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2006年11月26日 (日)

新しい皮袋            マルコ2:18-28

 先週は福澤先生をお招きして特別伝道礼拝がもたれました。数えてみたら、12年ぶりでした。先生は、「死ぬ前に、また呼んでくださいよ」と言われました。やはり、伝道者をたまにお呼びしないとダメですね。十字架の意味とか、救いの大切さが鮮明にさせられます。説教を聞いて、涙をながした、なんて久しぶりじゃないでしょうか?食事で言いますと、先週のは、ごちそうでしたが、本日は、いつもの定食であります。いつもごちそうを食べていますと、カロリーオーバーになって、メタボリック・シンドロームになります。ですから、本日は30分でいただける、健康食になっています。

1.新しい皮袋とは

 イエス様は、短い2つのたとえを話されました。最初は、「新しい布切れで古い着物の継ぎ当てはしない」ということです。今はそんな人はいませんが、昔は継ぎ当てをするのが当たり前でした。私も子供のとき、ひじとか、ひざなんか、継ぎ当てしたものを着ていました。また、イエス様の時代の生地は、今と違って、質のよいものでありませんでした。最初、洗うとぎゅっと縮み、着ているうちに伸びてくるというものでした。ジーンズも最初洗うと、一旦縮みます。それから、だんだん伸びてははきやすくなります。もし、古い着物に新しい布切れを継ぎ当てしたらどうなるでしょう。最初はいいんですが、洗うと新しい布切れが縮んで、古い着物を引き裂いてしまいます。新しい布切れは、伸縮性があるので、古い着物の継ぎ当てには合わないということです。もう1つは、「新しいぶどう酒を古い皮袋に入れない」ということです。昔は羊やヤギの中身を取って、まるごと皮の袋にしました。そこに水やぶどう酒を入れたわけです。先日、ボジョレー・ヌーヴォーが解禁になったようです。飲んだことはありませんが、すこし炭酸が入っているようです。新しいぶどう酒は、まだ発酵中であります。もしこれを堅くて古い皮袋に入れたらどうなるでしょうか。もう、パンパンになって、古い皮袋を張り裂き、ぶどう酒も皮袋もダメになります。新しいぶどう酒は、やわらかくて伸縮自在な新しい皮袋に入れるべきであります。しかし、イエス様は継ぎ当ての仕方とか、ぶどう酒の保管の仕方について教えているわけではありません。これは、たとえですから、本当の意味があるはずです。

 マルコ2章の後半を見ますと、断食や安息日のことが書いてあります。当時は、さまざまな宗教的な義務があり、細かい決まりごともありました。日本でも仏教や神道の儀式で、何回おじぎをするとか、順番はどうするんだとかというきまりがあります。宗教というのは、ややもすると、慣例とか作法が中心になり、その中にある精神が失われがちであります。断食は、食を断ってまでも、神様の御声を聞こうとするすばらしい行為であります。人生の岐路に立たされ、決断を要するときには、断食して祈ると神様のみこころがよくわかります。でも、当時は断食することが1つの習慣になっていたようです。断食は神様に近づき、御声を聞く良い時です。でも、ユダヤ教徒たちが「ヨハネの弟子たちやパリサイ人の弟子たちは断食するのに、あなたの弟子たちはなぜ断食しないのですか?」と文句を言いました。それに対してイエス様は、19節で、「花婿が自分たちといっしょにいる間、花婿につき添う友だちが断食できるでしょうか。花婿といっしょにいる時は、断食できないのです」と言われました。さきほど、断食は、神様の御声を聞くためにあると申し上げましたが、弟子たちはどうだったでしょうか。イエス様が彼らの真ん中におられたので、何かあれば「主よ、助けてください!」と求めることができたのです。でも、やがてイエス様が取り去られた時は、弟子たちは断食して祈り求めました。安息日の規定もそうであります、安息日を定められた三位一体の神様が共におられました。だから、安息日の主に、「してよいことと、してはならないこと」を聞くことができたのです。ユダヤ教徒たちは断食や安息日、いろいろな宗教的な義務は果たしていたかもしれませんが、その精神を失っていたのです。宗教的な儀式は数を重ねていくうちに、新鮮味がなくなります。やがては、1つの型となり、「神様に近づく方法はこれしかない」と固執するようになります。さらに、そのようにしていない人たちをさばくんです。「どうして彼らは断食しないのですか?」「どうして彼らは安息日を破っているのですか?」これは、あきらかに、宗教的な高慢であります。

 キリスト教会はペンテコステ以来、新しいぶどう酒を保持してきました。新しいぶどう酒とは、福音の喜び、聖霊の働き、神様の豊かな臨在と言うことができます。一方、皮袋はそれを入れる入れ物です。教会では、それを「恵みの手段」と呼んでいます。私たちは、目に見えない霊なる神様に近づくときにどのようなことをするでしょうか?まず、賛美をします。でも、どんな賛美をするでしょうか?中世の初めは、グレゴリーチャントを歌っていました。やがて、コラール、讃美歌・聖歌、ワーシップソングと、時代とともに変わります。また、聖書の訳も時代と共に変わります。中世はヴルガータというラテン語訳しかありませんした。やがてキングジェームス訳が現われ、分かりやすい日本語で読めるようになりました。お祈りも中世は聖職者だけが祈ったり、祈祷文を使っていました。今では、聖霊によって自由に祈ることが主流になっています。一番問題になるのは、礼拝形式であります。中世のミサは、聖職者による格式ばった礼拝でした。しかし、宗教改革以降、会衆参加型の祭典的な礼拝になりました。教会では、他に祈祷会、早天祈祷会、断食祈祷会、リバイバル聖会など、たくさんの集会があります。賛美や聖書、礼拝形式、さまざまな集会は、みんな皮袋、入れ物であります。でも、どうでしょうか?あるとき、そのやり方で主の臨在があった。聖霊様がものすごく働いた。私たちも喜びに満たされた。すると、そのやり方が定着していきます。何十年、何百年もやっていると、もう「これしかない!」と独善的になり、そうしていない人たちや教会をさばくのです。みなさん、これは宗教の霊であります。宗教の霊は、自分たちの手段を神格化して、神様をその型にあてはめようとします。「神様、この形をしているんですから、来て働いてください」と、要求するのです。同時のユダヤ教は、まさしくそういう状態でした。古い皮袋では、イエス様の福音、聖霊の働き、神様の豊かな臨在を受け入れることができなかったのです。

