャンの中には、学校の先生もおられるでしょう。教会では創造主なる神様をほめたたえています。でも同じ人が、学校へ行くと進化論を教えています。そうしなれば、食べていけないからです。牧師でもそういうことがあります。普段は、「私たちは、主のしもべです」と謙遜にしています。でも、何かの大会の委員会に出かけると、席の順番を気にしたりします。大きい教会を牧会している先生は、重んじられる傾向にあります。ある牧師が日曜日、聖書から「病の癒し」の説教をしたそうです。帰り際、来られた方が「風邪で弱っています」と言いました。牧師は思わず「お大事にしてください」と答えたそうです。病の癒しのために祈れなかったわけです。

 こういうお話があります。イギリスのある村のことです。長い間、雨が降らないので、「教会に集まって、みんなで神様にお祈りしよう」ということになりました。いわゆる、雨乞いであります。ひとりの女の子が、傘を持ち、長靴をはいてやってきました。大人たちは、こんなに天気が良いのに、なんという格好をしているんだと笑いました。それから、教会に集まった人たちは雨が降るようにお祈りしました。午前中は非常によく晴れていました。ところが、お祈りが終わったあたりから急に空が暗くなりました。祈り会が終わった後、雨の中を、傘をさして帰った人は、あの女の子一人だったそうです。私たちも神様に祈りながらも、「もし、きかれなかったら、こうしよう」と逃げ道を作るものであります。こういうのを二心の人と言います。二心の人が良く言うセリフがあります。「信仰だけでは飯が食えない」「しかし、現実はきびしいから」「理想と現実は違うから」・・・これは霊の世界をみくびっている人であります。見える世界は、見えないものから造られたと聖書は言っています。神様が発せられることばは、単なることばではありません。「光があれ」とおっしゃるならば、「光がある」のです。私の母教会は神奈川県ですが、青年会には多くの若者たちが集まっていました。ある人たちは、この世を愛し、また同時に神様を愛していました。聖書を信じながらも、この世の基準で生きていたのです。まことに残念ですが、今はそういう人たちは教会にほとんど残っていません。結婚と同時に教会に来なくなった人もいます。ある試練にあってから、躓いて来なくなった人もいます。青年よりも、ある程度、年配になってからイエス様を信じた人は、「もう、これしかない」と教会を離れません。なぜなら、やっとつかんだ救いですから、ありがたみが違います。また、不幸のどん底から救われた人も、「もう、これしかない」と離れません。私なども、「イエス様から拾われた」と思っております。イエス様を信じたのではなく、イエス様から拾っていただいた、これが真実ではないでしょうか。まことの救い主に出会った人であるならば、この世を愛するわけにはいきません。

「自分の信仰は中途半端だなー」と思う人は、本当の意味でイエス様に出会う必要があります。イエス様は、ヨハネ14:6で「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」と言われました。神様に行く道は、One way、1本道であります。あるクリスチャンが、「私は天国に行けるという確信がありません」と言いました。よく聞いたら、その人は家に先祖の仏壇を置いて拝んでいるとのことです。その人は、「私はイエス様も信じているけど、仏教も捨てがたい」と言いました。私はわかりました。「だから、この人は天国に行ける確信がないんだなー。この人は、二心の人だから安定がないんだ」とわかったのです。みなさん、信仰は単純なものです。私の罪のために十字架にかかって、復活してくださったイエス様をまず信じることです。そして、「私はイエス・キリストを救い主、人生の主として受け入れます」と口で告白します。そうすると、神様の信仰が自分の中に与えられます。不思議なことに、「信じるぞ!」と力まなくても、信じることができます。つまり、信仰というのは、神様からの賜物なんです。でも、だからと言って、そのままにしておけば良いというものでもありません。私たちの側の責任もあります。どういう責任かと言いますと、神様を心から愛することと、神様に従うことであります。そのためには、私たちの意思も必要なのであります。神様を愛し、神様に従おうとすると、信仰がだんだん成長して行きます。そして、不可能なことも信じられるようになるのです。たとえ自分が望んだとおりなくても、「ハレルヤ!感謝します!」と言えるのです。なぜなら、神様が私を愛しておられることを知っているからです。どうぞ、イエス様を受け入れ、1つ心で神様を信じて行きましょう。そうすれば、祝福と幸いがあとから着いてきます。たとい、祝福と幸いがなくても、信じて行きましょう。そういう場合は、天国において、幾倍もの報いが与えられるからです。アーメン。

