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2006年6月25日 (日)

忍耐が必要       ヘブル10:26-39

きょうは、イエス様を信じて救われた人が、天国に入るまで、どうしたら良いのかということを学びたいと思います。教会がこの地上に生まれて以来、一度、与えられた救いを失うことがあるのかどうかということが議論されてきました。神学的にはいろんな立場があります。人が一旦、特定の神学を持ってしまうと、聖書をその神学の色眼鏡で見てしまいます。不思議なもので、その色眼鏡をかけると、ある部分は見えても、ある部分は全く見えなくなってしまうのです。本日は、そういう神学の色眼鏡を一旦、はずして、聖書から直接、聞きたいと思います。

1.一度、救われた人が滅びる可能性はあるのか

 ジョン・カルヴァンという宗教改革者は、「神の絶対的な選び」ということを強調しました。カルヴァンは、「選ばれた者は、決して最後的に滅びることはない。なぜなら、神様から与えられた恵みを人は断ることができないからだ」と主張しました。私もこういう考えに同調している者のひとりです。なぜなら、救いは神の賜物です。お年玉のように、一旦、くれたものを、神様が「行ないが悪いから返せ!」という訳がないだろうと思うからです。コリント3章に、「建物が焼けても、その人は、火の中をくぐるようにして助かる」と書いてあります。これは、信仰者がやって来たことがいい加減であったため、全部焼かれてしまった。でも、その人は丸裸でも、天国だけは入れると言うことでしょう。ヨハネ福音書には「信じるなら、永遠の命が与えられる」といたるところに書いてあります。永遠の命が何かの理由でなくなってしまうなら、それは永遠の命ではありません。クリスチャンは、滅びの列車から、天国行きの列車に乗り換えた存在であり、車内で眠っていても安心であります。でも、カルヴァンの神学にはいくつか問題があります。だれが選ばれて、だれが選ばれていないのか、客観的な証拠はどこにもないということです。もう1つは、救いを「信じて義とされた、天国行きの切符を得た」という1点に置くならば、救われた後の生活がいい加減になる可能性があるという事です。カルヴァンの神学はその当時のヨーロッパ全土に影響を与えました。しかし、教会が段々、堕落してきたのです。なぜでしょう。信仰義認という救いだけにあぐらをかいてしまったからです。18世紀、イギリスにジョン・ウェスレーが現れました。彼は、救いばかりではなく、救われた後の生活について強調しました。救われた人は、恵みによって聖い生活をすべきであると説いたのです。それまでのイギリスは大勢の人たちがアルコール中毒で死んでいました。ところが、ジョン・ウェスレーのリバイバルによって、酒場という酒場が閉店してしまったのです。救われた後、きよめられていくということを「聖化」と呼んでいます。ジョン・ウェスレーのおかげで、聖書から、「聖化」という部分が再発見されたわけです。つまり、救いは義認という点でとらえるだけではなく、天国へ行くまでの聖化の過程でもあるということです。

 ところで、ヘブル人への手紙を、そのまま読むなら、震えが来ます。ヘブル人への手紙の記者は、「一度、信じた者でも、滅びる可能性がある」とはっきり告げています。ヘブル6章に「一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となったものが、堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです」と書いてあります。そして、先ほど読んだ、10章の26節以降に何と書いてあるでしょうか。10:26-29「もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。ただ、さばきと、逆らう人たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れながら待つよりほかはないのです。だれでもモーセの律法を無視する者は、二、三の証人のことばに基づいて、あわれみを受けることなく死刑に処せられます。まして、神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものとみなし、恵みの御霊を侮る者は、どんなに重い処罰に値するか、考えてみなさい。」ヘブル人への手紙を先入観なしに見るならば、一度、信じた人も滅びる可能性があるということです。カルヴァン主義の人たちは、「これは一種のおどかしだ」とか、「たとえば、の話だ」、あるいは「いや、こういう人たちは初めから救われていなかったんだ」と言うかもしれません。私は救いを機械的に考えるのは間違いだと思います。確かに、本当にイエス様を信じた人であれば、どんなことがあっても天国に入れてもらえると信じます。でも、神を恐れ、救いを全うしなければならないという事も忘れてはいけません。ピリピ2:12も「恐れおののいて自分の救いの達成に努めなさい」とあります。と言うことは、やがて神様の前に立つその日まで、罪を避け、キリストに似た者となるように努力しなければならないということです。私たちは一旦得た、「罪の赦し」と「永遠の命」と言う宝物をこの地上で、キープしなければなりません。

