« 2006年8月 | トップページ | 2006年10月 »

2006年9月24日 (日)

ヘブルの祝福       ヘブル13:18-25 

インドネシアで、8日間のうち、3種類の集会がありました。最初は解放のキャンプです。100名以上がキャンパーで、他は助ける人です。奥には外の教会から来た牧師が観察しています。エディ・レオ師がエネルギッシュに語っていました。集会後にこのように前に出て祈ります。悪霊もたくさん出てきます。一番多かったのは、性的罪によるものでした。日本から来たのは私一人で、ロシアから4人来ていました。最後に洗礼式を行いました。87名が洗礼をうけました。第二の集会は牧師やリーダーのための学びで、800名くらい集まっていました。各島々から20の教会が集まり、アバラブ教会のエッセンスを学びました。牧師が来られるように、飛行機代を半分補助し、その額が100万円だそうです。最後は、1万人入る大会場で、インドネシアを祝福する大会を開きました。3日間連続で、夜は癒しの大集会でした。もてなしも大変すばらしく、VIP待遇でした。お祈りありがとうございました。私自身、多くの変えるべき点を神様から示されましたので、残りの人生を神様と人々のためにささげたいと思います。そして、私と当教会が日本にリバイバルをもたらす突破口となりたいと思います。アーメン。

メッセージにはいります。いよいよヘブル人への手紙の最後になりました。最後ですから、まとめのつもりで、最も大切なことを繰り返して述べたいと思います。

1.永遠の契約

 13:20「永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエスを死者の中から導き出された平和の神が」。ヘブル人への手紙の中心は、「神との永遠の契約」であります。はじめの契約は、神様とイスラエルの民がシナイ山で契約を結びました。契約には1つだけ条件がありました。それは十戒を中心とする律法を守り行うことでした。民たちは「私たちは守り行います」と約束しました。ところが、彼らはエジプトの神を慕って、偶像礼拝を行いました。安息日も破りました。不平不満、つぶやき、むさぼり、不信仰の罪も犯しました。彼らが罪を犯すたびごとに、動物のいけにえがささげられました。また、年に1回は、イスラエルの民をあがなうために、大祭司が血を携えて至聖所に入りました。残念ながら、イスラエルの民は契約の内を歩むことができませんでした。律法をことごとく破り、神に対する不服従の歴史でした。つまり、はじめの契約には欠点があったのです。それは、神様と人間が直接、契約を交わしたからです。人間は10個の契約を与えられたら、10個、全部破ってしまう愚かな存在です。そこで神様は新しい契約を結ぶことを考えました。神様は、キリストを契約の仲介者に立てて、キリストと契約を結びました。私たちはどこにいたのでしょう。そうです。キリストは教会のかしらであり、私たちはその体です。イエス様が私たちの代わりに契約を結んでくださったのです。そのとき私たちはキリストのうちにいたのです。キリストが私たちの代わりに契約を結んでくださったのです。私たちだったら失敗しますが、イエス・キリストは失敗しません。ハレルヤ!

そして、イエス様は契約の違反を支払うために、ご自分の血を流して下さいました。これまでは動物の血が罪の代価として支払われましたが、それには限界がありました。ヘブル9章から10章まで、「ただ一度だけ」「1つの永遠のいけにえ」と繰り返し述べられています。そうです。イエス様は1回で、ご自分の血で全人類の罪をあがない、神と永遠の契約を結ばれたのです。その結果、私たちの心がきよめられ、神様に近づくことができるようになりました。すべての汚れ、罪責感、罪悪感がきよめられ、「アバ、父よ」と近づくことができるのです。また、はじめの契約は石の板に律法を書き記されていました。でも、新しい契約は私たちの心に書き付けられています。つまり、聖霊によって新しく生まれ変わり、聖霊が神の思いと願いを示してくださるということです。教育や道徳は人を変えません。人を本当に変えるのは、キリストの血によるあがないと、聖霊による生まれ変わりです。キリスト教は道徳でも宗教でもなく、人生の変革です。ハレルヤ!こんなすばらしいこと、親も学校の先生も教えてくれませんでした。まさか、こんな古い書物に、こんなことが書いてあるとは!いいえ、新約聖書は古くならない、いつまでも新しい契約です。この契約は私のものであり、あなたのものです。以前はイスラエルの民だけに向けられていましたが、今は、異邦人である私たちのために、契約の招きが向けられているのです。よく、町に出かけると、「クレジット・カード作りませんか」と言われます。あれも1つの契約です。カード作っても、お金がないと、あまり役に立ちません。しかし、私たちはキリストによって、神様と契約を結ぶとたくさんのメリットがあります。罪赦され、天国に行くことができます。私たちもアブラハムのように、天の故郷を目指して歩むのです。ハレルヤ!

