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2006年10月29日 (日)

イエスの奉仕の源泉       マルコ1:32-45

 みなさんの中に、自分は「人々や仕事あるいは環境に振り回されて生きている」という人はいませんか。二十ねずみが丸いはしごをくるくる回っている姿を見たことがあるでしょうか。あのような具合で、一生懸命、動いていることは動いているのだけど、疲れるばかりで達成感がないという人はいませんか?きょうは、そういう人たちのためのメッセージです。実は、日本人のほとんどがそういう生き方をしているんです。ひょっとしたら、日本人はみな、二十ねずみかもしれません。短い人生を、そんな風に生きているんです。いや、本当は、生きていないのかもしれません。なんか、周りに振り回され、惰性で生きているのかもしれません。

1.イエスの奉仕の源泉

 まず、わかることは、イエス様はとても忙しい生活をしていたということです。先週は、マルコ1章の後半から学びましたが、安息日に説教し、午後はシモン・ペテロの家を訪問しました。その日の夕方はどうだったでしょうか?マルコ1:32以降「夕方になった。日が沈むと、人々は病人や悪霊につかれた者をみな、イエスのもとに連れて来た。こうして町中の者が戸口に集まって来た。イエスは、さまざまの病気にかかっている多くの人をお直しになり、また多くの悪霊を追い出された。」人々は、日が暮れてからわざわざ集まってきたのにはわけがあります。その日は安息日でしたので、働くことが禁じられていました。歩く距離も定められており、旅行もできなかったのです。また、ユダヤでは日没から日没までが一日でした。つまり、日が沈むと次の日になります。彼らは安息日が終わったので、歩くことができ、遠くの人たちもイエス様のもとにやって来られたのです。おそらく、イエス様は夜遅くまで、病人を癒したり、悪霊を追い出したことでしょう。では、次の朝はどうだったでしょうか?36-37節「さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。シモンとその仲間は、イエスを追って来て、彼を見つけ、『みんながあなたを捜しております。』と言った。イエス様は朝早く起きて、祈っておられました。父なる神様と親しく、交わっておられたのです。祈りが終わったか終わらないうちに、弟子たちが自分を探しに来ました。そして、「みんながあなたを探しています」と言いました。おそらく、病を癒してもらいたい人や悪霊を追い出してもらいたい人が、朝から集まってきたのではないかと思います。

 では、イエス様はどうなされたのでしょうか。38節、イエスは彼らに言われた。『さあ、近くの別の村里へ行こう。そこにも福音を知らせよう。わたしは、そのために出て来たのだから。』」「あれ、あれ、あれ?」と思いませんか。その村の人たちが、病を癒してほしいとやって来たのに、イエス様は「さあ、近くの別の村里へ行こう」と言いました。「イエス様、ちょっと冷たいじゃないですか!」と文句が出そうであります。私だったら、「ああ、ここに腰を据えて、ミニストリーをしようじゃないか」と言ったかもしれません。しかし、イエス様はそうではありませんした。弟子たちに、「さあ、近くの別の村里に行こう!」と言ったのです。なぜでしょう?それは、父なる神様と相談したからです。イエス様は父なる神様と交わりながら、きょうは何をすべきか、優先順位を決めたのです。「きょうは、別の村に行って、福音を伝えるんだ」という導きを得ていたのです。つまり、イエス様は人々の必要に振り回されて生きていたのでありません。そうではなく、ご自分で決めて、主体的に生きていたのです。イエス様は祈りの中で、父なる神様といろんなことを話し合っていたと思われます。そして、父なる神様から奉仕の力をいただいて、一日を歩まれたと思います。なぜでしょう?イエス様は神様でありましたが、完全な人間でもありました。イエス様は私たち人間の模範となり、私たちにどのように生きるべきかを教えられたのです。ヨハネ5章にそのことを表すみことばがあります。ヨハネ5:19「まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行なう以外には、自分からは何事も行なうことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行なうのです」。イエス様は「自分から何も行うことができない」と言われました。もちろん、イエス様は神様だったので、癒しも奇跡もできたんです。でも、「自分からは何もできない」と言われました。イエス様は父を見て行い、父に聞いて行い、父から力をいただいて生きておられたのです。なぜ、でしょう?私たちの模範となるためです。私たちもイエス様のように、父なる神様と交わり、導きと力を得るなら、イエス様のような生き方ができます。そうすれば、人々や環境に振り回されないで生きていくことが可能になります。申命記28:13「私が、きょう、あなたに命じるあなたの神、主の命令にあなたが聞き従い、守り行なうなら、主はあなたをかしらとならせ、尾とはならせない。あなたは尾にはならないでかしらになる」と書いてあります」。あなたは尾になりたいですか、それとも、かしらになりたいですか。

 では、どのようにしたら、あなたを取り囲む環境に対して、尾にならないでかしらになることができるのでしょうか。それは、神様と交わる時を持つ、つまりディボーションを持つということです。ディボーションとは、個人的に神様と交わるということです。その中には、聖書を読むことや、祈りや礼拝が含まれます。忙しいとは、心が滅びると書きます。イエス様は忙しかったのですが、どんな時でも、父なる神様との交わりの時間を確保しました。イエス様はその時間がなければ、様々なミニストリーができなかったのです。あなたはイエス様以上でしょうか?父なる神様と1週間に1度だけ交わるだけで、やっていけますか?中には、1ヶ月に1度という人もいるかもしれません。この間、新聞に「週末のプチ修行、プチ出家」という記事を見ました。ちょっとご紹介します。「みなさん、最近、疲れていませんか?忙しい現代人。ストレス、人間関係など、心の悩みは耐えない。そんな中で今、注目されている場所が。町の中にたくさんありながら、なかなか身近に感じづらかった場所!それはお寺!街中で自分をリセットし、リフレッシュできる貴重な場所、として、週一回のプチ修行が見直されている。座禅や写経など、気軽に出来る場所も増えている。体験者の90%が女性。それも20~40代の今までお寺になじみの薄かった世代がほとんどだとか」。彼らは、煩悩と戦い無の境地をめざしています。東洋の禅とか瞑想は、交わる対象がはっきりしていません。しかし、私たちはそうではありません。私たちには、はっきりと交わる対象がおられます。それは私たちを創り、私たちを愛しておられる人格をもった神様です。私たちは無になるのではなく、父なる神様のみこころを求めます。そして、みこころに沿った行いをするのです。

 イエス様は「さあ、近くの別の村里へ行こう。そこにも福音を知らせよう。わたしは、そのために出て来たのだから」と言われました。それは、父なる神様と交わった結果、そうなったのです。その村にとどまって、癒しや教えをなすことは良いことでしょう。でも、イエス様はたとえそれが良いことであったとしても、まず、父のみこころを行おうとしたのです。神様は私たちに良い事をしなさいとは望んでおられません。そうではなく、神様は「私のみこころを行え!」とおっしゃるのです。ハレルヤ!ですから、神様と交わって、一日の優先順位を立てることが重要です。何がベストか、何を優先すべきということをつかむのです。そうすると、あなたは尾になることはありません。でも、多くの人たちは、「私はサラリーマンです。上司の命令は絶対です」「私は営業マンです。お客さんを無視できません」と言うでしょう。たとえ、そうであっても可能です。神様にそのことを打ち明け、神様からそのことも含めて、導きと力を仰ぐのです。でも、突然、邪魔が、割り込み入るかもしれません。割り込みもOKです。ディボーションした結果、神様があなたと共におられるからです。ディボーションしている人は、神様が共におられるなーという信仰が継続します。だから、予定が狂わされても平気です。イエス様も、2章20節で、らい病の人、重い皮膚病の人が、突然やって来ました。でも、イエス様はどう対処されたでしょうか。41、42節、イエスは深くあわれみ、手を伸ばして、彼にさわって言われた。「わたしの心だ。きよくなれ。」すると、すぐに、そのらい病が消えて、その人はきよくなった。アーメン。イエス様は「そんなの予定にないよー」と断りませんでした。余裕があったんですね。ハレルヤ!

 どうぞ、私たちもイエス様のように、父なる神様と個人的に交わるディボーションの時を持ちましょう。イエス様は父なる神様を見て、聞いて、力をいだだいて行動しました。イエス様の奉仕の源泉は父なる神様だったのです。私たちもそのようにしたら、環境の尾にはならないで、かしらになることができるのです。ハレルヤ!アーメン。

2.ディボーションの実際

静かな場所

 後半は、ディボーションをどのように行うのか、お話したいと思います。ディボーションは、「静思のとき」とも呼ばれています。英語では、Quiet Time、まさしく「静かなとき」であります。ですから、一番はじめに必要なことは、静かになれる時と場所を探さなければなりません。イエス様の場合、どうなされたでしょうか?「朝早く、まだ暗いうちに起きて、寂しいところへ出て行き、そこで祈った」と書かれています。イエス様が泊まっていたお家には、静かな場所がなかったからかもしれません。だから、朝早く、外へ出て、一人になれるところを探しました。あなたにとって、ディボーションのためにとれる、静かな場所と時間はどこでしょうか?朝が一番良いと思います。なぜなら、一日のはじまりだからです。主婦の方は朝早くおきて、お弁当を作らなければなりません。そういう場合は、お掃除やお洗濯をし終わった後でしょうか。ビジネスマンはどうでしょう。通勤の電車の中、昼休み、寝る前でしょうか。我が家もそうですが、テレビがずーっと付いています。テレビはかなり邪魔ですね。新聞やテレビを見る時間はあるけれど、聖書を読む時間がないという人が結構います。私たちはまず、神様から情報を得なければなりません。どこでも良いですから、せめて30分くらい、ディボーションのために確保しましょう。

聖書を瞑想(黙想)する

 瞑想と言っても、東洋の禅や瞑想ではありません。私たちは聖書を読みながら、全知全能であり、私たちを愛しておられる神様と交わります。私たちの神様は父なる神様であり、対象がはっきりしています。私たちは聖書を読みながら、静かに、神様の御声に耳を傾けます。少年サムエルのように「しもべ聞きます。主よ、お語りください」という姿勢です。瞑想することは、みことばを反芻することにたとえられます。牛、ヤギ、羊などは、食べ物を反芻します。彼らの胃は4つの部屋から出来ており、それぞれ第一胃、第二胃、第三胃、第四胃というそうです。草などを、口で租借し、胃に送って部分的に消化します。再び口に戻して咀嚼します。そういう過程を繰り返すことで食物を消化するわけです。これを反芻と言います。私たちも、聖書を開いて、何を書いてあるのか、どういう意味なのか、みことばを反芻するわけです。しかし、昔の人たちは、ディボーションと言うと、人が書いた本を読んで、それから祈りました。「荒野の泉」とか、有名な説教者の一日一章、みことばの365日などいろいろあります。でも、それはみことばの加工食品です。本来のディボーションは、自分だけでみことばから、直接、教えをいただきます。借り物は忘れますが、自分で苦労して発見したものは忘れません。自分で発見した喜びも、伴います。「聖書を自分で読んでも、間違って解釈するんじゃないだろうか?」と心配しないでください。聖書は聖霊が書きました。同じ聖霊があなたのそばで、家庭教師のように教えてくださいます。なぜなら、聖霊は真理の御霊だからです。ヨハネ16:13には「その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導きいれます」と書いてあります。