では、神を恐れるとはどういう意味でしょうか。神様はお友達ではありません。神様はやはり、神様です。でも、恐れるとは、「ああ、神様は私を滅ぼしてしまう恐ろしいお方だ!」と言う意味ではありません。Ⅰヨハネ4:18「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを閉め出します」と書いてあります。私たちは奴隷の霊を受けたのではなく、神様を「アバ、父よ」と呼べる霊をいただきました。もしも、奴隷なら主人を見てビクビクするかもしれません。しかし、息子ならば恐れません。私の6歳の有悟は、私を決して恐れません。牧師室にも勝手に入ってきます。夜8時になれば、「パパ、お風呂に入ろう」と牧師室にインターホンをかけてきます。私にとっては、夕食後のほっとしたひととき、ゴールデン・タイムなんです。また、いつも「おもちゃ買って」とせがみます。遠慮会釈ない、これが親子です。でも、皆さん、幼子はそれで良いかもしれませんが、息子として成長していくならどうでしょうか。父なる神様のみこころを知り、父なる神様の品性に似た者となりたいと願うでしょう。聖書全体を通して、「救い」を考えてみたいと思います。私たちはイエス様を信じると神の子供になります。この関係はいかなることがあっても、変わらないのです。でも、「私はイエス・キリストを信じるのをやめました。棄教します」と、はっきりと意思を持って、信仰を捨てた人は別です。そういうユダみたいな人はあまりいないですね。口先だけで「主よ」「主よ」と言っている人は、初めから救われていないのです。でも、皆さん、「心からイエス様の十字架と復活は私のためであり、イエス様を救い主として信じます」と告白した人は決して、救いからもれることはありません。これが福音です。もう一度言います。イエス様を信じると神の子供になり、この関係はいかなることがあっても、変わらないのです。でも、皆さん、クリスチャンが罪を犯すとどうなるでしょうか。神様との交わりが壊れるということです。父なる神様と私たちの間に、罪が入ってしまったのです。罪を犯しても、父と子供の関係は失いません。でも、親しい交わりが持てなくなります。では、どうしたら良いのでしょうか。罪を告白して、捨てます。そうしますと、再び、親しい交わりが回復します。本当に救いを得ている人は、神の戒めを無視したり、神の御子を踏みつけたりはしません。また、本当に救いを得ている人は、契約の血を汚れたものとしたり、恵みの御霊を侮ったりはしません。クリスチャンでも、誤って、というかたまたま罪を犯すことはあるかもしれません。でも、本当に救いを得ている人は、好きで罪を犯し続けることはしません。なぜなら、クリスチャンは神によって生まれた者であり、神の種が宿っている存在です。Ⅱテモテ2:13「私たちは真実でなくても、彼は常に真実である」と書かれています。英語で真実はフェイスフル、信仰で満ちているという意味です。ちょっと、真実を信仰と置き換えてみましょう。「私たちは信仰に欠けることがあっても、御子イエスはいつも信仰に満ちている」ということです。つまり、私たちが拠って立つところは、私たちの信仰ではなく、イエス様の信仰なのであります。あくまでも、信仰とは自分のがんばりではなく、イエス様の恵みによって生きるということです。

2.忍耐が必要

 ヘブル10:35-39「ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。『もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない。わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない。』私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。」信仰は、あるとき決断するという点の部分が必要です。イエス様を信じるなら義とされ、救われます。でも、これは信仰のスタートであります。ヘブル人への手紙の記者は、「もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない。わたしの義人は信仰によって生きる」と言っています。来るべき方とは、イエス・キリストであります。聖書は、世の終わり、再びイエス・キリストが来られると預言しています。これを再臨と呼んでいますが、私たちは、世の終わり、再臨が来るまで信じ続ける必要があります。もちろん、その前に肉体のいのちが尽きるかもしれません。が、しかし、私たちは個人的な人生の終わりもそうですが、この世が終わり、御国が完成するという時代に生きています。主イエス・キリストが来られたら、死と悪魔が滅ぼされ、罪もなくなります。私たちはその時栄光の体に変えられ、永遠の御国に移されるのです。本当に、この世の人が聞いたら、「お前ら、アホか」ということを真剣に信じています。残念ながら、キリストを信じていない人は、希望がありません。しかし、クリスチャンは、既に永遠に片足を突っ込んでいる存在です。間もなく、この世は終わりを告げます。私たちは、新しい肉体をいただいて、今度は、新しい天と新しい地に移り住むのです。青虫は地面をはい、葉っぱを食べて生きています。ところが、ある時、死んだように動かなくなります。間もなく、背中がパックリ割れ、そこから蝶が出てきます。あの青虫が、蝶になるなんてだれが想像できるでしょうか。蝶はもはや、青虫には戻りません。蝶は天空を舞うのです。私たちも醜い地上の体で蒔かれ、やがては美しい天上の体でよみがえるのです。皆さん、永遠と比べたら、地上の80年なんて、たったの一瞬であります。皆さんは、どちらで暮らす者でしょうか。地上の80年間と暗いお墓の中でしょうか、もしくは天上の住まいにおける永遠の世界でしょうか。わおー、そういうことをまともに考えると、頭がおかしくなりますね。クリスチャンは地上に住んではいますが、天国の国籍を持っている存在なのです。