でも、みなさん、私たちが救われたのは天国に行くためだけではありません。もし、あなたが契約の内を歩むならば、この地上でも豊かな人生を送ることができるのです。では、契約の内を歩むとはどういうことでしょうか。ヘブル人への手紙はそれを1ことで、「信仰によって」ということばでまとめています。ヘブル11:6「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです」。信仰って何でしょうか。クリスチャンはすでに、キリストを信じたので、天国に行くための救いの信仰はあります。しかし、もう1つの信仰は機能的な信仰であり、実際に用いていく信仰です。たとえクリスチャンであっても、信仰を用いないならば、天国は行けたとしても、この地上で貧しく、敗北的な生き方をしてしまうでしょう。私たちは信仰を用いなければなりません。でも、それはどういう意味なのでしょうか。何でも信じて、求めたら良いのでしょうか。私もこれまで、信じて求めたら与えられると積極的・肯定的な信仰を強調してきました。でも、的中率は1割から2割でした。できたら、3割4割当たり前、せめて5割くらいになりたいですね。では、どうしたら求めたものが与えられるようになるのでしょうか。私たちは強い信仰が与えられる前に、契約の内を歩むことを求めなければなりません。契約の内を歩むならば、求めるものが与えられ、天国のような生き方ができるのです。では、契約の内をあゆむとはどういうことでしょうか。みことばを読み、それを瞑想し、それを守り行うということです。みことば、聖書には神のみこころ、神の約束が記されています。それを捕まえて、求めるなら、当然、確立は高くなります。

詩篇1:2,3「まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える」。みことばを瞑想し、みことばのとおりに生きるなら、「その人は、何をしても栄えるのです」。ヨシュア1:8「この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そのうちにしるされているすべてのことを守り行なうためである。そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである」。ここにも同じことが記されています。みことばを昼も夜も、瞑想し、それを守り行うなら、「あなたのすることなすことが、繁栄し、また栄える」のです。アフリカのナイジェリアの牧師は、20名の小さな教会を牧会していました。教会員には仕事もなく、とても貧しい教会でした。牧師は献金をしてもらうと、アメリカに渡り、ホテルのロビーに座っていました。神様が語りかけました。「お前は、なぜここにいるのですか」。「はい、献金をささげてもらうためです」。「お前は、乞食か。すぐアフリカに帰りなさい」。彼はそのとき、さきほどの詩篇1篇が心に浮かんだそうです。牧師はそれから、聖書を読み、みことばを瞑想し、契約の内を歩むことを始めました。なんと、それから見る見るうちに祝福され、600エーカーのカナンランドを作りました。そこには、6万人を収容できる世界最大の礼拝堂、3000人を収容できるユースの会堂、1000名の食堂、銀行、大学、寮もあります。240台ものバスがあり、ガソリンスタンドまであります。あるとき、貧しい男性が教会にやってきました。牧師は「あなたにあげるお金はありませんよ。神様に何をしたら良いか聖書を読んで聞きなさい。当分の間、食べる分だけは教会で働きなさい」と言いました。しばらくたって、男性は「灯油を販売します」と言いました。「ああ、そうですか。みことばにとどまるなら、何をしても栄えますよ。それをしなさい」。彼は灯油を販売していくに、だんだん栄え、会社の社長になりました。10年後、その牧師に小型ジェット機をプレゼントしたそうです。エディ牧師は、そのジェット機に乗り、驚きのあまり、あごが外れたそうです。私たちも同じです。みことばを瞑想し、契約の内を歩むなら、何をしても栄えるのです。私たちはこの世に住みながらも、天国を歩むことができるのです。

