« 2006年12月 | トップページ | 2007年2月 »

2007年1月28日 (日)

自然に成長する教会    マルコ4:26-32

 イエス様は神の国について説明するために、しばしば鳥や花、作物のたとえを用いておられます。先週は「種まきのたとえ」でしたが、本日の箇所は「種の成長」と「からし種」のたとえであります。聖書学者は、「イエス様がこのようなたとえを用いられたのは、当時の人々が農業で生活していたからである。もし、今日、主がおられたならコンピューターのたとえを用いるだろう」と言うかもしれません。でも、そうではなく、イエス様は生物からでなければ語れない真理があるので、あえてこのようなたとえを用いられたのであります。生物は本当に不思議です。コーヒー・メーカーはコーヒーを作ることができますが、もう1つのコーヒー・メーカーを作ることはできません。でも、コーヒーの木はコーヒー豆を生産し、また新しいコーヒーの木を生産することができます。生物には神秘性があります。なぜなら、神様がそのように造られたからです。

1.人手によらず

 26-28節「神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実がはいります。実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです。」28節の「人手によらず」はギリシヤ語では「オートマテ」であり、英語のオートマチックのもとになった言葉です。ですから、この部分を「自動的に」とか「それ自身によって」「おのずから」と訳すことができます。確かに人間が地に種を蒔きます。でも、芽が出て、苗になり、穂ができて、穂の中に実が入るのは、作物自身がやることです。人間は、水をやったり、雑草を抜いたり、害虫を駆除したりはするでしょう。でも、作物の成長に関してはノータッチであります。「夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに」作物は育つのであります。そして、最後、人間が鎌を入れ、収穫をします。これらのことと、神の国とが何か関連があるということです。福音の種をまく、つまり、伝道することは私たちがすべきことがらであります。しかし、人を救うのは神様であり、人間ではありません。また、人を成長させるのも、神様であり、人間ではありません。確かに、生まれたばかりのクリスチャンに対して、教え、戒め、訓練、愛情を注ぐことは必要です。使徒パウロは、Ⅰコリント3:7,8でこのように言っています。「私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。それで、たいせつなのは、植える者でも水を注ぐ者でもありません。成長させてくださる神なのです。」魂の成長すらも、人間の分野ではなく、神様がなさることであります。なぜ、私のような者に牧師が務まるのでしょうか?それは、イエス様ご自身が教会を建てるとおっしゃったからであります。

 福音は旧約聖書の中にもあります。でも、厳密に神の国の福音を伝えたのは、イエス・キリストであります。そして、全世界に福音を宣べ伝えたのは、弟子たちであり、教会であります。神の国はローマ帝国に比べたら、からし種のように吹けば飛ぶような存在でした。イエス様は弟子たちに「恐れるな、小さい群れよ。御国を下さることは、あなたがたの父のみこころなのである」(ルカ12:32)と言われました。神の国はこの世にまかれましたが、見えないところで広がり、やがては全世界にまで及びました。国境を越え、時代を越え、肌の色を越え、広がっていったのであります。イエス様の時から、2000年もたっていますので、総人数は、何十兆かになっているのではないでしょうか。イエス様はマルコ4:30-32でこのように言われました。「神の国は、どのようなものと言えばよいでしょう。何にたとえたらよいでしょう。それはからし種のようなものです。地に蒔かれるときには、地に蒔かれる種の中で、一番小さいのですが、それが蒔かれると、生長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張り、その陰に空の鳥が巣を作れるほどになります。」ハレルヤ!であります。ここに集まっておられる、皆さんも神の国に宿る者となったのです。私は毎朝、散歩しますが、ときどき嗚咽するときがあります。朝は、まだ暗いのでだれも見ていません。聖歌451に「神なく、望みなく、さまよいしわれもー」という賛美があります。まさしく、秋田の片田舎で生まれ、神なく、望みもなく、死の世界でさまよっていた者です。それが、イエス様にあがなわれ、永遠の命が与えました。福音の種は、こんな者にまで届いたということであります。そして、こんな者にも、神の国が与えられたということです。これが感動しないでおれましょうか!

使徒パウロはイエス様の福音を小アジアやヨーロッパまで運んだ人であります。もちろん、パウロがひとりでやったわけではありません。しかし、パウロは福音の影響力を信じていました。ローマ1:16で「福音は、救いを得させる神の力、ダイナマイトである」と言いました。鳥インフルエンザも怖いですが、福音の力はもっとすごいのです。あのローマ帝国も、西暦300年にはキリスト教国になりました。ゲルマン民族もキリスト教化されました。福音はヨーロッパから南北のアメリカ大陸に移りました。その次に福音はアジア大陸に、そしてアフリカに移りました。そろそろ、地球を一周しようとしています。「おお、日本をお忘れなく!」と言いたいです。でも、私たちは福音の広がりに目を向けるべきであります。パウロはまだ、福音を宣べ伝えて間もない頃、このように言いました。コロサイ1:6「この福音は、あなたがたが神の恵みを聞き、それをほんとうに理解したとき以来、あなたがたの間でも見られるとおりの勢いをもって、世界中で、実を結び広がり続けています。福音はそのようにしてあなたがたに届いたのです」。福音は世界中で、実を結び広がり続けています。そして「あなたがたに届いた」と言っています。あなたがたとは、極東の日本であります。聖書の世界から一番、遠い国は東の果て、日本であります。日本は「日の出る国」と言われています。私たちが生き証人です。数ではありません。このように、私たちのところに福音が届き、私たちが救われてクリスチャンになっていることを喜びたいと思います。私がこの教会に赴任した頃、ある人がこう言いました。「亀有は、創価学会と共産党がさかんなのに、よく教会がありますねー」と言われました。ハレルヤ!「亀有に、キリスト教会がある」このこと自体が奇跡なのです。しかも、1時間以上もかけて来られる方もおられます。柏、荒川区、墨田区、それから足立区の保木間などはちょっと遠いです。この間は、石垣島から来られましたね。「失ったものを悲しむのではなく、今、あるものを喜べ」という言葉があります。同じように、来なくなった人を悲しむのではなく、今、来ている人を喜ぶ。神の国は、私たちの知らないところで成長し続けています。やがて世の終わり、収穫の時がやって来ます。実は倉に入れられて、殻は火で焼かれます。一方にとっては救いであり、他方にとっては滅びです。それは、まことに厳粛なときです。まだ、世の終わりが来ていないのは、神の国の席に、じゃっかん余裕があるからです。神様は「まだ、御国の席には、じゃっかん余裕があります」と、私たちのために終わりの時を伸ばしておられるのです。

2.自然に成長する教会

 この本はドイツのクリスチャン・スワルツが世界32カ国の教会に関わり、420万もの回答を分析処理したものです。彼は「文化や神学的教理に左右されない正しい教会成長の原則とは何か」という答えを出しました。その鍵になったみことばは、マルコ4章の「人手によらず」あるいは「おのずと」であります。つまり、教会の成長は作物の成長に共通しているということです。人の手によるものが人為的方策であるならば、「おのずと」は、神様が与えた生物的可能性であります。彼は「成長は造り出したり、無理強いしたりはできない。成長のための最上の条件作りに大切なのは、環境の抵抗力を最小限に抑えることである」と言っています。また、彼は成長している教会には、成長していない教会にはない独特な資質特徴があると主張し、以下の8つの項目をあげています。つまり、彼はたくさんの教会を調査して、8つの原則を抽出したわけです。

他を激励するリーダーシップ

 これを別な言い方では「権威分与的なリーダーシップ」と言います。しかし、権威を与えるというのは、誤解を招く表現のように思えます。「励まして人に任せる」という方が良いかもしれません。成長する大教会の牧師は、何でもできるスーパースターにならなければならないと言うことではありません。神様は、教会員一人ひとりに、既にビジョンと可能性を与えておられます。つまり、指導者は、自分のビジョンを達成するために、教会員を「助手」として用いるのではなく、神様が教会員に望んでいる姿になるように下から支え、整え、指導することであります。つまりそれは、ピラミッド型のリーダーシップではなく、サーバントリーダーシップと言えます。私は8人兄弟の7番目で育ったので強いリーダーシップはもともとありません。韓国式の牧会を試みたこともありましたが、うまくいきませんでした。ですから、自分がしもべになる、サーバントリーダーシップの方が性に合っているように思います。残念なことに、私は人をリクルートするのが苦手です。ですから、皆さん自身が、神様が「これをやりなさい」と言っているなー思ったら、どんなセルグループを作っても良いですから始めてください。ゴスペルだけではなく、最近はフラワーアレンジメントクラスとか、ヨシュアの祈り会、すずめのライトコースが開かれています。サドルバック教会のリック・ウォレンは、100のセルを始めて、1つでも残れば儲けものだと言っています。失敗を恐れずに、やってください。

賜物重視のミニストリー(働き)

 賜物重視の対極は、使命感重視であります。聖書学院に行ったとき、賜物よりも使命がやたら強調されていました。あるとき姉妹方全員がピアノを弾く発表会がありました。私たち男性は会衆席で高みの見物です。ある姉妹のときは、ドレスの袖や裾まで小刻みに震えていました。何遍も弾きなおして、可愛そうになりました。昔は、牧師夫人はオルガンが弾けなければならないと考えられていたたのでしょう。でも、使命感だけでやっていると、疲れて、いつかは燃え尽きます。しかし、神様が与えてくださった賜物で奉仕すると疲れないし、幸福感があります。「自分は神の国の中で何をするように召されているのかなー」と知ることはとても重要です。賜物と召命の間には、緊密な関係があるように思います。料理とかお掃除とか、自分の賜物でなくても、やらなければならないものもあります。でも、教会の奉仕で苦手なものを長くやる必要はありません。自分の賜物と召命の範囲内で、機能的に活動する、これが一番です。

