« 2006年11月 | トップページ | 2007年1月 »

2006年12月31日 (日)

荒野へようこそ    ルカ 4:1~14

本日のメッセージはジョン・ビビア著の『荒野で勝利する』という本からかなり引用しました。私はこの本を10月から読み始めましたが、11月頃はとても落ち込んでいました。礼拝出席は、ひところは80~90名だったのですが、あきらかに20名位減少しています。「あの人も来ていない。あの人も来ていない」と思うと、ボディブローを受けているみたいで、だんだん鬱的になります。そして、「来年は牧会20年目だから、安息年をいただこう。礼拝説教以外の奉仕はやめて、これまでのものを整理しょう」という気持ちにもなりました。ところが、11月半ば、この本を読んでいたそのときです。「ああ、私は荒野にいるんだ!日本の教会も荒野にいるんだ」という悟りが与えられました。それが分かったとたん、がぜん元気が出てきました。この本は、「荒野は収穫の時ではなく、刈り込みと接木の季節であり、後にやってくる収穫のための備えの時である」と書いてありました。きょうは、荒野とはどんな時なのかということを3つのポイントで学びたいと思います。

1.荒野は試練の時

 荒野は神からの罰ではありません。ルカ3章後半に書いてありますが、イエス様がバプテスマをお受けになられると聖霊が鳩のような形をして下ってこられました。そして、天から父なる神様が「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」と語られました。つまり、イエス様は父なる神様から、承認を受けたのです。その後、イエス様は荒野に行って、誘惑を受けました。ルカ4章1節以降「さて、聖霊に満ちたイエスは、ヨルダンから帰られた。そして御霊に導かれて荒野におり、四十日間、悪魔の試みに会われた」。イエス様は神様から喜ばれていたにも関わらず、聖霊に満たされていたにも関わらず、荒野に導かれました。イエス様は、40日間も荒野で一人ぼっちでした。だれも励ます人もなく、お腹が空いてどうしようもないとき、悪魔の攻撃を受けられたのです。でも、イエス様は神のみことばで悪魔を打ち負かしました。ここから分かることは、神様が私たちを荒野に導かれるのは、私たちを怒って罰するためではないということです。また、イエス様がそうであられたように、荒野は敗北の場所ではなく、勝利の場所だということです。でも、イスラエルの民はそうではありませんでした。彼らは荒野での生活を神からの罰であると見なしました。そのため、彼らはつぶやき、不平を言い、絶えず肉欲に駆られました。時が満ち、いよいよ約束の地に入って征服するという段になって、悪い報告に耳を貸してしまったのです。イスラエルの民は、神の約束と神の全能を信じないで、躓いてしまいました。そのため、本来、短いはずの荒野の旅が、彼らにとって一生のものとなってしまったのです。

 では、荒野とはどのような場所なのでしょうか。申命記8:2「あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった」。イスラエルの民は、主の大いなる奇跡によって、紅海を渡ることができました。彼らは敵の手から救い出され、喜びいっぱい主に歌い、主の前に踊りました。ところが、それから数日しかたっていないのに、「いったい、なぜ私たちをエジプトから連れ上ったのですか。私や子供たちや家畜を、渇きで死なせるためですか」と指導者に向かってつぶやきました。しかし、神様が彼らをエジプトから救い出した目的は、砂漠でさまよわせることだったのでしょうか?いいえ、神様がイスラエルの民を荒野に導いたのは、彼らの心の真の姿を明らかにするためでした。主はイスラエルの民が空腹になるようにさせられました。しかし、その次にはマナで民を養われました。なんだか、矛盾しているように聞こえるかもしれません。彼らは天使の食べ物と言われる、マナを毎日食べました。でも、それが4年間ではなく、40年間も続いたのです。また、彼らは40年ものあいだ、同じ靴をはき、同じ服を着続けました。神様は、イスラエルの民が欲しているものは与えないで、ただ必要としているものを与えられました。そのように、彼らは生きるために最低限必要なものはすべて満たされました。主はイスラエルの民を試すために、彼らのうちにこのような「飢え」を起こされたのです。何を試すためだったのでしょうか?それは民がエジプトに残してきた肉的なものを求めるか、それとも神ご自身を求めるかを試すためでした。残念ながら、イスラエルは「ああ、肉が食べたい。エジプトで、ただで魚を食べていたことを思い出す。きゅうりも、すいか、にら、たまねぎ、にんにくも。だが今や、私たちののどは干からびてしまった。何もなくて、このマナを見るだけだ」とつぶやきました。

 神様が荒野に導かれる理由は、申命記8:2にあるように「あなたの心のうちにあるものを知るためです」。悪魔が私たちを荒野に導くのではなく、神ご自身が私たちを荒野に導かれるのです。その理由は、私たちを試みるためです。それは、私たちの心の真の姿を明らかにするためです。ジョン・ビビアが本の中でこう語っています。「現代においても、神は教会を荒野へ導きいれられます。今、教会は荒野にいます。イスラエルの民に行われたように、主は私たちが主の御顔を求めているのか、それとも主の御手を求めているのか試しておられます。主の御顔とは、主のご性質と品性を象徴しており、主との交わりを意味します。一方、主の御手とは、主が与えられる物や主の力を象徴しています」。私たちは祝福をくださる神様を求めているのでしょうか?それとも、祝福そのものを求めているのでしょうか?もし、神様が自分に何を与え、何をしてくれるのかと、ただ何かを得ることばかりを求めていくなら、乾いた荒野で倒れてしまうでしょう。しかし、主ご自身を求めていくなら、祝福も力もあとから着いてくるのです。ある人たちは、自分が欲しいと願っているものが与えられている限りは、幸せであり、喜んで主に仕えます。しかし、乾いた荒野の季節になると、心の中の動機が露にされるのです。

2.荒野は清めの時 

 マラキ3:2-3に「まことに、この方は、精練する者の火、布をさらす者の灰汁(あく)のようだ。この方は、銀を精練し、これをきよめる者として座に着き、レビの子らをきよめ、彼らを金のように、銀のように純粋にする」とあります。神様はここで、祭司を練り清めることを、金や銀を精錬する過程になぞらえて述べておられます。純金はやわらかく、しなやかで、腐食の心配もありません。しかし、他の金属(銅、鉄、ニッケルなど)と混ざると硬くなり、曲げにくく、腐食しやすくなります。外側は黄金色に輝いていても、純金は自然界にはほとんど存在しません。なんらかの不純物が含まれており精錬しなければ、純金にはならないのです。これを私たちにたとえますと、不純物とは罪であります。教会に集っている多くの人たちは、みかけは敬虔であっても、心はかたくななのです。この世のシステムや価値観が教会に入り込んでいます。イエス様は金を精錬するように、ご自分の教会をこの世の影響からきよめるのです。金を精錬する場合は、まず金を粉々にし、溶剤と呼ばれる物質を混合します。次に火の中に入れ、高熱で溶かすと、溶剤と混じり合った不純物が表面に浮き出てきます。金は比重が大きいために底に沈むので、表面に浮上した不純物を取り除きます。精錬のために神が送られる火は、試練と艱難です。この試練の火の熱が、私たちのうちに与えられ、不純物が分離させられるのです。黙示録21章には、「都の大通りは、透き通ったガラスのような純金であった」と書かれています。いったん炎の試練によって精錬されると、私たちは透明な人間になるのです。透明な器は、自らの栄光を表すのではなく、中身の栄光を外に表します。つまり、私たちが精錬されるならば、この世は、私たちのうちにおられるキリストを見ることができるのです。荒野とは私たちの心の動機や計り事を精錬するために神が用いられる坩堝(るつぼ)なのです。

 純金はとってもかっこう良い感じがしますが、純金になるまで大変です。精錬のためには火だけではなく、溶剤が必要です。溶剤とは、同じ信仰仲間の肉的で未熟な者たちか、あるいは家族の者たちです。ヨセフに嫉妬していた兄弟たちは、「見ろ。あの夢見る者がやってくる。さあ、今こそ彼を殺し、どこかの穴に投げ込んで、悪い獣が食い殺したと言おう。そして、あれの夢がどうなるかを見ようではないか」(創37:18-)と言いました。結果的にヨセフはエジプトに奴隷として売られました。エジプトは、ヨセフにとって、まさに荒野でした。ヨセフは、兄たちへの復讐心に燃えて、どうすれば仕返しができるかを考えながら、エジプトでの日々を送ることができたでしょう。この間、15年から17年の歳月が流れ、あらゆる人間的な望みは消え去りました。ある人たちは、「このような荒野に置かれ、夢が成就しないのは、牧師(家族や友人や配偶者)のせいだ」と言うかもしれません。詩篇105:17-19「主はひとりの人を彼らにさきがけて送られた。ヨセフが奴隷に売られたのだ。彼らは足かせで、ヨセフの足を悩まし、ヨセフは鉄のかせの中にはいった。彼のことばがそのとおりになる時まで、主のことばは彼をためした」。「彼を試した」とは、彼を精錬したということです。神様はヨセフを精錬するために、ヨセフの兄弟たちの怒りを用いられたのです。つまり、ヨセフの見た夢が成就して、やがて来る大飢饉のときに、自らの家族のみならずエジプト全体を導く指導者となるためです。自ら進んで荒野を探さなくても、必ずや神様はあなたを荒野に置かれます。神様は牧師、兄弟姉妹、家族、あるいは配偶者を用いられます。「ああー、これでは神様が与えてくれた夢から遠ざかる一方だ!他の人がミニストリーやその他の領域で、昇進、昇格しているのに、夢に近づくどころか、反対方向へ突き進んでいるようだ!」いいえ。神様はあなたを精錬しているのです。あなたの中にある不純物を取り除こうとしておられるのです。これは私自身にも言えることです。

 もう一人の例は、ダビデです。ダビデは預言者サムエルによって王となるための油を注がれました。ダビデは巨人ゴリアテを倒した後も、イスラエルに勝利を与え続けました。ある時、女性たちは「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った」(Ⅰサム18:7)と歌いました。そのとき、サウル王の真の性質が顔を出して、怒りと嫉妬が顕わになりました。それまでサウルにとって、ダビデは自分の王国を支える貴重な存在でした。しかし、今やサウルにとって、ダビデは自分を脅かす脅威となったのです。サウルは自分の王位を守るために、ダビデを殺そうとしました。ダビデめがけて槍を投げつけたり、捕らえるために軍を派遣したのはそのためです。なんと、16年ものあいだ、サウル王は、荒野に身を潜めているダビデを追って、ほら穴からほら穴へと捜し回りました。ダビデは、「私のどこがいけないのでしょうか」と、きっと思ったことでしょう。ダビデはサウルを愛し、心から尊敬していたはずですが、神様は、ダビデを精錬するために、サウル王の狂気を用いられたのです。私たちは「サウルもサムエルから油注がれていたではないか」と思うかもしれません。若くして王に選ばれたサウルは、最初は謙遜で、自分を小さい者とみなしていました。ところが、主の前にまだ精錬されておらず、その心がまだ砕かれていませんでした。成功と権力が与えられた時、サウルの真の姿が顔を出し始めたのです。ここから分かることは、「神の人」に作り変えるのは、油注ぎではないということです。御霊の賜物は一瞬にして与えられますが、御霊の実(神の品性)はそうではありません。実が育て上げられるまでには時間がかかります。まず、種が地面に蒔かれ、それ自体は死ななければなりません。一方、賜物は育てる必要はありません。それは与えられるものだからです。でも、実は養われて身についていくものであります。荒野とは、人が精錬され、内側に神の品性を身に着ける場所です。