2.供給者なる神

 13:20「イエス・キリストにより、御前でみこころにかなうことを私たちのうちに行ない、あなたがたがみこころを行なうことができるために、すべての良いことについて、あなたがたを完全な者としてくださいますように。どうか、キリストに栄光が世々限りなくありますように。アーメン。」神様は偉大な供給者です。父なる神様は、私たちがみこころを行えるように、すべての良きものを備えてくださるのです。神様は救いの計画者でありますが、同時に、すべての必要も満たしてくださるお方です。建物を建てるときには、まず設計図が必要です。その次に、建物をたてる人が必要です。しかし、それだけでは建物は建ちません。何が必要でしょう。建築をするための資材が必要です。神様は設計図と資材を持っていますが、たりないものがあります。それは人が必要なのです。もちろん、神様は全能ですから、人間に頼らなくてもすべてが可能です。しかし、この救いの事業に関しては、人間をお用いになられます。神様はイスラエルの民をエジプトから解放するために、モーセをお用いになられました。40歳のモーセは勝気で自身まんまんだったので使えませんでした。神様はわざわざ、120歳の老人、「私は一体何者でしょう」と言ったモーセを用いたのであります。神様の前に無力になった人は幸いであります。使徒ペテロも、イエス様を「3度も知りません」と、否んだ弟子であります。神様は自信まんまんのペテロを打ち砕く必要がありました。パウロもキリスト者を迫害するほど熱心な信仰者でした。しかし、復活の主と出会ったために、地に倒れ、3日間盲目になりました。パウロはある意味で弱くなりました。主は、弱くなったパウロを用いたのであります。ですから、神様に用いられるためには、まず主の前に、弱くなる必要があります。でも、本当に弱いままではいけません。神様はご自分が用いようとする者を、今度はご自身の知恵と力と必要を与えてくださるお方であります。

 父なる神様のみこころとは何でしょうか。それは、イエス・キリストによってもたらされた救いをすべての人が持つことができることであります。言葉を換えるなら、御国がこの地上にもたらされることです。神の国の建設のために、主はあなたも、私も用いたいのです。建設の計画書はあります。建設の資材もあります。しかし、不足しているのは、人材なのであります。神の国の建設のために、今の仕事をやめろということではありません。あなたは、今の仕事や家事、学業をしながら、働くことができるのです。私たちは奉仕というと、とっても狭い意味に捉えてしまいます。「教会の奉仕」というと、掃除をしたり、椅子を並べたりすることだと考える人がいます。もちろん、それも大事です。ぜひ、お願いします。でも、神の国の建設は、あなたが今いる場所でできるのです。それは、奉仕というよりも、ミニストリーと言った方がよいかもしれません。ミニストリーとは神のわざを行うことです。イエス様はこの地上に来られてどんなミニストリーをなされたでしょうか。ルカ4章にこう書いてあります。ルカ4:18,19「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために」。アーメン。ここには明らかに5つのミニストリーがあげられています。第一は福音宣教、福音を伝えることです。第二は悪霊からの解放、第三は肉体の病の癒し、第四はインナーヒーリング、心の癒し、そして第五は主の恵みを宣言することです。これは、人々を祝福する権威と言っても良いかもしれません。私たちクリスチャンは王なる祭司ですから、私たちの周りの人々を祝福する権能が与えられているのです。ハレルヤ!

 教会を大きくしようと考えると、何か閉塞感を覚えます。そうではありません。ジム・ヨストという、パプアニューギニアの宣教師は「教会とは4つの壁に囲まれたところではない」と言いました。彼に言わせると、教会は道端にも、公園にも、そしてバーの中にだってできるといいました。みなさん、きょうはここにたまたま私たちは集まっています。しかし、ここは亀有教会という建物にみなさんが集まっているだけなんです。教会とはあなたがた一人ひとりなんであります。教会とは固定した場所にあるのではありません。これは建物です。本当の教会は、キリストのからだであり、みなさん一人ひとりが教会なんです。さしずめ、みなさんかたつむりを連想したら良いでしょう。かたつむりは、おうちを背負っています。私たちも教会を背負って、いるのです。あなたは教会を背負ったままで、職場や学校、家庭に遣わされているのです。だから、職場にも、学校にも、家庭にも、公園にも、マクドナルドにも、教会はできるのです。なぜなら、あなたが教会だからです。もう、「日曜日は教会へ」というような言い方はやめましょう。ここは教会という建物です。日曜日だけが教会ではありません。月曜日から土曜日までも、教会です。なぜなら、あなたが教会だからです。あなたがいくところどこにも教会ができるのです。ハレルヤ!こういうふうに考えると、神さまのみこころである、神の国の建設がキューピッチに進みます。私たちたちは「神の奉仕とは、牧師先生や一部の献身者がするものだ」と勘違いしてきました。そうではありません。みんなが、奉仕者であり、ミニストリーをするミニスターなのです。もうすぐ安部内閣が誕生しますが、私たちこそ神からのミニスター、大臣です。