情熱的な霊性

 この意味は、カリスマ的かカリスマ的でないかではなく、「この教会のクリスチャンは燃えているか」です。アントニオ猪木が「元気ですか!」と言っているようなことです。律法主義・形式主義的な教会は、たいていの場合、霊的な熱心さは平均以下です。成長する教会の人たちは、イエス様と教会を愛しています。また、熱心さと関係があるのが祈りです。それは、ひとりのクリスチャンが祈りに費やす時間の量とは関係なく、祈りが生き生きとした経験となっているどうかです。私がインドネシアのアバラブ教会に行ってわかったのは、彼らはイエス様との交わりを喜んでいることです。さらに彼らは共に祈り合うことを喜んでいます。これまでは、祈りと言うと祈祷山にこもって、何日間も断食するような悲壮感がありました。でも、24時間、共におられるイエス様と交わることによって、聖霊が自然な情熱を与えてくれます。その上に、兄弟姉妹が共に祈るとき、「薪は1本よりも、数本集まった方が良く燃える」という相乗効果が起こります。当教会では、公の祈祷会というものはありません。でも、兄弟姉妹が、何かあると、いや、何かなくても共に祈っています。これが大事なんです。

機能的組織構造

 人為方策的な教会は、「役員会」や「委員会」を設けて、「ああではない、こうではない」と議論します。議決機関はあっても、実行する人たちがいないのです「役員会で決めましたので誰か、奉仕をお願いします」と言うのはあまり効果がありません。世の中の構造は、お金とか権力ゆえに、上部には、いやでも従うしかありません。でも、教会はボランティアですから、「役員が決めたからやる」いうのは、情熱がわかないでしょう。クリスチャン・スワルツは「伝統主義は機能的組織と正反対なものである」と言っています。そして、「部門リーダーの原則」を説いています。つまり、「教会には、それぞれのミニストリー部門における個々のリーダーがいる」ということです。考えると人と実行する人が一緒であるなら、そのミニストリーは継続し、発展していくでしょう。私は役員会で「教会はこういうことをした方が良いと、アイディアを出すだけならお断りします。自分が率先して行うならどんなアイディアを出しても結構です」と言っています。

霊的に鼓舞し、活気を与える礼拝

 これは礼拝が未信者を対象にしているかどうかとは関係ありません。さらには礼拝が、典礼的か、自由な形式かも関係ありません。礼拝が参加者にとって「霊的に鼓舞し、活気を与える経験であるかどうか」です。英語では、inspiring experienceと言います。インスパイアーとは「霊感」という意味ですが、礼拝とは、聖霊が真に働かれる場所であります。聖霊の臨在は頭で考えるものではなく、霊で感じるものであります。真に生き生きとした礼拝に出席している人は、口をそろえて「教会に行くことが楽しい」と言うでしょう。私たちは訓練されたアッシャーや有能な司会者、あるいは音楽のテクニックと考えます。それも大切ですが、もっと大切なのは、私たちが聖霊様を認め、聖霊様を歓迎し、聖霊様に対して従順であることだと思います。聖霊様が豊かに働いている礼拝は、インスパイアーされた礼拝です

ホーリスティック(全人的)小グループ

 ホーリスティックとは、霊、心、体、物質、社会を包括した、「全人的な」という意味です。ホーリスティック小グループが教会にあると、聖書のみことばを分かち合うだけではなく、身近な事柄や疑問を分かち合うことができます。伝統的な教会は、家庭集会を開いても、それは礼拝を小さくしたものです。先生が語ったあと、お茶を飲んで、少し交わって帰ります。交わりがおまけになっています。私たちはセル(細胞)と呼んでいますが、この小グループは集会だけではなく、生活を分かち合っているのです。自然に成長している教会は「私たちの教会には、個人的に自分の問題を話し合えるグループがある」「私たちの教会は小グループの増殖を意識的に進めている」というアンケート結果が出ています。セル(細胞)は、一個、一個が生きていて、増殖をめざしています。

ニーズ指向的伝道

 ニーズとは人々の必要です。教会はこれまで、「神・罪・救い」を伝道という名で押し付けてきました。相手の必要よりも、「あなたは、まず、救われなければならない」と、こちら側の主張を押し付けてきたのです。緊急の場合は、それも必要でしょう。でも、イエス様のところに霊的な必要を求めてきたのは、ニコデモくらいです。多くの人は、病気を癒してほしいとか、目を開けてくれとか、お腹がすいたという理由で近づいてきました。彼らは具体的な必要を満たされた後、自ら霊的な必要に気づいたのであります。ですから、私たちの隣人が何を必要としているかということに気づき、愛して仕えていくということです。その人がイエス様を信じなくても、であります。紐付きの愛ではなく、与えるだけの愛です。中野兄弟は銀行員で営業がトップでした。彼はお客さんやお年寄りの必要を満たしてあげることに努力しました。すると、自然と彼らは預金をしてくれたそうです。ここにヒントがありそうです。

互いに愛する関係

 「愛の測定値」というものがあって、12の項目があります。例えば、教会員が教会の行事以外で、どれくらいお互いに時間を過ごしているか。どれくらいお互いに食事やお茶に接待し合っているか。教会がどれほど心を開いて祝福の挨拶をしているか。牧師は教会員の個人的な問題を知っているか。でも、教会に笑い声があふれているかどうかという質問は、その教会の質と成長に深くかかわっています。当教会のように、笑い声がある教会は、良い教会なのであります。教会に怖い人がいたり、プレッシャーを与える人がいると笑い声はとだえます。また、教会がミニストリー(働き)中心になると、愛がなおざりにされます。何をするかも大切ですが、円滑な人間関係を築くことはもっと大切です。無駄なーと思う時間が、かえって良い場合があるのです。イエス様は弟子たちとよく食事をしていました。イーティング、ミーティング、イーティング、ミーティング。食べながら、教え、教えながら食べていました。おそらく、イエス様のまわりには笑い声がいつもあふれていたと思います。

 大切なのは、これらの8つが、バランスがとれていることです。8つの資質は桶の8枚の板みたいなものです。水は一番低い板のところまでしか、満たされないからであります。ですから、8つの中で、どれが不足しているかをチェックして、そこに力を注ぐ。それを1年か、数年ごとに行うなら、自然に教会が成長していくのではないかと思います。イエス様は教会を愛しておられます。聖霊様は神の教会をあがなったと言われています。イエス様を愛している人は、教会をも愛すべきであります。教会とは建物や組織ではなく生き物です。なぜなら、教会とはクリスチャン一人ひとりだからです。

| | トラックバック (0)

2007年1月21日 (日)

4つの土地に落ちた種     マルコ4:10-20

 このたとえを理解するためには、いくつかの前提条件があります。種を蒔く人が「なぜ、道ばたや、岩地、あるいはいばらの地に蒔くんだろう。どじな奴だなー」と思わないことです。なぜなら、パレスチナ地方は、畑がそんなに広くはなく、周辺が荒野だということです。そして、日本と違って、彼らは種を蒔いてから耕します。ですから、種がいろんな土地に落ちる可能性があります。問題は種を蒔く人や種にあるのではなく、土地だということです。そして、土地というのは、この場合、イエス様のことばに耳を傾けている群集であります。イエス様は4種類の土地のような人がいることをちゃんとご存知でした。だから、たとえで語るのは、興味を持たせるためです。一方、たとえは理解しようとしない人には、かえって分からなくなります。そのため、イエス様は「聞く耳のあるものは聞きなさい」とチャレンジしたのであります。植物は動物のように移動することが出来ません。蒔かれた土地に生えるしかありません。ですから、「運命論的に4つの土地の人が存在するんだ」と考えることも出来ます。確かに、みことばを聴いて、すぐ救われ、勝手に成長する人がいます。一方、手をかけても、教会を去る人もいます。仕方がないと言えば仕方がありません。現実にそういう人たちがいます。でも、そこには農夫の手助けも必要ですし、植物自体の責任もあります。このような前提をふまえながら、このたとえを4つのポイントで学びたいと思います。

1.道ばたに落ちた種

道ばたと言っても、アスファルトで舗装された道路を連想してはいけません。これは、人の足で踏み固められた畑のあぜ道のようなところであります。とにかく、表面が堅いので、種を受け付けません。そうすると、鳥がやってきて、その種を食べてしまいます。イエス様は後で、で弟子たちだけにたとえの意味を教えておられます。15節には「みことばを聞くと、サタンが来て、彼らに蒔かれたみことばを持ち去ってしまう」と書いてあります。道ばたの人の特徴は何でしょうか?それは、心がかたくななために、みことばを受け入れないということです。私たちの周りにも、聖書の福音や教えを「バーン」と跳ね返す人がいるでしょう。ハーベストタイムの中川健一先生は、「日本人は無知と偏見をコンクリートで固めたような心である」と言いました。日本人はキリスト教を外国の宗教(欧米か?)だと思っています。そして、「日本には日本の宗教があるじゃないか!」と言います。でも、仏教だってインドで生まれ、中国、朝鮮半島を経て日本に入ってきました。では、神道はどうでしょうか?日本にはもともとアニミズム的なものがありました。そこへイスラエルの神信仰が入ってきて、現在のものになっているようです。神社の構造、おみこし、宮司がやっていることは、旧約聖書そっくりです。なぜ、日本がキリスト教にこんなにかたくななのか、それは徳川幕府270年の怨霊であります。幕府は封建制度を固めるため、鎖国政策を取り、キリシタンを弾圧しました。一方では仏教を奨励し、寺受け制度や5人組を設けました。多くのキリシタンが殺され、人々は「ああ、キリスト教は怖い宗教だ!」と思うようになったのです。もちろん、現在では、信教の自由が法律で認められています。でも、地方に行けば行くほど、保守的で、キリスト教に対してかたくなです。私は結婚するとき、家内の実家、岩手に挨拶に行きました。その家には仏壇や神棚だけではありません。天皇陛下のご真影も飾られていました。私は自己紹介するとき、「聖歌を歌わせてください」と言いました。すると家内の父は「やめてくれ!郷に入らば、郷に従えと言うだろう」と言いました。こちらに来て、こちらの郷には従ってくれませんが・・・。それでも、家内が毎年、夏休み、子供たちを連れて岩手に帰ります。孫伝道と申しましょうか、ご両親の心は少しずつ柔らかくなっているようです。

