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2006年5月28日 (日)

契約の血         ヘブル9:15-28

契約は、旧新約聖書の中心思想を表す語であります。ということは、契約の意味が分かれば、聖書が大体わかるということです。前にも申し上げましたが、旧約聖書は英語で、Old Testamentと言います。これは、古い契約あるいは古い遺書と言う意味であります。一方、新約聖書はNew Testamentと言います。これは、新しい契約あるいは新しい遺書と言う意味であります。遺書は死んでから有効になります。本来、神様は死なない方ですから、遺書という訳はふさわしくありません。でも、神が人となられた、イエス・キリストは一度死なれました。ですから、新しい遺書と言えば、言えないわけでもありません。では、イエス様の遺言とは、何でしょうか。それは、新約聖書にある1つ1つの言葉であります。その代表的なものを1つ紹介したいと思います。マルコ16:16「信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます」。信じてバプテスマを受けるとは、新しい契約に同意すると言う意味であります。ところで、契約には5つの要素が含まれます。当事者、条件、約束、罰則、そして批准であります。批准とは、「契約を確認しました、同意しました」という最終の手続きであります。ただ今から、これら5つの要素を取上げながら、旧約と新約を比較しながら学びたいと思います。

1.契約の当事者

 旧約聖書における契約の当事者はだれとだれでしょうか。古い契約と言えば、それはシナイ契約であります。イスラエルの民はエジプトから脱出し、シナイ山のふもとにやってきました。そのところで、神様とイスラエルの民が結んだ契約が、シナイ契約であります。神様がイスラエルの民を選んで契約を結んだわけであります。そして、この契約の仲介者がモーセでありました。では、新しい契約の当事者とはだれとだれでしょうか。神様と新しい神の民です。クリスチャンと言っても良いでしょう。そして、この契約の仲介者がイエス・キリストであります。前も申し上げましたが、イエス様が契約を結ばれたとき、私たちはどこにいたのでしょうか。そうです。キリストの体の中にいたのです。なぜなら、教会のかしらはキリストであり、体は私たちだからです。もし、私たち人間が神様と直接、契約を結ぶなら、100回やっても、100回失敗するでしょう。でも、キリストは失敗しません。Jesus never fails.教会のかしらなるキリストが、私たちに代わって、父なる神様と契約を結んでくださった。これが新約であります。

2.契約の条件

 旧約における条件とは何でしょうか。それは、十戒をはじめとする律法であります。律法に服従するということが条件でありました。イスラエルの民は、「私たちは主が仰せられたことを、みな行います」と口をそろえて答えました。その言葉は、出エジプト記19章、24章、申命記5章に書いてあります。でも、どうだったでしょうか。イスラエルの民は、神様に背いて偶像礼拝を行なうし、安息日は破るし、つぶやくし、ことごとく律法を破りました。なぜでしょうか。それはアダムが罪を犯したために、罪が人間の中に宿っていたからです。アダム以来の人間は、たとい罪を犯さなくても、罪人なのであります。旧約聖書はイスラエルの民の不服従、不信仰の歴史でありました。古い契約は、神様が罪人と結んだという所に限界があります。では、新約における条件は何でしょうか。それは、福音を信じるということであります。なぜ、信じるだけで良いのですか?イエス・キリストが私たちの代わりに、律法を全うされたからです。旧約聖書には「アブラハムが信じて義と認められた」という記事があります。同じように、異邦人である私たちも信仰によって義と認められるのです。ガラテヤ3:13,14「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです」。イエス・キリストが律法の呪いを受けられたのです。だから、私たちは信じるだけで、アブラハムと同じ祝福が与えられるということです。みなさん、信じるということは、頭で「神様の存在を信じる」ということではありません。「十字架にかかり、三日目に復活したイエス・キリストを、私の救い主、主です」と信じて、人生をゆだねることであります。

3.契約の約束

 旧約における約束は何だったでしょうか。私は2つあるのではないかと思います。第一は、出エジプト19:5-6「今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる」。つまり、イスラエルが全世界に対して、祭司の王国、聖なる国民になるということでした。第二は、約束の地、カナンで安らかに住まうということです。申命記11:9「主が先祖たちに誓って、彼らとその子孫に与えると言われた地、乳と蜜の流れる国で長生きできる」と約束されています。では、新約における約束は何でしょうか。これも2つあります。第一は、私たちが祭司の王国、聖なる国民となると言うことです。ペテロ2:9「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです」。私自身、このみことばが開かれて驚きました。「私たちに対する約束は天国に住まうことかな?」と思いました。それだけじゃありません。この地上において、王である祭司として、神様の素晴らしさを証する使命があるということです。自分たちだけが救われて「良かった、万歳!」と喜ぶだけではなくて、祭司として日本の国民を神様のところに連れて行く使命があるということです。なんと、どえらい使命でしょうか!私たちは、亀有教会が大きくなる事だけではなく、「日本の国民がキリストの弟子となるために仕える」と言う大きなビジョンを持つべきであります。

 第二は、もちろん私たちが御国に住まうことであります。ヘブル人への手紙には「シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム」(ヘブル12:22)と書かれています。イエス様はヨハネ14章で「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、住まいがたくさんあります」と言われました。最近の日本人は、死んだ人に対して、「あの人は天国に行った」と簡単に言います。それは嘘です。だれでも天国に行けるわけではありません。父なる神と、イエス様を信じた人だけであります。この地上の人がみんな自動的に天国に行くなら、天国は地上と同じものになるでしょう。天国でも、泥棒に入られないようにドアに鍵をかけるのでしょうか。そうではありません。イエス・キリストによって罪赦され、神の子供となった人だけが入れるのです。天国への道は狭い門です。でも、それは確かな道であります。イエス・キリストが道であり、真理であり、命なのです。

つまり、クリスチャンのゴールは天国だけではなく、地上でも祭司としての使命があるということです。使命を成し終えた人が、「ハレルヤ!」と天国に凱旋するのです。私が最も尊敬する伝道者、韓国の申賢均先生が今月の初め、天に召されました。海外で250の集会、韓国国内で5300のリバイバル集会を導きました。私はおそらく、10回以上は出席しているんじゃないかと思います。申先生のお得意のメッセージの1つは、ローマの凱旋将軍のお話でした。凱旋パレードでは、将軍が軍馬にまたがり、その後に兵士が続きます。そして、その後には数々の戦利品と捕えられた敵の大将たちです。家に着いて馬から下ります。すると、ドアが開いて、男の子が「パッパー」と駆け寄ってきます。子供をだっこして、ほおずりします。その後、美しい妻が「ダーリン、お帰り」とやって来る。「お、ハニー、無事に帰ってきたよ」と言いながら、熱い口付けを交わす。お風呂に入って、勝利をかみ締める。祝杯をあおった後、妻を抱きしめる。「妻を抱きしめる」というところだけが、頭に残っていますが、クリスチャンは凱旋将軍にならなければならないということです。罪に負けて、やっとこさっとこ、天国にすべりこむというのも良いでしょう。でも、どうせ天国に入るなら、勝利したクリスチャンとして、凱旋したいですね。