サウルはさばかれて死にました。しかし、ダビデはかつて神に仕えた人の死を決して喜びませんでした。むしろ、自分を殺そうと何年ものあいだ追い掛け回した男の死をいたみ悲しんだのです。なぜ、こんなことができたのでしょうか。ダビデは苦しみの炉で試され、練り清められ、砕かれた人となったからです。肉の人サウルと清められたダビデの決定的な違いは何でしょうか?サウルは王国を追い求めました。一方、ダビデは神様を追い求めたのです。私たちは何を追い求めるべきなのでしょうか?成功でしょうか?それともミニストリー、幸せな結婚、神の祝福、癒し、繁栄でしょうか。そうではなく、私たちは神を追い求めるべきなのです。

3.荒野は準備の時 135-202

 イザヤ40:3-4 荒野に呼ばわる者の声がする。「主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ。すべての谷は埋め立てられ、すべての山や丘は低くなる。盛り上がった地は平地に、険しい地は平野となる」。荒野もしくは荒地は、主の道を整えるところです。そこでは、すべての山は低くされ、すべての谷は高くされます。聖書では、山は人間の強さを表しています。モーセは40歳の時、イスラエルの民をエジプトの束縛から解放する召しを受けていると悟りました。モーセは、王子として育てられ、エジプトの最高の知恵を知識によって訓練されました。その当時、エジプトは地上の最強の王国であり、エジプトほどの先進国は他にありませんでした。モーセは、自分には指導者としての能力が備わっており、また、イスラエルに対する誠実さも持ち合わせていることをなんとかアピールしようとしました。しかし、その結果、イスラエル人を苦しめている一人のエジプト人を殺してしまったのです。突然、神の「偉大な救済者」は、自分の命を守るためにミデヤンの荒野に逃げ込みました。モーセは、砂漠の奥深くで、懸命に他人の羊の世話をしていました。それも、2,3年ではなく、なんと40年ものあいだです。なぜ、主に召された人が、砂漠で40年の歳月を「むだに過ごした」のでしょうか?神様は、肉なる山を低くし、曲がった場所をまっすぐにされ、でこぼこした場所を平らにされるのです。モーセが、40年ものあいだへりくだり、神様の精錬の火を受けた後、主が現れました。出エジ3:10-11

「今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ。」モーセは神に申し上げた。「私はいったい何者なのでしょう。パロのもとに行ってイスラエル人をエジプトから連れ出さなければならないとは」。かつて自信に満ちていたモーセと同じ人とは思えません。モーセは恐れを感じました。彼は、長い荒野での生活を経て十二分にへりくだっており、神様が介入されなければ、また惨めにも失敗するということをよく理解していました。たとえ偉大なエジプトの知恵であっても、モーセをイスラエルの解放者として整えるには不十分でした。神様の大きな仕事を成し遂げるためにモーセを整えたのは、不毛で寂しい、砂漠の奥深い地においてでありました。40年前、モーセは自分で自分を遣わしましたが、「私はあなたを遣わそう」と今、神様が遣わされるのです。

 『荒野で勝利する』という本の中に、著者自身の証が書いてありました。ジョン・ビビアは1979年、大学の友愛会で救われました(私と同じ頃です!)。4ヵ月後、朝の礼拝で神の御霊が彼に臨み「私はあなたを説教者に召した!」として語られました。「はい」と応答するやいなや、彼の人生に炎が燃え始めました。即座にキャンパスで伝道し、毎週、新しい人が救われました。彼は大学をやめて聖書学校に行きたいと思いました。ある夜、いやいやながら学校の宿題をしていました。そのとき、思わず工学の本を壁に投げつけ、大学を退学して聖書学校に入学する決意をしました。幸いなことに、彼のために弟子訓練をしていたダンが、一緒に祈ってくれました。そのとき、神様は「私の定めた時に」と語られました。ジョン・ビビアは大学を卒業し、7000人もの大きな教会のメンバーとなり、会場係りの奉仕を始めました。また、夜に開校されていた聖書学校にも通い始めました。2年後、彼は助手として雇われました。しかしその時、1年だけという約束で働き始めました。なぜなら、「私は説教者として召されているから」とその理由も説明しました。彼の仕事は、教職者たちの車を洗い、ガソリンを満タンにし、牧師の靴を磨き、使い走りをし、教職者たちの子供を学校に迎えに行き、二人の幼稚園児にスイミングを教えるなど、あらゆる雑用をこなしていました。結局、その仕事は1年どころか、4年半も続けることになりました。主の召しに対して「はい」と応答してから、すでに8年が経っていました。彼はまさに、荒野にいたのです。実は、彼が教会で奉仕をしている間、3度ほど説教者となるチャンスを得ました。ちょうど、そのとき、ヨハネの福音書を読んでいました。ヨハネ1:6の「神から遣わされたヨハネという人が現れた」という文がページから飛び出してきました。「あなたは、ジョン・ビビアによって遣わされたいのか、それとも神によって遣わされたいのか」という主の語りかけが聞こえてきました。彼はすかさず、「主によって遣われたいのです」と答えました。ある朝、外で祈っている時、「主よ、もしあなたがご再臨された時に、私がまだ教会の車を運転し、牧師や牧師夫人のために使い走りをしていたとしても、『主よ、私はあなたのために従いました』と胸を張って言えます。その6ヶ月後、フロリダ州の大きな教会のユースパスターに就任しました。彼は説教者としての召しに応答して、その務めを果たすためには、彼の性質が変えられなければなりませんでした。彼のうちに神の品性が形作られるために、荒野へ導かれたのです。ユースパスターになるために必要な荒野の訓練はそのときに完了しましたが、その後も霊的昇進の度に、まずそれにふさわしい準備期間を経なければなりませんでした。

 モーセも荒野で40年間の訓練を受けました。その後、神が命じられたこと以外は何も行わないという新しいモーセが誕生しました。イエス様ご自身も、公生涯の前、荒野で試みを受けられました。イエス様はこのようにおっしゃいました。ヨハネ5:19「まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行なう以外には、自分からは何事も行なうことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行なうのです。」私たちも主の例にならい、自分のやり方で事を行うのではなく、御霊に導かれて、神様の方法で行いたいと思います。ジョン・ビビアはこのようにまとめています。「たとえ主のためであっても、主の導きもなく、主の御力を与えられないまま行おうとするなら、それは無益な試みです。荒野とは、私たちにこの教訓を教えるために、神が導き入れられる場所なのです。内なるものは永遠の価値を生み出さないということを真に学ぶなら、主が召されたミニストリーを始める準備ができたのです。つまり、荒野は、将来のミニストリーのために整えられる場所なのです。」

| | トラックバック (0)

2006年12月24日 (日)

ことばは人となって     ヨハネ1:14-18

 「ことば」はギリシヤ語ではロゴスです。ギリシヤの哲人たちは、「世界はロゴスからできた。ロゴスとは宇宙理性であり原理だ」と言いました。しかし、聖書ではロゴスとは受肉前のキリストであり、ちゃんと人格(ペルソナ)をもったお方であると言っています。でも、この14節は非常な躓きをあたえました。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」。原文では、「ことばは肉体となった」となっています。ギリシヤ人は、「肉体は悪であり、魂は肉体という牢獄に閉じ込められている」と考えていました。それなのに、「ロゴスなる神が、肉体に宿るなんて、なんてひどい教えなんだ!」と思ったわけです。しかし、ヨハネはこの福音書においても、ヨハネの手紙においても、「イエス・キリストは、人として来られた」ことを強調しています。それでは、きょうは何故、ロゴスなる神が肉体をとってこの世に来られたのか、2つのポイントで学びたいと思います。

1.恵みに満ちておられた

 もう一度、14節をお読みいたします。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた」。恵みとはキリストの贖いととても深い関係の言葉です。恵みとは、人の行いや功績に関係なく一方的に与えられる賜物です。簡単に言うと、「にもかかわらず」与えられるものです。悪いことをしたにもかかわらず、一定の基準に達していないにもかかわらず、与える価値がないにもかかわらず…与えられる賜物です。一方、世の中の価値基準は、そうではありません。ある一定の基準に達したので…、良いことをしたので・・・、一生懸命働いたので…良い成績を収めたので与えます。たとえばそれは、賃金、ボーナス、学位、メダル、タイトルであります。入学も成績や内申書が一定の基準に達していないとダメであります。この世にあるほとんどのものは、自分の手で勝ち取るものばかりです。しかし、子供のときは、何でもただでもらいますので、「恵み」を簡単に受けられます。だから、神様も容易に信じることができます。ところが、大人になって行くにつれ、「ただ」でもらえるものには価値がないと思うようになるのです。そのため、信じるだけで救われるというキリスト教の「恵み」を受けるのが難しくなります。「ただより高いものはない、きっと眉唾だろう」と疑うわけです。しかし、キリストの贖いは、恵みであって、行いによって得られるものではありません。キリストの贖いは、あまりにも高価なので、私たちはただでいただくしかないのです。