 私はホーリネスの神学校に2年ほど通っていました。そこでは、毎週、金曜日リバイバル祷告会というのがありました。有志の男性たちが、学院の二階に集まります。二階座敷が良いんです。ペンテコステの日、二階座敷に聖霊が下ったからです。私の同室の先輩が、その会をリードしていたので、出ないわけには行きませんでした。学生たちは手拍子を打ち鳴らし、声を張り上げて聖歌を歌いました。お祈りの仕方も、ひざに手をこすりながら「あー神様。アーメン。そのとおりです。ハレルヤ!」、手をパチンとならしながらやります。これは、昭和5年頃、リバイバルが起きたころのスタイルをまねているわけです。その当時は、大声をあげ、手を打ち鳴らしてお祈りしました。その形だけが、学院の中に残っているわけです。これはホーリネスだけでなく、右から左まで、ペンテコステ派から改革派まであります。改革派はリフォームドと言って、「絶えず改革していく」という意味があります。しかし、宗教改革時代の型を変えることができないでいます。みなさんは腕組みするときにどうやるでしょうか。これを逆にやるとどうなるでしょうか?なんか自分の腕じゃないような気がします。また、お祈りのとき組む手はどうするでしょうか。右と左の上下を変えるとどうでしょうか?なんか自分の手じゃないように感じますね。これは、宗教の霊です。一旦、身につくと、「これしかない」と思うようになるのです。

サドルバック教会のリック・ウォレン牧師は、教会でどういう音楽を用いるか、これが一番難しいと言いました。伝統的な讃美歌かそれともコンテンポラリーな曲か?選ぶ曲によって、教会に来る年齢層が左右されてしまうということです。リック・ウォレン師は、サドルバック教会がターゲットとする年齢層を30代半ばの中流階級に絞りました。彼は「みんなに合わせるために、いろいろなジャンルの音楽を混ぜると、みんなが気持ち悪くなる。だから、いずれかのジャンルに選ぶ必要がある」と言いました。日本の教会は「みんな」という言葉に弱いですね。みんなに合わせようとします。大型のデパートだったら、豊富な品を揃えてあるので、いろんなお客さんに合わせることができます。しかし、小さな小売店が生き残るためにはどうしたら良いでしょうか。店が狭いんですから、どれを専門に売るか、どのような消費者を対象にするか決めなければなりません。これをマーケティングでは「差別化」と言います。大和キリスト教会は別ですが、日本の教会はほとんど小売店のようなサイズです。すべての人のニーズに合わせるために、何でもかんでもできるわけがありません。全部をやったら、全部がだめになります。ですから、自分たちの信仰と賜物と人員によって、どういう人を伝道していくか決めなければならないのです。私はリック・ウォレン師の考えを取り入れ、ゴスペルに来る若者をターゲットにしぼって、賛美も礼拝形式も変えました。そのとたん、礼拝の途中で帰る人も出ました。私は「日本で教会が生き残るために差別化をしなければならない」と思っています。日本の教会は、ますます高齢化が進んでいます。先週、福澤先生がおっしゃっておりました。昨年のプロテスタント教会の統計ですが、受洗者が1年で1教会平均1.14人。受洗者0の教会が全体の65%。牧師も高齢化が進み、牧師の平均年齢が64歳。信徒の年齢は50歳以上が70%。牧師は年間で100名リタイヤしています。牧師のいない教会がますます増えてくるということです。日本キリスト教団は、高齢化と無牧の教会が一番顕著です。すごいですね。これから、教会の生き残り、サバイバルが激しくなります。神の教会だから、人数は関係ないと甘ったれたこと言っておられません。教会そのものがなくなるんです。ですから教会は、若者たちが救われるように、皮袋をたえず変えていく必要があります。私たちはだまっていても天国に行けます。でも、日本は、99%が救われていないのです。多少、賛美がうるさくても、若い人が救われて教会を盛り立てていくなら、喜ぶべきではないでしょうか。新しいぶどう酒は、新しい皮袋に入れるべきなのです。クリスチャンを何十年もやっていますと、皮袋が堅くなります。新しい皮袋とは、柔軟であることです。主の前に、柔らかい、教えられやすい心です。

2.新しいぶどう酒を入れるために

 みなさん、新しい皮袋も大切ですが、新しいぶどう酒の方がもっと大切です。皮袋とは、さまざまな手段であります。そして、ぶどう酒は本質であります。いくら、皮袋を新しくしても、中身がなければ、それは絵に描いた餅であります。私は1990年から小牧者訓練会の弟子訓練を教会に取り入れました。そして、1995年からセル教会に変えていきました。セルというのは、セルチャーチ・ムーブメントで、信徒が主体で動く教会です。これまでは、教会はピラミッド型で動いてきました。さまざまな違いはありますが、監督や牧師、あるいは長老会が、教会を動かしてきたのです。ある教会は、教団や伝統、あるいは行事やプログラムによって動かされています。しかし、教会を動かすのはかしなるキリストであり、聖霊様であります。でも、日本のある教会は、カルト化して、特別な霊の器が牛じるということが行われています。でも、教会の主体は信徒であり、それを動かす聖霊様であります。そういうことで、私はセルチャーチこそ、本当の教会だと意気込んで、10年余り進んでまいりました。セルチャーチは中国や南米のボコダ、シンガポール、インドネシアに栄えています。最近は台湾、香港、タイ、オーストラリアにも頭角を現しはじめました。今から6年前、インドネシアのエディ・レオ師と出会い、「ああ、これこそ教会の本質だ。これこそ教会の使命だ」と分かりました。そして、聖書的な教会に近づけば、近づくほど、セルチャーチしかないなと思うようになりました。

では、教会の本質的なものって何なのでしょうか。何があれば教会なのでしょうか。教会は建物ではありません。ヨーロッパの教会のほとんどは、観光地になっています。インドネシアの教会は1999年、たくさんの教会が焼き討ちにあいました。それまでは教派教団で争っていましたが、建物が焼けて、一緒に集まるようになりました。教会は牧師が必要でしょうか?中国の教会は、牧師のいない教会がたくさんあります。あるところは、聖書も讃美歌もありません。それでも、教会はのびています。教会はたくさんのプログラムを行っています。こういう週報も必要でしょうか?松戸の岡野先生は、教会を大きくするため、たくさんのプログラムをやりました。映画会、英会話、クッキング、音楽会、特別講演会…でも、ぜんぶやめたそうです。1990年、やめたというか、信徒が誰も来なくなり、教会がつぶれたわけです。それからは、家ではじめました。講壇もなくて、こたつで始めたんです。週報も刷りません。でも、今、すごいです。特別なことをしていないのに、家族ごと救われているそうです。教会という名前ではなく、「グレース・ホーム」(恵みの家)にしています。岡野師は2つのことを強調します。第一はイエス様の弟子として生きること。第二は家族として互いに愛し合うこと。ものすごくシンプルです。教会にはいろんな伝統とか制度があります。しかし、それがいつの間にか、手かせ足かせになって、キリストの御声を聞こえなくさせています。私は教団が聖書的であるとは思っていません。聖書のどこに、教団を作ることを勧めている箇所があるでしょうか。イエス様の頃、パリサイ派やサドカイ派、エッセネ派という教団がありました。イエス様はそういう人たちを嫌いました。むしろ、「恐れるな。小さな群れよ」と少数の弟子たちを大切にされました。教会の最小単位は、「二人、三人であります」。マタイ18:20「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです」と約束されているとおりです。教会はあまりにも、この世的になり、すべてを複雑化してしまいました。制度も複雑、講義も複雑、組織も複雑、儀式も複雑化して、肝心の聖霊様を締め出しています。反対に、自分たちが決めたものに、聖霊様を押し込めようとしています。私は、教会という入れ物をもっと本質的なものにしたら、新しいぶどう酒があふれ流れてくると思います。