 ヘブル人への手紙の記者は、私たちに何と言っているでしょうか。「ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です」。そうです。信仰には、最後まで、信じ続けるという忍耐が必要なのです。みなさん、こういう忍耐は、世の中が平和な時よりも、迫害に満ちているときのほうが持ちやすいのです。ローマ時代の迫害時、共産主義の迫害時、日本では徳川幕府の迫害がありました。迫害のときには、確かに信仰を捨てる人たちがいます。でも、逆に「絶対、信仰を捨てないぞ!」とかえって、歯を食いしばるのです。一番、問題なのは迫害時ではありません。むしろ平和な時代であります。豊かで平和な時代は、神様を求めようとしません。日本は今、平和な時代です。だから、クリスチャンの信仰も生ぬるく、自分の生活のことしか考えません。インドネシアとか中国、アフリカなどは、迫害、貧困、飢餓があります。だから、人々の信仰が燃え上がっています。この間、インドネシアからエディレオ師が来られました。インドネシアはイスラムの迫害が最も強い国の1つです。しかし、神様はクリスチャンの祈りを聞いて、国を揺り動かしています。昨年、起きた津波、そしてこの間の地震は、伝道できないほどイスラム教が強いところでした。しかし、災害が起きたゆえに伝道ができるようになったということです。今の日本がいつまでも平和が続くと思ったら大間違いです。石原先生が言っていましたが、日本は終戦前の7月だと言うことです。日本は8月15日に降伏しますが、1ヶ月前は、「日本は勝っている大丈夫だ」と新聞で報道していました。ところが、それがみんな嘘だったんです。8月15日から、一瞬のうちに、軍国主義から民主主義に変わりました。心理学者の服部氏は、日本はひきこもりで滅びるとはっきり告げています。ひきこもりは現在100万から160万人いるそうです。ひきこもりになると、働けないし、結婚も出来ないし、子孫も残すごとができません。ところが、服部氏に言わせますと、潜在的なひきこもり、ひきこもり予備軍は60-90%いるということです。また、国の借金は800兆円だということです。いつ、日本が経済的に破綻してもおかしくありません。日本政府はマスコミに圧力をかけ、ひたすら隠していますが、終戦前の7月だと言うことです。もうすぐ、8月15日がやってきます。服部氏に言わせますと、日本は一期に変わる国であるということです。クリスチャンは、教会はそのために備えたいと思います。

 38節の「私の義人は信仰によっては生きる」とは、旧約聖書のハバクク書からの引用です。ハバククの頃は、ユダ王国に末期的症状が起きてきていました。彼らは神様との関係も形ばかりでいのちがありませんでした。神の預言者たちは「もうすぐ、主が強暴なカルデヤ人を興して、攻め上ってくる」と預言しました。ところが、国の指導者たちは、しらんぷりして安逸を貪っていました。ハバククは、「多くの預言者たちが、何度も警告しているのに、この国はどうなってしまったんだ!」と嘆きました。ユダ王国は、経済的には富んでいたかもしれませんが、霊的には全く不毛の地でした。まともに神を信じている人たちが、ものすごく少ない悪い時代だったのです。そういう状況の中で、「私の義人は信仰によっては生きる」と言ったのです。ハバククは、その絶望的な状況のなかでさらに何と言っているでしょうか。ハバクク書の最後です。ハバクク3:17‐19「そのとき、いちじくの木は花を咲かせず、ぶどうの木は実をみのらせず、オリーブの木も実りがなく、畑は食物を出さない。羊は囲いから絶え、牛は牛舎にいなくなる。しかし、私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう。私の主、神は、私の力。私の足を雌鹿のようにし、私に高い所を歩ませる。」このみことばは、今の日本を現しています。日本は本当に霊的に不毛な地です。福音の種を蒔いても、蒔いても、芽が出ません。たとえ、芽が出たとしても、石地やいばらの地に蒔かれた種のようで、豊かな実を結ぶことができません。