ヨハネ3:16に、キリストの贖いを示す良い知らせのかたまりがあります。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」。神様はひとり子を与えたと言いますが、どこに与えたのでしょうか?「十字架に」であります。冒頭で、なぜ、ロゴスなる神が肉体を取ったのかと申し上げました。ロゴスなる神が人間となったのは、人間の身代わりとなるためです。イエス様は人間として生まれましたが、全く罪がありませんでした。まさしく、罪のない神の小羊として十字架につけられたのです。つまり、イエス様が全人類の罪を背負い、私たちの代わりに裁かれたのです。そのために、義なる神様は満足し、罪に対する怒りをひっこめられました。そして、神様が始めから用意していた永遠の命と永遠の御国を与えると約束されました。ただし、1つだけ条件があります。それは「御子を信じる者が」という条件付きであります。信じない者は、このすばらしい特典にあずかることはできないばかりか、さばきがその人の上にとどまります。神様は私たちが犯した個々の罪ではなく、キリストによる恵みを受けなかったことをさばかれるのです。しかし、信じた者には、考えられないような恵みが与えられます。信じるということは行いではありません。「神からの恵みを受け取る」ということであります。さきほども申し上げましたが、大人になればなるほど、これができないのであります。だから、イエスは、「だれでも幼子のようにならければ、神の国に入ることはできない」と言われたのであります。人間には生まれつきプライドがありますから、本当に困らないとこの恵みを受け取ろうとしません。だから、イエス様は山上の説教でこのように言われました。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです」(マタイ5:3,4)。「貧しい」とは、乞食をしなければならないほどの極度な貧しさです。また「悲しむ」とは、身内のだれかが亡くなったときの深い悲しみです。水野源三さんと言う人は、子供のとき脳小児麻痺になりました。それ以来、手も足も動かず、しゃべることもできませんでした。彼は「あいうえお」の表をだれかから指差してもらい、一字一字、瞬きで意思を伝えるしかできませんでした。水野源三さんは、「悲しみよ、悲しみよ、本当にありがとう。お前が、主イエス様のもとに連れて来てくれたのだ」という詩を書きました。

 イエス様がこの地上に来られたとき、一番先に神の国に入った人たちはだれでしょう。その当時、一番見下げられていた遊女や取税人、罪人たちでした。罪人とは、律法を守ることのできない人たちです。彼らはアムハーレツ、「地の民」と呼ばれました。では、反対に神の国に入れなかった人はだれでしょう?皮肉なことに、パリサイ人や律法学者など、まじめで宗教的な人たちでした。どういうわけか、彼らはイエス様を憎み、信じようとしませんでした。彼らは律法を守り行うという道を選び、恵みによる救いを選ばなかったのであります。これは今の時代にもあるんじゃないかと思います。この世では、クリスチャンになる人は、元来、真面目な人だと思われています。私は日本のクリスチャンの人口が少ない理由の1つは、教会が真面目な人しか歓迎しないからだと思います。教会がいつの間にか、パリサイ人や律法学者のようになり、世の人を罪人呼ばわりするからではないかと思います。イエス様のところに来た真面目な人というのは、ニコデモくらいです。他の人たちは、病気を治してもらいたいとか、腹が減ったとか、偉くなりたいという動機でイエス様のところにやって来ました。イエス様は罪ある人々をありのままで歓迎しました。私は英語をただで教えてくれるというので、東林間の教会に行きました。そこは、座間キャンプが近いのでたくさんのアメリカ人が来ていました。そこに通っている日本人はみんな変でした。私のような日本人と口をきかないで、アメリカ人とばかりしゃべっていました。私を導いてくれた職場の先輩は、「彼らは偽善者だ」と言いました。次に座間キリスト教会に行きました。その教会はホーリネス教団でとっても律法的で、信徒が牧師をさばき、牧師が信徒をさばき、信徒どうしがさばきあう教会だったそうです。ところが大川牧師は、私が行く少し前に、「聖霊様が好まれる、さばきあわない教会を作る」と方針を変えたばかりだったのです。だから、教会の雰囲気がとてもやわらかくて、罪のかたまりのような私も居心地が良かったのです。そこ頃、タモリのギャグがはやっていました。あるとき教会で、私が得意げにタモリのギャクを披露しました。「クリスチャンは、時計を持たなくても時間がわかりまーす。あー、十時か」。大川先生がそれを近くで見ていたのです。でも、私がまだ求道者だったせいか、叱られませんでした。十字架は神聖なものであり、ダジャレの材料なんかにはしてはならないものであります。とんでもないことです。でも、その教会には赦しと恵みがあったんです。もし、律法的で厳しい教会だったら、「二度と来るな!」と追い出されていたでしょう。私は「あの教会でなければ救われなかっただろうなー」と今でも思います。もし、亀有教会に、赦しと恵みの雰囲気があるならば、私は本当にうれしいでーす。イエス様自身も恵みにあふれていました。だから、遊女や取税人、罪人たちが緊張しないで、一緒にいることができたのだと思います。たまに、そばにいると緊張を与える牧師やクリスチャンがいますが、「恵み」をもっと味わうべきであります。

1:16に何と書いてあるでしょうか。「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである」。リビングバイブルでは、「この方の恵みは尽きるところを知りません。私たちはみな、次から次へと、あふれるばかりに恵みをいただきました」となっています。つまり、イエス様のうちには恵みがいっぱい詰まっているということです。「クリスマスにはプレゼントがつきものです。プレゼントをあげたり、プレゼントをもらったりします。でも、最大のプレゼントは何でしょうか?それは、父なる神様が私たちに御子イエスを与えてくださったことです。イエス様ご自身の中には、すべての恵みが詰まっています。罪の赦し、永遠の命、永遠の御国、豊かさ、解放、癒し、知恵、喜び、希望、愛、聖霊の力などが詰まっています。どうぞ、尽きない恵みを、次から次へとあふれるばかりにいただきましょう。たとえ、クリスマスに、だれからもプレゼントをいただかなくても問題ありません。なぜなら、イエス・キリストこそが最高のプレゼントだからであります。

2.まことに満ちておられた

 14節後半、「この方は恵みとまことに満ちておられた」。「まこと」というギリシヤ語はアレーセイヤですが、日本語では、真理、真実、誠実というふうにも訳されています。第一のポイントで恵みが必要だということをお伝えしました。しかし、恵みだけですと信仰生活はうすっぺらいものになります。神様はこの世界を創造したときに、きっちとした法則を与えました。そこには、自然科学の法則もありますし、道徳的な法則もあります。この世界に真理や真実があるのは、もともと神様が創造されたからです。そして、この真実や真理に逆らうと抵抗を受けて失敗します。あるときは、滅びを刈り取るときさえあります。「愛なる神様がなんでひどいことを許されたのですか?」と文句を言う人がたまにいます。でも、それは自分が無知であったため、神の法則に違反したからであります。もちろん、神の恵みによって何とかなるときもありますが、時には大きな代償を支払わなければならないときもあります。たとえば、酒やタバコは体に害を及ぼすことが医学的にも証明されています。ある人は、「クリスチャンは何をやっても恵みによって許されるんだ」と言うかもしれません。しかし、それは健康の法則に反する行為なので、やがては病気という刈り取りをすることになります。そういう意味でも、私たちは真理を知らないとエライことになります。使徒パウロは、コリント13:8で「私たちは、真理に逆らっては何をすることもできず、真理のためなら何でもできる」と言いました。そこで神様は「真理とは何なのか」ということを教えるために、地上にイエス・キリストを送られました。イエス様は真理とは何かということを教えられだけではなく、自ら真理に生きたお方であります。私たちは「ああ、イエス様は神様だからできたんだ!」と言います。確かにイエス様は神様でありました。でも、この地上において、イエス様はご自身の神の力で生きたのではありません。いつも、父なる神様から聞き、父なる神様のまねをして、父なる神様の力で人生を全うされました。それは、イエス様が私たち人間の模範となるためです。プロテスタント教会は、イエス様の贖いをものすごく強調します。「人は信じるだけで救われる。行いは必要ではない。信仰義認だ」と言います。もちろん、それは間違いではありません。でも、イエス様は「神の子として救われた人がどのように生きるべきか」という模範を示されたことも忘れてはいけません。

 インドネシアのエディ・レオ師はこのように言われました。「キリストの品性を真似るのはとても困難である。私たちはイエス様のように7の70倍も赦すことはできない。だが、キリストのライフスタイルを真似ることはできる。キリスト様の生き方を真似ていくならば、いつしかキリストの似姿に近づくことができる」。イエス様は、私たちが人生において遭遇する様々な試練を自らもお受けになられました。イエス様は洗礼を受け、聖霊に満たされて、「さあー、公に活動をするぞ!」と言ったわけではありません。なんと、イエス様は御霊によって荒野に導かれました。マルコによる福音書には「荒野に追いやられた」と書いてあります。イエス様は40日40夜断食した後、悪魔の試みを受けられました。悪魔は「あなたが神の子なら、この石をパンに変えなさい」と言いました。イエス様は神の子でしょうか。もちろん、神様です。ですから、石をどんなパンにも変えることができたでしょう。やろうと思えば、山崎パンにも、ポンパドールにも、マクドナルドにも変えることができたでしょう。しかし、しませんでした。次には、「あなたが神の子なら、神殿の頂から飛び降りてごらん」と言われました。人々は「メシヤは神殿の頂から突然現われる」と信じていました。イエス様は神様ですから、3回転2回ひねりでも飛び降りることができました。しかし、しませんでした。イエス様は、「世にあるものを全部あげる」という、3つ目の誘惑も退けました。イエス様はアダムとエバが負けてしまった誘惑に全部勝利されました。でも、それはご自身の神の力でやったわけではありません。もし、イエス様がご自身の神の力で誘惑に勝利したのであれば、私たちには何の望みもありません。また、イエス様は人間でもありました。もちろん、人間の力で誘惑に勝利したのでもありません。イエス様は人間として、聖霊の力によって、また神のみことばに従うことによって誘惑に勝利されたのです。ということは、私たちにもイエス様のように勝利できるということです。私たちに毎日、何度も、誘惑や問題がやってきます。何も問題のない日はないと言って良いほどです。でも、その問題や誘惑は、「ハレルヤ!イエス様―」と、イエス様を礼拝するチャンスとなるのです。イエス様を見上げると、不思議に信仰が湧いてきて、問題や誘惑に勝利できるのです。

もう1つ私たちがイエス様から学ぶべきことは、イエス様がなされたミニストリーであります。イエス様はたくさんの癒しや奇跡を行いました。私たちは「ああ、あれはイエス様だからできたんだ」と言います。でも、イエス様はヨハネ5:19でこのように言われました。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行なう以外には、自分からは何事も行なうことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行なうのです」。このところで、イエス様は「子は、自分からは何事も行なうことができません」とおっしゃいました。もちろん、イエス様は神様でしたから、ご自分の力で何でもすることができたでしょう。もし、イエス様がご自身の神様の力でやったら、私たちには何の望みもありません。でも、イエス様は「自分からは何事も行なうことができない」と言われました。この意味は、どんなミニストリーも、父なる神様に聞いて、父なる神様の力で行ったという意味です。ということは、私たちもイエス様と同じことができるんだという望みがあります。だから、イエス様はヨハネ14:12でこのように言われたのです。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです。」ここでも、「まことに、まことに」と2回たたみかけています。「これは嘘じゃないよ、本当だよ」という意味です。私たちもイエス様と同じミニストリーができるのです。でも、1つだけ条件があります。イエス様のように、父なる神様に聞き、父なる神様の力で行うということです。私は今年の9月インドネシアに行きました。最後は、1万人くらいはいる会場で癒しの大会がありました。私はエディ師が6月に日本に来たとき、「半身不随の人のために祈ったシルビーさん」「一度、死んだけど生き返った赤ちゃん」「靴をなくした坊や」の話を聞きました。インドネシアに行った時、その人たちがステージに上って、証をしてくれました。いやー、とっても力強かったですね。以前の私は「手当たり次第」手を置いて祈っていました。でも、イエス様のように、父なる神様に聞いて行うことがとても重要だということがわかりました。