 神様は私たちがミニストリーをすることができるように、資源を与えてくださいます。ただで働けということではありません。マタイ25章には、それぞれにタラントが与えられると書いてあります。ある人には5タラント、ある人には2タラント、またある人には1タラントです。タラントは元来、金の重さを表す単位でした。1タラントをお金に換算すると6000日分の給料です。今でしたら、6000万円くらいです。1タラント?タランですか、ちょっとした商売だったらできそうですね。しかし、このタラントは、霊的賜物でもあります。Ⅰコリント12章には9つの力の賜物が列挙されています。知恵、知識、信仰、いやし、奇跡、預言、霊を見分ける力、異言、異言を解き明かす力などです。私がインドネシアに行ったら、セル集会で、みんなこの賜物を出し合っています。みんなで癒しの祈りをすると、聖霊様が働いて、癒しのわざが起こります。足の不自由な人が歩き、癌が癒され、死んだ赤ちゃんが生き返ります。私が行ったときには、心臓停止して紫色になっていた赤ちゃんが生き返った、その赤ちゃんの家族がステージに立ちました。神様は、このような霊的賜物を与えて、用いてくださいます。私たちはただ、恵みの管として、チャンネルとして、自分を提供すれば良いのです。もう1つルカ19章には、ミナのたとえがあります。ミナは約100日分の給料ですから、今なら100万円です。タラントと比べると60分の1です。さらにタラントと違い、すべての人に同じ1ミナが与えられています。みんなに、1ミナずつ与えられている。ミナとは何でしょう。私は賜物というよりも、クリスチャンという存在そのものではないかと思います。何ができるか、できないかではなく、クリスチャンとはこういうものである。クリスチャンが持っている性質が世の人々に影響を与えるということです。クリスチャンは世の光です。人々に神の真理や知恵を示すことができます。また、クリスチャンは地の塩です。塩はまわりに溶け込み、食材の味を引き立たせることができます。あなたは周りの人々を生かす存在だということです。また、塩は腐敗をとどめる役目をします。罪の世界において、正直で善を行う存在はなんと貴重でしょうか。また、クリスチャンは1マイル行けと言われれば、2マイル喜んで行きます。敵を愛し、敵のために祈ります。受けるのではなく与えることを喜びます。こういう人は世の中にはいません。私たちクリスチャンは、すでに神の子ですから、もう、存在そのものが違うのです。どうか、罪を赦されたただの人だと思わないでください。私たちはキリストを信じたときに、新しく生まれ変わり、まったく別の存在になったのです。タラントもそれぞれにありますが、最低でも1ミナはあります。みんな持っています。また、私たちはこの世で生きるために、たくさんのものが必要です。お金や物、健康、協力者、力、能力、知恵や知識、愛、勇気、さまざまな資源が必要です。でも、父なる神様は私たちの供給者です。父なる神様は私たちが、良いわざを行い、神の国を拡大するために必要なものを喜んで与えてくださいます。13:20,21を新共同訳で紹介して、メッセージを終えたいと思います。こちらの方が良い訳でした。「永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエスを、死者の中から引き上げられた平和の神が、御心にかなうことをイエス・キリストによって私たちにしてくださり、みこころを行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように。栄光が世々限りなくキリストにありますように、アーメン。」

| | トラックバック (0)

2006年9月17日 (日)

「キリストの証人」

鈴木牧師がインドネシアへ学びへ出かけていたため、本日は有田ユキ伝道師と毛利佐保伝道師が奨励をします。そのため原稿が用意できませんでした。

| | トラックバック (0)