セル教会をはじめた当初は、初代教会こそが理想の教会だと思っていました。しかし、エディ・レオやベン・ウォンと出会ってから、いや、そうではないと思うようになりました。教会の原点は創世記にあったのです。聖書はマタイによる福音書が最初ではなく、創世記が最初です。ハレルヤ!創世記1:27,28「神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ」。なんと、教会のはじめは、神様ご自身にあったのです。神様は人をご自身のかたちに創造されたとあります。神様のかたちとは何でしょうか?ここに私たちクリスチャンが個人として、また集団として、生きるべき鍵がしめされています。もし、私たちが神のかたちを回復するならば、そこに新しいぶどう酒が注ぎ込まれると信じます。新しいぶどう酒とは、イエス様の福音、聖霊の働き、神様の豊かな臨在であります。新しいぶどう酒を入れるための第一番目は何でしょうか?神様のかたちを具体的に現されたのは、イエス・キリスト様であります。イエス様は私を見たものは父を見たのと同じだと言われました。ですから、私たちクリスチャンがイエス様の似姿に似ることが重要であります。しかし、イエス様の品性を真似るということはとても困難です。私たちは人の罪を7の70倍も赦すことはできません。2回か3回が限度です。でも、イエス様のライフスタイルを真似ることはできます。イエス様のライフスタイルを真似ていくうちに、イエス様に似た者となっていくのです。そのために、私たちは上との親しい関係を求めなければなりません。上とは、父なる神様、イエス様、聖霊様であります。

 新しいぶどう酒を入れるための第二番目は何でしょう?神様のかたちとは何でしょう。神様は父・子・聖霊の三位一体の神様です。父と子と聖霊が互いに愛し合って1つになっています。これが教会のプロト・タイプ、原型であります。神様はご自身のかたちに似せて、男と女とに彼らを創造された。「男と女」って何でしょう?私は家族だと思います。家族という共同体こそが、教会のあるべき姿だということです。家族は会社ではありません。何ができるとかできないかではなく、存在そのものを受け入れて愛します。教会は会社ではありません。団塊の時代の牧師たちは、会社と同じように教会を大きくしようと頑張ってきました。そうではありません。神様ご自身が互いに愛し合うかたちをもっておられます。もし、私たちが互いに愛し合うなら、そこに神様が「ああ、これは私が好むかたちだ」と、来てくださいます。パウロはコロサイ1:27で「この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです」と言いました。「あなたがたの中」とは、個人個人という意味ではなく、「あなたがたの間に」という意味です。私たちの間におられる、イエス様が栄光の望みなのです。

 新しいぶどう酒を入れるための第三番目は何でしょう?神様は創世記で「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ」とお命じになられました。それは、ご自身のかたちを増やせよ、ということです。それは、イエス様のかたちを増殖させていくということです。神様は「外に向かって、宣教の働きを進め、この地を支配せよ」とおっしゃるのです。マタイ28章でイエス様はお命じになられました。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい」。イエス様のかたちを増殖するとは、イエス様の弟子を作るということです。まず、自分がイエス様の弟子になります。さらに次の人に、バプテスマを授け、すべてのことを教え弟子にします。それで終わりではありません。次の人が、新しい弟子を作るまで見届けるのです。自分の子供ではなく、孫ができるなら、本当の父です。みなさん、父になりましょう。男性も女性も、霊的な子供を育てる霊的な父になりましょう。私たちがこの3つのことにフォーカスしていくとき、3つのことを目指すとき、私たちは新しいぶどう酒をもる皮袋になることができるのです。第一は自らがキリストに似た者になること。第二は家族のような共同体を作ること。第三は神のかたちを増殖させること、すなわち弟子を作ることです。

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2006年11月19日 (日)

「心の叫び 聞こえますか」 ルカ 18:35-43

本日は福澤満雄師による特別説教の為、原稿が用意できませんでした。

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2006年11月12日 (日)

罪人を招くために     マルコ2:13-17 

 昔、植木等が、歌いました。「金のないやつぁ、俺のとこへ来い!俺もないけど心配すんなー。見ろよ、白い雲、青い空、そのうちなんとかなるだろー」。そういう無責任な人にはだれもついて行きません。弟子という言葉の意味の中には、その人に人生をかけて従って行くという意味があります。弟子は、おっしょうさんの生き方、考え方、価値観、技術、知識、すべてを学び取って行くわけです。あなたはだれについて行くでしょうか?いい加減な人について行ったらエライことになります。「人生は出会いで決まる」とマルチンブーバーが言いました。きょうは、イエス様に出会って、すべてを捨てて従った、レビまたの名、マタイの物語であります。

1.Follow me

 マルコ2:14「イエスは、道を通りながら、アルパヨの子レビが収税所にすわっているのをご覧になって、『わたしについて来なさい。』と言われた。すると彼は立ち上がって従った」。レビとは、12弟子の一人マタイのことであります。ですから、この箇所はマタイが弟子としての召命を受けるところであります。マタイはもう1つの名前を持っていました。それはレビです。レビとは、祭司の部族の名前ですから、彼は、今で言うとクリスチャンホームで生まれた子供かもしれません。皆さんの中にクリスチャンホームの人はおられるでしょうか?自分の名前が、聖書の人物や、聖書のみことばから取られたという人はおられるでしょうか?西洋では、ジョン、ポール、ディビッド、マーク、アンドリュー、フィリップ、ジョエルなど、という名前を子供につけます。日本では、イサクとか、ヨシュア、ヨセフ中にはエリヤとかという名の人もいます。また、聖書のみことばから取る人も結構いらっしゃいます。先週、横山家に第三子が誕生しましたが、真実の「真」をつけるそうです。ともかく、親は信仰深い人になるようにという願いをもって、つけるわけですね。しかし、レビは「親父は信仰がすべてだと言うけれど。俺はそうは思わない。やはり、お金がすべてだ」と考えたのでしょう。そして、ユダヤ人が最も嫌う、取税人になりました。取税人とはローマ政府に雇われた、税金取りです。町の門には、収税所が設けられ、そこを通る様々な商品に税金がかけられました。彼らは高い税をふっかけたり、税金を払えない人には、高い利子で貸し付けていました。ですから、人々から「ローマの手先、守銭奴!」などと呼ばれ、大変嫌われていました。しかし、レビ自身は、「人からどう思われようと構いはしない、お金こそすべてだ!ハッスル、ハッスル」と金儲けに励んでいました。

