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2006年12月24日 (日)

ことばは人となって     ヨハネ1:14-18

 「ことば」はギリシヤ語ではロゴスです。ギリシヤの哲人たちは、「世界はロゴスからできた。ロゴスとは宇宙理性であり原理だ」と言いました。しかし、聖書ではロゴスとは受肉前のキリストであり、ちゃんと人格(ペルソナ)をもったお方であると言っています。でも、この14節は非常な躓きをあたえました。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」。原文では、「ことばは肉体となった」となっています。ギリシヤ人は、「肉体は悪であり、魂は肉体という牢獄に閉じ込められている」と考えていました。それなのに、「ロゴスなる神が、肉体に宿るなんて、なんてひどい教えなんだ!」と思ったわけです。しかし、ヨハネはこの福音書においても、ヨハネの手紙においても、「イエス・キリストは、人として来られた」ことを強調しています。それでは、きょうは何故、ロゴスなる神が肉体をとってこの世に来られたのか、2つのポイントで学びたいと思います。

1.恵みに満ちておられた

 もう一度、14節をお読みいたします。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた」。恵みとはキリストの贖いととても深い関係の言葉です。恵みとは、人の行いや功績に関係なく一方的に与えられる賜物です。簡単に言うと、「にもかかわらず」与えられるものです。悪いことをしたにもかかわらず、一定の基準に達していないにもかかわらず、与える価値がないにもかかわらず…与えられる賜物です。一方、世の中の価値基準は、そうではありません。ある一定の基準に達したので…、良いことをしたので・・・、一生懸命働いたので…良い成績を収めたので与えます。たとえばそれは、賃金、ボーナス、学位、メダル、タイトルであります。入学も成績や内申書が一定の基準に達していないとダメであります。この世にあるほとんどのものは、自分の手で勝ち取るものばかりです。しかし、子供のときは、何でもただでもらいますので、「恵み」を簡単に受けられます。だから、神様も容易に信じることができます。ところが、大人になって行くにつれ、「ただ」でもらえるものには価値がないと思うようになるのです。そのため、信じるだけで救われるというキリスト教の「恵み」を受けるのが難しくなります。「ただより高いものはない、きっと眉唾だろう」と疑うわけです。しかし、キリストの贖いは、恵みであって、行いによって得られるものではありません。キリストの贖いは、あまりにも高価なので、私たちはただでいただくしかないのです。

ヨハネ3:16に、キリストの贖いを示す良い知らせのかたまりがあります。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」。神様はひとり子を与えたと言いますが、どこに与えたのでしょうか?「十字架に」であります。冒頭で、なぜ、ロゴスなる神が肉体を取ったのかと申し上げました。ロゴスなる神が人間となったのは、人間の身代わりとなるためです。イエス様は人間として生まれましたが、全く罪がありませんでした。まさしく、罪のない神の小羊として十字架につけられたのです。つまり、イエス様が全人類の罪を背負い、私たちの代わりに裁かれたのです。そのために、義なる神様は満足し、罪に対する怒りをひっこめられました。そして、神様が始めから用意していた永遠の命と永遠の御国を与えると約束されました。ただし、1つだけ条件があります。それは「御子を信じる者が」という条件付きであります。信じない者は、このすばらしい特典にあずかることはできないばかりか、さばきがその人の上にとどまります。神様は私たちが犯した個々の罪ではなく、キリストによる恵みを受けなかったことをさばかれるのです。しかし、信じた者には、考えられないような恵みが与えられます。信じるということは行いではありません。「神からの恵みを受け取る」ということであります。さきほども申し上げましたが、大人になればなるほど、これができないのであります。だから、イエスは、「だれでも幼子のようにならければ、神の国に入ることはできない」と言われたのであります。人間には生まれつきプライドがありますから、本当に困らないとこの恵みを受け取ろうとしません。だから、イエス様は山上の説教でこのように言われました。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです」(マタイ5:3,4)。「貧しい」とは、乞食をしなければならないほどの極度な貧しさです。また「悲しむ」とは、身内のだれかが亡くなったときの深い悲しみです。水野源三さんと言う人は、子供のとき脳小児麻痺になりました。それ以来、手も足も動かず、しゃべることもできませんでした。彼は「あいうえお」の表をだれかから指差してもらい、一字一字、瞬きで意思を伝えるしかできませんでした。水野源三さんは、「悲しみよ、悲しみよ、本当にありがとう。お前が、主イエス様のもとに連れて来てくれたのだ」という詩を書きました。

