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2006年4月30日 (日)

契約の仲介者     ヘブル8:1-7

 聖書は英語で、Holy Bibleと言いますが、他の呼び方もあります。旧約聖書はOld Testamentと呼びます。これは古い契約という意味です。そして、新約聖書はNew Testament、新しい契約という意味です。契約という意味を理解すると、私たちの救いとか信仰ということがよく分かります。残念ながら、日本には「契約」という概念が乏しいようです。なぜなら、単一民族で、毎日顔を合わせているので改めて約束を交わすというのは水臭いように思われるからです。酒場においてもツケが効いたりするのはそういうことからも来ています。でも、聖書の神様との関係は、顔見知りとか会ったことがあるくらいでは成り立ちません。聖書の神様は、契約を交わさないと、私たちを救ったり、守ったりできない方なのです。ですから、契約関係ということを知ることは信仰生活にとても重要です。

1.契約の仲介者

 神様はエデンにおいて、アダムと契約を交わしました。でも、アダムは食べてはいけない木から取って食べてしまいました。その行為は、「私も神のようになりたい」と言う反逆罪でした。それから神様は、アブラハムを選び、その子孫であるイスラエルと契約を結びました。神様はイスラエルを祭司として立てて、すべての国民を祝福しようとお考えになられたのです。ところが、モーセが神様から十戒をもらうために40日間、山に登っていた間に、イスラエルの民は罪を犯したのです。エジプトにならって、金の子牛を作って、拝んでいました。モーセはそれを見て、怒って、十戒が記された石の板を、砕いてしまいました。その後、レビ人が祭司として立てられました。しかし、レビ人はイスラエルの12部族だけの祭司であり、すべての国民のための祭司ではありません。確かに、大祭司も立てられましたが、それは神様とイスラエルとの仲介者でしかなかったのです。モーセは神様から示されたように幕屋を建てました。そして、レビ族や大祭司は律法に従って、ささげ物やいけにえをもって神様の前に出ました。でも、それは地上のイスラエルという部族のためだけであったのです。

 では、ヘブル8:5,6に何と書いてあるでしょうか。「その人たちは、天にあるものの写しと影とに仕えているのであって、それらはモーセが幕屋を建てようとしたとき、神から御告げを受けたとおりのものです。神はこう言われたのです。『よく注意しなさい。山であなたに示された型に従って、すべてのものを作りなさい。』しかし今、キリストはさらにすぐれた務めを得られました。それは彼が、さらにすぐれた約束に基づいて制定された、さらにすぐれた契約の仲介者であるからです」。モーセが建てた幕屋は、天にあるものの写しであり影だったのです。写しとはコピーですから、オリジナルがあるはずです。影とはシャドゥですから、本体があるはずです。地上の幕屋に対して、天の幕屋があります。地上の大祭司に対して、天の大祭司がおられます。また、地上のささげ物といけにえに対して、永遠のいけにえがありました。新しい契約の仲介者であるイエス・キリストが、それらすべてを完成されたのです。もう、幕屋もいけにえも、大祭司も不要になりました。イエス・キリストが神からの大祭司として、完成されたからです。どのようになさったのでしょうか?古い契約の違反をご自分が贖い、さらに新しい契約を結ばれました。イエス・キリストは人間がなしえない律法の要求を全うされたのです。みなさん、契約書には必ず守るべき条件項目が記されています。自動車保険や生命保険の契約書にも必ず付いています。ローンでお金を借りる時も条件項目が記されています。それがまたみんな薄くて小さい文字なんです。ほとんどの人はそんなの読みません。でも、契約に違反したときに、小さな文字が生きてくるのです「ほら、ここにちゃんと書いてありますよ」なんて言われます。契約の条件にあたるものが、十戒をはじめとする数々の律法です。「イスラエルの民は分かりました。すべて守ります」と言ったんです。でも、ダメでした。そのため、天よりも高くされた大祭司、イエス・キリストが来られたのです。すべての律法を全うし、ご自身の命でイスラエルの罪を贖われたのです。

