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2007年3月 4日 (日)

ただ信じていなさい    マルコ5:35-43

 春が近づいてきました。その証拠に、花粉が舞い、目やのどが痛いという方もおられると思います。私は、風邪はほとんど治りましたが、朝、起きるとくしゃみが出ます。何かのアレルギーがあるのかもしれません。私は人に対しては「花粉症を叱る。アレルギーよ、去れ」と信仰をもって大胆に祈ることができます。しかし、自分に対しては信仰がないのか、そうは祈れません。「それじゃ、だめじゃん!」笑点風に言いました。きょうは、信仰についての学びです。あることを信じることは案外できますが、信じ続けるということが結構難しいものです。きょう登場します、会堂管理者ヤイロは、信じ続けた人であります。

1.ただ信じていなさい

 会堂管理者ヤイロはイエス様に「どうかお出でくださって、私の小さい娘が死にかけています。手をおいてやってください」とお願いしました。イエス様は彼と一緒に出かけました。弟子たちと多くの群集もイエス様について行きました。しかし、その途中、12年間、長血をわずらった女性が割り込んできました。その間、かなりの時間をロスしてしまいました。35節は、その直後の出来事であります。35、36節「イエスが、まだ話しておられるときに、会堂管理者の家から人がやって来て言った。「あなたのお嬢さんはなくなりました。なぜ、このうえ先生を煩わすことがありましょう。」イエスは、その話のことばをそばで聞いて、会堂管理者に言われた。「恐れないで、ただ信じていなさい。」なんと、家から使いがやって来て、もう死んだので、イエス様に来ていただく必要はないとのことです。会堂管理者は、「ああ、なんという厳しい現実だろう。死んだのならもうおしまいだ」と、思ったでしょう。しかし、イエス様はその話をそばで聞いて「恐れないで、ただ信じていなさい」と会堂管理者に言われました。口語訳聖書は「イエスはその話している言葉を聞き流して、会堂司に言われた」となっています。「聞き流して」という訳はとても面白いと思います。ギリシヤ語のパラクーオーには、「そばで聞く」の他に「聞き流す」「心にとめない」「聞こうとしない」という意味があります。ですから、この場合、「聞き流す」の方が、良いような感じがします。不信仰な人の言葉を「聞き流す、心にとめない」ということも重要だからです。イエス様ご一行は、いよいよ、会堂管理者のお家に近づきました。すると、もうお葬式の準備をしていました。当時は、悲しみを盛り上げるために、笛を吹く者や泣き女が雇われたようです。彼らは、イエス様が「子どもは死んだのではなく、眠っているのです」と言ったことに対して、イエス様をあざ笑いました。イエス様はそういう不信仰な人たちを家から追い出しました。そして、子どもの父と母、3人の弟子たちだけを伴って、子どものいる部屋に入ったのです。

 このところで学ぶことは、信仰の妨げが起こったとしても、信じ続けるということです。会堂管理者ヤイロの立場で考えて見たいと思います。お家にイエス様をお連れするまでに、どんな障害があったでしょうか。まず、第一は12年間長血をわずらっている女性が飛び込んできました。イエス様はわざわざその女性を捜し出して、証しをさせました。癒された女性にとっては良かったかもしれませんが、ヤイロにとってはイライラさせられる時間だったでしょう。第二は、家から使いがやってきたことです。使いは、親切なつもりで言ったのかもしれません。「お嬢さんは亡くなりました。なぜ、この上、先生を煩わすことがありましょう」。もう死んだ。it’s too late.

であります。そのとき彼の信仰は風前の灯でありました。それに対して、イエス様は「恐れないで、ただ信じていなさい」と言われました。第三は、人々が大声で泣いたり、わめいたりしていました。もう、お葬式が始まっていたのです。死んだという現実が、そこにあったのです。人々は死人に対して何かをしようとしたイエス様をあざ笑いました。こういういくつかの障害を乗り越えて、ヤイロはお家まで戻ってきたのです。この世においては、人が一旦、信仰を持ったら、必ず妨げが起こります。サタンが背後で糸を引いているのかもしれません。少し前に、道端に落ちた種について学びました。みことばを聞くと、サタンが来て、彼らにまかれたみことばを待ち去ってしまうと書いてありました。でも、すばらしいことに、信仰を失いかけたとき、イエス様が「恐れないで、ただ信じていなさい」とお声をかけてくださいます。「ただ信じていなさい」は、「ただ信じ続けなさい」とも訳せる言葉です。