 あるとき、イエス様がカペナウムの収税所を通られました。レビは収税所に座っていました。座っているとは、仕事をしているという意味であります。取税人は偉そうに、高いところに座って、通っていく人や品物を見下ろします。そのとき、イエス様が収税所を通過しました。イエス様はレビを見て、「私について来なさい」と言われました。英語の聖書では、たったひとこと、Follow meであります。すると彼は立ち上がって、イエス様に従いました。一瞬の出来事です。1分もかかっていないでしょう。果たして、そんな短い間に、決断ができるのでしょうか?実は、取税人は漁師と違って、一度やめると戻れない職業であります。彼がすっくと立って、イエス様に従ったということは、その仕事をやめるということであります。イエス様はレビに対して、これからの給料のこととか、住まい、福利厚生の話をしていません。これから先、何の保証も提示されていません。たったひとこと、Follow meであります。そして、Followed himであります。ゲー!短すぎる!でも、レビは取税人でありましたので、職業がらイエス様の情報は得ていたと思います。また、イエス様の教えや奇跡的なみわざは、ある程度は知っていたでしょう。おそらく、神の国の福音を聞いてから「お金がすべてだとがんばって来たけど、俺の人生このままで、良いのだろうか!」と足元がぐらぐらしていたでしょう。ただし、決断はまだしていなかった。だって、これまで築いてきた職業とか、人生観、家庭、すべてを捨てなければならないからです。人生の変更を、そんな簡単に決断できるものではありません。ところが、イエス様が目の前を通過するとき、Follow me、私について来なさい、と言われました。あのイエス様がじかに、声をかけてくださったのであります。レビは、条件反射的に、「ハイ!」と、立ち上がり、従いました。決断とはこういうものであります。

 それでは、信仰の決断とはどういうものでしょうか?英語で決断はdecisionと言いますが、これはとても強い言葉です。Decisionには、どちらかを選ばなければならないとき、片方を殺して、片方を生かすという意味があります。たとえば、ここに牛乳とコーラーがあるとします。私はどちらを飲むか、decisionしなければなりません。そのとき、牛乳をやめて、コーラーを選ぶのです。いや、私は両方が良いと言って、牛乳とコーラーを混ぜる人はいません。結婚相手をdecisionする場合、A子さんを選んだら、B子さんを捨てなければならないのです。いや、私は両方と結婚したいということは許されません。人々は、それに近いことをするので、結婚が破綻するのです。Decision、決断とは、それほど、強い意味があります。イエス・キリストを信じるとは、人生における最も大きな決断であります。イエス・キリストを信じるとは、自分の人生、自分の将来、自分の主義主張、自分の好み、他の神様を捨てて、キリストを選び取るということであります。これは大変なことであります。しかし、ある人たちは、キリストを信じるけれど、他の神様も信じたいという人がいます。ヤコブ書はそういう人を「二心のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠いた人です」(ヤコブ1:8)と言っています。キリストにあって新しい人生を歩き始めたのに、古い生活にまだ未練がある。そういう人は、安定した信仰生活を送ることができません。レビは、古い着物をさらりと脱ぎ捨てるように、その場で決断し、イエス様に従って行ったのであります。ですから、信仰の決断とは冒険であります。キリストを信じるとは、キリストに自分の人生を賭けるということであります。昔、「君は青春に何をかけるか?」「のりたま!」というCMがありました。レビ、マタイは自分の人生を賭けて、イエス様に従ったのであります。

では、レビまたの名、マタイの人生はどうだったでしょうか。彼の性格は、お金のことに細かいということでした。几帳面で、よく記録もしていました。そうでないと取税人は務まりません。マタイはイエス様に関する物語、マタイによる福音書を書き上げました。学者によっては、マタイが書いたのではないという人もいますが、マタイが記録したものをだれかがまとめたという考えは一致しています。そうです。マタイはイエス様の教えをノートにきっちり記録をしました。特に、彼は旧約聖書がイエス様によってどのように成就したのかということに興味がありました。だから、マタイによる福音書のあちこちに「成就した、成就した」という表現があります。また、彼は与える賜物があったようです。聖書のあちこちに、お金をいくら借りたとか、いくらささげたとか、細かく書いてあります。伝説では、彼はエチオピアかマケドニアに行ったという説がありますが、定かではありません。でも、マタイは、マタイによる福音書を残しました。マタイによる福音書は、旧約聖書と新約聖書を結ぶ、大切な役目を果たしています。彼は、彼らしく、神様から用いられたのであります。レビまたの名をマタイは「あの時、決断して良かったなー」とあとから何度も思ったのではないでしょうか。

私も25歳でイエス様を信じる決断をしましたけど、良かったよなーと思っています。もし、あの時、クリスチャンの上司に出会わなかったら絶対、クリスチャンにはならなかったでしょう。もし、私がもっと良い車を買っていたら、ローンの支払いで、会社をやめなかったでしょう。そのまま、会社にとどまり、神学校にも行かなかったし、献身もしなかった。すると、今の家内とも結婚しなかったし、牧師にもならなかったかもしれません。やっぱり、25歳のあのとき、イエス様を信じる決断をし、26歳のあのとき、会社をやめて献身したことが良かったと思っています。会社を辞める前、部屋を掃除しているとき、賛美を聞いていました。「私は道で、まことで、命と主は私に語りかけたー。主の道を歩く、愛と奇跡をこの身に受けながらー」。そうか、イエス様が「私の道で、真理で、命なんだ」と、悟りがやって来て、その場にひざまずき、「イエス様、私を弟子にしてください。一番、小さな弟子でも結構ですから、あなたに、ついていきたいです」とお祈りしました。それが、私の献身の祈りだったんです。会社はそのあと、クリスチャンとしてやっていけないので辞めたわけです。それから、神学校の道が開かれました。イエス様はあなたにも語りかけておられます。Follow meわたしについて来なさい」。イエス様はあなたの主、あなたの主人として、あなたの人生を導いてくださいます。この方は、あなたに命を与えるほど、愛しておられる、まことの救い主です。どの神様が、あなたのために命を捨ててくださったでしょうか。イエス・キリストの他にはありません。使徒ペテロは言いました。「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」(使徒4:12)。イエス様に人生を賭けるならば、あなたの人生、間違はありません。

