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2006年6月 4日 (日)

聖霊を受けよ       使徒1:1-8

本日は、ペンテコステ礼拝です。教会の三大行事は、クリスマス、イースター、そしてペンテコステであります。ペンテコステは、2000年前、聖霊が教会に注がれた記念日であります。ペンテコステの語源は、ギリシヤ語の50から来ています。旧約聖書では、過ぎ越しの祭から、50日たった日、小麦に初めて鎌を入れ、その束を神殿にささげました。いよいよ、これから小麦の収穫が始まるということを記念した「五旬節」という祭がもともとありました。新約時代、「五旬節」の祭が、ペンテコステに入れ替わりました。ペンテコステの日、何が起きたかと申しますと、天から聖霊が地上に注がれ120名が聖霊に満たされました。さらに、その日、3000人が救われバプテスマを受け、教会が誕生しました。3000人こそが、小麦ならず、失われた人たちの収穫だったわけです。きょうは、「聖霊のバプテスマ」とは何かということを特に学びたいと思います。なぜなら、近年、「聖霊のバプテスマ」こそ、物議をかもしているテーマは他にないからです。「聖霊のバプテスマ」をどうとらえるか、福音派とカリスマ・ペンテコステ派は大きく異なります。私は両者の立場をよーく存じているつもりです。これから先、どう変わるか分かりませんが、聖書から見た、私なりの見方で、「聖霊のバプテスマ」について語らせていただきたいと思います。

1.内なる御霊

 イエス様は復活後、弟子たちに「聖霊を受けよ」とお命じになられました。ヨハネ20:22「彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい』」。このところから連想することは、創世記2章であります。神様が人間を創造されたとき、やはり、息を吹き込まれました。創世記2:7「その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった」。人間は他の動物とは違い、霊的な生きものです。ところが、アダムが神様に逆らって、罪を犯して以来、おかしくなりました。人間は霊ではなく、自分の魂で善悪を決定するようになりました。もはや、神の霊は人間にとどまらなくなり、人間の霊も開店休業の状態に陥りました。人間には霊はあるのですが、もはやその役目を果たさず、眠っている状態です。宗教改革者たちは、「人間は、自分の力では神を見出せないまでに完全に堕落した」と言いました。ですから、生まれながらの人間は、神を知らないし、また神を認めようとしません。コリント2:14「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることが出来ません」とあります。たまに、「私は神も、御霊も知っています」と言う新興宗教の人たちとお会いする時があります。しかし、それは、この世の霊、悪霊を受けている人たちであり、聖霊ではありません。私たちはイエス・キリストを信じて、罪赦され、神様と和解しない限りは、聖霊を受けることはできません。なぜなら、私たちが受ける聖霊は、キリストの御霊だからです。イエス様は、「父は、もうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります」(ヨハネ14:16)と約束されました。ですから、助け主はイエス様であり、もうひとりの助け主は、イエス様と良く似た、聖霊様であることは間違いありません。

 では、どうしたら私たちは内側に聖霊を受けるのでしょうか。それは、いたって簡単です。イエス・キリストを救い主として受け入れるときに、キリストの御霊である、聖霊が入ってこられるのです。そうするとどういうことが起こるでしょうか。新生が起こります。ヨハネ3章にありますように、御霊によって生まれるという出来事が起こるのです。そういうことで、イエス様を信じている人は、もれなく、聖霊が宿っています。イエス様を信じているけれど、聖霊は受けていないと言うクリスチャンは一人もいません。ローマ8:9「キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません」と書いてあります。つまり、「イエス様を信じている人は、もれなく、キリストの御霊、聖霊を内側にいただいている」ということです。これを、神学的には、内住の御霊と言います。私たちはこのように賛美します。「主は今、生きておられる、我が内におられる。すべては主の御手にあり、明日も生きよう主がおられる」。私たちの体に神様が住んでおられるなら、私たちの体は聖霊の宮ということになります。神様は以前、エデンの園におられました。モーセのときは、神の幕屋に臨在されました。そして、ソロモンの時から、神殿に臨在されました。でも、今は、神殿がありません。どこに神様はおられるんですか?天におられます。もちろん、天にもおられます。でも、2000年前、ペンテコステの日、すばらしいことがおこりました。イエス・キリストを信じる人の内側に、神の霊、キリストの御霊として、宿るようになったのです。これは、旧約時代にない、画期的なことです。

