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2007年2月25日 (日)

健やかでいなさい    マルコ5:25-34 

 本日の物語は、ヤイロの娘のよみがえりの物語にサンドイッチのようなかたちで入っています。つまり、12年間長血を患っていた女性が、途中から割り込んで来たという構造です。ヤイロの娘のお話は次週にまわして、今朝は、長血を患っていた女性に焦点をあてて学びたいと思います。他の福音書に比べ、マルコによる福音書がこの物語に、一番多くの字数をあてています。それは、この福音書の記者が、教えよりも、イエス様の力あるわざを強調したいからであります。みなさんの中にも、「こ難しい教え」よりも、実際的な事に興味がある方がおられると思います。

1.信仰によるコンタクト(接触)

 この女性は一種の婦人病であったと思われます。出血が止まらず、なんとそれが12年間も及んでいました。彼女はさまざまな苦しみを身に負っていました。男性には生理不順というものは分かりませんが、身体的にひどい痛みがいつも伴っていたと思われます。もちろん、医者や薬にも頼ってみました。しかし、26節を見るとどうでしょう。「この女は多くの医者からひどい目に会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった」と書かれています。げー、なんと気の毒な!当時の医者の中には怪しげな祈祷師もいたでしょう。では、「医学の発達した今日だったら直せるのか?」というと必ずしもそうではありません。現代でも、治療できない難病が山ほどあります。無免許の医者もいますし、高額の医療費をふっかける病院もたくさんあります。彼女は「多くの医者からひどい目に会わされて…かえって悪くなる一方」でありました。持ち物をみな使い果たし経済的にも破綻状態、親や親戚からも「ごくつぶし、厄介者」とまで思われていたでしょう。そればかりではありません。イスラエルでは、長血を患うという病気は、宗教的に汚れているとみなされました。レビ記15章によりますと、そういう女性がさわったものは物でも人でも汚れると書いてあります。おそらく会堂に入ることも許されなかったでしょう。つまり、彼女は肉体的な苦しみばかりか、経済的、精神的、霊的にも苦しんでいたということです。彼女は、体力がなくて仕事もできず、結婚もできない。これが12年間も続いたということは、想像を絶する、苦しみでありました。この女性はイエス様から、「娘よ」と呼ばれていますので、あまり年を取っていないと思われます。仮に18歳から発病したとすると、今は30歳であり、青春時代も何もあったものではありません。まさしく、生き地獄と申しましょうか、呪われた人生であります。

 でも、彼女にも良い知らせが届きました。イエス様がガリラヤに戻られたというニュースを聞きました。27-28節「彼女は、イエスのことを耳にして、群衆の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物にさわった。「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。」と考えていたからである。まず、群集ですが、一体どれほどいたと思われるでしょう?100人、200人ではありません。おそらく、一千人はいたのではないかと思います。もう、黒山の人だかりです。彼女は弱い体を鞭打って、人々を押し分け、掻き分けて群集の中に入って行きました。なんたって、力がないんですから、這うように必死に近づいて行きました。彼女は「…きっと直る」と考えていたからであるとあります。この「考えていた」は、原文では、「ぶつぶつ言っていた」「口ずさんでいた」であります。彼女は、「イエス様のお着物にさわることでもできれば、きっと直る」「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。きっと直る、きっと直るんだ。」と口ずさみながら、イエス様に近づいて行ったのです。私が建設会社に勤めていた頃、学生時代に山登りをしたという同僚がいました。日大の山岳部であります。山登りは、頂上に近づくと、体力も限界になり、苦しくなります。そのとき、彼はあることを口ずさみながら登ったというのです。彼はマージャンをしていました。だから、「メンタンピンドライチ、メンタンピンドライチ、メンタンピンドライチ」と言いながら登ったということです。彼女の場合は、心の中にあるものが、口からあふれていました。「お着物にさわることでもできれば、きっと直るんだ」という信仰が口からあふれていたのです。ハレルヤ!彼女は群集に紛れ込み、うしろからイエス様の着物にさわったのには訳があります。自分が触ったことで、イエス様を汚してしまうという恐れがあったからでしょう。しかし、どうでしょう。自分の汚れがイエス様に行ったのではなく、逆にイエス様の方から力が流れてきました。29節「すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことをからだに感じました」。イエス様があとから、「だれか私の着物にさたった」と言っています。でも、弟子たちは、「群集があなたに押し迫っているのに、だれなのかどうして解るでしょう」と答えています。つまりこういうことです。大勢の人たちが、イエス様に触ったのです。中にはミーハーがいて、スポーツ選手か芸能人に触るようにペタペタさわったでしょう。でも、信仰をもって触ったのは、この女性の他には一人もいなかったのです。彼女は信仰をもって触りました。イエス様のからだではなく、着物の一部分です。でもそこが接点となり、感電したように、イエス様の力が自分のからだの中に流れて癒されたのです。すげぇー。

 イエス様はあとで、「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです」と、彼女の信仰をほめておられます。それでは、彼女のどのような信仰がすばらしいのでしょうか。福音書を見ますと、いろんな人が癒しを求めてイエス様に近づきました。差別用語ですが申し訳ありませんが、あるらい病患者は、「おこころ1つできよめていただけるのですが」と、イエス様のまん前にひれ伏しました。盲人のバルテマイは、「ダビデの子、イエスよ。私をあわれんでください」と大声を上げて、イエス様の足を止めようとしました。百人隊長は友人を遣わして「おことば1つでしもべの病気はいやされます」と言いました。どれもすばらしい信仰です。でも、彼女の場合は、イエス様の背後からこっそり近づいて、衣に触りました。決して大胆ではありません。彼女は自分が汚れている存在であると思っていたのと、イエス様を足止めしてはいけないという遠慮があったからでしょう。でも、「イエス様のお着物にさわれば直る」というのは、異教的でしょうか?昔はイエス様の聖骸布や、使徒パウロやペテロの聖遺物を探し求めた人たちがいました。彼らは、そういうものに触れると病気が直ると信じていました。現代では、カルロス・アナコンデアとか、ベニー・ヒンに触れてもらうと病気が直ると信じている人が大勢います。しかし、本当の信仰はそういうものではないと思います。彼女は信仰をもって、イエス様の着物にさわりました。癒しの源は、生きておられるイエス・キリストご自身であり、着物ではありません。彼女は直接、イエス様に触らなくても、着物の端っこだけで充分、自分は癒されると信じていたのです。ハレルヤ!