 みなさんも、一旦は信仰を持ったものの、さまざまな障害や妨げにあったことはないでしょうか?私は小学校のとき、読書感想文を書かせられました。そのとき選んだのが、十和田湖のヒメマスです。十和田湖は魚の住めない湖として知られていました。しかし、和井内貞行という人が、明治17年(27歳のとき)鯉の稚魚を放流しましたが失敗、さらにイワナも失敗。日光のマスも失敗。最後には支笏湖産のヒメマスを放流。和井内夫妻はすべての財産を使い果たしてしまい食べるのにもことかく状態です。放流後、2年経ちました。彼が48歳のとき、つまり21年後です。ある日の夕方、風がないのに湖にさざなみが立っていました。ヒメマスが産卵のため岸に押し寄せて来たのです。和井内夫妻は屋根の上にのぼり「われ幻の魚を見たり」と叫びました。彼はクリスチャンではありませんでしたが、信じ続けた人の勝利であります。エジソンと言えば発明王で有名です。彼はクリスチャンです。エジソンは白熱電球を長時間輝かせるために、木綿糸の他に何が良いか捜し求めました。なんと世界各地の6,000種を超える素材を使って実験を繰り返しました。友人の髭も使ってみました。ある日、扇子の竹を使ったところ、200時間も輝きました。木綿糸の約5倍です。今度、彼は世界から1,200種類もの竹を集めました。一番長く灯ったのが京都八幡宮の竹でした。なんと、2,450時間も輝き続けたのであります。岩清水八幡宮の境内には、エジソン記念碑があるそうです。それはともかく、エジソンもあきらめないで、たくさんの発明をしました。聖書ではアブラハムとサラです。アブラハムは、75歳で召命を受け、海辺の砂ように子孫が与えられると約束を受けました。ところが年が進み、肉体的に全く不可能になりました。ローマ4章後半にこういうみことばがあります。「アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました(ローマ4:19-21)」。実際は、疑ったのですが、新約聖書は、「不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず」と書いてあります。

 信仰を妨げる敵とは一体何でしょうか?第一は遅延であります。「遅すぎた」ということです。私たちは「もう手遅れだ」とか「もう年だ」と言うかもしれません。しかし、神様の時間と私たちの時間には違いがあるようです。ヤイロは長血の女性が割りこんで来たために遅れました。家に着いたらもうお葬式が始まっていました。第二は人の言葉です。時には親切なことばでも、神様の御旨に反するものがあります。「あなたのお嬢さんはなくなりました。なぜ、このうえ先生を煩わすことがありましょう。」とっても合理的で理解できるものです。でも、イエス様はその人の言葉を聞き流しました。人の言葉をいつも聞き流してはいけませんが、不信仰な言葉は聞き流す必要があります。なぜなら、疑いと恐れが入ってくるからです。第三は自分の常識とか理性であります。家に着いたときには、娘がすでに死んでいました。娘の死はだれの目にも明らかだったのです。しかし、イエス様は「子どもは死んだのではない、眠っているのです」と言われました。人々はイエス様をあざ笑いました。常識が外れているとあざ笑ったのです。確かに常識も必要です。でも、常識と信仰が対決する場合があります。そのときは、信仰を選ばなければなりません。クリスチャンというのは、常識が外れている、おかしな人種に入ります。さきほど引用した、和井内貞行やエジソンも人々から「頭がおかしい」とか「変人」と思われていました99歳のアブラハムは、奥さんをサラ(多くの国民の母)と呼びました。89歳のサラは夫をアブラハム(多くの国民の父)と呼びました。人々は「二人はとうとう頭がおかしくなった」と思ったでしょう。信仰のない人たちは色んなことを言うものです。クリスチャンは人格的であるべきです。しかし、いざ、信仰となるとそういうわけにはいきません。私たちは、非常識ではなく、超常識であります。第四は不信仰な人たちです。イエス様は不信仰な人たちを家から追い出しました。イエス様は不信仰な人たちとは一緒に働かれません。本当に信じている人が一人でも二人でもいれば良いのです。たとえ、大勢の人が信じなくても安心してください。モーセは、カナンに12人のスパイを派遣しました。12人はその地の産物を持って帰ってきました。しかし、イスラエルの民は、2人の話を聞かないで、10人の否定的な言葉に耳を傾けました。神の国は多数決ではありません。

