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2006年7月30日 (日)

イエスから目を離さず       ヘブル12:1-3

 ある牧師が未開の人たちのところで説教しました。「人生とは、マラソンのようなものです」と言いました。通訳者は非常にこまりました。だって、彼らは毎日、狩りのためマラソンをしても、競技のためにマラソンなんかしたことがないからです。今、柏兄弟を始め6人の日本人が、フィリッピンのミンダナオに宣教に行っています。柏兄弟なら、「人生とは格闘技みたいなものです」と言うかもしれません。きょうの箇所には、「競争を走る」と書いてあります。皆さんの中には、運動場などで、久しく、走ったことない方もおられるかもしれません。しばし、ご自分が競技場を走る一人の選手であるというように想像してみてください。短パンにランニングシューズのスタイルで、アンツーカーのグラウンドに立っています。

1.競争を走る

 1節の「多くの証人たち」と言うのは、11章にあげられている信仰の勇者たちです。アベルから始まり、ノア、アブラハム、モーセ、ラハブ、ギデオン、ダビデたちがいました。名前こそあげられていませんが、イザヤやダニエルと思われる記事がありました。「多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いている」ということはどういうことでしょうか。それは、オリンピックのスタジアムを連想したら良いと思います。各時代ごとに、信仰の先輩たちが観客席に並んでいます。旧約時代の族長たち、王様、預言者たちがいます。次は新約聖書の弟子たち、ペテロやパウロたちがいます。さらに進むと、ローマ時代、迫害を耐え忍んだ聖徒たちがいます。中世の教会の人たちがいます。何か彼らのいでたちは、古風ですが華麗です。さらに宗教改革の時代、そして近世の教会の人たちがいます。その中には、ルターやジョンウェスレーもいるでしょう。そして、現代です。この間まで生きていた人たちです。ヘレン・ケラー、賀川豊彦先生、マザー・テレサもいますね。当教会の戸叶長老や山崎長老さんもいます。私を信仰に導いてくれた職場の先輩もいます。この地上で、有名だった人も、無名だった人もいます。この地上では有名だったけど、天国では無名だった人もいるかもしれません。彼らはレースを既に終えた人たちです。雲のように無数の証人たちが「ワーワー」と歓声を上げて、応援しています。では、だれが競技場で走っているのでしょうか?そうです。今、現在、生きている私たちが走っているのです。彼らはサポーターかもしれませんが、私たちこそが実際、走っている選手なのです。私もこの間、53歳になりました。先日、ゴスペルで「鈴木先生は、高齢者かどうかわかりませんが」と祈ってくれた人がいました。複雑な気持ちになりましたが、バトンを次の世代に渡す時期になったのかもしれません。もう、第4コーナーを回った地点なのかもしれません。

 さて、このレースにおいて重要なことは何でしょうか。皆さんも、小学校のころから、運動会でグラウンドを走ったことがあると思います。どんなことが重要でしょうか。そうです。走るときは身軽でないといけません。長靴では走れません。オーバーコートを着たり、バックをぶら下げて走る人はいません。ましてや、両足に重しをくくりつけて走る人はいません。ところが、信仰のレースではそういうことがあるんです。12:1後半「私たちも、一切の重荷とまつわりつく罪を捨てて」と書いてあります。私たちはゴールを目指して走る選手でありますが、それを邪魔するものがあります。まず、重荷であります。信仰生活における、重荷とは何でしょうか。それは神の国に関係がなくて、さらに私たちのエネルギーを奪うものです。私は牧師ですが、色々な集会や大会の奉仕の誘いがあります。ある先生は、教団の○○長、○○委員を兼任しています。それは名誉職かもしれませんが、自分の教会とは全く関係のないことかもしれません。私は申し訳ありませんが、私の信仰と教会の成長に役に立たないものは、切り捨てることにしています。優先順位を明確にしないと、いろんなことにエネルギーが取られてしまいます。皆さんは身軽なスタイルで信仰のレースを走っておられるでしょうか。世の中にはいろんなことにこだわる人がいます。持ち物とか着るもの、食べるものなど、どうでも良いことに、時間とお金を費やしています。住まいの調度品なども、そんなにこだわる必要はないですね。ご飯をもれる茶碗と料理の載せられる皿があれば良いのです。アメニティとかセレブ、流行、みんな商品を買わせるための、ごまかしであります。パウロは「衣食があれば、それで満足すべきです」と言いました。ですから、シンプル・ライフ、身軽な生活こそが、一番なのです。

 もう1つ私たちのレースを妨げるものがあります。それは罪です。12:1「まつわりつく罪とを捨てて」とあります。罪はレースそのものをだいなしにします。コースからはずしたり、逆走させたり、反則を行なわせたりします。昔の小学校の運動会は、村や町の祭でした。親たちが重箱を携え、山の上のグランウンドに集まったものでした。子どもたちも走るし、父兄たちも走ります。お昼は、美味しいご馳走が待っています。私が、小学生低学年のころ、だるま競争というのがありました。おおきなはりぼての、赤や青、黄色のだるまをかぶって走るわけです。今でも忘れませんが、一人の女の子が、だるまを前後ろ反対にかぶってしまいました。両腕は出てても、目の部分が後ろに行っています。だから、その子は前が見えないまま走って、コースを外れ、何と山を降りてしまうところでした。また、ある人は勝ちたい一心で、ズルをする人もいます。パン食競争などは、よく、手を使ったりします。それはともかく、信仰のレースを邪魔する罪の中には致命的なものもあります。そのために、完走できないと言うか、途中で棄権をせざるを得ない場合もあります。ヘブル11章の信仰の勇者に名前がのぼっていない、ソロモンもその一人です。ソロモンはイスラエルでもっとも華やかな王様であり、イエス様が「ソロモンの栄華」と引用したほどです。ところが彼の生涯の終わりは、外国の女性に心が向き、ついでに外国の神様を拝むようになったのです。ソロモンは天国に行けたとは思いますが、最後まで勇敢に走った人たちの中には入っていません。私たちも「イエス様を信じます」と洗礼を受けたものの、いつしか、教会に来なくなり、この世の罪に飲み込まれてしまう人もいないわけではありません。今から、19年前、私が亀有に赴任したとき、山崎長老さんは、軽の自動車を買ってくれました。車で一緒に、教会を休んでいる人たちを訪問しようという願い(魂胆)があったわけです。彼らのほとんどは、何かに躓いてしまったのか、「もう行きませんよ」と冷たくあしらうという感じでした。彼らの心はすでに頑なになっていて、「こりゃー、無理だなー」と思いました。

 信仰のレースにおいて一番重要なことは何でしょうか。12:1後半「私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けようではありませんか」と書いてあります。そうです、忍耐が必要なのです。皆さんもテレビなどで、中距離走とかマラソンを見たことがあるでしょう。イヤー、あれは忍耐です。足がつってきたり、お腹が痛くなるかもしれません。それでも、彼らは走り続けます。パウロは晩年このように言いました。Ⅱテモテ4:7-8「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです」。パウロは義の栄冠を目指して走りました。そして、パウロは「私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです」と言っています。ということは、私たちも栄冠をいただける可能性が充分にあるという事です。ハレルヤ!私はこれまでの生涯を振り返ると、何をやっても三日坊主であり、最後までやり通したものがありません。中学のときブラスバンド部に入りましたが、トランペットを吹かせてくれないので、1週間でやめました。その後、陸上部に入りましたが、これも1週間で辞めました。高校ではボクシング部を半年でやめてしまいました。18歳の最初の給料でトランペットを買いましたが、結婚と同時にやめました。ギターも一時はやりましたが、息子にあげてしまいました。だけど、皆さん、信仰だけは続いています。これはお陰様というよりも、イエス様の恵みによってであります。そうです。信仰生活を続けられるのは、主の恵みであり、あわれみなのです。「俺が、私が信じているんだ」ではなく、信じさせていただいているわけです。私がイエス様を捕らえたのではなく、イエス様によって捕えられている。こういう信仰が、最後のゴールまで私たちを導いてくれるのではないかと思います。どうぞ、「私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか」。