最後に、大学生のシルビーさんに起きたことをお話して終えたいと思います。ある日、彼女は、学校の中を歩いていました。彼女は「お父さん、ここで何をしていらっしゃいますか。私に何をしてもらいたいですか?」と聞きました。お父さんがこのように言われました。「友達のために祈りなさい。あなたの友達は、右半身が不随になっています。何年も前からです。彼女のために祈りなさい」。彼女は祈り始めました。何が起きたでしょうか。彼女は5分、10分、そして15分間祈りました。15分祈った後、何が起きたでしょうか。何も起きませんでした。これが問題です。15分間、祈って何も起きなかったら、普通、何をするでしょうか。私たちは祈りをやめるでしょう。そして相手の人に「信仰がないからです」と、問題をなすりつけます。そして、去ってしまうでしょう。だが、このシルビィーさんは祈り続けました。どのくらい祈ったでしょうか。2時間くらい祈り続けていたら、突然、右手が動き始めました。「おおー、ちょっとだけど動く」。なんと、2時間半祈った後、その人は普通に歩き始めました。家に帰って、お父さんとお母さんは「ああー、娘が癒された」と涙を流しました。シルビーさんは、このような病人のために祈ったのは初めてでした。そして、癒されました。これは単純ですが、簡単ではありません。ただ、実践するだけです。私たちは彼女のように、父なる神様に聞くことが必要です。第一は「お父さん、ここで何をしていらっしゃいますか」。「父なる神様は今も休まずに働いておられる」と聖書に書いてあります。第二は「私に何をしてもらいたいですか?」と聞くことです。そのとき、父なる神様が「やりなさい!」と言われたらやれば良いのです。逆に「やりなさい!」と言われなければ、やらなくても良いということです。「人間的にかわいそうだから、なんとかしてあげたい」とミニストリーをし続けていると、燃え尽きるかもしれません。だから、父なる神様が「やりなさい」と言われたらやれば良いのです。イエス様も常にそのようになさられたと信じます。

 最後に「救いの御子の降誕を」という水野源三さんの詩を読んで終えたいと思います。

     一度も高らかにクリスマスを喜ぶ讃美歌を歌ったことがない。

     一度も声を出してクリスマスを祝うあいさつをしたことがない。

     一度もカードにメリークリスマスと書いたことがない。

     だけど、だけど、雪と風がたたく部屋で、心の中で歌い。

     自分自身にあいさつをし、

     まぶたのうらに書き、

     救いの御子の誕生を御神に感謝し喜び祝う。

| | トラックバック (0)

2006年12月17日 (日)

イエスの国         ルカ1:26-33

 先週に引き続き、クリスマスのメッセージをお届けします。クリスマスは牧師泣かせでもあります。なぜなら、話す箇所が決まっているので、「ああ、またか」という人たちが多いからです。でも、不思議なことは、同じような話でも、神様が示してくださるポイントが毎年違うということです。ポイント、つまり強調点が違うと、同じようなメッセージでも新鮮に感じます。この世の中は、たくさんのデコレーションでクリスマスの飾りつけをします。ライトアップも、発光ダイオドーを使っているせいでしょうか?とっても鮮やかです。クリスマスソングも奏でられています。でも、残念ながらメッセージがありません。そこにメッセージがなければ、ただの風景であります。クリスマスは風景ではありません。神からのメッセージがそこにあるべきです。

1.おめでとう

 御使いが突然、マリヤに現われて、「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます」と言いました。このシーンは、受胎告知として知られ、絵にもなっています。でも、何が「おめでとう」なのでしょうか?まず、マリヤにとっておめでたいことは何かということを見ていきたいと思います。マリヤはナザレの町の一処女でした。おそらく、十代後半かと思われます。そのマリヤがメシヤを生む母として選ばれたのです。イザヤ書には、乙女からメシヤが生まれるという預言があります。しかし、その当時の人たちは、どれほどその預言を信じていたか分かりません。でも、イスラエルの女性たちの間では、メシヤの母になれることは最も光栄なことであるという、言い伝えはあったと思われます。その証拠に、ひとりの女性が、マリヤをほめている箇所があります。ルカ11:27、ひとりの女が声を張り上げて「あなたを産んだ腹、あなたが吸った乳房は幸いです」と言いました。また、マリヤ自身も、喜んで賛美しています。ルカ1:47-48「「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう」。この賛美のとおり、マリヤは歴史上、全人類の中で、最も幸いな女性だと思われているのではないでしょうか。全人類で、メシヤの母になる確率というのは、何兆分の一の確立です。ジャンボ宝くじどころではありません。カトリック教会では、聖母マリヤとして、礼拝の対象にまで高められています。やっぱり、「おめでとう、恵まれた方」と言えるのかもしれません

 でも、マリヤはすべてがおめでたかったわけではありません。いくつか、おめでたくないこともあったはずです。マリヤはヨセフと婚約中でした。ユダヤでは婚約は結婚と同じくらいの重さがありました。結婚前に、他の男性との間に、子供ができたらどうなるでしょうか?もう、これは姦淫罪で、石打ちの刑で殺されます。マタイによる福音書を見ると、ヨセフは秘かに離縁しようと思っていたと書いてあります。昔も今も、処女が聖霊によってみごもるなんてことは、信じられないことであります。「私は聖霊によって子供を宿しました」などと言っても、「馬鹿も休み休みに言え、そんなことがあるはずないだろう。この大嘘つき!」と言われるのがおちです。それは、現代も同じキリスト教会であっても、処女降誕を信じないクリスチャンがいます。「処女降誕はその当時の神話から来たものである。十字架と復活さえ信じていれば救われるのだから、処女降誕は信じられなくても良い」という教会がいっぱいあるんです。マリヤにとっておめでたくないことは、人々から誤解を受けるということでした。婚約破棄、石打ちの刑、私生児を生んだみだらな女と呼ばれる。こういうリスクがあったということです。

 では、マリヤから私たちが学ぶべきことは何でしょうか?マリヤは人々からどう思われようが関係なく、神のみこころがなるように自分をささげたということです。マリヤは「どうしてそのようになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに」と疑いました。でも、御使いから「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます」と言われて、従いました。38節以降、マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」こうして御使いは彼女から去って行った。そのころ、マリヤは立って、山地にあるユダの町に急いだ。そしてザカリヤの家に行って、エリサベツにあいさつした。げー、マリヤは「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」と答えました。「本当に」は、原文では、behold「ご覧下さい」であります。「ご覧ください、主のはしためを」であります。マリヤはヨセフにも相談していません。即座に、親戚のエリザベツのもとに行きました。そしてそこで3ヶ月過ごしました。ヨセフやナザレの町の人たちはどう思うでしょうか?そんなの関係なく、マリヤは主のみことばにまっすぐ従ったのであります。こういうところが日本人に弱いところであります。日本人は神様がどう思うかではなく、人々がどう思うかに焦点を合わせがちであります。もう、子供のときから「人様から笑われないように」「人様に迷惑かけないように」「人様から後ろ指さされないように」…。人、人、人であります。特に、地方の人たちは、洗礼を受けてクリスチャンになるということができません。それでも、ときどき、細川ガラシャのように、座敷牢に入れられてでも、信仰を持つ人がいます。みなさんは、どちらの方に焦点を合わせているのでしょうか?人でしょうか?それとも神様でしょうか?

 私はマリヤが「いいえ、私にはできません」と断ったら、次の女性にチャンスが回ったと思います。でも、神様はだれか女性の協力が必要だったのです。なぜなら、エバの汚名を注ぐのは、やはり、女性でなければならなかったからです。創世記3章に「女の子孫がサタンの頭を踏み砕く」と預言されています。数年前、パッションという映画が上映されました。あの映画はカトリック教会の思想が背景にあるのではないかと思いました。その特徴として、母マリヤがずーっと登場しました。また、蛇が荒野の誘惑のとき、そして十字架のときも出て来ました。最後にサタンが踏みつけられ、「あー」と頭をかかえているシーンがありました。まさしく、創世記3章を現しているようでありました。イエス様が第二のアダムだとしたら、マリヤは第二のエバなのかもしれません。はっきり言うと神学的に問題になるかもしれないので言明はしませんが…。マリヤはエバのできないことをやったのです。エバは「自分が知恵を得て神のようになりたい、自分が美しくなりたい」と自己中心的でした。しかし、マリヤは自分のことはともかく、「神のおことばどおりこの身になりますように」と自分をささげました。ここに大きな違いがあります。マリヤが贖ったとは言いませんが、女性の代表として、汚名を挽回したことは確かであります。そういう意味で、マリヤは「最も偉くて、最も幸いな女性」と言えるのではないかと思います。

 男性も含めて、私たちが学ぶべきことは、神様への従順ということであります。「おめでとう。あなたがこのことを行うように選ばれましたよ」。「いいえ。私はそんなことはイヤです。だれか、他の人にやらせてください!」。そうすれば、チャンスはだれか他の人に行ってしまうでしょう。しかし、神様が直接、肉声で声をかけるということはまずありません。他の人を通してだったり、思いの中に浮かぶことかもしれません。そこいらへんは、信仰であります。私の長所でもあり短所でもあるところは、「今」のチャンスを生かすことです。私は信徒のとき、牧師から奉仕を頼まれたら「はい、わかりました。やってみます」と答えました。ちょっと共依存的なところがあったかもしれせんが、奉仕を断ったことはありません。また、「今がチャンスだ」と思ったら、即実行してきました。子供たちの大学も「ここはどうかな」と勧めました。勧めた分、責任もありますが…。この会堂や牧師館の建築も「今だ!」と思ったとき実行しました。結婚もそうだったかもしれません。亀有教会に赴任したのも、「まず、行ってみよう」でした。もう、19年もたってしまいました。ゴスペルクワイヤーも「じゃあ、やってみたら」でした。もちろん、人の意見を聞いたり、慎重に検討することも大切です。でも、神様が「今、あなたに!」とお声をかける時ってあるのではないかと思います。もちろん、ファーストチャンスをなくしたら、セカンドチャンスは永遠に来ないということではありません。問題は、「信仰によって立つ」、「信仰によって決断する」ということです。「何も決断をしないで失敗するよりは、何かをして失敗するようが良い」とロバート・シュラー牧師が言いました。もちろん、神様の御声もありますが、悪魔の声もありますので、見極めも大事です。ですから、祈って、神様にお聞きして、「これだ!」という確信を得たら決断すれば良いのです。独身男性も、「この人だ!」と思ったらアタックしたら良いでしょう。奉仕やセルも「これだ!」と思ったら、やってみたら良いですね。もし、たとえ失敗しても、神様はちゃんと別の道も備えてくださいます。祈って始めたことであれば、神様は万事を益としてくださいます。「できない!」諦めてしまえば、すべての道が塞がれてしまいます。しかし、「主にあって可能だ!」と信じれば、色んな道が開かれてくるものです。マリヤのすばらしさは、「これだ!」と決めたら、一身に従ったことです。

