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2006年8月27日 (日)

兄弟愛をもって      ヘブル13:1-9

 ヘブル13章で一番有名な聖句は8節です。「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです」。この聖句は、イエス・キリストが2000千年前、この地上で癒しをなされたように、今も、癒しを行なってくださるという意味です。これもすばらしいですね。でも、聖書は肉体の癒し以外にも多くのことを教えています。私は聖書を1章から順番に語っていますが、これを講解説教と言います。一方、テーマ別に聖書のあちこちから語ることを主題説教と言います。両方とも良い点もあれば弱点もあります。もし、私が主題説教を行なうとしたら、8節の「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです」を取り上げて、病の癒しを語るでしょう。でも、講解説教の場合は、不得意な分野や語りたくない箇所からも語らなければなりません。でも、これはバランスのとれたクリスチャン生活を築くためにはとても重要です。食事でも「あれが嫌いだ、これが嫌いだ」と偏食すると、体がおかしくなります。ですから、神のみことばも偏食しないでいただくことが重要です。講解説教はそういう意味で、とても役に立ちます。ですから、私は長年、講解説教をしていて、後悔したことがないんであります

1.兄弟愛をもって

 ヘブル人への手紙の最終章は、パウロの手紙の後半とよく似ています。教理面ではなく、実際の生活について語っています。一番、最初に言いたいことは、何か。それは、「兄弟愛」です。兄弟愛は、ギリシヤ語では「フィラデルフィア」でアメリカの都市の名前にもなっています。兄弟愛は、神様に対する愛によって生まれた、二次的産物であります。二次的と言っても、どうでも良いという意味ではなく、神様を愛する人だったら当然持っていなければならないものです。使徒ヨハネも、Ⅰヨハネ4:20,21でこう述べています。「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています」。つまり、神様を愛している人は、当然、兄弟をも愛すべきなんだということです。それでは、兄弟とは誰のことでしょう?これは、あなたの隣人、そして主にある兄弟姉妹のことであります。では、何故、命令形で書かれているのでしょうか?これは、ぼーっとしていると、この愛は出てこないからです。「私は愛のないものです。どうか、聖霊によって、私に愛を注いでください」と求めなければ愛せないからです。

ところで、私たちの以前の生活、神を信じていない世界はどうでしょうか。それは一言で言うなら、「カインの末裔」であります。カインは弟アベルを妬みのゆえに殺しました。その後、カインは神様のもとを離れ、城壁のある町を建てました。城壁は人間同志の敵意を表しています。そして、その子孫は牧畜、芸術、工業の先祖になりました。カインの子孫は「○○をした」と言う業績指向です。レメクは「カインに7倍の復讐があれば、レメクには77倍」と言いました。争いが兄弟だけではなく、民族、国同士へと広がっていきます。その発端が、城壁であります。アダムとエバはエデンの園に住んでいました。園には城壁がありません。神様が真ん中におられるので、城壁は必要でなかったのです。ところが、カインは神様を信頼しないで、自分の力を信頼しました。その結果、自分を守るために、城壁を築いたのです。城壁は外敵から自分を守ってくれますが、同時に自分が外に出るのを妨げます。私たちも心に城壁を持っています。信頼の置ける人か、そうでない人か城門を開けたり閉じたりしています。特に日本人の場合は、建前と本音を区別して、城壁のまわりに蔦を生やして「城壁じゃなくて草だよー」とカモフラージュしています。教会に来ても、兄弟姉妹になかなか本音を話せない。それは、以前、本音を言ってイヤーな思いをしたからです。もう1つ、兄弟姉妹間を邪魔するものは、カインの業績指向です。人を肩書きや能力で区別します。教会の外は、まさしく業績指向の世界であり、みんながライバルです。ところが、教会に来て、「主の前には、みんな平等です」と言われてもピンと来ない。男性だと社会的地位、女性だと容姿が気になります。たとえクリスチャンになったとしても、霊性、信仰、賜物、奉仕なども妬みの種になります。教会では面と向かって争う事はしませんが、裏でと言いましょうか、水面下でレメクのようなことをするのです。

 「恵みによって救われたクリスチャンが何故そんなことを!」と言いたくなります。その第一の原因は、私たちはこの世で生まれ、この世の価値観の中で育って来たからです。だから、自然と自分を守る城壁が出来上がり、危ない人は排除するのです。では、そういう防衛システムは解除すべきかと言うと現実は不可能です。では、どうしたら良いでしょう。アガペーの神の愛を受けて、新生したクリスチャンは、愛を学ぶ必要があります。なぜ、神様が地上に教会を置いているのか、それは互いに愛し合うことを学ぶためであります。もし、神様との愛だけで充分であるならば、教会は不要です。イエス様を信じたら、即、死んで、天国に直行すれば問題ありません。でも、この地上に肉体の寿命が来るまで置いているのは、2つの理由があります。1つはキリストに似た者となるためです。言葉を換えると愛の人になるということです。もう1つはキリストが与えた使命を全うするためです。使命とは福音を宣べ伝えることです。残念ながら、一人でクリスチャンをやっているなら、決して愛の人になることはできません。いろんな人と関わっていく中で、愛の人として成長していくわけです。では、兄弟愛を持つためにはどうしたら良いでしょうか?私たちは自分が持っている城壁をできるだけ低くすべきであります。生垣か柵くらいにしないといけません。そのためには、城壁なる神様を信頼しましょう。詩篇で「主は私たちの城壁、要塞、守り」であると度々、記されています。ですから、私たちは主を信頼すればするほど、城壁が低くなり、どんな兄弟姉妹とも交わることができるようになるということです。もう1つは、業績指向をなくし、関係作りにもっとエネルギーを費やすということです。

私はこれが非常に苦手です。父から「人を利用してでも良いから偉くなれ」と教育されました。しかも、8人兄弟の7番目で、父や母から、比較されて育ちました。まあ、劣等感の塊みたいな存在だったわけです。人はみなライバル、「くそ!負けてたまるか!」。将棋、メンコ、運動会、学校の成績でも、競い合って育ちました。でも、世の中には、上には上がいるもので、育ちとか才能の前では屈服するしかありません。最後に残るものは、意地と根性であります。そういう、敵意プンプンの人が、クリスチャンになって驚くことは「神の愛」であります。私が最初の頃とても驚いた聖句があります。それはローマ5:7、8です。「正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます」。イエス様は、正しい人とか、価値ある人のために死んだのではありません。何のメリットもない罪人のために死んでくださいました。私は罪の中にどっぷり浸かり、「神なんか信じているヤツは自分が無くてかわいそうな人だ」と馬鹿にしていました。しかし、イエス様の無私の愛、省みを求めない愛に驚かされました。こんな愛、親からもだれからも受けたことがありませんでした。「しかし私がまだ罪人であったとき、キリストが私のために死んでくださった」。こちらが信じるか、信じないかも分からないのに、死んでくださった。いや、たとえ死んでも価値の分からない者のために、死んでくださったのです。世の中に、「脱帽」という言葉がありますが、まさしく、イエス様の前に脱帽であり、城壁をぶっ壊されたという感じでした。もう、自分とか意地とか関係なくなりました。しかし、これは初めの段階であり、教会生活を通して、愛を実際に学ぶしかありませんでした。私の最初の宿敵は、副牧師でした。私よりも年下でしたが、既に神学校を卒業して奉仕をしていました。彼は非常に細かくて、女みたいに思えました。私はどちらかと言うと、大雑把で、どんぶり勘定です。「まあ、神様は水と油みたいな存在を良く置かれたなー」と思いました。和解のきっかけは、長男の誕生です。家内は看護婦として働いていたので、副牧師の奥さんに生まれたばかりの長男を午後5時まで預かってもらいました。ちょうど、副牧師の奥さんも同じ年の女の子を育てていたので、経済的にその方が良いという大川牧師の勧めでした。私としては人質を取られたという感じになり、信仰的に先輩の副牧師に従うしかありませんでした。しかし、そのお陰で、私は従順を学びました。最初の私は主任牧師の大川先生の言うことしか聞けませんでしたが、副牧師の言うことも聞けるようになりました。今、思えば、そういう環境で、私の自我も砕かれていったのかなーと思います。