2.ヘロデヤとその娘

 この物語を見ますと、娘サロメの意思というものが全くないことに気づきます。ヘロデが「おまえの望むものなら、私の国の半分でも、与えよう」と言ったら、どう答えるでしょうか?普通の少女だったら、「お人形」とか「綺麗なドレス」と答えるでしょう。現代では携帯電話とかゲーム機と言うかもしれません。ところが、彼女は自分ですぐ答えるのではなく、お母さんのところに行きます24-25節、そこで少女は出て行って、「何を願いましょうか」とその母親に言った。すると、母親は、「バプテスマのヨハネの首」と言った。そこで少女はすぐに、大急ぎで王の前に行き、こう言って頼んだ。「今すぐに、バプテスマのヨハネの首を盆に載せていただきとうございます。」普通の女の子だったら、「お母さん、何を馬鹿なことを言うの?」と断るでしょう。でも、サロメは「今すぐに、バプテスマのヨハネの首を盆に載せてください」と頼んだのであります。私は母ヘロデヤと娘の関係は、少し異常だと思います。でも、こういう関係は、私たちのまわりに結構あるのではないでしょうか。お母さんと娘がくっついている関係、専門的には、こういうのを「母子密着」、あるいは「共依存」と言うようであります。何年か前に、チェンジング・キャンプで、石原牧師が同じところから話されました。先生のお話を少し引用したいと思います。

王様が10歳くらいの子どもに「欲しいものを言いなさい」と言った。そうしたら「お母さん」と言ったので、これは良い子である。私たちはこういう子供を育ててきた。そして、「言いつけをよく聞く子になりなさい」「親の言うことにちゃんと従う人間になりなさい」と育ててきた。みなさんの教育の基準がヘロデヤのようであったならば、子育てに成功したことになる。果たしてどうだろうか。お母さんの言うことを何でも聞く。子供も何が欲しいかと言われたら、「お母さんに相談してから決めなさい」ということをちゃんと実行している。みんなの前で実行しているので、お母さんに恥をかかせない、良い子供に育った。そして近所の人たちから言われるだろう。「お宅の子供は本当に良く育ったね。親の言うことを良く聞いて」。私もこういう話をいっぱい聞いた。そういう子に限って、結構、その後、大きな問題を起こす。しかし、私たちはどういう人になるべきであろうか。「何でも欲しいものを言いなさい」と言ったら、自分で欲しいものを言っていいのである。お母さんに聞く必要はない。自分がもらう権利があるのだから、欲しいものを言えばいいのである。問題は少女が「お母さーん。お母さん何が欲しい」とか言って、自分の欲しいものではなく、お母さんの欲しいものを聞いたことである。そうしたらお母さんが「ヨハネの首」と、異常なものを欲しがった。「預言者の首」とか言って、この世で最も恐ろしい首だと思う。しかし、それを聞く娘も異常である。「はーい」とか言って、殺人事件が起ころうとしているのに何とも思わない。お母さんの命令だから言うことを聞く。これはどういう問題だろうか。おそらく、ヘロデヤはヒステリックな女だと思う。大体、想像がつく。ヒステリックなために娘はいつもビクビクしている。娘はヒステリックなお母さんの言うことをきかないと、ご機嫌をそこなって、家から追い出されるかもしれない。だったら、お母さんの言いなりにならないとまずい。そして、ヒステリックなお母さんの言うなりになった娘、良い子になる決心をした娘がそこにいた。

私は5年くらい前にはじめて、「共依存」とは何かということを知るようになりました。実は、ヘロデヤと娘のパターンを共依存と言うわけです。石原先生もおっしゃっていますが、ヘロデヤはヒステリックなお母さんでしょう。娘のサロメは親の言うことを聞く、良い子に育てられました。しかし、本心はお母さんの言いなりになるのは嫌なのです。でも、逆らったら家から追い出されてしまう。生き延びるために、しかたなく言うことを聞いている。だから、娘の心の中には、お母さんに対する怒りがいっぱいつまっている。ヘロデヤのイライラベルトが娘がかけられ、ふりまわされている状態です。石原先生が考えた12の質問があります。3つくらいあてはまると、共依存の傾向があるそうです。8つ以上だったら、もう立派な共依存です。日本人は共依存の傾向があります。みなさんはどうでしょうか?では、順番にテストしてみたいと思います。

①自分の人生を送ることができず、父や母の代理として人生を送っている。つまり、自分がない。

②人の評価を非常に気にする。世間体がとっても気になる。

③時々、他人の問題を自分のように苦しむ。他人と自分との境界線が曖昧である。

④他人に自分がいなければ生きていけない環境を作りたい。「あなたは本当にひどい人間なので、私がいなければ生きていけない。あなたはたくさんの問題があって私がいないと生きていけない」と言う。世話をすることによって、生きがいを感じている。