瞑想の具体的な順番です

 まず、最初は観察です。普通、10節とか、1章くらいの長さを、静かな心で読みます。ノートに気づいたことを書くのは良い助けになります。繰り返し出てくることばとか、ピーンとしたことば、これは大事だと思えることばを、チョロチョロと書きます。なぜ、ノートに書くか、それは眠気防止と集中力を高めるためです。観察はあまり気張らないで、フラットな心でやります。何回か読むうちに、自然に心の中に入ってきます。

 その次は、教えをいだだきます。観察した中から、これが「私に対する教えだなー」というものを1つか2つゲットしましょう。他のだれかさんのためではありません。自分のためなんです。どういう教えがあるのでしょうか。昔、「幸いな人」という本でディボーションをしていましたが、その裏表紙にこう書いてあります。示された罪はないか。約束、慰め、励ましは何か。避けるべき行動、習慣、警告はないか。従うべき命令はないか。ついていくべき模範は何か。また、神様はどういうお方か。これら全部の項目を見つける必要はありません。ある日は、約束をいただいた。また、他の日は、避けるべき罪を示された。それで、良いのです。あまり欲張ると、実行できません。

 その次は、適用です。教えられたことに対して、自分がどう従うかです。自分の具体的な生活に照らし合わせてみます。「この約束とは私の生活のどういう約束なのか?」「避けるべき罪とは、どういう罪なのか?」「隣人を愛せよとは、だれのことなのか?」「では、どういうふうに愛を現すのか」。結構、そこまでやるのは苦痛です。私などは教えで終わりのときがあります。でも、適用まで行かないと生活が変わりません。信仰「と」生活ではダメなんです。信仰は信仰、生活は生活、この人は2心の人であって、安定がありません。それは、みことばを行わないからです。私たちは「信仰生活」と2つがくっついていなければなりません。「信仰生活」となるのは、みことばを実生活において適用する人です。

 最後は祈りです。できれば、声を出して祈るのが一番です。もし、与えられた命令があるならば、「従います!」と宣言しましょう。約束をいただいたなら、「信じます!」と言うべきです。やめなさいという警告をいただいたなら、「○○をやめます!」と宣言します。だれかを赦しなさいと示されたら、「○○を赦します!」と宣言します。保証や慰めをいただいたら「主よ、感謝します!」と告白しましょう。これは、恵みの宣言です。昔、イスラエルでは、「ヨベルの年」というのがありました。ヨベルの年には、角笛を吹き鳴らします。これは50年に1度訪れる、恵みの年です。奴隷が自由になり、借金は棒引きされ、失った土地が回復されます。父なる神様は私たち神の子供に、回復させたいものがたくさんあるのです。だから、祈りの宣言によって、角笛を吹き鳴らすのです。するとどうなるでしょうか。あなたを取り囲む環境が変わります。閉ざされていた道が開かれます。難しい問題に解決の光が与えられます。そして、あなたに神様の力と知恵、そして愛と希望と信仰に満たされます。私は幸いに、礼拝堂が隣接していますので、恵みの宣言が可能なんであります。どうか、あなたのディボーションを、恵みを宣言するところまで行ってください。そのとき、アーメンとハレルヤ!をはっきり言いましょう。アーメンとハレルヤ!を言えば、言うほど、あなたの内に恵みと信仰がいっぱいになります。ついでに、結構にもなります。内蔵や気管の弱い方、鬱的な人、ぜひ実行してみてください。アーメン、ハレルヤ!

 私は早天祈祷会に救われてからすぐ行きましたから、12年間くらい出席しました。しかし、1991年くらいから、このディボーションに切り替えました。早天祈祷会はどちらかというと義務的で苦痛でした。しかし、ディボーションは自分のためにやるんですから、とても幸せな時間です。メッセージもディボーションをしてから変わりました。それまでは、いろんな解説書を見比べ、良いと思われるところをくっつけてメッセージを作りました。でも、他人からいただいたものなので力がありません。ですから「ご参考までに」とか「こう書いてあります」としか言えません。でも、ディボーションをして神様から直接いただいたメッセージには確信があります。今は、全世界のほとんどの教会がディボーションのすばらしさを認めています。私は昔、人に教えるために聖書を読んでいましたが、ディボーションはそうではありません。私自身の霊的な養いは、ディボーションが一番基本的であります。これは私の生命線、ライフラインです。

ついこの間、こういうことがありました。新約を終えて、創世記からまた読み出しました。創世記4章で、カインはアベルのささげ物だけが受け入れられたので、とても怒っていました。神様はカインにこのように警告しました。創世記4:7「罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである」。カインはその怒りを治めるべきでした。でもそれができませんでした。カインは怒りにまかせて、アベルを打ち殺してしまったのです。その夜のことです。私は家内にあることに対して怒りを覚えました。家内は何も問題なさそうにスヤスヤ寝ています。私は家内の顔を一発、バキっと殴りたい衝動にかられました。私の父は、よく、母を殴っていました。私は子供のときからそういう光景を見て悲しくなり、父のようなことはしまいと思っていました。しかし、私には父と同じ血が流れているのです。だから、一発、殴りたくなりました。そのとき、創世記のカインのことが思い出したのです。「罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである」、アーメン。ああ、カインのようなことをしてはいけない。私はこの罪を治めるべきであると思いを替えました。私は起きて、牧師室に行き、アバラブのテープを起こす作業をしました。私の霊的な父はエディ先生です。エディ先生のメッセージをパソコンで打っているうちに、すっかり良くなりました。でも、あのとき、罪に負けたなら、彼女に深い傷を負わせていただろうなーと思います。本当にディボーションをしていて良かったなーと思いました。

 日々のディボーション、不思議なことに、その日の、ちょうど良いみことばが与えられます。しかも、前もってです。詩篇119:105「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です」。

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2006年10月22日 (日)

神の国の福音         マルコ1:12-31

 福音とは、グッド・ニュース、喜びの訪れという意味です。ギリシヤ語では、エゥアンゲリオンと言いますが、元来、戦争で勝ったという知らせであります。当時は戦争で勝つと負けるのでは天と地の違いでした。もし、兵士たちが戦争で負けたなら、町はのっとられ、市民はみんな奴隷になってしまいます。でも、勝ったならば、その国の領土と領民、すべてのものが自分たちのものになります。昔、マラトンの戦いというのがありました。アテネ軍とペルシア軍が戦いました。激戦のすえアテネ軍は勝利しました。この勝利の伝令となったエウクレスはひたすら走りつづけ、群衆に「われら勝てり」と告げて絶命しました。彼が急いだのには理由がありました。アテネではこのとき、ペルシアに対する抗戦派と降伏派とが争い、一触即発の大変な危機にありました。命をかけて伝えた「われら勝てり」の勝利の一報がなければ、収拾のつかない大混乱も予想されたわけです。マラソンの由来は、マラトンの古戦場からアテネ市まで、彼が走った距離が、約四十キロあったからであります。新約聖書には「福音」という言葉が、110回ほど使われていますが、それはどういう喜びの訪れなのでしょうか。

1.イエス・キリストの福音

 キリストの福音、あるいはイエス・キリストの福音は、新約聖書に10回近く用いられています。しかし、初代教会の頃は、わざわざキリストの福音と言わなくても、「福音」のひとことで十分通じました。福音と何かということが、短い文章で定義されていたようです。それはコリント15:3-5節です。「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです」。福音とはキリストの死と復活であります。使徒パウロはこの福音をたずさえて、小アジア、ヨーロッパへと伝道旅行しました。パウロだけではありません。ステパノの迫害によって散らされた人たちが、福音を伝え、あちこちに群れができたと思われます。しかし、マルコは「キリストの死と復活だけじゃないよ。それは、イエス・キリストに関する福音なんだ」と、バプテスマのヨハネが現れたところまでさかのぼって、イエス・キリストの物語を書きました。何のためでしょう。イエス様が召天して30年たち、十字架と復活だけが宣べ伝えられ、キリストの人格とかみわざが排除されていました。人々は、「救われるために、十架と復活を信じれば救われるんだ」と、オートマティカルな、安直な福音を持っていたのではないでしょうか。神学はとても重要ですが。一歩間違うと教義とか信条だけが強調され、キリストとの出会いがなくなります。マルチン・ルターはものすごい罪の呵責からキリストと出会い、信仰義認を発見しました。しかし、ルターの後継者たちは、こういう内容を唱えれば、正しい信仰を持てるんだと信仰箇条とか、教理問答書を作り上げました。するとどうでしょう、熱心な信仰が冷め、頭だけの信仰になったのです。これはジョン・ウェスレーの後継者も同じであります。キリストに出会った、あの、燃える心がなくなって、信条主義になったのです。

 マルコはペテロの通訳者として、各地を歩き回りました。ペテロはギリシヤ語があまり得意でなかったんでしょう。マルコは、ペテロの説教や体験談を聞いて、「十字架と復活にいたるまでの、キリストの物語を書きたい」と思ったのでしょう。そして、十字架と復活まで、キリストがどのように地上を歩まれたのか、そのことを知って、キリストに出会ってもらいたいと願った。だから、「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」と言う書き出しで、福音書を書いたのです。「イエス・キリストの福音のはじめ」とは、イエス・キリストが十字架にかかるまで、どのような生き方をされたかということであります。ですから、聖書神学者はマルコによる福音書を「詳細な導入を持った受難物語である」と、言っています。その目的は何でしょうか。あなたもキリストに出会ってほしいと言うことです。人が救われるためには、十字架の福音であるけれど、それと同時に生けるキリストに出会ってほしいということです。現代はあまりにもインスタントリーです。コインを入れれば、缶ジュースが出てきます。パソコンもアイコンを押せば、ぱっと開かれます。カードを使えば、何でも買うことができます。車の大半はオートマチック車です。最近は鍵を差し込まなくても、エンジンがかけられます。救いも「4つの法則」を用いて、5分間で語ることができます。「神、罪、キリスト、信仰、わかりましたか。それではお祈りいたしましょう」とインスタントリーになりかねません。福音は十字架と復活が中心ではありますが、それだけではないということです。そこにたどりつくために、キリストのとの出会いが必要だということです。