2.罪人を招くために

 レビは取税人仲間を集めて、フェアウェル・パーティ、お別れ会を催しました。なぜなら、取税人は一度やめたら、元に戻れない職業だったからです。しかも、レビはこの機会を通して、みんなにイエス様を紹介したかったのです。お別れだけではなく、伝道の意味もあったんですね。ですから、レビはありったけのご馳走をみんなにふるまいました。職業仲間の友達の友達、また、その知り合いもやって来て、いっぱいになりました。マルコ2:15-16、それから、イエスは、彼の家で食卓に着かれた。取税人や罪人たちも大ぜい、イエスや弟子たちといっしょに食卓に着いていた。こういう人たちが大ぜいいて、イエスに従っていたのである。パリサイ派の律法学者たちは、イエスが罪人や取税人たちといっしょに食事をしておられるのを見て、イエスの弟子たちにこう言った。「なぜ、あの人は取税人や罪人たちといっしょに食事をするのですか。」そのことを喜ばない人たちがいました。それは、パリサイ派の律法学者たちでした。パリサイとは、分離するという言葉から来たと言われています。「あいつらと違って、俺たちは聖いんだ」と、罪人や汚れた人たちから離れていたわけです。ユダヤで一緒に食事をするということは、共に1つになるという意味ですから、彼らは絶対、そういう人たちとは食事をしませんでした。しかし、イエス様は彼らと食事を共にし、ある人たちから「大酒飲みの友人」とまで馬鹿にされました。イエス様はだれよりも聖いお方でした。しかし、不思議なことに、取税人や罪人たちが気楽にイエス様のところに来ることができました。日本では、聖さを強調する教団がありますが、どこかパリサイ派に似ています。「自分たちは聖い。あんたらとは違う。寄らば、切るぞ!」みたいな、ところがあります。イエス様はだれよりも聖いお方でしたが、だれでも容易に近づくことができました。本当の聖さとはとは、そういうところにあるのかもしれません。

 イエス様はパリサイ派の人たちに言いました。マルコ2:17、イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」イエス様は、ここで分かりやすい比喩を話されました。医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。病人は自分が病気だということを知って、「ああ、医者のところに行かなければ」と思ってやって来ます。丈夫な人あるいは、病気に気づいていない人は、医者のところに決して行きません。実際は病気なんだけれど、本人は「俺は健康だ!」と思っている人も医者には行かないですね。これを正しい人と罪人にたとえるとどうなるでしょうか。正しい人は救い主を必要としません。「ああー、自分は罪人だ」と分かる人は、救い主を求めてやって来ます。でも、どうでしょうか?パリサイ派の人たちは、「自分は正しい、罪なんかない」と思っていたのです。でも、実際は罪があることを気づいていないのかもしれません。イエス様は思いっきり、皮肉を言っているんじゃないでしょうか。イエス様は「私は正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」と言われました。取税人や罪人たちは、「自分には罪があるので、イエス様が必要だ」と思っていたので、イエス様のところにやって来ました。それを、イエス様は「お前らは罪があるので、汚らわしい」とは言わないで、むしろ、彼らを歓迎したのであります。じゃあ、一緒に交わることによって、イエス様の聖さが汚されてしまうのでしょうか?そうではありません。イエス様の聖さが、彼らの罪に打ち勝って、彼らの方が聖くなるのです。これが、イエス様の聖さです。罪に打ち勝ち、罪を洗いきよめる聖さです。ハレルヤ!これは、イエス様にしかできません。

 あなたは「自分は正しい、イエス様なしにやって行ける」と思っているでしょうか。そういう人にとってイエス様は不必要であります。逆に「私は罪人です。イエス様なしではやって行けません」と思っているなら、イエス様はあなたを大歓迎なされます。イエス様がこの世に来られた使命は、人々の罪を負い、その罪を贖うためでありました。あなたはイエス様が必要ですか?それとも「間に合っています!」と断るでしょうか。日本人の多くは、「結構です。間に合っています」と答えるでしょう。なぜなら、「自分はまんざら悪くもない」と思っているからです。イエス様は、正しい人ではなく、罪人を招くために来られました。先週、教会は天国の出張所であると申し上げました。教会は人々の罪の赦しを宣言し、その信仰告白を認めるところです。教会が認めたなら、それは、天国でも認められるのです。たいていの教会の入り口は「どなたでも、歓迎します!」と書いてあります。でも、下の方に小さく、見えない字で、こう書いてあるのかもしれません。「イエス様は罪人を歓迎しましたが、刑に服しているような本当の罪人は困ります。すぐ自分の罪を悔い改める、やや罪人を歓迎します」。わー。私たちクリスチャンは知らぬ間に、パリサイ派の人たちになってしまいます。あわれみの心を忘れ、律法でさばいてしまうのです。イエス様は歓迎しても、私たち教会が、嫌がるのです。実際、パウロという人物は、キリストに出会って、劇的な回心をしました。しかし、教会はパウロを怖がって、迎えようとしなかったのであります。これが、私たちの弱さであります。

 イエス様は「自分の罪を聖めてからいらっしゃい」と言ったのではありません。また、イエス様は「お酒をやめてからいらっしゃい」「悪い癖を直してからいらっしゃい」と言ったのでもありません。また、イエス様は「洗礼を受けて最後まで従う気持ちがあるなら、いらっしゃい」と条件をつけたのでもありません。イエス様は「罪あるままで、そのままで良いから、いらっしゃい」と招いておられるのです。イエス様の招きは無条件であります。ただし、1つだけ条件があります。「自分には罪があり、イエス様なしではやってゆけない」という心があるかどうかです。イエス様以外にも、解決があると思う人は、招かれても来ないでしょう。イエス様にとって、大きな罪も小さな罪も問題ありません。イエス様にとって、救えないような、大きすぎる罪はないのです。紡績工場の話です。昔、多くの女性たちが、紡績工場で働いていました。ある女性は機械に糸が絡んでしまったので、自分で部品をはずして、直そうとしました。でも、よけいに糸が絡まり、最後に収集がつかなくなりました。その後、技術者を呼びました。彼女は「私は一生懸命、やってみたけれど、うまくいきませんでした」と言いました。技術者は彼女に言いました。「あなたがやるべきことは、機械の修理ではなく、私を呼ぶことでした」。罪を解決できる専門家は、だれでしょう?十字架にかかり、あなたの罪のために死なれた主イエス・キリストしかおられません。イエス様は「あなたの罪は赦されました」と言える権威のある方です。神様ですから、人の罪を赦すことがおできになります。でも、みなさん、神様がなんでもかんでも「赦すよ」と言ったら、神様じゃありません。神様は義なる方ですから、罪であるなら裁かなければならないのです。神様の前には、どんな小さな罪でも、罪は罪です。ただで赦すわけにはいきません。罪を赦すためには、代価が必要なのです。旧約時代は、そのため、羊、ヤギ、牛などのきよい動物をいけにえとして捧げました。動物を自分の身代わりとして差出し、その命である血を注ぐことによって、罪が赦されたのです。新約時代はどうなったでしょう。イエス・キリストが神の仔羊として、来られました。イエス様が「あなたの罪を赦すよ」と言った背後には、イエス様が罪の身代わりになるという根拠があったのです。父なる神様は、イエス様の贖いによって、あなたの罪をただで赦すのです。ある人が、「ああ、私は結構です。イエス・キリストは不要です」と言ったとします。その人は、終わりの日、イエス様なしで、神様の前に立つしかないのです。その人がいくら自分で「正しい」と言っても、神様の義にはかないません。神様の義が太陽だとしたら、人間の正しさはほたるの光みたいなものです。ぜんぜん、かないません。では、どうしたら良いのでしょう。イエス様の義をもらえば良いのです。義という漢字は、羊の下に我と書きます。羊がいなければ、我という罪ある人です。でも、罪ある人が、神の仔羊なるイエス様をいだくならどうでしょう。神様の目から見たら、「あなたは義です。罪はない」と見られるのです。ハレルヤ!

