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2007年2月25日 (日)

健やかでいなさい    マルコ5:25-34 

 本日の物語は、ヤイロの娘のよみがえりの物語にサンドイッチのようなかたちで入っています。つまり、12年間長血を患っていた女性が、途中から割り込んで来たという構造です。ヤイロの娘のお話は次週にまわして、今朝は、長血を患っていた女性に焦点をあてて学びたいと思います。他の福音書に比べ、マルコによる福音書がこの物語に、一番多くの字数をあてています。それは、この福音書の記者が、教えよりも、イエス様の力あるわざを強調したいからであります。みなさんの中にも、「こ難しい教え」よりも、実際的な事に興味がある方がおられると思います。

1.信仰によるコンタクト(接触)

 この女性は一種の婦人病であったと思われます。出血が止まらず、なんとそれが12年間も及んでいました。彼女はさまざまな苦しみを身に負っていました。男性には生理不順というものは分かりませんが、身体的にひどい痛みがいつも伴っていたと思われます。もちろん、医者や薬にも頼ってみました。しかし、26節を見るとどうでしょう。「この女は多くの医者からひどい目に会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった」と書かれています。げー、なんと気の毒な!当時の医者の中には怪しげな祈祷師もいたでしょう。では、「医学の発達した今日だったら直せるのか?」というと必ずしもそうではありません。現代でも、治療できない難病が山ほどあります。無免許の医者もいますし、高額の医療費をふっかける病院もたくさんあります。彼女は「多くの医者からひどい目に会わされて…かえって悪くなる一方」でありました。持ち物をみな使い果たし経済的にも破綻状態、親や親戚からも「ごくつぶし、厄介者」とまで思われていたでしょう。そればかりではありません。イスラエルでは、長血を患うという病気は、宗教的に汚れているとみなされました。レビ記15章によりますと、そういう女性がさわったものは物でも人でも汚れると書いてあります。おそらく会堂に入ることも許されなかったでしょう。つまり、彼女は肉体的な苦しみばかりか、経済的、精神的、霊的にも苦しんでいたということです。彼女は、体力がなくて仕事もできず、結婚もできない。これが12年間も続いたということは、想像を絶する、苦しみでありました。この女性はイエス様から、「娘よ」と呼ばれていますので、あまり年を取っていないと思われます。仮に18歳から発病したとすると、今は30歳であり、青春時代も何もあったものではありません。まさしく、生き地獄と申しましょうか、呪われた人生であります。

 でも、彼女にも良い知らせが届きました。イエス様がガリラヤに戻られたというニュースを聞きました。27-28節「彼女は、イエスのことを耳にして、群衆の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物にさわった。「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。」と考えていたからである。まず、群集ですが、一体どれほどいたと思われるでしょう?100人、200人ではありません。おそらく、一千人はいたのではないかと思います。もう、黒山の人だかりです。彼女は弱い体を鞭打って、人々を押し分け、掻き分けて群集の中に入って行きました。なんたって、力がないんですから、這うように必死に近づいて行きました。彼女は「…きっと直る」と考えていたからであるとあります。この「考えていた」は、原文では、「ぶつぶつ言っていた」「口ずさんでいた」であります。彼女は、「イエス様のお着物にさわることでもできれば、きっと直る」「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。きっと直る、きっと直るんだ。」と口ずさみながら、イエス様に近づいて行ったのです。私が建設会社に勤めていた頃、学生時代に山登りをしたという同僚がいました。日大の山岳部であります。山登りは、頂上に近づくと、体力も限界になり、苦しくなります。そのとき、彼はあることを口ずさみながら登ったというのです。彼はマージャンをしていました。だから、「メンタンピンドライチ、メンタンピンドライチ、メンタンピンドライチ」と言いながら登ったということです。彼女の場合は、心の中にあるものが、口からあふれていました。「お着物にさわることでもできれば、きっと直るんだ」という信仰が口からあふれていたのです。ハレルヤ!彼女は群集に紛れ込み、うしろからイエス様の着物にさわったのには訳があります。自分が触ったことで、イエス様を汚してしまうという恐れがあったからでしょう。しかし、どうでしょう。自分の汚れがイエス様に行ったのではなく、逆にイエス様の方から力が流れてきました。29節「すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことをからだに感じました」。イエス様があとから、「だれか私の着物にさたった」と言っています。でも、弟子たちは、「群集があなたに押し迫っているのに、だれなのかどうして解るでしょう」と答えています。つまりこういうことです。大勢の人たちが、イエス様に触ったのです。中にはミーハーがいて、スポーツ選手か芸能人に触るようにペタペタさわったでしょう。でも、信仰をもって触ったのは、この女性の他には一人もいなかったのです。彼女は信仰をもって触りました。イエス様のからだではなく、着物の一部分です。でもそこが接点となり、感電したように、イエス様の力が自分のからだの中に流れて癒されたのです。すげぇー。