2006年9月10日 (日)

心の傷が癒されるために  【特別礼拝 若木末敏 牧師】

本日は若木末敏牧師による特別説教の為、原稿が用意できませんでした。

| | トラックバック (0)

2006年9月 3日 (日)

宿営の外に出て      ヘブル13:10-17

 9月に入って朝夕に秋の気配を感じます。私は今週末から、常夏の国、インドネシヤに行ってまいります。1週間で4つのセミナーが開かれます。教会の勢いを祝福する、私生活の勢いを祝福する、街と経済の勢いを祝福する、そして新しい世代の勢いを祝福するという盛りだくさんのプログラムになっています。日本の教会は勢いも推進力もありませんので、うってつけかなーと思います。向こうでのセミナーと滞在費は安いのですが、飛行機代が高い。原油の高騰がこちらにも響いています。きっと元を取ってきますので、旅の安全のためにどうかお祈りください。ヘブル人への手紙はいよいよ最終ですが、ここには3つの勧めが記されています。簡単に言いますと、「旧約時代の儀式は終わったけれど、新しい時代の私たちにはこういうことがありますよ」ということなのです。ヘブル人への手紙はだれが書いたか分かりませんが、旧約聖書と新約の私たちをつなぐ、とても大切な役割を果しています。

1.宿営の外に出て

10節に「私たちには1つの祭壇がある」と書かれていますが、そこにささげられるものは、動物ではなく、尊いイエス・キリストであります。ここで、強調されていることは、イエス・キリストの体が門の外、つまりエルサレムの市外で苦しみを受けたということです。だから、私たちの祭壇はエルサレムの神殿内にはもはやないということです。エルサレムに無ければどこにあるのでしょうか。それは、天のまことの聖所にあるということです。ヘブルの記者は、地上の聖所が天の聖所の模型であり、私たちが近づくのは、天の聖所であることを明らかにしています。ですから、13、14節でこういわれています。「ですから、私たちは、キリストのはずかしめを身に負って、宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか。私たちは、この地上に永遠の都を持っているのではなく、むしろ後に来ようとしている都を求めているのです。」一般的に、ヘブル書が書かれたのは、紀元70年のエルサレム崩壊前ではないかと言われています。紀元70年には、ローマによって、エルサレムが陥落し、ユダヤ人たちは世界中に散らされます。しかし、キリスト教徒たちは地上のエルサレムには未練はありませんでした。彼らは散らされて、迫害されながらも福音を宣べ伝え、天のエルサレムを目指して行ったのであります。ですから、私たちも、地上のエルサレムにはこだわらないで、永遠の都を目指そうということであります。

ところで、ヘブル13:12「宿営の外に出て」は、近代宣教の父、ウィリアム・ケアリーが引用した言葉であります。宗教改革時代には、プロテスタント教会は大した伝道活動を行っていませんでした。もう、自分のことでいっぱい、いっぱいだったからです。一方、ローマカトリックは、イエズス会や他の会は、アジアや南北のアメリカ大陸に宣教に出かけました。しかし、1792年、靴を修理しながら伝道していたウィリアム・ケアリーが『異教徒を回心させるために資産を用いるキリスト者の義務について』という本を出版しました。ケアリーはその中で「すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい」というキリストの大命令は今もすべてのキリスト者に適用されていると論じました。そして、同じ年に、ノッキンガムの年会で「神のために大いなることを期待せよ!そして、神のために大いなることを企てよ」と説教しました。彼がインドへ行くと言い出したとき、「果たして、未開人が救いに選ばれているのだろうか?」と、疑問視する者さえいました。そのときに、彼は「キリストのはずかしめを身に負って、宿営の外に出る」と言ったのです。彼にとって、宿営の外とは、イギリスから出ることだったわけです。翌1793年、ケアリーはインドへ出発しました。しかし、インド宣教はたやすいものではありませんでした。なんと、7年間も宣教を続けていたにも関わらず、誰として救われていませんでした。さらには、子どもが死に、妻はその後、狂い死にしてしまいます。また、彼が聖書の印刷の為に建てた印刷所が全焼。しかし、彼は、それを神様が更に大きな計画を与えてくださっているんだと考え、その悲劇をも感謝しました。まもなく、ロンドン宣教協会やスコットランド伝道会が立ち上がり、本格的に宣教師を送り出すようになりました。