2.イエスから目を離さず

 12:2「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました」。レースをリタイヤせずに走り終え、栄冠を得るにはどのようにしたら良いのでしょうか。それはイエス様から目を離さないということです。主イエス・キリストはどんなお方なのでしょうか。第一に「信仰の創始者である」と言われています。創始者は別の訳では、指導者となっています。また創始者は英語の聖書では、Authorになっています。Authorとは、物語の原作者であります。イエス様こそ、信仰というノンフィクションの物語を書いた原作者であります。本を書くためには、まずあらすじが必要です。別な言い方をすると、神様の摂理、計画という意味です。物語は、背景、紛糾、サスペンス、クライマックス、結論となります。私たちも救われた背景があります。どんな家庭で生まれたのでしょうか。お父さん、お母さんはどのような人だったでしょうか。家は貧しかったでしょうか、それとも富んでいたでしょうか。どんな学校へ行き、どんなお仕事をされたのでしょうか。その次に、紛糾つまり問題が起こります。人生は平坦ではありません。自分に危害を加える人たちがいるでしょう。試験や仕事の失敗、失恋、病気、いろんなことが起こります。自分で一生懸命努力したけど、うまくきません。「一体、私は何のために生きているんだ!」と悩んだでしょう。そのとき、救い主イエス様と出会いました。ああ、この方こそ、私が探し求めていた「道、真理、いのち」。もう、すべてをささげて主イエスに従いました。アーメン、ハレルヤ!みんな、一人ひとり、人生の物語を持っています。誰一人、同じ人はいません。高村光太郎という人が、「僕の前に道はない。僕の後ろに道が出来る」と言いました。気持ちはわかりますが、道もなく、全く知らないところに行くのは不安です。しかし、主イエス・キリストは私たちを導いてくださる、創始者であり、指導者です。イエス様がわざわざ、天のみくらを捨て、この地上に来られました。イエス様は神の子でありながら、完全な人間として、この地上を歩まれたのです。苦しいことも、悲しいことも、拒絶も、落胆も、孤独も、貧しさも全部、味わわれたのです。なぜでしょう。それは私たちの、創始者であり、指導者となるためです。

 第二番目にイエス様は信仰の「完成者」です。新約聖書がギリシャ語で書かれていますが、創始者はアルケー、「始め」と言う意味です。そして、「完成者」は、テレイオー、「完成」と言う意味です。イエス様が信仰を始め、そして信仰を完成されたということです。イエス様はこの地上を歩まれたとき、父なる神様に完全に従われました。しかも、自分の神としての力を用いたのではなく、神の霊によって、すべてのことを成し遂げたのです。先月、エディ・レオ師が来られました。そのときこのようなことをおっしゃっていました。イエス様は悪魔の誘惑に勝利されました。私たちは、「ああ、イエス様は神の子だからできたんだ」と思うでしょう。しかし、そうではありません。イエス様はご自分の神の力で悪魔を退けたのではありません。もし、そうであれば、私たちには何の希望もありません。イエス様は人間としての力では、悪魔には太刀打ちできません。しかし、イエス様はご自分の神としての力ではなく、人間の力でもなく、神の霊によって、誘惑に勝利したのです。また、イエス・キリストは病の癒し、力あるわざ、様々なミニストリーストをなさいました。私たちは「ああ、イエス様は神の子だからできたんだ」と思うでしょう。しかし、イエス様はご自分の力でなさったことは一度もありません。もちろん、人間の力でもありません。イエス様はご自分の神のとしての力でも人間の力でもなく、神の霊によって父のわざを行ったのです。イエス様は「子は自分からは何もできない」と言われました。イエス様はご自分で、やろうと思えばできましたが、すべてのことを父に聞きながら、神の霊によって行なったのです。ですから、私たちもイエス様のように生きたならば、誘惑に勝利し、神のわざを行うことができるのです。その秘訣は、神の霊と神の力に満たされることです。ハレルヤ!

 イエス様のご生涯を見たならば、私たちは本当に感動します。イエス様は、十字架につけられました。犯罪者と同じように十字架につけられました。ローマ人から見たら忌み嫌うべきもの、イスラエル人から見たら呪われた存在です。しかし、ヘブル人への手紙を見ますと、仕方なくとか、イヤイヤながらとは書いてありません。「イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをもろともせずに十字架を忍び」と書いてあります。ということは、イエス様は十字架の向こうにどんな栄光が待っているか、それを見て、喜んで十字架にかかったということです。イエス様は十字架の向こうに何を見たんでしょう。大勢の人たちが、罪に苦しみ、滅びに向っています。ところが、十字架の贖いを受け入れた人たちが、重荷を解かれ、光の中を歩んでいます。イエス様は、私たち一人ひとりの顔が見えたのではないでしょうか。だから、はずかしめをもろともせずに十字架にかかったのです。イエス様は父なる神様から捨てられ、陰府に下りました。ところが、3日目に、父なる神は御子をよみがえらせました。それから、御子は天に昇り、父なる神の右に着座されたのです。イエス様は、どん底から、天の高くまでひきあげられました。なんという高低差でしょうか。イエス様は人間となられたとき、どん底をなめられました。申命記33章に、「下には永遠の腕がある」(口語訳)と書かれています。イエス様がどん底まで下られたので、たとえどん底にいる人であっても、イエス様と出会うことができるということです。

 インドネシアにとても冷酷な牧師がいました。彼は笑ったことがなく、とても厳しい人でした。その人がエディ先生のセミナーに出ました。エディ先生は、地上の父親が、天の神様とっても関係があることをお話しました。冷酷な牧師のお父さんは酒を飲んであばれる人でした。彼が祈りの中で、子どものころを思い浮かべてみました。お父さんが酒を飲んでいて、震えている子どもの自分がそばにいました。とっても暗い思い出です。その時、割られたままの窓ガラスが見えました。こういう酔っ払いの人は、乱暴して割れたガラスをすぐ直そうとしません。2,3日前からその窓ガラスが割られていたままでした。彼は「ああ、そういえば、窓ガラスが割れていたなー」とはっきりとその光景が浮かんできました。割れた窓ガラスをよーく見ると、そこにイエス様の顔が見えました。イエス様が割れた窓ガラス越しに、お家の中を見ておられたのです。とっても悲しい顔をしていました。彼はびっくりしました。自分は知らなかったけど、あんなひどい状況の中に、イエス様がおられたのです。彼は泣きました。「エン、エン」と子どものように泣きました。泣き終わったとき、彼は癒されていました。もう、前の冷酷な牧師ではなく、とっても優しい牧師になったということです。私たちも、思い出したくない、暗い過去を1つや2つ、持っているはずです。暗い部屋で一人ぼっちだと思ったけれど、そこにイエス様がおられたのです。親も先生も、友達も分かってくれなかったとき、イエス様があなたの肩に手を置いていたのです。

 最後にこのお話をして終えたいと思います。私たちはレースを走っていますが、一人では完走することができません。実際に、このようなことがありました。あるお父さんの子どもが、生まれたときから体が麻痺して、歩くことも、しゃべることも、聞くこともできません。お父さんは、クリスチャンで、自分の息子を愛しました。その息子が大人になって、手話で伝えました。「お父さん、ボクには夢があるんです。あなたはスポーツ選手を育てるトレーナーです。ボクには夢があるんです。ボクはトライアスロンのレースに参加したいんです」。トライアスロンといえば、3つの種目が1つの競技になって苛酷なレースです。最初は水泳であり4キロも泳ぎます。その次が自転車、200キロも自転車に乗ります。最後は41.6キロを走らなければなりません。フル・マラソンの距離です。お父さんは、何年もかけて準備をしました。ある日、ハワイでトライアスロンのレースがありました。このお父さんは委員会にやって来て、自分の息子の名前を登録しました。委員会の人たちは「どうやってハンディを負っている人が、このレースに参加できるんですか?そんなの、とても参加させられません」と言いました。しかし、お父さんは引き下がらないで説明しました。「私の息子は泳ぐことができません。でも、私は彼をボートに乗せます。私がそのボートを引っ張りながら泳ぎます。私の息子は自転車に乗れません。でも、私はこの自転車の前に椅子を取り付けて、彼をそこに乗せます。私の息子は走れません。でも、私は彼を車椅子に乗せます。そして私が彼を押します」。委員会の人たちは、涙を流しながら、レースに参加する許可を与えました。その日、多くの参加者がありました。みんな水泳と、自転車と、マラソンをして、ゴールしました。しかし、このお父さんと息子はかなり遅れました。人々は日が暮れても、帰らないで、彼らを待ち続けました。8時間たって、遠く方から人が来るのが分かりました。お父さんが車椅子を押していました。最後のゴールでは、ほとんど死にかけていました。私はそのビデオを見ましたが、息子さんが手をあげて満面の笑みを顔に浮かべていました。私たちはみんな罪人で、麻痺しています。私たちは自分の力で、レースを走りぬくことができません。しかし、私たちの天の父が、私たちを最後まで運んでくださるのです。私たちは、それぞれ、信仰のレースを走っています。先に天に行った大観衆が私たちを応援しています。聖霊様が私たちに力を与えてくださいます。イエス様がレースを導いてくれます。でも、それだけではレールを走り終えられるでしょうか。躓いたり、弱って倒れるかもしれません。ところが、最後に、父なる神様が私たちを運んでくださるのです。

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2006年7月23日 (日)