 みなさんも、クリスチャンになったからと言って、すぐ愛の人になれるわけではありません。神様はあなたの隣に苦手な人物を何人か置いておかれます。あなたがその課題を卒業しない限り、ずーっと、付きまといます。あなたが「もう、いや!」とその場所を離れても、神様は別の場所にちゃんと新手を用意しておられます。唯一の方法は、苦手な人と和解し、愛を学ぶことであります。不思議なことに、キリストの十字架は敵意の壁を取り除き、聖霊様が神の愛を注いでくださいます。そこで、一番必要なのは、「へりくだり」であります。「へりくだり」は、たった5文字ですが、これほど難しいものはありません。でも、「へりくだり」が分かりますと人間関係がうまくいきます。神様はあなたが愛の人になるようにと、あえて、そのような環境におかれたのです。あなたにとっての宿敵は、兄弟姉妹の場合もあれば、ご主人、奥様、姑、息子や娘、同僚、そして牧師かもしれません。わー。もし、相手が牧師だったら可愛そうですね。「ああ、この教会は嫌だ!」と別の教会に行けばどうでしょうか。もう一回り上の強敵を神様は用意してくださるでしょう。あなたはこのレッスンを修了しない限りは、一生、気の合わない人によって苦しめられるでしょう。では、どうすれば良いのでしょう。それはへりくだって、父なる神様とキリスト様に学び、愛の人になることです。最後に、マタイ5:44-48を引用いたします。「しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」

2.むさぼりに対する注意

 ヘブル人への記者は私たちが「2つのむさぼりに注意せよ」と教えています。第一は性的むさぼり、第二は金銭のむさぼりです。牧師職を失墜させるのは、「性的罪と金銭問題だ」と何べんも聞いたことがあります。しかし、それは牧師だけの問題ではありません。主にある兄弟姉妹も同じ穴のムジナなのです。なぜなら、この2つは、私たちの霊力を削ぎ、神様から離れさせるために悪魔が一番用いる手段だからです。悪魔は未信者をこの2つの罪のとりこに成功しました。だが、その人がクリスチャンになったからと言って誘惑の手を弱めるようなことはしません。なぜなら、この2つの罪は、未信者であってもクリスチャンであっても、有効な悪魔の策略だからです。これによって数え切れない聖職者と聖徒たちが墓場に追いやられました。「むさぼりの罪」とは何か、それは限度を越えるということです。性的な罪であるなら、夫婦以外の異性と関係を持つということです。金銭面では、「今、持っているもので満足せず、必要以上に求めることです」。どちらも、神様が定めておられる限度を越える罪です。旧約聖書では、この罪を「ペシャ」と言いました。英語では、transgression、日本語では違反と訳されています。つまりこれは、「決められた制限、限界線を越えて、逸脱する行為」であります。

まず性的な罪はヘブル13:4です。「結婚がすべての人に尊ばれるようにしなさい。寝床を汚してはいけません。なぜなら、神は不品行な者と姦淫を行なう者とをさばかれるからです」。聖書は性的な関係は夫婦だけのものであると教えています。つまり、夫婦以外の肉体関係は、不品行であり、また姦淫であります。先週の火曜日は夜遅く、河口湖に1泊旅に行きました。有悟の夏休みが終わりなので、水曜日休みを取って出かけた訳です。私は朝、散歩にでかけることを日課にしています。なんと、斜め向かいのホテルから若いカップルがいそいそと出てきました。それから、ホテルに戻ってチェックアウトする際、大学生とおぼしきカップルが隣の部屋から出てきました。他にもそういうカップルがいました。私は、「明らかに、彼らは結婚していないなー」と思いました。この世では、こういうことが当たり前になっているのでしょうか。たとえ、彼らが「将来、結婚の約束をしているんです」と言ったとしても、それは神が定めた限度を越えています。それは不品行の罪であります。必ず将来、その罪を刈り取るときがきます。エディ・レオ師が「結婚生活がうまくいくか、いかないかは、結婚前の生活にある」と言いました。これは、名言だなーと思います。結婚前に築くことは、肉体関係ではなく、友情の関係であるからです。友情関係が良く出来ていれば、それから後の結婚関係が良くなるんです。肉体関係は友情で築き上げられた夫婦をサポートする神からの接着剤であります。また、伴侶以外の肉体関係は、神様と相手の信頼を裏切る多大な罪です。しかし、これがまた世の中に蔓延しています。私のところに、迷惑メールが数限りないほど来ますが、そのほとんどが「不倫のすすめ」であります。日本は、そういう意味では、ソドムとゴモラであります。私たち男性は、ソドムとゴモラの中で生活しているわけです。だから、いやおうなしに、1日、24時間、性的誘惑の攻撃を受けているということになります。この手の罪は、最初は甘くて美味しいんです。しかし、その時だけです。箴言にこう書いてあります。箴言2:16節以降「あなたは、他人の妻から身を避けよ。ことばのなめらかな、見知らぬ女から。彼女は若いころの連れ合いを捨て、その神との契約を忘れている。彼女の家は死に下り、その道筋はやみにつながる。彼女のもとへ行く者はだれも帰って来ない。いのちの道に至らない。」箴言5:3以降「他国の女のくちびるは蜂の巣の蜜をしたたらせ、その口は油よりもなめらかだ。しかし、その終わりは苦よもぎのように苦く、もろ刃の剣のように鋭い。その足は死に下り、その歩みはよみに通じている」。箴言のある部分は、ソロモン王が書いたと言われています。ソロモンは、知恵と富と地位のあるイスラエルの王でありましたが、女性に失敗しました。あのダビデもそうでした。わー、こうなると、男性はみんなこの罪に弱いということになります。クワバラ、クワバラです。誘惑に打ち勝つための秘訣は何でしょうか。それは、誘惑には近づかないということです。もし、万が一、誘惑にはまりかけたら、ヨセフのように、上着を残してでも、その場から逃げるということです。誘惑と勝負してはいけまません。あなたは、誘惑と話し合ってはいけません。なぜなら、私たちは誘惑に非常に弱いからです。

 第二のむさぼりの罪は金銭の問題です。ヘブル13:5「金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなさい。主ご自身がこう言われるのです。『わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない』」。金銭を愛することが、いかに危ないかは、聖書のいたるところに記されています。福音書でイエス様は「神と富とに兼ね仕えることは出来ない」と言われました。また、パウロはテモテ6:10「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました」と言いました。と、言いながらも何故、私たちはお金に頼ろうとするのでしょうか?それは、お金は現実的であり、神様は目に見えないからです。では、金銭のむさぼりとは何でしょう。それは、神様が「今、持っているもので満足せよ」と言っているにも関わらず、「もっと欲しい」と願うことです。そのことは、「私は神様よりも、金銭を信頼します」ということなのです。ヘブル13:5で「金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなさい。主ご自身がこう言われるのです。『わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。』」と、何故、イエス様の言葉がくっついているのでしょうか。「満足せよ」という根拠には、「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」と言う約束があるからです。私たちはお金があれば、もっと幸せになれると勘違いしがちです。でも、そのお金を稼ぐために、家族との団欒を犠牲にしたり、真理を曲げてしまったらどうなるでしょうか。時々、乳飲み子を保育園に預けて、パートに出かけるお母さんをみかけます。私は「ああー、6才くらいまで、せめて3才までは、親の元で甘えさせたら良いのになー」と思います。日本では、家庭を犠牲して働くことが美徳とされてきましたが、今、大きな代償を支払わされています。その1つは、「ひきこもり」であります。「ひきこもり」は幼いとき、親との絆がないために現れる精神的な病気であります。父親は「俺はお金を得るため、外で必死に働いたんだ。子どものことはお前に任せたのに…」と言います。しかし、それは大きな間違いです。子育ては母親だけの問題ではなく、父親が社会性とか価値観を与えるために、とても重要な役割を負っています。母親だけに子育てを任せると、「良い学校へ行けば、良い人になる」という教育ママを作ることになります。日本は経済的豊かさを偶像にしてきました。そのため、今、大きな、刈り取りを迫られています。極端なことを言うと、裸電球でも幸せになれます。私は、インドネシアとかシンガポールに行ったことがありますが、経済的には多少貧しくても、人間関係が豊かでとても幸せそうでした。おそらく、フィリピンやカンボジアでも同じじゃないかと思います。重要なことは、神様が与えておられるものに満足し、感謝をするということです。そうです。むさぼりの罪に対する、一番の対策は、「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」という神様に感謝する生活であります。

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2006年8月20日 (日)

慎みと恐れ       ヘブル12:18-29

夏休みはいかがお過ごしになられたでしょうか?フランスの方では1ヶ月たっぷり休むと聞いたことがあります。仕事も全部休んで、南フランスの方へ下って行き、バカンスを楽しむわけです。休みはとても重要です。なぜかというと、普段、見えないものが見えたり、普段、考えないようなことが考えられるからです。私たちは日々の家事や仕事によって、感覚が麻痺してしまい、ロボットのようになってしまいます。ですから、せめて日曜日は、この世の務めから解放され、みことばに耳を傾けるということは、とても重要です。私たちはどこから来て、どこへ行くのかを確認させてくれるからです。ヘブル人への手紙もいよいよ、終盤を迎えました。最初はとっつきにくい書物だと思いましたが、意外や意外、私たちの信仰を確立させるために、とても有益でした