 農夫は、道ばたの土地のような人に対して、何ができるのでしょうか?まず、あきらめずに種を蒔き続けることです。特別伝道集会、コンサート、英会話、文書伝道などを「種まき伝道」と言います。宣教において、日本ほど海外のお世話になっている国はありません。また、日本ほど、実が実らない不毛の国もないのであります。宣教団体は、「日本は物価が高いので、1人の宣教師を日本に送る同じ費用で、アジアやアフリカに10人の宣教師を送ることができる」と言います。最近も、テレビや新聞に、パワーフォーヒーリングのCMが大々的に流れています。あれは一体どれくらいお金かかるのでしょうか。おそらく、何百億単位ではないかと思います。それでも、日本のために種を蒔き続けてくれる人たちがいるということです。私はもう1つ日本に大切な伝道法は、「人間関係の伝道」ではないかと思います。これをセル教会では「オイコス(家)伝道」と言います。日本では、これまで大人数を集めるクルセード方式の伝道がなされてきました。しかし、あれはお金と労力がかかる割に、教会につながる人がいないということです。すべてのイベント方式の伝道はダメだとは言いませんが、日本には関係作りを重視した伝道が適切ではないかと思います。松戸の岡野先生は、伝道集会など1つもしていません。先生は「教会に連れてこなくて良いから、ご家庭で、ご主人に愛して仕えなさい」と言います。やがて、ご主人は「私の家内がどうして変えられたのか見たくてやって来ました」と自らやってきます。さらに、友達が友達を誘ってやってきます。岡野先生は一度失敗してから、関係作りの伝道を進めておられます。最初はコタツで礼拝を持っていましたが、今では公民館がいっぱいになるほど人々が集まっているようです。ですから、農夫である私たちの必要は、人々を福音の愛で愛していくということです。福音の愛は、無条件の愛であり、教会に来ても、来なくても、ただ愛するということです。愛して仕えて、その人の必要を満たしてあげるうちに、土地が柔らかくなるということです。

 では、道ばたの人の責任は何でしょうか。神の愛に心を開き、みことばを受け入れるということです。イエス様は「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われました。イエス様は冷たいことを言って突き放しているのではありません。みことばは、聞こうとすれば分かるのです。イエス様は、「求めよ。そうすれば与えられる。捜しなさい。そうすれば開かれる。たたけ。そうすれば開かれる」と約束しておられます。

2.岩地に落ちた種

 最初に申し上げましたが、パレスチナは肥沃なヨーロッパとは違います。表面に土があっても、ちょっと掘れば、岩や石がゴロゴロでてきます。そういう所に落ちた種はどうなるでしょうか。岩地は結構、あったかいので、すぐ芽を出します。人によっては何でも受け入れる人がいます。「聖書のお話し、良いですね。私もイエス様を信じますよ!」と喜んで受け入れます。でも、17節に何と書いてあるでしょうか。「根を張らないで、ただしばらく続くだけです。それで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐつまずいてしまいます」。イエス様を受け入れたのに、とても残念です。でも、なんで、困難や迫害が起こるんでしょう。「神様の意地悪!」と言いたくなります。本当の原因は、私たちが「この世」に住んでいるからです。御国だったら問題ありませんが、この世においては、みことばを信じて従うとき、必ず試練や迫害が襲ってきます。たとえば、子供たちがCSに来て、教会で聞いたことをご両親に話します。すると、ご両親は「キリスト教に染まると考え方が狭くなるので危ない」と思って、子供を教会にやらなくなります。では、若者や大人はどうでしょうか?喜んで「私はイエス・キリストを信じたよ」と証しようものなら、意外な反応が返ってきます。「ああー、キリスト教にかぶれてしまってー。ほどほどにしないと、お嫁にいけないよ」などと冷や水をかけられます。また、この世の中で、聖書の価値観で生きようとすると必ず困難や試練に出くわします。「日曜日は礼拝を守りたいけど、友達と遊べない。昔は友達と一緒に歓楽街を飲み歩き、エッチなこともしたのに、もうできない」。友達は「お前、最近、連れないなー。どうしたんだ?」「うっそー、クリスチャンになったのー。そんな窮屈な宗教やめて、一緒に遊びに行こうぜ!」と誘ってきます。

 では、こういう岩地のような人に対して、農夫は何ができるのでしょうか?その人が聖書の真理にしっかり根ざすことが出来るようにフォローアップする必要があります。フォローアップというのは、バスケットボールで、シュートしたボールが外れたとき、もう一度すくい上げる行為から来ています。赤ちゃんは生まれたときから、1,2歳くらいまでは目が離せません。食事から排泄までの世話はもちろん、話しかけたり、スキンシップが必要です。赤ちゃんは物質的な必要だけではなく、人格と人格のふれあいが、とても大切です。小牧者訓練会の卞(びゅん)先生は、このように言っています。「人がキリスト教に関心を持ってくると、偏見やつまずき、また、迫害や困難が起こりそうな心配事が表れます。そうしたら、御霊に知恵を求めてそれに答え、その偏見や心配、つまずきなどを取り除いてあげます。このとき大切なのは、相手の霊的な年齢に合わせて、律法的になるのを避け、負えない重荷、負えないくびきを強要しないことが大切です。その人の信仰の成長に伴って負えるようになるものが多くなるからです。」私が信じるか信じないか迷っているとき、私を導いてくれた先輩は「神様はありのままの鈴木君を愛しているんだよ!」と言ってくれました。そのとき「ありのままかー、それじゃ、楽だなー」と安心しました。いきなり、「洗礼を受けたら、毎週、礼拝に来なければならない」とか「十分の一献金をしなさい」とか「酒とタバコはやめましょう」と言ってはいけません。イエス様を信じたら自然と礼拝に来たくなるのです。また、神様の恵みを知ったならはささげずにはおれないのです。聖霊によって満たされたなら、酒とタバコはいつかは不要になります。Ⅱコリント3章で、使徒パウロが言っています。「文字は殺し、御霊は生かすからである。・・・主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。」アーメン。

 では、岩地に落ちた種自身の責任は何でしょうか?それはキリストに根ざすということです。深く地を掘って、みことばに根ざすことを求めましょう。そうすると、雨や嵐が襲ってきても、大丈夫です。また、試練は本当は良いことなのです。なぜなら、そのことによって、神様にすがり、信仰が増してくるからです。父なる神様は私たちを鍛えるために、必ず試練を通過させます。どういう訳か、信仰を持ちたての頃、必ず試練が起こります。「神様、なぜ、こんなことが起こるんですか?」と恨みたくなるでしょう。でも、私たちを愛しているからこそ、そういう試練を許されるのです。でも、キリストとみことばに根ざすことによって、あなたは強くなれるのです。この段階の人は、上に伸びることよりも、地面に深く根を張ることに専念すべきです。

3.いばらに落ちた種

 種を蒔く人は、わざといばらの地に蒔いたわけでは在りません。地面の下にいばらの根や地下茎が隠れていたのです。作物が成長すると共に、いばらも伸びてきました。やがていばらが、幹や葉っぱをふさいで、太陽の光が当たらなくなりました。そのため作物はひょろひょろになって、実を結べなくなりました。私の母は小さな畑を耕していました。とうもろこしとかじゃがいもが、畑の外のゴミ捨て場みたいなところでも生えてきます。そこでは雑草も生い茂っているので、どれが作物なのか見分けがつきません。よく見ると、とうもろこしとか、じゃがいもがあるにはあります。でも、周りの雑草に飲み込まれて,やせっぽっちです。イエス様はいばらとは「世の心使いや、富の惑わし、そのほかいろいろな欲望である」と言われました。イエス様を信じてクリスチャンになったとしても、「あれも、これも」という人がいます。キリストも信じているけど、仏様も信じている。教会も良いけど、楽しいこともしたい。大体、こういう人は聖書のみことばを絶対的なものとして受け取っていません。「聖書は遠い昔に書かれたものだから、現代には通用しない」と考えています。そして、教会にいるときはクリスチャンのように振舞っても、いざ、世の中に出ると、世の中の価値観で生きています。日曜日、教会行っても、家族からは1つの趣味だと思われています。なぜでしょう?信仰に一貫性がないからです。ヤコブ書は「そういうのは、二心で、その歩む道のすべてに安定の欠いた人たちです」(ヤコブ1:8)と言っています。

 かつて、私は洗礼を受けたら、礼拝に続けてきていれば、成長すると思っていました。確かに、手をかけなくても成長する人がいます。でも、何年かたつと、教会を離れたり、生ぬるいクリスチャンになってしまう人が結構出てきます。そこで、私は、韓国の教会にならって、弟子訓練を始めました。しかし、風邪を引いている人に、グラウンドを走れと言っても無理です。訓練の前に、心の傷の癒しや解放が必要だということがわかりました。それで数年前から、チェンジングライフキャンプに行くように勧めました。そこでは、父を敬わないことからくる罪、十字架による心の癒し、偶像礼拝による悪霊の束縛などを取り扱います。もちろん、キャンプに行かなくても、小グループである程度のことはできます。「鉄は熱い内に打て!」ということわざがありますが、

イエス様を信じた直後、洗礼を受けてまもない人ほど良いです。信仰生活が10年とか20年たっ

た人は「いまさら」という気持ちがあるので、心を開くのが困難になります。いばらは最初の頃、地面の下に隠れています。根っこがあるわけです。作物が育ちはじめると、いばらも生え、しま

いにはいばらの方が勝ってしまって、作物を覆ってしまいます。生い茂ったいばらを取るのは、抜く人も手や指に傷を受けたりします。ですから、最初のとき、地面をほじくって地下に埋まっている根っこを取り除いた方が得策です。洗礼を受けて、新しくなる面ももちろんあります。でも、心の傷、罪の束縛、あるいは依存症の問題が残っている場合が多いのです。 

 それでは、いばらの地の人自身の責任は何でしょうか。自分で雑草やいばらはどけられませんので、他のクリスチャンや先生から祈っていただく必要があります。私はミニストリーをしてくれる人をメンターとお呼びすることを提案します。メンターとは「父代わり」とか「信仰の先軌という意味です。最初は、恥やプライドが邪魔して「祈ってください」と言い難いかもしれません。でも、解放を体験すると、空気までおいしくなります。そして、隣人を愛するのが容易になります。私たちは障害物を取り除いてもらったら、神様を仰ぎ、イエス様に似たものになるように成長すべきであります。「永遠に続くものは何か」と、神様を仰ぐとき、この世のものはどうでも良くなります。先週、NHKの「プラネットアース」という番組を見ました。ジャングルでは、植物や樹木は、太陽の光を求めて、争いあっています。ある樹木は、1年に2-3メートルも延び、最終的には30メートルを超えるものもあります。ジャングルでは、下は真っ暗ですが、地上から20-30メートルの高さまで伸びると、日光がさんさんとしています。植物や樹木は、少しでも光を得ようと、背丈を伸ばし、葉っぱを広げています。こういう努力が、信仰生活にも必要です。上にあるものを求め、手を広げて神様をほめたたえ、キリストの身丈に達しようとする姿勢が大切です。