信仰によって       ヘブル11:24-31

ヘブル11章には、「信仰によって」という表現がざっと数えてみたら、18回もあります。「信仰によって」というところを省いて読んでも、文は通じます。おかしな文章になりません、むしろ完璧です。ただし、「小説聖書」みたいに、ただの物語になってしまいます。では、「信仰によって」という言葉を、他の表現に置き換えたらどうなるでしょうか。たとえば、日本人が好む、「根性」ではどうでしょうか。24節「根性によって、モーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み・・・苦しむことを選び取りました」。なんとかなりそうです。他に、「努力によって」とか「気合によって」とできるかもしれません。でも、後半に続く事柄が人間のわざを越えていますので、やはり無理があります。きょうは、クリスチャンにはおなじみの、「信仰によって」とは、具体的にどのようなことなのかを考えながら、神様のみこころを学びたいと思います。私は、この箇所を瞑想しながら、「信仰によって」を3つの表現で置き換えてみました。

1.将来に備えること

 「信仰によって」とは、未来に関することに対して備えることであります。それはまだ起きてはいませんが、将来、きっと起こるであろうという出来事です。でも、それが起きてからでは遅すぎるんです。起こる前に、準備するということが「信仰によって」という意味であります。たとえば、11:7のノアの場合を考えてみましょう。11:7「信仰によって、ノアは、まだ見ていない事がらについて神から警告を受けたとき、恐れかしこんで、その家族の救いのために箱舟を造り、その箱舟によって、世の罪を定め、信仰による義を相続する者となりました」。ノアは神様から洪水が来るから箱舟を作りなさいと命じられました。それは動物たちも乗せる、とても、大きな箱舟でした。おそらく、ノアは500歳のとき御告げを受け、100年がかりで箱舟を建造したものと思われます。そして、600歳のとき洪水が起こりました。ということは、洪水が起きてからでは、箱舟は作れないということです。100年前から、ノアは備えたということになります。ガビーンであります。もう1つの例は、ラハブであります。30,31節に書いてありますが、彼女は偵察に来た人たちをかくまいました。ヨシュアはエリコを探るために、二人の偵察を遣わしました。ラハブはその町の遊女でありましたが、追っ手から、彼らをかくまってあげました。ラハブは、主がこの地をヨシュアたちに与えておられることを信じていたのです。そして、ラハブは「あなたがたが攻め上って来たとき、私たち一家を助けてください」とお願いしました。偵察隊は「それだったら、私たちがきたとき、窓に赤い紐を結びつけておきなさい」と言いました。やがて、ヨシュア率いる軍隊がエリコに攻め上りました。その町の男も女も、若い者も年寄りも家畜もみんな殺されました。しかし、偵察隊をかくまったラハブの一家だけは助かったのです。ラハブはヨシュアが来る前に、契約を結んでおいていたので助かったのです。その時では、他の人たちと同じように滅ぼされたのです。

 これは私たちの救いにも言えることです。旧約聖書では「主の日」、新約聖書では「世の終わりのさばき」が来るとはっきり告げられています。さばきの日が来てからでは遅すぎるんです。もちろん、死んでからでも遅すぎます。生きているうちに、イエス様を信じて、神様と和解する必要があります。その時では遅いんです。11:28にも、「過ぎ越し」のことが書かれています。「エジプトを脱出する前の夜、初子を滅ぼす者がやって来る」とイスラエルの会衆は聞きました。人々は、羊をほふり、その血を、それぞれの家のかもいと二本の門柱に塗りました。真夜中に、初子を滅ぼす者がやって来ました。血を塗っていた家は大丈夫でしたが、そうではない家の初子は、王様の子から家畜にいたるまで殺されました。つまり、主のさばきが起こってからでは遅すぎるということです。聖書が「信じない者はさばかれる」とはっきり言っているんですから、イエス様を信じて、罪の赦しを受けるバプテスマを受けたら良いです。良い人とか悪い人は関係ありません。キリストの血が塗られているか、塗られていないかが決めてなのです。

蒲郡の石原先生は「日本は、ひきこもりで滅びる。ひきこもりを救うことは日本を救うことだ」と言っています。社会的ひきこもりと不登校が160万人、潜在的ひきこもり(心がひきこもっているが社会生活は送っている)が人口の6-9割もいるということです。しかし、日本の教会がどれほどそれを真剣に受け止めているでしょうか。あんまりいないと思います。「石原先生は、個性的だからなー。また新しいこと始めたんだろう」ぐらいにしか受け止めていないかもしれません。私も昨年、今年の1月、6月にセミナーを聞いて、半信半疑でした。しかし、先日の7月18-19日の服部氏のセミナーに参加して、「ん-、ひきこもりは国民病、文化病だなー」と分かりました。この日本で生まれ、日本で育ってきたので、危機感がない。私自身も、潜在的ひきこもりだと分かったからです。私自身が親と口をきかなかったので、父親になって年頃の息子や娘に何を話して良いか分かりません。教会では「はい、はい」と気を使って話していますが、家ではもくもくと食事を作ります。食事を共にしながら、会話をするということがほとんどありません。5分位いで食べたら、すぐ食器を洗って、牧師室で本を読みます。すると、午後8時「パパ、お風呂入ろう」と電話がかかってくる。「わー、やっとゆっくり出来たのに!」。7時50分頃、電話がかかってくると、「まだ、8時じゃないだろー」と怒ります。大体、子どもの頃、家族団らんなんてなかった。親父が晩酌して、愚痴がはじまり、あばれる前に、立ち去るという生活でした。恵みによって、随分と変えられたと思いますが、「潜在的ひきこもりの可能性大だなー」と思います。ということは、皆さん、ひきこもりで日本が滅びる前に、備えなければなりません。これは「信仰によって」です。崩壊がはじまってからでは遅すぎるんです。教会は前もって、そういう人たちを受け入れ、治療する準備をしなければなりません。日本の教会が社会のニーズに答えてきたのはあまりありません。今が、もしかしたら、社会に貢献し、その上、救いの箱舟に入っていただくチャンスかもしれません。皆さん、滅びとリバイバルはほぼ同時にやってきます。せっかくの収穫がダメにならないように、私たちが働き人となって、収穫に備えましょう。

2.ビジョンに生きること

 「信仰によって」とは、ビジョンに生きるということです。別な表現で言いますと、「そうなったと信じて生きる」ということです。エリコの城を回った人たちは、7日間、何も考えずにただ回っただけではありません。口には出しませんでしたが、「この城は7日目に崩れるんだ」と信じて、歩いたのです。また、ヨシュアがエリコや他の町々を攻め取ったときも、漠然と戦ったのではありません。「足で踏む地を主はきっと与えてくださる」と信じて、攻め上ったのです。ですから、彼らは始めから「勝つんだ、絶対勝利するんだ」と信じて戦ったのです。「負けるかもしれない」「やられるかもしれない」とひっぴり腰で出て行ったら負けてしまいます。32節にある、ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエルもみなそうです。彼らは「主が必ず勝利を与えてくださる」と信じて戦いました。重要なのは戦い方ではありません。戦い方はいろいろあって良いのです。ギデオンの場合は、壷の中にたいまつを隠しました。真夜中、敵陣の中で、角笛を吹き、つぼを割り、たいまつを掲げました。すると、主が陣営の全面にわたって、同士討ちが起こるようにされ、勝利できました。サムソンの場合は、ジャッカルのしっぽにたいまつを結んだり、ロバの顎骨を使いました。まことに幼稚な戦略でありましたが、主が勝利させてくださいました。ダビデも同じです。ダビデは戦いの天才でありましたが、ダビデ一人がやったわけではありません。それは、主の戦いであって、主が勝利をもたらしてくださったのです。ですから、小手先の戦略とか、方法論ではありません。主が勝利させてくださるという、ビジョンをもって戦うことが大事なのです。

 病気の癒しもそうです。先日、大阪のある牧師からお電話がありました。昔、先生から年賀状が届き、お腹を1回、頭を4回も手術したことを知りました。そのとき、礼拝説教でも引用し、ひとこと祈ったかもしれません。もう、何年も前のことです。でも、先生はわざわざ、「あのときはありがとうございました」とお礼の電話をくださいました。また、ちょうどその時、オーストリアの友人が自分の夢を見たそうです。元気のない弱った姿であったそうです。それで、オーストリアから「こんな夢をみたんだけど大丈夫か」と言う電話があった。そのとき、先生は「ああ、神様は自分のことを知っておられ、祈り人を起こしているんだ」ととても励まされたそうです。それから、見る見るうちに先生の病気が回復したということです。私たちは病気になると、肉体ばかりか、信仰も弱って、祈る気持ちすらなくなります。でも、そういう時に神様は祈り手を起こして、助けてくださる。そうすると、「ああ、神様がきっと癒してくださる。アーメン」。癒されたビジョンがやってきます。すると、そのように体も、心も、癒しに向って行くのです。