 ですから、マルコによる福音書は1章から、キリストとの出会いの記事が書かれています。16節以降を見ますと、シモンとシモンの兄弟アンデレが出会いました。シモンとは使徒ペテロのことであり、マルコ福音書の影の著者であります。17-20節「イエスは彼らに言われた。『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。』すると、すぐに、彼らは網を捨て置いて従った。また少し行かれると、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネをご覧になった。彼らも舟の中で網を繕っていた。すぐに、イエスがお呼びになった。すると彼らは父ゼベダイを雇い人たちといっしょに舟に残して、イエスについて行った」。いきなり、4人の人が、キリストと出会って、弟子になります。その出会い方はものすごく過激であります。「私について来なさい」と言われただけで、何もかも捨てて、イエス様に従ったのです。彼らは何を捨てたのでしょうか。網です。網は、魚を獲る道具、飯の種じゃないですか。網を捨てたら、どうやって生きていけるのでしょうか。シモン・ペテロは結婚していたので、家庭もありました。それから、ヤコブとヨハネは何を捨てたのでしょうか。父ゼベダイと雇い人、そして舟を捨てました。今で言うなら、親族と従業員、会社を捨ててイエス様に従ったということです。「わー」、本当に過激であります。彼らは、給料はいくらかとか、福利厚生はどうなのか、退職金は出るのかなどと聞いていません。

だけど、この箇所で言われていることは、キリストのとの出会いであります。シモン・ペテロ、アンデレ、ヤコブ、そしてヨハネの4人が最初のキリストの弟子であります。つまり、福音を信じるとは、こういうことなんだとマルコは言っているのです。キリストに出会ったら、キリストに何もかもゆだねて従うということが、福音を信じるということなのです。これは、「4つの法則」のインスタントリーな救いではありません。自分の生命を賭ける、自分の一生を賭ける必要があるのです。キリストを信じたらその職業をやめなければならない場合もある。キリストを信じたら家族との絆を捨てなければならないこともあるということなのです。イエス様は「自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分の命までも憎まない者はわたしの弟子になることはできません」(ルカ14:26)と言われました。あるたちは、イエス様を信じても弟子になろうとしません。彼らは、持ち物や財産、親族や肉親、そして自分の命が可愛いのです。手放したくないのです。だから、キリストを信じても、弟子になろうとしません。すると、その人たちどうなるのでしょうか。困難がやってきたとき、躓いて、結局はキリストからも離れます。なぜでしょう。そういうものを手放なかったからです。ですから、キリストを信じたらイコール、キリストの弟子になるしかないのです。「キリストは信じるけど、弟子にはなりたくない。俺の、私の人生をエンジョイしたい」。そういう人は、遅かれ、早かれ、躓いてしまうでしょう。ですから、イエス・キリストの福音とは、過激なんです。この過激な福音を信じた者だけが、過激なクリスチャンになれるのです。皆さん、中途半端なクリスチャンにならないで、すべてをささげてキリスト従う、過激なクリスチャンになりましょう。もし、あなたが最初からキリストの弟子として従うなら、決して躓くことはないでしょう。イエス様はあなたがささげたものよりも、はるかにすばらしいものを与えてくださいます。新しい仕事、新しい父母、新しい夫もしくは妻、新しい子供、新しい親族、新しい命をあなたに任せてくださいます。何が変わったのでしょうか。あなたは、それら一切の所有者ではなく、管理者になったのです。所有者は神様でありイエス様です。イエス様はすべてを捨てて、私に従って来なさいと招いておられます。これが、イエス・キリストの福音です。

2.神の国の福音

 マルコ福音書1:14には「ヨハネが捕えられて後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べて言われた」と書かれています。しかし、キングジェームス訳は“preaching the gospel of the kingdom of God,「神の国の福音を宣べ伝えた」と訳されています。また、マタイ4:23「御国の福音を宣べ伝え」と書いてあります。どちらにしてもそうですが、イエス様が伝えたメッセージの中心テーマは、神の国でありました。イエス様は「神の国が近づいたので、悔い改めよ」と言われたのです。つまり、この場合、福音とは神の国に入れることです。では、神の国とはどんなところですか?そのため、イエス様は、神の国の制度、神の国の法律、神の国の豊かさなどを人々に教えられました。でも、教えただけではありません。神の国はどういうものかをデモンストレーションされました。神の国には病気も死もなく、平和で、すばらしいところであることを人々に見せたのであります。「百聞は一見にしかず」ということわざがありますが、難しい話なんかよりも、証拠を見せてみろ!」という人たちもいたでしょう。だから、イエス様は十字架にかかって死なれる前に、町々、村々を歩いて、神の国がどういうものなのかを教え、またデモンストレーションしたのです。秋葉原の駅前でも、調理器具とか何か、デモンストレーションしています。テレビショッピングでも、化粧品とか健康食品をモンストレーションしています。「わー」とか、「オー」などと言いますが、だいたい、あそこに登場する人たちは、はじめからスマートで美しい人たちなんですね。使用前、使用後をちゃんと見せてほしいですね。それはともかく、イエス様は神の国がどんなところなのか、教えるだけではなく、人々に見せてあげました。

 それが、1章23節以降に書かれています。マルコ福音書の1つの特徴は「すると」とか「すぐに」という接続詞が多いことです。イエス様は休む間もなく、行動しています。1:23-26は、悪霊の追い出しです。汚れた霊につかれた人が会堂にいたんです。その人は、悪霊につかれていたにもかかわらず、会堂に来て神を礼拝していました。そして、だれひとり、悪霊を追い出すことができなかったのです。イエス様が来られるまで、悪霊は隠れていることができました。しかし、イエス様は、彼をしかって、「黙れ。この人から出て行け」と言われました。すると、その汚れた霊はその人をひきつけさせ、大声をあげて、その人から出て行きました。これはどういうことでしょうか。イエス様が神の国の力を持ってこられたので、悪霊は留まっていることができなかったのです。神の国とは、神の支配という意味であり、悪霊は追い出されるしかないのです。ハレルヤ!ある教会は、今でも、悪霊をのさばらせています。残念ながら、教会の中に悪霊が隠れています。長い間、悪霊をのさばらせています。なぜでしょう。それは、神の国の福音を語っていないからです。キリストの福音は、罪の赦しと救いを与えてくれます。これもすばらしいですね。でも、神の国の福音には、悪霊の追い出しが含まれています。その人に、神の国が力をもってやって来たら、悪霊は同居できないのです。

それから、イエス様は何をなさっておられるでしょうか。1:29「イエスは会堂を出るとすぐに、ヤコブとヨハネを連れて、シモンとアンデレの家にはいられた。ところが、シモンのしゅうとめが熱病で床に着いていたので、人々はさっそく彼女のことをイエスに知らせた。イエスは、彼女に近寄り、その手を取って起こされた。すると熱がひき、彼女は彼らをもてなした」。私はこの箇所が大好きです。イエス様は、今で言う礼拝メッセージを終えて、シモン・ペテロの家庭を訪問しました。ペテロの奥さんのお母さんが病気で寝込んでいました。彼女はもしかしたら、「うちの婿は、頭がおかしくなった。網も舟も捨てて、キリストに従うなんて無謀すぎる。これからの生活は一体どうなるんじゃ。ああ、耶蘇教はきらいじゃ!」と思っていたかもしれません。いや、そうでなかったかもしれません。はっきりわかりません。でも、イエス様がわざわざ、来られ、しゅうとめの手を取って起こされました。すると、熱がひき、元気になりました。どのくらい元気になったかと言うと、イエス様ご一行をもてなすくらいに元気になったのです。すごいですね、即座に癒されたのです。ルカ4章にも同じ記事がありますが、ルカはこう書いています。ルカ4:39「イエスがその枕もとに来て、熱をしかりつけられると、熱がひき、彼女はすぐに立ち上がって彼らをもてなし始めた」。ここでは、「熱をしかりつけた」と書いてあります。イエス様は「熱がひいて、病気が治りますように」と祈ってはいません。熱をしかりつけています。おそらく、「熱よ、去れ!」と言いながら、彼女の手を取ったのではないかと思います。これが神の国の福音です。しゅうとめも、人々も大喜びしました。マルコ1:27「人々はみな驚いて、互いに論じ合って言った。『これはどうだ。権威のある、新しい教えではないか。汚れた霊をさえ戒められる。すると従うのだ。』こうして、イエスの評判は、すぐに、ガリラヤ全地の至る所に広まった。」イエス様の評判は、その教えだけにあったのではありません、神の国をデモンストレーションしたからであります。人々は、「神の国には、病気さえも治す力があるんだ。いや、神の国には病気なんか存在しないんだ」ということを目で見て分かったのです。私たち、教会は神の国の福音を語るべきであります。

使徒パウロも、イエス様と同じことをしました。コリント2:4「そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行なわれたものではなく、御霊と御力の現われでした」。アーメン。使徒パウロは、Ⅰコリント1章において、「私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝える」と言いました。しかし、それと同時に、「御霊と御力の現われ」を用いたのです。「現われ」と言う言葉は、デモンストレーションであります。パウロは、十字架の福音を語りながら、同時に聖霊と力をデモンストレーションしたのであります。残念ながら、日本の教会の多くは、十字架の福音は語りますが、神の国の福音を語っていません。神の国の福音を語るなら、御霊と御力をデモンストレーションしなければなりません。しかし、アフリカ、インドネシア、アメリカ、中国、シンガポール、アルゼンチン、韓国…つまり、リバイバルが起こっている国では、神の国の福音を語り、御霊と御力をデモンストレーションしています。日本だけが、知的なキリスト教であります。知的な面ももちろん必要ですが、力もなければなりません。この間、ナイジェリアから、ビショップ・イダ・ホサという女性が来ました。新越谷でゴスペルの奉仕があり、私たちはその集会の前に賛美をささげました。その女性が40分くらいメッセージしたんですが、あまり知的ではありませんでした。説教の組み立てとか、みことばの解き明かしもなく、ただ声が大きいだけとしか感じませんでした。最初から最後まで、大声で叫んでいました。しかし、彼女には、日本人説教者がないものがありました。それは、御霊と御力であります。彼女にはパワーがありました。あれだったら、悪霊は出て行かざるを得ないし、病気も治るだろうなーと思いました。ゴスペルの、ノンクリスチャンのメンバーは躓いたんじゃないかなーと恐れました。でも、分かる人には、分かるだろうと、主にゆだねました。