 イエス様はあとで、「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです」と、彼女の信仰をほめておられます。それでは、彼女のどのような信仰がすばらしいのでしょうか。福音書を見ますと、いろんな人が癒しを求めてイエス様に近づきました。差別用語ですが申し訳ありませんが、あるらい病患者は、「おこころ1つできよめていただけるのですが」と、イエス様のまん前にひれ伏しました。盲人のバルテマイは、「ダビデの子、イエスよ。私をあわれんでください」と大声を上げて、イエス様の足を止めようとしました。百人隊長は友人を遣わして「おことば1つでしもべの病気はいやされます」と言いました。どれもすばらしい信仰です。でも、彼女の場合は、イエス様の背後からこっそり近づいて、衣に触りました。決して大胆ではありません。彼女は自分が汚れている存在であると思っていたのと、イエス様を足止めしてはいけないという遠慮があったからでしょう。でも、「イエス様のお着物にさわれば直る」というのは、異教的でしょうか?昔はイエス様の聖骸布や、使徒パウロやペテロの聖遺物を探し求めた人たちがいました。彼らは、そういうものに触れると病気が直ると信じていました。現代では、カルロス・アナコンデアとか、ベニー・ヒンに触れてもらうと病気が直ると信じている人が大勢います。しかし、本当の信仰はそういうものではないと思います。彼女は信仰をもって、イエス様の着物にさわりました。癒しの源は、生きておられるイエス・キリストご自身であり、着物ではありません。彼女は直接、イエス様に触らなくても、着物の端っこだけで充分、自分は癒されると信じていたのです。ハレルヤ!

ところで、ルカ福音書8章にも同じ記事があります。そこには、「イエス様の着物のふさにさわった」(ルカ8:44)と書いてあります。この記事はユダヤ人が見ると良くわかるそうです。着物のふさとは、単なる端っこではなく、権威を象徴しているということです。旧約聖書を見てわかりますが、大祭司の服の裾はふさ状になっており、ざくろの形をした鈴が付けられています。やはり、着物のふさとは、権威を現しています。ということは、この女性は、病に打ち勝つところのイエス様の権威にすがったということです。今は、イエス様は目に見えるお姿ではおられませんので、どのように適用できるでしょうか。これは今日的には、信仰によって主に近づき、主の臨在に触れるということではないでしょうか。イザヤ書6章には、預言者イザヤが神殿で見たまぼろしが書かれています。イザヤ6:1「私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、セラフィムがその上に立っていた」と書かれてあります。主の着物のすそが満ちていることと、主の臨在と関係があるようです。私たちの目には見えませんが、この礼拝のまん前に、白い衣を着たイエス様がおられるということです。この女性がイエス様に近づいて、お着物のふさ、あるいはすそをつかんだように、私たちもそうすべきであります。主の臨在がここにあるのです。信仰をもって、イエス様に近づき、イエス様の臨在に触れましょう。だれか神の人が直接、手を触れなくても、主ご自身が癒してくださることを信じましょう。癒しと言ったら、キャサリーン・クルマン、ベニー・ヒン、チョーヨンギ師、ラインハルト・ボンケ師が有名です。でも、彼らが直接、手で触るよりも、その会場にいただけで、聖霊様に触れられて癒される数の方が圧倒的に多いのです。主は今も生きておられ、信仰によってご自身に近づく者たちを超自然的に癒してくださいます。「この礼拝に出席して、賛美をしている間に、メッセージ中に、あるいは祈っている間に癒された!」そういうすばらしい癒しが起こることを期待いたしましょう。主はここにおられます。王座に座した主のこころものすそがここまで伸びています。ハレルヤ!