 ハワイのウェイン・コディーロと言えば、有名な牧師であり、すばらしい本もたくさん書いています。ウェイン・コディーロが若い頃、ある先生からギターを習っていました。「自分はミュージシャンでないし、これくらいで良いか」みたいに思ってやっていた。すると、ギターの先生が、「そのように考えていたら、永遠に上手にならないよ」と言ったそうです。ウェイン・コディーロは、ギターがうまくなるというビジョンなしで弾いていたのです。上手になるわけがありません。「どうせ私は8人兄弟の7番目、牧師にはなったけど、まあ、亀有止まりだな。日本を変えるとか、ひきこもりを救うなんて、おおげさすぎる。どうせ私は落ち着きのないヤスなんだ」とやっていたらどうでしょう。もう、考える事も小さいし、歩き方も、しゃべり方もこじんまりしてしまいます。いや、そうじゃない。「あと10年少々だけど、神様は一花咲かせてくださる。パウロのように走るべき行程を走りつくして、義の栄冠をいただくんだ」と考えたらどうでしょう。もう、歩き方も、語り方も堂々としてくるでしょう。みなさんも、同じです。「私はキリストの弟子になって、世の終わり大いに用いられるんだ。人々を救いに導き、癒しも行なう」と信じたらどうでしょうか。それとも「私は天国にかろうじて入れば良い。大きな罪を犯さないで、楽しみながら、信仰生活を送ります」と言う人生でしょうか。皆さんに「パワーローマ書」と言う本を薦めていますが、その本の中にこういうことが書いてありました。「主の御前で偉大なことを求めよ」。真の熱心さは、主に求めること、主に期待することからやってきます。私たちは、神からのビジョンを持つべきであります。人が一旦、ビジョンを持ったらどうなるでしょうか。なんと、ビジョンがその人をひっぱって行くのです。あなたのビジョンを見せてください。そうすれば、あなたの人生がわかります。

 今回、愛知県から8名の方々が来られています。そのうちの、6名がフィリピン・ミンダナオ島に短期宣教にでかけます。昨年はカンボジアに行かれた人もいましたが、これも大変なことだなーと思います。あとで、チームの一致と安全が守られ、宣教の前進、そして実が残るようにお祈りしたいと思います。短期宣教は「信仰によって」という言葉が最もピッタリであります。「信仰によってフィリピンに派遣されます!」ということは、旅先において、主が一緒に働いてくださり、救われる人や癒しを受ける人が起こされることを期待するということです。これは、漠然と海外へ観光に行くのとは訳が違います。言葉も文化も違う人々の所へ「福音」を携えて行くわけです。農夫が畑に出て行くときは収穫を望んで行きます。兵士が戦場に行くときは勝利を望んで行きます。こういうミッションの場合は、魂が救われ、神の国がもたらされるように望んで行きます。神の国があなたがたによってもたらされるのです。ハレルヤ!神様がかならず、備えられた魂と出会わせてくださいます。パウロがトロアスにおいて幻(ビジョン)を見ました。ひとりのマケドニア人が彼の前に立って、「マケドニアに渡って来て、私たちを助けてください」と懇願しました。同じように、ひとりのフィリピン人が立って、「私たちを助けてください」と懇願しています。日本は今まで、宣教に関しては、受けてばかりいた国です。このように、少しでも、与える国になったということはすばらしいことであります。彼らは、私たちの代表として行く訳ですから、お祈りしたいと思います。このように、あらゆる面において、私たちは「信仰によって」立つ必要があります。ビジョンを持って、信仰によって立つならば、今の生活が変わってきます。ビジョンがあなたを力強い生活へと導いてくださるのです。

3.神の報いを期待すること

 「信仰によって」とは、神の報いを期待することです。「報い」と聞きますと、なんだかいやらしいと思うかもしれません。もちろん、人からの報いとか、この世における報いを期待するのは間違っています。イエス様は「人々から称賛されたり、返礼を受けた場合は、天における報いは少ない」と言われました。逆を返せば、この世の報いではなく、神様からの報いは期待して良いということです。ヘブル11:6後半に「神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです」と書かれています。このみことばは、「神様が報いてくださることを信じなさい」と言っています。

 それでは、モーセの場合はどうだったのでしょうか。ヘブル11:24-26「信仰によって、モーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。」これは、旧約聖書に書いてありませんので、ヘブル人への手紙の解釈だと思います。モーセはだまっていれば、エジプトの第二王子として安楽に過ごすことができたでしょう。しかし、成人したとき、自分がヘブル人であることを明らかにしました。当時、ヘブル人はエジプトの奴隷ですから、そしりを受けるのは当たり前です。モーセはエジプトの宝よりも、ヘブル人であることによる受ける苦しみ選んだのです。なぜでしょうか?それは、神様の報いの方が、エジプトの宝よりもまさると考えたからです。榎本保郎師は「新約聖書一日一章」でこのように言っています。「モーセがエジプトの宮殿にいたなら、人間的に見れば悲運の波にもまれることもなかったであろう。宮殿で、平穏無事に、毎日酒を飲み、多くの人々に仕えられて、人間的には楽しい生活を送っただろうと思われる。けれども彼は、はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選んだのであった。彼はそこを出て、多くの人に憎まれ、多くの人に突き上げられながら、あの荒野を導かれて行った。私はいつ読んでも、モーセがカナンの地を前にして、神から『与えた地に導き入れることは出来ない』と言われたくだりには、胸が詰まってくる」と、そのように書いてありました。でも、モーセは報いられました。なぜなら、イエス様が変貌の山にいたとき、モーセとエリヤが呼び戻されたからです。イエス様はモーセにエルサレムで遂げるべき最期のことを相談しました。最期のこととは、原語ではエクサダズ、出エジプトであります。

 モーセの他に、名前があげられていない人たちが36節からあげられています。「また、ほかの人たちは、あざけられ、むちで打たれ、さらに鎖につながれ、牢に入れられるめに会い、また、石で打たれ、試みを受け、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊ややぎの皮を着て歩き回り、乏しくなり、悩まされ、苦しめられ・・・」ここだけを見ると、神の人ほど割に合わない人はいないですね。おそらく、牧師や伝道者も割に合わない職業でしょう。しかし、中には大勢の人を集め「タッチ!」なんてやって、お金を儲けている人もいないわけではありません。もし、この世で、真剣にキリストの弟子として生きていこうと思ったなら、割りに合わないことがたくさん出てくると思います。イエス様の弟子たちも、そういう不満をもっていました。マタイ19章後半にこのような会話があります。そのとき、ペテロはイエスに答えて言った。「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。私たちは何がいただけるでしょうか。」「そのとき」というのは、青年の役人が財産を捨てられないために、悲しんで去って行ったときです。ペテロは「何もかも捨てた」と言っていますが、何を捨てたんでしょう。イエス様は「ペテロ、立派なことを言うけど、お前が捨てたのは、小さな舟と網くらいだろう」とは、言いませんでした。マタイ19:28「そこで、イエスは彼らに言われた。『まことに、あなたがたに告げます。世が改まって人の子がその栄光の座に着く時、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです。また、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、あるいは畑を捨てた者はすべて、その幾倍をも受け、また永遠のいのちを受け継ぎます』」。私たちが12の座に着くとは思いませんが、「その幾倍をも受け、また永遠のいのちを受け継ぐ」ということは確かです。マルコ10章には、「その100倍を受けない者はない」と書いてあります。ガビーンであります。神様は私たちがやった小さなことを、虫眼鏡で拡大して評価してくださる感じがします。

 マラキ書は旧約聖書の最後の書物ですが、神に仕える祭司たちはこのようにつぶやいていました。「神に仕えることはむなしいことだ。神の戒めを守っても、万軍の主の前で悲しんで歩いても、何の益になろう」(マラキ3:14)。世の終わりは、愛が冷えるのでこのような誘惑が大きくなります。でも、神様を恐れる者たちに対してはどうでしょうか。マラキ3:16「主を恐れ、主の御名を尊ぶ者たちのために、主の前で、記憶の書がしるされた。『彼らは、わたしのものとなる。――万軍の主は仰せられる。――わたしが事を行なう日に、わたしの宝となる。人が自分に仕える子をあわれむように、わたしは彼らをあわれむ』」。主のもとには、記憶の書があります。その中には、私たちがなしたことがすべて記されています。悪いことや犯した罪は、キリストの血潮で消され、良いことだけがクローズアップされているのではないかと思います。あわれむとは、そういうことであります。私たちは主にあって、宝物なのです。天において、すばらしい主の報いが待っています。ですから、人から認められようと、認められまいと、主の前で、誠実な歩みをさせていただきましょう。こんな小さな私たちでも、父なる神様から覚えられていることを感謝します。

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2006年7月16日 (日)

私の人生の目的  【特別礼拝  尾山 清仁師】

メッセージ・ノート

どうして私は生きているのか?

「なぜ、私は生まれてきたのですか。問題と悲しみにあうだけのためであり、その終わりは恥をさらすことなのかですか」                      エレミヤ20:18(TEV)

私の場合:①人に認められるため  ②人にスゴイと言ってもらうため

中毒症状の悪循環
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しかし神は、私のことを・・・


「わたし(神)は、あなたの創造主。あなたが生まれる前から、あなたは私の配慮の中にあった」   イザヤ42:2(CEV)

「あなた(神)は、私が生まれる前から私をご覧になっておられ、私がまだ呼吸を始めないうちに、私の生涯の一日一日のスケジュールを作られました。そして、そのすべてがあなたの書物に記録されました」  詩篇139:16(LB)

「マスターピース(大傑作/最高傑作品)」 エペソ2:10 (NLT)

私に何の目的があるのか?