 イエス様を信じる道は、大きく分けて2つの道があります。第一はイエス・キリストの福音であります。これは、聖書の福音を聞いて、キリストと出会い、イエス様を信じる道です。これは、知的な人が好む道であります。もう1つは、神の国の福音を聞いて、実際に体験して、イエス様を信じる道です。しかし、どちらの方が多いでしょうか?インドやインドネシアでは、後者の方で、90%の人たちが、実際に癒しや奇跡を体験して、イエス様を信じるそうです。また、みことばだけを聞いて、イエス様を信じる人は、たったの10%です。日本には、みことばを聞いて、イエス様を信じたという人が多いようです。でも、クリスチャンの総人口は、たった1%であります。何か、そういうところにも原因があるのではないでしょうか。日本は、新興宗教がさかんです。創価学会、天理教、立正佼成会、霊波の光、阿含宗…みんな癒しと奇跡があります。しかし、日本のキリスト教会は、「そういうものは、ご利益宗教だ!」とつっぱねました。しかし、癒しや奇跡を排除するということは、イエス・キリストと使徒パウロが語った、神の国の福音を否定することです。新興宗教の人たちは悪霊の力でやって、人々をまことの神から引き離します。私たちキリスト教はそれを、指をくわえて、眺めていて良いのでしょうか。私たちこそ、神の霊によって悪霊を追い出し、病を癒し、力あるわざを行うべきではないでしょうか。もちろん、キリストの十字架しか、救いはありません。でも、イエス様が宣べ伝えた福音は、もっと豊かなものであり、もっと力強いものでした。日本人も、外国の人も、根本的には変わりません。神の国を実際に見せてくれたら、信じるという人が多いのではないでしょうか。私たちはイエス・キリストの福音も語ります。と、同時に、神の国の福音も語り、神の国をもっとデモンストレーションすべきであります。神の国の救いは、天国に行くことだけではありません。肉体も癒され、心も癒され、経済的にも満たされ、家庭も回復されることであります。イエス様がヨハネ10章でこのように言われました。「わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます」。アーメン。

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2006年10月15日 (日)

聖霊のバプテスマ       マルコ1:1-11

 きょうから、しばらくマルコによる福音書から連続して学んでいきたいと思います。マルコの1章の前半は、バプテスマのヨハネが人々に洗礼を授け、またイエス様ご自身も洗礼受けた箇所です。きょうはこのところで、洗礼式があるのですから、神様のご計画としか言いようがありません。神様は一人の魂をも軽んじられないお方です。ですから、洗礼式の日と洗礼のメッセージが重なったわけであります。ハレルヤ!きょうは、洗礼にはどのような意味があるのか、3つのポイントでお話したいと思います。

1.罪の赦しのバプテスマ

 バプテスマ(洗礼)の第一の意味は、罪の赦しであります。4、5節「バプテスマのヨハネが荒野に現われて、罪が赦されるための悔い改めのバプテスマを説いたそこでユダヤ全国の人々とエルサレムの全住民が彼のところへ行き、自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた」。旧約聖書には、祭司たちが奉仕をするとき水によってからだをきよめたという記事があります。しかし、水によって罪がきよめられるという記事は1つもありません。人の罪をきよめるのは、きよい動物の血でありました。肉のいのちは血にあり、罪は血によってでしかあがなわれることはありません。水をかける、あるいは水に浸すということは、血によって罪がきよめられたということの象徴ではないかと思います。イザヤ書1:18「たとい、あなたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる」。緋色、つまり赤の色は、一度、染めたらなかなか落ちないそうです。人間の罪も水で洗って、きれいさっぱり忘れられるということはありません。なかなか落ちない、緋のような、紅のような罪をどのように取り除くことができるのでしょうか。それは逆説的ですが、キリストの血が注がれることによって、消え去るのです。キリストの血が罪あるあなたを覆い隠し、罪がどこにあるか判らなくなるのです。そして、神様から見たなら、あなたは雪のように、羊の毛のように潔白な人になることができるのです。これは人がキリストによって、義と認められることと同じであります。

 私たちはこのときに、罪を告白する、つまり罪を悔い改める必要があります。私は大川先生から勧められ、洗礼を受ける前の週、これまで犯した罪をレポート用紙に書き連ねました。行商屋のおばさんからソーセージを盗んだこと。兄の貯金箱を盗んで、それを山の上で壊して、お菓子を買ったこと。まあ、小さな罪から大きな罪まで、思い出す限り書きました。なんと、レポート用紙3枚にもなりました。それを、土曜日の夜、告白し、日曜日の朝、川原でその紙を燃やしました。でも、本当に罪がわかったのは、洗礼を受けてクリスチャンになった後であります。今は、そういうことを人には勧めていません。では、洗礼を受ける前にどんな罪を告白し、どんな罪を悔い改める必要があるのでしょうか?それは、自分が犯した個々の罪ではありません。あなたが神の前で罪人であることを告白することなんです。つまり、私は「部分的ではなく、丸ごと罪人です。頭からつまさきまで不完全な罪人です」ということを認めることなのです。では、悔い改めとはどういうことでしょうか。悔い改めは、ギリシヤ語ではメタノイアーと言います。この語には罪を懺悔するという意味はありません。そうではなく、方向転換、change of mindであります。思いを変える、心を変えるという意味であります。どんなふうに思いを変えるのでしょうか?「私は今までは神を信じない罪人でした。でも、これからは神を信じて従います」ということなのです。自分が罪人であることを認めず、神様を求めない人には、洗礼はさずけられません。どうでしょうか?きょう洗礼を受けられる方々にお聞きします。「あなたは罪人ですか?そして神様を必要としますか?」。アーメン。きょうの洗礼式は、洗濯で言うと、罪人の丸洗いです。丸洗いしたあと、しみや汚れがあるかもしれません。1つ1つの罪は、今後、洗礼を受けてからなさってください。それは根気のいる作業です。自分ひとりで神様の前に告白して解放されるものもありますが、ときには信頼のおける人に罪を告白しなければならないときもあります。特に悪習慣などのこびりついた罪は、どうしても人の力も必要です。でも、きょうは、丸洗いですから、ご安心ください。私はイエス・キリストの御名によって、あなたの罪は赦されましたと宣言します。あなたは今日限り、罪人から義人になるのです。なぜなら、キリストの血があなたの罪を洗い流し、キリストの血であなたの罪が覆われたからです。オーハッピイ・ディという歌がありますが、まさしく、イエス様があなたの罪を洗い流してくださったのです。

2.生まれ変わりのバプテスマ

 バプテスマ(洗礼)の第二の意味は、生まれ変わりであります。これはヨハネのバステスマにはないことです。これは、イエス・キリストの御名によるバプテスマであります。このことは、ローマ6章に書いてあります。パウロはローマ6:3で「キリストにつくバプテスマを受けた私たちは、みな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか」と言いました。キリストにつくバプテスマとはどういう意味でしょうか。それは、キリストにもぐりこみ、キリストと一体になるということです。ギリシヤ語のバプテゾーという動詞は「浸す」とか「浸る」という意味であります。ですから、バプテスト派の教会は、洗礼とは頭までどっぷっりと水に浸すことなんだと主張します。それも間違いではないと思います。しかし、本当の意味は、キリストの中にどっぷり入り込むということであります。どういう意味かと申しますと、キリストと一体化するということです。さらに、ローマ6:5-7をお読みいたします。「もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。死んでしまった者は、罪から解放されているのです。」

 つまりこういうことであります。私たちがキリストの中に入るとき、時間を越えて、キリストと同じ様なことが起こります。キリストが死なれたとき私たちも一緒に死んだのです。パウロはそれは私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられて死んだんだと言います。古い人とは罪の性質をもっている生まれながらの人であります。生まれながらの古い人は、改善不可能です。十字架に行って死ぬしかありません。だれでも、キリストにつくバプテスマを受けた人は、古い人に一度死んだのであります。それからキリストは3日目によみがえられました。そのとき、私たちもキリストと共によみがえったのです。罪のからだが滅び、あなたは新しい人になったのです。あなたは新しく生まれることによって、罪から解放されたのです。つまり、バプテスマとは、キリストの死と復活にあずかることなのです。ハレルヤ!キリスト教は生まれ変わりの宗教です。人は教育や修行によってだんだん良くなるのではありません。一度死んで、新たに生まれ変わるのです。森の石松は「馬鹿は死ななけりゃなおらない」と歌いました。私たちも一度、古い人に死ななければなりません。実際に死ぬと終わりですが、キリストにつくバプテスマは、それを可能にするのです。コリント5:17「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」。キリストによるバプテスマを受けた人は、前の人ではありません。一度、死んで、生まれ変わった存在なのです。

 私は高校生のとき自分が大嫌いでした。自分で自分を変えたいとも思いました。しかし、自分の意思で自分を変えるということは不可能です。でも、イエス・キリストはそれを可能にしました。キリストにつくバプテスマは、古いあなたを死なせ、新しいあなたに生まれ変わらせるのです。もう、以前のあなたではないのです。私たちがよく飲む1リットルの牛乳があります。パックの裏には、200度で2秒間殺菌したと書いてあります。どうやってやるのか分かりません。おそらく、あの牛乳は2秒間の間に一度死んで、新しくなったんでしょう。バプテスマも同じです。あなたも、一度、死んで、生まれ変わるのです。神学では、それを不連続の連続と言います。あなたの生命というか人生が一度、遮断されたのです。そして、あなたの新しい人生が新たに始まったのです。でも、これまで生きてきた古い記憶は残っています。別人になったわけではありません。では、何が変わったのでしょうか。あなたの性質が変わったのです。昔、アメリカで禁酒法というのがありました。「もう、酒を造っちゃいかん!」という法律ができ、お酒を造る工場とう工場が取り壊されました。しかし、人々は樽とかビンにお酒を入れて、床下や屋根裏に隠しておいたのです。それを空けてはちょびちょび飲んでいました。でも、酒蔵や酒の工場が壊されたので、酒がなくなるのは時間の問題でした。それと同じように、キリストにつくバプテスマを受けた人は、罪を生産する工場が壊されたのです。でも、酒瓶や樽が体の中に隠されています。聖書はそれを肉と呼んでいます。でも、すばらしいことが起きました。罪を生産する工場が壊されたのですから、あなたが変わるのは時間の問題です。あなたはきよめられるのです。栄光から栄光へと、キリストの似姿に変えられていくのです。