4.契約の刑罰

 旧約の場合、契約に違反した者に与えられるのは「死」であります。最初の契約は、エデンにおける、アダム契約であります。最初の人、アダムが約束を破ったので、死が人類に入るようになりました。では、シナイ契約以降はどうなったでしょうか。神に打たれて突然、死ぬということが良くありました。他に地面が割れたり、火が降ってきたり、あるいは疫病、毒蛇、ききん、外敵が襲ってくるというようなことが書かれています。それは神の裁きと言って良いかもしれません。では、新約における刑罰とは何でしょうか。まず、イエス・キリストは古い契約違反における罰を十字架で受けてくださいました。ヘブル9:15の後半に「それは、初めの契約のときの違反を贖うための死が実現したので、召された者たちが永遠の資産の約束を受けることができるためなのです」と書かれています。イエス・キリストが契約の違反に対する、罰を全部、受けてくださったのです。神様は、イエス・キリストが十字架の贖いを成し遂げられて以来、すべての人類に対して、怒りをひっこめてくださいました。神様はもう、怒ってはおられません。その代わり、神様は「どうかキリストによってなされた和解を受け入れて欲しい」と懇願しておられます。でも、キリストの贖いを受け入れない人に対して、終わりの日、神様はどうするでしょうか。ヘブル9:27「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように。再臨が来ない限り、肉体的に一度死ぬことは免れません。でも、死んだらおしまいではありません。「死後、さばきを受ける」と書いてあります。一方、ヨハネ福音書には、「キリストを信じる者は、さばきに会うことがない」と書いてあります。ということは、神様のさばきの前に、立たなくても良いということです。なぜなら、キリストがその人の代わりにさばかれたからです。しかし、キリストを信じない人はどうなるでしょうか。そうです。その人は、神様の前にじかに立つのです。神様との間には、贖罪者も弁護者もいません。自分の義で、まっこう勝負するしかありません。残念ながら、神の義と人間の義では、全くレベルが違います。人間がいくら正しくても、神の義の前には、全く不完全、不十分であります。ローマ3:23「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず・・・」とあるとおりです。神様は、その人に、それまで犯した個々の罪を問いません。それよりも、「あなたはなぜ、キリストを信じなかったのか。どうして、私の恵みを蹴ったのか!」と問うのです。すべての罪の中で、一番、大きな罪は何でしょう。殺人や盗み、姦淫ではありません。それは、「救い主を信じない」ということが最大の罪なのです。この時、下される神のさばきは、肉体の死ではなく、永遠の死であります。

 先週、鹿野姉が『天国は本当にある!』と言う本を紹介していました。作者は17回天国に連れて行かれ、地獄を2回見ることができました。その本の前半に「地獄の穴」という記事がありました。・・・主は私を天国の門の外に連れて行かれました。私たちが山頂に到達して、そのてっぺんを見ると、深い穴から蒸気と黒い煙が出ていました。その穴は火山の火口のように見え、その中では、多くの人たちが炎で燃やされていました。人々は、大やけどを負ったことがある者だけが分かる苦しみの中で、絶叫していました。人々には髪の毛がなく、裸の状態でした。彼らは虫のようにくねくねともだえ、火炎が彼らの体を燃やしていました。その穴に閉じ込められていた人々は決して、そこから逃れることができませんでした。彼女は「主よ、私の両親はどうなりましたか?彼らは救いを受けませんでしたが、良い人々でした」と尋ねました。イエス様は、「私の娘よ、すまないが、私を知らない者たちは、どうしてやることもできないのだ」と、悲しい声で答えました。翌日、その本の記者は再び煙の出る穴に連れていかれました。なんと、立ちこめる煙の中に、お母さんがいました。私に手を伸ばして「熱すぎる、熱すぎる」と悲鳴を上げました。私に助けを求め哀願する母の目、それはひどく生々しいものでした。母はイエス様を知らなかったので、主さえも彼女を助けることができなかったのです。私の父、継母、そしてたった19歳で死んだ親しい友達も皆、地獄にいました。彼らの姿もやはり自分が覚えている通りでしたが、罪の罰のゆえに、苦悩でゆがんでいました。私はそれ以上見ることが出来なくて、目の前の恐ろしい光景から顔をそむけてしまいました。そのとき、主が沈黙を破られました。「私の娘よ、私がこのことを見せた理由は、どんなに良い人であっても、私を受け入れないならば地獄に落ちてしまうという事実を、あなたが完全に悟るようになるためだ」。・・・ある人たちは、天国もなければ、地獄もないと言うでしょう。でも、そうではありません。作者がこのように述べています。「天国が実際にあるという事と同じように、地獄もやはり実際にあるという事実を知る必要があります」。

5.契約の批准

批准(ひじゅん)とは、「契約を確認しました」という最終的な同意の手続きです。旧約聖書のことは、ヘブル9:19以降に書かれています。モーセが、子牛とやぎの血を取って、契約の書自体にも民の全体にも注ぎかけたという、「契約の血」であります。では、新約ではどのようになっているのでしょうか。イエス様が「過ぎこしの食事」の後、杯を取りながら「これは私の契約の血です。多くの人のために流されるものです」(マタイ26:28、マルコ14:24)と言われました。ルカ福音書には「私の血による新しい契約です」と書いてあります。イエス様は、モーセが言ったことを意識していたに違いありません。これは「イエス・キリストの血によって、この契約が成立した。もうだれも、この契約を破ることは出来ない」ということです。私たちも契約書ができあがると最後に、朱肉を付けた印鑑を押します。「ペタン」、これで完成であります。昔の武士は、血判を押したりしました。イエス・キリストは、ご自身がいけにえとなって、血を流されたわけです。そう考えますと、私たちクリスチャンは、キリストの血を振りかけられた者、あるいは血が塗られた者と言うことが出来ます。イスラエルの民がエジプトを脱出する前の夜、小羊を殺し、その血をかもいと柱に塗りました。血が塗ってある家は、主のさばきが通り過ぎました。主の使いは、その家にどんな人が住んでいるか関係なく、門とかもいの血を見て、通り過ぎたのです。「過ぎ越し」とは、神の怒りが過ぎ越すということです。皆さんは、キリストの血を受けていらっしゃいますか?

かなり前に、CSの子供たちを連れて、稲毛海浜公園プールに行ったことがあります。そこはプールなんですが、行きたければ、すぐ近くの海辺にも行くことが出来ます。プールと海へ通ずる門の脇には係員が立っています。そこを通過する時、係員が、手の甲にスタンプを押してくれます。押された時はヒヤっという感じがしますが、色はほとんど透明なんです。乾いたら、どこにスタンプが押されたのか分からなくなります。海辺で、少し遊んで、またプールに戻ってきます。プールの方に入ろうとすると、係員が、虫眼鏡のような機械を手の甲に当てます。すると、肉眼では見えないんですが、機械の光に反応するのか、スタンプがはっきり見えるんです。一種の蛍光塗料なんでしょうけど、くっきりあざやか、驚きました。この世では、クリスチャンもノンクリスチャンも見分けがつきません。でも、御使いは、この人は契約の血が塗られているか、塗られていないかわかるんじゃないでしょうか。中国から来られた兄姉がたくさんおられますが、こんなことを聞いたことがあります。クリスチャンのお母さんが危篤状態のとき、白い服を着た人が枕元に座っていたそうです。数年後、今度はお父さんが危篤状態になりました。お父さんはクリスチャンではなかったそうです。その時は、赤い服を来た人が枕元に座っていたそうです。赤か黒か忘れましたが、明らかにお母さんのときとは、別の御使いであったそうです。私はそのことをお父さんの葬儀のときに聞いて、「何で、早く、教えてくれなかったの」と言いました。見える人には、見えるということです。それにしても、天国に連れて行く御使いと、陰府に連れて行く担当の御使いが違うのでしょうか。ちょっと、怖い感じがしますが、契約の血をいただいているかどうかが重要であります。良い人か悪い人は関係ないのです。キリストの血が塗られているか、塗られていないかが重要なのであります。

新約聖書では、「新しい契約」は、バプテスマ(洗礼)と聖餐式と深く関係があります。悔い改めてバプテスマを受けるならば、その人は「新しい契約の民」として神の契約の中に入れていただくことができます。また、聖餐式は、その契約を確認するときであります。イエス様は、御自分の血を「私の契約の血」と言われました。それゆえに、十字架におけるイエス様の犠牲は新しい契約を結ぶ上で最も重要な意味を持つのであります。アダムの堕落後、神によって結ばれた恵みの契約は、契約の仲保者キリストによって完全に成就しました。今や、キリストを信じるすべての民族、国民に提供されるようになったのです。ですから、今や全世界の罪人は、ユダヤ人であっても異邦人であっても罪を悔い改めて、イエスを救い主と信じるならば、契約の約束である永遠のいのちを神様からいただくことができるのです。

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2006年5月21日 (日)