 イエス様は「恐れないで、ただ信じていなさい」と言われました。ただ信じていることは、結構、難しいことであります。何かしろ!と言われた方が楽であります。でも、私たちは神様を助ける必要はありません。神様がなしてくださるのですから、ただ信じていれば良いのです。つまり、信じるということが、神様の御手を動かすための、私たちの役目なのです。神様は私たちの信仰を通して働きたいのです。子どもが自転車に乗れるように訓練したことがあるでしょうか。後ろでパパがちゃんと押さえています。子どもはハンドルを握って、いれば良いだけなんです。でも、子どもが「こわいよー」とハンドルから手を離したらどうなるでしょう。パパはそれ以上何もできません。同じように、私たちが神様の約束を握っていさえすれば良いのです。神様の約束を疑ったり、恐れたりして離したりしてはいけません。イエス様は「恐れないで、ただ信じていなさい」とあなたに語っておられます。

2.タリタ・クミ

 マルコ5:41-42「そして、その子どもの手を取って、「タリタ、クミ。」と言われた。(訳して言えば、「少女よ。あなたに言う。起きなさい。」という意味である。)すると、少女はすぐさま起き上がり、歩き始めた。十二歳にもなっていたからである。彼らはたちまち非常な驚きに包まれた。「タリタ、クミ」とは当時、イエス様たちが使っていたアラム語であります。マルコによる福音書の記者は、イエス様がおっしゃった言葉をそのままとどめておきたかったのでしょう。ある沖縄の教会のホーム・ぺージに「タリタ、クミ」という題で証しが載っていました。この人は、バーバラ・クミンスキーという女性です。彼女は、高校生のときから、まっすぐに歩けなくなり、よく廊下の壁やロッカーにぶつかりました。大学に入ったときに、多発性硬化症と医者から告げられました。せっかく入った大学にも行けなくなり、心臓と肺が一時停止したこともありました。19才には、手足は曲がり、使いものにならなくなり、絶えず酸素吸入が必要でした。ここからは彼女自身の言葉です。20才の時でした。それからの数年間、私の教会の牧師さんが特別な友人となりました。入院している時も、家で寝たきりの時も、毎日、訪ねてくれたのです。この牧師さんが、私に何が一番必要かを教えてくれました。信仰の内に成長することです。それは、私のように役立たずと思えるような存在であってもしがみつける目標でした。私は神に呼ばわりました。「お願いです。私はもうあなたの御言葉さえ読めません。でも何かをしたいのです。」神様から「祈ることは活動である。他の人達のために祈りなさい。」とすぐ答えがありました。祈りのために何時間も費やしました。友人達が来ると、何か読んでくれるように頼んだり、一緒に祈るようにお願いしました。神が私のすぐそばにおられるかのように、声を出して神に語りかけたりもしました。しかし、病状は悪化するばかりで、肺はほとんど機能しなくなりました。目もよく見えません。殆ど盲目状態でした。両親は私のために家を改造し、電動くるまイスのためのスロープや病人用ベッドを設置し、酸素用チューブが三部屋に張り巡らされました。私がどこにいても酸素を吸入できるようにです。誰もが死が近いと思っていました。医師達もそれを否定しませんでした。

そして、運命の1981年6月7日がやって来たのです。その日は日曜日で、妹のジャンの誕生日でした。ジャンは誕生日のお祝いのために家に戻っていて、私もケーキ作りを形だけでも手伝うことを楽しみにしていました。何て明るく美しい誕生日だろうと思っていた時、母が部屋に来ました。「ケーキのたねの味見したい?」と聞かれたので、うなずきました。手を借りて、何とか体をベッドから車いすに移しましたが、まるで胎児のように足が曲がっていたので、床にぴったりと足をつけられませんでした。間もなくして、教会の朝の礼拝を終えた友達のジョイスとアンジェラの二人が顔を出しました。3人でおしゃべりをしていると、聞こえたのです。4人目の声が!私の左肩の後ろからはっきりと聞き取れる声で。「子よ、立って、歩きなさい。」びっくりして二人の顔を見ました。何も聞かなかったようですが、私には確かに聞こえました。「ジョイス! アンジェラ!神様が私に語りかけたわ。立って歩けと言われたの。聞こえたのよ!」呆気にとられて、二人は私をまじまじと見つめていました。私はのどから酸素ボンベのチューブを抜き取り、腕から固定器を外すと、文字通りベッドから飛び降りたのです。私は立っていました。5年間も自分の体を支えることの出来なかったその足で。そうです。不可能な事が起こったのです。こんな事はありえないと証明する医学的根拠は山ほどあったでしょうが、とにかく私は立っていたのです。しっかりとぐらつきもせず。体中がぞくぞくし、シャワーから出てきたばかりのような新鮮で快適な気分でした。自由に呼吸でき、目も見えます。完全に健康になった自分が見えました。手首の方にえびぞりになっていた手もまっすぐです。腕と足の筋肉には力がよみがえり、健康そのものです。足はまるでダンサーのようにまっすぐ床についています。廊下で母に会いました。母はちょっと立ち止まってから、私の寝間着のすそを持ち上げてみました。「バーバラ、ふくらはぎがちゃんとあるわ。」と叫んでいました。父は居間に通じるスロープの所にいました。胸がいっぱいで言葉もなく、ただ私を腕に抱いてワルツを踊り出しました。アンジェラは自分でも何を言っているのか分からない状態でした。「で、でも、バ、バ、バーバラ、そんなことって完全に正常よ。本当の奇跡だわ。」私達は皆そこで神をほめたたえ始めました。