 でも、中には「私はイエス様は信じるけど、バプテスマ(洗礼)は受けないよ」という人がたまにいます。交通事故とか病気で余命いくばくもない人なら別ですが、命がまだある人はバプテスマを受けなければなりません。これは主の命令であり、恵みだからです。もし、イエス様を信じた人がバプテスマを受けなければどうなるでしょうか。そうすると、その人の古い人が、新しい人を飲み込んでしまうことになります。昔、ローマの時代、十字架の次に恐ろしい死刑の方法がありました。それは、死んだ人を生きた人に抱き合わせるという方法でした。ある人がだれかを殺したとします。死体を持ってきて犯罪人の顔と顔を向かい合わせて、ロープで縛ります。片方の体は死んで腐乱しています。片方はまだ生きています。さて、問題です。生きた人の命が、死んだ人の中に入って、死人を生かすでしょうか。それとも、死んだ人の死の毒が、生きている人の体に入って、生きた人を死なすでしょうか。もちろん、死の力が強いのです。犯罪人はやがて死ぬのです。イエス様を信じますと言いながら、バプテスマを受けない人にも同じことが起こります。バプテスマによって古い人が処理されていないので、古い人の罪の力が、その人を支配するのです。古い人にはそれだけの破壊力があります。だから、イエス様を信じた人は、洗礼を受けなければならないのです。あなたが、一度、死んだならば、罪のからだは滅び、罪の奴隷ではなくなるのです。

3.聖霊のバプテスマ

 マルコ1:8「私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、その方は、あなたがたに聖霊のバプテスマをお授けになります。」その方とはだれでしょうか?はい、イエス・キリストです。それでは、イエス・キリストはいつ人々に、聖霊のバプテスマをお授けになられたでしょうか。イエス様はこの地上におられたときは、聖霊のバプテスマを授けることができませんでした。弟子たちに、息を吹きかけ「聖霊を受けよ」と言いましたけど、その時ではありません。イエス様が人々に、聖霊のバプテスマを授けたのは、ご自身が天にお帰りになった後であります。使徒2:33「ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです」。そうです。天にお帰りになられたイエス様が父のみもとから、聖霊をこの地上にお注ぎになったのです。そのことが実際に起きたのは、2000年前のペンテコステの日であります。すばらしいことに、2000年前から、イエス様を信じる者には、聖霊のバプテスマが与えられるようになったのです。水のバプテスマも確かに必要です。でも、もっと受けなければならないのは、聖霊のバプテスマであります。バプテスト教会は、水のバプテスマをものすごく強調します。それも大切ですが、もっと大切なのは、聖霊のバプテスマであります。では、どのようにしたら、聖霊のバプテスマを受けられるのでしょうか。

 そのヒントは使徒19章にあります。パウロがエペソに来たとき教会の信者たちに尋ねました。使徒19:2-6「信じたとき、聖霊を受けましたか。」と尋ねると、彼らは、「いいえ、聖霊の与えられることは、聞きもしませんでした。」と答えた。「では、どんなバプテスマを受けたのですか。」と言うと、「ヨハネのバプテスマです。」と答えた。そこで、パウロは、「ヨハネは、自分のあとに来られるイエスを信じるように人々に告げて、悔い改めのバプテスマを授けたのです。」と言った。これを聞いたその人々は、主イエスの御名によってバプテスマを受けた。パウロが彼らの上に手を置いたとき、聖霊が彼らに臨まれ、彼らは異言を語ったり、預言をしたりした。ここには不思議な現象があります。エペソの人たちは、ヨハネのバプテスマしか受けていなかったのです。罪の赦しのバプテスマです。ペンテコステの日から、おそらく20年以上たっていたことでしょう。でも、彼らはヨハネのバプテスマしか受けていなかった。そのため、聖霊が与えられていなかったのです。でも、どうでしょうか。彼らが、主イエスの御名によってバプテスマを受けました。そして、パウロが手を置くと異言を語ったり、預言をしました。彼らに聖霊の賜物が現れたのです。これを分析するとどうなるでしょうか。エペソの人たちが主イエスの御名によってバプテスマを受けたときに、彼らは聖霊のバプテスマを受けたのです。彼らの内に聖霊が入ったのであります。これは、以前、私たちが学んだ、ギリシヤ語ではエン、英語ではINであります。内側に聖霊が宿ったのです。でも、こんど使徒パウロが按手したら、聖霊が上から臨んだのであります。これはギリシヤ語では、エピ、英語ではUPONであります。パウロが按手したので、彼らは聖霊に満たされ、その結果として、異言や預言を語ったのです。

 ペンテコステ派は、「異言や預言を伴うものが、聖霊を受けたしるし、すなわち聖霊のバプテスマである」と言います。しかし、私はそうは思いません。聖霊のバプテスマとは聖霊を内側にいただくことであり、ペンテコステの日、以来、だれにでも起こることである。つまり、主イエス・キリストの御名によってバプテスマを受けることには、聖霊を受けることが含まれているということです。ヨハネのバプテスマを受けただけでは、聖霊を受けることはできません。でも、イエス様が天にお帰りになり、ペンテコステの日、天から聖霊を地上に注がれました。それ以来、イエスの御名によって、バプテスマを受けるなら、罪のゆるしばかりか、付録として聖霊も一緒に受ける権利が与えられるということです。では、異言や預言は何なのでしょうか。それは、聖霊が上から臨み、聖霊に満たされたときに起こるものであります。一人で祈っていてそうなる人もいます。でも、一番、手っ取り早いのは、預言者や使徒的な人から按手してもらった時です。よくパウロは手を置いています。テモテにも霊的賜物が与えられるように手を置いています。でも、私は聖霊のバプテスマ、イコール、異言や預言とは考えません。そういう目に見えるしるしばかり求めると罠にはまります。だれでもイエス様を信じる者は、つまりイエスの御名によってバプテスマを受ける者は、内側に聖霊を受けることができるのです。これがイエス様が与えるといわれた、聖霊のバプテスマです。でも、みなさん、聖霊の満たしを経験し、御霊の賜物を求めることも忘れてはいけません。

 先月、私はインドネシアに行ってまいりました。そのとき、バプテスマの講義を受けたのちに、87名の人が実際に水のバプテスマを受けました。すごかったですね。それから昼ごはんを食べ、午後の集会がはじまりました。午後、何があったかと言いますと、聖霊の満たしを受け、御霊の賜物を現すときを持ったのです。エディ・レオがこのように言いました。「あなたがイエス・キリストを信じたとき、すでに心の中に聖霊を受けたのです。聖霊が私たちの心にすでにおられることを信じましょう。聖霊は私たちが完全に神のものとなったということの証印です。さらに、神様はあなたを聖霊で満たしたいと願っておられます。そのためには、2つのことが必要です。第一は満たしてくださるように明け渡すことです。第二は、信仰をもって心の蛇口を開くことです。」つまりこういうことなんです。イエス様を信じた人にはすでに聖霊が宿っています。聖霊はあふれたいのです。あなたが心の蛇口を開くなら、聖霊の賜物があふれてきます。インドネシアではそのとき95%以上の人に異言が出てくるそうです。すごいですね。

 しかし、きょうはバプテスマ、洗礼式ですから、聖霊の賜物まで行かなくても結構です。最後におさらいをいたしましょう。バプテスマにはどのような意味があったでしょうか。第一は、罪のゆるしです。バプテスマによって、あなたの罪が洗いきよめられるのです。でもそれは、キリストの血によってです。キリストの血があなたの罪を洗いきよめるのです。罪のゆるしを信仰によって受け取りましょう。第二は、古い人に死んで新しく生まれ変わることです。あなたは信仰によって、キリストの内にもぐりこむのです。もぐりこんだだけで、あなたはキリストの死とキリストの復活を経験します。キリスト・イエスにつくバプテスマを受ける者は、古い人は一度死んで、あなたは新しい存在になるのです。洗礼を受ける人に言います。「古い人はきょうでおさらばです。あなたは新しい存在になれるのです」。第三は、主イエスの御名によるバプテスマは、聖霊のバプテスマを受ける権利を得ます。洗礼を受けることによって、あなたは神様のものとなります。そのとき、神様はあなたに聖霊による証印を与えてくださいます。それはイコール、聖霊があなたの内にお住みになるということです。神様は天にもおられますが、同時にあなたの内にもおられるのです。ハレルヤ!聖霊があなたの内に住んでおられるなら、今度は聖霊に満たされ、聖霊の賜物が現れるように求めましょう。神様はあなたの目が見たこともない、耳が聞いたこともないようなすばらしい体験を備えておられます。

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2006年10月 8日 (日)

ひきこもり          ヨハネ14:18-21

 今、蒲郡の石原先生は「ひきこもり」の癒しに、教会あげて取り組んでいます。また、心理学者の服部雄一氏がクリスチャンになって、石原先生と日本のひきこもりのために力を合わせています。去る7月18,19日に、代々木において「ひきこもりセミナー」がありました。きょうは、石原先生や服部氏が提示してくれた「ひきこもり」を参考にして、お話したいと思います。最初に申し上げますが、ひきこもりは、教会のミニストリーの1部だと思います。それは、インナーヒーリング、心の癒しであると思います。この世の人たちのニーズを満たすことによって、福音宣教を進めていくことは、聖書が教える教会の原則であります。日本人の多くが、ひきこもり、あるいはひきこもりの可能性があるということをセミナーで学んできましたので、「ぜひ、礼拝で分かち合う必要があるなー」と感じました。

1.ひきこもりとは

 ひきこもりには2種類います。第一は物理的に家に何年間も閉じこもっている人です。こういう人は日本に100万人いるそうです。それから、不登校の若者が60万人います。第二のひきこもりは、潜在的ひきこもりです。これは社会に出ているひきこもりのことで、本音を隠しながら、やっとのことで生活している人たちです。服部氏に言わせると、こういう人が日本には6割から9割いるそうです。そうしますと、日本人のほとんどが、潜在的ひきこもりだと言うことになります。潜在的ひきこもりが、なんらかの原因で発病すると、ひきこもりになるのです。ひきこもりに共通する特徴というのがあります。どんな人がひきこもりなのでしょうか?