4.良い地に落ちた種

4:20「良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ

人たちです」。初めから良い地の人もいます。神様が本当に備えておられたという人はいます。でも、そういう人は稀ではないかと思います。やはり、荒地を耕して、農地にしていくような作業が必要です。ですから、良い地とは、これまでの3種類の土地を全部総括したものと考えることができます。繰り返しになりますが、良い地面になるためには、第一に堅い地面を耕すことが必要です。耕すとは福音の愛で愛することです。福音の愛は無条件の愛であり、クリスチャンになるならないは関係なく、その人のニーズに答えることです。先々週、本郷台キリスト教会に行ったとき、教会のパンフレットをいただきました。1ページに、池田牧師の「耕地を開拓せよ!」という挨拶文が載っていました。先生のビジョンの1つが「地域に仕える教会」です。本郷台では、地域の人たちに仕えるため、いろんなことをしています。サッカースクール(現在250名の少年たちが所属している)、保育園、インターナショナルスクール、地域作業所(NPO法人知的障害者施設)、給食ミニストリー(ご老人に弁当を配布)、ゴスペルサーックルなど。とにかく、一生懸命、耕して、福音の種を蒔くということが大事です。第二番目は、偏見や躓きの石を取り除いてあげるということです。うちには、山の上に開墾畑が1つありました。母が三本桑で畑を掘り起こすと、たまにガチンと音がします。母はその石をポイポイ、沢の方に捨てていました。石を取り除いた後は、純粋なみことばをいただき、キリストに根をはることです。上に伸びる前に、下に根を張ることが重要です。第三は、いばらを取り除いた後、幹を伸ばし、葉を広げることです。当教会では、インナーヒーリングを強調しています。1年に何度か、カウンセリングや癒しの講師をお招きしています。解放のためのキャンプも年に1度は開きたいですね。兄弟姉妹が「告白しあって、互いに祈りあう」これがとっても効果があります。ヤコブ5:16「ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです」。

 マルコ福音書には、30倍、60倍、100倍の実りが与えられると書いてあります。クリスチャン

にとっての実とは、イエス様の似姿になることです。私たちは上にあるものを目指して進むべきであります。もう1つの実は、救霊の実、つまり私たちを通して救われる人が起こされることです。「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます」(Ⅰテモテ2:4)。「ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわきおこるのです」(ルカ15:10)。

イエス・キリストは信じている人たちのためだけに十字架にかかられたのではありません。無関心な人、敵対している人のためにも死なれたのです。ですから、主にあっては、すべての人が救いのための候補者なのです。すべての人が良い地であるとは限りませんが、福音の種をまき、畑を耕し、作物の生長を助けようではありませんか。主は「私と収穣の喜びを共にしてほしい」と願っておられます。収穫は多いが働き人が少ないのです。

| | トラックバック (0)

2007年1月14日 (日)

サタンの国を略奪せよ      マルコ3:20-30

 きょうのメッセージの中に「サタン、悪魔、悪霊」という用語が何度も出てきます。どうか「気持ち悪い」とか「怪しい宗教だ」と思わないでください。西洋の合理主義で汚染されたキリスト教会は、悪魔の存在を認めません。それは、単なる概念だと言います。そうではありません。彼らは人格を持っており、霊的な存在です。私たちは神様から愛されていますが、そのことを非常にねたんでいます。神様には直接攻撃できませんが、神のかたちに創られた人間を「盗み、殺し、滅ぼす」のが彼らの目的です。しかし、イエス様が来られたのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためであります。イエス様は良い牧者であり、羊のために喜んでいのちを捨てるお方であります。

1.サタンにも国がある

 律法学者たちは、イエス様が悪霊を追い出していることを非難しました。「イエスは悪霊のかしらベルゼブルであり、子分たちの悪霊を追い出しているに過ぎない」と言ったのであります。それに対してイエス様は、「サタンがどうしてサタンを追い出せましょう。もし国が内部で分裂したら、その国は立ち行きません。サタンも、もし内輪の争いが起こって分裂していれば、立ち行くことが出来ないで滅びます」といわれました。ルカ11:18には「サタンも、もし仲間割れしたのだったら、どうしてサタンの国が立ち行くことができましょう」と書いてあります。ここで注目すべきことは、サタンにも国があるということです。国とは王国であり、王がいて、領民、領土があるということです。王はサタンあるいは悪魔と呼ばれています。イエス様の時代は、ベルゼブルとも呼ばれていたようです。サタンの王国はピラミッド組織であり、位の高い悪霊から、位の低い悪霊がいるようであります。エペソ人への手紙を見ますと、主権、支配、権威、権力という名前があるようです。日本語だとどこにでもありそうな名前ですが、ギリシヤ語になると、迫力があります。サタンの国はどこにあるかと言いますと、おそらく、神様がおられる天の御国と私たちが住んでいる地上の間ではないかと思います。ですから、エペソ2:2「空中の権威を持つ支配者」とも呼ばれています。空中と言ってもジェット機が飛ぶ成層圏ではありません。おそらく、神様がおられる天と、私たちが住んでいるこの世との、中間地帯であり、そこが霊的な世界ではないかと思います。

 それだけではありません。アダムが堕落してから、本来人間が持っていた支配権や所有権をサタンが横取りしたと思われます。さらに、サタンは私たちの罪を告訴し、死の恐れを与え、誘惑し、ますます神様から遠ざけようとしています。ヨハネはⅠヨハネ5:19で「全世界は悪い者の支配下にあることを知っています」と述べています。サタンは「この世の君」と呼ばれ、神から離れている人々を支配し、人間が本来所有すべきものを横取りしています。サタンがイエス様を荒野で誘惑しましたが、このように言いました。ルカ4:5-6悪魔はイエスを連れて行き、またたくまに世界の国々を全部見せて、こう言った。「この、国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです。ですから、もしあなたが私を拝むなら、すべてをあなたのものとしましょう」。イエス様はそのとき、サタンに向かって「馬鹿を言うな!国々と権力と栄光はお前のものじゃないよ!」とはおっしゃいませんでした。イエス様はそのことに対して否定をしていません。「ただ、あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えなさい」と答えただけであります。サタンは、本来、私たちが神様からいただくことのできる健康、幸い、豊かさ、正義を行う力、自然界を支配する権威を横取りしているのです。しかも、サタンは地獄に道ずれにしようと罪を犯した人間を握って放しません。エジプトのパロ王は、イスラエルの民を奴隷にして離しませんでした。彼らを酷使し、自由を与えず、所有していました。まさしく、パロはサタンを象徴しています。

 でも、みなさん、サタンの国が自滅するほど恐ろしいものがあります。サタンすら怖がるものは、何でしょうか?24-26節「もし国が内部で分裂したら、その国は立ち行きません。また、家が内輪もめをしたら、家は立ち行きません。サタンも、もし内輪の争いが起こって分裂していれば、立ち行くことができないで滅びます」。なんと、分裂あるいは内輪の争いは、サタンの国をも滅ぼすほど力があるのです。もちろん、サタンは神様を怖がっていますが、それとは別に、分裂も怖がっているということです。みなさん、分裂や内乱は国を滅ぼします。記憶に残っているのは、カンボジア、アフリカのルワンダやブルンジであります。多くの人が殺され、国は荒れ、数え切れない難民を生み出しました。そして家も内輪もめをしたら潰れてしまいます。新聞では夫と妻、親と子、兄弟同士の内輪もめによる殺人が報道されています。そして、教会も内輪もめや分裂で簡単に潰れてしまいます。だいたい、教会はカトリックとプロテスタントに分かれ、たくさんの戦争をしてきました。1つの地方教会も分裂や内輪もめがあります。牧師と長老同士が争うということがよくあります。牧師側につくか、役員側につくか?よくあるケースです。「追い出すか、追い出されるか!」であります。内輪もめをしますと、弱い信者や信仰的に若い信者が躓きを受け、散らされてしまいます。プロテスタントは「反抗する」という意味がありますが、教会は一致を保つよりも、どちらが正しいか争ってしまう傾向があります。共通しているところははるかに多いのに、小さな違いに目が行ってしまいます。

 当教会はセルチャーチであり、セルチャーチを目指している教会でもあります。セルチャーチの特徴の1つは、フラットなリーダーシップです。信徒が自主的に活動できるように、牧師が権威を委譲、譲り渡しています。しかし、教会の多くはピラミッド型、縦型のリーダーシップです。このリーダーシップは会社でも学校の部活でも見られます。また、日本の家庭は家長(父)を頂点とした縦型のリーダーシップです。この間、石原先生がこのようなことをおっしゃっていました。「自分たち夫婦は最近、よく喧嘩をする。教会ではフラットなリーダーシップだが、家に帰ると縦型のリーダーシップになる。なぜかというと、自分の親しか見ていないので、ついついそうなる。これまでは家長として妻や子供たちを上から押さえつけてきた。しかし、家でもフラットなリーダーシップになろうとした。ところが、そうしたら妻が何でも言うようになった。だから、夫婦喧嘩が増えた。」ということです。日本の教会は縦型のリーダーシップが大半を占めていると思います。はっきり言いますが、亀有みたいに何でも言えるような教会は珍しいのであります。だいたい、牧師あるいは長老たちが教会をコントロールしています。日本の大きい教会は、言っちゃわるいですが、カルトになっています。牧師に対して、「ノー」と言ったら、教会を出るしかありません。しかし、亀有教会では「ノー」と言ってもいられる教会であります。でも、みなさん。地域教会の牧師に霊的な権威が与えられていることを忘れてはいけません。権威というのは、いわば傘のようなものであります。権威に従う人には、同時に守りが与えられます。でも、権威をふっとばすならば、雨がどんどん当たるようなことが起こります。家庭の父も、頭としての神からの権威があるのです。お父さんが正しい権威を行使していれば、傘の下で妻や子供たちが安全なのであります。ところが傘に穴が開いていれば、そこから雨が漏ってきます。ところが、妻が頭になってリーダーシップを取ったらどうなるでしょうか。それは、傘を上下逆にかぶるようなものであり、子供がおかしくなります。それに雨水が傘にたまって大変なことになります。ですから、いくらセルチャーチがフラットなリーダーシップとは言え、神様が与えた霊的権威を重んじなければならないということです。