ところで、ルカ福音書8章にも同じ記事があります。そこには、「イエス様の着物のふさにさわった」(ルカ8:44)と書いてあります。この記事はユダヤ人が見ると良くわかるそうです。着物のふさとは、単なる端っこではなく、権威を象徴しているということです。旧約聖書を見てわかりますが、大祭司の服の裾はふさ状になっており、ざくろの形をした鈴が付けられています。やはり、着物のふさとは、権威を現しています。ということは、この女性は、病に打ち勝つところのイエス様の権威にすがったということです。今は、イエス様は目に見えるお姿ではおられませんので、どのように適用できるでしょうか。これは今日的には、信仰によって主に近づき、主の臨在に触れるということではないでしょうか。イザヤ書6章には、預言者イザヤが神殿で見たまぼろしが書かれています。イザヤ6:1「私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、セラフィムがその上に立っていた」と書かれてあります。主の着物のすそが満ちていることと、主の臨在と関係があるようです。私たちの目には見えませんが、この礼拝のまん前に、白い衣を着たイエス様がおられるということです。この女性がイエス様に近づいて、お着物のふさ、あるいはすそをつかんだように、私たちもそうすべきであります。主の臨在がここにあるのです。信仰をもって、イエス様に近づき、イエス様の臨在に触れましょう。だれか神の人が直接、手を触れなくても、主ご自身が癒してくださることを信じましょう。癒しと言ったら、キャサリーン・クルマン、ベニー・ヒン、チョーヨンギ師、ラインハルト・ボンケ師が有名です。でも、彼らが直接、手で触るよりも、その会場にいただけで、聖霊様に触れられて癒される数の方が圧倒的に多いのです。主は今も生きておられ、信仰によってご自身に近づく者たちを超自然的に癒してくださいます。「この礼拝に出席して、賛美をしている間に、メッセージ中に、あるいは祈っている間に癒された!」そういうすばらしい癒しが起こることを期待いたしましょう。主はここにおられます。王座に座した主のこころものすそがここまで伸びています。ハレルヤ!

2.健やかでいなさい

この女性は、癒された後、そのままこっそり帰るつもりでした。しかし、イエス様がそれを許しませんでした。恵みのドロボーと言いたいのでしょうか?イエス様は振り向いて「だれが私の着物にさわったのですか」と、群集に問いました。弟子たちは、「群集があなたに押し迫っているのに、だれか分かる訳がないでしょう」と言わんばかりです。イエス様は、触った人がだれか知ろうと見回しました。33、34節「女は恐れおののき、自分の身に起こった事を知り、イエスの前に出てひれ伏し、イエスに真実を余すところなく打ち明けた。そこで、イエスは彼女にこう言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」イエス様は本当に、だれが触ったのか分からなかったのでしょうか。いいえ、そうではありません。全知全能であられる主は、だれが触ったか、その女の一部始終を知っておられました。しかし、あえて名乗り出るように時間を与えたのです。「ああ、イエス様も人が悪い。女性の病気なのに、さらしものにする気ですか?そのまま、帰せば良いじゃないですか」と言うかもしれません。そうではありません。イエス様は彼女を祝福したかったのです。もし、彼女がそのまま名乗らずに帰っても、肉体の癒しはいただけたかもしれません。しかし、それだけでは、十分ではありません。彼女の精神的面、そして霊的な分野、今後の将来のこともあるでしょう。12年間の心身の苦しみと経済的な損失、神から呪われたような生活などの心のトラウマがまだ癒されていません。イエス様はそれらの問題を解決するため、荒療治かもしれませんが、みんなの前で告白するように仕向けました。彼女は、イエス様の前に出てひれ伏し、イエス様に真実を余すところなく打ち明けました。これが大切なのです。エペソ5:13,14「けれども、明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。明らかにされたものはみな、光だからです」。彼女がありのままを告白したことによって、彼女の心が癒されたのです。彼女のやみの部分に光が差し込み、癒しと解放が起こったのです

そればかりではありません。イエス様は何とおっしゃったでしょうかマルコ5:34そこで、イエスは彼女にこう言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」イエス様は彼女の信仰を賞賛されました。「安心して帰りなさい」とは、「これからの人生が平安であるように」という祝福の言葉です。また、「病気にかからず」は、原文をそのまま訳すとこうなります。「癒されていよいよ、達者になって、もうその病気にかかるな!」という意味です。つまり、イエス様は「二度とこういう病気にならないように」と封印されたのであります。一時的には良くなっても、また、病気が再発するかもしれません。そうならないように、イエス様は後ろのドアを閉じたのです。だから、もう、病の霊は入ってきません。でも、もっとすばらしいのは、「すこやかでいなさい」というイエス様のおことばです。これは、英語では、be wholeとなっています。Wholeはホーリスティックという、「包括的な」という言葉と関係があります。ですから、be wholeは「生活全体に欠けがないように」とか、「全人格的に健全であるように」という意味になります。では、以前の彼女の生活はどうだったでしょうか?出血が止まらず肉体的な痛みを持っていました。多くの医者からひどい目に会わされました。自分の持ち物をみな使い果たしてしまいました。経済的には破産状態です。親や親戚からも「ごくつぶし、厄介者」とまで思われていました。宗教的に汚れているとみなされていました。その体では、結婚もできなかったでしょう。でも、be wholeは、これらを全部帳消しにするということです。二度と病気にならない健康な体、ひどい目に合わされたトラウマからの解放、働くことができて経済的にも祝される、霊的にも祝される、結婚をして良い家庭を持つことができる。これが、be whole「すこやかでいなさい」であります。もし、彼女がそのままこっそり去って行ったなら、肉体の癒しだけでした。でも、勇気を出して、名乗ったゆえに、包括的な癒しと祝福が与えられたのです。ハレルヤ!

 ここで私たちが学びたいことは、告白すること、あるいは証しすることの大切さです。マタイ

24:14「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます」。マタイ24章は、世の終わりの兆候を示した箇所で有名です。世の終わりには、いろんな起こりますが、その1つがこれだということです。私はこのところから、福音が全世界に宣べ伝えられたら終わりがくると思っていました。しかし、それだけではありません。「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます」とあります。御国の福音が宣べ伝えられるだけではなく、「すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます」とあります。つまり、御国の福音を証しする必要があるということです。彼女がしたことは、まさしくこれであります。少し前の記事では、レギオンを宿した人が癒されました。彼はイエス様が自分にどんなに大きなことをしてくださったかを、デカポリスの地方で言い広めました。証しをしたのです。すると、「人々はみな驚いた」とあります。ヨハネ4章では、サマリヤの女性が、自分の水がめを置いて町へ行き、人々に言いました。「来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか。」「そこで、サマリヤの人たちは町を出て、イエスのほうへやって来た」と書いてあります。これが御国の福音の証しの力強さです。自分ばかりではなく、その地方にまで影響を及ぼすということです。私は昨年の秋、インドネシアに行きました。アバラブ教会が、1万人が入る会場を借り切って、癒しの集会を持ちました。そのとき、病を癒された人たちがステージに立って証しをしたのです。死んで生き返った赤ん坊を抱いた婦人とその家族も立ちました。ものすごく力強かったですね。その集会は、ブレシング・インドネシア「インドネシアを祝福する」という名前でした。インドネシアはイスラム圏なので、宣教という言葉が使えません。でも、「インドネシアを祝福する」なら、だれも嫌な人はいません。そこでは、人々が御国の証しをしながら、エディ・レオが御国の福音を宣べ伝えました。