本音をいえない

自分を殺して相手に合わせる

人に要求するとか、質問できない。

感情がない、感情が麻痺している。

自分で決められない。

人間関係で緊張する

 実はこれらの特徴は、「共依存」と同じであります。共依存とひきこもりは、兄弟姉妹みたいなものであります。いや、中身はおんなじで表現が違うだけのことかもしれません。実は、日本人はみな共依存的な体質を持っています。目上の人になかなか本音を言えないでしょう。そして、自分を殺して相手に合わせる。人に要求するとか、質問できない。自分でなんとか解決しようとする。感情を出さないで、感情を押し殺す。他の人が気になるので自分で決められない。人間関係でとても緊張します。それに比べて、アメリカ人とか韓国の人は、お互いに、物事を言い合います。「私はそうは思わない」と、とことん議論します。喧嘩をした後に仲良くなるといいます。日本人は和を重んずるなどといいますが、本当は対決するのが怖いんです。一度、喧嘩したら、傷ついて、もうおしまいです。ですから、服部氏は「ひきこもりは、日本の文化病、国民病である」と言います。つまり、外国にはなく、日本人がかかりやすい病気だということです。

2.ひきこもりの原因

 ひきこもりの一番の原因となるものは親子関係であります。大体、親が本音を隠して、世間に合わせる潜在的ひきこもりです。これまで、世の中で必死に生きてきたわけです。そういう親が子供を育てるとき、やはり自分が育てられたように育てます。子供を頭から叱り付け、子供の言うことを聞かない。日本では親に逆らうということが悪であります。お互いにコミュニケーションを取るという体質がありません。親から子へと一方向であり、口答えは許されません。小さな子供が、親から叱り付けられた場合どうなるでしょうか。「ああ、本音を言ったらダメなんだ!」と理解します。言うことを聞けない子に対して、「うちの子じゃないから、出て行け」と言います。これは子供にとって、家から出たら生きていけないとは、死活問題です。お母さんが一番やるのが、無視です。子供が言うことをきかないと無視する。無視は子供にとっては一番恐ろしいことです。だから、仕方なく言うことを聞く。そして、親の機嫌を取る良い子になろうとします。石原先生は「大体3歳くらいのときに、既に心がひきこもっている」と言います。それだけではありません。本当の心がひっこんで、人に合わせる別人格で生きていくようになる。つまり、中の人格と表の人格と乖離した状態になります。ひきこもりは、中と表との二重人格だということです。表はものすごい良い子で120%の気配りの人です。しかし、中の人格は感情を押し殺し、感情のない子供がいます。疲れて、良い子を演じることができない、もうだめだ。そうして家にひきこもった人が、本物のひきこもりであります。

 服部氏は、ひきこもりは親子関係から生まれる病気であると言います。幼いときに本音を言ったら、怒鳴られ、家から出され、無視された。そのときのトラウマが、人間不信につながるのです。表現を変えると、親との絆がないために、ひきこもりになるのです。世の中の人が「ひきこもりは、甘えているんだ」と言います。しかし、ひきこもりは全く逆で、親に甘えたことがないのです。親から無条件で愛されたことがない。親から受け入れられた経験がない。本音を言ったら、ものすごく叱られた、あるいは無視された。一番最初に出会う親からそのような扱いを受けたら、「ああ、人間とは信用できないものなんだ」と心の底で受け取るでしょう。服部氏はひきこもりは親子関係から生まれると言います。日本の親子関係はどういうものでしょうか?

親の無視。

ちゃんと聞いていない。聞いているふりをしている。親自身、子供のとき、親から話しを聞いてもらっていない。親が子供の話を聞くという文化がなかった。

親が子供の本音をきらう。

「生意気言うな」「だれのお陰で飯くっているんだ」と言う。そうすると子供は本音をいえない。本音を言えば怒られる。だから、本音をひっこめる。

親が子供の話をきかない。

一方的な関係

 したがって、こういう家庭では、一方的な関係です。親と話し合う、つまり、子供が主張して、親が聞くという関係がない。親は「こうしなければいけない」と、一方的な指示を出して、子供を動かそうとする。

親子のコミュニケーションがない。

 ひきこもりの親が足腰立たないほど、子供を虐待するかと言うとそうではない。お母さんは弁当を作り、生活の世話をしてくれます。お父さんは一生懸命働き、お金を稼いできます。子供は大学も出られたし、海外旅行も行けた。「親はお前のために一生懸命やったんだ。何が不満なんだ」と言うでしょう。何が足りなかったんでしょうか。物質的なことは世話したかもしれませんが、親子のコミュニケーションがない。目と目を合わせて、話したことがない。

石原先生は、石原先生で、ひきこもりを「思考停止、ロボット化」と分析しています。今の日本のオヤジは、「俺たちは子供時代、貧乏な生活をして、耐えて来たんだ。勉強したくても勉強できなかったんだ。お前も我慢しろ!俺たちは耐え抜いてきたんだ。テメーたちも我慢しろ!」こういう気持ちで子育をしている。そして、日本にはそれを支える家長制度がある。家長制度では女と子供は、亭主に逆らってはいけない。逆らったら天皇に逆らうことになる。こういうシステムが支えているので、思考停止による感情のない人間が、どんどん生まれ育って、それが会社に配分されたり、公務員もそうなっている。教会に行っても、牧師が「俺たちは信徒のときめちゃくちゃされたけど、我慢してやってきたんだ。テメーらも我慢しろよ」と言う。では、どのようにひきこもりができるのでしょうか。

幼児期

親になつかず、偽りの自分を作る。0歳、1歳、2歳から人間不信が始まっている。だが、親を騙す。親を騙して、ウソの人間関係を始める。

成長期

 この人が成長期(幼稚園、小学校)に入ると、人に合わせる表の自分と本音を隠した自分の二重人格の構造が発達する。そして本当の自分を隠す。嫌われることを一番恐れている。そして、自分を殺して他人に合わせる。物事を決められない。そして、集団行動を取る。

成人してから

成人してからどういう感情が表れるか。人間不信、人間関係の緊張、対人恐怖、虚無感と孤独感、自分の意思で働けない、恋愛できない、人に合わせるだけの人生。そして、最終的には3段階の人間ができる。第一段階は自殺。自殺したい人は、鬱があったりするので、まだ感情がマヒしていない。「死にたい」という人は、ひきこもりの中ではとても健康的で、治療可能である。第二段階はロボット化。ロボット化すると、感情がマヒする。顔を見たら、無表情人間。明るい表情で仮面をつけているか、それとも暗いか、とにかくのっぺらぼうと言う感じ。これは、ロボット人間になっている。大体、トヨタの社員なんか多い。それから公務員も多い。第三段階は、社会的ひきこもり。社会的に関係を切ってしまった状態。部屋に閉じこもって、もう人間と付き合うのをやめた人間。完璧に努力もやめてしまったと言う状態。これは、社会との適用を諦めた人たちである。

3.ひきこもりの癒し

ひきこもりを強制的に治す名古屋の怖いおばさんがいます。「お前はなまけ者だからそうなったんだ」と強制的に部屋から出し、集団生活をさせます。私もテレビで見たことがありますが、ひきこもりがあのように社会復帰すれば良いんだと考えています。ところが、それは何の問題の解決にもなっていない。なぜなら、ひきこもりが、また、社会にあわせる人格をがんばって演じるようになるだけなんです。そこでも言っていましたが、ひきこもりの青年が、あるときから時間がとまっているといいました。つまり、子供のときに本心をひっこめてしまった。表人格で生きてきたけど、疲れてやめちゃった。表がダメになって、中の人格が出てくる。しかし、その人格は子供なんです。その人にとっては、ずーっと時間が止まった状態だったわけです。石原先生や服部氏がおっしゃっていますが、中の人格が2歳か3歳の場合は言葉もしゃべれない。本当に感情が麻痺した状態。日本にはボケがいるそうですが、欧米にはボケがいないそうです。アルツハイマーという脳の病気があるが、ボケ老人がいない。ボケは日本人独特のもの。じゃあ、なぜボケ老人になるのか。それは、中人格をひっこませて、表人格で一生懸命生きてきた。会社をやめて退職すると、もう人に気を使う必要もなくなる。表人格が壊れて、中人格が出てくる。石原先生に言わせますと、南京袋にくるまれたドローっと状態で出てくる。だから、感情もない子供の状態。それが、ボケ老人だということです。ボケ老人を作らないためには、一生、気を使うところで働かせておけば良いということです。しかし、それでは癒しになりません。どうしたらひきこもりが癒されるのでしょうか。一般に考えられているように、ひきこもりは甘えの病気ではありません。むしろ逆で、親に甘えたことがない、本音を言ったことがないためになった病気だということです。また、癒しは、単に社会復帰すれば良いというものではなく、心が癒さればなりません。

 服部氏は野良猫のたとえを用います。ひきこもりと野良猫は大変良く似ています。ひきこもりは、人間社会の野良猫です。野良猫はどんな特徴を持っているでしょうか?