「ダビデはその生きていた時代、神の目的に仕えた」 使徒13:36

「主はすべてのものを、ご自分の目的にために造られた。」 箴言16:4

-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=[ メッセージ ]-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=

  1. 神の愛をいただいていく

「地球の土台が据えられる遥か昔から、神は私たちを心に留め、完全できよくなるように、私たちをご自分の愛の対象とされたのである。」                 エペソ1:4 (Msg)

「自分の体を神様にささげてください。それを神様に喜んでいただける、生きた、きよい供え物としてください。神様がしてくださったことを思えば、それは決して無理な注文ではないはずです。」 ローマ12:1(NTL)

「キリストの愛を知り尽くすことはできないけれども、その愛を体験していくことができるように」エペソ3:19(NLT)

  1. 自分の目的をいただいていく

「このように、数え切れないほどの信仰の勇者が、競技場の正面観覧席で、私たちの競技を見つめているのです。だから、スピードを落とさせたり、うしろへ引き戻そうとする力に目を光らせなさい。特に、足にまつわりついて、つまずかせようとする罪を振り捨てなさい。そして、神様の用意された特別のコースを、忍耐して走りぬこうではありませんか」        ヘブル12:1(TLB)

「神の御言葉をあなたがたに教えてくれた指導者たちのことを、いつも思い起こしなさい。彼らの生涯をよく見て、その信仰に倣いなさい。イエス・キリストは昨日も、今日も、永遠に変わることがない。」 へブル13:7-8(現代訳)

あなたの前を生きた指導者たちのことを思い出しなさい。彼らがどのように生き、そしてどのように主の働きをしたかについて思い返しなさい。彼らの人生の中に見られる卓越した資質をまねなさい。イエス・キリストは過去においてもそうであったように、また将来においてもそうであられるように、今日も同じです。あなたのリーダーとしての潜在能力を啓発し、伸ばすために、主が彼らにされたことをあなたの人生においてもして下さるのです。(R. Clinton意訳)

「あなたが誰で、どこから来たのかということは問題ではありません。もしあなたが神に願い、神が言われるようにする心の備えができているなら、扉は開かれるのです。」 使徒10:35(Msg)

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2006年7月 9日 (日)

アブラハムの信仰       ヘブル11:7-19

私が最初に教会を訪れたのは、バイブルクラスでした。英語をただで勉強できるということで、東林間にあるバプテスト教会に行きました。そこは、外人がたくさん来ており、なんとなく鹿鳴館のような感じがしました。先生は英語の聖書から、「エィブラハム」「エィブラハム」と何度も語っていました。私は「ああ、アブラハムとは、アメリカの大統領のことだろう?それにしても、なぜ、大統領の名前が聖書に出てくるのかな?」と不思議に思いました。かつて、そういう者が、偉そうに、聖書を語るようになったんですから、神様も不思議です。ローマ人への手紙や、ガラテヤ人への手紙に出てくるアブラハムの信仰は、「信じて義とされた」ということです。これを信仰義認と言いますが、信じたときに、救われるということです。でもこれは、信仰のスタート地点でありまして、ゴールではありません。きょうは、私たちクリスチャンの最終地点、ゴールは何かと言うことをヘブル11章から共に学びたいと思います。

1.来世信仰

 来世観というのは、ほとんどの宗教にあります。でも、キリスト教の場合は、直線的な歴史観を持っています。やがてこの時代は終わり、新しい時代になるということです。言葉を換えて言うなら、この世が終わり、神の御国が到来すると言うことです。イエス様は開口一番、「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい」と言われました。イエス・キリストと共に、神の国がこの世に楔形に突入してきたのです。目にはまだ見えませんが、御国への招待が始まったのです。イエス様は、神の国の豊かさ、神の国の法律、神の国に入るための条件などを、できるだけ分かりやすく教えられました。とにかく「神の国のために、国民を集めているので、ぜひ、入ってほしい」と招いてくださったのです。残念ながら最初に招待されていたイスラエルの民は、招待を断りました。その次に、イエス様は異邦人である私たちに、「だれでも良いからは入って欲しい。私はそのために十字架に付き、贖いを成し遂げた」とおっしゃってくださいました。みなさんは、いつまでも、この世に住んでいられると思いますか。あるいは、この世が22世紀、23世紀と、いつまでも続くと思われますか。聖書は明確に、「この世はまもなく終わる」と告げています。それだけではなく、神様は、私たちが移り住むべき、御国を用意しておられるのです。

 ヘブル人への手紙は、アブラハムを例に取り、信仰によってそのことを受け止めなさいと勧めています。ヘブル11:8「信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました」。なんと、アブラハムは、行き先を知らないで、出発したのです。また、創世記12:1には「その後、主はアブラムに仰せられた。あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、私が示す地へ行きなさい」と書いてあります。これを日本風で言いますと、「生まれ育った実家も、親族も捨てよ」ということです。とっても、過激で、仏教の出家と似ていますね。クリスチャンになるとは、出家することなんでしょうか。「ワー」、家から通っている、「あなた」「あなた」「あなた」は、どうなんでしょうか。ジョンバニヤンの「天路歴程」にはこのように書かれています。ある人が、一冊の本を読んで「この都は天からの火で焼かれ、恐ろしい破滅を迎える」ということが分かりました。彼は妻や子供たちに、「ここは危ないから、直ちに出発するんだ」と告げました。ところが、家族の者はひどくあきれ、頭が狂ったと思って相手にしませんでした。彼は「救われるためにはどうしたらよいか。どの方向に行くべきか」悩んでいたときに、伝道者が現われ、くぐりの門を示してくれました。彼は滅亡の都、自分が生まれ育った町を捨てて、天のエルサレムを目指す旅を始めるのです。続編では、彼の妻と子供が旅立つというストーリーになっています。とにかく、クリスチャンになるためには、一度、地上のすべてのものと縁を切る必要があります。イエス様は、ルカ14:26で「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません」と言われました。しかし、昔の口語訳では、「憎む」ではなく「捨てる」と訳されていました。弟子たちも、イエス様から召命を受けたとき、網も、舟も父も捨てて、イエス様に従って行ったのです。日本人は先祖とかお墓に縛られて、悪魔の思う壺です。みなさん、古いものを一度捨てなければ、新しいものは得られないのです。クリスチャンとはこの世を捨てて、新しい神の国に生きる存在です。神の国はそれだけの価値があるのです。

 アブラハムにとって最終のゴールは、カナンではありませんでした。たしかに、カナンの地にイスラエルの12部族が住み、そこがイスラエルになりました。アブラハムから天の星のように、海べの砂のように、数多い子孫が生まれました。でも、アブラハムのゴールはこの地上にはありませんでした。11:13以降にはこのように書いてあります。「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。彼らはこのように言うことによって、自分の故郷(こきょう)を求めていることを示しています。もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。」アブラハムのゴールは、天の故郷、天の都でありました。ハレルヤ!そして、この地上で彼らは、自分たちをどのように見ていたのでしょうか?「地上では旅人であり、寄留者」です。寄留者とは、原語では、「一時、異郷(他国)に滞留している人、通り過ぎる人」という意味です。英語では、pilgrimですから、ピリグリム・ファーザーというアメリカに移民した人たちを思い浮かべます。英国の聖書は、aliens(アライアンス)となっています。aliensとは、「外国人、ある国に住んでいてまだその国の国籍・市民権を持っていない人」です。「異星人、宇宙人」という意味もあります。うわー、ゆこりん星から来たという小倉優子を馬鹿にできないですね。先日、李ヨンス先生が来られていましたが、長い間、日本に住んでいながらも、韓国籍の外国人であります。私たちも、この世では、天国籍を持つ、外国人であります。皆さーん、私たちクリスチャンは、この地上では、宿無しの寄留者なんです。ホームレスの人たちと、あんまり変わらないです。数年前に、山谷で一人のホームレスが死んで、お葬式をしたそうです。そこで、歌ったのが「故郷」と言う歌だったそうです。私はそれを聞いて、「なんで、讃美歌じゃなくて、『故郷』なんだ。あまりにも、人間的じゃないか」とムカッときました。だけど、調べてみましたら、故郷を作曲した岡野貞一氏はクリスチャンでした。14歳で洗礼を受け、オルガンに親しむ。宣教師に音楽の才能を認められ、その勧めもあり、東京音楽学校に進み、1900年に卒業、のち教授となる。「尋常小学読本」や「尋常小学唱歌」などを編纂した。ずっと本郷に住み、42年間、毎週日曜日には本郷中央教会堂でオルガンを弾いた。つまり、故郷は、信仰とは無関係じゃなかったということです。ハレルヤ!