今月の初め、蒲郡に行ったとき、大阪の遠藤牧師が「日本の教会の現実」について、ある教会リサーチをもとに、このようにお話しされました。クリスチャン人口は現在、0.22%。1教会の礼拝出席は24人である。日本の教会で一番多いのは10名から15名。日本の教会の65%は一年間、ひとりも受洗者が起こっていない。洗礼者は1年間に平均1.3人。そして、受洗者のほとんどが、2.7ヶ月後には教会に来なくなる。1つの日曜学校の平均は9名。教会の45%が日曜学校を持っていないので、実際の平均はもっと少ない。これが日本の現実であるが、私は今後、日本が2つの教会に確実に別れていくと感じる。1つは霊的な不況の中で、形だけになって行く教会。もう1つはその中にあってもいのちを持って前進していく教会。向こう10年間で、牧師が高齢化して無牧になる教会が数え切れないほど出てくる。そういう流れがある中で、間違いなく神様は、生き生きとした命を持った教会を作っていかれている、あるいは残しておかれている。私はそれを温室効果と呼んでいるが、温室効果のある教会というのは、どんなに気温が低くても、その中では収穫がもたらされる。そして、温室効果をもたらすことができる教会は、いのちを中に含んでいる。そして、温室は何かと言うと、神の現実を知っている教会である。教会全体を見ると、非常に厳しいものがあるが、神様はその中から確実に、生きた素晴らしい教会を生み出す時期に至っている。宣教学的に言うと、ある国にリバイバルが起こるときには、国家的な危機とか問題が起こることが重なっていること多い。日本はなかなか、崩れない国であったが、60‐90%が潜在的ひきこもりである。それは確実に国家を崩壊させる大きな出来事である。ここに教会が結びつくことができると、大きな収穫があると思う。今までの教会は福音だけを伝えるか、社会福祉をする教会か2つに分かれていた。ひきこもりに対する対応は、教会が福音を宣べ伝えると同時に、社会に仕えて、キリストの愛を現す出来事である。

 遠藤牧師は淡々と日本の教会の悲惨さと希望について語ってくれました。私はこれまで他の教会はともかく、自分の教会が大きくなれば良いと思っていました。しかし、それは我がままな教会です。そうではなく、日本が救われるために、私たちに何が出来るか。日本を救うために、私たちを用いてくださいという願いに変わりました。石原牧師は「日本はタイタニックで言うと、65%が水に浸かっている状態。もうまもなく、船は垂直に傾き、悲惨な状態で沈没してしまう」とおっしゃっていました。私たちはまもなく沈むタイタニックの中で、サービスが悪いとか、食事や音楽がどうのこうのと言ってられません。私たちは世の終わりの時代に住んでいます。私たちはキリストの愛といのちを持って、滅び行く日本のために仕える教会になりたいと思います。ヘブル書は「もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない。わたしの義人は信仰によって生きる」と言っています。義人とは新約聖書では、クリスチャンのことです。私たちはどんな霊的不毛な時代にあっても、忍耐をもって信仰によって生きるのです。もうしばらくすれば、来るべき方が来られます。「主よ、この町に来てください。この日本に来てください。そして、救いとみ栄えを現してください」と祈り求めましょう。

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2006年6月18日 (日)

古い皮袋から新しい皮袋へ マタイ9:17 【賛美礼拝 李英洙 師】

本日は李英洙 師による賛美礼拝の為、原稿が用意できませんでした。


また、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、皮袋は裂けて、ぶどう酒が流れて出てしまい、皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れれば、両方ともたもちます。(マタイ9:17)


[ 李英洙 師 ]

国籍の問題と父親から受けた虐待による深い傷をもっていたが、イエス様の癒しを受け回復。
武蔵野音楽大学卒。西ドイツのロバートシューマン音楽大学に留学。在学中から北西ドイツ各地でオラリスト歌手として活躍。

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2006年6月11日 (日)

神の国を生きる   ヨハネ3:3-5、マタイ11:11  【特別礼拝  エディ・レオ師】

本日はエディ・レオ師による特別説教の為、原稿が用意できませんでした。


イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。」イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。(ヨハネ33-5


  まことに、あなたがたに告げます。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。しかも、天の御国の一番小さい者でも、彼より偉大です。(マタイ1111