 私たちも恐れないで御国の証しをすべきであります。しかし、礼拝のときに証しをする場合は、時間に気をつけてください。5分から7分、長くても10分以内です。時々、15分位に及ぶ方がいらっしゃいます。本人は気付いていないかもしれませんが、説教者にとって非常には困ります。韓国のヨイド教会では、一日、6回も礼拝があります。1つの礼拝が1時間で、説教時間は25分です。一回ごとに、長老さんが礼拝の祈りをします。祈りは3分以内で決められていますが、中には5分を超えるときもあります。そのとき、チョーヨンギ牧師は、イライラして来て、長老を後ろから蹴飛ばしたくなるそうです。公の場合は、いくら良い祈りや証しでも、長すぎると問題です。そういう点で、証しは、セル集会や人々の間でするのが一番です。そのとき、イエス様がどのようなことをして下さったかを語るのです。伝道とか、証しは、普段からしていないと、なかなか出てきません。伝道や証しは習慣化しなければなりません。「キリスト気狂い」で結構ではないでしょうか。焦点は、イエス・キリストであり、自分自身ではありません。きょうの物語は、イエス様が意図していなかったのに、婦人が後ろから近づいて、癒しをいただきました。イエス様から癒しの力が流れてきて、患部が癒されたのです。でも、それだけではありません。イエス様のみこころは、肉体的な癒しだけではなく、ホーリスティックな癒しです。経済的にも、家庭においても、霊的において祝福されることです。皆さん、忘れてならないことがあります。神様の愛は無条件です。でも、神様の祝福には条件が伴います。ある人たちは逆に考えています。神様の愛は条件付きで、祝福は無条件だと。そうではありません。神様の愛は無条件ですが、神様の祝福は条件付きです。その条件とは何でしょうか?それは信仰をもって近づくということです。千人近くの群集がイエス様にひしめき、押し合い、へし合いしていました。でも、信仰をもって近づいたのはこの女性一人だったのです。信仰はイエス様から力と祝福を得る管(パイプ)であります。管は太ければ太いほどが良いですね。でも、本日は、大きな励ましをいただきました。この女性は、イエス様のお着物にさわることでもできれば、きっと直ると考えていました。衣のすそ、はしっこでも大丈夫なのです。一箇所でも、つながっていれば、力が流れてきます。それくらいの信仰だったら持てそうであります。私は建設会社で働いていたころ、道路の上に送電線が走っていました。関東電力の方が「どうか、工事にはくれぐれもご注意ください」と度々、お願いに来られました。その送電線は何千ボルトもあるので、クレーン車のブームが触れなくても、数メートルまで近づいただけで感電するそうです。「誘導ナントカ」とか言っていました。この間、新越谷へゴスペルを賛美に行きました。私は途中で帰ってきましたが、この間の集会もそれに似たことがあったようです。預言の先生が、手を振っただけで、人々がバタバタ倒れたそうです。ちょっと危ない感じがしますが、そういうこともあります。みなさん、父なる神様が発電所だとすれば、イエス様は送電線です。おそらく、聖霊様は個人個人への引き込み線ではないかと思います。送電線から直接では死んでしまいます。でも、トランスがあるので、電圧を調整してくれます。聖霊様は、私たちが必要なだけの恵みを送って下さいます。でも、聖霊様をあなどってはいけません。聖霊様は神の霊であられますから、必要であるならばドでかい力を送って下さいます。ハレルヤ!信仰によってイエス様といつもつながっていましょう。必要な力は、源なる神様からやってきます。

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2007年2月18日 (日)

キリストの証   マタイ28章16~20

本日は、尾山謙仁牧師を招いての特別礼拝の為に、原稿が用意できませんでした。

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2007年2月11日 (日)

霊的束縛からの解放   マルコ5:1-9

 きょうの午後から明日と「チェンジングライフ・キャンプ」にでかけます。インドネシアと比べると、本当にミニサイズですが、今後も継続していきたいと思います。その中に、悪霊からの解放もあります。「えー、そんなのあるのー、怖い」と思われるかもしれませんが、一部分をつかまれている人がよくおります。よくテレビでは肉体の健康番組が多いんですが、魂の健康とか霊的健康という分野があることをお忘れなく。日本人は肉体ではなく、魂とか霊において不健康な人が多いのではないかと思います。きょうは「霊的束縛からの解放」ですが、どこか、おどろおどろしたお話ではなく、聖書から霊的真理を語らせていただきます。

1.レギオンを宿していた男

 この人は「悪霊につかれていた」と、2節と15節に書いてあります。悪霊が人のところに入るレベルをABCの段階とするなら、彼はCであります。なぜなら、イエス様が「お前の名は何か」と聞かれたとき、「私の名はレギオンです」と、悪霊自身が答えたからです。イエス様は悪霊を追い出すために、悪霊に尋ねたわけではありません。そのとき、本人の人格ではなく、悪霊が出てきたわけですから、よっぽど重症だったと思われます。そればかりか、彼は裸の状態で墓場に住んでいました。当時の墓場は洞穴ですから、きっとそこをねぐらにしていたのでしょう。人々は彼があばれないようにつなごうとしました。そこを通る人たちが傷つけられたからです。でも、彼はその鎖を引きちぎり、足かせも砕いてしまいました。彼の力は普通ではなく、もはやだれも、鎖をもってしても、彼をつないでおくことができませんでした。彼は夜昼となく、墓場や山で叫び続け、石で自分の体を傷つけていました。悪霊の共通の目的は、とりついている人を滅ぼすということです。その叫びは、おそらく本人の魂の底からの叫びであり、イエス様のところにその声は届いていたのかもしれません。ところで、クリスチャンにも悪霊が入るのかという疑問があります。私が勉強したところ、クリスチャンに入るというよりも、クリスチャンになる前に行った罪や受けた心の傷によって入るという方が正しいと思います。悪霊は理由もなく勝手に入ることはできません。悪霊が入る分野には3つあります。第一は身体の分野です。汚れや情欲など、さまざまな悪習慣から悪霊が入るということです。第二は魂の分野です。犯した罪や、心の傷などから悪霊が入ります。第三は霊の分野です。これは、偶像礼拝、占い、霊能者、オカルトから入るものです。