 私たちはこの地上では、旅人であり、寄留者であることを忘れてはいけません。私たちの本当の故郷は、天の故郷、天の都なのです。ある金持ちが、死ぬときにこうしてくれと遺族にたのみました。彼は土地も財産も名誉も持っていた大金持ちでした。ところが彼は、自分の遺体の両手を、こういうふうに、開けさせたということです。つまり、「天国には1セントも1握りの土地も持っていけないよ」と言うことを伝えたかったのです。ヨブは東の人々の中で一番の富豪でした。ところが、一瞬にして、すべての財産と10人子供たちを失いました。その時に彼はこう言いました。「私は裸で母の胎を出てきた。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」と。私たちはこの地上では、管理者です。決して、所有者ではありません。お金も、土地も、家も、家族も、自分の命さえも、一時的に預かっているに過ぎないのです。管理者に大切なことは、忠実さです。聖書は、この地上で、あなたにゆだねられたものに、如何に忠実であったかによって、御国における所有物に差が出て来ると書いてあります。イエス・キリストを信じるならばだれでも天国に行くことはできます。しかし、『天国は本当にある』という本に書いてありました。「すべての人が大邸宅に入れるわけではない。心から主を愛し、神様に忠実であった人だけである」と。皆さん、イエス様に忠実に生きるならば、光輝く大邸宅が用意されています。そこには備え付けの家具があり、美しい庭があります。天国には美しい川があり、魚がたくさん泳いでいます。果樹園もあり、一年中、実がなっています。花園があり、森があり、あるところには動物が住んでいます。喜びと楽しみが満ち溢れ、不足なものは何1つありません。私たちはそういうところに行くのです。どうぞ、この地上では、旅人であり、寄留者であることを覚えておきましょう。この世は仮住まいで、あちらが永住の地です。イエス様は「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。・・・自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴を開けて盗むこともありません」(マタイ6:19,20)と言われました。

2.復活信仰

 アブラハムに、100歳のとき、イサクが与えられました。待ちに待った、約束の子供です。ところが、神様はアブラハムに対して、「あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、私が示す山の上で、全焼のいけにえとしてイサクを私にささげなさい」(創世記22:2)と言われました。そのときイサクはおそらく30歳くらいではなかったかと思います。これは、アブラハムにとって、イサクにとっても大きな試練でした。イサクもよく黙って縛られたものだと思います。130歳のアブラハムが、主が、「お前を全焼のいけにえとしてささげよ」と言われたと、イサクに告げたらどうなるでしょうか。「おやじ!とうとう、もうろくしたか。神様が人間をいけにえささげよ、という訳ないだろう」と、老人を投げ飛ばして、逃げ去ることもできました。でも、そうしませんでした。アブラハムはモリヤの山に行くまで考えたでしょう。「神様が人間をいけにえとしてささげよとおっしゃるなら、それは偶像の神様と同じじゃないか」。また、「もし、イサクが死んだならば、子孫が空の星のように、海辺の砂のように多くなるという約束はどうなるんだ。そんなはずはないだろう」。しかし、アブラハムは文句を言わないで、黙々と従いました。アブラハムは祭壇を築き、たきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置きました。アブラハムが手を伸ばして、刀(かたな)を取って、自分の子をほふろうとしたその時です。主の使いが「アブラハム。アブラハム」。「はい、ここにおります」。主は、「あなたの手を、その子に下してはならない。今、私はあなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないで私にささげた」と言われました。このところは、アブラハムの100%の従順が記されている有名な箇所です。

 でも、ヘブル人への手紙の記者は、アブラハムの信仰をこのように解き明かしています。ヘブル11:19「彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。これは型です」。そうです。アブラハムは、たとえここで、イサクが死んだとしても、神様は死者の中から復活させることが出来ると信じていたのです。つまり、アブラハムは本気で、刀を息子に振り下ろそうとしたのです。ところが、「待て!」であります。アブラハムは霊的に死者の中からイサクを取り戻したのです。つまり、切っても切れない人間の情を捨て、「これは神様からのものである」と受け止めたということです。イサク自身は、一度、死を通過したので、そこで100%の従順を学びました。イサクの人生は、アブラハムやヤコブとは違い、穏やかな人生でした。彼は若い時、モリヤの山で、一発で、きよめられたのです。だから、イサクの性格は、温順で柔和であり、人と争うことをしませんでした。せっかく掘った井戸がペリシテ人に奪われても、また新しい井戸を掘りました。またその井戸が奪われても、次の場所で、新しい井戸を掘りました。ここで学ぶことは、アブラハムもイサク自身も、神様が死者の中からよみがえらせることもできると信じたことです。これが復活信仰です。世の中の人は、「死ぬ気になればなんでもできる」と言います。しかし、クリスチャンは違うんです。キリストにあって一度死んで、新しくよみがえった存在です。つまり、一度、死んだんです。一度、死んだ存在ですから、もう死ぬことが怖くはないのです。むしろ、「死の様に等しくなったときに、復活できる」という逆転の信仰があります。使徒パウロは、コリント4:10-12でこのように言いました。「いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。こうして、死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのです」。つまり、私たちが死の様に等しくなるとき、なんと、キリストの復活のいのちが現れ出てくるという事実です。死にそうになるけれど、死なない。それは、私たちがイエス様の死をこの身に帯びているからです。私たちはこの地上で、「病気をしたり、怪我を負ったり、あるいは年とってもうだめだ」というときがあります。その時に、キリストの底力、復活の力が現れ出てくるのです。このたび、青木信子姉がご長男を出産しました。37時間も苦しみ、最後は、強硬手段に出たということを聞きました。具体的には分かりませんが、青木姉はそこで、文字通り、腹をくくったのであります。「来るなら来い!槍でも鉄砲でも持って来い!」。そして、勝利が訪れました。葛葉姉のときも、似ていますね。「勝利!」という言葉がぴったりです。クリスチャンは一様にして、「もうだめかな?」と死を覚悟したときに、復活の力が底から湧き上がって来るのです。ハレルヤ!このように、復活の力は、生きているときも味わうことができるのです。

 最後に、「これは型です」と書いてありました。何の型なのでしょうか。これはしいて言えば、キリストの復活の型であります。愛するひとり子としては、イサクもイエス様も同じであります。両者とも、いけにえとしてささげられました。何と、考古学的には、モリヤの山とイエス様が十字架にかかられたゴルゴタとは、ほぼ同じ場所だということです。両者とも死に渡されました。ところが1つだけ違うところがあります。イサクの場合は、「待て、もうわかった!」とストップがかかりました。しかし、イエス様の場合は、「待て!」がなかったのです。父なる神様は御顔を隠したので、暗黒が地上を襲いました。イエス様は「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ。わが神、わが神、どうして私をお見捨てになられたのですか」と叫ばれました。イエス様は霊的にではなく、実際に、死に渡され、陰府に落とされたのです。ここが、イサクとの違いです。でも、皆さん、イエス様が死んで、三日目によみがえったおかげで、何が起こったでしょうか。私たちもイエス様のように復活できるという、保証になりました。イエス様が二度と死なない、栄光の体によみがえられたのです。イエス様は死人の中から最初によみがえられた初穂です。と言うことは、私たちも、もし、死んだならば、朽ちたままでは終わらないということです。何と、栄光の体で、復活できるのです。ハレルヤ!ギリシヤ世界では、霊魂の不滅と言って、霊魂は永遠に生きると信じられています。もしかしたら、仏教や他の宗教でも、霊魂は永遠であると言うかもしれません。でも、キリスト教の決定的な違いは何かというと、この肉体が復活するということです。皆さん、救いとは、魂がどこか知らないところで、ぷかぷか、永遠に生きているという意味ではありません。事実、キリストがよみがえられたように、事実、私たちも栄光の体でよみがえるのです。日本は7月15日から、もしくは8月15日から、お盆であります。3日くらい地獄の釜が休みになり、そこから死んだ人たちがお暇をいただいて地上に戻ってくるというのであります。それを一時、お迎えして、また送るのであります。何と言う、馬鹿馬鹿しいお話でしょうか。生協でも、お盆セットが売られています。生協はクリスチャンの賀川豊彦師が創設者です。きっと、賀川豊彦先生が天国で嘆いておられることでしょう。