私たちにとって、宿営地とは気持ちの良い教会であります。教会の中にいれば、迫害を受けたり、馬鹿にされることはありません。霊的なことをストレートに話すことができて、交わりも楽しいです。しかし、一歩、外に出ると、日本は異教徒の世界です。クリスチャンは人口の1%未満ですから、肩身の狭い思いをします。教会堂では「ハレルヤ!主よ、感謝します」と言えても、家庭や職場では、とてもいえません。イギリスの教会が自分のことでいっぱい、いっぱいであったように、私たちも自分の生活でいっぱい、いっぱいです。もし、クリスチャンが伝道を忘れ、自己充足的に生きるならば、霊的ないのちを失います。宣教とか伝道は、ゆとりがあったらするというものではなくて、信仰生活と同時進行のものであります。私たちには2つの使命があります。1つはキリストに似た者となるということです。そしてもう1つは、イエス様が与えた宣教命令を果すということです。この命令は、マタイ28章とマルコ16章に記されています。「出て行って、福音を宣べ伝え、人々をキリストの弟子にする」ということです。出て行くところは、必ずしも海外ということではありません。職場、学校、家庭、地域社会が、あなたが行く宣教地です。パウロはⅡコリントで、「私たちはキリストの使節である」と言いました。

最近、「内面の癒しと解放」ということが強調されてきました。私もこれに関してはとても興味があり、皆さんにも紹介して来ました。私たちが癒され解放されるということはとても重要なことであります。しかし、もし自分たちの内側だけを見ていたら、宣教命令を果すことはできません。皆さん、「内面の癒しと解放」をクリスチャンのゴールにしてはいけません。これは天国まで続けなければならないものですが、同時に、私たちは未信者の魂が救われるように、外に向って働きかける必要もあります。世の中の多くの人たちは、精神的に病んでいるか、ギリギリ何とか社会生活をしています。そのときに、「内面の癒しと解放」と言う切り口が大変伝道のために役に立つということも確かです。ですから、「内面の癒しと解放」を自分のためにも使うし、同時に、周りにいる未信者の方のためにも用いていくべきです。矛盾しているようですが、内面ばかり見ていると、癒しと解放がなされません。しかし、外に目を向けると、自分の癒しと解放も進んで行くということも確かです。イエス様は「自分の命を救おうと思う者は、それを失い、私のために自分の命を失う者は、それを救うのです」(ルカ9:24)と言われました。つまり、教会が自己充足的に生きるならば命を失い、キリストのために命を失うなら生きるということです。シンガポールのコンヒーがこの間の九州阿蘇聖会で「教会は人々を救いに導くために存在する」と強調しました。彼の牧会する教会は1989年から20人でスタートし、現在22,000人の教会へと成長しています。私たちの教会もセルも人々を救いに導くために存在していることを忘れてはならないと思います。もし、内側だけにエネルギーを向け過ぎますと、かえって病気になります。私たちは恥を受けることを非常に恐れます。でも、キリストのゆえに受ける恥は弟子として勲章ものであります。伝道すればするほど、恥を受けます。でも、恥と正比例して、人々がキリストに導かれるでしょう。1つも恥を受けないで、キリストを宣べ伝えるなどと言うのは、この世ではありえません。どうぞ、辱めを恐れないで、救霊のために宿営の外に出て行きましょう。きっと、イエス様が力強く働いてくださることに驚くことでしょう。