 なぜ、私はこんなことを言うのでしょう?自己弁護しているのでしょうか?何割かはあるかもしれませんが、本質はそうではありません。私たちの周りには敵の王国があるのです。いや、私たちは悪魔が支配しているこの世で生きているのです。たとえクリスチャンであっても、神の法則をやぶるなら、そこから悪霊が入り込んで、ある部分をつかまれてしまいます。さばいたらさばかれます。人の罪を赦さないなら、自分も赦されません。両親や指導者を敬わないなら、守りが与えられません。これらはみんな神様が定めた法則です。法則に違反したところだけ、悪魔が攻撃してきます。第一のポイントでは、内輪もめの怖さを学びました。どうぞ、分裂や内輪もめを避けて、平和を保ちましょう。神様は父・子・聖霊の共同体の神様です。私たちも恵みによって、組織体ではなく、共同体を作りましょう。

2.サタンより強い者

 イエス様は1つのたとえで霊的真理を伝えようとしておられます。「家を略奪する」という少々、乱暴なたとえであります。3:27「確かに、強い人の家に押し入って家財を略奪するには、まずその強い人を縛り上げなければなりません。そのあとでその家を略奪できるのです」。ここで言われている「強い人」とはだれでしょうか?「強い人」とは、サタンであります。では「家財」とは、何でしょう。これは、人間とか、人間が本来所有していたものであります。それは、健康とか幸い、豊かさ、正義を行う力、自然界を支配する権威ではないかと思います。この箇所をルカによる福音書11章を見ますと、もっと詳しくわかります。ルカ11:21,22「 強い人が十分に武装して自分の家を守っているときには、その持ち物は安全です。しかし、もっと強い者が襲って来て彼に打ち勝つと、彼の頼みにしていた武具を奪い、分捕り品を分けます」。ここには、「もっと強い者が襲って来て彼に打ち勝つ」と書かれています。「もっと強い者」とは、主イエス・キリストであります。「武具」とは、サタンが人の罪を訴え、罪の中にある者を支配する力のことでしょう。「分捕り品」とは、マルコの「家財」と同じで、人間と本来人間が所有できたものであります。サタンはアダムの堕落以来、神が人間に与えたものを横取りしているわけです。人間はサタンの持ち物であり、奴隷と理解した方が良いでしょう。まさしく、エジプトのパロ王のもとにいたイスラエルの民であります。イスラエルの民がエジプトを出るとき、何が決めてだったでしょう?そうです。羊が殺され、家のかもいと柱に血が塗られました。過ぎ越しの出来事であります。不思議なことに、イエス様が十字架にかけられたのは、過ぎ越しの日であります。バプテスマのヨハネはイエス様に対して「見よ、神の小羊」と言われました。でも、イスラエルの民はエジプトを脱出して万歳だったわけではありません。カナンに入って戦い、先住民を追い出さなければなりませんでした。ジョン・ウィンバーは『力のいやし』という本でこう語っています。「イエスは十字架の上で完全にサタンを打ち破りました。その勝利によって、私たちはサタンへの権威を授けられたのです。しかし、キリストが再臨されるまで、私たちは与えられた権威を行使しなければならないのです」。つまり、イエス・キリストの十字架と復活により、サタンの王国が、決定的な敗北を喫したということです。でも、完全に私たちが勝利するのはキリストの再臨時です。キリストによる完全な勝利が来るまで、私たちは悪しき霊と戦わなければならないということです。でも、戦うための神からの権威がクリスチャン一人ひとりに与えられます。

 マルコ16:17,18「信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」私たちに「イエス・キリストの御名の権威」が与えられているということは、ものすごいことなんです。水戸黄門の、印籠みたいなものであります。「ひかえー、ひかえー、この紋所が目に入らぬか!」であります。また、マタイ28:18「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」と命ぜられています。イエス様がいっさいの権威を与えたのは、11弟子だけにではありません。ここには、私たちも含まれているのです。でも、現実は、私たちが悪霊を追い出せそうにもないし、その権威もあるかどうかも分かりません。ですから第一に必要なのは信仰によって、神様からあらためて権威をいただくということです。私は何度も、キリスト教の聖会に出かけ、「権威を受け取りまーす」と告白したり、講師から祈ってもらいました。そういうことも悪いとは言えませんが、もっと、単純ではないかと思います。イエス様を信じて、聖霊が内側に宿ったときから、その権威が与えられていたんじゃないかと思います。とにかく、聖書に約束されているので、「あらためていただきまーす」と言えば良いのではないかと思います。第二は力をつけるということです。日本語に「修練」とか「百戦錬磨」という言葉がありますが、イエスの御名の権威を用いていくときに、実力がついてくるのではないかと思います。キリストの御名とは、いわば剣のようなものです。剣の使い方も、初心者だと、「えーい」と振り回すのは良いのですが、自分の足を切ったりします。本来は悪霊を切るべきなのに、人を傷つけたりするかもしれません。愛知県の新城市には、リバイバル神学校というのがあります。この学校は、悪霊との戦い方を教える、変わった学校であります。「変わった」と言えば叱られますが、日本のキリスト教会では、めずらしい分野であります。ま、それだけ目が開かれ、「日本の宣教のためにはこれしかない!」と思っているからでしょう

 でも、みなさん。「悪霊はどこにいるか」と神社へ行って探さないでください。悪霊と戦うためにわざわざ出かけるというのは反対です。そういう機会があったら、勇敢に戦うのです。普段は、主イエス・キリストを仰ぎ、イエス様に従うことを志しているなら悪霊は怖くないのです。そして、なんでも悪霊のせいにしてはいけません。私たちの罪が原因して招いてしまった出来事も多いのです。一番重要なのは、犯した罪を悔い改め、へりくだってイエス様に従って行けば大丈夫なのであります。ヤコブ4:6-7「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります」。つまり、私たちが神様に従った分だけ、悪魔に対する権威が増し加わるということです。自分がちっとも、神様に従わないで、「悪魔よ。退け!」と言っても、向こうは「あかんベー」と馬鹿にするでしょう。神様はもちろんそうですが、悪魔も私たちの隠れた生活や心の思いを知っています。その部分をきっちり、神様に明け渡して、きよめてもらうなら平気であります。あとは、イエス様の御名の権威が与えられているのですから、これを信頼するしかありません。使徒パウロはエペソ6:17,18「救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい」と命じています。アーメン。

 さきほど引用した、ジョン・ウィンバーは「サタンの国を略奪せよ」と過激なことを言っています。略奪という言葉が過激なら、回復という言葉を使っても良いでしょう。本来、父なる神様が私たちに与えたかったものはたくさんあるはずです。それを、悪魔が横取りしている状態です。家庭が破壊されているため、社会全体がおかしくなっています。すべての病気が悪霊から、とは言いませんが、そういうものもあります。特に精神や情緒的な病気は、悪霊が握っている部分が多いと思います。イエス様が新約聖書で悪霊を様々な呼び方で呼んでいます。病の霊、おしとつんぼの霊(差別用語ですが)、汚れた霊、奴隷の霊があります。他にも、死の霊、分裂の霊、貧困の霊、怒りの霊と呼ばれるものもあるようです。しかし、これらは悪霊の固有名詞ではなく、こういう悪さをするということであります。ということは、私たちが日常、意識していない分野で、悪霊にやられているなーということであります。でも、何度も申し上げていますが、意識過剰にならないようにしてください。これは罪や傷があるために、起こる現象であり、もとが良くなれば解決することであります。大切なことは、父なる神様はこういうもと反対のものを与えようとされているということです。神様が下さっておられる聖霊は健康をもたらす霊、人の話を聞ける霊、聖い霊、自由の霊、命の霊、一致の霊、満足を与える霊、柔和をもたらす霊であります。イエス様の御名にはこういうものを悪魔から奪回する力があります。同時に、聖霊は神からの賜物を実際に供給してくださるお方であります。イエスの御名と聖霊の中に、すべてがあると言っても過言ではありません。ですから、私たちは日々、イエス様をあがめ、聖霊に満たされることを求めるならばOKなのであります。でも、この世においては戦いがあります。人を通してであったり、思いがけない出来事を通してであったり、ある場合は何も原因がないのに攻撃を受けることすらあります。大切なことは、私たちは未だ戦いのある「この世」で暮らしているということです。いくらサタンが十字架によって大打撃を受けたとはいえ、まだ、生きています。こうやって、世の中に悪い事件が増え続けているのは、背後に操っている奴がいるということです。「敵の存在を認めながら、イエス様を見上げ、みことばに従う」もう、これしかありません。

主の祈りで「われらを試みに会わせず、悪より救い出したまえ」と祈ります。悪というのは漠然とした、一般的な悪のことではありません。英国の聖書には、evil one「悪いもの」となっています。だから、現代訳聖書では、「悪魔から救い出してください」と訳しています。そうです。私たちは日々、父なる神様によって、悪魔の攻撃から守っていただく必要があるのです。くれぐれも、敵は人ではないということです。パウロは「血肉との戦いではない。悪しき霊との戦いである」と言っています。背後にいる悪霊が問題なのであって、その人自身ではありません。悪魔は私たちに疑いをかけ、人間同士が分裂し、人間同士が争うように仕向けるのです。悪魔こそが、分裂や仲たがいを与え、神の教会を滅ぼそうとしているのです。家庭や夫婦の間も同じです。あなたの敵は夫でも妻でもありません。あなたの敵は牧師でも、役員でも、信徒でもありません。背後で糸を引く、悪魔・悪霊が敵であることを覚えましょう。どうぞ、悪魔の惑わしや疑念、欺きに用心しましょう。これがいったん、マインドに植えつけられるとなかなか去りません。マインドの中で根を張り、いつかは破壊的な実を結びます。どうぞ気をつけましょう。神の愛と聖霊と神のみことばで、心の中を満たしましょう。

| | トラックバック (0)