2.イエスの国

 1章31-33節「ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」ここで注目したいことばは、「国」であります。イエス様は「ダビデのような王様で、国をとこしえに治める方だ」と言われています。このところは、ダニエル書7章の引用であります。ダニエル7:14に「この方に、主権と光栄と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、彼に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない」と書いてあります。イスラエルの人たちは、こういう預言を知っていました。そして「やがてダビデのような王様が現われて、イスラエルの国を復興させるんだ」と信じていたのです。しかし、彼らのメシヤ観は非常に地上的でした。イエス様は本当に困って、公に宣教することが困難な時がありました。あの12弟子たちもそうでしたが、ローマ帝国を倒し、この地上にイスラエルを立てるということが望みだったのです。しかし、イエス様の国はそういう地上的なものではありません。では、目に見えない、精神的な架空の国かというとそうでもありません。イエス様の国は2段階で来るということです。このことが分かりますと、聖書がよく分かります。

 第一段階回は、目に見えない国であります。国というギリシヤ語はバシレイアと言って、王的な支配という意味であります。33節の「国」はバシレイア、王国であります。いわゆる、カントリーではありません。バシレイアはキングダムであり、神の国のことを指すのです。私は「天国」という言葉よりも、「神の国」の方が好きです。「天国」は、日本で本当に誤解されています。死んだ人が行くところが「天国」だと思われています。とんでもありません。天国とは、神の国であり、神の支配という意味です。話が戻りますが、第一段階回の国は、イエス様と一緒に目に見えない「支配」としてやって来たのです。本来、王国でありましたら、王様がいて、臣民がいて、領土があるはずです。民もなく領土もないのに、王様一人しかいないというのは、怪しい王様です。でも、神様はイエス様を王とする、神の国を作ろうとご計画されました。なぜなら、アダム以来、この地上は罪にまみれ、滅びに向かっているからです。このままですと、すべての人が罪と死の中に飲み込まれてしまいます。そこで、父なる神様は時満ちて、ひとりの女から、メシヤを誕生させました。父なる神様は、やがて来る神の国の住民を、まず集めようとされたのです。順番が逆と言えば、逆かもしれませんが、まず国民を集め、その次に領土を作るという計画でした。当時のメシヤ観は悪を裁き、イスラエル王国を建てる人物でした。しかし、イエス様はそうではなかったのです。イエス様は平和の君として来られたのです。イエス様は人々に「罪を悔い改め、神様と和解するように」勧めたのであります。世の人たちは、「なんと弱いんだろう!あれでもメシヤか」と疑いました。あげくのはて、十字架に付けられて殺されました。弟子たちは「もう、おしまい」と思いましたが、そうではありません。イエス様の十字架と復活により、人々が信じるだけで、神の国に入ることができるようになったのです。イエス様は「恵みによる救い」という道を開いてくださったのです。今年は、恵みの年、2006年目ということになります。まもなく、恵みの年、2007年目です。しかし、いつまでも恵みの年が続くわけではありません。

 第二段階回は、目に見える国であります。聖書をそのまま読むと、この国はさらに2段階でやってくるようであります。最初は御国、つまり1000年王国として、この地にやってきます。私はこの地球が核戦争でおしまいになるとは思いません。この地球は世の終わりにおいて、回復されると信じています。でも、すんなりと御国が建てられるわけではありません。ヨハネ黙示録などに書いてありますように、世の終わり、反キリストとの大戦争があります。空から星が落ちてきたり、疫病がはやったり、太陽が暗くなったり、とにかく大患難のときがやってきます。そのとき、私たちはどうなっているかわかりません。教会の人たちは患難に会わないで、天に引き上げられるという説もあれば、患難の後だという説もあります。奥山実先生は、目をさまして携挙を信じている人だけが、引き上げられる。たとえクリスチャンでも、携挙の信仰がない人たちは残されるとおっしゃっています。本当かもしれません。世の終わりの終わりに、イエス様が雲に乗ってやってこられます。雲とは栄光という意味があります。栄光のうちにやって来るということです。もう、優しいイエス様ではありません。目は炎のように燃え、口からは両刃のつるぎが出て、足はしんちゅうで、髪の毛が白い。まあ、ヨハネはイエス様を見て、死人のようになったと言っています。再び来られるイエス様は、今度は世をさばくために来られるのです。御使いたちと一緒に、信じない者たちをさばくために来られるのです。そのときには、恵みもあわれみも通用しません。神の復讐と怒りがこの地上をおおい尽くすのです。そういう意味で私たちは、神を恐れなければなりません。御国は1000年、回復のときとしてこの地上に訪れます。目の見えない人は見え、足なえは歩き、おしは歌います。この地上は不公平であり不条理がまかり通っています。しかし、御国において、すべてがチャラになり報われるのです。クリスチャンも忠実さによって、治める町の数が違うと書いてあります。しかし、1000年後、こんどは新しい天と新しい地が創造されます。おそらく、この地球も太陽系もなくなり、全く新しいところで、永遠に住まうのです。やっとそこで、神の国が完成するのです。私たちはじかに神様を見ることができ、栄光の姿で永遠に暮らすのです。永遠という言葉は、神の国にぴったりであります。

 問題は、この地上に生きている間です。イエス様は神の国の門を開けてくださいました。もちろん、イエス様ご自身が門であります。でも、神の国はこの肉眼では見えないんです。神様も見えません。わかるのは、聖書の約束と、イエス様の贖いであります。もう1つしいて言うならば、教会であります。教会は完全ではありませんが、神の国がどういうものであるか示してくれます。よく、マンションを新築するとき、他の場所にモデルルームを建てます。外はプレハブか何かですが、中に入るとそのまんまという感じがします。教会もある意味では、天国に似たモデルルームです。教会の中で偉い人はいません。牧師自身の気持ちとしては、偉い人として扱われたいのですが、聖書的には兄弟姉妹と同じです。貴族と平民の身分の差もありません。社長も従業員も関係ありません。たとえ、ここに大統領が来たとしても、一人の兄弟であります。神の国は愛が支配しているように、教会も愛が支配しています。神の国には病気や死がありません。同じように、教会にも癒しがあり死に打ち勝つ神の命があります。漢字検定協会では、2006年を表す感じは「命」だということでした。しかし、聖書では肉体の命ではなく、復活の命があります。復活の命、神の命がより大事なのであります。神の国は豊かです。ですから、教会も豊かであることを嫌ってはいけません。清貧に甘んずるというのは、聖書的ではありません。与えて貧しくなるのは良いことです。でも、はじめから貧しいのでは、人を助けることも、献金もできないからです。

 イエス様は、準備ができたら迎えに来るとおっしゃいました。ヨハネ14;2,3「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです」。イエス様は私たちのために、永遠の住まいを用意しておられます。お墓が永遠の住まいだったら、悲しいですね。そうではなく、あちらです。やがて来るのです。私は23歳で建設会社をやめました。もうずいぶん前のことなので、藤沢か八王子の現場か忘れました。とにかく、ボーナスをもらってやめたんですから。12月、失業していたので、寒さがよけい身にしみました。通りから、レストランとかで食事をしている風景を見ると本当に寂しくなりました。まもなく、私は町田に引っ越して、なんとかその町で住もうと思いました。隣町に同郷の友人がいて、彼女も与えられました。残念ながら、裏切り裏切られる形になりました。しかし、私は座間教会に導かれ、新しい兄弟姉妹が与えられました。26歳のクリスマス、青年会の兄弟姉妹と一緒にお祝いしました。古い教会でしたが、私にとってはホームという感じがしました。そして、一番、変わったことは、私はクリスチャンであるという身分が与えられたことです。働いている会社が問題ではなく、自分は神の子供であるという誇りがありました。そして、行くべき天の住まいがあるという希望が与えられました。その当時、トム・ジョーンズの「思い出のグリングラス」という歌がはやりました。その曲は、確か、故郷に帰る歌だったと思います。なつかしい我が家に帰る歌です。「ああー、自分の故郷は秋田じゃなくて、天国なんだなー」と思いました。

クリスマス、イエス様が来られたのは、あなたを御国に迎えるためです。どうぞ、その御国への招待を受けようではありませんか。そこには、先に天国に行った懐かしい人もいます。「再会」というのは、スナックの名前ではなく、本当は天国のためにある言葉です。天国で再会できるのです。この地上はいつまでも続きません。神様が備えておられる、御国のマンションで共に暮らそうではありませんか。

| | トラックバック (0)

2006年12月10日 (日)

新しい王様         マタイ2:1-12

 4つの福音書にはイエス・キリストに対するイメージがそれぞれ異なっています。それは、イエス様がこの地上に誕生したとき、すでに、福音書の主張が入っています。マタイによる福音書は、「王なるイエス」として描きたかったようであります。日本は王国ではありませんが、王様が代わると、国そのものまで変わってしまいます。国民の生活は、王様次第というところがあります。ユダヤに新しい王様が誕生したという知らせを聞いて、人々はどのように反応したのでしょうか。もし、そこに既に王様がいたとしたら、新しい王様と交代しなければなりません。恐らく、今いる王様にとっては、脅威に感じたことでしょう。

1.恐れた人々

 ヘロデは政治的な手腕に富んだ人で、人々から「ヘロデ大王」と呼ばれました。ユダヤの地方は、政治が不安定で支配者がよく変わりました。ヘロデ王は、それをうまく見越して、新しい支配者と仲良くなり、その地位を保ちました。しかし、晩年、彼は猜疑心の塊になり、自分の妻や王子を次々と殺していきます。人々は、「ヘロデの息子になるよりは、ヘロデの豚になった方がましだ」とまで言いました。東方の博士たちが、ヘロデ王を訪ね、こう言いました。2節「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」3節「それを聞いて、ヘロデ王は恐れ惑った。エルサレム中の人も王と同様であった」。ヘロデ王は、恐れ惑いました。何故でしょう?新しい王が登場したら、自分の王位を譲らなければなりません。危ない、危ない。自分の保身を第一に考えてきた王様にとっては、「寝耳に水」のような知らせです。ヘロデは「私も行って拝むから」なんて言っていますが、本当は見つけ出して殺すつもりだったのです。後で博士たちが帰って来ないので、ベツレヘム近辺に住む、2歳以下の男の子を一人残らず殺させました。なんという残忍さでしょう。ヘロデは、新しい王を抹殺しようとしたのです。また、「エルサレム中の人も王と同様であった」と書かれています。エルサレムの住民は、「ヘロデ王がまた何かやらかして、とばっちりを受けるんじゃないだろうか。新しい王も良いけど、安定した生活を奪われたくない」と思ったことでしょう。では、彼らの生活が本当に満たされていたのでしょうか?そうではありません。ユダヤは度重なる独立戦争で、疲れきっていました。その頃は、一番上の支配者がローマのカイザルで、ユダヤの地方はヘロデ王が治めていました。昔で言うとヘロデは代官、今風で言うと知事であります。ユダヤでは一般の税金の他に、宗教税もありました。人々は、「新しい王様が来て、さらにめんどうなことが起こるかもしれない。それなら、今のままで良いや」と思っていました。彼らは今の生活に満足はしていませんでしたが、新しい王が来ることによる、変化を恐れたのであります。

