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2006年12月10日 (日)

新しい王様         マタイ2:1-12

 4つの福音書にはイエス・キリストに対するイメージがそれぞれ異なっています。それは、イエス様がこの地上に誕生したとき、すでに、福音書の主張が入っています。マタイによる福音書は、「王なるイエス」として描きたかったようであります。日本は王国ではありませんが、王様が代わると、国そのものまで変わってしまいます。国民の生活は、王様次第というところがあります。ユダヤに新しい王様が誕生したという知らせを聞いて、人々はどのように反応したのでしょうか。もし、そこに既に王様がいたとしたら、新しい王様と交代しなければなりません。恐らく、今いる王様にとっては、脅威に感じたことでしょう。

1.恐れた人々

 ヘロデは政治的な手腕に富んだ人で、人々から「ヘロデ大王」と呼ばれました。ユダヤの地方は、政治が不安定で支配者がよく変わりました。ヘロデ王は、それをうまく見越して、新しい支配者と仲良くなり、その地位を保ちました。しかし、晩年、彼は猜疑心の塊になり、自分の妻や王子を次々と殺していきます。人々は、「ヘロデの息子になるよりは、ヘロデの豚になった方がましだ」とまで言いました。東方の博士たちが、ヘロデ王を訪ね、こう言いました。2節「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」3節「それを聞いて、ヘロデ王は恐れ惑った。エルサレム中の人も王と同様であった」。ヘロデ王は、恐れ惑いました。何故でしょう?新しい王が登場したら、自分の王位を譲らなければなりません。危ない、危ない。自分の保身を第一に考えてきた王様にとっては、「寝耳に水」のような知らせです。ヘロデは「私も行って拝むから」なんて言っていますが、本当は見つけ出して殺すつもりだったのです。後で博士たちが帰って来ないので、ベツレヘム近辺に住む、2歳以下の男の子を一人残らず殺させました。なんという残忍さでしょう。ヘロデは、新しい王を抹殺しようとしたのです。また、「エルサレム中の人も王と同様であった」と書かれています。エルサレムの住民は、「ヘロデ王がまた何かやらかして、とばっちりを受けるんじゃないだろうか。新しい王も良いけど、安定した生活を奪われたくない」と思ったことでしょう。では、彼らの生活が本当に満たされていたのでしょうか?そうではありません。ユダヤは度重なる独立戦争で、疲れきっていました。その頃は、一番上の支配者がローマのカイザルで、ユダヤの地方はヘロデ王が治めていました。昔で言うとヘロデは代官、今風で言うと知事であります。ユダヤでは一般の税金の他に、宗教税もありました。人々は、「新しい王様が来て、さらにめんどうなことが起こるかもしれない。それなら、今のままで良いや」と思っていました。彼らは今の生活に満足はしていませんでしたが、新しい王が来ることによる、変化を恐れたのであります。

 それでは新しい王とはどんなお方なのでしょうか。マタイ1:21「マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」飛んで、1:23「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)新しい王とは、イエス・キリストでありますが、ローマやヘロデの支配から救う方とは言われていません。「ご自分の民をその罪から救ってくださる方」であると言われています。つまり、人間を一番、苦しめているのは罪です。この罪から救うために、イエス・キリストがやって来られるということです。でも、彼は王様です。王様ですから、自らの国を持ち、何らかの支配をするはずであります。そうすると、私たちの中にヘロデ王やイスラエルの民のような恐れがやってきます。第一は、自分が王様をやめて、新しい王に王権を譲らなければならないということです。みなさんだれしも、自我という王様が自分を支配しているのではないでしょうか?自分の生き方、自分の好み、自分の持ち物、自分の主義主張…これを簡単に新しい王様に明け渡すことが果たして可能でしょうか?善良で、私には何も問題ありませんと言う人ほど、頑固なんであります。いかがでしょうか?第二は、何か他に義務が発生するんじゃないかという恐れです。キリスト教に入ったら、やらなければならないことが増える。献金、日曜日礼拝、奉仕をやらされる。そして、好きなことができなくなる。だから、宗教はいやなんだと思うでしょう。でも、みなさん私たちは、生まれながらいろんなものに支配されているのです。まず、重力です。地球にいる限りは重力から自由になることはできません。また、空気がなければなりません。魚のように水の中には住めません。また、日本国民ということで、義務教育、納税の義務があり、さまざまな法律を守らなければなりません。学校に入れば入ったで、会社に入れば入ったで、いろんな決まりがあります。さらに、人々の目、世間体というプレッシャーもあります。しかし、そればかりではありません。私たちは罪と死によって支配されています。過去の罪、現在の罪に縛られ、やがて来る死の恐れによって支配されています。生まれながらの人で、罪と死から自由な人は一人もいません。