血の効力      ヘブル9:11-14

私たち、日本人は何か罪を犯すと、人との関係のことしか考えません。「法律に触れなければ良い」とか、「だれも見ていないから平気だ」と思ったりします。ですから、耐震偽装問題ではありませんが、証人喚問に呼ばれても、平気で嘘をついたりします。しかし、みなさん私たちが何か罪を犯すと、3つの者が、私たちを訴えるのです。一人目は、天地万物を支配しておられる義なる神様です。二人目は、サタンです。三人目は、その人自身の良心が訴えます。イスラエルのダビデ王は、姦淫と殺人の罪を犯して、しばらくの間、しらんぷりしていました。ダビデは人々の目に隠し通すことができても、3つの者に対しては、隠すことができなかったのです。私たちも罪を犯すと、同じことが起こります。神様、サタン、良心の訴えに対して、どのような解決策があるのでしょうか。それは、イエス・キリストが十字架で流された血です。きょうは、「血の効力」と題して、3つのポイントで学びたいと思います。

1.神様の赦し

 すべての罪は、人間に対してではなく、神に対する罪なのです。この点が、私たち日本人が一番あいまいなところであります。残念ながら、日本人には絶対者なる神概念がありません。「人に迷惑をかけていなければ良いじゃないか」、「だれも見ていないから良いだろう」というところがあります。ある人が、子どもを連れてスイカ泥棒に行きました。子どもに見張りをさせて、食べごろのスイカを叩きながら、さがしていました。すると、子供が突然、「お父さん。見てるよ!」と叫びました。「だ、だれか来たのか?」とお父さんが聞きました。子どもは「神様が、見てるよ!」と答えたそうです。その子は、日曜学校に行っていたので、絶対者なる神様を知っていたのです。預言者ナタンが主の言葉をダビデに告げました。「私はあなたに油をそそいで、イスラエルの王とし、サウルの手からあなたを救い出した。さらに、あなたの主人の家を与え、あなたの主人の妻たちをあなたのふところに渡し、イスラエルとユダの家も与えた。それでも少ないというのなら、わたしはあなたにもっと多くのものを増し加えたであろう。それなのに、どうしてあなたは主のことばをさげすみ、わたしの目の前に悪を行なったのか。あなたはヘテ人ウリヤを剣で打ち、その妻を自分の妻にした。あなたが彼をアモン人の剣で切り殺したのだ」(Ⅱサムエル12:7-10)。ダビデ自身も、そのことを詩篇51篇で告白しています。「まことに、私は自分のそむきの罪を知っています。私の罪は、いつも私の目の前にあります。私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行ないました。それゆえ、あなたが宣告されるとき、あなたは正しく、さばかれるとき、あなたはきよくあられます」(詩篇51:3,4)。ですから、私たちが犯すすべての罪は、だれでもない、神様の前で犯す、そむきの罪なのです。ですから、私たちは、罪の赦しを求めるとき、まず、神様から赦していただく必要があります。

 では、どのようにしたら、私たちは神様から罪を赦していただけるのでしょうか。旧約時代はさまざまないけにえをささげした。動物の血を祭壇に注いだり、ヒソプの葉につけて振りかけたりしました。なぜ、動物の血が必要だったのでしょうか?ヘブル9:22「また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです」とあります。そして、レビ記17章には、「命として贖いをするのは血である。・・・すべての肉の命は、その血そのものであるからだ」と書かれています。罪はただでは赦されません。それ相当の代価、償いをしなければなりません。何か物を壊した場合は、弁償できるかもしれません。でも、物やお金で償えないものがあります。そういう場合、イスラエルの人たちは、清い動物の命である、血を差し出したのです。なぜなら、血はいのちそのものだからです。しかし、動物の血では限界があるとヘブル書は言います。ヘブル9:12「また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです」。イエス・キリストが、自らを十字架に渡し、ただ一度で贖いを完成されたのです。ヘブル書には「一度」あるいは「一つ」という言葉が、7章に1回、この9章には5回、10章には4回書かれています。イエス様は、一度で、永遠の贖いをまっとうされたのです。英語の聖書は、once for all、「一度で、すべて」となっています。先週の礼拝で、至聖所のことをお話しました。至聖所には契約の箱が置かれていました。契約の箱の蓋は、「贖いの蓋」と呼ばれ、純金でできていました。大祭司は、年に一度、贖罪の日に、ヤギと牡牛の血を携え、「贖いの蓋」に振り掛けて、民の罪の贖いをしました。この「贖いの蓋」こそが、ヒラスティーリオン、「なだめの供え物」であります。つまり、キリストの血によって、私たちに対する神様の怒りがなだめられたのです。神様は御子の死によって、満足したのです。今や、神様は十字架の贖いによって、怒りをひっこめ、どんな罪人でも、あわれみをもって赦されるのです。

 ウォッチマンニーが『キリスト者の標準』という本でこのように述べています。「神様に近づく根拠は、いったい何にあるのでしょうか?あなたは、今日は神のために何かをしたというような、感情という不安定な根拠によって神に近づくのでしょうか。それともある確かなもの、すなわち血が流され、しかも神がそれをごらんになって満足しておられるという事実に、根拠を置くのでしょうか。もし、キリストの血に少しでも変化が生じる可能性があるとすれば、あなたが神に近づく基盤は信頼の薄いものとなるでしょう。しかし昔も今も、血には決して変化がありません。また今後もないのです。したがって神に大胆に近づくことができます。その大胆さは血を通してあなたのものとなり、決して自己のわざによって自分のものになるのではありません。今日の、あるいはきのうの、さらに一昨日の功績がどうであろうとも、至聖所へ向かう意識的な第一歩は、必ず、流されたキリストの血という、信頼のおける唯一の根拠に基づくものでなければなりません。その日が良くても悪くても、意識的に罪を犯そうが、犯すまいが、私たちの神への接近の土台は、必ずキリストの血によるのです。この真理は決して変わることがありません」。ハレルヤ!罪の赦しと、神様に近づくことの基礎は同じです。それは、弱いとか、あまり清い生活をしていないとか、関係ありません。キリストの血です。キリストの血こそが、私たちの罪をきよめ、はばかることなく聖所に入ることができるのです。

2.サタンの訴え

 サタンとは「神の敵」という意味です。現在、サタンの最も計略的な活動とは何でしょうか。黙示録12:10には、「私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者」と、書かれています。そうです、サタンは私たちを神様の前で、訴えるのです。「あの兄弟は、このような罪を犯しました。このまま見過ごしてしまうなら、あなたの義がそこなわれてしまいます。ぜひ、呪いと裁きは、私にお任せください」。ダビデが罪を犯したとき、どのようなことが起こったでしょうか?ダビデは罪を悔い改めて、赦されました。でも、呪いと裁きが、ダビデの家に入り込んでしまいました。剣がダビデの家から離れない。妻たちが取上げられて友のものになる。さらに、サムエル12:14「しかし、あなたはこのことによって、主の敵に大いに侮りの心を起こさせたので、あなたに生まれる子は必ず死ぬ。」ダビデとバテシバとの間の子供が死ぬということです。その所に「主の敵に大いに侮りの心を起こさせた」とあります。「主の敵」とは、サタンであると考えることはできないでしょうか?サタンは、主の前に出て来て、「ダビデは、罪の刈り取りをするのが当然だ」と訴えたのではないでしょうか。他にも何箇所かそういう記事があります。ヨブ記においては、サタンがヨブを主の前に訴えています。ゼカリヤ書では、大祭司ヨシュアが訴えられています。おそらく、イエス様を裏切った、ペテロもユダも、厳しく訴えられたのではないでしょうか。もし、あなたが罪を犯すならば、サタンが神様の前で、あなたを訴えるでしょう。ついでに、サタンの手下である悪霊は、「お前の罪は赦されない。神様も赦してはくれないぞ!」と耳元で囁くでしょう。

 さて、サタンの訴えに対して、キリストの血はどんな力があるのでしょうか。ヘブル9:12「ご自分の血によって」と書いてあります。主は大祭司として、特別な使命を帯び「ご自分の血によって」サタンに立ち向かわれるのです。アダム以来、堕落した人類は、パラダイスの外にいます。人間は、アダムと自分が犯した罪のために、神様の側に立つことができません。神様との間には、深い淵があって、渡ることができないのです。ところが、イエス・キリストの血は、人を神様へ、また神様を人へと結び、両者の関係を回復されます。人は神の恵みに預かり、神様は人の側にいてくださるため、何の恐れもなく、サタンに立ち向かうことができるのです。キリストにある者は、すでに神様の側にいるのです。サタンがあなたの罪を神様に訴える時、神様はどうするでしょうか。神様は御子の血を示されます。「下がれ!お前は、御子イエスの血が、すべての罪からきよめるということを知らないのか」と言うでしょう。サタンは神の御前で私たちを訴えるかもしれません。それに対して、パウロはこのように言っています。「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです」(ローマ8:31、33,34)