 彼の場合は、身体の分野ではないかと思います。彼はおそらく、いつも汚れたことをしていたのでしょう。そこへ汚れた霊がやってきて、彼を占領し、彼は汚れたことをさらにやり始め、最終的にこうなったと思われます。悪霊がその人の中に入ると、程度差はあれ、社会生活ができなくなり、自分を傷つけ、心の葛藤が大きくなります。悪霊は肉体を持っていませんので、宿るべき肉体をさがしています。でも、先ほど申し上げましたが、汚れた霊が入ったから、汚れた人になったのではありません。実際は、その逆です。彼は、汚れた生活をしていたので、悪霊が「ああー、この人の生活は私の性質とぴったりだ。この人の中にはいりたい」と思ったのです。テレビでよく、ごみ屋敷に住んでいる人がいます。その人はゴミ捨て場からわざわざ、自分の家や敷地内にごみを持ってくるのです。インタビューアが聞いても、その理由がよく分かりません。回りの住民が「臭いとか火災の危険がある」とか、文句を言っても、「我、関せず」という感じです。ごみ屋敷に住んでいるある人たちには、悪霊が入っているように思います。日本は自殺率がとても高い国です。毎日のように、電車の飛び込みやビルから飛び降り、あるいは生徒の自殺があります。もし、ある人が何かの理由で「私は死にたい、死にたい」と思っているとします。悪霊はそこいらを歩いていますので。その声を聞いて、「ああ、この人は死にたいと願っている。私の性質にぴったりだ」と思って入るのです。するとその人は自殺の道へとエスカレートするわけです。あとから出てきますが、レギオンは2000匹の豚を殺すほどの力がありました。また、人がだれかを殺したいほど憎んでいるとします。すると悪霊が「ああ、この人は私の性質にぴったりだ」と思って入るのです。するとその人は包丁でぐさっと刺したりします。あとから、「私はなんと言うことをしたのだろう!」と目がさめても後の祭りです。他に盗み、高慢、悪口、情欲、うそ、怒り、争い、自己憐憫…そういう生活をしていると、悪霊がやってきてその人に中に入ります。すると、もっとその人の生活は悪くなります。タバコ、麻薬、薬、ギャンブル、ゲームなど、中毒性のものも悪霊が入ると、ひどくなります。

つまり、悪霊が身体に入るのは、その人のライフスタイルが原因しているということです。ですから、その人が悪霊から解放されるためには2つのことが必要です。第一は悔い改めです。その生活をやめて、正しいことを行うということです。エディ・レオが日本に来て話したことがあります。悔い改めはメタノイア、方向転換と言います。その当時、ローマの軍隊が行進していると、「メタノイアー」という掛け声で、彼らは方向転換します。「盗み、盗み、盗み」と歩んでいた人が「メタノイアー」します。ストップ、立ち止まりました。それはただ盗みをストップしただけです。「メタノイア」とは方向を変えることです。つまり、方向を変えて「与える、与える、与える」という生活をすることです。「悪口、悪口、悪口」と歩んでいた人が「メタノイアー」します。悪口の反対は何でしょう。「悪口をメタノイアー」。「人を建てあげる言葉、人を建てあげる言葉、人を建てあげる言葉」となります。「中毒、中毒、中毒」と歩んでいた人が「メタノイアー」します。中毒は難しいです。タバコをやめるとか、お酒をやめるというのは難しいでしょう。やめるだけでは、メタノイアーではありません。「中毒からメタノイアー」どうするでしょうか?「イエス様、イエス様、イエス様」とイエス様に中毒になるしかありません。エディ・レオは生活を変えるのは1日や二日ではだめで、最低49日必要だとおっしゃっておりました。何かの数字に似ていますが、新しい生活習慣を作るためにはそれだけ日数も必要だということです。

私もウインドウXPの中にあるゲームにはまりかけたことがあります。スパイダーソリティアというトランプゲームです。仕事のはじめちょっと、一息入れてちょっと、たちまち20、30分ロスします。だから、教会のパソコン、私のパソコンから、すべてのスパイダーソリティアを削除しています。パソコンに入っていないんですからやれません。でも、1週間くらい、「どこからかダウンロードできないかなー」とインターネットをクリックします。でも、幸いなことにないんですねー。すると、もうやる気が起こらない。中毒から解放されたわけですえねー。タバコだって、解放されるためには49日はかかるのではないでしょうか。それが過ぎるとほしくなくなります。メタノイアーした後で、悪霊を追い出すのです。悪霊は、簡単に出て行きます。でも、また近くにやって来て「久しぶりだなー、仲良くしようぜ」と大声で言うでしょう。でも、そのときに、きっぱりとイエスの御名によって抵抗するのです。何度か繰り返しているうちに、小さな声になります。この男性は、イエス様の圧倒的な恵みによって、瞬間的に解放されました。15節には「着物を着て、正気に返ってすわっていた」と書いてあります。さらには、イエス様のお供をしたいというところこまで行きました。解放はあります。でも、霊的に束縛されている人は、それが普通だと思っているのです。長い間、そういう生活を強いられてきたので、当たり前のように慣れているわけですね。でも、解放されると空気までおいしくなります。「生きるってすばらしい」とか、「人を愛することがこうも簡単なのか!」と自分でも驚くでしょう。

イエス・キリストは、悪霊に縛られている者を解放するために来られました。悪霊どもは、イエス様の正体を知っており、非常に恐れています。ヨハネ10:10に「盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです」と書いてあります。盗人とは悪魔のことであり、私たち人間を盗み、殺し、滅ぼすことが目的です。でも、まことの羊飼いであるイエス様は、私たちがいのちを得、またそれを豊かに持つために来られたのです。どうぞ、イエス様によってもっと、もっと解放されましょう。