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2006年6月 4日 (日)

聖霊を受けよ       使徒1:1-8

本日は、ペンテコステ礼拝です。教会の三大行事は、クリスマス、イースター、そしてペンテコステであります。ペンテコステは、2000年前、聖霊が教会に注がれた記念日であります。ペンテコステの語源は、ギリシヤ語の50から来ています。旧約聖書では、過ぎ越しの祭から、50日たった日、小麦に初めて鎌を入れ、その束を神殿にささげました。いよいよ、これから小麦の収穫が始まるということを記念した「五旬節」という祭がもともとありました。新約時代、「五旬節」の祭が、ペンテコステに入れ替わりました。ペンテコステの日、何が起きたかと申しますと、天から聖霊が地上に注がれ120名が聖霊に満たされました。さらに、その日、3000人が救われバプテスマを受け、教会が誕生しました。3000人こそが、小麦ならず、失われた人たちの収穫だったわけです。きょうは、「聖霊のバプテスマ」とは何かということを特に学びたいと思います。なぜなら、近年、「聖霊のバプテスマ」こそ、物議をかもしているテーマは他にないからです。「聖霊のバプテスマ」をどうとらえるか、福音派とカリスマ・ペンテコステ派は大きく異なります。私は両者の立場をよーく存じているつもりです。これから先、どう変わるか分かりませんが、聖書から見た、私なりの見方で、「聖霊のバプテスマ」について語らせていただきたいと思います。

1.内なる御霊

 イエス様は復活後、弟子たちに「聖霊を受けよ」とお命じになられました。ヨハネ20:22「彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい』」。このところから連想することは、創世記2章であります。神様が人間を創造されたとき、やはり、息を吹き込まれました。創世記2:7「その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった」。人間は他の動物とは違い、霊的な生きものです。ところが、アダムが神様に逆らって、罪を犯して以来、おかしくなりました。人間は霊ではなく、自分の魂で善悪を決定するようになりました。もはや、神の霊は人間にとどまらなくなり、人間の霊も開店休業の状態に陥りました。人間には霊はあるのですが、もはやその役目を果たさず、眠っている状態です。宗教改革者たちは、「人間は、自分の力では神を見出せないまでに完全に堕落した」と言いました。ですから、生まれながらの人間は、神を知らないし、また神を認めようとしません。コリント2:14「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることが出来ません」とあります。たまに、「私は神も、御霊も知っています」と言う新興宗教の人たちとお会いする時があります。しかし、それは、この世の霊、悪霊を受けている人たちであり、聖霊ではありません。私たちはイエス・キリストを信じて、罪赦され、神様と和解しない限りは、聖霊を受けることはできません。なぜなら、私たちが受ける聖霊は、キリストの御霊だからです。イエス様は、「父は、もうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります」(ヨハネ14:16)と約束されました。ですから、助け主はイエス様であり、もうひとりの助け主は、イエス様と良く似た、聖霊様であることは間違いありません。

 では、どうしたら私たちは内側に聖霊を受けるのでしょうか。それは、いたって簡単です。イエス・キリストを救い主として受け入れるときに、キリストの御霊である、聖霊が入ってこられるのです。そうするとどういうことが起こるでしょうか。新生が起こります。ヨハネ3章にありますように、御霊によって生まれるという出来事が起こるのです。そういうことで、イエス様を信じている人は、もれなく、聖霊が宿っています。イエス様を信じているけれど、聖霊は受けていないと言うクリスチャンは一人もいません。ローマ8:9「キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません」と書いてあります。つまり、「イエス様を信じている人は、もれなく、キリストの御霊、聖霊を内側にいただいている」ということです。これを、神学的には、内住の御霊と言います。私たちはこのように賛美します。「主は今、生きておられる、我が内におられる。すべては主の御手にあり、明日も生きよう主がおられる」。私たちの体に神様が住んでおられるなら、私たちの体は聖霊の宮ということになります。神様は以前、エデンの園におられました。モーセのときは、神の幕屋に臨在されました。そして、ソロモンの時から、神殿に臨在されました。でも、今は、神殿がありません。どこに神様はおられるんですか?天におられます。もちろん、天にもおられます。でも、2000年前、ペンテコステの日、すばらしいことがおこりました。イエス・キリストを信じる人の内側に、神の霊、キリストの御霊として、宿るようになったのです。これは、旧約時代にない、画期的なことです。