2007年1月 7日 (日)

イエスの弟子訓練      マルコ2:13-19

 前回は、31日の礼拝説教と、元旦礼拝が続けざまにあって、気がついたら年が明けておりました。でも、このように説教できるというのは幸せであります。神様の召しがあっても、会衆が誰もいない場合は、やはりきついですね。会衆に励まされて、毎週、調子に乗って話せるというのは牧師みよりであります。今年は日曜日が52週ありますが、よろしくお願いします。ところで、新約聖書はギリシヤ語で書かれています。14-15節の構造を見ますと、2つのかたまり分けられます。1つは、「12人を任命された。彼らを身近に置くために」となります。もう1つは、「彼らに福音を宣べ伝えさせ、悪霊を追い出す権威を持たせて遣わすために」となります。もちろん、これが絶対正しいとは言いませんが、2つに分けた方が、分かりやすいということです。

1.身近に置くため

 イエス様が12人を選ばれたのは、身近に彼らを置くためであります。「身近に」は、ギリシヤ語ではメタであり、物理的距離ではなく、人格的な関係を表しています。たとえば、このマイクが私の近くにありますが、マイクと私とは人格関係はないのであります。しかし、相手が人格を持っているならば、お互いに意思の疎通が生じます。ですから、ある英語の聖書は、「イエスのコンパニオンとして、12人を任命された」と訳しています。コンパニオン?どこかで聞いたことがある呼び名でありますが、これは「同伴者」という意味であります。では、なぜ、イエス様は12人を身近に置いたのでしょうか?それは、12人がイエス様と共にいて、体験的に学ぶことができるためであります。西洋の教育は教室スタイルですが、イエス様の場合は職人式でした。学校は生徒たちが全員、前の先生を見ています。先生は教科書や黒板を使って教えますが、知識の伝達が主であります。一方、職人式とはどういうものでしょうか?調理、寿司、和裁、陶芸、華道、茶道、歌、楽器、柔道、空手・・・仕事から芸術、スポーツにいたるまで職人式であります。イエス様は寝食を共にしながら、弟子たちにすべてのことを伝授したのであります。そこには、技術や教えだけではなく、人格的なものも含まれます。彼らはイエス様からどうやって祈るかも見て学びました。病の癒し方や悪霊の追い出し方も見て学びました。弟子たち自身でやってみましたけど、最初は失敗しました。パリサイ人や律法学者との問答は突然、前触れもなくやってきました。イエス様の知恵あるお答えに感動しました。たとえ話も側で聞き、あとからその意味を尋ねました。残念ながら、神学校は大量生産するために、西洋の学校スタイルを真似ています。3か4年、知識を詰め込むだけ詰め込み、教会にポンと派遣します。これは、イエス様の弟子訓練とはかけ離れております。だから、途中でやめる牧師が多いのです。すばらしいことにインドネシアのアバラブ教会は、体験的に教えています。「体験的に教え、体験的に学ぶ」これがセルチャーチの1つの鍵であろうと思います

 もう1つ、イエス様がなされたことは、小グループで弟子たちを訓練したということです。イエス様が12人を選ばれたのは、新しいイスラエルを作る意味もあったでしょう。でも、私は身近に置ける数の限界が12人だからではないかと思います。これが100人であったら一度に交わることはできません。100人や200人は会衆でありますが、12人は小グループであります。他にも小グループは様々な治療に用いられています。また、キリスト教以外の新興宗教には必ずと言って良いほど小グループがあります。イエス様は小グループを作って教育された先駆者的な存在であります。サラン教会の元牧師の玉(オク)先生は、小グループの利点を5つあげています。第一は、自己を開放することが容易です。参加している人は、「ああ、みんな同じような悩みを持っているんだな」と帰属意識が生まれます。第二は、相互の学習をあげることができます。自分が他の人から学び、また他の人は自分からも学ぶことができます。「ああ、私も他の人にも大切な存在なんだ」ということを発見します。第三は、模範という要素です。小グループの中では、模範が指導者だけに限られていません。「ああ、最近、あの兄弟変わったなー」と、他の兄弟から刺激を受けて見習おうとします。第四は、グループへの愛着心を高めます。グループのメンバーが互いに心を通わせ、それぞれ大切な存在として受け入れ合うようになります。グループへの愛着心が高まれば、高まるほど、その集まりが生産的になります。第五は、いわゆる「カタルシス」と呼ばれる治療効果があります。イエス様はペテロとゼベダイの二人の子をゲツセマネの園に連れて行きました。そのとき、「私は悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、私と一緒に目を覚ましていなさい」といわれました。イエス様はご自分の感情を分かち合わないではおられませんでした。このように小グループは、感情を吸収するスポンジのような役割をします。

それにしても、イエス様が選ばれた12人は、種々雑多な人たちのように思えます。ペテロは少しおっちょこちょいで、自己主張が強い人です。ヤコブとヨハネは怒りっぽかったんでしょう。だから「雷の子」とあだ名を付けられました。マタイは元取税人でありローマの手先でした。熱心党員シモンはローマを倒したいと思っていました。トマスは疑い深くて、イスカリオテのユダは裏切り者でした。イエス様はあえて、衝突するような輩を集められたように思えます。人間的には同じようなタイプが集まると良いように思いますが、違う人がいるということは本当は良いことなんです。グループ・ダイナミクスと申しましょうか、足し算ではなく、掛け算式にパワーアップします。夫婦も違う者どうしの方が、よりパワーがあるんであります。教会もそうであります。「神様、なんで、あんな人を身近に置いているんですか?」と言いたくなることもあるでしょう。牧師もイエスマンばかり集めて、違った人を排除する方が気分的にも良いでしょう。でも、違う人が集まって、一致することがダイナミックなパワーを生み出すのです。たとえば、オーケストラを考えて見ましょう。ピアノが良いと言っても50台のピアノを一斉に弾いたらどうなるでしょうか?バイオリンもカッコいいですが、50台鳴らしても平面的であります。そこに、チェロ、ピコロ、オーボエ、クラリネット、トランペット、ティンパニー、トライアングルが加わりますと、ザ・ダイナミック・サウンドになります。日本人はダイナミックさが足りないのは、すべてが画一的だからです。学校も会社も同じ人を作りたがります。日本人はトヨタとかソニーなど、製品を生産するのは得意ですが、独自なものを作り出すことができません。なぜなら、「人と違うと変」という教育を小さいときから叩き込まれているからです。イエス様がいろんな人を選ばれたのは、同じ人にするためではありません。もちろん、イエス様の愛とか品性は、似るべきであります。でも、個性とか、賜物、やり方の違いは尊重されました。福音書には4つあります。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの書き方はすべて違います。4つの違ったイエス様が表されています。でも、イエス様を4つの方向から表すとき、もっと立体的でダイナミックになります。ハレルヤ!

彼らはそれぞれ違っていました。しかし、イエス様を囲んで、互いに愛し合い、互いに受け入れあうことを学びました。この形って何でしょう。この形こそ教会ではないでしょうか。私は子供のころから、自己主張の強い子でした。なぜなら、8人のうち1人ですから、生存競争が激しいんです。学校では先生から「静かにしろ」とか「それはダメ」「あれはダメ」とよく叱られました。私は、集団行動がとても苦手でした。しかし、教会は一応集団であります。この世の人たちは、「最も窮屈なところがキリスト教会だ」と思っているんじゃないでしょうか。なぜ、このような者が教会で牧師(一応指導者)となっているのでしょうか。それは、第一に、イエス様との命の関係があるからです。イエス様からありのままで受け入れられ、愛されているからです。でも、イエス様との関係だけでは教会としては、まだ不十分であります。問題は、この先であります。クリスチャンは変人のように見えます。いつもニコニコしていて、決して怒らない。本当でしょうか?勇気を出して、兄弟姉妹のところに出て行くと意外とそうじゃないんですね。弱さや欠点、個性もあります。頑固な人もいます。「あれでも、クリスチャン?」と躓くような人もいますね。でも、自分がイエス様から受け入れられ、愛されているように、その人もそうなんです。その人も神様の目から見たら、大切な人なのです。こういうことを少しずつ体験していくときに、「教会ってこうなんだ」と分かってきます。教会の大憲章、「一番大切な戒め」は何でしょうか?「伝道しなさい、奉仕しなさい、献金しなさい」。ではありません。「互いに愛し合いなさい」であります。12弟子たちがイエス様から一番、学んだことは何でしょうか。イエス様の愛を体験し、イエス様の愛を分かち与えることであります。彼らはイエス様の愛で、愛し合うことを訓練されたのであります。先ほど引用しました韓国のサラン教会の、「サラン」は愛という意味です。サラン教会は弟子訓練の教会ですが、「愛の教会」と命名しました。その理由は、愛し合うことが弟子として最も重要だからです。私たちもイエス様の側にいて、イエス様から愛を学びましょう。そして、イエス様からいただいた愛で、隣人を愛していきましょう。愛の共同体こそが、本当のキリスト教会であります。

2.派遣するため

 イエス様が12人の弟子たちをみもとに呼び寄せられたのは、ずっとそばに置くためではありません。弟子たちに福音を宣べ伝えさせ、悪霊を追い出す権威を持たせて遣わすためでありました。弟子訓練のゴールは派遣であります。訓練ための訓練では意味がありません。弟子訓練は、派遣することが目的なのであります。イエス様は2つのミニストリーを弟子たちに与え、そのために遣わしました。第一のミニストリーは、福音を宣べ伝えることであります。そして、第二のミニストリーは、悪霊を追い出すことであります。しかし、キングジェームス訳の聖書は、「病を癒し、悪霊を追い出すために」と書かれています。この理由は、他の福音書を参考にしているからでしょう。ちなみに、ルカ9:1には「イエスは、12人を呼び集めて、彼らにすべての悪霊を追い出し、病気を直すための力と権威とをお授けになった。それから、神の国を宣べ伝え・・・」となっています。つまり、悪霊の追い出しと病の癒しの両方が取り上げられています。しかも、ルカ福音書は権威だけでなく、力も授けられたとなっています。とにかく、弟子たちは2つのことを行うために派遣されました。第一は福音を宣べ伝えること、第二は病を癒し悪霊を追い出すことであります。さて、私たち教会は、クリスチャンは、この2つを行っているでしょうか?聖書を神のことばと信じている教会でさえも、「病の癒しと悪霊追い出しの時代は終わった」と寝ぼけたことを言っています。残念ながら、福音派の多くの教会は、福音を宣べ伝えることだけしか行っていません。もし、そうであるなら、それは命令違反であり、ミニストリーの半分しか行っていないことになります。皆さん、福音宣教と病の癒し及び悪霊追い出しは、ペアーなんです。この2つを引き離してはならないのです。なぜなら、福音を宣べ伝えるときに、必ず、悪しき霊との戦いが生じるからです。その証拠に、使徒パウロが新しいところに伝道しに行くと必ず妨害にあいました。直接的にはユダヤ人でしたが、背後で邪魔していたのは悪魔であります。なぜなら、福音が宣べ伝えられ、人々が救われるということは、悪魔の国が侵略されていることと同じだからです。敵が、自分の持ち物が奪われているのを、指をくわえて待っているわけがないでしょう。だから、福音宣教と悪霊追い出しはパックなのです。この2つを引き離してはいけないのです。