 イエス様がこの地上に来られたとき、一番先に神の国に入った人たちはだれでしょう。その当時、一番見下げられていた遊女や取税人、罪人たちでした。罪人とは、律法を守ることのできない人たちです。彼らはアムハーレツ、「地の民」と呼ばれました。では、反対に神の国に入れなかった人はだれでしょう?皮肉なことに、パリサイ人や律法学者など、まじめで宗教的な人たちでした。どういうわけか、彼らはイエス様を憎み、信じようとしませんでした。彼らは律法を守り行うという道を選び、恵みによる救いを選ばなかったのであります。これは今の時代にもあるんじゃないかと思います。この世では、クリスチャンになる人は、元来、真面目な人だと思われています。私は日本のクリスチャンの人口が少ない理由の1つは、教会が真面目な人しか歓迎しないからだと思います。教会がいつの間にか、パリサイ人や律法学者のようになり、世の人を罪人呼ばわりするからではないかと思います。イエス様のところに来た真面目な人というのは、ニコデモくらいです。他の人たちは、病気を治してもらいたいとか、腹が減ったとか、偉くなりたいという動機でイエス様のところにやって来ました。イエス様は罪ある人々をありのままで歓迎しました。私は英語をただで教えてくれるというので、東林間の教会に行きました。そこは、座間キャンプが近いのでたくさんのアメリカ人が来ていました。そこに通っている日本人はみんな変でした。私のような日本人と口をきかないで、アメリカ人とばかりしゃべっていました。私を導いてくれた職場の先輩は、「彼らは偽善者だ」と言いました。次に座間キリスト教会に行きました。その教会はホーリネス教団でとっても律法的で、信徒が牧師をさばき、牧師が信徒をさばき、信徒どうしがさばきあう教会だったそうです。ところが大川牧師は、私が行く少し前に、「聖霊様が好まれる、さばきあわない教会を作る」と方針を変えたばかりだったのです。だから、教会の雰囲気がとてもやわらかくて、罪のかたまりのような私も居心地が良かったのです。そこ頃、タモリのギャグがはやっていました。あるとき教会で、私が得意げにタモリのギャクを披露しました。「クリスチャンは、時計を持たなくても時間がわかりまーす。あー、十時か」。大川先生がそれを近くで見ていたのです。でも、私がまだ求道者だったせいか、叱られませんでした。十字架は神聖なものであり、ダジャレの材料なんかにはしてはならないものであります。とんでもないことです。でも、その教会には赦しと恵みがあったんです。もし、律法的で厳しい教会だったら、「二度と来るな!」と追い出されていたでしょう。私は「あの教会でなければ救われなかっただろうなー」と今でも思います。もし、亀有教会に、赦しと恵みの雰囲気があるならば、私は本当にうれしいでーす。イエス様自身も恵みにあふれていました。だから、遊女や取税人、罪人たちが緊張しないで、一緒にいることができたのだと思います。たまに、そばにいると緊張を与える牧師やクリスチャンがいますが、「恵み」をもっと味わうべきであります。

1:16に何と書いてあるでしょうか。「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである」。リビングバイブルでは、「この方の恵みは尽きるところを知りません。私たちはみな、次から次へと、あふれるばかりに恵みをいただきました」となっています。つまり、イエス様のうちには恵みがいっぱい詰まっているということです。「クリスマスにはプレゼントがつきものです。プレゼントをあげたり、プレゼントをもらったりします。でも、最大のプレゼントは何でしょうか?それは、父なる神様が私たちに御子イエスを与えてくださったことです。イエス様ご自身の中には、すべての恵みが詰まっています。罪の赦し、永遠の命、永遠の御国、豊かさ、解放、癒し、知恵、喜び、希望、愛、聖霊の力などが詰まっています。どうぞ、尽きない恵みを、次から次へとあふれるばかりにいただきましょう。たとえ、クリスマスに、だれからもプレゼントをいただかなくても問題ありません。なぜなら、イエス・キリストこそが最高のプレゼントだからであります。