 会堂管理者ヤイロの家も驚きと喜びにつつまれていたことでしょう。イエス・キリストは、病を癒しただけではなく、死んだ人を生き返らせたのです。もちろん、少女は、生き返ったときは、健康になっており、食事を取るように言われました。ルカ8章には、「イエスが命じると、娘の霊が戻ってきて、娘はただちに置き上がった」と書いてあります。イエス・キリストはヨハネ11章で「私はよみがえりであり、いのちです」と言われました。死んだ人を生かすというのは神様しかできません。死はどんな人にでもやって来ます。宮殿に住んでいる人にでも、バラックに住んでいる人にでも、死はやって来ます。富んでいる人にも、貧しい人にも、死はやって来ます。どんなに健康な人であっても、やがては死がその人を飲み込みます。私たちの最大の敵は死と言って良いでしょう。でも、だれ一人、この死には打ち勝つことができないのです。私たちは死に勝てないので、死を考えないようにするか、何かでカモフラージュします。特に日本人は、死と向き合うことができません。そして、クリスチャンでもないのに、天国に旅立ったと言います。しかし、それはごまかしです。イエス様はマルコ4,5章を見ますと、さまざまなものに勝利したことがわかります。嵐に打ち勝ち、悪霊に打ち勝ち、病気に打ち勝ち、そして、死にまでも打ち勝ちました。まさしく、イエス・キリストは救い主であります。

 私は教会でこのように宣言したら、みんながアーメンと答えるでしょう。しかし、私が一歩、外へ出て、このような話をするならどうでしょう。人々は「宗教はやめてくれ!」と断ります。先週、パワーフォーリビングを駅前とアリオで配りましたが、あまり受け取ってくれません。「いやー、何故だろう」と疑いました。私などは寒くて、風邪がさらに悪化しました。この世では、イエス・キリストは宗教の1つです。宗教って何でしょう。おそらく、ある人にとっては救いであるが、ある人にとってはそうではない。だから、強制しないで欲しいと言うのでしょう。でも、みなさん、死はだれにでもやって来ます。ヘブル9:27「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」とはっきり書いてあります。それに備えないで、どうやって毎日を喜んで生きてゆけるでしょうか。アリコジャパンに入ったとしても、本当の解決にはならないんです。うちの小学校1年の子ども、「パパ、死にたくない」と言います。ふつうの親だったら、どう答えるでしょうか?「みんな死ぬんだから、怖いことはないよ」と言えるでしょうか?聖書には、はっきり罪と死に勝利したイエス・キリストが提示されています。「私はよみがえりです。命です。私を信じる者は死んでも生きるのです」(ヨハネ11:25)。インフルエンザの人には、ワクチンを打つと良いと言われます。死に対抗するワクチンは、イエス・キリストです。イエス・キリストを信じている人は、永遠の命を持っており、肉体の死がやって来ても怖くありません。クリスチャンになるとはっきりした確信が与えられます。死がそれほど怖くないことと、私は天国にゆけるという確信があります。ハレルヤ!これは本当です。

みなさん、少女はまだ、12歳でした。他の福音書にはひとり娘と書いてあります。12歳でも死がやってくるのです。彼女の家は死の力による嘆きと悲しみで満ちていました。お葬式も始まり、泣き女や笛吹きが招かれ、宗教をやっていました。しかし、よみがえりであり命であられるイエス様が入って来たらどうなったのでしょう。死が追い出され、命がやってきました。そして、嘆きは踊りに、悲しみは賛美に変わったのです。家族が戻ったのです。キリスト教は宗教ではありません。イエス・キリストであります。よみがえりであり命であるキリストと一緒に生活することです。たとえ、肉体の死がやって来たとしても、キリストと共に永遠に生きるのです。クリスチャンはこの世の人とは同じではありません。クリスチャンとはキリストに属するものであり、すでに永遠の命が与えられ、天国に片足を入れて生活している存在であることを忘れてはいけません。

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