1.私たちの憧れ

 ヘブル12:18-21には、モーセが律法をいただいたシナイ山のことが書かれています。ここには、7つの特徴が記されています。「手でさわれる山」「燃える火」「黒雲」「暗やみ」「あらし」「ラッパの響き」「ことばのとどろき」…モーセはその光景があまりにも恐ろしかったので、「私は恐れて、震える」と言いました。主が天から降りて来られるので、山に登ったり、境界線に触れるものは、人でも獣でも殺されると警告を受けました。なぜですか?それは神様が聖であり、人間には罪があるからです。旧約の神様は、罪ある私たちが簡単には近づけない、恐るべきお方であります。しかし、ヘブル人へ手紙の記者は、私たちは、そういうところに近づいているのではないと言っています。22節以降には私たちがどんな所に近づいているのか9つの特徴が記されています。「シオンの山」「生ける神の都」「天にあるエルサレム」「無数の御使いたちの大祝会」「天に登録されている長子たちの教会」「万民の審判者である神」「全うされた義人たちの霊」そして、「アベルの血よりもすぐれた仲介者イエスの血」に近づいています。1つ1つ、解説していくと時間がないので、代表的なものだけを3つだけ取り上げたいと思います。

 まず、シナイ山に対して、シオンの山があります。シナイ山はアラビヤにある、モーセが十戒をいたただいた山です。私たちは律法を守ることによって、神様に近づくことは不可能です。一方、シオンの山とは、ダビデがエブス人から奪い、ソロモンが神殿を建てた場所です。詩篇では、シオンは「安息の場所」「神の御住まい」「巡礼の地」として記されています。民たちは「シオンへ上って、神様を賛美し、喜び、歌いたい」と願っています。かなり前に、こういう賛美が教会で歌われました。「さあみんなで主の山に登ろう、ヤコブの神の家。さあみんなで主の山に登ろう、ヤコブの神の家。主は道を教え、我らはそれを行く、シオンから御教えが出て、みことばがエルサレムから出る」。シオンとは、エルサレムのことであります。しかし、ヘブル書は、天のシオン、天にあるエルサレムを指しています。ヘブル11章で私たちは「巡礼者である」ことを学びましたが、まさしく、天のシオン、天のエルサレムを目指す巡礼者なのであります。四国にも48箇所の巡礼があります。また、フランスやスペインにも巡礼の地があります。カトリックの人たちは、賛美をしながら、巡礼の旅をします。私もCDで聞きましたが、共同体の歌(テゼ)と呼ばれるとても美しい賛美があります。フランス語、ラテン語、英語とごちゃまぜになっていますが、何ともいえない、魂を掻き立てるような音調になっています。何千人もの巡礼者たちが、ローソクをともしながら賛美している様は圧巻です。当教会のロービーに掲げられている絵は、サンチャゴ・デ・コンポステラ(聖ヤコブ大聖堂)であります。巡礼者たちはフランス各地を出発し、ピレネー山脈を越え、最終地点のサンチャゴ・デ・コンポステラにやって来るのです。それもすばらしいですが、私たちは古い教会ではなく、天の都を目指す巡礼者なのであります。ハレルヤ!

 次に解せないのは、「天に登録されている長子たちの教会」です。イエス様は70人の弟子たちにたいして、「ただあなたがたの名が天に記されていることを喜びなさい」と言われました。神様のもとにはいのちの書があり、イエス・キリストを信じた人たちの名前が記されています。嬉しいですね。みなさん、今、住んでいるところは現住所ですが、あちらが本籍なんですよ。区役所では私たちが死ぬと、戸籍が抹消され、「この世にはもういない」ということになります。火葬されちゃって、墓の中に埋葬されちゃうのですか。そうではありません。本籍地である、御国に帰るんです。あちらが私たちの安息の地であり、ゴールなんです。でもここに「長子たちの教会」と書いてあります。どういう意味でしょうか?長子とは、真の子どもである神の御子イエスしかおりません。でも、イエス様を信じる者も、その特権に預かることができるということです。何と、この教会に属している人は、約束の相続者であり、「長子」だということです。何と、調子の良い話でしょう。私はいつも「8人兄弟の7番目」だと言います。しかし、天国へ行ったら、「長子、長男」なんですね。私は説教の中で「8人兄弟の7番目だ」と枕詞のように言います。でも、これは、地上だけのことです。もう、天国では使えないセリフです。ところで、長子とは、旧約では初子という意味です。初子は、その一族の代表、一族の祝福のかしらです。初子が良ければ、一族がみな良いということになります。ここにおられる皆さんも、「長子」であり、「初子」です。あなたの家族にとって、あなたは祝福の基、祝福の管、祝福の源になりうる存在です。日本では仏壇を守るとか、守らないとか言いますが、そういう後ろ向きな話ではありません。これから先のことと大いに関係があります。十戒には、偶像礼拝をする者は4代まで呪われるけれど、主を愛し、主の命令を守る者には、恵みが千代まで及ぶと約束されています。ハレルヤ!あなたは今、おられる家族の祝福の基です。あなたは今、住んでおられる地域の平和の子です。

 3つ目に取上げたいのは「アベルの血よりもすぐれた仲介者イエスの血」であります。「イエスの血」は、ヘブル書の主題であります。私たちが神様に近づくとき、必要なのはイエスの血です。シナイ山は律法を象徴しており、私たちが神様に近づくとき、「お前には罪がある」と責め立てます。そのため、だれ一人、聖なる神様のところには近づくことができないのです。罪人にとって、神は「恐れて、震える」存在です。でも、新しい契約の仲介者イエスが来られました。彼はご自身の血を携えて、至聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げてくださいました。ですから、神様はイエス様の血の注ぎを受けている人であるなら、もう裁かれないのです。さらに、イエス様の血は、私たちの良心をもきよめてくださり、大胆に神様のもとへ近づく信仰が与えられます。「私はいろんな罪を犯したけれど、イエス様の血によってきよめられたんだ。アーメン」と近づくことができます。ですから、神様のところに近づくために必要なのは、私たちの良い行ないとか、宗教的な儀式ではありません。キリストの血であります。私たちが罪を犯したときに、私たちの良心と悪魔が私たちを責め立てます。「お前はクリスチャンなのに、あんな恥ずかしい罪を犯した。あんなひどい罪を犯した。あんな卑劣な罪を犯した。もう、神様の前には出られないぞ!」と告発されます。そのため洗礼を受けたクリスチャンでさえ、その声にやられて、教会に来れなくなります。彼らが天国に行けないとは申しませんが、うなだれて、巡礼の道をトボトボと歩いている状態です。キリストは罪の代価を支払ってくださいました。そればかりか、私たちを責め立てる債務証書を十字架に釘付けされたのです。ですから、「いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて」巡礼の道を歩むのです。私たちはキリストの血を忘れてはいけません。

ゴスペルを歌っていますと、キリストの血を賛美している曲が非常に多いですね。今、練習している曲が、Precious is the blood「尊い血潮」という歌です。直訳するとこんな歌詞です。「おお、あがないの血!私のために流されたイエスの血。救いの血、きよめの血、カルバリーから。おお、神の小羊は十字架に付けられた!私の罪のために彼は血を流し、死なれた。ああ、何と尊い血潮だろう」。私たちが神の御前で誇れるのは、私たちの信仰とか私たちの行ないではありません。私たちが誇れるのは、私たちの罪のためにながされた、キリストの血です。キリストの血こそが、大胆に、聖なる神様に近づくことのできる根拠なのです。大祭司が血を携えて、至聖所に入られたように、私たちもキリストの血によって神様の近くに行くことができるのです。キリストの尊い血潮を賛美いたしましょう。キリストの血によって、私たちの良心がきよめられ、キリストの血によって悪魔は黙るしかないのです。アーメン。シオンの山、天のエルサレムに向って、胸を張って、巡礼の旅を続けましょう。