 では、イエス様を信じて、聖霊を内にいただくと、どういうことが起こるでしょうか。聖霊は真理の御霊ですから、神様のこと、イエス様のこと、聖書のことばがよーく分かるようになります。私たちの内にある霊が聖霊によって、目覚めさせられ、スイッチが入った状態になります。テレビでもラジオでも、スイッチが入っていなければ、ただの箱であります。電波はそこまで来ているかもしれない。でも、スイッチが入っていないので、音も出ないし、映像も映し出すことができません。でも、イエス様を信じると、スイッチ・オンになり、霊的なことが急に分かるようになります。あんなにつまらなかった、聖書が面白くなります。また、善悪に対する感覚も鋭くなり、これまで罪でなかったことが、「ああ、罪なんだ!」と分かるようになります。クリスチャンになると罪に対して敏感になるのは、そのためです。でも、皆さん、聖霊は慰め主です。イエス様がそうであられたように、あなたを慰め、弁護し、そして励ましてくださいます。イエス様は「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません」(ヨハネ14:18)と言われました。そのことは、イエス様が、聖霊によって内側に住んでいらっしゃるので、実現するのであります。私たちは聖霊なしで、クリスチャン生活をしようと思ったら、3日もできないでしょう。この世で数限りない、法律や義務があるのに、クリスチャンになって、またさらに戒めや命令が与えられるなんて、まっぴらごめんです。悪を行なう人を赦すとか、嫌いな人を愛するなんて、とんでもはっぷんであります。しかし、みなさん、聖霊様を認め、聖霊様を歓迎し、聖霊様に従うならば、どんなことでも可能になります。聖霊こそ、私たちの内側を聖め、神様の愛と慈しみを注ぐ、管なのであります。ローマ5:5「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです」

 管から連想することは、ライフラインであります。私たちが生活をするために、必要なライフラインとは、電気、ガス、水道であります。震災後、一日も早く、復旧しなければならないのは、これらの3つであります。クリスチャンのライフラインは、何か、それは聖霊であります。もちろん、兄弟姉妹との交わり、聖書の教えも必要であります。でも、自分がこれから死のうとする時は、人も、聖書の教えも役に立ちません。イエス様が聖霊によって、世の終わりまで共にいてくださいます。このことが唯一の望みであります。マタイ28:20「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」。私は、クリスチャンになってから、また、牧師として何十名もの兄姉のご葬儀に立ち会いました。一番辛いのは、最後の火葬場に行くときです。もちろん、クリスチャンの場合は、魂は天に引き揚げられ、からっぽの肉体があるだけです。ただの入れ物とは分かっていても、形がなくなるというのはショックであります。火葬場では、クリスチャン、ノンクリスチャンに関わらず、釜の中に入れられます。扉が開いて、箱が押し込められ、蓋がロックされ、点火されます。まことに、嫌なものです。司式をしている自分が、いつかは、入るんだろうなーと思います。私はそのことを、スーパーのレジで並んでいる時、ふっと思ったりします。レジで並んでいると、自分の番がまわってきます。それと同じように、「私も火葬場の釜に入るときも来るんだろうなー」と思うのです。だれも、一緒に、釜の中には入ってくれません。しかし、イエス様は約束されました。「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」。アーメン。聖霊様が世の終わりまで、人生の終わりまで、共にいてくださるのです。なんという慰めでしょうか!私たちはこの世において、ひとりではありません。イエス様が聖霊によって、世の終わりまで共にいてくださるのです。ですから、死ぬときばかりではなく、この世で、生きている限り、聖霊様にお頼り申し上げましょう。聖霊様は、いくら頼っても、「いい加減にしろ!」とか、「暑苦しいから、あっちへ行け」などとは申しません。なぜなら、聖霊様は私たちの助け主、慰め主、癒し主だからです。聖霊様が内におられることを感謝しましょう。