人間を警戒しています。

人間がそばにいると緊張します。

人間とは親しくなれない。

人間と一緒に暮らせない。

 その点、飼い猫は安心しています。「ゴロニャー」とか言って、ひざに乗ってきます。飼い猫は人間と一緒にいても疲れないんです。ひきこもりの気持ちを理解するのが野良猫が一番です。ですから、ひきこもりの治療は、野良猫を飼い猫にするということです。ところが、現実のひきこもりは、飼い猫のふりをしているので始末が悪い。だから、人間関係で緊張し、疲れるのです。では、どうやって具体的にひきこもりを治すのか。これは石原先生や服部氏が実際にやっていますので、私たちはその秘訣だけを学びたいと思います。彼らは個人的なカウンセリングで治療しています。そういう場合は、患者とカウンセラーというふうになります。私などは、ここいらへんで、躓いてしまいます。患者とカウンセラーと、一線を引くのは、カウンセラーを守るためです。なぜなら、こういう人たちを相手にすると、プライベートな時間が全部取られてしまいます。ですから、服部氏は始めに契約を結んでから、治療にかかります。夜中に電話をかけないとか、物を壊さない。カウンセリングルーム以外では個人的に会わない。お金もちゃんと取ります。ここまで徹底しないと安全な形でできないわけです。しかし、私たち素人は、治療の原則を知ったら、潜在的にひきこもりに対して、手助けになることができます。家に物理的にひきこもっている人ではなく、社会的になんとか頑張って生きているけど、実際は辛い。そういう人に、助けの手を伸ばすことができるかもしれません。

 それでは治療、私たちでいう癒しの中心ポイントは何なのでしょうか。本当のひきこもりも、潜在的ひきこもりも、中の人格を隠して生きています。表面では問題なさそうに生きていますが、人間関係で疲れています。問題は、表の人格ではなく、隠れている中の人格です。まず、こちらが無条件に愛して、受け入れるということです。すると、その人はだんだん、防具をはずして、本音の部分を出してくれます。表現は悪いんですが、野良猫を飼い猫にする。でも、彼らはとても敏感です。人工的な愛とか、見かけだけの愛はすぐ見破られます。ですから、私たちは父なる神様の愛をいただいて、父の愛で接していくしかないのです。彼らは自分の両親にはすっかり心を閉ざしています。しかし、本能的に、本当の自分を受け入れてくれる人、自分のことを理解してくれる人はいないものかと探しているのです。ですから、私たちがその人の親代わりになるしかありません。カウンセラーは商売として、プロとして、それをしているので、一時的に親になり治療を与えることができます。でも、私たちはプロではありませんが、父の心を持っています。駆け引きとか、その人を操作するのではなく、アガペーの愛で接するしかありません。服部氏や石原先生はそのことを実行しています。そして、隠れている中人格を探し当てます。これは、地下室の瓦礫の下で埋もれている人を発見するレスキュー部隊のような仕事です。たぶん、その人は、こちらを試すんでしょうね。本当に、この人は私を愛してくれるのか。単なる興味本位なのか、お金のためか、いいかっこしーか…、試すんでしょうね。だから、普通の愛だったら、途中で、切れて、「いい加減にしろよなー。こんなにやってあげているのに」となるかもしれません。だから、父なる神の愛が必要です。服部氏はこう言います。ひきこもりの治療のできる人は、大学とか特別な訓練を受けていなくても良い。人を真に愛することのできる人ならだれでもできると言っておりました。

 私も潜在的なひきこもりだったかもしれません。私は両親と全く、きずなを持っていませんでした。親の世話で生きてきたとは思っていませんでした。父は子供たちに、立身出世を説いたわりには、自分の人生に挫折していました。酒を飲んでは愚痴と恨み言を吐いていました。母はそんな父を憎み、子供がいるので離婚もできませんでした。母は父の代わりに、長男や長女を信頼していましたので、私は自分の母だとは思いませんでした。いつも不平不満を言っていたので、「お前は、一番わがままだ。本当に情げねなー」といわれました。しかし、私の生涯を振り返るときに、友達がいました。友達の家によく遊びに行き、ハード・ロックとか井上洋水を聴きました。ジャン友もいました。会社に入っても、私を助けてくれた先輩が何人もいます。家では「お前は不器用だ!」といわれましたが、会社では「鈴木は器用だ!」とよく褒められました。しかし、一番の癒しは主イエス・キリストと出会ったことです。ヨハネ14:18「私は、あなたがたを捨てて孤児にはしません」と言われました。また、父なる神は、私を母の胎で組み立てられ、「あなたは私の目には高価で尊い。私はあなたを愛している」と言ってくださいました。また、イザヤ49:15,16「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ。あなたの城壁は、いつもわたしの前にある」と言われました。

 でも、皆さん、私たちがさらに癒されるためには、手で触れる人間も必要なのです。服部氏は「ひきこもりが社会に復帰するためには、神の価値観をもった共同体が必要である」と言っています。セルは互いに愛し合い、互いに赦し合い、互いに祈り合う小グループです。セルには子供がおり、若者がおり、父がおります。もし、私たちが父の愛によって、そういう人たちを受け入れ、ハグしていったらどうでしょうか。癒しのわざが進むと思います。また、神様の御声だけではなく、人間の声で「あなたを愛していますよ。あなたは赦されましたよ。あなたは価値がありますよ」と聞く必要があります。私自身はまだここいら辺が足りないと思います。人間関係で病気になった場合は、やはり人間関係で治すしかありません。日本人は告白することがとても苦手です。しかし、神様も、イエス様も、「愛しているよ。愛しているよ」と数限りなく人間に告白しています。だから、日本人はそうじゃないよとは言えません。私たちは日本という文化の中で生まれ、育ってきたので、全く別人になることはできないかもしれません。しかし、日本の文化を乗り越えた、神の国のライフスタイルを送ることは可能です。私たちはありのままを神様から受け入れられ、愛されています。神様に心を開いて癒されました。今度は、隣人にも心を開いていきたいと思います。それは冒険です。また傷つけられるかもしれません。でも、あなたの隣人を愛しなさいと聖書は命じています。神様の愛と命令こそが、自らのひきこもりから脱却する道ではないでしょうか。自ら神の愛と癒しを体験し、隣人に分かち合う者となりたいと思います。

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2006年10月 1日 (日)

教会の本質      ヨハネ10:1-16

 きょうは、教会の本質について語りたいと思います。ある教会は海外からいろんなプログラムを持ってきて、2,3年ごとに変えています。「先生、またどこかへ行って、新しいもの仕入れてきたねー。しかたがないから、ちょっとだけ付き合うか?」しかし、たくさんのプログラムを次から次と持ち込んで、しまいには、混乱してしまいます。教会はプログラムでも、方策でもありません。それは、イエス様のライフスタイルです。イエス様のライフスタイルこそ、教会の本質であります。では、教会の本質とは何でしょうか?それは、上・中・外であります。英語では、UP-IN-OUTであります。上とは神様との関係です。中とは兄弟姉妹との関係、そして外は世の人たちとの関係であります。イエス様のライフスタイルはこの上・中・外のバランスがとてもよく取れていました。もし、私たちがイエス様のライフスタイルを真似るならば、イエス様の品性が後から備わっていきます。みなさんは、イエス様のようになりたいですか?もし、そうであれば、きょうのメッセージはあなたのためのものです。

1.UP-上

 上とは父なる神様との関係であります。イエス様は父なる神様ととっても親しい関係を持っておられました。ヨハネ10:14,15「わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同様です。また、わたしは羊のためにわたしのいのちを捨てます」。聖書で「知る」という意味は、頭で知るという意味ではありません。ヘブル語で「知る」は「ヤーダー」と言います。創世記で「アダムはその妻を知った。そして男の子を生んだ」という言い方が何度か出てきます。もともと「知る」とは、夫婦の肉体関係を意味します。「ヤーダー」と言いたくなります。ですから、「知る」とは、親密な関係を持つという意味であります。父なる神様はイエス様と親密な関係を持ち、イエス様も父なる神様と親密な関係を持っておられました。14節には「わたしが父を知っているのと同様です」と書いてあります。これは、「イエス様と父なる神様が持っていた親密な関係を、私たちも同様に持てる」ということであります。

 聖書では「アバ、父よ」と呼ぶ霊を与えたと約束しています。「アバ」とは、子供がお父さんを呼ぶときに使う言葉で、「パパ」「父さん」「ダディ」という親しい呼び名です。でも、私たちは神様を「お父さん」と呼ぶのをためらいます。なぜなら、地上の父があまりよくなかったからです。「イエス様!」とか「主よ!」、あるいは「神様」と呼ぶことができるかもしれません。でも、「天のお父様」と心から親しみをこめて呼べない。だから、長い間、時間をかけて祈ることができない。求める祈り、とりなしの祈りはできるかもしれませんが、親しい交わりのときではありません。祈りが、お勤めとか、義務になってはいないでしょうか。もし、家内に「私はあなたと30分話すことにしました」と言って、一生懸命、話します。30分後、汗を拭きながら「あー、あなたと30分話すことができた。やったー」と言ったらどうでしょう。「私と話すのがそんなに苦痛なの」と顔をひっぱたかれるかもしれません。でも、神様との祈りでは、同じことをしているのです。祈りが苦痛であり、格闘であり、義務なのです。その原因は何でしょう。それは、地上のお父さんとの関係がまずかったからであります。みなさんのお父さんはどんな人だったでしょうか。仕事でほとんど家にいなかったので存在感がない。いつも頭ごなしに物を言って、こちらの話を聞いてくれなかった。とっても無口で弱々しかった。酒とギャンブルに明け暮れ、いい加減な父親だった。いつも不機嫌で怒っていた。業績志向でいつもあおってばかりいた。まあ、完全な父親はいません。「天のお父様」と呼ぶとき、「ああー、もう一人いたなー」と、悪いイメージが浮かんでくるのです。

マラキ5:5,6「見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」多くの人たちが、呪いの中にいます。父との関係が悪いために、上司や牧師との関係が悪い。伴侶や子供との関係も悪い。自分がだれか分からない。クリスチャンになっても、神様と親しい関係を持てない。これはみんな呪いです。その解決法は、地上のお父さんを赦し、神が与えた父として敬うことです。そうするなら、あなたは解放されます。アバラブ教会は、父の愛教会という意味ですが、このことを16年前に発見してから、急激に成長しました。ですから、イエス様を信じた直後、解放のキャンプに出て、最初に「父の愛」を回復する祈りをします。私は今まで、神様は全知全能であることを神学的に知っていました。聖書からも説明をすることができました。しかし、神様が本当に「親しいお父さん」であるということを体験的に知ったのは、ここ2,3年であります。

 神様がお父さんであることを知ったならば、もっとその関係を深めていくことが大切です。そのために、聖書を毎日読み、個人的に礼拝するときを持たなければなりません。これをディボーションとか静思の時(Quiet Time)と呼んでいます。私はこれまで人に教えるために聖書を読んでいました。早天祈祷会も15年くらいがんばって続けました。しかし、心から楽しいと思ったことはありません。でも、自分のために聖書を読み、教えをいただき、それを守り行う。正直、守り行うというところが、お留守でした。でも、最近、エディ・レオ師が神様と24時間親しく交わる方法を教えてくれました。第一は問題や誘惑を受けたとき、主を礼拝するということです。男性は1日に240回性的な誘惑を受けますので、そのとき、「ハレルヤ!主をあがめます」と祈ることができます。問題があるときは、神様に祈るチャンスが与えられたと感謝しましょう。もう1つは、毎日、主の御目のもとで生活するということです。イエス様は朝夕の祈りだけではなく、四六時中、父なる神様と交わっていました。父なる神様に聞き従っていました。神様の臨在とは、神様の御目という意味だそうです。神様の御目のもとで眠り、神様の御目のもとで活動する。父は「源」という意味がありますから、すべてのことにおいて祝福されることは間違いなしです。父なる神と親しい関係を持つ、これが私たちが行う、第一のことであります。