2.私たちへの勧め

 こういう恵みに預かっているのだから、「注意しなさい」と25節以降に述べられています。25節「語っておられる方を拒まないように注意しなさい。なぜなら、地上においても、警告を与えた方を拒んだ彼らが処罰を免れることができなかったとすれば、まして天から語っておられる方に背を向ける私たちが、処罰を免れることができないのは当然ではありませんか」。ヘブル人への手紙に何箇所か共通して書かれていることがあります。それは、「救いを得ているからと言って、慢心するなよ」ということです。改革派の人たちは、絶対的な選びを信じていますので、「一度、信じた者は滅びない」という神学に立っています。私も、どちらかと言うとそういう立場ですが、ヘブル人への手紙を読む限りは、信仰は機械的なものじゃないなーという感じがします。どちらかと言いますと、信仰は機械というよりは、生き物です。弱ったり、強くなったり、上がったり、下がったりします。私たちの体も、元気なときもあれば、弱ったりするときもあります。私たちの心、精神状態もそうですね。やる気満々のときもあれば、憂鬱で何も手につかないときもあります。では、信仰を恵まれた状態にキープする秘訣は何なのでしょうか。25節「語っておられる方を拒まないように注意しなさい」。だれが語っておられるのでしょうか。25節の半ばには「天から語っておられる方」と書いてあります。まず、わかるのはシナイ山から語られる声ではありません。モーセはとどろきのことばを聞いて「私は恐れて、震える」と言いました。そういう、さばきの声ではなく、優しい、慈しみの声であります。私は牧師になっても、教会が大きくならないので、神様は「何をやっているんだ。歯がゆいぞ!」と仁王立ちしているように思えました。しかし、『恵みの歩み』という本を読んで、いや、そうではないということが分かりました。父なる神様は私の姿を見て「そんなにがんばらなくて良いから、もっと気楽に。お前が何かしたからとか関係なく、私はお前を愛して、受け入れているよ」と言っているように思えたのです。

先週、大和の大川牧師から9月に行なわれる教会成長セミナーにお誘いを受けました。セミナーの前、チョー先生を囲んで、20人くらいの牧師が一緒に昼食をしようということなんです。先生から即座に「礼拝、何名集まっている」と聞かれました。「80名くらいかな」。「どうして100名いかないんだろう」。「どうしてでしょうかね。本当に不思議ですねー」。「早天やっているの」。「いいえ、個人個人でディボーションしています」。「それじゃー、いい加減になるなー」。そういうやりとりをした後、大川先生はあの路線で行くんだろうなーと思いました。私はある時から、教会成長を最終のゴールにしなくなりました。いわゆる、業績指向から解放されました。確かに、人数が集まっていないのは、問題かもしれません。でも、日本は、牧師と共依存の教会が多いし、そういう教会が大きくなるようです。みんな、牧師の一声に従います。日本人は、自分で考えるより、上からの指示に従うように生まれ育っています。だから、教会もそのような文化を取り入れて、牧会しています。文化を変えるよりも、文化を利用したほうが教会は大きくなるかもしれません。でも、真の教会はキリストのからだです。信徒一人ひとりが、からだの器官です。からだの器官はどこから指令を受けるかと言ったら、頭です。頭は牧師ではなく、キリストご自身です。ですから、信徒一人ひとりはキリストに聞いて行動すれば良いのです。牧師の顔や役員さんの顔を恐れることは全く必要ありません。天の声、聖霊様の声に従う、これが成長したクリスチャンの生き方です。いつまでも、クリスチャンを子どもにしておくのは問題です。これは、一教会を批判したのではなく、日本の教会の現状を言ったまでです。日本の教会のほとんどは小さいので、牧師たちは「神様は私を怠け者と思っているんじゃないだろうか」と縮こまっているのではないかと思います。本当はそうではなく、「小さいところでも忠実にやっているなー」とほほえんでいるのではいでしょうか。人間はさばきとか律法に対しては卑屈になりますが、恵みと励ましに対しては奮起します。

 もう1つ、28節に命じられていることがあります。「こういうわけで、私たちは揺り動かされない御国を受けているのですから、感謝しようではありませんか。こうして私たちは、慎みと恐れとをもって、神に喜ばれるように奉仕をすることができるのです」。この天も地も揺り動かされて消えてなります。だが、私たちは揺り動かされない御国を受けています。私たちは、この世の移り変わるようなものに土台しないしてはいけません。先週、小泉首相が靖国神社を参拝しました。私は高校野球を見ていましたが、突然、そちらの中継に切り換りムカッときました。先日の「リバイバル新聞」にとてもうがった解説が載っていました。「靖国問題の霊的核心は死者との交流にあるが、国の代表による参拝は、霊的悪影響も大きい。一方、政治面で言えば、中国や韓国の圧力によって国の態度を変えるのは間違っている。だが、米国の圧力には易々と屈してきたのも同じ首相である。日本は戦中は天皇を崇拝して戦いの動力と為し、戦後は経済を崇拝してきた。その結果、国家神道を基盤とした「神国」はキリスト教国アメリカに叩きのめされ、今や経済も米国の巨大な資本に飲み込まれようとしている。そんな国の民は、まるで最後の砦でもあるかのように、キリスト教だけは入らない。私見だが、キリスト教を受容すれば日本人が日本人でなくなり、米国に魂まで売り渡してしまう、といった感覚があるように思う。日本宣教の課題の1つは、大多数の日本人が「キリスト教は西洋の宗教だ」と思い込んでいる点にある。これはある意味、日本の教会が西洋的な教会形成をしてきた結果だとも言える。神学も音楽も教会堂も、西洋の模倣が強い。しかしすでに、キリスト教は西洋の宗教ではなく、南米やアジアにその重心を移している」。日本沈没という映画が上映されているようですが、この日本は経済的にも沈没してしまうということでしょうか。私たちは日本の宗教とか日本の文化というよりも、世の終わりが来ても、揺り動かされないものに土台を置かなければなりません。それは、聖書のみことばであり、礎石なるイエス・キリストご自身であります。

 ヘブル人への手紙は、「私たちは揺り動かされない御国を受けているのですから、感謝しようではありませんか。こうして私たちは、慎みと恐れとをもって、神に喜ばれるように奉仕をすることができるのです」と勧めています。私たちが信仰にとどまり、天のエルサレムに向うために、忘れてならないものがあります。それは自分がどんなところから救われたかを思い出して、感謝することであります。ある人たちは、せっかく救いを得たのに、何故、躓くのでしょうか?彼らは「信仰は捨てていない」と言うかもしれません。しかし、胸を張って、巡礼の旅を続けているとは思えません。私は自分がどんな所から救い出されたのか?かつては滅びの中にあったのに、御国に入れていただいた。罪に汚れ、希望もなく、ひどい状況から、救われたんです。そのことと比べたら、「教会がどうだとか、牧師がどうたったとか、兄弟姉妹がどうだ」なんて関係ないですね。私は子沢山の、貧しい家に生まれ、罪と汚れと傷を、腹いっぱいを受けていた人生でした。過去がひどかったからこそ、イエス様の救いが何よりも有難かった。今では、生まれと育ちがひどかったことを感謝しています。なぜなら、その分、イエス・キリストによる救いがかけがえのないものになったからです。私は牧師になったことは、さほど喜びではありません。罪赦され、神の子どもとされたことが一番の喜びであり、感謝なことです。牧師は神様から与えられた、召しに過ぎません。もう、10年数年後には牧師でなくなるかもしれません。でも、クリスチャンであることは、なくなりません。何故、感謝ができないのでしょうか。何故、信仰的に後退してしまうのでしょうか。それは、自分がどんなところから救われたかを忘れているからです。自分がまるで、救われるのに価値があったかのように誤解しているからです。傲慢な人は、自分にまるで救われる価値があったかのように思っています。それは大間違いです。私たちはこの世の中に捨てられていた、死んでいた存在なんです。長生きすれば70、80歳まで生きるもしれないけど、その後は、永遠の滅びに行く存在だったのです。私たちは道端に転がっている石ころだったのです。都会には石ころがないので、車の排気ガスですね。そう、排気ガスだったのです。それなのに、イエス様と出会ったお陰で、救いを受けて、御国に入れていただいた。これは夢物語です。世の中に、こんなうまい話はないんです。ですから、私たちは救いの原点、自分がどんなところから救い出されたのか忘れてはいけません。イザヤ51:1に「義を追い求める者、主を尋ね求める者よ。わたしに聞け。あなたがたの切り出された岩、掘り出された穴を見よ」とあります。これは、あなたがどんなところから救い出されたのか、忘れるなよという聖句です。もし、私たちが一方的なあわれみによって救われたということを感謝しているならどうなるでしょう。28節後半、「こうして私たちは、慎みと恐れとをもって、神に喜ばれるように奉仕をすることができるのです」。奉仕はおまけです。ほんの小さな感謝の現れです。奉仕しているのではなく、奉仕させていただいているのです。神様に用いられていることを誇ってはいけません。私たちが誇るのは、私たちを泥沼から救い出してくださった主イエス・キリストを誇るべきなのです。もし、このことを忘れなければ、救いから漏れることなく、御国に凱旋できるでしょう。

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2006年8月13日 (日)