 では、新しい王による支配とはどういうものなのでしょうか?これは、救いとはどうものなのかという意味と一致しています。まず、使徒26章に使徒パウロが言った言葉があります。使徒26:18「それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである」。まず、「暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせる」とあります。これはどういうことかと言いますと、生まれながらの人は暗やみとサタンの支配下にあるということです。「えー?」と、驚きませんか?「とんでもない、私は自由です。何も問題ありません」と言っている人も、実は暗やみとサタンの支配下にあるのです。一番問題なのは、霊的に盲目で、それに気づいていないということです。イスラエルの民はエジプトに430年間も住んでいました。彼らは本来、カナンの地に住むことになっていましたが、飢饉のためにエジプトに一時的に逃れていたのです。でも、気づいたらパロの奴隷になっていました。解放者モーセがやって来て、パロと交渉します。すると、パロはイスラエル人を厳しく取り扱い、レンガを作るための藁を与えませんでした。民たちはレンガを作るために、切り株を捜し歩きました。そして、モーセに「お前が来たために、前の同じ量のレンガを作れないじゃないか!」と文句を言いました。イスラエル人は、エジプトから脱出することよりも、パロのもとでレンガを作ることの方が大事だったのです。なんだか、滑稽な感じがしますが、私たちもかつてはサタンの支配のもとで同じことをしていたんじゃないでしょうか?教会に行ったら、好きなことができなくなる。キリストを信じたら、今の生活を変えなければならなくなる。でも、彼らの王様は暗やみの王、サタンであります。サタンはパロ王のように、そう簡単に、自分の持ち物を手放さないでしょう。救いとはいろいろな表現がありますが、「サタンの支配から神の支配に移される」ことであります。

もう1つの救いの意味は、「わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである」ということですこれは、イエス様を信じた人は、「罪の赦しを受け、聖なる者とされ、御国を受け継ぐことができる」ということです。つまり、「神の王国の住民となる」ということです。ヨハネ黙示録には、その完成図が記されています。黙示録21:3-4「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」神様が共に住んでくださるとは、マタイ1章の「その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)と同じであります。また、完成した神の国にはないものが4つあります。死、悲しみ、叫び、苦しみがありません。そこには、贖いの完成があります。生まれつきの私たちは、「人は死んだらおしまいさ」と思って生きてきました。しかし、本当は、そうじゃなかったのです。永遠の御国が、神の民に用意されているのです。イエス様がこの地上にこられたのは、私たちを御国へ招待するためだったのであります。人々が御国に入ることができるように、イエス様はご自分の命を贖いの供え物として捧げられました。十字架の血しおこそが、私たちの罪がきよめられ、サタンの支配から神の支配に移される根拠となったのです。問題は、私たちがイエス様の招きに応ずるかどうかであります。新しい王様を迎えるかどうかであります。人間は意外と頑固です。それが正しいと分かっていても、信じないのです。なぜなら、自分の生活を変えなければならないからです。日本人はお墓とか家とか、たくさんのしがらみがあって、キリスト教は良いものと知っていても、信仰を持つことができません。でも、みなさん、救いとは自分の力で行うことではありません。自分でできないからこそ、救いが必要なのです。全身が縛られている人が、自分で綱を切ることができるでしょうか。また、底なし沼に沈みつつある自分を、自分で引き上げることができるでしょうか。やはり、だれかから救ってもらうしかありません。綱を切ってもらって、底なし沼から引き上げられてもらってから、新しい生活が可能になるのです。変えられるのは、救われてから後のことなのです。すべてが神様の恵みによって可能であります。恐れないで、新しい王であるイエス様を、あなたの人生の王として、お迎えいたしましょう。