 使徒パウロは何と言っているでしょうか。Ⅰコリント2:2では「イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心した」と言いながら、すぐ後の2:4に何と書いてあるでしょう。「 そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行なわれたものではなく、御霊と御力の現われでした」とあります。この二つは一見、矛盾しているように思えます。しかし、そうではありません。十字架の福音を宣べ伝えるときに、御霊と御力の現われが伴うということです。「御霊と御力の現われ」とは、病の癒しと悪霊の追い出しのことであります。福音を宣べ伝えるとき、悪霊が声を出して出て行かないかもしれません。でも、人が悔い改めて十字架の福音を信じるときに、内部では政権交代があることは確かです。主イエス・キリストを心に迎えるとき、古い支配者は出て行かざるを得ないのです。では、なぜ、悪霊が出て行かないままでも、クリスチャンでありえるのでしょう。これが一番、難問であります。第一に考えられることはクリスチャンになる前に犯した罪が原因しています。たとえば偶像礼拝やオカルトをして悪霊と契約を結んでいたときです。神様は真理を大切にしますので、それが正しい契約であるならば、理由もなく反故にはできません。やはり、本人がそれを悔い改め、悪霊との契約を断ち切る必要があります。第二に考えられることは心の傷であります。拒絶、恐れ、虐待、貧困、辱め、失敗などがあるでしょう。これは悔い改めというよりも、傷ですからイエス様の癒しを受けるしかありません。本人は思い出したくないために、蓋をしている場合がよくあります。第三は怒りとかさばき、内なる誓いなど、悔い改めていない罪であります。これは光の中に出さないといけません。エペソ5:13,14「けれども、明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。明らかにされたものはみな、光だからです」とあります。このように悪霊の足場となるものが、3つがあります。でも、一人で祈ってもなかなか解放されません。だれか、兄弟姉妹の助けが必要であります。自分の手足が縛られているのに、どうやって自分でほどくことができるでしょう。他の人がいれば、はさみやナイフで、簡単に切ることができます。みなさん、そのために教会があるのです。ヤコブ5:16「ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです」とあるのはそのためです。クリスチャンになる前に犯した罪、心の傷の癒し、悔い改めてない罪、これらが、悪霊が好む生ゴミであります。カラスやねずみは生ゴミがあるところに出没します。カラスやねずみだけを追い払ったとしても、生ゴミがあれば、またやって来ます。悪霊も同じで、まず、生ゴミを出すしかありません。その後、悪霊は簡単に出て行きます。

 でも、みなさん。こういうことは信頼関係がなければ不可能です。また、本人のプライドが邪魔します。プライドが高ければ高いほど、悪霊からの解放はむずかしくなります。もう、途中であきらめて、教会に来なくなります。そういう状態で、いまでも、荒野をさまよっている人が大勢います。彼らは「今でもイエス様を信じているよ」と口では言うかもしれませんが、勝利がありません。敵に欺かれたまま、教会をうらみ、牧師をうらんでいます。私は昨年もインドネシアに行くことができました。アバラブ教会では、解放のキャンプは必須課程であります。「イエス様を信じます」と言ったら、洗礼を受ける前でも、キャンプに参加します。実はそういう人の方が多いんです。何十年もクリスチャンをやっている人は来ません。本当に、信仰に入ったか、入らない人が多いんです。ですから、当教会でも1年に1回は実施したいと思います。一応、計画としては、2月11日、12日にあります。11日の礼拝後、近くの研修所に出かけ、1泊します。どうぞ、参加してください。参加者がないとこの計画もおじゃんです。昨年の1月は石原先生をお迎えして、この所でミニ・キャンプを持ちました。昨年は通いでした。通いはダメです。1日目がしんどいと、2日目にもうやって来ません。悪霊がやっと出かかったのに、チャンスを逸してしまったんですね。そういう悪霊は免疫ができてしまうので、2回目は、腰をすえてかからないとなかなか出て行きません。中途半端に終わった人の特徴は、解放のミニストリーをものすごく憎むようになります。いろんな理由をあげて、自分を正当化しようとしても、聖霊様と自分がよく知っています。自分の闇の部分に光を当てましょう。明らかにされたものはみな、光になるのです。

 最後にこのことをお話ししたいと思います。イエス様が弟子訓練をしたのは、派遣するためでした。「派遣」「送り出す」、とても厳しいことばです。でも、これがないと私たちはいつまでもナヨナヨしたクリスチャンです。癒しも解放も、「派遣」というゴールがあると、シャキッとします。派遣というゴールがないと、いつまでも癒されたい、いつまでも解放されたいという地点に留まってしまいます。「まだ、癒されていないのでできません」「まだ、内側に問題を抱えていますからできません」。残念ですが、この地上で100%癒されることも、100%解放されることもありえません。完全になるのは天国に行ってからです。この意味は、別に罪を持ったまま、心に傷をもったままでも良いということではありません。どこに焦点を当てるか、どこにフォーカスするかであります。私たちはイエス様に似ることを目指しながら、同時にイエス様のミニストリーを成すのであります。カウンセリングは自分の過去と自分自身に焦点を当てるために、どうどう巡りになる危険性があります。それも必要ですが、「派遣される」というゴールが必要です。不十分でも良いのです。欠けがあっても良いのです。弱さがあっても良いのです。開き直るわけではありませんが、そこにこそ神の恵みと栄光が現れるのです。イエス様がパウロに言いました。「私の恵みは、あなたに十分である。というのは、私の力は弱さの中に完全に現れるからである」(Ⅱコリント12:9)と。自分の内を見ている限りは、必ず暗いところがあるものです。しかし、光であられるイエス様を仰いでいくときに、暗さは消え去るのです。逆もまた真なりであります。昨年、ベン・ウォンが本郷台に来られました。「私は空手、テッコンドーが大好きです。よく、私はお尻を蹴ってあげます。苦しむ事は良いことです。外から苦しみがやってくると、自分の弱さとか傷がどうのこうのという暇がありません。困難と闘っているうちに、自然と癒され、自然と解放されるのです」。このようなことをおっしゃっていました。

一見弱そうな女性も、お母さんになると強くなるのはそのためです。子育てをしているうちに心も体も強くなるんです(葛葉姉?)。あそこが痛い、ここが痛いなんて言っていられません。無我夢中であります。私たちも、イエス様に夢中になり、イエス様のミニストリーに夢中になるとき、弱さや傷からも解放されるのです。何事もバランスが大切です。昨年も申しあげたことがあります。それは、アップ・イン・アウトであります。アップは上ですが、イエス様を仰ぐことです。インは内側、自分のことや兄弟姉妹のことです。そして、アウトは外、この世に向かって派遣されることです。今年もプ・イン・アウトのバランスをとりながら進みたいと思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年1月 1日 (月)

あなたは何を想うか       出エジプト20:1-6 

 新年明けましておめでとうございます。「一年の計は元旦にあり」といいますが、一年を礼拝から始められることはすばらしい特権であります。礼拝とは神様との交わりであります。きょうは、「あなたは何を想うか」と題して、神様との交わりについて学びたいと思います。

神様はあなたの生活において、他の神を持つことを望んでおられません。神様はあなたと親しい関係を持ちたいのです。十戒の第一番目の戒めは何でしょうか。出エジプト20:3に「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない」とあります。日本語の聖書ではよくわかりませんが、原文を直訳しますと「私の顔の前に、ほかの神々があってはならない」となっています。「顔の後ろ」とか、「顔の横」でもなく、なぜ、「顔の前」なのでしょうか。神様は、あなたと向き合っている親しい状態を望んでいるからです。もし、神様とあなたの間に、他のものが入ってきたらどうなるでしょうか。それが妨げになって、神様はあなたが見えません。同時に、あなたも神様を見ることができません。神様とあなたの間を妨げるもの、これが偶像なのであります。でも、あなたは「私は仏像とかお稲荷さんを拝んでいませんよ」とおっしゃるかもしれません。では、十戒の第二番目の戒めはなんでしょうか。20:4「あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない」と書いてあります。「どんな形をも造ってはならない」は、原文では、「どんなイメージも造ってはならない」です。だから、単に彫られたものだけを意味しません。それは、あなたの想像力ということです。あなたの想像力から、偶像礼拝が始まることがあるのです。本日の説教は、「あなたは何を想うか」という題ですが、これは「あなたは何を想像するか」ということです。人が何を想っているのか、外からは分かりません。でも、神様はご存知です。