苦い根      ヘブル12:14-17

 私たちは互いに影響しあって生きています。「自分は中立で誰からも影響を受けないぞ!」と思っていても、ある人のところに近づいたとたん、自分の悪いものが引き出されてしまうことはないでしょうか。急に自分が卑屈になったり、意地悪な思いが起こったり、敵対心が起こったりします。そのうち、「ああ、この人は私の苦手なタイプだなー」と遠ざかるようになります。しかし、これが夫婦の場合は、簡単には行きません。しょっちゅう顔を合わせていますので、関係が改善されない限りは、どんどん泥沼にはまっていきます。私たちは職場や教会でも、いろんな人と会います。「なぜ、この人は私の悪いところを引き出すんだろう」。「この人といると、なんでムカつくんだろう」。「この人といると、なんで心が落ち着かなくなるんだろう」。そういうことはないでしょうか。きょうは、「苦い根」と題して、内面の癒しと変革が与えられるように共に学びたいと思います。

1.苦い根と苦い根の期待

 ヘブル12:15「そのためには、あなたがたはよく監督して、だれも神の恵みから落ちる者がないように、また、苦い根が芽を出して悩ましたり、これによって多くの人が汚されたりすることのないように」。「苦い根」は英語の聖書では、bitter、 bitternessとなっています。チョコレートでも、bitterとsweetの2種類があります。「ああー、sweetな人生を望んでいるのに、なんでbitterになってしまうんだろう!」と悩んではいないでしょうか。幼いときに、父や母に対して、さばいてしまったために、種がまかれます。地中深く潜っていましたが、だんだん成長し、根を張り、枝を張ります。いつしか、洗礼を受けて、クリスチャンになるときに一大変革が起こります。霊的に新しく生まれ変わり、心の問題もある程度、解決します。まるで野焼き状態になり、いばらや雑草も焼かれ、きれいさっぱりとなりました。しかし、どうでしょう。地中に埋まっている種や根っこはまだ生きています。しばらく立つと、いばらや雑草が生えてくるんです。クリスチャンになったとき、かなりのことが解決されます。「おめでとう!」と言いたいのですが、幼い時に蒔いた種が、ムクムクと大きくなります。この苦い根が芽を出すと、自分ばかりか、周囲の人を汚してしまうのです。周囲の人とは、夫、妻、子供、友人、同僚、そして教会の兄弟姉妹です。聖書は「苦い根が芽を出して悩ましたり、これによって多くの人が汚されたりすることのないように注意しましょう」と言っています。

 私は数年前、エリヤハウスで、この学びを受けました。苦い根とは何でしょう。あなたが幼いときに、お父さんもしくはお母さんに対して、裁いたことです。例えば男性だったら、「お母さんはなんて口うるさいんだろう。ああ、私は口うるさい女は嫌いだ!」と裁くことがあります。それは、苦い根の種なんです。ガラテヤ6:7,8「人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取りる」と書いてあります。1粒の種が成長して1粒の種の実を結ぶでしょうか。そんなことはありません。自然の法則は、1粒の種から100倍、200倍の実を結ぶことになっています。ですから、幼子のときは小さな1粒でも、大人になったときは多大な実を刈り取ることになるのです。そして、その男性が一人の女性と結婚します。結婚前はもの静かで品の良さそうな女性でした。ところがどうでしょう。結婚してしばらくたつと、その妻は、本当に口うるさい女性になってしまいました。しかし、ここに不思議な現象があります。妻は口うるさくするつもりはないんです。でも、夫が自分に対して、口うるさくなるように仕向けているのです。別な表現で言いますと、夫は妻が口うるさくなることを期待しているのです。こんなことってあるでしょうか?あるんです。苦い根と苦い根の期待は、ペアーになっているんです。この男性が、幼いときに「女は口うるさいものだ」と母をさばいたために、口うるさい女性と結婚するようになったのです。彼は「ああ、やっぱり、女は口うるさいものだ」と納得します。

『内なる人の変革』という本に書いてありました。ある1組の夫婦が相談にやってきました。夫は「家内が太りすぎて我慢できない」と言いました。一方、妻は「彼がいつも批判することをやめてくれれば、もっと簡単にやせることができるのに」と言いました。よく聞いてみると、ご主人を育てた母親は、肥満していただけでなく、だらしない人でした。自分の容姿を手入れすることを怠り、家もいつも散らかり放題でした。トイレに行く時も戸を開けたままでした。彼は母親の外見と習慣に対して、裁く気持ちを抱きました。このとき苦い根の種をまいたのです。結婚した当時、奥さんはほっそりとした美しい女性でした。まもなく彼女はお腹が大きくなり、夫は彼女のことを「美しいよ」と言わなくなりました。出産後も元の体重に戻るまで、しばらく時間がかかりました。夫は以前にも増して苛立ち、批判的になりました。彼は「自分は母とそっくりな女と結婚してしまった」と確信するようになりました。妻は余計に苛立ち、落ち着きがなくなり、お腹が空いて食べるようになりました。さらに、自分自身や家をきちんとした状態で保つことができなくなりました。これは単なる心理的期待ではありません。ここには法則があります。夫が子供のときに自分の母親を裁きました。彼はさばきの種をまいたので、いつの日か刈り取りをすることになったのです。ちなみに、この女性の父親は気難しい人で、いくら努力しても、父に気に入ってもらうことはできませんでした。父親はいつも何かと批判の種を見つけました。つまり、夫は妻が太ることを期待し、妻は夫が批判することを期待していたのです。

 エリヤハウスの創設者、ジョン・サンフォード師も、ご自分のことを証しています。ジョン・サンフォードは、仕事中毒であっただけでなく、いつも帰宅が遅れました。結婚して最初の数年間、ジョンはいつも教会員の家庭を訪問した後、夕食に遅れて帰宅しました。奥さんのポーラは、そのことでジョンを攻め、ジョンは「今度こそ時間に気をつけて、遅れないように帰宅するよ」と約束しました。しかし、彼女の叱責もジョンの決心も、何の役にも立ちませんでした。ジョンには時間を守ることを妨げる何かがあるようでした。実はこういうことがありました。ポーラの父親は巡回セールスマンだったため、一度に二週間も家を空けました。彼女は子供のとき、「パパはどうして、私が必要なときに、側にいてくれないのかしら?」と裁きました。彼女は「男はいつも私を置いていってしまうんだ」という苦い根の種を蒔いたのです。それが、結婚してから刈り取るようになりました。ジョンの方はどうだったでしょう。ジョンは非常に批判的な母親によって育てられました。彼は、そのことで、母をさばきました。「女は私に長時間働かせた上、そのことで私を慰めたり、感謝の意を表すことはないんだ」という、苦い根の種を蒔きました。ポーラの方は「男性はいつも私を置いてけぼりにする」と言う期待がありました。だから、ジョンは家に帰らないで仕事中毒になりました。一方、ジョンは「女性は、私がいくらやっても、感謝してくれたり、満足してくれないんだ」という期待がありました。そのため、ポーラは感謝するどころか、仕事中毒の主人を批判したのです。「まあ、なんとうまく」というか、破壊し合う夫婦になっているのでしょうか。お互いが持っている苦い根によって、お互いが汚されているというパターンがあります。お互いの欠けているところを補いあって、相乗効果を生み出すのが理想的な夫婦でしょう。ところが、残念なことに、お互いが悪い物を引き出し合っています。これが、苦い根と苦い根の期待であります。

 この勉強をしているとき、「私にもあるなー」と思いました。私は8人兄弟の7番目で育ちました。一番上の姉と一番上の兄はとっても優秀で、下の兄弟は太刀打ちできませんでした。私などは、通知表に5が2つあったとしても、ちっともほめてもらえませんでした。すぐ上の兄は、頭はあまりよくありませんでしたが、運動神経が抜群でした。その点、私は徒競走でも2位か3位で、1位になったことがありません。頭の面でも運動でも、父や母からほめられたことがありません。私は「いくらがんばっても、どうせ評価されないんだ!」と思いました。そのとき、父や母を心の中で裁いたと思います。大人になって、それがどのように影響しているでしょうか。「私がいくらがんばっても、人から評価されることはないんだ。分かってくれるのは自分と神様だけだ」。クリスチャンになって、神様が評価してくれるということは慰められました。しかし、人間からはまったく期待していません。それが今も続いています。『内なる人の変革』で、ジョンは自分のことをこう言っていました。「私は自分が長時間働きながらも批判されるだけで、充分な愛情を受けることのない、殉教的な苦難のしもべになるという期待を持ちました。ポーラは結婚したときは愛情のかたまりでしたが、5年が過ぎる頃には、前ほど愛情深くなくなりました。」私はそれを読んで気づかされました。私は家内からもそうですが、教会員からも、ねぎらいや評価を受けることを期待していません。むしろ、「だれもわからなくて結構、どうせ人間の目はふし穴だから…」。ということは、私は家内や教会員をそのように汚しているということになります。わー、これは大問題です。今、3つか4つの例を具体的にあげました。みなさんの中に、苦い根と苦い根の期待というものはないでしょうか。「なぜ、あの人はあんな態度を取るんだろう!」「なぜ、あの人はあんな口の利き方しかできないんだろう!」「なぜ、あの人はぐずでのろまで、優柔不断なんだろう!」その前に、あなたが周りの人に、そうなるように仕向けているのかもしれません。相手に変われという前に、あなたの中の苦い根を処理すべきなのではないでしょうか!