 それでは、サタンに対する私たちの態度はどうあるべきでしょうか。サタンは神のみならず、私たちの良心にも訴えるでしょう。「お前は罪を犯した。しかも絶えず犯し続けている。お前は弱い。だから神は、これ以上、お前に憐れみをかけることはできない。死んでお詫びをするしかない」。これは、サタンの嘘です。悪魔、サタンは嘘つき、Liarです。多くの人たちは、その声にだまされて、失望し、意気消沈してしまいます。もし、その時、私たちが彼の告訴を認めたならば、直ちに私たちは敗北を食らうのです。私たちがサタンの告訴を容易に認めてしまう理由は、私たちがまだ自分の正しさ(義)に望みを置いているところにあります。私たちは自分の善行によってではなく、いつも血によってサタンに応答すべきです。ある時、宗教改革者ルターは、サタンから訴えられました。サタンは、白い壁一面に、ルターが犯した罪を洗いざらい、書き上げました。そこには、自分が忘れていた罪も示されていました。ルターは驚きました。しかし、ルターはサタンに対して「お前が示した罪は正しい。まったく私はそういう者である。しかし、お前が見逃していることがある。それは、イエス・キリストの血によって、私の罪がすべて赦されたことである。サタンよ、引き下がれ!」と言って、赤いインクを壁に投げつけたそうです。私たちは罪人でした。私たちには何の誉れもありません。でも、キリストの尊い血が私たちの罪を聖めてくださったのです。キリストは今も助け主、弁護者です。もしも、サタンがしつこく、あなたのところに来るならば、こう言ってください。「その件はキリストの血によって既に、解決済みだ。文句があるなら、キリストのところに行ってくれ!」。三歳の子供でも言うことができます。「キリストのところに行ってくれ!」。尊い血に対する私たちの信仰こそが、サタンの告訴を沈黙せしめ、サタンを追い払うことができるのです。

2,30年前に流行った賛美があります。「罪、重荷を除くは、主の力、主の血は、日毎、我をきよむる奇しき力なり。力ある主イエスの血、受けよ、受けよ。力ある主イエスの血、受けよ、今、受けよ」。

3.良心のきよめ

 ヘブル9:13,14「もし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう」。「良心」は善悪の判断する神様が与えた恵みであります。しかし、私たちの良心は絶対的な基準を持っているわけではありません。親のしつけや先生の教え、あるいは社会通念によって、多大な影響を受けます。ですから、ある場所に行けば「それは悪い」と言われるし、別な場所に行けば「そんなの悪くない」と判断されたりします。私は小学校まで、ご飯を食べるときは正座をしていました。あぐらをかいてご飯をたべることは悪いことだと思っていたわけです。ま、そのくらいは良いとしても、大人になりますと、さまざまな問題に出くわします。たとえば、結婚前の性交渉、中絶、離婚などモラルの問題は、どんどん変わります。そんなの罪じゃないと人々は言うかもしれません。クリスチャンでさえも、この世の基準に合わせようとするでしょう。そういう場合、私たちは、良心をみことばに合わせなければなりません。世界の標準時刻は、グリニッジ天文台であると勉強したことがあります。それと同じように、私たちは良心を、聖書のみことばに合わせる必要があるのです。また、私たちの良心はアダム以来の罪を帯びています。これを聖書は「汚れた良心」あるいは「邪悪な良心」と読んでいます。ヘブル10:22「そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか」。「邪悪な良心」は、キリストの贖いの力では満足せず、善行や宗教的な行為を加えて、安心しようとします。たとえば、奉仕や献金、伝道すらも、良心の責めから逃れるための行為になります。これだけ良いことをすれば、前の罪と差し引きゼロになるんじゃないかと思ったりします。聖書に出てくるパリサイ人は、「私は週に二度断食をし、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております」と神様に報告しています。彼の自己義認は、自分の邪悪な良心をごまかすための行為だったのかもしれません。みなさんのほとんどは、毎週教会に来られていると思います。それは、すばらしいことです。でも、何かやましいことをしている人は、教会から遠のくかもしれません。なぜなら、「私のような罪を犯していては、もう神様の前に出ることはできない」と考えるからです。つまり、キリストの完全な贖いよりも、自分が犯した罪の方が重いのです。このように「汚れた良心」は、善行や宗教的的行為、自己義認、あるいは過度の罪責感へと駆り立てて行きます。世の宗教は、人間が元来持っている、「汚れた良心」に訴えるところがあります。

 しかし、聖書は何と言っているでしょうか。ヘブル9:14「その血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう」と書かれています。また、ヘブル10:22「私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、・・・全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか」と言われています。2つの聖句に共通していることは、キリストの血が私たちの汚れた良心をきよめて下さるということです。どういうことかと申しますと、神様と私たちの間にある罪責感、罪意識が取り除かれるということです。つまり、自分の良心の思いとは関係なく、私たちはキリストの血によって、いつでも神様のところに近づけるという確信が持てるということです。もう一度くりかえします。キリストの血が、私たちの良心に注がれると、罪意識が取り除かれ、神様に対して、もはや良心のとがめを持たなくなるのです。ウォッチマンニーは「くもりなき良心は、決して私たちが何ごとかをすることによって得られるものではなく、主イエスが血を流すことによってなされたみわざにのみ基づいているのです」と言いました。もし、私たちの行ないや感情によって、神様に近づこうとするなら、いつそのことがかなうか分かりません。でも、キリストの血の注ぎを受けるなら、咎めが去り、「ハレルヤ!主よ、あなたがいつも私を愛していることを感謝します」と告白できるでしょう。私は飛行機を操縦したことはありませんが、パイロットは計器だけを見て飛ぶ訓練を受けるそうです。例えば、真っ暗な海の上を飛ぶときは、自分の飛行機が水平なのか、斜めなのかわかりません。どのくらいの高度で、どのくらいの速さで飛んでいるのかも分からないでしょう。そういうときは、自分の感覚ではなく、計器だけを見て操縦するわけです。自分の感覚が「高度が落ちているぞ、もしかしたら墜落するんじゃないだろうか」と告げるかもしれません。でも、パイロットは、高度計を見て「大丈夫だ、心配ない」と自分に言いきかせます。あなたの良心が、「今朝、あなたは妻と口論したので、賛美の奉仕にふさわしくない」と言うかもしれません。「おお、主よ、私の罪をお赦しください。私はイエス様の血がすべての悪からきよめてくださることを信じます。イエス様、あなたの血によって、大胆に神の御座に近づくことができることを感謝します。アーメン」。このように、私たちはその日が良くても悪くても、意識的に罪を犯そうが犯すまいが、キリストの血によって、いつでも、はばかることなく、御座に近づくことができるのです。

 きょうは、キリストの血の効力についてお話ししました。ある人たちは「血?なんて野蛮なんだろう」と敬遠するかもしれません。この世の宗教は血のことは話しません。ためになる教えを説いたり、ありがたいお経を唱えてくれるかもしれません。しかし、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。なぜなら、罪は命である血でしか贖えないからです。キリストの血こそが、神の怒りを和らげ、サタンの訴えを封じ込め、良心の咎めを取り去ることができるのです。世の人が何と言おうと、キリストの血こそが、罪と悪魔に勝利できる力なのです。

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2006年5月14日 (日)