 それでは新しい王とはどんなお方なのでしょうか。マタイ1:21「マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」飛んで、1:23「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)新しい王とは、イエス・キリストでありますが、ローマやヘロデの支配から救う方とは言われていません。「ご自分の民をその罪から救ってくださる方」であると言われています。つまり、人間を一番、苦しめているのは罪です。この罪から救うために、イエス・キリストがやって来られるということです。でも、彼は王様です。王様ですから、自らの国を持ち、何らかの支配をするはずであります。そうすると、私たちの中にヘロデ王やイスラエルの民のような恐れがやってきます。第一は、自分が王様をやめて、新しい王に王権を譲らなければならないということです。みなさんだれしも、自我という王様が自分を支配しているのではないでしょうか?自分の生き方、自分の好み、自分の持ち物、自分の主義主張…これを簡単に新しい王様に明け渡すことが果たして可能でしょうか?善良で、私には何も問題ありませんと言う人ほど、頑固なんであります。いかがでしょうか?第二は、何か他に義務が発生するんじゃないかという恐れです。キリスト教に入ったら、やらなければならないことが増える。献金、日曜日礼拝、奉仕をやらされる。そして、好きなことができなくなる。だから、宗教はいやなんだと思うでしょう。でも、みなさん私たちは、生まれながらいろんなものに支配されているのです。まず、重力です。地球にいる限りは重力から自由になることはできません。また、空気がなければなりません。魚のように水の中には住めません。また、日本国民ということで、義務教育、納税の義務があり、さまざまな法律を守らなければなりません。学校に入れば入ったで、会社に入れば入ったで、いろんな決まりがあります。さらに、人々の目、世間体というプレッシャーもあります。しかし、そればかりではありません。私たちは罪と死によって支配されています。過去の罪、現在の罪に縛られ、やがて来る死の恐れによって支配されています。生まれながらの人で、罪と死から自由な人は一人もいません。

 では、新しい王による支配とはどういうものなのでしょうか?これは、救いとはどうものなのかという意味と一致しています。まず、使徒26章に使徒パウロが言った言葉があります。使徒26:18「それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである」。まず、「暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせる」とあります。これはどういうことかと言いますと、生まれながらの人は暗やみとサタンの支配下にあるということです。「えー?」と、驚きませんか?「とんでもない、私は自由です。何も問題ありません」と言っている人も、実は暗やみとサタンの支配下にあるのです。一番問題なのは、霊的に盲目で、それに気づいていないということです。イスラエルの民はエジプトに430年間も住んでいました。彼らは本来、カナンの地に住むことになっていましたが、飢饉のためにエジプトに一時的に逃れていたのです。でも、気づいたらパロの奴隷になっていました。解放者モーセがやって来て、パロと交渉します。すると、パロはイスラエル人を厳しく取り扱い、レンガを作るための藁を与えませんでした。民たちはレンガを作るために、切り株を捜し歩きました。そして、モーセに「お前が来たために、前の同じ量のレンガを作れないじゃないか!」と文句を言いました。イスラエル人は、エジプトから脱出することよりも、パロのもとでレンガを作ることの方が大事だったのです。なんだか、滑稽な感じがしますが、私たちもかつてはサタンの支配のもとで同じことをしていたんじゃないでしょうか?教会に行ったら、好きなことができなくなる。キリストを信じたら、今の生活を変えなければならなくなる。でも、彼らの王様は暗やみの王、サタンであります。サタンはパロ王のように、そう簡単に、自分の持ち物を手放さないでしょう。救いとはいろいろな表現がありますが、「サタンの支配から神の支配に移される」ことであります。

もう1つの救いの意味は、「わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである」ということですこれは、イエス様を信じた人は、「罪の赦しを受け、聖なる者とされ、御国を受け継ぐことができる」ということです。つまり、「神の王国の住民となる」ということです。ヨハネ黙示録には、その完成図が記されています。黙示録21:3-4「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」神様が共に住んでくださるとは、マタイ1章の「その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)と同じであります。また、完成した神の国にはないものが4つあります。死、悲しみ、叫び、苦しみがありません。そこには、贖いの完成があります。生まれつきの私たちは、「人は死んだらおしまいさ」と思って生きてきました。しかし、本当は、そうじゃなかったのです。永遠の御国が、神の民に用意されているのです。イエス様がこの地上にこられたのは、私たちを御国へ招待するためだったのであります。人々が御国に入ることができるように、イエス様はご自分の命を贖いの供え物として捧げられました。十字架の血しおこそが、私たちの罪がきよめられ、サタンの支配から神の支配に移される根拠となったのです。問題は、私たちがイエス様の招きに応ずるかどうかであります。新しい王様を迎えるかどうかであります。人間は意外と頑固です。それが正しいと分かっていても、信じないのです。なぜなら、自分の生活を変えなければならないからです。日本人はお墓とか家とか、たくさんのしがらみがあって、キリスト教は良いものと知っていても、信仰を持つことができません。でも、みなさん、救いとは自分の力で行うことではありません。自分でできないからこそ、救いが必要なのです。全身が縛られている人が、自分で綱を切ることができるでしょうか。また、底なし沼に沈みつつある自分を、自分で引き上げることができるでしょうか。やはり、だれかから救ってもらうしかありません。綱を切ってもらって、底なし沼から引き上げられてもらってから、新しい生活が可能になるのです。変えられるのは、救われてから後のことなのです。すべてが神様の恵みによって可能であります。恐れないで、新しい王であるイエス様を、あなたの人生の王として、お迎えいたしましょう。

2.求めてきた人々

 新しい王様を求めてやって来た人たちは、皮肉にも異邦人でした。ここには博士たちと書いてありますが、原文では「マギ」であります。マギとは、ペルシャやバビロニヤの占星術師たちです。星占いですから、聖書的にはかなり危ない人たちです。でも、何故、彼らがそんな遠くからやってきたのでしょうか。南ユダは紀元前580頃、バビロンに捕囚となりました。そこで、70年ほど暮らしていました。ダニエルなどは、バビロンで高い地位にありました。預言者エゼキエルもいましたので、メシアに関する預言がバビロンやペルシャにも伝わったのではないかと思います。マギたちは、そういう情報と自分たちの星占いを合わせて、ユダヤ人の王の誕生を突き止めたのではないかと思います。一般に3人の博士がやって来たと言われていますが、3人とはどこにも書かれていません。ただ、宝の箱が3つだったということだけです。また、馬小屋のイエス様を見つけたとも書いていません。2:11には、「その家にはいって」と書かれています。おそらく、ヨセフとマリヤは、イエス様を生んでから、しばらくベツレヘムに留まっていたのではないかと思います。産後の肥立ち、3×5=15日くらいは、ゆっくりしていないと体に悪いんじゃないでしょうか。それはともかく、マギたちは偉いと思います。水のない砂漠や、盗賊や山賊が跋扈する山地越えて、はるばるやってきたのです。恐らく、彼らは隊商を組んでと申しましょうか、大勢のお供を従えてやって来たのではないかと思います。長旅ですから、当時の宝物を非常にコンパクトにして持ってきました。彼らの唯一の間違いは、王宮にやって来たということです。「ユダヤ人の王様だったら、きっと王宮に生まれるだろうなー」と、ヘロデ王のもとを訪ねました。そのため、罪のない大勢の子供たちが犠牲になりました。でも、そのことはエレミヤ書で、あらかじめ預言されていました。

 私たちが博士たちから学ぶべきことは、すばらしい求道心です。求道者を英語では、seekers「捜す人」と言います。マタイ7章に、「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます」と、約束されています。「だれであれ」であります。「星占い?ちょっと危ないなー」という人たちにも、主は現われてくださいます。大切なのは、諦めないで、求め、捜し、叩く人であります。私たちも宮殿を訪ねた博士たちのように、建物の立派な教会、大勢集まっている教会が一流だと思ってやって来ます。お寺では建物を伽藍というそうですが、教会も伽藍が大切ということで、○○カセドラルに行ったりします。伽藍が立派でも、イエス様がいなかったりします。伽藍が、ガランとしていたわけです。また、牧師になるためには、○○大学付属の神学部とか、○○神学大学に行けば一流になれるだろうと思って行きます。残念ながら、そういうところは聖書が言うことを信じていません。当時の祭司長や学者たちは、聖書をだれよりも良く知っていました。でも、イエス様に会いに行こうとは思いませんでした。彼らは聖書の学者でありますが、生けるキリストと出会っていません。頭だけの観念的な信仰であります。イエス様はどこにおられたのでしょうか?イエス様は不衛生な馬小屋に生まれ、普通の家にいたのであります。家と言っても仮住まいであります。世の人が「そんなところに救い主がいるだろうか」と疑うようなところに、イエス様がおられるのです。

博士たちも、「宮殿にいなければどこにいるの?」と思ったでしょう。でも、星が彼らを導いてくれました。でも、その星は普通の星ではありません。9節「すると、見よ、東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった。その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ」。「えー?星が動いたり、止まったりするの?」私は、星とは御使いではないかと思います。ヨハネ黙示録9章や12章には「星」が登場しますが、御使いのようであります。よく分かりませんが、御使いが光を灯して、博士たちを導いたのではないかと思います。神様は、救いを求める人seekersには、どんな手段を講じてでも、イエス様に出会わそうとしてくださいます。時には御使いを遣わして、その場所を明るく照らしてくださるのです。この亀有教会に来た人たちも、「ああ、ここかなー?ここに救いがあるのかな?」と導かれたのではないでしょうか。「いやー、ここじゃなかった!」とがっかりして去った人たちもおられるかもしれません。そういう人たちには、お役に立てなくて、本当に気の毒です。もっと、私が頭のてっぺんをピカーッと光らせると良いかもしれませんね。でも、聖書は「求め続けなさい、捜し続けなさい、たたき続けなさい」と継続的な意味で言っています。1回や2回じゃなくて、何度もということです。救いの宝は、そう簡単には見つからないものです。この世には、邪魔する者もいます。まがい物を与えるものすらいます。「もう、何度もまがい物をつかまされた。もう、宗教なんか嫌だ、こりごりだ!」。そういう人は、あきらめずに、もう1回、イエス様を訪ねたら良いのではないでしょうか。きっと、見つかります、きっと出会います。