2.癒しと変革

 エリヤハウスでは、癒しと変革を得るための5段階というのがあります。それは、認識、悔い改め、赦し、十字架、新しい命です。この5つはどんな問題にも当てはめることができます。ですから、苦い根と苦い根の期待もこの5段階を当てはめてみたいと思います

認識

 まず、自分が人に対してどういうオーラーを発しているかです。これは自分で分かるものもありますが、あなたの夫もしくは妻から聞くとよーく分かります。親しい兄弟姉妹も案外わかります。そのとき、ずばり言われたとしても、どうか怒らないでください。子供のとき、お父さんもしくはお母さんをきっとさばいたはずです。あなたが子供のときどんなことをさばいたでしょうか。第一のポイントで話したことは省略しますが、男性だったらどんなことがあるでしょうか。

お母さんは、お父さんを尻に敷いていた。「無神経で、強い女性はきらいだ」。するとあなたは、無神経で冷淡な女性を身近に引き寄せます。あなたは恐妻家かもしれません。

お母さんが「あそこが痛い、ここが痛い」とこぼして、父親になんでもさせていた。その人は、自分の奥さんが痛みに大げさなのを見て、腹が立ち、手を貸そうとしません。

お母さんがいつもうわさ話をして、しゃべってばかりいた。「おしゃべりな女性は嫌いだ」。あなたが耳を傾けないので、奥さんは何でもヒステリックにあなたに話しかけませんか。

お母さんはいつも買い物ばかりして、金使いが荒かった。「だから、女性には財布を預けてはいけない」。あなたは女性を信用していないかもしれません。

今度は女性の方です。

お父さんは横暴でお母さんを苦しめていた。「横暴な男性は許せない」。そうすると、あなたは横暴な人と結婚して、そのことで怒りをためているかもしれません。

お父さんは私を守ってくれなかった。「私を守ってくれる男性などいないんだ!」あなたは独立心が大せいかもしれませんが、あなたを守ってくれる男性がいなくなります。

お父さんは私の話をちっともきいてくれなかった。「どうせ、男性に話をしても無駄なんだ」。あなたは、人とコミュニケーションするのが苦手かもしれません。

お父さんはいつも母や私をダメ人間みたいに批判した。「男には決して、負けないぞ」。あなたは能力があるかもしれませんが、男性からの助けを寄せ付けません。

私は専門家でないので、明確でないかもしれません。でも、何か、自分の傾向性を発見したでしょうか?まず、認識することが大切です。

悔い改め

 悔い改めというのは、今の時点ではなく、あなたが幼いときのことです。確かに周りがよくわからなかったかもしれません。親の状況がどうであれ、幼いあなたがお父さんやお母さんに対して怒りを持ち裁いたことがあるはずです。仕事、病気、離婚、死去などの理由からあなたは置き去りにされたかもしれません。そのときお父さんもしくは、お母さんに「冷たい親だ」とか「一人ぼっちにしてひどい」とさばいたかもしれません。裁いたなら、たいていは配偶者を通して刈り取るでしょう。ですから、「一人にしたお父さんもしくは、お母さんに対して、さばきました。どうかお赦しください」と悔い改めるのです。また、お母さんに対して口うるさいと裁いたこと、あるいは、太ってだらしないと裁いたことを悔い改めます。「横暴だ、身勝手だ」と父をさばいたことをお赦しくださいと祈ります。え?なぜなの、「悪いのは親の方じゃないか!」と思うかもしれません。しかし、マタイ7:1-2に神の法則が記されています。「さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです」。あなたが裁いた分野だけ、あなたには神の恵みが届きません。あなたが裁いた分野だけ、あなたの伴侶もしくは他の人から裁かれることになるのです。これは一種の呪いです。しかし、苦い根を光の中に差し出すときに、あなたは解放されます。

赦し

3番目は赦しです。「うちは共稼ぎだったから仕方がなかったんだ」とか、「病気だったから」と大人の立場で赦すのではありません。傷を受けた、小さな○○チャンが、お父さんもしくは母さんを赦すのです。ある場合は、お兄ちゃんやお姉ちゃんかもしれません。できるだけ具体的に言います。「私を一方的に批判した父を赦します。父の言葉でいっぱい汚されました。どうか私をきよめてください」。「横暴だった父を赦します」、「口うるさかった母を赦します」、「正統に評価してくれなかった父母を赦します」。「私を見下した、兄や姉を赦します」。たとえ、赦す感情が来なくても、赦しますと宣言することが大切です。赦すということは、恨みを手放すことです。赦さない限りは、この借りをだれかから埋め合わせしてもらわないと満足できません。あなたはそのために、妻や夫、あるいは周りの人たちに「借りを返せ!」と圧力をかけてきました。多くの病は赦さないことから発生します。赦しこそは一番の癒しです。

構造を十字架につける

 多くのものはあなたの性格の一部になっています。女性を軽蔑する傾向、男性に対抗心を持つこと、人を頼らないで自分だけでやること、人からの評価を受けないこと、批判的な性格、冷淡な心、仕事や趣味に逃避する癖、人の話を聞こうとしないこと、崇高な殉教者、自己憐憫…そのような性質を十字架につけます。十字架につけるということは、その性質を十字架につけて死なすということです。十字架は悪い性質を死なせ、呪いを打ち砕く力があります。今までは、これは私の性分だ、私のこだわりだ、私の性格だ…とごまかしてきたかもしれません。そうではなく、自分の手かせ足かせになっていたことを認め、1つ1つ十字架につけるのです。女性に耳を傾けない性質を十字架につけます!ねたみ心を十字架につけます!皮肉っぽい口を十字架につけます。諦めやすい、失望落胆の心を十字架につけます。ぜひやってみてください。

新しい構造に置き換える

 最後に、十字架で死なせた部分に、新しい命(構造)を神様からいただきます。古い性質と新しい性質を取り替えるわけです。冷淡な心に対して、同情心ある心です。批判する唇に対して、徳を建てることばです。女性は、男性を敬い信頼する心をいただきましょう。男性は、女性を敬い慈しむ心をいただきましょう。苦い根に対抗するものは御霊の実です。ガラテヤ5:22,23「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です」。

家内はお父さんが出稼ぎでいませんでした。だから、男性に甘えるとか親しいコミュニケーションを持つということが苦手です。私は、母はいましたが、他の兄弟を愛し、私は「お前が一番親不孝者だ」と言われました。ですから、私は女性に対して甘えたくても、遠い存在みたいに思っていました。家内も私も実は、近くにいながら遠い存在だったのかもしれません。はじめは、自分の苦い根が蒔いた、呪いみたいに思うかもしれません。お互い、問題をある人どうしを引き寄せあったのかもしれません。でも、神様はそのことをも益に変えてくださいます。そうです。神様は、あなたがそれに気づいて、成長するように、あえて研ぎ合う存在を与えたのです。ハレルヤ!それを禍に変えるのも、福に変えるも、あなた次第です。きょうの結論は、わたしたちが持っている苦い根、あるいは苦い根の期待の多くは、父や母から来たものだということです。もし、現時点で、不自由を感じているならば、「ああー、あのことでさばいたからかなー」と探ってみてください。苦い根が芽を出していて、それを引っ張っていくと、地下茎のようにつながっています。もとをたどったら、親子関係から来ていたというものが多くあります。もう、それはあなたの性格になっていて、意思や努力ではどうしようもありません。解放されるためには5つのことが必要です。第一は認識、第二は悔い改め、第三は赦し、第四は十字架につけて死なす。第五はそこに新しい命をいただくということです。

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2006年8月 6日 (日)