 今も、イエス様は両手を広げて、あなたを待っておられます。罪あるままで、汚れたままで良いのです。よく、見ると、イエス様の両手には、釘跡があります。十字架にかかられたしるしです。Come!イエス様は、あなたを招いておられます。イエス様のもとに行きましょう。Follow Him.

イエス様に従っていきましょう。

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2006年11月 5日 (日)

癒しよりも勝るもの       マルコ2:1-12

 中風といいますのは、原語のギリシア語では「片方がゆるむ」という意味があります。いろんな原因があると思いますが、脳卒中の後遺症ために、半身が麻痺してしまったというケースが最も多いようです。新約聖書では、福音書のほかに、使徒9章にも記されています。いずれも、長期間床についたままの病人として記されています。今はどうか分かりませんが、私が住んでいた秋田は、この病気にかかる人が、全国で最も多い県でした。東北の人は、塩辛いものをいっぱい食べるので、高血圧の人が多いようです。きょうは、四人の人が、中風の友人をイエス様のところにお連れするという美しい物語です。

1.彼らの信仰を見て

 マルコ2章1、2節「数日たって、イエスがカペナウムにまた来られると、家におられることが知れ渡った。それで多くの人が集まったため、戸口のところまですきまもないほどになった。この人たちに、イエスはみことばを話しておられた」。イエス様がおられるところには人々が集まって来ます。いちいち、呼ばなくてもそこにイエス様がおられたなら、人々は集まってくるのです。ここに、教会の秘訣が隠されているような気がします。私たちの集会に主の臨在があるなら、世の人たちは「私も行ってみよう」と、集まって来るのです。ハレルヤ!その日も、戸口まで人々があふれていました。そのとき、一人の中風の人が4人の人にかつがれて来ました。でも、群集のゆえにイエス様に近づくことができません。普通だったら、「ああ、だめかー。また出直そう」と、諦めるところです。でも、彼らは諦めませんでした。なんと、人の家の屋根にのぼり、屋根に穴をあけ、中風の人を床にねかせたままその状態で、イエス様のまん前に降ろしました。ロープはどこから持ってきたのでしょうか?素手で、屋根をはいだのでしょうか?もし、私が家の持ち主だったら、「やーねー」と、怒るでしょうね。その地方は、雨がそんなに降らないので、屋根は平らで、穴をうがつのは簡単なのかもしれません。穴を開けてまで、イエス様に近づこうとしたんですから、ものすごい根性です。イエス様は5節で「彼らの信仰を見て」と書いてあります。ですから、根性ではなく、信仰であります。しかも一人の信仰ではなく、「彼ら」ですから、4人の友人の信仰でしょうか。いや、運ばれてきた中風の人自身にも信仰があったと思います。なぜなら、床に寝かされたままで、イエス様にお会いするというのは、信仰が必要です。日本人だったら、「格好が悪いから嫌だ」と断るでしょう。でも、彼は見苦しいままでも、イエス様のところに近づこうとしたのです。ですから、彼自身にも、信仰があったと思います。

 私はこの箇所で強調したいことは、ここにセルの原型があるということです。彼らは会議を開いて、「中風の人がいるので、イエス様のところに連れて行こう」と決めたわけではありません。今の教会なら、役員会か、委員会で「だれとだれが、何日に集まって、その人を連れて行こう」と決めるでしょう。しかし、聖書の人たちはそんなゆうちょなことはしていません。牧師や役員会からの指示ではなく、「友達が困っているから、なんとかしてあげよう」と思ったのです。「イエス様がカペナウムに来られたらしいぞ。みんな、あいつをイエス様のところにお連れしようぜ!」と携帯かなんかで、呼び出して、自主的にやったのです。これがセルです。上からの命令や管理のもとで動いているのではありません。愛によって、主の導きによって動いているのです。聖書は、教会をからだにたとえています。かしらはキリストで、からだは私たちです。手も足も、かしらから命令を受けて動きます。それと同じように、1つ1つのセルが、かしらなるキリストの指令を受けて動くのです。教会って何でしょう?教会は建物でも委員会組織でもありません。人のかたまりであり、セルです。セルが教会なんです。しかし、教会が不特定多数の会衆、群集になるとこういうわけにはいきません。セルのない大教会は、牧師や役員会、なんとか委員会のもとで動きます。人々は、愛で動いているのではなく、使命で動いているのです。その点、セルは重荷をもった人たちが、自主的に行動します。私は大教会で育ちました。そして、今も大教団の中に属しています。前は、「大きいことはいいことだ!」と大きい教会を目指してきました。もちろん、今でも目指しています。でも、ただ大きいのでは困ります。中に命がなくてはなりません。その命に相当するものが、セルという少人数のグループであると信じます。彼らは互いに祈り、互いに重荷を負いあい、互いに戒め、互いに励まし、互いに愛し合います。こういう小さなかたまりがあってこそ、大きな会衆になれるのではないでしょうか。イエス様はマタイ18章で、「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです」と言われました。ですから、二人、三人が、教会の最小単位であると私は信じます。ここには、4人と1人の中風の人、合計5人が登場しますが、イエス様は彼らの信仰を見て、罪の赦しと病の癒しを与えたのであります。