 きょうは、来世信仰と復活信仰について学びました。結論的には、この世は永遠の備えだということです。この世は仮であり、むこうが本物です。レビ記にはきよい動物と、きよくない動物がしるされています。きよい動物が食べることができ、きよくない動物は食べられません。きよい動物とは、食べ物を反芻して、ひずめが分かれているものです。羊やヤギ、牛などです。ブタはひずめはありますが、反芻しないので、汚れた動物です。うさぎは反芻しますが、ひずめがないので汚れた動物です。私たちにとって反芻とはみことばを反芻することです。また、ひずめとは、困難な山を登れる足であります。また、爬虫類はすべて汚れた動物です。なぜなら、腹を地べたにくっつけているからです。でも、蝶のようにずっと飛んでいるのもきよくありません。その点、バッタはきよいんです。なぜなら、地上をぴょんぴょん跳ねているからです。良いのは地上にべったりとした生活ではなく、あるいは修道院のような世離れした生活でもありません。私たちは地に足をつけつつ、天を目指して、身軽な生活をしたいと思います。魚では、うなぎとかうろこのない魚は泥の中でじっとしている汚れた魚です。一方、うろこのある魚はきよい魚です。うろこのある魚は、水に逆らって進み、絶えず新鮮な酸素を取り込むことができます。私たちはこの世の流れに逆らってでも、神様の御旨に従って生るのです。私たちの最終的なゴールは、この地上にはありません。私たちのゴールは、天の故郷(こきょう)であり、栄光の復活であります。

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2006年7月 2日 (日)

信仰とは       ヘブル11:1-6

 人は、だれでもある程度の信仰をもっています。みなさんは、「今日の朝10時半から、礼拝がある」と信じてここにやってきました。飛行機に乗るときも、「この飛行機は落ちないで、目的地に到着する」と信じて乗ります。「落ちるかもしれない」と、疑う人は、飛行機には乗りません。レストランに行って、水を飲んだり、ディッシュをいただくとき、毒味をしません。しかし、この手の信仰は、経験や習慣から来るもので、あらためて「信仰」と呼ばなくても良いレベルのものです。けれども、すばらしいことに、クリスチャンになりますと、神様から信仰が与えられます。そして、神様は、「この地上でその信仰を用いて、生活しなさい」と言われます。私たちはこの手によって、いろんなものをつかみます。信仰は、見えないものをつかむ、もう1つの手であります。また、私たちはこの目によって、いろんなものを見て判断します。信仰は、見えないものを見る、もう1つの目であります。皆さんも、こういう能力をいただきたいと思われるでしょう。

1.神からの信仰

 ヘブル11:1には、「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです」と書いてあります。この文章を見ると、「信仰」と「望んでいる事がら」と2つのものがあります。「信仰」とは神からの保証、神からの確信であります。ですから、この信仰を「神からの信仰」と呼びたいと思います。そして、もう1つは「望んでいる事がら」であります。これは、人間の側からの望み、願い、求めと言っても良いでしょう。別の言葉で言うなら、「人間の信仰」であります。マタイ7章には「求めなさい。そうすれば与えられます」と約束されています。でも、皆さん、求めたら必ず与えられるでしょうか?皆さんにお尋ねいたします。「これまで、神様に求めたものが全部与えられた」という人は手を挙げてください。では、「これまで、神様に求めたものが50%は与えられた」という人は手を挙げてください。それでは、「求めたものが20%から30%くらいは与えられたかな?」という人は手を挙げてください。なぜ、求めたものが全部、与えられないのでしょうか?おそらく、「それは、神様のみこころにかなわなかったからでしょう」と答えるでしょう。では、「たくさーん求めて、その中から、神様のみ心にかなうものが、いくつかあればいいや。下手な鉄砲数打てば当たる式」で良いのでしょうか。私はこのみことばから、このように考えます。私たちが望んでいる事柄、つまり私たちの側からの信仰だけでは不十分だと言うことです。もう1つ必要なのは、神からの信仰、神からの保証が必要なのです。この2つが合わさったとき、100%可能なのでありす。

 聖書に信仰に関したいくつかの例があります。イエス様が湖の上を歩いて、ペテロたちが乗っていた舟に近づきました(マタイ14章)。その時、ペテロは「主よ。私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください」と言いました。ペテロは、水の上を歩いてイエス様のところに行きたいと望んだのであります。ペテロはイエス様に求めました。すると、イエス様は「来なさい」と言われました。これはイエス様の約束であり、保証です。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエス様の方に行きました。なんと、ペテロは水の上を歩いたのです。多くの人たちは「ペテロはおぼれた」「ペテロはおぼれた」と言いますが、何歩かは歩いたと思います。なぜ、ペテロが水の上を歩くという奇跡を体験したのでしょうか。それは、第一にペテロが望んだということです。何と言う、大胆な信仰でしょうか。しかし、それだけでは水の上を歩くことはできません。第二は、イエス様が「来なさい」とみことばの約束を与えたということです。これは、イエス様からの信仰であります。チョー・ヨンギ牧師が神学生だったころこのようなことがあったそうです。三角山での癒しの集会があったので、多くの人々が集まってきました。私も参加しました。集会の途中で激しい雨が降ったので、あちこちで泥水が激しく流れる被害がでました。ちょうど集会に参加していた二人の若い女性が山を降りていく時に、この土砂の急流に行く道をふさがれてしまいました。その時点で引き返すか、土砂が流れ終わるまで少し待ったらよかったのですが、彼女たちは聖書でペテロが水の上を歩いたことを思い出して祈り始めました。「主よ、ペテロも水の上を歩いたと言われたのに私たちにできないことはないと思います。主よ、信じます。」そう祈って濁流となった川を渡るうちに急流に巻き込まれてしまいました。後で彼女たちは下流で死体となって発見されました。そのとき多くの人たちが、「乙女たちが本当に信じたのになぜ死んだのだろうか。なぜ父なる神様は彼女たちを助けてくださらなかったのだろうか」と考えました。正直言って、私もそう思いました。ところが今になって考えてみると、彼女らの信仰は人間の側の信仰であり、彼女たちは父なる神による信仰が臨んでいない状態で、勝手に奇跡が起こると信じて行動したのでした。ペテロが水の上を歩いた時は、イエス様がそう命じられたのです。そして、ペテロの心に、父なる神による信仰が与えられました。それで水の上を歩くことができたのです。

 つまり、信仰とは自分だけの望み、自分だけの願い、自分だけの求めだけではダメなのです。その後に、私たちは神様からの信仰が臨むまで待たなければならないのです。しかし、残念ながら私たちは、「イエス様が、かなえられたと信じます」とすぐやってしまうのです。私はこれで何度、失敗したでしょうか。私が、この教会に赴任したとき、第一回目の礼拝でこのように宣言しました。「この教会は、3年後、100名の礼拝になります。ならなかったらやめます」。5年たっても、10年たってもなりませんでした。なんと、あれから19年もたってしまいました。どうしたら良いんでしょう。チョー先生が、信仰をもって宣言すればそうなると言ったので、その後、何べんも宣言しました。300名とか、1200名とか言いました。ぜんぜん、なりません。ということは、あれは、私の信仰であって、神様からの信仰ではなかったのかもしれません。もう1つ、痛い、失敗があります。私は8人兄弟で、3人の兄がいました。上から2番目の兄は、今から16年年くらい前に亡くなりました。朝一番、お寺の屋根を塗装しようと登ったのは良いのですが、そのまますべって落ちてしまいました。もう一人の人は、まだ支度中で、梯子をおさえていなかったのです。兄は脳挫傷で、救急病院に運ばれました。連絡を受けたのは、確か金曜日であったと思います。私はすぐ秋田に向かいましたが、電車の中で、ホセア書6章の「主は二日の後、私たちを生き返らせ、三日目に私たちを立ち上がらせる。・・・主は暁のように確かに現われる」というみことばが与えられました。私は「大丈夫だ、兄はきっと治る」と信じました。そして、ICUで兄の頭に手を置いて祈りました。義理の姉にも、「祈ったから、きっと助かる」と断言しました。ところが、土曜日の朝3時頃、亡くなったのです。何と言うことでしょう。小学校1年生を下に、3人の子どもを残して亡くなりました。私は病院の廊下に座り込み、「そんな馬鹿な!主は癒されると約束したのに!」と、文句を言いました。もう、がっかりです。「あの信仰は、あのみことばはウソだったのだろうか」と、しばらくの間、失望と不信感に悩まされました。今、思えば、あの信仰は神からのものではなく、自分勝手に信じた信仰ではなかったのではないかと思います。

 それでは、神からの信仰を得るためにはどうしたら良いのでしょうか。第一は、勝手に信じないで、神様に聞くということです聖書は、神様の約束に満ちています。ローマ10:17「そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです」。ペテロがイエス様から、約束のことばを求めたように、私たちも聖書からみことばを求める必要があります。もちろん、みことばの代わりに、はっきりとした確信が心にやってくることもあります。第二は、願いが与えられたら、確信が来るまで祈るということです。私たちの願いは、自分勝手なものもあるし、野心から出たもの、欲望・・・いろいろあります。それを神様の前に差し出して祈るのです。すると、聖霊の火によって不純なものは焼かれてなくなります。本当に神様から出たものだけが残るのです。そして、祈れば祈るほど、確信が出て来て、最後には平安がやってきます。「やった!」あとは、信じて行動すれば良いのです。たとえば、結婚のことを考えてみましょう。女性は一生に少なくても3回は神様に祈るそうです。第一回目は結婚のとき、第二回目は出産のとき、第三回目は死ぬときだそうです。女性にとって、結婚は一大イベントだということが分かります。そのとき、信仰が必要なのであります。しかし、その信仰は神からの信仰ではなくて、人間的な信仰かもしれません。つまり、「お互いに好きだから」「経済力がありそうだから」「イケ面だから」という信仰です。ちなみに、できちゃった結婚は信仰ではありません。あれは、観念したとか、しょうがないというレベルのものです。でも、みなさん、結婚には神様からの信仰が必要です。「このパートナーは、神様が与えてくださったんだ。二人は神様が結び合わせたんだ。他にはいない。アーメン」。こういう、神様からの信仰があると、簡単には離婚できません。いや、離婚という選択肢はもうないんです。人間的な信仰で結婚してしまった人は、後からでも良いですから、神様からの信仰をいただいてください。昔は「子はカスガイ」と言いましたが、今では、そうではありません。どうぞ、聖書のみことばを読んで、神からの信仰をいただきましょう。