2.レギオンから解放された男

レギオンとは、もともとローマの軍団の呼び名で、その数は6000人でありました。一軍団は6000人の兵卒であります。その中に、千人隊長が6人、百人隊長が60人いるわけです。イエス様が十字架の前に捕らえられました。そのとき、ペテロに「それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今わたしの配下に置いていただくことができないとでも思うのですか」(マタイ26:53)と言われました。原文では、「12レギオン以上の御使い」となっています。単純に計算して、72,000の御使いということです。この男性がレギオンを宿していたわけですが、私はそれだけではないと思います。この一軍団の悪霊どもは、その地方を支配していたのではないかと思います。なぜなら、10節に「自分たちをこの地方から追い出さないでくださいと懇願した」と書いてあるからです。レギオンはおそらく、ゲラサの地方を支配する悪霊であり、その地方の人々の上にも何らかの支配権を持っていたと想像できます。なぜなら、その地方の人たちは、男性が解放されたことより、2000匹の豚が死んだことを残念がり、イエス様に「この地方から離れてくださるように願いました。彼らは、イエス様がその地方にいたら、もっと被害が多くなると恐れたのでしょう。彼らはイエス・キリストよりも、レギオンの支配下にある方がまだ良いと勘違いしていたのでありましょう。このように、町や地方を支配している悪霊の力を要塞と呼んでいます。日本においても、悪魔の手下であるレギオンが、各地方を支配しているのではないでしょうか。たとえば、大阪ではダンジリ祭りがあります。そこに住んでいる人たちは、ダンジリに参加しなければ男じゃないと思っているでしょう。これは1つの要塞であります。また、諏訪では、御柱というのがあります。そこに住んでいる男性は、御柱で死んでも本望だと思っているのではないでしょうか。これも1つの要塞であります。こういうものは、地方にたくさんあります。北陸では鬼のお面をかぶって、太鼓を叩くでしょう。秋田では、なまはげとか梵天というのがあります。豊後高田市の裸祭りというのもあります。はたから見たら、異様ですが、祭りに参加している人たちは、エクスタシーを覚えているようです。だいたい、祭りと結びついており、何かを奉納するわけでしょう。まさしくレギオンの下にあります。そこから、引越しして都会に住んでいる人は、その影響下から解放されるので、教会に来やすいということがあるのかもしれません。

本当にその地方の祭りや因習にとりこまれている人は簡単に救われません。クリスチャンになったら、村八分にされ、孤立してしまうからです。そして、その地方を支配するレギオンは、その人たちの思いをくらまし、キリスト教がまるで悪いものかのように思わせています。それが要塞であります。ですから地方の教会も、セルという共同体がものすごく重要です。クリスチャンになって、町の人たちから追い出されても、新しいコミュニティに属せば良いからです。日本人のコミュニティは、本音と建前のうわべだけの世界です。彼らはいつも世間体を気にして生きています。でも、クリスチャンのコミュニティは愛と真実の世界です。この世界に入ることによって、人の目を気にせず、のびのびと生きることができます。私は今年の7月に郷里伝道に行こうかと計画しています。2年前に行きましたが、義理の姉は、世間体を気にしています。でも、実際は長男が家に寄り付かないので、問題を抱えています。先祖代々のお墓を守ることよりも、今、生きている人のほうがよっぽど大事ではないかと思います。家内の実家のまわりには、教会が1つもありません。そういうところに住んでいる人たちは、信仰を持つのが本当に困難だと思います。本日のテキストを見ますと、そういう困難な地方に、イエス様はこの男性を遣わしました。18-20節。「それでイエスが舟に乗ろうとされると、悪霊につかれていた人が、お供をしたいとイエスに願った。しかし、お許しにならないで、彼にこう言われた。『あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい。』そこで、彼は立ち去り、イエスが自分にどんなに大きなことをしてくださったかを、デカポリスの地方で言い広め始めた。人々はみな驚いた」。彼はイエス様にくっついて行きたかったのですが、それは許されませんでした。その代わり、家と家族のところに帰り、証しなさいと命じられました。そこで、彼は、イエスが自分にどんなに大きなことをしてくださったかを、デカポリスの地方で言い広め始めたのであります。彼は1人の宣教師であります。自分の家で証をし、その地方にも言い広めました。すごいことだなーと思います。

 最後に、この箇所には、私たちが証をする際に、とっても重要なポイントが語られています。私たちはどのように信じたかを個人的にあるいは、公に話す機会があるでしょう。ある人は、自分がどれだけ苦労したか、どれだけ悲しい思いをしたか、自分の過去を語ります。それももちろん必要でしょう。でも、私たちの証のゴールというか、中心ポイントは何でしょう?それは、19,20節に書いてあります。「主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい」。そして、彼は「イエスが自分にどんなに大きなことをしてくださったかを、デカポリスの地方で言い広め始めた」と書いてあります。「自分が」ではなく、「イエス様が何をしてくださったか」であります。私がまだ求道者だった頃、25歳だったと思いますが、大川先生のお話をぜひ聞かせてあげたいと、彼女を無理やり誘いました。一回でいいから、だまされたと思って…と連れて行ったわけです。するとどうでしょう。その日の礼拝は、大川先生ではなく、教団のY先生でした。私はメッセージを聞いているうちに腹が立ってきました。この先生は、自分が何をしたかと自慢話をしているように思えたからです。祝祷が終わるやいなや、「こんな教会二度と来るもんか!」と捨て台詞をはいて、二人で出てきました。彼女はそれっきり行きませんでしたが、職場の先輩が礼拝のカセットテープを聞かせてくれました。車で、一回、教会の前までは行くことができましたが、入ることはできませんでした。その日は、『新しいぶどう酒は、新しい皮袋へ』という説教題が掲げられていました。「ああー、聞いてみたいなー」と思いました。結局、躓いた期間は2ヶ月間で、再び、教会に通うことになりました。それから、その教会の祈祷会にも職場の先輩に連れられて続けて参加しました。メッセージの前、20-30分間、教会の方々が立ち上がって証をしました。その話を聞いて、また奇妙な思いにかられました。「それは、自分勝手にそう思っているんだろう!客観性が何もないなー!この人たちはなんとおめでたいんだろう!」今、考えると私自身が霊的なことを理解できなかったのかもしれません。でも、みなさん、自分が体験したことを、だれもが分かるように伝えるのは本当に難しいことです。

それからかなりたって、小牧者訓練会で、証の仕方ということを学びました。証は3つのポイントが必要で、それはキリストに出会う前、キリストに出会ったいきさつ、そしてキリストに出会ってからどうなったかということです。キリストに出会う前とは、自分が罪の中で苦しんでいたことです。このとしはどうしても「私が○○した」「私がこうだった」と主語は「私」になります。確かにキリストに出会う前は暗かったでしょう。でも、「殴ったら血がどばっと出た」とか、聞いた人が怖がるようなところを強調してはいけません。どうしても、自分がどんだけ大きな罪人だったか話したいのはわかります。でも、中心はそれではありません。キリストが自分に何をしてくださったかであります。証の最後は、主語が「私が」ではなく、「イエス様が○○してくださった」と、神様の方に行くべきであります。「イエス様が私の罪をあがなってくださった」。「イエス球が私を解放してくださった」「イエス様が私を変えてくださった」。そうすると、栄光が自分ではなく、神様のものになるからです。あるとき、ミッション・バラバの証を聞きました。みんなもとヤクザですから、麻薬を売ったとか、出入りでだれかが死んだとか、ものすごく刺激的な内容でした。もちろん、そういう劇的な回心をなさる人もいます。でも、人々の中には、そんなひどい状況ではなくて、平凡な生活の中から救われる人も大勢います。ですから、「普通の生活をしていたけどイエス様を信じた」という証も必要なのです。全部が全部、映画やドラマのようにならなくても良いのです。聖歌に「罪咎を赦され」という賛美があります。英語の歌詞は、This is my story, this is my song, praise my savior all the day long.であります。これは、「私の物語、私の歌です。私の救い主を一日中、ほめたたえたい」という内容です。自然界にはいろんな花があります。バラやゆりのように派手なものもあるでしょう。でも、野菊やマーガレットでも良いのです。昔、「マーガレットってどんなに美しい花なのだろう?」と思いましたが、日本の野菊そっくりでした。つまり、証の仕方には良い悪いはあるかもしれませんが、証の内容には良いとか悪いというのはないということです。「こういうところから神様が救ってくださった!」それは、だれにでも胸をはって言えることであります。