昔、本田路津子さんという歌手がいました。今は、ゴスペルシンガーです。彼女は名前が「るつこ」ですから、クリスチャンです。ヒット曲のひとつに「小さな手」という歌があります。彼女は、会場のみなさんとよくこの歌を歌うそうです。「ひとりの小さな手、何もできないけど、それでもみんなの手と手を合わせれば、何かできる何かできる」。なんと6番まであります。「ひとつの主のからだ、枝、枝、ちがうけど。でもみんながひとつに結ばれて、強く生きる、強く生きる」。ハレルヤ!協力の協は十字架のもとで力を合わせると書きます。一人の力は弱くても、みんなが力を合わせれば、すごいことが可能になります。それは、私たちの力というよりも、イエス様が真ん中で働いてくださるからです。イエス様は私たちの信仰を見ておられます。

2.どちらがやさしいか

 この物語で不思議に思うことは、イエス様が中風の人に「子よ。あなたの罪は赦されました」と言われたことです。彼も含めた5人は、体の癒しを求めて来たはずです。なのに、罪の赦しを最初にいただきました。イエス様のことばを聞いて、律法学者たちは心の中で考えました。7節、「この人は、なぜ、あんなことを言うのか。神を汚しているのだ。神お一人のほか、誰が罪を赦すことができよう」と心の中で理屈を言いました「理屈」とは、原語では「考える、思案する」という意味ですが、ここでは文句とかつぶやきに近いと思います。イエス様は超自然的に彼らの思いを見抜き、このように言われました。9節、「中風の人に、『あなたの罪は赦された。』と言うのと、『起きて、寝床をたたんで歩け。』と言うのと、どちらがやさしいかここで、質問です。人々の目では、中風の人に「あなたの罪は赦された」と言うのと、「起きて、歩け」と言うのとどちらがやさしく見えるでしょうか。また、どちらが劇的でしょうか?中風の人が起きて歩く方が、難しくて劇的に写ります。なぜなら、人の目に、はっきりと分かるからです。では、罪の赦しはどうなのでしょうか。「あなたの罪は赦された」と言われたとしても、外見的には何も変わらないし、本当に赦されたかどうかも分かりません。もう一度、お聞きします。罪の赦しと体の癒しはどちらがやさしいのでしょうか。人々の目から見たら、罪の赦しの方が簡単で、中風の人が立ち上がるのが難しいのです。なぜなら、中風の人に「起きて、歩け」と言っても、もし、そうならなければ、赤っ恥をかくしかないのです。律法学者たちはなぜ、心の中で理屈を言ったかと言うと、こうです。「イエスはペテン師だ。中風の人が歩かないと恥をかくので、だれにも分からない罪の赦しを宣言したのだ。ああ、罪の赦しは神しかできないことなんだ。それにしても、なんという神への冒瀆だろう!」。

 10節、「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。」こう言ってから、中風の人に、「あなたに言う。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」と言われた。イエス様は、あとから中風の人を癒してあげました。これは1つの証明だったのです。さきに、「あなたの罪は赦されました」と言っても外見的には何も見えないし、何も起こりませんでした。しかし、神の子イエスが、罪の赦しを宣言したときに、確かに、彼の罪は赦されたのです。目には見えなかったかもしれませんが、神の側では、彼の罪はそのとき完全に赦されたのです。イエス・キリストのことばには、そういう権威があるのです。イエス様は、彼の罪がご自分の宣言で赦されたことを証明するために、今度は彼に命じました。「あなたに言う。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」12節、すると彼は起き上がり、すぐに床を取り上げて、みなの見ている前を出て行った。それでみなの者がすっかり驚いて、「こういうことは、かつて見たことがない。」と言って神をあがめた。つまり、こういうことになります。イエス様が命じたら、彼の体はたちまち癒され、立ち上がることができました。それと同じように、イエス様が「あなたの罪は赦されました」と言われたとき、罪の赦しが彼のうちに成就したということです。目には見えませんでしたが、確かに、彼の罪は赦されたのです。つまり、この人は最初にイエス様から罪の赦しをいだだき、あとで、肉体の癒しをいただいたのです。

 人の罪を赦すのは、神様しかできません。しかし、律法学者たちは、イエス様を神であるとは認めませんでした。この一連の記事の中で、イエス様はご自身が神であることを証明されたのです。イエス様が「あなたの罪は赦された」とおっしゃるなら、中風の人が直るように、罪は赦されたのです。確かに、罪の赦しは目には見えません。でも、神様の側から見るなら、その人の罪が赦されたのです。私たちも罪の赦しが必要です。しかし、それが人間ではダメなのです。なぜなら、同じ罪人だからです。でも、罪がないお方で、そして神であられるならば、それが可能です。私は洗礼式で必ずと言って良いほど、「子よ、あなたの罪は赦された」と宣言します。これは、この物語から引用したみことばです。昔、口語訳を使っていました。口語訳では「子よ、あなたの罪はゆるされた」となっています。あれは、私が赦すのではなく、主イエス・キリストの名代として行う、赦しの宣言であります。その根拠はマタイ18章にあります。イエス様は「あなたがたが地上でつなぐなら、それは天上においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天上においても解かれているからです」と言われました。教会は、イエスの御名によって、人の罪を赦す権威を神から賜っているのです。それって、すばらしいことだなーと思います。市役所や区役所の出張所がところどころにあります。主張所で手続きしても、オンラインで本局につながります。教会は天国の出張所です。ここで、罪の赦しを宣言するならば、天国でも「OK,この人の罪は赦されました」となるのです。私たちは罪の赦しと救いをいただいていることを感謝しましょう。やがて、天国に行って、いのちの書を見たとき、「ああ、本当だった。私も罪が赦され、私の戸籍もちゃんとあった」とわかるでしょう。ハレルヤ!アーメン。

3.癒しよりも勝るもの

 みなさんは、罪の赦しと体の癒し、どちらがすばらしいと思うでしょうか。罪の赦しは永遠のものですが、肉体の癒しはこの世だけのものです。私たちはたとえからだが癒されても、いずれは年老いて死ぬんです。なぜなら、この体は地上だけのものだからです。癒しもすばらしいです。でも、罪の赦しのほうが勝るのです。キリスト教で「救い」は、ものすごく広い意味があります。病気が癒されることも救いです。苦しみから解放されることも救いです。でも、一番の救いは、罪が赦されて永遠の命が与えられることです。ですから、罪の赦しは、病の癒しよりも勝ると言えます。4人の人が協力して、一人の中風の人を運んで来ました。群集のため近づけなくても、あきらめず、屋根に穴を開けて、病人を吊り降ろしました。イエス様は彼らの信仰を見て、思わず、体の癒しよりもすばらしい、罪の赦しの方を最初にあげたのです。一時的な体の癒しではなく、永遠に至る罪の赦しの方をあげちゃんたんですね。4人と中風の人は、最初はそれが分からなかったかもしれません。「あのー、罪の赦しじゃなくて、体の癒しを求めたんですけどー」と、微妙に感じたかもしれません。でも、イエス様はもっと根本的で重要なものを差し上げたのです。ハレルヤ!ときどき、神様はAを求めたのに、Bを与えることがあります。結婚相手もそういうときがあります。私はより美人な彼女を選びたかったのに、こっちだったとか。あるいあ、私はよりハンサムな彼を選びたかったのに、こっちだったとか。イザヤ書55章に「私の思いは、あなたがたの思いと異なり、私の道は、あなたがたの道と異なるからだ。・・・私の道は、あなたがたの道よりも高く、私の思いは、あなたがたの思いよりも高い」とあります。私と家内は、この間の11月1日で、結婚25周年、銀婚式になりました。おそらく、「お互いに、結婚するならあの人だ!」と決めていたかもしれません。そんなことは、私も家内も絶対、言いません。言えはしません。でも、両者とも思っているんじゃないでしょうか。「神様の思いは、私の思いよりも高い」と。当教会では、若い方々が結構いらっしゃいますが、どうか、自分の思いや好みではなく、神様の思いに従ってください。そうすれば、間違いありません。間違いない!