2.まことに満ちておられた

 14節後半、「この方は恵みとまことに満ちておられた」。「まこと」というギリシヤ語はアレーセイヤですが、日本語では、真理、真実、誠実というふうにも訳されています。第一のポイントで恵みが必要だということをお伝えしました。しかし、恵みだけですと信仰生活はうすっぺらいものになります。神様はこの世界を創造したときに、きっちとした法則を与えました。そこには、自然科学の法則もありますし、道徳的な法則もあります。この世界に真理や真実があるのは、もともと神様が創造されたからです。そして、この真実や真理に逆らうと抵抗を受けて失敗します。あるときは、滅びを刈り取るときさえあります。「愛なる神様がなんでひどいことを許されたのですか?」と文句を言う人がたまにいます。でも、それは自分が無知であったため、神の法則に違反したからであります。もちろん、神の恵みによって何とかなるときもありますが、時には大きな代償を支払わなければならないときもあります。たとえば、酒やタバコは体に害を及ぼすことが医学的にも証明されています。ある人は、「クリスチャンは何をやっても恵みによって許されるんだ」と言うかもしれません。しかし、それは健康の法則に反する行為なので、やがては病気という刈り取りをすることになります。そういう意味でも、私たちは真理を知らないとエライことになります。使徒パウロは、コリント13:8で「私たちは、真理に逆らっては何をすることもできず、真理のためなら何でもできる」と言いました。そこで神様は「真理とは何なのか」ということを教えるために、地上にイエス・キリストを送られました。イエス様は真理とは何かということを教えられだけではなく、自ら真理に生きたお方であります。私たちは「ああ、イエス様は神様だからできたんだ!」と言います。確かにイエス様は神様でありました。でも、この地上において、イエス様はご自身の神の力で生きたのではありません。いつも、父なる神様から聞き、父なる神様のまねをして、父なる神様の力で人生を全うされました。それは、イエス様が私たち人間の模範となるためです。プロテスタント教会は、イエス様の贖いをものすごく強調します。「人は信じるだけで救われる。行いは必要ではない。信仰義認だ」と言います。もちろん、それは間違いではありません。でも、イエス様は「神の子として救われた人がどのように生きるべきか」という模範を示されたことも忘れてはいけません。

 インドネシアのエディ・レオ師はこのように言われました。「キリストの品性を真似るのはとても困難である。私たちはイエス様のように7の70倍も赦すことはできない。だが、キリストのライフスタイルを真似ることはできる。キリスト様の生き方を真似ていくならば、いつしかキリストの似姿に近づくことができる」。イエス様は、私たちが人生において遭遇する様々な試練を自らもお受けになられました。イエス様は洗礼を受け、聖霊に満たされて、「さあー、公に活動をするぞ!」と言ったわけではありません。なんと、イエス様は御霊によって荒野に導かれました。マルコによる福音書には「荒野に追いやられた」と書いてあります。イエス様は40日40夜断食した後、悪魔の試みを受けられました。悪魔は「あなたが神の子なら、この石をパンに変えなさい」と言いました。イエス様は神の子でしょうか。もちろん、神様です。ですから、石をどんなパンにも変えることができたでしょう。やろうと思えば、山崎パンにも、ポンパドールにも、マクドナルドにも変えることができたでしょう。しかし、しませんでした。次には、「あなたが神の子なら、神殿の頂から飛び降りてごらん」と言われました。人々は「メシヤは神殿の頂から突然現われる」と信じていました。イエス様は神様ですから、3回転2回ひねりでも飛び降りることができました。しかし、しませんでした。イエス様は、「世にあるものを全部あげる」という、3つ目の誘惑も退けました。イエス様はアダムとエバが負けてしまった誘惑に全部勝利されました。でも、それはご自身の神の力でやったわけではありません。もし、イエス様がご自身の神の力で誘惑に勝利したのであれば、私たちには何の望みもありません。また、イエス様は人間でもありました。もちろん、人間の力で誘惑に勝利したのでもありません。イエス様は人間として、聖霊の力によって、また神のみことばに従うことによって誘惑に勝利されたのです。ということは、私たちにもイエス様のように勝利できるということです。私たちに毎日、何度も、誘惑や問題がやってきます。何も問題のない日はないと言って良いほどです。でも、その問題や誘惑は、「ハレルヤ!イエス様―」と、イエス様を礼拝するチャンスとなるのです。イエス様を見上げると、不思議に信仰が湧いてきて、問題や誘惑に勝利できるのです。