訓練と思え       ヘブル12:4-11

 ヘブル12:5-11まで、「懲らしめ」という言葉が7回、そして「訓練」という言葉が2回出てきます。新約聖書はギリシヤ語で書かれていますが、11節の「訓練」を除いて、すべてパイデュオー、あるいはパイディアになっています。パイデユオーというのは3つの意味があります。第一は、教育する、教えるという意味です。第二は、正道に導く、訓戒するという意味です.そして第三は、懲らしめる、罰するという意味です。また、面白いことに、パイデイアは、幼子とか子どもと良く似ている言葉です。語源は分かりませんが、幼子や子どもに対する「しつけ」と関係するのではないかと思います。英語の聖書はほとんど、disciplineと訳されており、訓練を受けるという意味があります。私たちは生まれてからある年齢に達するまで、親や先生から教育を受けたり、訓戒を受けたり、懲らしめを受けます。聖書は、父なる神様は地上の親のように、霊的な子どもに対して、懲らしめや訓練を与えると言うのであります。

1.懲らしめの消極的意味

何故、懲らしめが存在しているのでしょうか。愛なる神様が、人間に懲らしめを与えるなんて考えられないという人もおられるでしょう。聖書は、「主は愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えるからです。神様はあなたがたを子として扱っておられるのです。もし、懲らしめを受けていないとすれば、私生児であって、本当の子ではないのです」と言っています。ということは、神の子どもなら、父なる神様から懲らしめを受けるのが当然であるということです。ここには、肉の親も子どもを懲らしめるということが前提にあります。しかし、私たち日本人には、懲らしめというのは「いけないことをした時に与えられる罰」としか認識がありません。正直、あまり良く分からないのではないでしょうか。私自身も、親や先生から数え切れないほどの懲らしめを受けてきました。食事抜き、体罰、「出て行け」と言われたり、バケツを持たされたり、居残りだったり…。しかし、多くの場合、何がなんだか分からないうちに、罰せられたということがほとんどです。あらかじめ、「こういうことをしたら、こういう罰を受けますよ」と説明があれば良いのですが、やった後に懲らしめを受けたような気がします。自分は、悪くないのに、不当な扱いを受けたという、心の傷の方が残っています。だから私は、大岡越前とか、遠山の金さん、それから水戸黄門などの勧善懲悪ものが大好きなんです。私がクリスチャンになって、とても慰められたことは、神様は義なるお方であり、公平にさばいてくださるお方だということです。もちろん、自分が悪さをしたときには懲らしめを受けるでしょうが、神様はすべてをご存知であり、その上で、正しいさばきをしてくださいます。だから、世界に正当な裁きと報いを与える神様が君臨しておられるということで、安堵感が与えられました。

 では、懲らしめとか罰は何故、やって来るのでしょうか。子どもは生まれつき善悪の区別を知っているわけではありません。まず、「してはいけないこと」があります。つまり、正しい規則なり基準があるわけです。「これを越えたら、処罰を受けますよ」と言う「決まり」です。大体、規則というのは自分の身を守るものであったり、他人の権利を奪ったりしないためにあります。たとえば、道路に飛び出したら、怪我する場合もあるし、命を失うときもあります。左右を見てからと注意されていたのに、ボーンと出ちゃった。そのときは、親がお尻をスパンクします。すると、次からは、道路の前に立つとき、お尻を触りながら、右左を見るわけです。人を殴ったり、人のものを盗んだときも、懲らしめを受けるでしょう。そのとき、「ああ、そういうことしちゃいけないんだなー」と身を持って分かります。もう1は、「しなければならないこと」があります。それは、自分の部屋の掃除、持ち物管理、宿題、歯磨きとか、です。これらはすべてその子の責任であります。ところが、親が代わりにやってあげたらどうでしょうか。母親が子どもの部屋を掃除し、学校の持ち物を備え、宿題を代わりにしてあげたらどうなるでしょうか。子どもは「ママ、まだなのー」なんて、突っ立っているだけです。その子が大人になったらどういう人になるでしょうか。責任を人になしりつけ、人を支配する人になるでしょう。その子が自分の責任を果たせるように、親は「自分の部屋は自分で掃除しなさい」と命令を下します。それをしたからと言って、褒美を与えるわけではありません。なぜなら、その子の責任だからです。たとえば、おもちゃを片付けなかった場合どうするでしょうか。親はしばらくおもちゃを預かるとかして、罰を与えるしかありません。「キッズ・バウンダリー」を書いた、ヘンリー・クラウドとジョン・タウンゼントはこう言っています。子どもは生まれながらにして、善悪を見分ける術を持っているわけではない。子どもにとって、心地よいことは「善」であり、いやなことは「悪」なのである。そんな子どもたちを、幸せで意義のある人生を送れるような人間に育てるためには「ルール」が必要なのである。「してはいけないこと」「しなくてはならないこと」をきちんと見極められる人間、他人に思いやりを持ち、社会で自分の役割をきちんと果す人間となるためのルールを、この本では説いていく。そのためのプロセスこそ「人格形成」なのである。

 私はこういう理路整然とした「ルール」を教えてもらえませんでした。それなのに、いっぱい叩かれ、いっぱい叱られ、いっぱい罰をうけました。私の心は父や母、兄たち、学校の先生、職場の上司などに対して恨みが一杯残りました。「何でだよー。俺は悪くないのに何でだよー」という疑問符が頭の中にいっぱい残ったままで大人になりました。私のクリスチャンになる前の人生は「チクショー」と「何でだよー」が口癖でした。なんか、お笑い系に、「チクッショー」とか「何でだよー」と言うのがいますね。しかし、クリスチャンなってしばらくしてから、「ルールの源は、神様なんだなー」と分かりました。それは、神様がこの世界を創造したとき、自然界の法則だけではなく、道徳的な法則も作られたということです。ガラテヤ6:7-8「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです」。もし、善悪のけじめを知らないで、あるいは無視して大人になったらどうなるでしょうか。この世界がその人に対して、懲らしめを与えるようになるでしょう。人は蒔いたものを刈り取らなければならないのです。たとえば、私が任せられた仕事をしないとします。そうすると、給料はカットされ、職場を追われてしまいます。また、時間には遅れる、果した約束は守らない、人に責任をなしり付けるならどうなるでしょうか。友達が去っていき、だれからも信用されなくなるでしょう。運動しないで、食べ続けるならば、心臓に負担がかかり、病気になるでしょう。人のものは自分のもの、「俺は何をやっても自由なんだ」とやってしまったら、最後には刑務所で学ぶしかありません。人は、悪いものを蒔けば、滅びを刈り取る。つまり、その人は、「痛み」を与えられて初めて気付くのです。ある意味で、「痛み」は良いものなのです。痛みが与えられて、「ああ、私は神の法則に反した」と言うことが分かるからです。神の愛は無条件です。しかし、神の祝福は条件付きです。私たちが正しい選択をして、責任を持って生きるならば、必ず実りが与えられます。仕事が与えられ、給料はアップし、良い友達が増え、健康が与えられ、人々からも感謝されるでしょう。残念ながら、生まれつきの私たちは頑固なんです。損失、痛み、怪我、入院、離婚、失業、破産、喪失、失敗、孤独…そういう高い授業料を払わなければ、学べないという、愚かなところがあります。でも、神様の御手は休むことがありません。その人が悔い改めて、正しい道に戻るまで、ぎゅーっと圧力がかかるのです。ある人は、プライドが完全に砕かれ、謙虚になるまで、荒野を旅することになります。中には、病院に入院したり、鉄格子に入り、どん底まで落ちないと目を覚まさない人もいます。

 でも、みなさん、懲らしめは良いことなんです。その人が痛みを通して、神様の道に立ち返ることができるからです。放蕩息子も、お金がなくなり、友達が去り、ききんが来て、豚飼いになりました。「豚の餌で腹を満たしたい」と思ったときに、父の家を思い出したのです。詩篇119篇にこのようなみことばがあります。67節「苦しみに会う前には、私はあやまちを犯しました。しかし今は、あなたのことばを守ります」。71節「苦しみに会ったことは、私にとって幸せでした。私はそれであなたのおきてを学びました」。人のせい、あるいは神様のせいにして恨むことも可能です。でも、「ああ、あの痛みや苦しみは、神様の法則を学ぶためだったんだ。ありがとうございます。私は頑固なラバにならないで、あなたの御声に従います」。そのように、足を返して、従うなら、こんどは、祝福の法則がその人に及ぶのです。