 話題は変わりますが、私はいわゆるカリスマの牧師です。カリスマと言ってもカリスマ美容師とか、カリスマ主婦ではありません。大教会のカリスマ牧師もいないわけではありません。しかし、カリスマの本当の意味は、「聖霊の賜物」という意味です。教会の世界では、「癒しとか預言、奇跡を信じて行う人をカリスマ」と言います。ある教会は、「それは変だ!」と反対するし、ある教会は「それはもっともだ!」と賛成します。海外では、カリスマは当たり前ですが、日本では「変だ」とか「危ない」と思われたりします。とにかく、私はイエス様や使徒パウロのように、病の癒しや悪霊の追い出し、預言や異言、奇跡など、大歓迎であります。ある人たちは、癒しを全く認めないで、罪が赦されたんだからすばらしいと言います。そして、癒しや悪霊追い出し、異言や預言を軽蔑して、もっぱら罪の赦しの救いだけを強調します。私は、そっちの方がおかしいと思います。私は、肉体の癒しを認めた上で、「罪の赦しの方がすばらしいんだよ」と言うなら文句を言いません。イエス様は癒しをたくさんした上で、なおかつ、永遠の救いに至る罪の赦しも与えました。ある教会は、「永遠の救いが与えられたんだから、病気や苦しみを我慢しましょう。天国に行くまで十字架を背負って行きましょう」と言います。しかし、この物語で、イエス様が「あなたは罪赦されて、天国に行けるのだから、中風のままでも良いですよ。我慢しなさい」とやっていません。イエス様は、罪が赦され、なおかつ、肉体が健康であるように願っておられます。だから、中風の人を、即座に癒されたのです。ハレルヤ!でも、もう一度、言わせていただきます。肉体の癒しもすばらしいですが、罪赦され、天国に行ける方がもっとすばらしいのです。

 今から、19年前、私が亀有教会に赴任して間もない頃です。当時、銀行員の中野兄が教会におられました。良く聞くと、ある年、受洗者が一人もいないので、「なんとかクリスマスのとき洗礼を受けてくれないか」と二人の長老さんから頼まれて洗礼を受けたというのです。二人の長老さんは会社の会長であり、預金をその銀行にたくさんしていた、いわばお得意さんだったんですね。中野兄はボランティア精神もしくは営業精神でクリスチャンになったのかもしれません。中野兄は、クリスマスかイースター、特別集会しか来なかったそうです。私が赴任してから、中野兄に礼拝の中で、ギターで賛美してくれるように頼みました。あるとき、中野兄のお父さんが末期の肺がんであると聞きました。早速、ご自宅を訪問し、癌が癒されるように祈りました。お父さんは荒川の畳屋さんで、しゃきしゃきの江戸っ子でした。新聞紙を「ひんぶんひ」と言う?。とても頑固な人でした。何が原因か忘れましたが、「あんたがいくらおがんでも治らない。賢二も教会にやらんし、あんたも来なくて良い」と怒りました。それから数ヶ月たち、入院してしまいました。そのときは、何も言わないで、花束だけ起きてきました。だけど、いよいよ危ないというとき、また伺いました。行ったちょうどその日、面会謝絶の札がかけられました。そのとき、無理槍、中に入って、「イエス様を信じて天国に行きませんか?」と質問しました。いわゆる引導を渡したわけです。お父さんは、酸素マスクをしながら、「はい」とうなずいてくれました。アーメン、とそこでお祈りして帰ってきました。中野兄弟がその晩の10時頃、仕事から帰って、病院に立ち寄りました。中野兄の顔をみるなり、人差し指を天にあげてうなずいたそうです。中野兄は、そのとき、何の合図なのか分かりませんでした。でも、あとからイエス様を受け入れたことを聞いて、「ああ、あれは天国にいける」というサインだったんだと分かりました。それから、まもなく、お父さんは天に召されました。実は、中野兄は、癒しで有名な高円寺の新井宏二先生にも、お祈りを依頼していました。先生は都合がつかなくて、病院には来られませんでした。中野兄がお父さんがイエス様を信じて、召されたことを告げました。そのとき、新井先生はこうおっしゃったそうです。「病気が癒されなかったことは残念だけど、救われたんだったら、もっとすばらしいじゃないか」と。アーメンです。それから、中野兄弟の信仰は本物になり、神様に献身しました。土曜日から来て、聖日礼拝の準備をし、子供たちともよく遊んでくれました。卒業はできなかったかもしれませんが、JTJの通信に学び、教会のため一番よく働きました。そのときは赴任したばかりで大変でしたが、今、神戸にいる井上神学生と中野兄弟と私で、三位一体のようにがんばりました。学校でしたら「大変よくできました!」という、桜の判子を押されるでしょう。

 4人と癒された中風の人はどうなったでしょうか?おそらく、神様を喜び、神様に仕える生涯を送ったことでしょう。そして、あとからこのように言ったと思います。「あのときは、床のまんま降ろされて格好悪かったよなー。でも、『屋根に穴を開けよう』なんてだれが言ったんだ」。「俺だよ、俺!」。「だけどよー、あとからみんなで屋根を修理したんだよなー。家主も、一緒に喜んでくれたよ」。「俺たち、あとから教会作ったんだよなー。今じゃ、大きい群れになっている。感謝だなー」。「だけど、俺たちの教会堂は、屋根に天窓ついているんだよなー」。「そう、屋根からも出入り可能なんだぜ!」。本当かどうか分かりません。でも、本当のことは、イエス様はあなたの罪を赦す救い主です。そして、イエス様はあなたの病を癒す癒し主です。今も主は生きておられ、障害を乗り越えてでも近づく人には、良いものをお与えになります。神様は求めるものには、求める以上のものを与えてくださることを信じましょう!アーメン。

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