もう1つ私たちがイエス様から学ぶべきことは、イエス様がなされたミニストリーであります。イエス様はたくさんの癒しや奇跡を行いました。私たちは「ああ、あれはイエス様だからできたんだ」と言います。でも、イエス様はヨハネ5:19でこのように言われました。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行なう以外には、自分からは何事も行なうことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行なうのです」。このところで、イエス様は「子は、自分からは何事も行なうことができません」とおっしゃいました。もちろん、イエス様は神様でしたから、ご自分の力で何でもすることができたでしょう。もし、イエス様がご自身の神様の力でやったら、私たちには何の望みもありません。でも、イエス様は「自分からは何事も行なうことができない」と言われました。この意味は、どんなミニストリーも、父なる神様に聞いて、父なる神様の力で行ったという意味です。ということは、私たちもイエス様と同じことができるんだという望みがあります。だから、イエス様はヨハネ14:12でこのように言われたのです。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです。」ここでも、「まことに、まことに」と2回たたみかけています。「これは嘘じゃないよ、本当だよ」という意味です。私たちもイエス様と同じミニストリーができるのです。でも、1つだけ条件があります。イエス様のように、父なる神様に聞き、父なる神様の力で行うということです。私は今年の9月インドネシアに行きました。最後は、1万人くらいはいる会場で癒しの大会がありました。私はエディ師が6月に日本に来たとき、「半身不随の人のために祈ったシルビーさん」「一度、死んだけど生き返った赤ちゃん」「靴をなくした坊や」の話を聞きました。インドネシアに行った時、その人たちがステージに上って、証をしてくれました。いやー、とっても力強かったですね。以前の私は「手当たり次第」手を置いて祈っていました。でも、イエス様のように、父なる神様に聞いて行うことがとても重要だということがわかりました。

最後に、大学生のシルビーさんに起きたことをお話して終えたいと思います。ある日、彼女は、学校の中を歩いていました。彼女は「お父さん、ここで何をしていらっしゃいますか。私に何をしてもらいたいですか?」と聞きました。お父さんがこのように言われました。「友達のために祈りなさい。あなたの友達は、右半身が不随になっています。何年も前からです。彼女のために祈りなさい」。彼女は祈り始めました。何が起きたでしょうか。彼女は5分、10分、そして15分間祈りました。15分祈った後、何が起きたでしょうか。何も起きませんでした。これが問題です。15分間、祈って何も起きなかったら、普通、何をするでしょうか。私たちは祈りをやめるでしょう。そして相手の人に「信仰がないからです」と、問題をなすりつけます。そして、去ってしまうでしょう。だが、このシルビィーさんは祈り続けました。どのくらい祈ったでしょうか。2時間くらい祈り続けていたら、突然、右手が動き始めました。「おおー、ちょっとだけど動く」。なんと、2時間半祈った後、その人は普通に歩き始めました。家に帰って、お父さんとお母さんは「ああー、娘が癒された」と涙を流しました。シルビーさんは、このような病人のために祈ったのは初めてでした。そして、癒されました。これは単純ですが、簡単ではありません。ただ、実践するだけです。私たちは彼女のように、父なる神様に聞くことが必要です。第一は「お父さん、ここで何をしていらっしゃいますか」。「父なる神様は今も休まずに働いておられる」と聖書に書いてあります。第二は「私に何をしてもらいたいですか?」と聞くことです。そのとき、父なる神様が「やりなさい!」と言われたらやれば良いのです。逆に「やりなさい!」と言われなければ、やらなくても良いということです。「人間的にかわいそうだから、なんとかしてあげたい」とミニストリーをし続けていると、燃え尽きるかもしれません。だから、父なる神様が「やりなさい」と言われたらやれば良いのです。イエス様も常にそのようになさられたと信じます。

 最後に「救いの御子の降誕を」という水野源三さんの詩を読んで終えたいと思います。

     一度も高らかにクリスマスを喜ぶ讃美歌を歌ったことがない。

     一度も声を出してクリスマスを祝うあいさつをしたことがない。

     一度もカードにメリークリスマスと書いたことがない。

     だけど、だけど、雪と風がたたく部屋で、心の中で歌い。

     自分自身にあいさつをし、

     まぶたのうらに書き、

     救いの御子の誕生を御神に感謝し喜び祝う。

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