幕屋の秘密      ヘブル9:1-10

ヘブル人への手紙は、旧約聖書と新約聖書を結びつける、とっても重要な書物です。旧約時代は祭儀を守ることによって、神様に近づき、礼拝をささげました。一般のイスラエル人は、犠牲を携えて、中庭まで入ることが許されました。しかし、幕屋に入ることが許されるのは、祭司と大祭司でした。幕屋は「会見の幕屋」とも呼ばれ、神様とお会いすることができる特別な場所であります。幕屋は2つに仕切られており、手前が聖所であり、その奥が至聖所であります。これから大祭司になったつもりで、中庭から幕屋へとご一緒に入りたいと思います。その前に、ヘブル9:9「この幕屋はその当時のための比喩です」と書かれています。聖書の下段に書いてありますが、「今の時のことをさす比喩です」とも訳すことができます。つまり、幕屋の1つ1つには、象徴的な意味があるということです。幕屋に入りながら、その意味も一緒に学びたいと思います。

1.幕屋の手前

 聖所へは簡単に入れません。その手前には、祭壇と洗盤があります。イスラエルの民は清い動物を携えてきました。まず、連れて来た人が、動物の頭の上に手を置きます。「これは私の身代わりです」という意味です。祭司は動物をほふって、その血を祭壇の周りに全部注ぎます。これは罪の赦しを象徴します。祭司はその動物を切り分け、火で焼き尽くします。これは「全焼のいけにえ」と言われ、全き献身を意味します。つまり、「神様の前に自分をささげます」ということなんです。「キリストの血によって、罪を聖めていただいた後、自分自身をささげる」。これが礼拝であります。「わぁー」、こういう気持ちで礼拝をささげておられるでしょうか。ひょっとしたら、「賛美の娘、可愛いなー、お昼一緒に食事したいなー」なんて、よけいなことを考えてはいないでしょうか。そうじゃなく、礼拝は自分自身を神様の前にささげるということなんです。それから祭司たちは、洗盤で身を清めます。白い麻布を織った着物を着て、血を携え、いよいよ幕屋へと入ります。私たちはイエス様を信じることによって、義の衣が与えられます。これを着ていれば、中身がどうであろうとも、神様から「あなたは義である」とみなされるわけです。みなさん義の衣を着ていますか?「いや、きょうはジーンズとTシャツです」。ま、それでも構いません。でも、イエス様を信じると、義の衣が与えられるんです。これを着ていると、サタンからさばかれません。だれからも後ろ指をさされることもありません。罪が覆われているからです。だれかがやって来て、「鈴木!お前が、クリスチャンになる前に犯した罪を洗いざらい、ぶちまけてやるぞ!」と言われても、平気なのであります。

 年に一回、「贖いの日」、大祭司はきよい動物の血を携えて、聖所、そして奥の至聖所へと進み行きます。これは、新約的には、イエス・キリストの血を信じる信仰であります。神様に近づくために必要なものは、賛美よりも、むしろ血であります。詩篇95:2「感謝の歌をもって、御前に進み行き、賛美の歌を持って、主に喜び叫ぼう」と書かれています。また、詩篇100:4「感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に入れ」とあります。どちらも、withとなっていますので、「賛美をしながら、賛美を持って」という意味であります。賛美は必要じゃないのですか?もちろん、賛美も必要です。でも、賛美は、私たちのくちびるの果実であり、むしろささげものであります。ペンテコステ系の教会は、賛美をたくさんして、主の臨在を仰ぎます。賛美が足りない場合は、もっと賛美をします。「んー、まだ、足りない」と言って、1時間くらい賛美をするかもしれません。それから、「おー、主の臨在を感じる」と言います。そうではありません。私たちが賛美をたくさんして、神様を天から引き降ろすのではありません。神様はすでにここにいらっしゃいます。では、どうやって、神様の臨在に入るのでしょうか。それは、By blood of Jesusイエス・キリストの血によってです。「イエス様が私たちの贖うために、十字架について、血を流してくださいました。私たちはイエス様の贖いの血を受けている者です。イエス様の血潮を感謝します。アーメン。」これが大事です。十字架の血を仰ぐことによって、私たちの良心が聖められ、主に近づくことを可能にしてくれます。

それでは、入口の垂れ幕を通って、聖所に入りましょう。聖所の中は暗いんですが、燭台の光がともっています。目がなれると、あざやかな色彩が目に入るでしょう。幕屋の外側はじゅごんやアザラシの皮で作った天幕です。黒に近い灰色で、あまり見栄えはしません。それはイザヤ書にあるように、イエス・キリストの外側であります。「彼には私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない」(イザヤ53:2)。この世の人たちは、十字架にはりつけにされたイエス・キリストを美しいとは思いません。新興宗教の人たちは、「なんと、あわれな教祖なんだ」と馬鹿にするでしょう。でも、イエス様の内部はどうでしょうか。幕屋の内部は、亜麻布、青色、紫色、緋色の撚り糸でケルビムが刺繍されています。豪華絢爛とはこのことであります。ヨハネ1:14「この方は恵みとまことに満ちておられた」コロサイ2:9「キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています」讃美歌に、「聖なる主の美しさ」と言う賛美があります。「聖なる主の美しさと、その栄えを仰いで、まごころもて、み前に立ち、御名をたたえ、あがめよう」。日本語で「美しい」と言う表現は、むしろ女性に使われるのではないでしょうか。「美しい」はギリシヤ語でカロスですが、「善い、非の打ち所のない、立派な、すぐれた」という意味もあります。ヨハネ10:14「私は良い牧者です」とありますが、言語では、「カロス牧者」であります。イエス・キリストは「良い方、美しい方、麗しいお方」なのであります。ある人たちは、「自分は信仰が浅いから」などと言います。信仰の深さを、どこで測ることができるのでしょうか?それは簡単です。「イエス・キリストをどのようなお方として信じているか」であります。「ナザレの大工」として見ているか、それとも、「生ける神の子キリスト」と見ているかであります。あなたがイエス様をどのように見ておられるか、それがあなたの信仰の度合いです。「キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています」。アーメン。

2.幕屋の聖所

 聖所には、燭台と机と金の香壇があります。でも、ヘブル人への手紙9章には、金の香壇が至聖所にあるかのように書かれています。旧約聖書は、香を焚く香壇は手前の聖所にあるようですが、ヘブルの記者はそうじゃないように書いています。一体、香壇はどこにおいていたのだろうか、「秘密」、ミステリーであります。いいえ。このことが「幕屋の秘密」なのではありません。香を焚く香壇は、どこに置いても良いということにしておきましょう。それよりも、幕屋の内部には、燭台と机があります。燭台の枝が7つに分かれて出て、その先にともしび皿がついています。このように、左右対称になっており、アーモンドの花をイメージしています。祭司たちは夕から朝まで、火をともしました。燭台は、「イエス・キリストは世の光である」ことを象徴しています。また、クリスチャンも教会も世の光であります。黙示録には「イエス・キリストが、7つの金の燭台の間を歩く」と言われています。黙示録2:5「それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう」。これは、個人においても団体においても言えることですが、罪の中にとどまるなら、燭台が取り除かれてしまいます。つまり、世の光としての役目を失い、輝きがなくなるということです。日本基督教団はどうでしょうか?亀有教会はどうでしょうか?そして、あなたはどうでしょうか?プロレスの猪木が「元気ですかー」と叫びます。私たちはお互いに「輝いていますかー」と叫びましょう。もし、輝いていないなら、どこから落ちたかを思い出しましょう。そして、悔い改めて初めの行ないに立ち返りましょう。信仰生活においては、道からそれちゃったり、倒れることもあるでしょう。でも、倒れることは罪ではありません。倒れたら、立ち上がれば良いのです。この間、ドニー・マクラキンがコンサートで賛美していました。「倒れたら、立ち上がれ!」「倒れたら、立ち上がれ!」「倒れたら、立ち上がれ!」です。