2.求めてきた人々

 新しい王様を求めてやって来た人たちは、皮肉にも異邦人でした。ここには博士たちと書いてありますが、原文では「マギ」であります。マギとは、ペルシャやバビロニヤの占星術師たちです。星占いですから、聖書的にはかなり危ない人たちです。でも、何故、彼らがそんな遠くからやってきたのでしょうか。南ユダは紀元前580頃、バビロンに捕囚となりました。そこで、70年ほど暮らしていました。ダニエルなどは、バビロンで高い地位にありました。預言者エゼキエルもいましたので、メシアに関する預言がバビロンやペルシャにも伝わったのではないかと思います。マギたちは、そういう情報と自分たちの星占いを合わせて、ユダヤ人の王の誕生を突き止めたのではないかと思います。一般に3人の博士がやって来たと言われていますが、3人とはどこにも書かれていません。ただ、宝の箱が3つだったということだけです。また、馬小屋のイエス様を見つけたとも書いていません。2:11には、「その家にはいって」と書かれています。おそらく、ヨセフとマリヤは、イエス様を生んでから、しばらくベツレヘムに留まっていたのではないかと思います。産後の肥立ち、3×5=15日くらいは、ゆっくりしていないと体に悪いんじゃないでしょうか。それはともかく、マギたちは偉いと思います。水のない砂漠や、盗賊や山賊が跋扈する山地越えて、はるばるやってきたのです。恐らく、彼らは隊商を組んでと申しましょうか、大勢のお供を従えてやって来たのではないかと思います。長旅ですから、当時の宝物を非常にコンパクトにして持ってきました。彼らの唯一の間違いは、王宮にやって来たということです。「ユダヤ人の王様だったら、きっと王宮に生まれるだろうなー」と、ヘロデ王のもとを訪ねました。そのため、罪のない大勢の子供たちが犠牲になりました。でも、そのことはエレミヤ書で、あらかじめ預言されていました。

 私たちが博士たちから学ぶべきことは、すばらしい求道心です。求道者を英語では、seekers「捜す人」と言います。マタイ7章に、「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます」と、約束されています。「だれであれ」であります。「星占い?ちょっと危ないなー」という人たちにも、主は現われてくださいます。大切なのは、諦めないで、求め、捜し、叩く人であります。私たちも宮殿を訪ねた博士たちのように、建物の立派な教会、大勢集まっている教会が一流だと思ってやって来ます。お寺では建物を伽藍というそうですが、教会も伽藍が大切ということで、○○カセドラルに行ったりします。伽藍が立派でも、イエス様がいなかったりします。伽藍が、ガランとしていたわけです。また、牧師になるためには、○○大学付属の神学部とか、○○神学大学に行けば一流になれるだろうと思って行きます。残念ながら、そういうところは聖書が言うことを信じていません。当時の祭司長や学者たちは、聖書をだれよりも良く知っていました。でも、イエス様に会いに行こうとは思いませんでした。彼らは聖書の学者でありますが、生けるキリストと出会っていません。頭だけの観念的な信仰であります。イエス様はどこにおられたのでしょうか?イエス様は不衛生な馬小屋に生まれ、普通の家にいたのであります。家と言っても仮住まいであります。世の人が「そんなところに救い主がいるだろうか」と疑うようなところに、イエス様がおられるのです。

博士たちも、「宮殿にいなければどこにいるの?」と思ったでしょう。でも、星が彼らを導いてくれました。でも、その星は普通の星ではありません。9節「すると、見よ、東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった。その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ」。「えー?星が動いたり、止まったりするの?」私は、星とは御使いではないかと思います。ヨハネ黙示録9章や12章には「星」が登場しますが、御使いのようであります。よく分かりませんが、御使いが光を灯して、博士たちを導いたのではないかと思います。神様は、救いを求める人seekersには、どんな手段を講じてでも、イエス様に出会わそうとしてくださいます。時には御使いを遣わして、その場所を明るく照らしてくださるのです。この亀有教会に来た人たちも、「ああ、ここかなー?ここに救いがあるのかな?」と導かれたのではないでしょうか。「いやー、ここじゃなかった!」とがっかりして去った人たちもおられるかもしれません。そういう人たちには、お役に立てなくて、本当に気の毒です。もっと、私が頭のてっぺんをピカーッと光らせると良いかもしれませんね。でも、聖書は「求め続けなさい、捜し続けなさい、たたき続けなさい」と継続的な意味で言っています。1回や2回じゃなくて、何度もということです。救いの宝は、そう簡単には見つからないものです。この世には、邪魔する者もいます。まがい物を与えるものすらいます。「もう、何度もまがい物をつかまされた。もう、宗教なんか嫌だ、こりごりだ!」。そういう人は、あきらめずに、もう1回、イエス様を訪ねたら良いのではないでしょうか。きっと、見つかります、きっと出会います。