2.懲らしめの積極的意味

 12:11「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」第一のポイントは「懲らしめ」の消極的な意味でした。第二のポイントは「懲らしめ」の積極的な意味です。それは、訓練とか、鍛錬と言った方が良いかもしれません。聖書をみますと、神様は人を用いる前に、必ず、訓練を与えます。生まれつきの人をそのまま用いるということは、まずありません。神様はその人にふさわしい試練を与え、ある年数を経た後、はじめて舞台に立たせるのです。旧約聖書で、そういう人たちを上げたら、枚挙のいとまがないほどです。一番、有名な人はヨセフです創世記37:3以降「イスラエルは、彼の息子たちのだれよりもヨセフを愛していた。それはヨセフが彼の年寄り子であったからである。それで彼はヨセフに、そでつきの長服を作ってやっていた。彼の兄たちは、父が兄弟たちのだれよりも彼を愛しているのを見て、彼を憎み、彼と穏やかに話すことができなかった。あるとき、ヨセフは夢を見て、それを兄たちに告げた。すると彼らは、ますます彼を憎むようになった」。イスラエル、またの名をヤコブと言いますが、ラケルから生まれたヨセフが可愛くて、可愛くて仕方がありませんでした。「そでつきの長服」とは、王子様のように働かなくても良いということです。おまけに、ヨセフは夢を自慢して、兄弟たちに告げます。麦の束の夢も、星の夢も、ヨセフを兄弟たちが拝むようになるという夢でした。それでなくても、憎んでいたのに、他の兄弟たちは「ヨセフを殺そう」まで思いました。結局、ヨセフはエジプトに奴隷として売られました。彼は最初、ポテファルの家で仕えました。主がヨセフと共におられたので、主人の家が祝福されました。ヨセフはその家と全財産の管理を任されました。ところが、ポテファルの妻が誘惑してきたので、ヨセフは上着を残して外に逃げました。ポテファルの妻は「あの男が私にいたずらをしようとしました」とウソをつきました。ヨセフは捕らえられ、こんどは監獄に入れてしまいました。そこでも主がヨセフと共におられたので、すべてのことが任せられました。ある日、王の家来の夢を解き明かしてあげました。ヨセフは事情を話し、監獄から出たら「パロに私のことを話してくださいね」と頼みました。ところが、彼はそのことを忘れました。それから2年後、パロが夢を見ました。不思議な夢で、だれも解き明かすことができません。家来は、「ああ、そう言えば、夢を解き明かすヘブル人がいた」と思い出し、ヨセフはパロのところに呼び出されました。

そのとき、ヨセフは何と言ったでしょう。「私ではありません。神が知らせてくださるのです」と答えました。ヨセフは13年も奴隷生活をしてすっかり砕かれたのです。以前だったら、「この私が解き明かして差し上げましょう!」と威張って答えたかもしれません。もう、以前のヨセフではありません。彼はパロの夢を解き明かし、「7年間の豊作のあとに来る、大飢饉に備えよ」と告げました。パロは「さとくて知恵のある者は他にいない。エジプトの全土を支配させよう」と、自分の指輪をヨセフにはめさせました。ヨセフは奴隷から宰相(総理大臣)になったのです。ききんが、カナンにも及んだので、兄弟たちが穀物を買いに来ました。あの夢のように、兄弟たちがヨセフの前にひれ伏しました。兄弟たちは目の前の総理大臣が、ヨセフだとは全く分かりませんでした。ヨセフは何度も兄弟たちを試しますが、とうとう最後には、身分を明かします。兄弟たちはビックリして、「ああ、きっと俺たちは殺されるぞ!」と恐れました。ところがヨセフは何と言ったでしょう。「神がいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです。ききんはあと5年続きますから、父上をはじめ、みんなエジプトに来てください」と言いました。あの我ままで、高慢なヨセフはどこに行ったのでしょうか。13年間の奴隷生活が、ヨセフをそのように変えたのであります。神様はヨセフをエジプトの総理大臣にするために、訓練したのであります。詩篇105:18,19「彼らは足かせで、ヨセフの足を悩まし、ヨセフは鉄のかせの中にはいった。彼のことばがそのとおりになる時まで、主のことばは彼をためした。」英語の聖書には、He was tested by the Lords command.「主の命令によって、テストされた」となっています。わー、たまったもんじゃないですね。神様は私たちを用いるため、その前にテストされるということです。いやですねー。

神様はあなたを愛するがゆえに、そして、あなたを用いたいがために訓練を与えます。どのように、でしょうか?それは試練というノミをもって、あなたを砕くのです。ここに掘り出された岩の塊、原石があります。岩自身は、「私はこう見えても才能はあるし、立派なものよ。だれからも指図は受けないわ」と思っているかもしれません。ところが、神様は試練というノミを持って、こっちからカーン、あっちからカーン、そのたびに、「ワー、痛いよー。やめてくれー!」と叫びます。しかし、簡単に止まないんです。さらに、上からも、横からも、斜めからもカーン。「神様、ひどいじゃないかー。やめてよー!」泣き叫びます。しかし、長い年月がたって、その岩は、見事な彫刻に生まれ変わります。これが、神様の聖さにあずからせるということです。先週の水曜日、ボクシングの世界タイトルマッチがありました。亀田三兄弟というのが、とても人気があり、たくさんの芸能人、スポーツ選手も観戦に来ていました。彼はすごい態度がでかくて大口を叩きます。それが若い女の子にも人気があるようです。日本人の価値観、どうかしていると思います。試合が始まり、第一ランドでノックダウン。彼は立ち上がり善戦しました。素人目で、「負けたかな」と思いましたが、判定勝ちをしました。TBSには、抗議電話やメールが4万件も届いたそうです。対戦相手は「彼はボクサーとして、人間として、学ばなければならないことがたくさんある」とコメントしていました。ボクシングは強ければ良いと思うかもしれませんが、人間としての成長も必要だということです。私は以前、大きい教会は良い教会だと考えていましたし、また、そういう教会を目指していました。でも、神様はクリスチャンとして一人ひとりはどうなのか、牧師はどうなのかということをごらんになっています。

かなり前になりますが、レイモンド・エドマンという人が『人生の訓練』と言う本を書きました。冒頭にこう書いてありました。「現代は訓練を忘れた時代である。昔から守られてきた人生における訓練の道はくずれ、そのために、社会をささえる大切な基礎がぐらついてきている。…私たちは、訓練によってのみ得られる、キリスト者としてのしっかりした人格を身に付けるために、霊的、精神的、肉体的、社会的な訓練を受けなければならない」。その本には、31種類もの訓練が述べられていました。弟子としての訓練、危険に対する訓練、敢行(危険を承知であえて行なうこと)の訓練、暗黒における訓練、決断の訓練、晩年における訓練、中傷における訓練、自己弁護についての訓練、欠陥における訓練、遅延における訓練、喜びについての訓練、信頼性の訓練、欲望についての訓練、孤独を通しての訓練、絶望における訓練、ささいなことにおける訓練、成し遂げる訓練、困難における訓練、逆境における訓練、失望における訓練、識別力の訓練、不平不満を制する訓練、軽蔑に耐える訓練、病気による訓練、幻滅に対する訓練、出世についての訓練、逸脱についての訓練、権力を行使する訓練、疑いについての訓練、忍耐の訓練、任務遂行の訓練…わー、ざっと31です。箴言も31章ありますが、1ヶ月も31日です。ということは、毎日、訓練だということです。その本の中で、一番印象的だったのが「遅延の訓練」と言う項目でした。遅延とは、神様が約束を遅らせることによって、私たちを訓練するということです。アブラハムは約束の子が与えられるまで、25年もかかりました。ヨセフはエジプトで13年間も、奴隷として生活しました。モーセは荒野で40年間過ごし、80歳になったときには、「私は一体何者でしょう?」と言いました。ダビデは次の王になるための油注ぎを受けたのに、サウル王から命を狙われ、ベツレヘムの山腹をさまよい歩きました。預言者エリヤは、3年間、からすとやもめによって養われました。あのイエス様ですら、ナザレで、30年間も沈黙の日々を過ごしました。使徒パウロも10数年間、アラビアとダマスコで過ごしました。中国伝道で有名なハドソンテーらは、6年間熱心に伝道したすえ29歳で健康を害し、5年間、ロンドンの寂しく貧しい一角で「祈りと忍耐の生活」を過ごしました。本はこうまとめています。「あなたも遅延における訓練を受けているだろうか。活躍するために静まり、強められるために弱くなり、語るために黙し、健やかになるために病み、よき友情を得るためにしばし忘れられ、良い機会に恵まれるためになかなか方向が示されない、というような訓練を受けているだろうか。遅延はあなたの真の奉仕に力を添え、その足取りを早めてくれるものである」。

さまざまな懲らしめや訓練は、聖徒たちを整えるために、神様が計画されたものです。父なる神様は、愛するわが子だからこそ、懲らしめ、むちを加えられるのです。いま、あなたが受けている試練も、神様があなたを整えるために許可されたものなのです。ですから、それらを訓練として耐え忍び、平安な義の実を結ばせていただきたいと思います。

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