⑤何が正しいか、時々わからなくなる。聖書の言うことか、お母さんの願いか曖昧になってくる。

⑥完ぺき主義で他人の問題に首をつっこみ、正そうとする傾向がある

⑦正直に本音が言えず、時々、嘘を言う。「ノー」と言えない。

⑧親密な人間関係が持ちづらい。どうしても心の中に入っていけない

⑨良い子になって自分の悲しみや怒りに蓋をしている。それを表現することがすごく怖い。

⑩過度に責任を引き受けたり、逆にストレスがたまって爆発して無責任になったりする。

⑪自分で決めることができない。決断をするとき、親的な人に承認を求めたりする傾向がある。

⑫罪悪感が強い。罪でないことでも罪悪感を覚える。自分に対する自己評価が低い。

 短い時間に、共依存からの解放について話すことはできません。一番、多いパターンは、ヘロデヤと娘のような関係です。ヘロデヤはものすごくヒステリックで、怒りで子どもや夫をコントロールします。夫はおしん役。娘は仕方なく言うことを聞き、良い子を演じます。もう1つのパターンは、父親がアルコール中毒か、ギャンブル中毒。彼は乱暴な言葉や暴力で子どもや妻をコントロールします。妻がおしん役です。娘は母から父の悪口をいっぱい聞かされます。娘が大人になったら、父親と同じような男性を探して、世話をします。娘ばかり強調されていますが、息子も親と共依存の関係になることもあります。服部先生は、「巨人の星」の星一徹と星飛馬が共依存の関係であると言っておりました。また、「のびたとどらえもん」も共依存の関係です。他に、プロゴルファーのさくらとお父さん、レスリングのアニマル浜口とその娘、卓球の愛ちゃんとそのお母さん、狂言の和泉元彌(もとや)親子もそうかもしれません。子どもが親の夢をかなえてあげるために頑張っているような気がします。あんまり言うと怒られるかもしれません。つまり、共依存とはアル中やヒステリーなど、問題のある人を助ける役であります。「私がいなければ」と助けると、当人は問題を解決してもらうので痛みを感じません。その結果、治るのがずっと遅くなります。一番良いのは、問題のある人を放っておくことです。その人が苦しんで、「これではイカン」と反省するか、死ぬかどちらかです。私たちには人を変えたり、救ったりすることができないということを自覚すべきです。では、だれがやるのでしょうか?それは神様です。神様にゆだねるということがとっても大切です。一番大事なのは、問題のある人ではなく、あなた自身が救われることです。以前は、ヒステリックなお母さん、もしくはアル中の父によって、ベルトをかけられて振り回されていました。そのベルトを一旦はずして、父なる神様にベルトをかけなおすのです。父なる神様は愛であり、善であり、正しいお方です。この方と結ばれると、あなたがあなたらしくなるんです。では、あなたの近くの問題のある人をどう助ければ良いのでしょうか?さきほども言いましたが、私たちは人を変えたり、救ったりすることはできません。私たちができるのは、本人が正しい選択をして、行動ができるように助けることです。決断と実行は、当人の問題です。これは、子育てでも同じです。私たちは良い機会やアドバイスを提供することはできます。でも、最終的には、子ども自身が決断と実行するしかありません。すばらしい希望は、その子どもが神様と結ばれているなら、神様から力がやってきます。私も神様と結びつき、子どもも神様と結びついている。これが一番です。

 共依存のもともとの原因は、親との関係からはじまったものでした。でも、その人が共依存的な体質を一度持ってしまうと、夫との関係、妻との関係、子どもとの関係、上司との関係、友人との関係、牧師との関係・・・ぜんぶ共依存にしてしまいます。相手の言いなりになって、「ノー」と言えない。いつも人の世話ばかりして、心の中には怒りがいっぱいあります。人にふりまわされて人生が終わってしまいます。しかし、日本人の多くは共依存体質を持っています。自分で決断して、行動することが苦手です。人の顔色を見て、戦々恐々と生きています。私たちには絶対者なる神様が必要です。人との関係の前に、まず神様との関係を持ちましょう。人からどう思われるかの前に、神様がどう思われるかを問いましょう。本当の神様は全知全能なだけではなく、愛なるお方です。また、聖書には絶対的な基準が書いてあります。聖書をみことばと言いますが、みことばが何と言っているか。みことばに従うことを第一にすると、本当に自由になります。イスラエルの人たちは律法によってがんじがらめで生きていました。しかし、日本人は世間体で、がんじがらめで生きています。聖書は、「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい」(ガラテヤ5:1)と語っています。

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