 では、イエス様を信じて、聖霊を内にいただくと、どういうことが起こるでしょうか。聖霊は真理の御霊ですから、神様のこと、イエス様のこと、聖書のことばがよーく分かるようになります。私たちの内にある霊が聖霊によって、目覚めさせられ、スイッチが入った状態になります。テレビでもラジオでも、スイッチが入っていなければ、ただの箱であります。電波はそこまで来ているかもしれない。でも、スイッチが入っていないので、音も出ないし、映像も映し出すことができません。でも、イエス様を信じると、スイッチ・オンになり、霊的なことが急に分かるようになります。あんなにつまらなかった、聖書が面白くなります。また、善悪に対する感覚も鋭くなり、これまで罪でなかったことが、「ああ、罪なんだ!」と分かるようになります。クリスチャンになると罪に対して敏感になるのは、そのためです。でも、皆さん、聖霊は慰め主です。イエス様がそうであられたように、あなたを慰め、弁護し、そして励ましてくださいます。イエス様は「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません」(ヨハネ14:18)と言われました。そのことは、イエス様が、聖霊によって内側に住んでいらっしゃるので、実現するのであります。私たちは聖霊なしで、クリスチャン生活をしようと思ったら、3日もできないでしょう。この世で数限りない、法律や義務があるのに、クリスチャンになって、またさらに戒めや命令が与えられるなんて、まっぴらごめんです。悪を行なう人を赦すとか、嫌いな人を愛するなんて、とんでもはっぷんであります。しかし、みなさん、聖霊様を認め、聖霊様を歓迎し、聖霊様に従うならば、どんなことでも可能になります。聖霊こそ、私たちの内側を聖め、神様の愛と慈しみを注ぐ、管なのであります。ローマ5:5「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです」

 管から連想することは、ライフラインであります。私たちが生活をするために、必要なライフラインとは、電気、ガス、水道であります。震災後、一日も早く、復旧しなければならないのは、これらの3つであります。クリスチャンのライフラインは、何か、それは聖霊であります。もちろん、兄弟姉妹との交わり、聖書の教えも必要であります。でも、自分がこれから死のうとする時は、人も、聖書の教えも役に立ちません。イエス様が聖霊によって、世の終わりまで共にいてくださいます。このことが唯一の望みであります。マタイ28:20「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」。私は、クリスチャンになってから、また、牧師として何十名もの兄姉のご葬儀に立ち会いました。一番辛いのは、最後の火葬場に行くときです。もちろん、クリスチャンの場合は、魂は天に引き揚げられ、からっぽの肉体があるだけです。ただの入れ物とは分かっていても、形がなくなるというのはショックであります。火葬場では、クリスチャン、ノンクリスチャンに関わらず、釜の中に入れられます。扉が開いて、箱が押し込められ、蓋がロックされ、点火されます。まことに、嫌なものです。司式をしている自分が、いつかは、入るんだろうなーと思います。私はそのことを、スーパーのレジで並んでいる時、ふっと思ったりします。レジで並んでいると、自分の番がまわってきます。それと同じように、「私も火葬場の釜に入るときも来るんだろうなー」と思うのです。だれも、一緒に、釜の中には入ってくれません。しかし、イエス様は約束されました。「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」。アーメン。聖霊様が世の終わりまで、人生の終わりまで、共にいてくださるのです。なんという慰めでしょうか!私たちはこの世において、ひとりではありません。イエス様が聖霊によって、世の終わりまで共にいてくださるのです。ですから、死ぬときばかりではなく、この世で、生きている限り、聖霊様にお頼り申し上げましょう。聖霊様は、いくら頼っても、「いい加減にしろ!」とか、「暑苦しいから、あっちへ行け」などとは申しません。なぜなら、聖霊様は私たちの助け主、慰め主、癒し主だからです。聖霊様が内におられることを感謝しましょう。