この男性は、私はかつて裸で、墓場で住んでいました。鎖を断ち切り、人々を傷つけ、自分をも傷つけていました。夜な夜な、墓場で叫び、自分がだれかも分かりませんでした。しかし、あるとき、イエス様が湖の向こうからやってこられたのです。私はレギオンに囚われて何もできませんでした。しかし、イエス様は力ある声によって、レギオンに出て行くように命じてくれたのです。すると、私は何十年かぶりに正気にもどりました。かつては狂人のような私でしたが、イエス様が私をあわれでくださったのです。彼はそれをデカポリスの地方で言い広めました。イエス様は彼を証人として、あるいは宣教師として、その地方に派遣したのです。

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2007年2月 4日 (日)

向こう岸へ渡ろう  マルコ4:35-41

 地球温暖化も手伝ってか、最近は冬なのに暖かいです。梅も例年よりずっと早く、開いているようです。いつもは、足にしもやけができて痛くなるのですが、今年はそうでもありません。感謝すべきなのかどうか、複雑な感じがします。きょうも、マルコによる福音書から学びたいと思います。この福音書の文体はとてもシンプルですが、それだけリアルで、力強く迫ってきます。

1.信仰の所在

 イエス様と弟子たちは何度かガリラヤ湖を渡りますが、きょうの記事はよく知られている箇所です。イエス様は舟の上から群集にお話をなされました。おそらく、湖のほうから陸地に風が吹いていたので、オーディオセットなしでも人々に届いたのではないかと思います。お話も終わり、夕方になったので、イエス様は弟子たちに「さあ、向こう岸へ渡ろう」言われました。ところが、湖の真ん中くらいまでくると、激しい突風が起こりました。舟は波をかぶり、水でいっぱいになりました。こういうことは、ガリラヤ湖ではよくあることです。なぜなら、この湖は海抜マイナス200メートルなので、空気の温度差で、突風が起こることが良くありました。弟子たちの多くは漁師だったので、そういう嵐も経験していたでしょう。ところが、その日の嵐は度を越していました。水が舟に入り、今にも沈みそうです。弟子たちが水をかきながら、ふっとイエス様を見ると、なん船尾のほうで、枕をして眠っておられるではありませんか。この非常時に何をのんびりしているのだろう。弟子たちはイエス様を揺り起こしながら「先生、私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですかと言いました。彼らはこの嵐がイエス様のせいだと思ったのでしょうか?それとも、イエス様にも水をかいてくれと願いたかったのでしょうか?よくわかりませんが、ぐうぐうと眠っておられるイエス様に腹が立ったことは確かです。39-40「イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に「黙れ、静まれ。」と言われた。すると風はやみ、大なぎになった。イエスは彼らに言われた。「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです」

 ここで1つ疑問が起こります。嵐と信仰とは何の関係があるのでしょうか?弟子たちに信仰があったら、その嵐を乗り越えることができたのでしょうか?答えは「はい」です。弟子たちは目の前の嵐を怖がって、信仰をどこかに起き忘れてしまったのです。ルカ8:25で、イエス様は「あなたがたの信仰はどこにあるのです」と言われました。ここで問題になるのは、信仰とは何かということです。信仰とは「神様の約束のことばに信頼を置く」ということです。イエス様は最初、弟子たちに何とおっしゃったのでしょうか?35節「さあ、向こう岸へ渡ろう」と言われました。これは一種の提案とも取れますが、そうではありません。ロゴスなるイエス様が弟子たちに約束のことばを与えたのです。イエス様が「向こう岸へ渡る」とおっしゃるならば、途中、何があっても渡れるのです。イエス様はたぶん肉体的に疲れを覚えて眠っておられたと思います。でも、それだけではありません。イエス様は父なる神様を信頼して、休んでおられたのです。ハレルヤ!ところが弟子たちは自分たちが元漁師なので、「向こう岸ですね。あいよ」てなわけで、何も考えないで漕いだのです。つまり、イエス様の「向こう岸へ渡ろう」というおことばを信仰によって受け止めていなかったのです。だから、嵐が襲ってきたとき、たじろいでしまったのです。では、信仰とは何でしょうか?信仰とは、イエス様が語られたことば、レーマに信仰を置くということです。レーマとは、今、私に語られる特別な言葉です。これを握っていたなら、彼らは何が起こったとしても、向こう岸に渡ることができたのです。韓国のチョーヨンギ牧師はロゴスとレーマをはっきり分けています。ロゴスと言うのは、聖書に書かれている神様のことばです。これはだれにでも当てはまる神様のみこころを示している一般的なものです。一方、レーマとは、今、私に個人的に語られる神様のことばです。英語では前者をwritten word、書かれた言葉、そして後者を spoken word、語られた言葉というふうに区別しています。マタイ4章でイエス様は「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」と言われました。神の口から出ることばは、ギリシヤ語では、レーマになっています。今日の私たちは、「ロゴス」である聖書を読んで、今私に語られる神のことば「レーマ」をいただきたいものです。イエス様は「あなたがたの信仰はどこにあるのです」かと、問うておられます。今、私たちに語っておられる神のことば「レーマ」に信仰を置くべきであります。