博士たちは星を見ただけで、まだ会ってもいないのに、この上もなく喜びました。それから、何をしたでしょう。2:11「そしてその家にはいって、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた」。彼らはイエス様に出会って、最初にしたことは礼拝であります。彼らはひれ伏して拝み、宝物をささげました。しかし、相手はまだ乳飲み子であります。乳飲み子でありますから、これまで博士たちは、何もお世話になったことがありません。ひょっとしたら、これからも何もしてくれないかもしれません。でも、彼らは乳飲み子のイエス様を礼拝しました。何故でしょう。彼らは礼拝とは何かということを私たちに教えてくれています。彼らがなぜ、乳飲み子のイエス様を礼拝したか。それは、イエス様が神様だったからです。「神様が私たちに何かしてくれた。ご利益がある。だから、拝む。何もしてくれない場合は、拝まない」。そういう理論が私たちの中にあります。それは、偶像礼拝です。ご利益がなければ拝まない。これが私たちの宗教心です。でも、本当の礼拝とは何でしょうか。神様が私たちに何かをしてくれたとか、してくれないとは関係なく、神様だから、それだけで礼拝を捧げるということです。神様だからです。でも、神様はご自身を礼拝した者たちを手ぶらでお帰しになるのでしょうか。そうではありません。私は博士たちがイエス様を礼拝している、中世に描かれた絵を見たことがあります。博士たちは、一国の王様のような服装をしていました。また、イエス様はマリヤに抱かれてはいましたが、なんと片手に杓を持っていました。王様が持つ杓であります。博士たちは深々と頭をさげて礼拝しています。なんと、イエス様のもう一方の手は、博士たちに向けられ、祝福を与えていました。いや、博士の頭に按手していたかもしれません。「まあ、なんとこまっしゃくれた赤ん坊なんだろう!」と思いました。でも、その絵は、何かを暗示しています。神様が礼拝者たちに祝福を与えるということです。決して、手ぶらではお帰えしにはならないということです。ハレルヤ!シバの女王はソロモン王を訪れました。そのとき、シバの女王はたくさんの宝物をささげました。でも、帰るときは、ソロモン王はシバの女王にたくさんの贈り物を上げました。博士たちも、おそらく、豊かな祝福を得て帰途に着いたと思います

マタイ2:12「それから、夢でヘロデのところへ戻るなという戒めを受けたので、別の道から自分の国へ帰って行った」。「別の道」とは、私たちにとって、「新しい道」と解釈できます。彼らは新しい道を歩み始めたのです。私たちもイエス様と出会い、神様を礼拝したならば、もう古い道には戻れないのです。神様に従う、新しい道を歩まなければなりません。その道は敗北の道ではなく、希望に満ちた勝利の道です。私たちも毎週、神様を礼拝していますが、この礼拝が終わったなら、「ああ、終わった。さあ家に帰ろう!」と言うことではありません。神様の祝福があなたの上に留まります。そして、罪の重荷を置いて新たにされ、今度は神様の道を歩むのです。これがこの世におけるクリスチャンの生き方です。イエス様と出会ったはずなのに、相変わらず古い道を歩んでいる。李光雨師が「はず、ふり、つもりは通用しない」と言ったことがあります。「イエス様に出会ったはず、イエス様に出会ったふり、イエス様に出会ったつもり」ではまずいです。本当に、イエス様に出会ったなら、新しい生き方を始めます。これまでの古い価値観を捨て、神様の新しい価値観に生きようとするのです。私たちは救われたからと言って、何からも自由になるわけではありません。神様のご支配のもとに生きるときに、この世のものから解放されます。イエス様のうちに留まるときに、本当の自由と喜びが与えられるのです。

| | トラックバック (0)

2006年12月 3日 (日)

手を伸ばしなさい      マルコ3:1-12

 12月に入りましたが、クリスマスのお祝いは、教会よりも、この世の人たちが早いようです。しかし、彼らは25日終わると、すぐ、しめ飾りの準備をします。年が明けるとクリスマスはどこかに行ってしまったかのようになります。私たちは、年末年始に関係なく、クリスマスシーズンとして、イエス様のご降誕をお祝いします。と言いながら、きょうの聖書箇所は、クリスマスのメッセージになっていません。それでも、私たちに必要な神からのメッセージであることをご期待ください。

1.安息日の意味

 ユダヤ人たちは、安息日を厳格に守っていました。安息日は、今の土曜日です。彼らは会堂に集まり、律法の書から学び、礼拝をささげました。安息日の起源は、創世記にあります。神様は6日働いて、7日目に休まれました。十戒の4番目に「どんな仕事もしてはならない」と、人間だけではなく家畜も休むように命じられています。一般に、「働け」という命令は聞いたことがありますが、「休め」という命令はあまり聞かないですね。人間は神様から「休め」と命令されなければ、休めない愚かな生き物なのかもしれません。この命令は、私たちの霊、心、肉体を健康に維持するための神様の恵みでありました。ところが、イエス様の時代、安息日の律法には、細かな規定が設けられていました。煮炊きしてはいけない。何キロメートルは歩いてはいけない。「○○してはいけない」という、戒律になっていたのです。他の律法もそうですが、制定されたときの精神が失われていました。ですから、マルコ2章でイエス様は「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません」とおっしゃいました。そして、きょうの箇所は、安息日に癒しをしても良いかどうかです。パリサイ人たちは、律法の専門家で、ある人たちはサンヒドリンの議員でもありました。彼らの見解は、「安息日に癒しなどしてはならん!」でした。この世では、いろんな法律や条令がありますが、結構、否定的なものが多いですね。今、いじめをどのようになくすか議論されています。しかし、その多くは先生や生徒に対する罰則と関係しています。処罰を与えれば、いじめがなくなるということではないと思います。いじめは、日本の文化から来たものです。ですから、「人ではなく善悪を基準として生きること」あるは「ひとりひとり違って良い」「陰口ではなく面と向かって話すこと」など、人格的な教育が必要であろうと思います。聖書は「あなたの隣人を愛せよ」と根本的な解決を与えておられます。

 ところで、片手のなえた人が会堂の中におりました。パリサイ人たちの関心は、イエスがこの人を癒して安息日を破るかどうかにありました。「じっと見ていた」とありますが、片手のなえた人のことではなく、イエス様を訴えるために見ていたのであります。その人が気の毒だとか、「何とか良くなればな-」ではなく、愛のかけらもない冷酷な人たちでした。イエス様は彼らに聞きました。マルコ3:4 それから彼らに、「安息日にしてよいのは、善を行なうことなのか、それとも悪を行なうことなのか。いのちを救うことなのか、それとも殺すことなのか。」と言われた。彼らは黙っていた。イエス様は、安息日を○○してはならないという、戒律から解放しました。「安息日にしてよい」は、原文では、「安息日に善を行うことは、法にかなっている」という意味であります。もちろん、安息日に善を行うこと、安息日にいのちを救うことは、法にかなっています。なぜなら、手のなえた人は安息日であっても、安息がなかったからです。マタイ12章で、イエス様はこのとき、1つのたとえを話されました。マタイ12:11,12「あなたがたのうち、だれかが一匹の羊を持っていて、もしその羊が安息日に穴に落ちたら、それを引き上げてやらないでしょうか。人間は羊より、はるかに値うちのあるものでしょう。それなら、安息日に良いことをすることは、正しいのです。」つまり、イエス様は「手のなえた人は、穴に落ちている羊のような存在である。癒してあげるのは、法にかなったことである」と言ったのです。イエス様は、「きょうは安息日だから、明日、いやしてあげる」とはおっしゃいませんでした。イエス様は、きょう、安息日をその人に与えてあげたのです。

 新約聖書で安息日は日曜日です。もちろん、厳密にはそうではありませんが、教会の歴史において、そのようになりました。でも、この日曜日、教会で奉仕している人もいます。私は月曜日、休めますが、一般の方はこの日曜日、一種の労働を提供していることになります。日本の多くの教会は、日曜日が安息の日ではなく、多忙な奉仕の日になっています。奉仕者にとって、日曜日は、月曜日にまさる労働の日になるわけです。だから、疲れがとれない。疲れがたまりっぱなしという場合もあります。ぜひ、注意していただく必要があるのは、日曜日、安息することを忘れてはならないということです。日曜日、安息することは罪ではありません。もちろん、週休二日制の方は、土曜日休みなので、日曜日の奉仕が可能かもしれません。でも、日曜日しか休めない方がたくさんいらっしゃいます。ぜひ、安息してください。問題は、安息日、私たちで言う日曜日の使い方です。伝統的な教会は、「日曜日は聖日だから、絶対、礼拝を休んじゃいけない。洗濯も買い物も、旅行もしてはいけない」と言います。すると、それは、イエス様の時代のパリサイ人に逆戻りしていることになります。聖日は「○○してはいけない日」ではありません。「善を行うこと、いのちを救うことをして良い日」なのです。さっき「奉仕をしている人に対して、休めよ」と言ったことと反しますが、逆に、奉仕をして癒しにもなることがあります。平日は全く違ったことをしている人が、日曜日、別の奉仕をすると疲れるでしょうか?これが意外と疲れない。筋肉や頭も、普段使わないところを、日曜日使う。すると、かえって体や精神が良くなるんです。しかし、奉仕が律法主義になると、倍、疲れます。「あの人は奉仕をしていない」「なんで、私だけが奉仕するのよ!」と思ったとたん、マイナスのエネルギーが発生します。どうか、奉仕は喜んでいたしましょう。喜んでできる範囲で結構です。極端に言うば、昼食がなくても、週報がなくても、賛美がなくても、聖書を読んで礼拝すれば良いのです。