2.上よりの御霊

 使徒1:8「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます」。「上」は、原語のギリシヤ語では、エピであります。先ほど、聖霊を内側にいただくことは、ギリシヤ語ではエンであります。エピは英語では、upon。そして、エンは英語で、inであります。チャック・スミスと言うカルバリーチャペルの牧師がある本でこのように語っています。・・・あなたが主イエスを受け入れた瞬間に、聖霊があなたの中に入って来られ、あなたの内に住まわれ始めた。あなたは「エン」の状態になったのだ。一方、使徒1:8「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます」で、使われている前置詞は「エピ」である。聖霊はあなたがたの「上に」あるいは「上にあふれて」臨まれる。私は、聖霊があなたがたの中から「あふれ出る」と言う考えの方が良いと思う。この「エピ」の状態が、信者を奉仕へと向かわせるパワーの源となる。聖霊があふれ出る状態だ。今から、水をピッチャーからグラスに入れ始めよう。水はピッチャーから、グラスに内「エン」に注がれた。水がグラスにいっぱいになってもまだ水を注ぎ続けると、グラスから水が溢れ始める。このとき「エン」から、「エピ」の状態になる。つまり、聖霊は私たちの「内に」住まわれ始める。次に、主は私たちの「上に」聖霊を注ぎ続けられ、私たちの中からは聖霊が「あふれ出る」ようになる。聖霊がその「内に」住んでいるクリスチャンは数多くいる。ところが、彼らのいのちから「聖霊があふれ出て」いない。彼らはエピの体験である聖霊のバプテスマを体験しなければならない。・・・チャック・スミス師は、エピ「上に」の体験を聖霊のバプテスマだとおっしゃいました。こう言う考えの人は、カリスマ・ペンテコステの人たちです。彼らは、「聖霊のバプテスマとは、イコール、聖霊を受けることであり、二度目の体験である」と言います。

私は「エン」と「エピ」と言うわけ方は素晴らしい真理だと思います。しかし、私は聖霊のバプテスマをただそれだけであるとは定義しません。もし、そうであるとするならば、聖霊を受けているクリスチャンと、聖霊を受けていないクリスチャンがいるということになります。それよりも、私はウォッチマンニー先生の『キリスト者の標準』で言われている定義を取ります。ウォッチマンニーは、「聖霊のバプテスマとは、ペンテコステの日に注がれた聖霊である」と定義します。本にこう書いてあります。「聖霊は、天において行なわれたこと、すなわちナザレのイエスが神の右に上げられたことを証明するため、地に注がれたのです。主がご自身の教会のために何をなされたかと言う啓示が、聖霊のバプテスマを獲得するための私たちの努力を終わらせるのです。聖霊の賦与も、義認と同様の方法であなたのものになります。イエスは既に栄光を受けられたので、私は既に御霊を受けたのです」。簡単に言いますと、ペンテコステの日、この地上に注がれた約束の御霊を、聖霊のバプテスマと言うということです。そして、イエス・キリストを信じる者は、だれでも聖霊を受けている。つまり、ご自分の内に御霊を宿しているということです。では、チャック・スミス師がおっしゃる、エピ「上に」の体験は何と呼ぶのでしょうか。私は満たしの経験と呼ぶべきではないかと思います。もし、許されるならばこのような言い方にしたいと思います。歴史的な聖霊のバプテスマはペンテコステの日、この地上に注がれました。これは歴史的に一回限りのことであります。それ以来、イエス様を信じた人には自動的に聖霊が与えられます。でも、クリスチャンはそれだけにとどまらず、聖霊が上から注がれる経験、つまり満たされる経験をしなければならないということです。もし、そのことをペンテコステの経験、あるいは聖霊の満たしの経験と呼んでも良いと思います。私は、聖霊の満たしと言う意味で、聖霊のバプテスマと言うならば、反対はしません。私はペンテコステの日、120名の弟子たちは特別な経験をしたと思います。それはつまり、「エン」と「エピ」、「内に」と「上から」を両方、経験したのだと思います。

 聖霊のバプテスマをどう定義するかは問題ではありません。でも、「エン」、聖霊を内側に持っているだけでは不十分であります。むしろ、「エピ」、聖霊を上から溢れ出るまで注いでいただく経験が必要だということです。つまり、聖霊に関しては、信仰だけではだめです。経験も必要なのです。多くのクリスチャンは、聖霊のことすらも、聞いたことがありません。現代は、聖霊を言わない教会も多くあります。するとどうなるでしょうか?聖霊の力、賜物としての聖霊に対して無知だということです。チャックスミスが、「この『エピ』の状態が、信者を奉仕へと向かわせるパワーの源となる。聖霊があふれ出る状態である」と言いました。なぜ、クリスチャンに力がないのか、賜物を発揮できないのか。それは、ペンテコステの経験、あるいは聖霊の満たしの経験をしていないからです。初代教会がなぜ、力があったのか。なぜ、無学のただ人たちが用いられたのか。それは、彼らが聖霊に満たされ、聖霊の賜物を発揮したからであります。聖霊を強調しない教会は、知的な学びとか神学を強調します。近年の福音派の神学校がアカデミックになったのはそのためです。また、聖霊を強調しない教会は、ヒューマニズムによる社会奉仕に目が行きます。日本基督教団も残念ながら、そういうところがあります。私たちは聖霊の賜物という点は、カリスマ・ペンテコステから学ばなければなりません。日本だけがそういう点で遅れています。外国では聖霊の力と賜物はどの教団・教派でも当たり前のことです。日本の教会に力がないのは、聖霊の力と賜物を否定しているからです。「あつものに懲りて、なますを吹く」という諺があります。「聖霊の力と賜物で、教会が分裂して、嫌な思いをしたので、もうこりごりだ」と言うのです。聖霊における新生と聖化は認めるけれど、聖霊の賜物は認めないという教会がたくさんあります。それでは、神様がせっかく与えておられる奉仕の力をどぶに捨てているようなものです。キリスト教は良い人を作る精神修養の宗教ではありません。今も生きておられるキリストをこの世に向かって現すのが本当の教会です。イエス・キリストはからだである私たちを通して、現われたいのです。そのために私たちは、聖霊に満たされ、聖霊の力と賜物に目覚める必要があるのです。私たちは弱くてただの人であります。でも、聖霊に満たされたなら、あの弟子たちのように、世の中を覆す者となるのです。