使徒パウロは「信仰から出ていないことは、みな罪です」(ローマ14:23)と言いました。この世的には「覚悟ができているかどうか」と言うかもしれません。しかし、信仰とは自分自身に頼るのではなく、神様の約束あるいは神様ご自身に頼ることです。たとえば、お産の場合、この世の人は、必死の覚悟でお産をするでしょう。そのとき、医者やお守りや身内を頼るし、自分自身でも覚悟を決めます。クリスチャンの場合はどう対処するでしょうか?最近は、当教会でもベビーブームで、同級生がたくさんいます。クリスチャンのお産の場合はこうだと思います。私は経験がありませんが、姉妹方はこう祈るのではないかと思います。「自分の命も赤ちゃんの命も神様のものです。父なる神様がきっと無事に生ませてくださるに違いありません。主よ、助けたまえ!アーメン」と臨むのではないでしょうか?つまり、クリスチャンは、覚悟だけではなく、信仰によって臨むということです。みなさん、信仰が必要です。特に、一生を左右する出来事はそうであります。進学もそうです。就職もそうです。結婚もそうです。手術を受けるときもそうでしょう。家を建てることもそうでしょう。事業をはじめるときもそうでしょう。そればかりではありません。信仰生活で栄光から栄光へと成長するとき、必ず信仰が必要であります。まさしく、「信仰から出ていないことは、みな罪です」。では、なぜ、それらのことを信仰によって決断する必要があるのでしょうか?もちろん、信仰によって決断したのに、失敗したり、うまくいかなかったことがあります。でも、信仰によって決断したことは、後になって、後悔したり、壊滅状態にはならないということです。ローマ8:28にすばらしいみことばがあります。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」。私は口語訳の方が好きです。「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている」。もし、私たちが信仰によって始めたらなら、たとえ失敗したとしても、神様が万事を益としてくださるのです。

 35節のイエス様がおっしゃる「さあ、向こう岸へ渡ろう」は、1つのチャレンジかもしれません。こっち側は従来慣れ親しんで来た生活です。これに比べ向こう岸とは、まだ知らない未知の世界です。年をとってくるとだれでも保守的になります。「これまでも、いろいろやって試してみたけど結局はうまくいかなかった。また、同じだろう」ということで、チャレンジすることがおっくうになります。実は3月からセルチャーチのコーチングが始まります。ベン・ウォン先生が年に4回ほどお越しになり、いくつかの教会をコーチしてくださいます。でも、実際には日本の教会が日本の教会をコーチするわけです。自分ところの教会の実情を見せて、コーチしてもらうというのは、恥ずかしいところがあります。ですから、「私の教会をコーチして」という申し込みはとても少なくて、計6教会であります。実は私というか、当教会も他教会をコーチするコディネーターになっているんです。「自分の教会もままならないのに、どうなっているの?」というご批判を受けそうです。でも、皆さん、人のお世話をして、一番、教えられるのは自分だということです。関西では昨年から始めており、4人のコディネーターがいますが、本当に良かったと感想を述べておられます。自分の足りないところや弱さを見せ合い、それで共に成長していくわけです。日本人は内側を見せるのが苦手で、教会にまでこういう文化が入り込んでいます。うわべでは「ハレルヤ!恵まれています。何も問題ありません」という顔をしています。でも、内側では中毒や悪習慣で悩んでいる人が多いのです。どういう訳か、こういうものは他の人に分かち合って、祈ってもらわないと解決されなんです。姉妹方は結構、簡単にオープンになれます。しかし、男性はこれが簡単にできない。なぜなら、これまで虚栄心とプライドで生きてきたので、弱さを出したら自己崩壊する恐れがあるからです。だから、鎧兜あるいは裃(かみしも)を脱いで、共に交わること。これが新しいチャレンジではないかと思います。つまり、「向こう岸へ渡ろう」とは、外面的な事業とか奉仕ではなく、もっと霊的なことがらではないかと思います。

 パワーフォーリビングに、創設者の夫、デモス氏の証が載っていました。彼は10代からギャンブルに懲り、24歳で事業が成功し大金持ちになりました。その頃には競馬場やナイトクラブ、カントリークラブをまわるのが日課となっていました。しかし、あるとき、弁護士がイエス・キリストの話をしてくれて、これこそ私が今までずっと探し求めてきたものだと悟って、イエス様を受け入れました。彼はそれまで、スリルと興奮を毎日、味わってきました。が、彼は最高の刺激や興奮とは、自分が信じているこの信仰を他の人と分かち合うこと、そして彼らが救い主イエスを見出す姿を見ることだと分かりました。彼は「今の私にとって、当社の保険商品で何百万ドルという売り上げを上げるよりも、神様の永遠に続く生命の保険について他の人に伝えることの方がすばらしいことなのです!」と証しています。自分がイエス様によって解放され、この喜びを他の人に分かち合う。これこそが、「さあ、向こう岸へ渡ろう」という1つの適用ではないかと思います。

2.このお方はだれだろう

 マルコ4:39「イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に『黙れ、静まれ。』と言われた。すると風はやみ、大なぎになった」。イエス様はまるで人格があるように、風と湖を叱りつけました。こういうことも考えられます。イエス様と弟子たちが向かっている目的地は、ゲラサでありました。マルコ5章に書いてありますが、そこにはレギオン(大勢)という悪霊がいました。もしかしたら、ゲラサの悪霊どもがイエス様一行を亡き者にしようと嵐を起こしたのかもしれません。だから、イエス様はこのような叱り方をしたのかもしれません。とにかく、イエス様は自然界をもコントロールできるお方であります。イエス様が命じたあと、風はやみ、大なぎになりました。弟子たちはどう感じたでしょうか?マルコ4:41彼らは大きな恐怖に包まれて、互いに言った、「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」「大きな恐怖に包まれて」は、原文では、「大きな恐れで、恐れた」となっています。弟子たちは、腰を抜かして、震えがとまらなかったでしょう。「イエス様って、こんなことができるんだ。すげぇー」。大漁の奇跡のときは、ペテロは、イエス様の足もとにひれ伏しました。今回は、イエス様が自然界を支配するのをまざまざと目撃しました。弟子たちは「いったいこの方はどういう方なのだろう」と言いましたが、心の中では、「イエス様はもしかしたら神様じゃないだろうか?」という、思いが膨らんだことでしょう。イエス様に出会うというのは、こういうことを言うんじゃないでしょうか?遠藤周作の本などには「同伴者イエス」という、私たちの弱さを理解してくださるイエス様が強調されています。残念ならが、そこには神であるイエス様は描かれていません。私たちと同じレベルの、人間イエスであります。もちろん、イエス様は私たちと同じ人間になられました。しかし、忘れてはいけないことは、イエス様は同時に神であられたのです。