2.上よりの御霊

 使徒1:8「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます」。「上」は、原語のギリシヤ語では、エピであります。先ほど、聖霊を内側にいただくことは、ギリシヤ語ではエンであります。エピは英語では、upon。そして、エンは英語で、inであります。チャック・スミスと言うカルバリーチャペルの牧師がある本でこのように語っています。・・・あなたが主イエスを受け入れた瞬間に、聖霊があなたの中に入って来られ、あなたの内に住まわれ始めた。あなたは「エン」の状態になったのだ。一方、使徒1:8「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます」で、使われている前置詞は「エピ」である。聖霊はあなたがたの「上に」あるいは「上にあふれて」臨まれる。私は、聖霊があなたがたの中から「あふれ出る」と言う考えの方が良いと思う。この「エピ」の状態が、信者を奉仕へと向かわせるパワーの源となる。聖霊があふれ出る状態だ。今から、水をピッチャーからグラスに入れ始めよう。水はピッチャーから、グラスに内「エン」に注がれた。水がグラスにいっぱいになってもまだ水を注ぎ続けると、グラスから水が溢れ始める。このとき「エン」から、「エピ」の状態になる。つまり、聖霊は私たちの「内に」住まわれ始める。次に、主は私たちの「上に」聖霊を注ぎ続けられ、私たちの中からは聖霊が「あふれ出る」ようになる。聖霊がその「内に」住んでいるクリスチャンは数多くいる。ところが、彼らのいのちから「聖霊があふれ出て」いない。彼らはエピの体験である聖霊のバプテスマを体験しなければならない。・・・チャック・スミス師は、エピ「上に」の体験を聖霊のバプテスマだとおっしゃいました。こう言う考えの人は、カリスマ・ペンテコステの人たちです。彼らは、「聖霊のバプテスマとは、イコール、聖霊を受けることであり、二度目の体験である」と言います。

私は「エン」と「エピ」と言うわけ方は素晴らしい真理だと思います。しかし、私は聖霊のバプテスマをただそれだけであるとは定義しません。もし、そうであるとするならば、聖霊を受けているクリスチャンと、聖霊を受けていないクリスチャンがいるということになります。それよりも、私はウォッチマンニー先生の『キリスト者の標準』で言われている定義を取ります。ウォッチマンニーは、「聖霊のバプテスマとは、ペンテコステの日に注がれた聖霊である」と定義します。本にこう書いてあります。「聖霊は、天において行なわれたこと、すなわちナザレのイエスが神の右に上げられたことを証明するため、地に注がれたのです。主がご自身の教会のために何をなされたかと言う啓示が、聖霊のバプテスマを獲得するための私たちの努力を終わらせるのです。聖霊の賦与も、義認と同様の方法であなたのものになります。イエスは既に栄光を受けられたので、私は既に御霊を受けたのです」。簡単に言いますと、ペンテコステの日、この地上に注がれた約束の御霊を、聖霊のバプテスマと言うということです。そして、イエス・キリストを信じる者は、だれでも聖霊を受けている。つまり、ご自分の内に御霊を宿しているということです。では、チャック・スミス師がおっしゃる、エピ「上に」の体験は何と呼ぶのでしょうか。私は満たしの経験と呼ぶべきではないかと思います。もし、許されるならばこのような言い方にしたいと思います。歴史的な聖霊のバプテスマはペンテコステの日、この地上に注がれました。これは歴史的に一回限りのことであります。それ以来、イエス様を信じた人には自動的に聖霊が与えられます。でも、クリスチャンはそれだけにとどまらず、聖霊が上から注がれる経験、つまり満たされる経験をしなければならないということです。もし、そのことをペンテコステの経験、あるいは聖霊の満たしの経験と呼んでも良いと思います。私は、聖霊の満たしと言う意味で、聖霊のバプテスマと言うならば、反対はしません。私はペンテコステの日、120名の弟子たちは特別な経験をしたと思います。それはつまり、「エン」と「エピ」、「内に」と「上から」を両方、経験したのだと思います。

 聖霊のバプテスマをどう定義するかは問題ではありません。でも、「エン」、聖霊を内側に持っているだけでは不十分であります。むしろ、「エピ」、聖霊を上から溢れ出るまで注いでいただく経験が必要だということです。つまり、聖霊に関しては、信仰だけではだめです。経験も必要なのです。多くのクリスチャンは、聖霊のことすらも、聞いたことがありません。現代は、聖霊を言わない教会も多くあります。するとどうなるでしょうか?聖霊の力、賜物としての聖霊に対して無知だということです。チャックスミスが、「この『エピ』の状態が、信者を奉仕へと向かわせるパワーの源となる。聖霊があふれ出る状態である」と言いました。なぜ、クリスチャンに力がないのか、賜物を発揮できないのか。それは、ペンテコステの経験、あるいは聖霊の満たしの経験をしていないからです。初代教会がなぜ、力があったのか。なぜ、無学のただ人たちが用いられたのか。それは、彼らが聖霊に満たされ、聖霊の賜物を発揮したからであります。聖霊を強調しない教会は、知的な学びとか神学を強調します。近年の福音派の神学校がアカデミックになったのはそのためです。また、聖霊を強調しない教会は、ヒューマニズムによる社会奉仕に目が行きます。日本基督教団も残念ながら、そういうところがあります。私たちは聖霊の賜物という点は、カリスマ・ペンテコステから学ばなければなりません。日本だけがそういう点で遅れています。外国では聖霊の力と賜物はどの教団・教派でも当たり前のことです。日本の教会に力がないのは、聖霊の力と賜物を否定しているからです。「あつものに懲りて、なますを吹く」という諺があります。「聖霊の力と賜物で、教会が分裂して、嫌な思いをしたので、もうこりごりだ」と言うのです。聖霊における新生と聖化は認めるけれど、聖霊の賜物は認めないという教会がたくさんあります。それでは、神様がせっかく与えておられる奉仕の力をどぶに捨てているようなものです。キリスト教は良い人を作る精神修養の宗教ではありません。今も生きておられるキリストをこの世に向かって現すのが本当の教会です。イエス・キリストはからだである私たちを通して、現われたいのです。そのために私たちは、聖霊に満たされ、聖霊の力と賜物に目覚める必要があるのです。私たちは弱くてただの人であります。でも、聖霊に満たされたなら、あの弟子たちのように、世の中を覆す者となるのです。