 もう1つ聖所には、机があります。その上には12個のパンが並べられています。パンは毎日、焼いて供えます。祭司たちは、その日の終わり、そのパンを敷地内で食べました。家に持ち帰ることは禁じられていました。イエス・キリストはヨハネ6章で「私はいのちのパンである」と言われました。いのちのパンであるイエス・キリストを食べる、つまり信じる人は、永遠に生きるのです。みなさんは、イエス・キリストを食べましたか?イエス様の言葉を聞いた人たちは、「なんとひどい言葉だろう」とつぶやいて去って行きました。食べるとは、自分の中にとりこみ、キリストと一体化するということです。もし、キリストが毒であるならば、死ぬかもしれません。だれでも、最初は迷ったかもしれません。今も迷っている人がおられるかもしれません。日本人は食わず嫌いの方が非常に多いですね。グルメなどは、「まいうー」なんて食べるくせに、「キリストは結構です」とおっしゃる。イエス様は「いま食べ飽きているあなたがたがは、哀れなものです。やがて、飢えるようになるからです」と言われました。イエス様以外のもので、満腹している人たちは哀れな人たちです。病院には、癌のために余命いくばくもない人たちがいます。でも、イエス・キリストは命のパンです。イエス・キリストを食べるなら、たとえ死んでも生きるのです。私はパンが大好きです。田舎では、もうすぐ、田植えです。今は機械ですが、昔はすべて手作業でした。男衆は苗代から苗を運んできます。そして、田んぼに入いると、大きな型を回して、格子状の印をつけます。その後、あねさんたちが、印の上に稲の苗を植えていきます。子どもの仕事は、彼女らの前に、苗の束を投げることです。「どのくらい投げたらちょうど良いか」考えながら投げます。たまに、「やす、1つほってけれ!」と言われます。「はいよ!」なんて、遊び感覚で面白い。お昼は、パンが出ます。ジャムパンです。ぱくっと割ると赤いジャムが出てくる。これがまた美味しい。当時は、パンがご馳走だったんです。「パン」と聞くと、貧相なイメージを持つ人がいるかもしれませんが、私にとってパンはリッチな感じがします。イエス・キリストは、天から来られた命のパンです。この世にはいろんなパンがありますが、命のパンはイエス様しかおられません。まだ、食べていない方は、ぜひいただいてください。

3.幕屋の至聖所

 さて、聖所の奥は至聖所です。聖所と至聖所の間には、隔ての幕があります。これは「仕切りの垂れ幕」とも呼ばれ、その先は、だれでも入れるわけではありません。大祭司が年に1回、「贖罪の日」にだけ入れます。大祭司の衣の裾にはいくつかざくろの形をした鈴がついています。そして、足にはロープが結わえられています。幕屋の外にいる人たちは、鈴の音を聞いて、「ああ、ちゃんと生きている」とわかります。「あれ?鈴の音が聞こえないぞ。もしかしたら、神に打たれたのかもしれない」。そういうとき、大祭司の足についていたロープを外から引っ張るのです。何が起こったとしても、至聖所には入れないからです。ですから、この日は、大祭司にとって、最も緊張する日であったと思われます。やばい罪を隠していたなら、打たれるからです。これだけ、神様に近くということは、大変だということです。さて、至聖所には何があるのでしょうか?それは、契約の箱であります。ヘブル9:4「そこには金の香壇と、全面を金でおおわれた契約の箱があり、箱の中には、マナのはいった金のつぼ、芽を出したアロンの杖、契約の二つの板がありました。また、箱の上には、贖罪蓋(しょくざいがい)を翼でおおっている栄光のケルビムがありました。しかしこれらについては、今いちいち述べることができません」

 契約の箱は、神の臨在のしるしです。そして、契約の箱の蓋が、もっとも重要です。なぜなら、主が「わたしがそのところであなたに会う」と言われたからです。箱の蓋は、「贖いのふた」もしくは「贖罪所」と呼ばれ、純金でできていました。一年に一度、贖罪の日、大祭司はヤギと牡牛の血を携え、贖いの蓋の上に振り掛けて、民の罪の贖いをしました。贖いの蓋の両端から、金で作ったケルビムが羽を広げて、中央を見ています。ケルビムは、罪を犯したアダムとエバが二度と、エデンに入らないように見張っている御使いです。ここでは、両脇のケルビムが羽を広げながら、贖いがなされるのを見ようとしています。「贖いの蓋」を、ギリシヤ語では「ヒラステーリオン」と言いますが、「なだめる」と言う意味があります。使徒パウロはローマ3章で、同じ言葉を用いています。ローマ3:25「神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです」。また、ヨハネもⅠヨハネ2:2で「全世界のためのなだめの供え物」と言っています。ここで言われている、「なだめの供え物」とは「贖いの蓋」と同じヒラステーリオンであります。どういうことかと言いますと、イエス・キリストが「贖いの蓋」「なだめの供え物」であるということです。「なだめ」というと異教的な感じがしますが、そうではありません。みなさん、人間の罪は神様の怒りを引き起こします。義なる神様は、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意に対して、怒りを覚えておられます。旧約聖書を見ると、「神様は罪に対して必ずさばきを下すお方だ」ということがわかります。神様は髭をはやした優しいおじいちゃんではありません。神様は友達ではありません。神様は、1片の罪に対してもさばきを下さなければならない義なるお方です。だから、私たち神様をなめってかかってはいけません。

 しかし、みなさん、義なる神様は、同時に愛なるお方です。神様は人間から罪を取り除いて、なんとか愛することはできないかとお考えになられました。どうされたのでしょうか?動物では限界があります。ご自分のひとり子「御子イエス」に、全人類の罪をかぶせ、御子を代わりにさばいたのです。神の怒りが御子イエスの頭上にくだりました。そのとき、イエス様は「エロイ、エロイ、ラマサバクタニ」(我が神、我が神、どうして私をお見捨てになられたのですか?)と泣き叫びました。御子イエスは父なる神様から断罪され、地獄に落とされたのです。イエス様の叫びは、本来、私たちが地獄から叫ぶべき言葉だったのです。しかし、すばらしいことが起こりました。御子の死によって、神様の怒りがなだめられたのです。神様は御子の死によって、満足したのです。今や、神様は十字架の贖いによって、怒りをひっこめ、どんな罪人でも、あわれみをもって赦されるのです。もはや、私たちは「神様、あわれんでください」と言わなくても良いのです。なぜなら、キリストの十字架によって、神様はあわれみ深いお方に変わられたからです。神様は本来、変わらないお方なのです。でも、キリストの贖いを通して、罪人に対する、態度を変えてくださったのです。みなさん、どんな罪人であっても、キリストのもとに来るならば、神様の怒りが下ることはありません。夏になると雷が鳴り響きます。私は栃木の那須で仕事をしていたことがありますが、本当に、雷がすぐ近くに落ちます。鎌の上とか、ゴルフのクラブに落ちたりします。なんと、入れ歯に落ちるケースもあるようです。都会の空を見ると、ビルの上には必ず避雷針が立っています。避雷針の高さの半径に当たる所には雷は落ちないようになっています。神様の怒りは罪に対して落とされます。でも、イエス様は十字架にお架かりになり、今や、罪の避雷針になってくださったのです。イエス様のところに身を寄せるなら、あなたの罪は赦され、裁きに会うことはないのです。新約の私たちは神様の御座に大胆に近づくことができるようになったのです。ハレルヤ!

 今、鈴木崇巨先生の書かれた「牧師の仕事」という本を読んでいます。その本の中に、「礼拝の構成と流れ」と言うことが書かれていました。「キリスト教の礼拝は、懺悔をもって始めるのではなく、主への賛美を持って始めます。幕屋の礼拝において、祭司が手足を洗う前に、まず第一に全焼のいけにえをささげ、その良い香りが天に昇ることによって受け入れられることをしなければなりませんでした。クリスチャンもまず主に受け入れられなくては、懺悔の祈りすらできません。主イエス・キリストの十字架の血によってあがなわれて受け入れられているので賛美の祈りが出てきます」。私は「懺悔の祈り」と言う、名目で祈ったことはあまりありません。「悔い改め」なら、もちろんあります。私たちは神様に近づく時に、自分の罪や足りなさに気が付くかもしれません。もちろん、そういう自覚も大切です。でも、私たちがもっとも注目すべきことは、キリストの贖いによって、すべての罪が赦されている。父なる神様はもはや怒ってはおられない。こちらが「あわれんでください」と言わなくても、すでにあわれみをかけていらっしゃるお方です。みなさん、恵み深い神様に近づくとき、「罪なんかもう犯したくない。あなたのように聖くありたい」と自然となります。人から、「悔い改めなさい」とか「その所を変えなさい」と言われると、よけい頑なになります。これは、「北風と太陽」の話と同じです。でも、私たちがキリストを通して、神様に近づくとき、おのずと変えられていきます。神様の方は、無条件の赦しを与えておられます。問題は、私たちが神様の前に心を開くことです。私たちはキリストの血によって、至聖所におられる神様のもとに大胆に近づくことが許されています。ダビデは、詩篇23篇で「私は災いを恐れません。あなたが私と共におられますから」と歌いました。「あなたと私」の関係になったんです。主イエス・キリスト様と「あなたと私」という深い関係にならせていただきましょう。