旧約聖書のエゼキエルは、幻のうちに、神様からエルサレムの神殿に連れていかれました。神様は「1つの穴から入って、その神殿の中に何があるかを見なさい」と言われました。エゼキエルは霊によって、神殿の中に入りました。エゼキエル8:10-12「私がはいって行って見ると、なんと、はうものや忌むべき獣のあらゆる像や、イスラエルの家のすべての偶像が、回りの壁一面に彫られていた。また、イスラエルの家の七十人の長老が、その前に立っており、・・・その手に香炉を持ち、その香の濃い雲が立ち上っていた。・・・あなたは、イスラエルの家の長老たちがおのおの、暗い所、その石像の部屋で行なっていることを見たか。彼らは、『主は私たちを見ておられない。主はこの国を見捨てられた。』と言っている」。エゼキエルはびっくりしました。外側から神殿を見ると、立派ですばらしいものでした。ところが、神殿の壁を通り抜けて、中に入ってみると様々な像が壁一面に彫られていました。エルサレムの長老たちが、壁に描いた絵や彫られた偶像を拝んでいたのです。しかも、彼らは「主は私たちを見ておられない」とうそぶいていました。では、新約聖書で神殿とは何でしょう。使徒パウロは、Ⅰコリント6章で「私たちの体は神の宮、神殿である」と言いました。外側からは立派なクリスチャンに見えるかもしれません。でも、神殿の内側、暗い所の部屋はどうでしょうか。すべての人は、自分だけの部屋を持っています。このプライベートな部屋とは何か。このプライベートな部屋こそが私たちの想像です。だれも、他の人は見ることが出来ません。そのプライベートな部屋の中に、多くの石像があります。想像の中のスクリーンに様々なものが映されています。私たちは「主はご存じない」と言っているかもしれません。でも、神様は神殿の中に偶像があることを好まれません。

なぜ、人間は罪と汚れに満ちているのでしょうか。それは、十戒の1番目と2番目を守らなかったからです。使徒パウロは、ローマ1章で「すべての罪と汚れは、偶像礼拝からである」と言っています。ローマ1:21-24「彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました」。「その思いはむなしくなり」は、英語の聖書では「彼らのイマジネーションがむなしくなり」となっています。つまり、神様を神様としてあがめず、感謝もしないために、想像力がむなしくなった。さらに、様々な偶像と取替えたために、神様はその心の欲望のままに汚れに渡されたということです。日本人の多くは、元旦から三が日にかけて初詣に出かけます。これは立派な偶像礼拝です。昨年は子供のいじめや自殺、政治家や企業の不正が目立ちました。学校の教師や警察官も信用できなくなりました。警察官がストーカー行為をしていました。世の中の評論家がどう言おうと、私は聖書からはっきり申し上げることができます。日本人はまことの神をあがめず、感謝もせず、かえってそのイマジネーションがむなしくなっています。実際、心の中で何を想像しようが、警察は取り締まることができません。いくら、刑罰を厳しくしても駄目なんであります。臭いものは元から絶たなければ駄目なんであります。私たちクリスチャンも、何を想うか、何を想像するかということが、とても重要であります。

イエス様は、山上の説教の中でこのように教えられました。マタイ6:22-23「からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。それなら、もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう」。イエス様は6:22で「からだのあかりは目です」と語られました。この目とは何でしょうか。エディ・レオ師が昨年の6月に当教会に来られましたが、「目とは想像力である」と教えてくださいました。ですから、もしあなたの目(想像力)が健全ならば、あなたの全身が明るくなります。しかし、あなたの目(想像力)が悪ければ、あなたの全身が暗くなるでしょう。つまり、あなたの想像力が、あなたの人生を決定していくということです。想像力はとっても力があります。1つ想像してみましょう。私がレモンを取り出し、ナイフで二つに切って、片方をあなたに渡します。あなたはそれを口に入れて絞りますよー。「ああー、すっぱい」。もう、想像しただけで、顔がゆがみますね。では、あなたを傷つけたことのある人の名前を、私が言ったらどうなるでしょう。とたんに、悲しみや怒りが湧き上がってくるでしょう。過去に受けた恥や失敗、拒絶がトラウマになり、その想いから離れられない人もいます。ぬぐっても、ぬぐっても、その想いがやってくる。もし、そういう否定的なことをいつも想っているならば、あなたの人生は間違いなく、暗くなるでしょう。また、男性にとっては、性的なことに対する想像が、けっこうヤバイ分野になります。雑誌とかビデオ、インターネットで見た映像が離れないということがあります。一方、女性は持ち物とか着る物です。だから、ショッピングが好きです。また、ロマンチックな映画を見て、その中のヒロインになることを想像するでしょう。おばさんたちの、韓流ブームはそういうとこから来ているかもしれません。一見、こういう想像は悪いようには思えません。しかし、それがいつの間にか、神様と自分との間に入り込む偶像になってしまいます。つまり、過去のトラウマ、欲望、映画スターも偶像になるのです。偶像をアイドルと言いますが、何らかの関係があるようです

私たちの思い(thinking)と、想い(imagination)は、たえず悪魔の攻撃にさらされています。私たちの想いを空っぽにすることは不可能です。よく、「座禅で無になるように」と言われます。でも、煩悩を消すことは不可能です。ある心理学者が統計を取りました。男たちが、セックスのことを考えるのはどのくらいの頻度だろうか。もし、男性が仕事をしないでくつろいでいる時、セックスについてどれだけ考えるだろうか。1日に240回。睡眠時間8時間を引くと、4分に1回の割合。男性はたくさん、こういう誘惑を受けます。朝、目が覚めて、カレンダーを見る。「ああ、奇麗な女性がいる」。トワェーン、第一のイメージ。そして、ジョギングをする。ああ、奇麗な娘が通りかかった。トワェーン、第二のイメージが生み出される。木を見でも、「ああ、何とこの木はセクシーなんだろう」と思う。第三のイメージ。マルチン・ルターはこのように言いました。「誘惑は、頭の上を通り過ぎる鳥のようなものである。頭の上を鳥が通り過ぎることを妨げることはできない。それは鳥の権利であり、防いでもだめである。しかし、鳥があなたの頭の上に巣を作ることは避けることができる」。性的な誘惑は、頭の上を通り過ぎる鳥のようなものです。では、誘惑がやって来たときどうすれば良いでしょうか。誘惑は追い出しても、またやってきます。汚れた想いと戦っても、勝利することは不可能です。そうではなく、汚れた想いがやってきたとき、イエス様を礼拝するときに交換すれば良いのです。トワェーン…「ハレルヤ!イエス様、感謝します」。4分後、トワェーン…「ハレルヤ!イエス様、感謝します」。こう考えると、男性は1日に主を240回も礼拝するチャンスが与えられているということです。男性の方は、自分が男性に生まれてきことを感謝しましょう。女性はこのような機会がありません。ハレルヤ!私たちは誘惑が来る、来ないに関わらず、積極的に神様と親しく交わる必要があります。

 私は新年には、必ずと言って良いほど、みことばを瞑想すると言うことを申し上げています。詩篇1:2、3「まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。」とあるからです。この「口ずさむは」、思うとか瞑想するという意味があります。イメージするという言葉ととても似ています。でも、日本語は「口ずさむ」と訳されていますので、これも興味深いなーと思います。私は毎朝、散歩をすることにしています。これまでは、朝、散歩してから、ゆっくり聖書を読んで瞑想していました。ところが、朝、すぐ起きて散歩をしますと、自分の過去のことや、今、悩んでいることが頭の中をぐるぐる回っています。大体、自分自身と語り合っています。でも、よく考えてみると、否定的なことや悲観的なことが多いんですね。それではいけないと思い、聖書を少し読んでから、歩くことにしました。朝は人が少ないので、結構、口ずさんでも平気です。聖書のみことばという材料があらかじめ入っていますので、考えることが自然と神様に向かいます。毎日、忙しい人が多いと思いますが、少し工夫するだけでずいぶん違います。電車に乗る前に、聖書を1章でも、2章でも読んでいると、電車に乗っている間、瞑想できます。車の中では、だれもいないと口ずさむことができます。単純な仕事のときも、前もってみことばが入っていると、瞑想しながらできます。ある人は、みことばのカードを作って、チラっと見て、瞑想しています。静まってディボーションすることはもちろん大切ですが、それだけで終わってはいけません。ディボーションが終わってからの時間もイエス様と交わるならば、なんと幸いでしょうか。

エディ・レオ師はタッチングヘブン(天国に触れる)というテキストでこのように教えておられます。もし、私たちが私たちの先生のようになりたかったなら、できるだけ多くの時間をかけて、先生から学ぶ必要があります。医者や技師、弁護士などの専門職になるためには、教師と顔と顔を合わせて勉強するために、たくさんの時間(一日に最低でも4時間から8時間)を費やすことが必要です。やがては、その人は教師のようになれるのです。そのことは私たちにも同じです。キリストのイメージに作られるために(キリストと同じような霊的資質を持つために)、私たちはイエス様と「顔と顔」を合わせて、会う必要があります。10分間、キリストとディボーションを持ったくらいでは、キリストのようになることは不可能です。ディボーションは大切ですが、その後の主との時間、私たちは主と継続的な会話を持つ必要があるのです。私たちは仕事を変える必要もなく、続けて忙しく働き、勉強やビジネスや他のことができます。しかし、私たちは間断なく、継続的に主と会話するように自分たちを訓練することができます。どのように始めることができるでしょうか?それは単純です。今、経験している問題や誘惑から始めましょう。否定的な想像を祈りに切り替え、感謝し、喜びに向けるために神のみことばを瞑想するのです。もし、あなたがこれを実行するなら、たゆまなく、主と交わることになるでしょう。アーメンです。

この世の喜びには飽きがやってきます。どんな美しい風景も飽きがやってくるでしょう。しかし、主との交わりにはそうことがありません。私たちはおいしいものを食べたり、新しい物を買ったり、新しいことを経験すると感激します。でも、毎日の生活にそういうものを期待することは不可能です。しかし、霊的で内側の生活は環境には関係ありません。私はインナートリップとか、ニューエイジの霊的な世界を言っているのではありません。まことの唯一の神様、私たちを愛しておられる天の父と交わるのです。常に、イエス様の御顔を求めるのです。そうするなら、天国の息吹と喜びが湧き上がってくるでしょう。テレビのチャンネルを次から次へと変えても、インターネットのサーフィンをしても、満たされません。お酒やタバコや快楽、この世のものは、すべて中毒になります。でも、イエス様だったら大丈夫です。どうせなら、みことばとイエス様に中毒になりましょう。聖霊による、天国の甘いぶどう酒で酔いましょう。私たちが慕うべきものはイエス様のうちにしかないということを肝に命じましょう。第一のものを第一とすれば、買い物も楽しいし、結婚生活も楽しい。レジャーも、趣味も仕事も価値あるものとなるのです。すべての源は、父なる神様から来るのです。2007年も、源なる神様と親密な関係を持ちましょう。

| | トラックバック (0)

« 2006年12月 | トップページ | 2007年2月 »