使徒の働きを読んでいきますと、「聖霊に満たされ、賜物が現れる」ということがよく起こります。ペンテコステは歴史的に一回限りでしたが、福音がその地に言い広められ、イエス様を信じるとペンテコステのようなことが起こるのです。これは、歴史を振り返っても、繰り返されていることです。ペンテコステが繰り返される、これを私たちはリバイバルと呼んでいます。一番、最初は2000年前、エルサレムで起きました。二階座敷で祈っていた120人に初めて聖霊が下りました。そして、その日、ペテロが説教したら、3000人が救われました。癒しも奇跡もどんどん起こり、異言や預言も与えられました。こういうすばらしいことが、ペンテコステのときに起きたのです。しかし、歴史を振り返ると、ペンテコステのような出来事がイギリス、アメリカ、中国、南米、韓国、インドネシアに起こりました。今は、アフリカにすばらしいリバイバルが起こっています。日本にもリバイバルを待ち望む団体や集会がありますが、これだけは聖霊様の主権です。日本にリバイバルが起こらないのは、祈りが足りないとか、一致が足りないとかよく言われます。もちろん、そういうこともあるでしょう。でも、一番の原因は、私たちの熱心さではなく、あちら様、聖霊様の主権であります。「風はその思いのままに吹く」(ヨハネ3:8)にあるとおりです。大川牧師は、文語訳から「風は己が好む所を吹く」というところから、すばらしいことを発見しました。「聖霊様はご人格(ペルソナ)がおありだから、ご自分が吹きたいところと吹きたくないところがある。私たちができることは、聖霊様が好まれる教会を作ることである。それは裁き合わないで、互いに愛し合うことである」と言われました。まさしくそうであります。リバイバルは人間の熱心とか努力ではありません。一方的な神様のみわざです。ある人たちは、「日本にもリバイバルが起きたら大勢の人が救われるのに」「リバイバルが起きたら癒しや奇跡がもっと起こるのに」「リバイバルが起きたらこの世の中が変わるのに」と言います。私もつい先ほどまで、そのように思って、失望落胆の中にいました。しかし、そうではありません。リバイバルはともかく、ペンテコステ以来、聖霊様はすでに地上に注がれているのです。イエス様はヨハネ4章でこのように言われました。あなたがたは、『刈り入れ時が来るまでに、まだ四か月ある。』と言ってはいませんか。さあ、わたしの言うことを聞きなさい。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています(ヨハネ4:35)。また、マタイ9:37,38「そのとき、弟子たちに言われた。『収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい』」。イエス様は「収穫のために祈れ」とはおっしゃいませんでした。収穫が多いか、少ないかは神様の問題です。私たちがなすべきことは、どの時代であっても、聖霊様がおられることを信じて主のわざに励むということです。神の霊であられる聖霊様が私の内におられ、そして、上から満たしてくださるのです。ある人が何十年も前に、ナイアガラの滝に行きました。最近、再び、その人がナイアガラの滝に行ったそうです。別な人が、その人に尋ねたそうです。「ナイアガラの滝は、今どうなっている?」。彼は何と答えたでしょうか。「昔と同じように、今も轟々と流れているよ」。ペンテコステに注がれた聖霊は、今は消えたのでしょうか。そうではありません。ペンテコステに注がれた聖霊は、今も轟々と流れているのです。

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