2.IN-内

 内とは隣人、兄弟姉妹との関係であります。私たちは隣人を天の父の愛で愛すべきであります。教会は神の共同体、コミュニティであります。「私は一人で神様を信じているので、教会に行く必要はない」と言う人がたまにいらっしゃいますが、それでは信仰生活は成り立ちません。神様はご自分のかたちに人を似せて造られたと創世記にあります。神様のかたちとは何でしょうか?神様は父・子・聖霊がまるで1つのように愛し合っておられます。そのかたちで、愛し合うように人を創造されたのです。ところが、人間に罪が入ってから、共同体も壊れてしまいました。カインの例からも分かりますように、人間関係よりも業績に重点を置くので、友達というよりはみんなライバルになってしまいます。人間の心は、争いと憎しみと敵対心でいっぱいです。しかし、幸いなことに、イエス様は私たちが持っている敵意を十字架に付けてくださいました。そして、私たちが新しく生まれたときに、兄弟姉妹を愛する愛も賜ったのであります。ヨハネ4:7「愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています」。神様から生まれたものは、お互いを愛するようになるのです。なぜなら、神様が愛なので、私たちも互いに愛し合うようになるのです。

 でも、現実はどうでしょうか?聖書ではそうは言っているけど、なかなか愛し合うことができません。もう、怖いんです。「また拒絶されるかなー」「また裏切られるかなー」「また傷つけ合うのかなー」という過去のトラウマがあります。教会で「お互いに愛し合いましょう」といわれると、私たちはもう1つの自分を演じなければなりません。教会に来るときは、教会の仮面をかぶるんです。「兄弟!元気ですか?」「元気ですよ。ハレルヤ!」。教会では恵まれた顔をしていますが、家に帰るとその分、ぐったりします。「お交わりしましょう」と言われても、本音で交わっていません。私たちが本音で交わることができるためには、まず、心の中が癒され、解放されなければなりません。イエス様は私たちの罪のために十字架につけられましたがそれだけではありません。イザヤ書53章に、主は私たちの悲しみや恥や痛みも背負ったと書いてあります。イエス様は十字架にかけられたとき、「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになられたのですか!」と叫ばれました。そのとき、イエス様は拒絶を経験されたのです。これまで一瞬たりとも、御父と離れたことはありませんでした。しかし、全人類の罪を背負ったために、神様から捨てられたのです。だから、イエス様はあなたが人々から受けた拒絶を良くご存知であり、またそれを癒してくださいます。ですから、解放のキャンプでは、「父の愛の回復」の後、「十字架による心の傷の癒し」を行います。荒療治ですが、このときかなりの傷が癒されます。

 しかし、私たちが本当に互いに愛し合うことを身につけるためには、実践の場が必要です。それが教会にあるセルグループなんです。セルはお互いに責任をもっています。「何を言っても受け入れる。互いに徳を高め合う。秘密厳守」。最低このような条件が必要です。私たちが愛し合うとき、自分の愛ではダメなんです。神様からの愛をいつも、いただかないと、とても無理であります。イエス様はヨハネ15:19で「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい」と言われました。イエス様は弟子たちをご自分が持っている神の愛で愛していたのでしょうか。「ああ、イエス様は神様だから、あんな弟子たちも愛することができたんだ」。そうではありません。イエス様は神としての愛を用いませんでした。では、イエス様はご自身の人間的な愛を用いていたのでしょうか。人間の愛で愛したら、限界があります。3べんも自分を知らないといったペテロを愛することができるでしょうか。イエス様はご自分の神の愛を用いたのでもなく、人間の愛を用いたのでもありません。では、イエス様はどのように愛されたのでしょうか。「父が私を愛されたように、私もあなた方を愛しました」。イエス様は、父の愛を用いたのです。それは私たちの模範になるためです。これは私たちにとって、大きな励ましになります。イエス様は、「私の愛にとどまりなさい」と言われました。私たちも、父の愛によって互いに愛し合う必要があります。父の愛は、無条件です。父の愛には、限界はありません。

私は今回、アバラブ教会に行って、もう一回り大きな父の愛をいただいてきました。古い53歳の自分に一度、死んで、神様と隣人を愛することに、残りの生涯をささげる祈りをしました。愛するとは、具体的には、時間を喜んでささげることでもあります。神様との関係、隣人との関係のために、時間をささげるということです。みなさん、教会には霊的な父が必要です。あなたも父なる神様から愛をいただいて、霊的な父になることができます。霊的な父になることの一番の秘訣は、イエス様のライフスタイルを真似ることです。イエス様のキャラクターを真似るとフラストレーションがたまります。人の罪を7の70倍赦すなんていうことは不可能です。でも、イエス様が父なる神様から常に愛をいただいて、愛されたように隣人を愛する。イエス様にいつもとどまって、その力をいただくのです。あなたが成長して、霊的な父になるならば、あなたの周りに愛の共同体が作られていきます。あなたが神様の愛によって、人々を癒し、人々を生かすことができるのです。あなたは恵みによって、愛の器になることができます。アーメン。

3.OUT-外

 外とは、この世の人々に対する働きかけであります。神様は、人間をご自身のかたちに創造されてから、「生めよ。増えよ。地を満たせ」(創世記1:28)と命じられました。それは、神のかたちを増殖させよと言う意味であります。テモテ2:4には「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます」と書いてあります。イエス様がこの地上を去るとき、マタイ28章でこのようにお命じになられました。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい」。これこそが、教会に与えられた最も大切な使命であります。一口にいって、それは宣教、ミッションであります。教会が宣教をおろそかにするならば、とたんに命を失います。宣教こそは、教会の血であります。教会に新しい人が救われて入ると、新しい血液がキリストのからだに流れるのです。

 当教会も含め、日本の教会に一番、弱いのは「宣教の情熱」であります。2005年度の日本プロテスタント教会調査を少しだけ紹介します。日本の総人口1億2,689万に対して、クリスチャンが、555,742人であります。総人口の0.4%であります。プロテスタント教会が7,800あるのですが、1年間の受洗者数は8,844人です。1教会平均1名ということになります。各県別の受洗者数で福井県の教会は年間4名です。福井県に教会がいくつあるか分かりませんが、全部の教会あわせて、1年間で4名しか救われなかった。ガビーンであります。インドネシアのアバラブ教会では1年間で3,000名もの受洗者が与えられています。この間、洗礼式を見ましたが、プールで87名洗礼を受けました。向こうは桁が2桁くらい違います。リバイバルが起こっているから、と言ったらそれまでですが、この日本は何とかならないのでしょうか。私はインドネシアで悔い改めました。もう、「日本は難しい」という否定的な言葉は使わないようにしようと決心しました。日本の教会の上には失望落胆の霊が強烈にのしかかっているからです。インドネシアには日本人一人だったので、「私は日本人の代表できたんだ。私はアバラブ教会のリバイバルを持ち帰る。私と亀有教会を通して、日本にリバイバルの突破口を空けるんだ」と決意してきました。

 では、宣教の情熱はどこからやってくるのでしょうか。これはエディも説明していますが、IN-内からはやって来ないということです。つまり、いくら兄弟姉妹が愛し合って、すばらしい共同体を作ったとしても、宣教の情熱は湧いて来ないということです。では、どこから、失われた魂への愛と情熱がやってくるのか。それはUP-上からです。私たちが父なる神様と出会うときに、父なる神様のハートが伝わってきます。ペテロ3:9「かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです」。神様は放蕩息子の帰りを待ち望んだ父のように、いと長く忍耐して待っておられるのです。私たちは父なる神の思いを思いとしなればなりません。教会の中で仲良く交わっているのも良いですが、失われた人たちに対して、もっと福音を語らなくてはなりません。そのためには神様と、イエス様と出会うことであります。ヨハネ4章にサマリヤの女性が出てきます。彼女はキリストと出会いました。すると、水がめをそこにおいて、町へ出て行って「私のことを言い当てた方がいます。あの方がキリストかも」と告げました。彼女は何か特別なトレーニングも受けていません。もちろん、神学校に行ったわけでもありません。洗礼も受けていませんでした。なのに、神様を経験したので、証をしたのです。伝道と言うと、なんだか緊張します。でも、体験したことを証するんだったらだれでもできます。特に女性は、おしゃべりの賜物があります。福音をゴシップすれば良いのです。ハレルヤ!

 初代教会はペンテコステ、上から聖霊を受けました。彼らは神様と出会ったのです。するとどうなったでしょうか。彼らは愛が増し加わり、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じ手、分配しました。「そして、毎日、心を1つにして集まり、家でパンを裂き、喜びと真心を持って食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった」(使徒2:45-47)。毎日、救われる人が加えられていきました。ある教会では、年ごとに加えられる。クリスマスに加えられる。ああ、それではさびしいですね。問題は、UP-上であります。使徒4章では迫害が起きました。彼らは「みことばを大胆に語らせてください。イエスの御名によって、しるしと不思議を行わせてください」と祈りました。すると、その場所が震い動き、一同は聖霊に満たされました。再び彼らは外に向かって宣教に行ったのであります。力の源はUP-上にあります。イエス様のライフスタイルはどうだったでしょうか。イエス様は父なる神様と親しく交わりました。そして、弟子たちと寝食を共にしながら彼らを訓練しました。さらに、町や村に出て福音を宣べ伝え、さまざまな病気を癒し、悪霊を追い出されました。イエス様は私のように、いつもデスクに座っていなかったのです。イエス様が出て行ったので、いろんな人と出会えたのです。ナインの村に入ろうとしたとき、棺を担いだ行列と出くわしました。イエス様はやもめの一人息子を生き返らせてあげました。イエス様はサマリヤの女、取税人ザアカイ、悪霊を宿したゲラサ人と出会われました。じっと、部屋の中でいたのでは彼らと会うことはなかったのです。これは私に対しても大きなチャレンジです。イエス様のようになりたかったなら、イエス様のライフスタイルを真似しなければなりません。おおー、私はこれを語るならば、自分の首を絞めることになります。

 でも、みなさん。答えがあります。イエス様は父なる神様と親しく交わっていました。イエス様は自分の思いで行動したのではありません。また、イエス様はご自分の力でミニストリーをしたのではありません。イエス様は父なる神様から、愛と力と導きを得て、毎日、歩まれたのです。そうです。一番の肝心なところは、父なる神様と親しく交わることです。きっとそこから、隣人への愛とこの世の人に対するミッションが与えられます。主がその力を与えてくださいます。私たちは恐れないで、ただ主に従えば良いのです。きっと、すばらしいことが起こります

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