博士たちは星を見ただけで、まだ会ってもいないのに、この上もなく喜びました。それから、何をしたでしょう。2:11「そしてその家にはいって、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた」。彼らはイエス様に出会って、最初にしたことは礼拝であります。彼らはひれ伏して拝み、宝物をささげました。しかし、相手はまだ乳飲み子であります。乳飲み子でありますから、これまで博士たちは、何もお世話になったことがありません。ひょっとしたら、これからも何もしてくれないかもしれません。でも、彼らは乳飲み子のイエス様を礼拝しました。何故でしょう。彼らは礼拝とは何かということを私たちに教えてくれています。彼らがなぜ、乳飲み子のイエス様を礼拝したか。それは、イエス様が神様だったからです。「神様が私たちに何かしてくれた。ご利益がある。だから、拝む。何もしてくれない場合は、拝まない」。そういう理論が私たちの中にあります。それは、偶像礼拝です。ご利益がなければ拝まない。これが私たちの宗教心です。でも、本当の礼拝とは何でしょうか。神様が私たちに何かをしてくれたとか、してくれないとは関係なく、神様だから、それだけで礼拝を捧げるということです。神様だからです。でも、神様はご自身を礼拝した者たちを手ぶらでお帰しになるのでしょうか。そうではありません。私は博士たちがイエス様を礼拝している、中世に描かれた絵を見たことがあります。博士たちは、一国の王様のような服装をしていました。また、イエス様はマリヤに抱かれてはいましたが、なんと片手に杓を持っていました。王様が持つ杓であります。博士たちは深々と頭をさげて礼拝しています。なんと、イエス様のもう一方の手は、博士たちに向けられ、祝福を与えていました。いや、博士の頭に按手していたかもしれません。「まあ、なんとこまっしゃくれた赤ん坊なんだろう!」と思いました。でも、その絵は、何かを暗示しています。神様が礼拝者たちに祝福を与えるということです。決して、手ぶらではお帰えしにはならないということです。ハレルヤ!シバの女王はソロモン王を訪れました。そのとき、シバの女王はたくさんの宝物をささげました。でも、帰るときは、ソロモン王はシバの女王にたくさんの贈り物を上げました。博士たちも、おそらく、豊かな祝福を得て帰途に着いたと思います

マタイ2:12「それから、夢でヘロデのところへ戻るなという戒めを受けたので、別の道から自分の国へ帰って行った」。「別の道」とは、私たちにとって、「新しい道」と解釈できます。彼らは新しい道を歩み始めたのです。私たちもイエス様と出会い、神様を礼拝したならば、もう古い道には戻れないのです。神様に従う、新しい道を歩まなければなりません。その道は敗北の道ではなく、希望に満ちた勝利の道です。私たちも毎週、神様を礼拝していますが、この礼拝が終わったなら、「ああ、終わった。さあ家に帰ろう!」と言うことではありません。神様の祝福があなたの上に留まります。そして、罪の重荷を置いて新たにされ、今度は神様の道を歩むのです。これがこの世におけるクリスチャンの生き方です。イエス様と出会ったはずなのに、相変わらず古い道を歩んでいる。李光雨師が「はず、ふり、つもりは通用しない」と言ったことがあります。「イエス様に出会ったはず、イエス様に出会ったふり、イエス様に出会ったつもり」ではまずいです。本当に、イエス様に出会ったなら、新しい生き方を始めます。これまでの古い価値観を捨て、神様の新しい価値観に生きようとするのです。私たちは救われたからと言って、何からも自由になるわけではありません。神様のご支配のもとに生きるときに、この世のものから解放されます。イエス様のうちに留まるときに、本当の自由と喜びが与えられるのです。

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