 ヨハネ5:14は、神からの信仰を定義するようなみことばです。「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。」つまり、絶対的にかなえられる願いは、神様が願っているものを求めたら良いのです。神様が自分に願っていることをつかまえ、それを求めたら、100%かなえられます。この信仰が与えられたなら、目で見えなくても、手でさわらなくても、「すでに得た」と信じることができるのです。イエス様は、ラザロをよみがえらせるとき、このように言われました。ヨハネ11:41「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました」。そのあと、「ラザロよ。出て来なさい」と墓穴に向かって、叫ばれました。イエス様は、父なる神様に祈り求めていません。ラザロが生き返ることは、父のみこころだということを完全に知っていたので、死人に命じただけです。私たちも、神様のみこころをつかまえ、神様が私たちに願っておられることを求めたいですね。これが、神様からの信仰です。そして、祈りは、神様のみこころをたぐり寄せるロープのようなものです。たとえば、岸に船を着けるときは、船からロープを渡します。岸にいる人は、ロープの端を杭にまきつけます。船に乗っている人はそのロープをたぐり寄せます。するとどうでしょう。本当は、船が陸地に近づいているのに、まるで陸地が船に近づいているように感じます。それと同じように、私が願い求めるなら、神様のみこころが近づいてくるのではなく、私たちの願いが変えられて、私たちが神様のみこころに近づいていくのです。これが神様からの信仰です。ですから、自分だけの信仰にとどまっていないで、神からの信仰が来るまで、待ち望みましょう。

2.神に喜ばれる信仰

 ヘブル11:5,6「信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。神に移されて、見えなくなりました。移される前に、彼は神に喜ばれていることが、あかしされていました。信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」神様に喜ばれる信仰とはどのような信仰でしょうか?6節を良く見ると、「神に近づくものは、神がおられることと、神を求めるものには報いてくださることとを信じなければならない」と書いてあります。ここには、2つのことを信じる、それが神様に喜ばれる信仰だと書いてあります。第一は、神がおられるという信仰です。これは、神様の存在を信じるということではありません。世の中には、「私は神の存在を信じるよ」と言う人がたくさんいます。だからと言って、彼らに正しい信仰があると思ったら大間違いです。ヤコブ書には「悪霊どもでさえ、神を信じて恐れおののいている」と書いてあるからです。この意味は、神がどこか遠くにおられるというのではなく、神様が私と共におられるということを意識して生きるということです。先日、来られたエディ・レオ師は、「神の臨在とは、神の顔と言う意味である」と教えてくださいました。神様の顔が目の前にあるつもりで、生活をするならどうなるでしょうか。滅多なことは出来ません。でも、本当の意味は、神様がどんな場所でも、共にいて祝福してくださるということです。私たちは、1日の生活、どの時間においても、神様の御顔に照らされて、生活するなら、祝福が途絶えることはありません。学校でも、仕事中も、夫婦間でも、料理をしても、寝ているときも、神様を覚える。すごいことが起こるでしょう。箴言3:5,6に「心を尽くして主により頼め、自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる」とあります。これが、神様と共に歩む信仰であります。

 旧約聖書のエノクと言う人物は、四六時中、神様を覚え、神様と共に歩んでいました。彼は最後どのようになったでしょう。エノクは神に喜ばれ、何と、死を見ないで、天に移されました。この人類史上、死なないで、天に移された人は、そうはいません。神のしもべモーセも死にました。神の友アブラハムも死にました。神から愛されたダビデも死にました。エリヤは竜巻によって、天に上りました。生きたままか分かりません。でも、エノクは、はっきり、死を経験しないで天国に移されました。エノクは他の人たちと比べ、長く生きませんでした。ある人がもし、30歳で死んだなら、「あの人は祝福された」と言わないでしょう。しかし、エノクはそうではありませんでした。エノクは神が自分と共におられることを喜びました。仕事をするときも、旅に出かけるときも、家庭においても、神様を歓迎し、認め、従いました。そのことが神様にとっても喜ばれたのです。どれほど喜ばれたでしょうか。エノクは、死を見ないで天に移されたのです。私たちも、エノクのように、神様が私と共におられるという信仰をいただきたいです。しかし、現実はどうでしょうか?この間、「運転免許証の更新のお知らせ」が来ました。中を開いたら、「違反」運転免許試験場で手続きと書いてありました。「えー、おかしいなー。違反したのは、3年以上も前のことじゃないか!もう、ゴールドだろう!」。「むかー」っときました。インターネットで調べたら、なんと5年間無事故無違反が対象でした。警察に対して、そういう制度に対して怒りが湧きました。それから、何日か経ってこういう思いが来ました。「ああ、暗いビデオを見て、講習を受けると、安全に気を配るだろうな。しかし、これまでよく人身事故起こさなかったなー。主の憐れみだなー。嬉しくはないけど、自分には必要なんだろうなー」。そのうち、試験場に行く覚悟ができました。私は思いがけないことが起こると、「なんでだよー」とかーっとなります。これは、クリスチャンになる前の私の人生が、不条理だらけだったからです。だから、不条理な出来事にまみえると、「えー?」「おいおい」「ウソだろう」と叫ぶんです。そういう時こそ、神様の御顔を覚えるべきです。父なる神様はどんな顔をしているでしょうか。「大丈夫、大丈夫。このことも益にしてあげるから。心配するな!」。皆さんも、神様の御顔を意識してください。素晴らしいことが起こります。

 第二番目の神様に喜ばれる信仰は何でしょうか。11:6後半、「神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです」。そうです。神様はご自分に求める者には、必ず答えてくださることを信じる信仰であります。皆さんは、父なる神様が、善なる神様であることを心から信じているでしょうか。それとも、気難しくて、ケチで、あてにならない神様でしょうか?マタイ25章にタラントのたとえがあります。1タラント預かっていたしもべは何と言ったでしょうか。「ご主人様、あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。」。よくも、しゃあしゃあと言えたものです。このしもべはご主人を、「ひどい方だ」と信じていたので、預かっていたタラントを用いなかったのです。あなたは、父なる神様をどのように、思っていらっしゃるでしょうか。大きいなことを求める人は、「神様が本当に偉大である」と信じている人です。小さなことしか求めない人は、「神様にはできっこない」と信じているからです。

イエス様がエリコに来たとき、盲人の乞食が「ダビデの子、イエス様、私をあわれんでください」と叫びました。取り巻きたちは「うるさい、だまれ!」とたしなめました。彼はますます「ダビデの子よ、私をあわれんでくださーい」と叫び立てました。イエス様は立ち止り、彼を側に連れてくるように言いつけました。彼は上着を脱ぎ捨て、すぐ立ち上がって、イエス様のところに来ました。当時、その上着は「あなたは公に乞食をしても良い」というお墨付きの記しでした。ところがこれを脱ぎ捨てたということは何を意味するでしょう。「もうこの上着は不要になる」という信仰の現われです。イエス様は彼に「私に何をして欲しいのか」と問われました。すると、盲人は言いました。「先生、目が見えるようになることです」。彼は、イエス様にとんでもないことを求めました。すると、イエス様は彼に「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを直したのです」と言われました。この男性は、「イエス様は私の目をきっと開けてくださる」と信じて求めたのです。イエス様は「私にそれが出来ると信じてこの男性は求めたんだなー。大した信仰だ!」と関心したことでしょう。もし、この男性が、「イエス様は、忙しそうだから、お手すきなときに結構ですと」と、遠慮したならどうでしょうか。イエス様は十字架についてお亡くなりになる寸前だったので、この次はなかったのです。「パワー・ローマ書」という本に、すばらしいことばが書いてありました。「主の御前で、偉大なことを求めよ」。主の御前で、偉大なことを求めましょう。神様は信仰をもって、ご自分に近づく人に対して、喜んで答えてくださいます。使徒パウロは、「信仰から出ていないことは、みな罪である」(ローマ14:23)と言いました。ですから、仕事、結婚、子育て、勉強、奉仕、買い物、車の運転、美容と健康、あらゆることを、信仰をもって行ないましょう。

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