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2006年5月 7日 (日)

キリストにある家族      マラキ2:14-16

長続きできない多くの結婚生活は、結婚についての正しい理解を持っていないことです。また、神のみことばに合わないこの世の結婚観を持っているからです。人々は、幸福になるために結婚しようとします。そして、幸福でないからと言って離婚します。幸福は、結婚の目的ではありません。神様のみこころに従うとき、ボーナスとして与えられるものです。また、多くの人たちは、結婚式の準備はしますが、結婚生活に関しては準備しません。結婚式はたった1日ですが、結婚生活はその先、一生の問題であります。しかし、だれも正しい結婚について教えてくれません。みんなぶっつけ本番で結婚してしまうので、失敗するのです。きょう来られていらっしゃる皆さん全員が、結婚しているわけではありません。これからの人は準備のため、「もう卒業した」と、思っている方は、次の世代に伝えるために、共に学びたいと思います。

1.結婚とは、神との契約です

アメリカで、ある数のご夫婦にアンケートをしました。「あなたがたは結婚に対して満足していますか」という問いに対して、「95%の人たちが満足していない」と答えたそうです。アンケートの対象は、なんと、クリスチャンであったということです。アメリカは、そういう意味で、もはやキリスト教国ではありません。50%近くも離婚しているからです。神様のみこころは何でしょうか?マラキ書2章には、「神様は離婚を憎む」と書いてあります。つまり、離婚は神様のみこころではないということです。さらに、マラキ書は「あなたがたの霊に注意せよ」と言っています。これはどういうことかと言いますと、結婚とは霊と霊の結び付きだということです。結婚して、肉体関係を持ちますと、お互いの霊と霊を交換することになります。それは神様が一致のために与えた恵みなのであります。もし、そのカップルが離婚するとどうなるでしょうか。接着剤でつけた2枚の板を剥がすとどうなるでしょうか?板がきれいにはがれて、もとの2枚の板になると思いますか。そうではありません。一方の板に片方の木切れがくっつき、もう一方の板に片方の木切れがくっついています。離婚したカップルもそうなのです。同じことが、結婚する前に肉体関係を持った人にも起こります。A子さんの霊の一部が、B男さんの霊にくっついています。そして、B男さんの霊の一部が、A子さんの霊にくっついています。複数の異性と肉体関係を持ちますと、たくさんの人の霊が、自分にくっついてしまって混乱状態に陥ります。ですから、そういう罪を犯した人は悔い改めましょう。そして、御霊の剣によって、自分にくっついた霊の一部を切り離して、相手に返します。そして、相手に行ってしまった霊の一部を取り返します。そういう作業をしない限り、あなたはずーっと、別れた人を忘れることはできません。

本題に戻ります。結婚とは、神が定めたものであり、人間が考え出したものではありません。契約には2種類あります。1つは人間との契約です。英語では、contractと言いますが、この契約は一時的であり、条件付きで、部分的です。人間の契約は、ある一定期間、ある条件を満たした時だけ有効なのであります。一方、神との契約は、covenantと言いますが、これは全生涯に渡るものです。だから、夫婦はいかなるときにも死が二人を分かつ時まで、忠誠を誓い合うのです。さらに、神との契約は、無条件であり、全体的であります。図を見て、分かると思いますが、左側が人との契約です。これは売買契約とか保険などの契約です。人との契約は、一時的です。一方、神様との契約は全生涯にわたるものです。また、人との契約は条件付きです。多くのカップルは「性格が合わない」とか「暴力をふるう」「家にお金を入れない」「性的満足を与えない」と言ってすぐ離婚します。でも、神様との契約は無条件であります。また、人との契約は部分的、パーシャル・マリッジです。「パーシャルデント」、部分入れ歯の洗浄剤で聞いたことがあります。でも、神様との契約は全体的です。全体的とは何かということは、第二のポイントで学びたいと思います。

2.結婚とは全体的なものです

マタイ19:5,6「『それゆえ、人はその父と母を離れて、その妻と結ばれ、ふたりの者が一心同体になるのだ。』と言われたのです。それを、あなたがたは読んだことがないのですか。それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません」。聖書は「神様の前に夫婦が一体となる」という約束を与えておられます。でも、ただ結婚したからと言って、自動的に一体になることはできません。では、どのように夫婦は一体になれるのでしょうか。また、それはどのような分野でなされるのでしょうか?

①1つの霊

 夫婦は霊的に1つになることが何よりも大切です。そのためには、お互いが祈り合うことです。祈り合うと、お互いの霊と霊が交わり、霊的一致が与えられます。韓国に熱心なクリスチャンのカップルがいました。それぞれ早天祈祷会に出席し、一日に、2時間も祈ります。でも、お互い一致なく、いつも争っていました。彼らは、一人で祈りますが、一緒に心を合わせて祈ったことがなかったのです。このことに気付いて、二人でお祈りするようにしました。すると、内側からすばらしい一致が与えられたということです。

②1つの心

 心と心が1つになるために、何をしたら良いでしょうか?それは会話です。正直に何でも話し合うことによって、魂と魂が交わることができるのです。結婚前のカップルは良く話し合います。でも、一旦、結婚したらどうでしょうか。お互いの会話がなくなります。レストランに行って、周りを見渡してみると、結婚しているカップルかそうでないカップルすぐわかります。お互いに目を見つめ合って、べらべら、ぺらぺらしゃべっているカップルは、結婚前です。そして、むっつりしてマガジンや新聞を見ているカップルは、既婚者です。ある調査によりますと、男性は一日、2万語を話すそうですが、女性は一日5万語を話さないと満足しないそうです。夫は会社で、営業とか何かで、その2万語を全部使い果たしてしまいます。お家にいる奥さんは、ほとんど使っていません。夫が帰って来たら、5万語をなんとか消化したいのです。「きょう、会社で何があったの」「どんなことがあったの」と聞いても、夫は「飯」「風呂」「寝る」しか答えません。会話に関しては、男性が弱いんです。だから、夫は、心から妻の声に耳を傾ける必要があります。また、夫は「それは、こうだろう!」と、教えてはいけません。ただ、ひたすら耳を傾け、理解しましょう。そうすると、妻は愛されていると感じるわけです。このことに関しては、私も勉強中です。

③1つの体

 これは、肉体の交わり、セックスです。男性の性的な欲求は、すべての中でNo.1です。しかし、女性の場合は、No.3かNo.5くらいなんです。ここで大きな違いが生じてきます。夫は、「喜んで協力しろ!」と妻に言いたくなるのですが、そうはいきません。日本では、こういう話題はタブーになっています。お悩みの方は、もうすぐ、銀婚式を迎える、私と家内に個人的に聞いてください。

④1つのビジョン

 たとえ召命や賜物が違っても、同じビジョンを持つということが大切です。クリスチャン同士でも、考え方や性格が違うことがよくあります。「お前がこっちに来い」、「あなたこそ、こっちに来てよ」とお互いに主張します。でも、相手に合わせることは屈辱的であります。夫婦が共通して持つべき最も大切なビジョンとは何でしょうか。それはお互いがキリストに似た者になるということです。夫と妻が「キリストに似た者になりたい」と願って、神様に近づくのです。こちらに夫、こちらに妻がいます。二人が神様に近づけば、近づくほど、二人の距離が縮まって行きます。

⑤1つの会計

 これは、お金を夫婦で別々にしないということです。財布はそれぞれ、持って良いのです。でも、会計は1つです。ある夫婦は、それぞれ貸し借りをしています。お互いにいくら持っているかは秘密です。イエス様は「宝のあるところにあなたの心もあるからです」とおっしゃいました。お金が別々であるなら、もう既に、心が別々になっているのです。夫婦、どちらが大蔵省になるかは自由ですが、1つの会計にしましょう。