使徒の働きを読んでいきますと、「聖霊に満たされ、賜物が現れる」ということがよく起こります。ペンテコステは歴史的に一回限りでしたが、福音がその地に言い広められ、イエス様を信じるとペンテコステのようなことが起こるのです。これは、歴史を振り返っても、繰り返されていることです。ペンテコステが繰り返される、これを私たちはリバイバルと呼んでいます。一番、最初は2000年前、エルサレムで起きました。二階座敷で祈っていた120人に初めて聖霊が下りました。そして、その日、ペテロが説教したら、3000人が救われました。癒しも奇跡もどんどん起こり、異言や預言も与えられました。こういうすばらしいことが、ペンテコステのときに起きたのです。しかし、歴史を振り返ると、ペンテコステのような出来事がイギリス、アメリカ、中国、南米、韓国、インドネシアに起こりました。今は、アフリカにすばらしいリバイバルが起こっています。日本にもリバイバルを待ち望む団体や集会がありますが、これだけは聖霊様の主権です。日本にリバイバルが起こらないのは、祈りが足りないとか、一致が足りないとかよく言われます。もちろん、そういうこともあるでしょう。でも、一番の原因は、私たちの熱心さではなく、あちら様、聖霊様の主権であります。「風はその思いのままに吹く」(ヨハネ3:8)にあるとおりです。大川牧師は、文語訳から「風は己が好む所を吹く」というところから、すばらしいことを発見しました。「聖霊様はご人格(ペルソナ)がおありだから、ご自分が吹きたいところと吹きたくないところがある。私たちができることは、聖霊様が好まれる教会を作ることである。それは裁き合わないで、互いに愛し合うことである」と言われました。まさしくそうであります。リバイバルは人間の熱心とか努力ではありません。一方的な神様のみわざです。ある人たちは、「日本にもリバイバルが起きたら大勢の人が救われるのに」「リバイバルが起きたら癒しや奇跡がもっと起こるのに」「リバイバルが起きたらこの世の中が変わるのに」と言います。私もつい先ほどまで、そのように思って、失望落胆の中にいました。しかし、そうではありません。リバイバルはともかく、ペンテコステ以来、聖霊様はすでに地上に注がれているのです。イエス様はヨハネ4章でこのように言われました。あなたがたは、『刈り入れ時が来るまでに、まだ四か月ある。』と言ってはいませんか。さあ、わたしの言うことを聞きなさい。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています(ヨハネ4:35)。また、マタイ9:37,38「そのとき、弟子たちに言われた。『収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい』」。イエス様は「収穫のために祈れ」とはおっしゃいませんでした。収穫が多いか、少ないかは神様の問題です。私たちがなすべきことは、どの時代であっても、聖霊様がおられることを信じて主のわざに励むということです。神の霊であられる聖霊様が私の内におられ、そして、上から満たしてくださるのです。ある人が何十年も前に、ナイアガラの滝に行きました。最近、再び、その人がナイアガラの滝に行ったそうです。別な人が、その人に尋ねたそうです。「ナイアガラの滝は、今どうなっている?」。彼は何と答えたでしょうか。「昔と同じように、今も轟々と流れているよ」。ペンテコステに注がれた聖霊は、今は消えたのでしょうか。そうではありません。ペンテコステに注がれた聖霊は、今も轟々と流れているのです。

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