2.健やかでいなさい

この女性は、癒された後、そのままこっそり帰るつもりでした。しかし、イエス様がそれを許しませんでした。恵みのドロボーと言いたいのでしょうか?イエス様は振り向いて「だれが私の着物にさわったのですか」と、群集に問いました。弟子たちは、「群集があなたに押し迫っているのに、だれか分かる訳がないでしょう」と言わんばかりです。イエス様は、触った人がだれか知ろうと見回しました。33、34節「女は恐れおののき、自分の身に起こった事を知り、イエスの前に出てひれ伏し、イエスに真実を余すところなく打ち明けた。そこで、イエスは彼女にこう言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」イエス様は本当に、だれが触ったのか分からなかったのでしょうか。いいえ、そうではありません。全知全能であられる主は、だれが触ったか、その女の一部始終を知っておられました。しかし、あえて名乗り出るように時間を与えたのです。「ああ、イエス様も人が悪い。女性の病気なのに、さらしものにする気ですか?そのまま、帰せば良いじゃないですか」と言うかもしれません。そうではありません。イエス様は彼女を祝福したかったのです。もし、彼女がそのまま名乗らずに帰っても、肉体の癒しはいただけたかもしれません。しかし、それだけでは、十分ではありません。彼女の精神的面、そして霊的な分野、今後の将来のこともあるでしょう。12年間の心身の苦しみと経済的な損失、神から呪われたような生活などの心のトラウマがまだ癒されていません。イエス様はそれらの問題を解決するため、荒療治かもしれませんが、みんなの前で告白するように仕向けました。彼女は、イエス様の前に出てひれ伏し、イエス様に真実を余すところなく打ち明けました。これが大切なのです。エペソ5:13,14「けれども、明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。明らかにされたものはみな、光だからです」。彼女がありのままを告白したことによって、彼女の心が癒されたのです。彼女のやみの部分に光が差し込み、癒しと解放が起こったのです

そればかりではありません。イエス様は何とおっしゃったでしょうかマルコ5:34そこで、イエスは彼女にこう言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」イエス様は彼女の信仰を賞賛されました。「安心して帰りなさい」とは、「これからの人生が平安であるように」という祝福の言葉です。また、「病気にかからず」は、原文をそのまま訳すとこうなります。「癒されていよいよ、達者になって、もうその病気にかかるな!」という意味です。つまり、イエス様は「二度とこういう病気にならないように」と封印されたのであります。一時的には良くなっても、また、病気が再発するかもしれません。そうならないように、イエス様は後ろのドアを閉じたのです。だから、もう、病の霊は入ってきません。でも、もっとすばらしいのは、「すこやかでいなさい」というイエス様のおことばです。これは、英語では、be wholeとなっています。Wholeはホーリスティックという、「包括的な」という言葉と関係があります。ですから、be wholeは「生活全体に欠けがないように」とか、「全人格的に健全であるように」という意味になります。では、以前の彼女の生活はどうだったでしょうか?出血が止まらず肉体的な痛みを持っていました。多くの医者からひどい目に会わされました。自分の持ち物をみな使い果たしてしまいました。経済的には破産状態です。親や親戚からも「ごくつぶし、厄介者」とまで思われていました。宗教的に汚れているとみなされていました。その体では、結婚もできなかったでしょう。でも、be wholeは、これらを全部帳消しにするということです。二度と病気にならない健康な体、ひどい目に合わされたトラウマからの解放、働くことができて経済的にも祝される、霊的にも祝される、結婚をして良い家庭を持つことができる。これが、be whole「すこやかでいなさい」であります。もし、彼女がそのままこっそり去って行ったなら、肉体の癒しだけでした。でも、勇気を出して、名乗ったゆえに、包括的な癒しと祝福が与えられたのです。ハレルヤ!