⑥1つの親

 日本では舅、姑の問題が大きいです。「お前の親父はヘンだなー」「いいえ、あなたのお母さんこそヘンよー」などと、お互いの両親を悪く言うことはないでしょうか。そうではありません。結婚したら、義理の父も義理の母もありません。「あなたの父であり、あなたの母」なんです。つまり、自分のお母さんが二人、自分のお父さんが二人になったわけです。

 一致を体験するために6つの知恵を分かち合いました。結婚は部分的ではなく、全体的であることを理解しましょう。

3.結婚とは責任の拡大です

エペソ5:23-25「なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです。教会がキリストに従うように、妻も、すべてのことにおいて、夫に従うべきです。夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい」。エペソ5:33「それはそうとして(無条件に)、あなたがたも、おのおの自分の妻を自分と同様に愛しなさい。妻もまた自分の夫を敬いなさい」。

夫にとって一番大切なこととは何でしょうか。それは、かしらとしてリーダーシップを取り、妻を愛することです。聖書は、「夫は妻のかしらである」と言っています。「かしら」だからと言って、何も偉いわけではありません。それは、機能、「働き」の問題です。夫は「かしら」として造られているので、リーダーシップを取るようになっているのです。リーダーシップとは、家庭において、最終的な決断をすることです。では、妻にとって一番大切なことは何でしょうか。それは、かしらである夫を敬って従うことです。「従う」と言っても、「何でもかんでも奴隷のように従え」ということではありません。「主にあって」ですから、神様が禁止していることに対して、従う必要はありません。でも、家庭において夫がリーダーシップを取り、妻がそれに従うというのが、神が与えた秩序です。しかし、戦後、靴下と女性が強くなり、夫に従わない妻が増えてきました。ある妻は子どもの前でも、夫を馬鹿にます。そして、自分で何でも決めて、夫に「このように決めたので、良いわね」と言います。しかし、それは愚かなことです。男性は、かしらとして造られているのです。もし、妻が全部決めたら、夫は「お前が決めたんだから好きにしろ!」と言って、責任を放棄するでしょう。どういうわけか、妻がリーダーシップを取ってしまうと、夫はなめくじのようにヘナヘナと弱くなってしまうのです。賢い妻はどうでしょうか。色んなことを調べ、材料を提供します。95%くらいまでは自分でやるかもしれませんが、あとの5%、おいしいところを夫に残します。「あなたがかしらなんですから、あなたがお決めください」。夫が決断したなら、最後まで、夫が責任を取るのです。賢い妻は「あなたは頼もしいわー」と褒めて、尊敬します。そうするとどうなるでしょう。夫は木に登るかもしれません。でも、夫はない力を振り絞ってでもがんばります。自分を尊敬してくれる妻には、命まであげるでしょう。それがオトコなんです。悲しいサガです。

夫はかしらだと申し上げましたが、「かしら」には、源と言う意味があります。源が清ければ、下流には清い水が流れます。逆に、源である夫が汚れるなら、妻や子供に悪影響が及ぶでしょう。それは、傘にたとえることができます。夫が妻のかしらであるということは、このように傘が上を向いている状態です。すると、妻や子供たちが雨にぬれなくても良いわけです。しかし、夫が夫の役目を果たさない場合はどうでしょうか。働かなくなったり、浮気をしたり、暴力を振るったりする場合です。傘に穴が開いた状態になります。雨が下にいる妻や子供たちに落ちてきます。それでは、逆に妻がかしらになったらどうなるのでしょうか。それは、傘をさかさまにした状態になります。さかさまになった傘は、雨を防ぐことは出来ません。子供は一体どこに隠れるのでしょうか。でも、傘を立てて歩くなら、前に進むことができます。それは、夫がかしらとして、リーダーシップを取るということです。では、なぜ、聖書は夫に「妻を愛しなさい」とだけ言って、妻に「愛しなさい」と言っていないのでしょうか。妻は夫を愛さなくても良いのでしょうか。いいえ、妻も夫を愛さなければなりません。ここで、夫が妻を愛するように命じられているのは、夫がかしらであるからです。悪いかしらは横暴になって、妻を苦しめる恐れがあるからです。だから、「かしらにとって忘れてならないのは、妻を愛することだよ」と言っているのです。

4.キリストにある家族の4つの倫理

 これは夫婦が平和にくらすための大憲章、マグナカルタのようなものです。本来なら、婚約中にこういう決め事をしたほうが良いと思います。すでに結婚している方は、これからでも遅くはありません。「今の私には関係がない」と思っている方は、これから結婚する人に教えてください。

たとえ衝突が起きても、済んでしまったことを持ち出さない

 「あなたはいつも、このことをしている」「あなたは決して、気にかけない」はさばきのことばです。一般に、男性よりも女性の方が過去に関する記憶力が良いです。頭の中のノートにしっかり記録している方もいらっしゃいます。たとえ、衝突が起きたとしても、済んでしまったことは持ち出さないようにしましょう。

たとえ怒っても、離婚話を持ち出さないということです。

 「私たちは別れた方が良い」は、無用な言葉、ナンセンスな言葉です。なぜなら、神様の前で「死が二人を別つまで」と、契約を交わしたからです。「神様の前で結婚したなら、離婚という二文字はないんだ」と、覚悟することです。私も結婚して、もうすぐ25年になりますが、「花も嵐も踏み越えてー」でありました。クリスチャンでなかったなら離婚していたかもしれません。でも、神様が与えてくれた妻なので、お取替えは不可能です。私が決めたんだったら、間違いがあります。でも、大川先生と神様が決めたんだから、諦めるしかないんです。でも、それは恵みであり、祝福であります。世の中は、浮気や不倫が横行しています。しかし、それは神様の律法を飛び越えてしまう大きな罪です。箴言5:15-18「あなたの水ためから、水を飲め。豊かな水をあなたの井戸から。あなたの泉を外に散らし、通りを水路にしてよいものか。それを自分だけのものにせよ。あなたのところにいる他国人のものにするな。あなたの泉を祝福されたものとし、あなたの若い時の妻と喜び楽しめ」。

たとえ喧嘩しても、相手を叩いてはならないということです。

 多くの夫は口で負けるので、妻を平手で叩くが、それは心の深い傷になります。妻は機関銃デババババババと打ちまくります。夫は打たれてしまいますが、最後に手榴弾を投げつけます。今日、DVがかなりの%で起きています。とても悲しい出来事です。

たとえ言い争ったとしても、怒りを次の日まで持ち越さないということです。

 エペソ4:26,27「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい」。「機会」はギリシヤ語では「トポス(場所)」と言う意味があります。つまり、怒ったままでいると、そこに悪魔が足場を設けてしまいます。赦さないために、「怒り」の奴隷になっている人が大勢います。夫婦は、「怒りを次の日まで持ち越さないんだ」と言う約束をしましょう。

 世界で一番離婚率の高い国はロシアです。インドネシアのエディ・レオは、二年前、ウラジオストックに招かれて行ったことがあるそうです。ウラジオストックの教会はとても貧しいので、旅費も出せません。教会に行くと、ほとんどが女性。ギターを弾いて、賛美する人も女性。司会者も女性です。なぜかと言うと、夫が酒を飲んで、暴力を振るうので離婚するしかないんです。そこへ行って、エディが「父の愛」を語ると、みんな「ワーワー」泣いて、力強い癒しのわざが起こるそうです。家庭が壊れているため、みんなが傷ついています。そういうことが代々、続いているのです。今年も、エディは亀有に来る前に、ウラジオストックを経由してから来られます。日本でも、家庭が崩壊しています。私の家は父が酒乱で暴力をふるい、母はいつも別れたいと言っていました。私を含め8人の子どもたちがいたので、死ぬまで縛られていました。家内の家は、お父さんが出稼ぎで、父親がいなかったんです。そのため、ちょっとネクラです。私たち自身、そして身近な人たちも、家庭の崩壊の呪いを受けています。どうぞ、家系から来る呪いを、私たちの代でストップしましょう。私たちも主の癒しをいただきましょう。そして、聖書的から来る、正しい結婚観を立て上げましょう

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