 私たちはいったいどういうお方が私と共におられるのかということを知る必要があります。イエス様は天と地を創造し、所有し、支配できるお方であります。自分でお造りになったのですから、変なことをするならば、叱りつけ、静まらせることもできるはずです。クリスチャンの中に、「私にはそんな信仰がない」とか「信仰が弱い」「信仰が小さい」と言う人がいます。しかし、信仰とはそんなに難しいものではありません。信仰の大小は、イエス様をどういうお方として信じているかということと正比例するのではないかと思います。ある哲学者はイエス様を「痩せ細ったガリラヤ人」と言いました。新興宗教の人たちは「十字架で見苦しい死に方をした教祖だ」と言うでしょう。クリスチャンであるなら、そこまでは思わないかもしれません。でも、イエス様はどのくらいの大きさなのでしょう?私は2000年に初めてインドネシアに行きました。一人の男性とセルリーダーのご夫妻が交互に証をしてくれました。その男性は、脳腫瘍のため病院に入院しました。でも、その手術はとても困難で、一度はやってみたものの終了しませんでした。医者は、「少したってから、また手術しますから」と彼に言いました。彼はお金がなくて、病院に行きませんでした。そのためますます症状が悪化し、日常生活もままならなくなりました。彼はセル集会に出席し、みんなから祈ってもらいました。セルリーダーのご夫妻も手を当てて祈ってくれました。そのときその男性はまぼろしを見ました。目の前に、とてつもなく大きな足がありました。あまりの大きさに、驚きましたが「この方はきっとイエス様だ」と直感しました。彼は「イエス様でしょうか?でも、あんまり大きいのでお姿が見えません。もっと小さくなってください」とお願いしました。すると、シュルシュルとイエス様が小さくなり、私たち人間と同じサイズになりました。そこで、彼は「イエス様!」と見上げると、顔はまばゆいほど輝いて、見えなかったそうです。イエス様が手を置いて祈っておられるような感じがしました。彼はあまり教育の無い人で、それから病院にも行かないで、半年くらいたちました。しかし、身内の人が勧めるので、病院に行って検査をすることにしました。お医者さんはびっくりしました。以前、頭の中にあった腫瘍がまったくなくなっていたのです。「このような奇跡はいっぱいありますよ」とセルリーダーの奥さんがご主人をだまらせて、言いました。「ご主人よりも、奥さんの方が強いなー」と思いました。それはともかく、男性がイエス様の足が大木のように大きかったという証が印象的でした。

 J.Bフィリップスという聖書学者が「あなたの神は小さすぎる」という本を書いています。どうでしょうか?あなたの神様はどのくらいの大きさでしょうか?もしかしたら、携帯にぶらさげるマスコットのような大きさですか。それではお守りです。等身大の大きさでしょうか。イエス様は私たちと同じ大きさだったと思いますが、それは、私たちのために凝縮されたお姿であります。私はイエス様は、バレーボールの大きさ位の地球をごらんになっているのではないかと思います。「なんだ、この地球は!」バシッと叩けば、地球は終わりです。でも、イエス様は愛なるお方なのでそんなことはしません。あなたの神様はどのくらいの大きさでしょうか?私はここ数年、経済的な問題に苦しんでいました。長男のアメリカ留学がずいぶんと答えました。長女は卒業しましたが、次男がめでたいことに今年の春から大学です。心のガリラヤ湖に嵐がやってきました。「私たちの舟は大丈夫だろうか、沈むんじゃないだろうか」と家内と恐れました。結論から言えば、なんとかなりそうなんですが、神様は大変、ユーモアがあるなーと最近思うようになりました。私たちは悲壮感いっぱいで、「どうなるんだ!」と青い顔をしているんですが、神様はほほえんでいるようです。昨年はジャンボ宝くじを10枚買って、夢を託しました。1億円は当たりませんでしたが、なんと1万3千300円当たりました。面白いなーと思いました。それから、先週ですが、ジャパン・ホームバジューが新装開店のため、ポイントカードを清算する機会がありました。店員が機械を通してやってくれるんです。500円の金券が計20枚も出てきました。「やった!」と思って、ズボンとか靴下とか買いました。半分を息子にやりましたが、猫グッズを買っていました。とにかく、神様はユーモアがあるなーと思うんですね。私たちはあまりにも深刻になりすぎます。大能の神が共におられるのに、乞食みたいな生活をしている人もいないわけではありません。全能の神が共におられるのに、弟子たちのように「死んでも何とも思わないのですか!」と怒っている人もいるでしょう。もしかしたら、深刻になりすぎるのは、不信仰の表れかもしれません。ヨブという人は、全財産と10人の子供をいっぺんに無くしました。彼は何と言ったでしょうか?「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」と、ひれふして神様を礼拝しました。もちろん、彼はそれから悩みました。でも、彼は「主の御名は、ほむべきかな」と言ったんですね。すべての所有者は神様です。私たちはただ、一時的に預かっているにすぎないのです。でも、ちょっとこのように見方を変えたらどうでしょうか?神様は全宇宙の所有者です。私たちがイエス様を信じると、全宇宙の所有者である神様の子供となるのです。父なる神様は、私たち子供にどのくらいの相続を与えようとしておられるのでしょうか?莫大な量ではないでしょうか!

 パワーフォーリビングに「ベン・フーバー」という人の証が書いてありました。お母さんは未婚で私を産んだので、私はとても苦労しました。学校に通い始めるとクラスメートにあだ名をつけられるようになりました。それは決して呼ばれてうれしい名前ではありませんでした。遊び仲間からのからかいにあまりにも深く傷ついた私は、休み時間や昼食の時間は独りでどこかへ行っていました。それよりもさらにひどく傷ついたのは、土曜の午後に街中へ出かけて行く時でした。まわりの人間が、皆、私のことをじろじろ見るのです。誰もが私の本当の父親が誰なのか知りたがっていました。私が12歳ぐらいの頃、新しい牧師が近所の教会に来ました。私は礼拝にはいつも遅れて行っては早めに抜け出していました。ところがある日、牧師が祝福の祈りを早く終えたので、早めに抜け出そうと思っていたのに、皆と一緒に教会から出て行かなければならなくなりました。私は、教会にいる礼拝者全員の視線をひしひしと感じました。ようやく教会の扉にたどり着いたと思ったとたん、肩に大きな手が置かれました。見上げると、牧師が私をまっすぐ見つめていました。「坊や、君は、誰だね?誰の子供かね?」昔からのあの重い気持ちが再びのしかかってきました。まるで大きな真っ黒い雲のような重々しさでした。牧師までも私を見下しているんだ、と。しかし、牧師は私を見下ろしながら、私の顔をじっくり見ていました。そして、まるで私に見覚えがあったかのように、大きな笑みを見せました。「ちょっと待てよ。君が誰だか知っているよ。君に似ている家族を知っている。君は、神様の子供だ!」そう言うと、彼は私のお尻をポンと叩いて、こう言いました。「君はすごい遺産を受け継いでいるんだ。行って自分の物だと主張しなさい」。ベン・フーバーは私生児でしたが、後に、テネシー州の知事に選ばれました。

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