 ここで私たちが学びたいことは、告白すること、あるいは証しすることの大切さです。マタイ

24:14「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます」。マタイ24章は、世の終わりの兆候を示した箇所で有名です。世の終わりには、いろんな起こりますが、その1つがこれだということです。私はこのところから、福音が全世界に宣べ伝えられたら終わりがくると思っていました。しかし、それだけではありません。「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます」とあります。御国の福音が宣べ伝えられるだけではなく、「すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます」とあります。つまり、御国の福音を証しする必要があるということです。彼女がしたことは、まさしくこれであります。少し前の記事では、レギオンを宿した人が癒されました。彼はイエス様が自分にどんなに大きなことをしてくださったかを、デカポリスの地方で言い広めました。証しをしたのです。すると、「人々はみな驚いた」とあります。ヨハネ4章では、サマリヤの女性が、自分の水がめを置いて町へ行き、人々に言いました。「来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか。」「そこで、サマリヤの人たちは町を出て、イエスのほうへやって来た」と書いてあります。これが御国の福音の証しの力強さです。自分ばかりではなく、その地方にまで影響を及ぼすということです。私は昨年の秋、インドネシアに行きました。アバラブ教会が、1万人が入る会場を借り切って、癒しの集会を持ちました。そのとき、病を癒された人たちがステージに立って証しをしたのです。死んで生き返った赤ん坊を抱いた婦人とその家族も立ちました。ものすごく力強かったですね。その集会は、ブレシング・インドネシア「インドネシアを祝福する」という名前でした。インドネシアはイスラム圏なので、宣教という言葉が使えません。でも、「インドネシアを祝福する」なら、だれも嫌な人はいません。そこでは、人々が御国の証しをしながら、エディ・レオが御国の福音を宣べ伝えました。

 私たちも恐れないで御国の証しをすべきであります。しかし、礼拝のときに証しをする場合は、時間に気をつけてください。5分から7分、長くても10分以内です。時々、15分位に及ぶ方がいらっしゃいます。本人は気付いていないかもしれませんが、説教者にとって非常には困ります。韓国のヨイド教会では、一日、6回も礼拝があります。1つの礼拝が1時間で、説教時間は25分です。一回ごとに、長老さんが礼拝の祈りをします。祈りは3分以内で決められていますが、中には5分を超えるときもあります。そのとき、チョーヨンギ牧師は、イライラして来て、長老を後ろから蹴飛ばしたくなるそうです。公の場合は、いくら良い祈りや証しでも、長すぎると問題です。そういう点で、証しは、セル集会や人々の間でするのが一番です。そのとき、イエス様がどのようなことをして下さったかを語るのです。伝道とか、証しは、普段からしていないと、なかなか出てきません。伝道や証しは習慣化しなければなりません。「キリスト気狂い」で結構ではないでしょうか。焦点は、イエス・キリストであり、自分自身ではありません。きょうの物語は、イエス様が意図していなかったのに、婦人が後ろから近づいて、癒しをいただきました。イエス様から癒しの力が流れてきて、患部が癒されたのです。でも、それだけではありません。イエス様のみこころは、肉体的な癒しだけではなく、ホーリスティックな癒しです。経済的にも、家庭においても、霊的において祝福されることです。皆さん、忘れてならないことがあります。神様の愛は無条件です。でも、神様の祝福には条件が伴います。ある人たちは逆に考えています。神様の愛は条件付きで、祝福は無条件だと。そうではありません。神様の愛は無条件ですが、神様の祝福は条件付きです。その条件とは何でしょうか?それは信仰をもって近づくということです。千人近くの群集がイエス様にひしめき、押し合い、へし合いしていました。でも、信仰をもって近づいたのはこの女性一人だったのです。信仰はイエス様から力と祝福を得る管(パイプ)であります。管は太ければ太いほどが良いですね。でも、本日は、大きな励ましをいただきました。この女性は、イエス様のお着物にさわることでもできれば、きっと直ると考えていました。衣のすそ、はしっこでも大丈夫なのです。一箇所でも、つながっていれば、力が流れてきます。それくらいの信仰だったら持てそうであります。私は建設会社で働いていたころ、道路の上に送電線が走っていました。関東電力の方が「どうか、工事にはくれぐれもご注意ください」と度々、お願いに来られました。その送電線は何千ボルトもあるので、クレーン車のブームが触れなくても、数メートルまで近づいただけで感電するそうです。「誘導ナントカ」とか言っていました。この間、新越谷へゴスペルを賛美に行きました。私は途中で帰ってきましたが、この間の集会もそれに似たことがあったようです。預言の先生が、手を振っただけで、人々がバタバタ倒れたそうです。ちょっと危ない感じがしますが、そういうこともあります。みなさん、父なる神様が発電所だとすれば、イエス様は送電線です。おそらく、聖霊様は個人個人への引き込み線ではないかと思います。送電線から直接では死んでしまいます。でも、トランスがあるので、電圧を調整してくれます。聖霊様は、私たちが必要なだけの恵みを送って下さいます。でも、聖霊様をあなどってはいけません。聖霊様は神の霊であられますから、必要であるならばドでかい力を送って下さいます。ハレルヤ!信仰によってイエス様といつもつながっていましょう。必要な力は、源なる神様からやってきます。

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