2.賛美のいけにえ

旧約時代、動物や地の産物を神様の前にささげました。しかし、イエス・キリストが一回で永遠の贖いを成し遂げられたので、いけにえは不要になりました。ところがどうでしょうか。15、16節「ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。善を行なうことと、持ち物を人に分けることとを怠ってはいけません。神はこのようないけにえを喜ばれるからです」。罪のいけにえはキリストによって完成されたので、もうささげる必要はありません。でも、これからは賛美のいけにえつまり、御名をたたえる唇の果実を絶えず神様にささげなければならないということです。私たちはこの聖日礼拝において、約30分間、賛美を致します。これは、礼拝の準備とか説教の前菜ではありません。私たちの賛美と感謝は、神様に対する「いけにえ」だったんです。「いけねー、そうだったのか?」と気づいた方もおられるかもしれません。アフリカか東南アジアだったか忘れましたが、土着の人たちは以前、偶像の神様に動物とか果物をささげました。彼らは福音を聞いて、クリスチャンになりました。その後、彼らは神様の前に何をささげたのでしょうか。彼らは1週間一生懸命練習した賛美と踊りを主の前にささげました。みんな、とても真剣な顔つきで、主の前で、力一杯、賛美し踊りました。聖書に「思いを尽くし、心を尽くし、力を尽くしてあなたの主を愛せよ」とあります。私たちもいい加減に、賛美をささげてはいけません。「思いを尽くし、心を尽くし、力を尽くして」賛美をささげる必要があります。

 日本では夏祭や秋祭があります。この地域でもそろそろ御神輿を担ぐのではないでしょうか。彼らは偶像の神様に力いっぱい踊り、力いっぱい山車を引っ張り、力いっぱい何かを奉納します。大阪ではだんじり、長野では御柱などと言うのもあります。秋田では梵天というのも競って奉納します。彼らは半端じゃありません。本当に力の限り踊り、命をかけて奉納します。その点、クリスチャンは上品過ぎるとは思いませんか。静かなオルガンの音に合わせ、譜面どおりに歌おうとします。譜面どおり歌うことは悪いことではありません。でも、賛美が神様にささげるささげものだと言うことを理解をしているかどうかです。礼拝は祭典であり、セレモニーではありません。だから、力一杯、喜びにあふれ、賛美をささげるべきであります。ビデオでみたことがありますが、アフリカの教会では、踊りが賛美に付随しています。賛美と踊りを分離することは不可能なようです。あのダビデ王も、神の箱の前に、賛美して踊りました。あんまり踊り狂ったので、半ケツ状態ではなかったかと思います。ダビデはそれだけ、神様を愛したのであります。

 私たちが力一杯、神様を賛美したらどうなるでしょうか。ネヘミヤ8:10「あなた方の力を主が喜ばれるからである」。別訳では「主を喜ぶことは、あなたがたの力であるから」とあります。主を賛美することと、力とが関係しています。これは、私たちが主を喜び、賛美すると、悪魔が敗走するということです。悪魔は賛美を非常に嫌がります。悪魔が好むものは、悲しみと怒りとつぶやきです。でも、私たちの唇を、感謝と賛美のために使うならどうでしょうか。悪魔が逃げ去り、代わりに主の祝福が臨みます。私たちは特別な理由が無いのに、鬱的になったり、失望落胆することがあります。はっきりいってそれは悪霊です。悪霊が耳元で否定的なことを囁き、あなたはそれを聞いて、気が沈みます。だまされてはいけません。私たちは主を賛美することによって、敵の罠と束縛から解放されます。「主を喜ぶことは、あなたがたの力です」とは、まさしくそういう意味なのです。できれば、これを週一回、公の礼拝でするのではなく、個人のディボーション、セル集会でもすべきであります。私も最近、集会の前に賛美をするのを怠っていました。だから、主の油注ぎがないんですね。つまらない集会になってしまいます。賛美は公の集会だけではなく、小さな集まりでも必要です。賛美は礼拝であり、賛美は神様へのささげものです。このことを実行していくならば、悪しき者の罠と束縛から解放され、主の大路を歩いていくことができるでしょう。アーメン。

3.指導者たちに従え

 17節「あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。この人々は神に弁明する者であって、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです。ですから、この人たちが喜んでそのことをし、嘆いてすることにならないようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にならないからです。」少し前の、7節にもこう書いてありました。「神のみことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生活の結末をよく見て、その信仰にならいなさい。」旧約時代は祭司や預言者、あるいは王様が指導者でした。では、新約時代はどのようになったのでしょうか。マルチン・ルターが、クリスチャンは万人祭司であると唱えましたが、指導者はいないのでしょうか。私は指導者とは、上とか下、偉いとか偉くないということではなく、機能的なものであると信じます。目が顔の上にあるのは、偉いからではなく、高い所にあると良く見えるからです。足が体の下にあるのは、劣っているからではなく、体を支えるためであります。私たちはこの世の社会の考え方を捨てなければなりません。指導者は、神様が教会のために与えた賜物だということです。ローマ12:8「勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行なう人は喜んでしなさい」と書いてあります。また、エペソ4:11,12「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり」。