 21年前、アメリカに2ヶ月ほど滞在したことがあります。日本から5人でかけましたが、3人が牧師でした。アメリカ人と日曜日礼拝に行きました。むこうは、9時からが大人の日曜学校で、10時半から一般の礼拝です。だから、2つ出るんです。礼拝で奉仕をしている人は、70代くらいのシルバーの方々でした。彼らのほとんどはリタイヤしている人たちですから、時間があるわけです。賛美だけは、若い人でしたが、アッシャーも、受け付けも、献金係りもみんなシルバーでした。日曜日の午後は教会の活動はありません。昼ごはんを食べてから、お家に帰ってきました。ホストの人たちは、ゆっくり休んでいます。私たちは「えー?日曜日の午後、こんな暇で良いの?」と不思議に思いました。その家の中庭には、プールがありました。飛び込み台もついていました。3人の牧師たちは、何時間も飛び込み台から、プールへ飛び込みました。なんかがっついているという感じでした。アメリカの教会を旅してわかったのですが、奉仕は平日が多いようです。たとえば、水曜日は聖歌隊の練習、金曜日は家を開放してセル集会を持っていました。日曜日は、日曜学校と礼拝だけで、午後は休むんです。それに比べ、日本の教会は日曜日の午後も、会議とか、プログラムがあります。きょうもありますけど…。私が台湾に行ったとき、台湾で最も古い教会でしたが、役員会が午後8時で終わらない。月曜日の午前まで持ち越しになったと聞きました。20人以上の長老たちが、「こうじゃない、ああーじゃない」と会議しているわけです。日本でも、こういう教会、たくさんあります。

 今から25年くらい前、岸義紘先生が、「日曜日だけが、聖日礼拝の日じゃない。月曜日でも、火曜日でも、水曜日でも構わない」とある本の中で書きました。そうしたら、福音派の大御所がものすごく怒って、岸先生を糾弾しました。そのため、岸先生の本は全く売れなくなり、超教会の奉仕は干され、大変だったようです。新約聖書の中に、「日曜日が安息日であり、日曜日に聖なる礼拝をささげよ」とはどこにも書いてありません。日曜日、礼拝をささげるのはイエス様の復活から来ています。復活を記念するために慣習的に、日曜日に礼拝を行うようになりました。でも、初代教会の頃はどうだったでしょうか。使徒2:46,47「そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった」。初代教会は、毎日、礼拝をささげていたのです。奴隷たちは、日曜日も働いていました。休みなんかないのです。ですから、朝早く、あるいは夜遅くに、公の礼拝を持っていたようです。それはともかく、神を礼拝することは、律法や義務以上のものであります。それは、特権であり恵みだということです。だから、毎日、礼拝しても良いということなのです。礼拝というと何かのプログラムを思い出しますが、そうではありません。真の礼拝は、神様と親しく交わり、神様をあがめることです。そのとき、賛美とか聖書が必要かもしれませんが、中心的なことは神との交わりであります。神様と親しく交わることが苦痛でしょうか?神様と交わることによって、喜びや信仰、命、力、祝福が与えられます。ですから、真の安息、真の礼拝は、神様と日や時を選ばず、交わることであります。公の礼拝も大切ですが、まず、日々の礼拝、個人的な神様との交わりを持ちましょう。5分でも、10分でも可能であります。目をつぶって、「主よ。感謝します…」とたったひとときでも、礼拝になります。どうぞ、月1回とか、週1回といわず、日々、礼拝のときを持ちましょう。そうするなら、魂も体も安息を得ることができます。また、霊も強められます。

2.手を伸ばしなさい     

 イエス様は片手のなえたひとに、「手を伸ばしなさい」と言われました。そうすると、彼は手を伸ばし、彼の手は正常な長さになりました。イエス様はその人に命じたのであります。彼はイエス様の御声を聞いて、従いました。手を伸ばしてみたら、伸びたんです。おそらく、彼は手だけではなく、腕からなえていたのではないかと思います。ですから、手をぐっと伸ばしたとたん、腕の長さも延びて、もう一方の手と同じ長さになったのではないかと思います。ここで重要なのは、この人が従順であったということです。もし、この人が「いやです!」と断れば、伸びなかったでしょう。でも、この人はイエス様の「手を伸ばしなさい」という力ある御声を聞いて、「はい、そうですか!」と、伸ばしたのではないかと思います。彼は深く考えないで、権威あるみことばに、従っただけなんです。「そうか」と思って、伸ばし始めたとたん、伸びたんです。ここに、癒しのヒントがあるように思います。アメリカ・インディアンのメル・ボンド師が癒しをなされるとき、こういうことをおっしゃいます。「あなたは祈らないでください。ただ、リラックスして、受け取りなさい。受け取ることに集中しなさい」と。そしてもう1つは、アクションです。やってみるということです。メル・ボンド師は「体を曲げてみなさい」とか「歩いてみなさい」と言います。先生が当教会に来られたときのことでした。一人の女性が癒しを求めて先生の前に出ました。その人は足が痛くて、タクシーで駅から教会まで来ました。メル・ボンド師は、祈ったあと、その女性に「さあ、この通路を走ってみなさい」と言われました。その女性は「医者から、走っちゃダメと言われています」と答えました。先生は「あなたは神様の言うことに従いますか?それとも医者の言うことに従うのですか」。その女性はゆっくり歩きましたが、走ることはしませんでした。アクションしなかったのです。聖書の男性も、「いや医者から禁じられています。親から禁じられています」と断れば、伸びなかったでしょう。でも、彼は素直に従ったのです。手を伸ばしてみたのです。そうしたら、伸びたのです。ヤコブ書には、「行いのない信仰は死んだものである」と書かれています。本当の信仰と行いがくっついています。「信じたら、そのまま行う」こういう単純さに力があります。

 私は、「腕を伸ばしなさい」というイエス様の声は、日本の教会に、私たちの教会にも言われていることではないかと思います。ヘブル12:12「弱った手と衰えたひざとを、まっすぐにしなさいと書いてあります。私をはじめ日本のクリスチャンの手足は衰えて縮んでいるようです。頭だけが大きいという感じがします。私もひきこもりとか、バウンダリー、共依存、解放ということを結構、学びました。でも、臨床例が少ない。つまり、実際に行っていないということです。この間、2人の姉妹がエリヤハウスに行ってきました。1週間、休まずに通わなければなりませんので、大変です。でも、あのエリヤハウスは学びだけではありません。後半の2時間くらい、実践があるんです。5人くらいの人が、交代、交代でミニストリーをします。聞き役と補助、それから何も言わないで祈っている人がいます。何も言わないで祈っている人は、神様に聞いていますので、これも大切な奉仕です。とにかく、エリヤハウスに出た人は、体験的に学ぶので、身につきます。ですから、講義だけではなく、実際にやってみる。そうすると、霊的な手と足が伸びるわけです。日本の牧師に多いのですが「セミナーに出たら終わり。その本を読んだから分かった」。でも、実際に行うのはめんどうです。人を相手にすると、順番どおりいきません。だから、ついつい、テキストだけになってしまうんです。「腕を伸ばしなさい」というイエス様の命令は、「1つ学んだら、1つ行え」ということではないかと思います。水泳はクラス・ルームでは習えません。実際に、水の中に入って、身につくわけです。ですから、癒しも、伝道も、祈りもやってみて、身につくという世界です。

 また、「腕を伸ばしなさい」というイエス様の声は、「活動の幅を外の世界まで広げよ」という意味にもとれます。また、伸ばすというのは、ストレッチとかリーチアウトと言い換えることができます。教会というか私たちのクリスチャンは、この世の人々に対して、もう少し腕を伸ばしても良いのではないかと思います。これは「世の人たちと関係を作り、何らかの働きかけをせよ」ということでもあります。信仰生活を10年、20年やっていますと、友達がみなクリスチャンで、未信者と余り会わない。たとえ会っても、信仰の話はしないということが多いのではないでしょうか。商売の世界においても、顧客を広げることは必須であります。保険でも、車でも、携帯でも、新商品を作って腕を伸ばすということをしています。その点、教会はどうしても保守的になり、「あれもうまくいかなかったから、これもうまくいかない」と、チャレンジ精神がなくなります。私も50歳を超えましたが、そういうところがあるなーと思います。やる前から、「わかった」みたいな所があります。これではいけません。マンネリ化はどこにでもありますね。夫婦関係もマンネリ、セルグループもマンネリ、賛美もマンネリになる傾向があります。新しい分野を開拓する。今までやったことのないことをやってみる。そういう、チャレンジ精神、イノベーター精神が新鮮さを保つ秘訣であります。確かに嫌な思いもするでしょう。失敗もするかもしれません。人から笑われるかもしれません。でも、成功よりも、失敗から多くのことを学ぶことができます。何かにチャレンジすると、私たちの頭も活性化します。当然、普段使っていない筋肉も使います。いろんな分野で、腕を伸ばしてみましょう。

 先週の金曜日、本郷台キリスト教会にベン・ウォン先生が来られました。香港のセルチャーチの先生で、当教会から私を加え、10名参加しました。平日ですから、ほとんどの兄姉はお仕事を休んで参加したわけです。これがまたすごいチャレンジを受けました。ベン先生は世界と日本の宣教リサーチを提示してくださいました。不思議なことに、それは人間の危機こそ、教会を生み出すチャンスだということです。インドネシアもそうでしたが、アメリカの洪水もそうでした。建物が焼けたり、壊された後、本当の教会が生み出されるということです。ベン先生はとても過激なことをユーモアたっぷりに話します。「教会は焼けてなくなった方が良いんだ。教会があるから、教会という建物の中に、閉じこもってしまうんだ。牧師も牧師室に閉じこもっていないで、外に出なさい。イエス様は建物の中にいただろうか。また、神学校の中で、弟子たちを訓練しただろうか。もし、イエス様が牧師と入れ替わったならどんなことをするだろうか。きっと、外に出かけるだろう。だから、牧師も1日に3人の人と会いなさい。クリスチャンは教会の外で活動しなさい。賛美も教会の外でしなさい。教会堂があるから、ダメなんだ。だから、燃えてなくなれば良い」と言いました。いやー、過激だなーと思いました。その理由は、教会の外には大勢の未信者がいるからです。ギャラップ調査によりますと、日本のクリスチャン人口は6%だということです。私たちは教会堂にいるクリスチャンしか数えません。しかし、自称クリスチャンが結構いるということです。彼らは、教会は嫌いだけれど、イエス様は好きなんです。日本人は、アメリカと比べ、人生観に問題を持っています。しばしば自分はなぜ存在しているのか疑問に思う若者が85%。いつも自分がなぜ存在しているか理解できている若者は、13%しかいません。教会の中にはそういう人はいないんです。自分の存在と人生の目的を知っています。でも、教会の外には、人生の意味を持たないでさまよっている人たちが大勢います。ですから、私たちは手を伸ばすべきであります。イエス様は「手を伸ばしなさい。伸ばしたら、手応えがあるぞ」とおっしゃっています。いや、「私は仕事をしていますから、家庭がありますから、そんなことできません」と言うかもしれません。そうではありません。今、あなたが置かれている場で、ちょっとだけ手を伸ばせばよいのです。ミッションとミニストリーはすべてのクリスチャンに与えられている使命です。そのとき、イエス様がご一緒に、働いてくださいます。

| | トラックバック (0)

« 2006年11月 | トップページ | 2007年1月 »