 新約時代はイエス・キリストが教会のかしらであり、イエス・キリストが偉いのであります。でも、イエス様は体なる教会が、健康に成長し、また機能するように、霊的な指導者を立てました。でも、ある人たちは、「教会ではすべての人が平等だから、だれからも指図は受けない」と言います。しかし、それは間違いです。たとえば、私は人間的には指導者ではありません。生まれてこの方、自分がそういう能力があると考えたこともありません。でも、神様は、不思議なことに聖書を用いて牧会するように召してくださいました。もちろん、人格的にかけたところがあるかもしれません。でも、聖書は「指導者に従いなさい」と言われます。気持ち良いですね。でも、ヤコブ3:1「私の兄弟たち。多くの者が教師になってはいけません。ご承知のように、私たち教師は、格別きびしいさばきを受けるのです」と書いてあります。イエス様の時代、律法学者とかパリサイ人たちは、ひどい指導者たちでした。人に無理な重荷を負わせ、自分は指一本触れようとしませんでした。イエス様は「忌まわしいものだ」とさばかれました。ですから、指導者は自分の教えと自分自身にいつも気をつけていなければなりません。でも、みなさん、聖書は「指導者に従いなさい」と言われます。もう、何べんも言ったかもしれませんが。なぜなら、「この人々は神に弁明する者であって、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです。」大牧者はイエス様ですが、牧師は中牧者です。群の見張りをしています。群を離れた羊は危険ですね。でも、「私は大丈夫、ほっといてくれ」と羊は言うのです。群、つまり教会から離れると、霊性がものすごく下がります。しまいには、世の中の人と全く変わらなくなります。一番怖いのは、イエス様が世の終わり、この地上に来られたとき、分からないことです。なぜなら、霊的に眠っているからです。「だから、目をさましていなさい」とイエス様もパウロも警告しています。どうぞ、「信仰があぶないなー」「信仰が弱っているなー」という時こそ、教会を離れず、指導者の声に耳を傾けましょう。

 きょうは、ヘブル書から3つのポイントでメッセージいたしました。日本の教会が、クリスチャンが何故、元気がないのでしょう。リバイバルが来たら、教会は何をやっても栄えるでしょう。でも、「今の日本は、何をやってもうまくいかない」と働き人は、みな失望落胆気味です。でも、今日、語られた3つのポイントは、低迷したキリスト教会から脱却する道です。復習しますと、第一は、宿営の外に出るということでした。これは、辱めを受けることを恐れないで、出て行くという伝道であります。短く言うと、油注がれた伝道です。上から油が注がれているなら、ちょっとやそっと、イヤな思いをしても関係ありません。力強く、初代教会のように福音を証することができます。第二は、さんびのいけにえです。当教会はこれに目覚めて、かなり力を入れています。が、もっと会衆が力を尽くして主を愛する「さんびのいけにえ」が必要です。賛美は私たちの力であります。ですから、これを油注がれた賛美と言いたい。どうぞ、みんなで油注がれた賛美を主にささげましょう。そして、第三は、指導に従うです。これは指導者と従う人、両方の問題です。日本は共依存の構造で、指導者に盲目的に従う所があります。それではいけません。従う人は、自分で考えながら従う、かしらなるキリストに聞きながら従うことが大切です。もちろん、指導する者もかしらなるキリストに聞き従う必要があります。ですから、これは油注がれた指導と言えるでしょう。旧約時代は、祭司と預言者、そして王様に油が注がれました。しかし、新約においては聖徒たちに聖霊による油が注がれると約束されています。しかし、この油注ぎは、この世に押し流されているクリスチャンは受けられません。主イエス・キリストに全面的に従い、主の栄光を現そうとする人に与えられます。私たちは油注ぎが必要です。油注ぎこそ、低迷したキリスト教会を勢いづける力です。油注がれた伝道、油注がれたさんび、油注がれた指導を求めていきましょう。

| | トラックバック (0)

« 2006年8月 | トップページ | 2006年10月 »