 でも、それだけだとまだ不十分です。本来、神様がイスラエルを選んだのは、イスラエルを通してすべての国民を祝福するためでした。すぐれた契約の仲介者、イエス・キリストは何をされたでしょうか。ご自分が死んで、三日目に復活し、教会という体をとおして神様の前に立たれたのです。かしらはイエス・キリストです。そして、体は教会、私たちなんです。聖書に、教会はキリストのからだであると書いてあります。体の中に、あなたもわたしも含まれているのです。これまでは人間が神様と契約を結びましたが、ことごとく失敗しました。でも、新約では、イエス・キリストが契約の仲介者として、父なる神様と契約を結ばれたのです。人間であれば、何度やっても失敗するでしょう。しかし、イエス・キリストは失敗しません。Jesus doesnt fail. Jesus never fail.イエス・キリストが父なる神様と契約を結ばれたとき、私たちはどこにいたのでしょうか。そうです、イエス・キリストの体の中にいたのです。ですから、神様はキリストを通して、私たちと契約を結ばれたことになります。新しい契約は、キリストが間におられるのです。もし、私たちが失敗したら、誰が責任を取るでしょうか。イエス・キリストです。もし、私たちが要求を満たさなかったなら、誰が満たしてくれるでしょうか。イエス・キリストです。もちろん、私たちが個人的に守る義務もあります。でも、私たちがこの契約において、一番、守るべきことは何でしょうか。それは、「キリストにおる」ということです。新約聖書では、「キリストの内に」、「キリストにあって」、「キリストにあるならば」、「キリストにとどまるなら」と口をすっぱく言っているのはそのためです。みなさん、あなたがキリストの体からはみ出してしまうので、悪魔にやられるのです。悪魔は律法を犯した者を罰する、力があるのです。悪魔は神様の前にあなたを訴えるでしょう。でも、あなたがキリストの内にあれば、キリストの血によってガードされるのです。愚かなクリスチャンは、ときどき、キリストの体から飛び出して、痛い目に会ってしまいます。「キリストの内にとどまる」「キリストのうちに隠れる」。これが重要です。

 私たちには契約の内を歩む必要が残されています。そのことによって契約の条件を満たし、豊かな祝福を得ることができるのです。契約の内を歩むとは、みことばを読んで、従うことです。イエス様を愛する人は、イエス様の戒めも守ります。それは罰せられるのが怖いからではなく、イエス様を愛しているからです。イスラエルの民は、「律法を守らないと呪われる。それを守らないと救われない」ということで、イヤイヤ従ったのです。彼らは、律法を救いの条件みたいに考えたのです。新約の私たちはそうではありません。新しい契約の仲介者なるイエス様が、律法の条件を全部満たしてくれました。また、イエス様は十字架で律法のろいから解放してくれました。ですから、律法自体が変わったのです。律法は私たちをガードする境界線になったのです。車で道路を走るとき、センターラインとかガードレールがあります。街中では、車はゆっくり走るので、センターラインとかガードレールがないところもあります。でも、一旦、高速に出たらどうでしょうか。高速道路に、車線とかガードレールがないと、怖くて走ることができません。あなたは、「車線とかガードレールなんかいらない」と言うでしょうか。律法は越えてはいけない、神の戒めです。律法というガードレールを飛び越えたら、命の保証はありません。律法の内側を歩むとき、あなたは安全なのです。そういう意味で、信仰生活において、神様の戒めとか教えは必要不可欠なのであります。私たちは神の義を知るために、聖書を読む必要があります。「義」ということばには、はかりとか物差し、基準という意味があります。残念ならが、この世は神様から離れ、人間の基準で生きています。法律も「それをしたら、他の人が害されたり、迷惑を被るので、それをしてはいけない」と、人との関係が基準です。でも、神様の律法は、神の義を教えます。「人を殺してはいけない」というのは、人間が定めた法律ではなく、神が定めた律法なのです。今、多くの若者が親や友人を殺しています。なぜでしょう?人間の道徳や法律が基準になっているからです。結婚もそうです。人間が決めた契約だったら、うまくいかなければ離婚がなりたちます。しかし、結婚は神様が定めた契約です。そうなれば、人間ではなく、神様に対して責任があるということです。

私たちはこの世で生まれ、この世の教育を受けてきました。キリスト教国でない日本は特にそうです。小学校でクリスチャンになったのならともかく、20代、30代、40代でクリスチャンになった人は、考え方や思想を聖書のものと入れ替えなければならないのです。そのために、私たちは日々、聖書に親しみ、聖書から教えられる必要があります。聖書には神様の基準、神様のみこころが示されているからです。前半のポイントのまとめです。私たちは新しい仲介者によって、救いの中に入れられました。それでは私たちの義務とは何でしょうか。第一はキリストにとどまる。キリストに従うということです。第二は、みことばを読み、それを守るということです。私たちがみことばを読んで、それを行なうとき、契約の内を歩んでいることになるのです。契約の内を歩む人生とはどういう人生でしょうか。詩篇1:3「その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える」。ヨシュア1:8「この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そのうちにしるされているすべてのことを守り行なうためである。そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである」。神様の愛は無条件です。でも、神様の祝福は条件付きです。多くの人たちは誤解しています。神様の愛は条件付きで、神様の祝福は無条件だと。そうではありません。私たちが祝福を得たいならば、契約の内を歩むということです。そのために、みことばを読み、みことばを守り行なうということです。

2.新しい契約

 新しい契約において、神様はもう1つ、すばらしい恵みを与えてくださいました。ヘブル8:9-10「それは、わたしが彼らの先祖たちの手を引いて、彼らをエジプトの地から導き出した日に彼らと結んだ契約のようなものではない。彼らがわたしの契約を守り通さないので、わたしも、彼らを顧みなかったと、主は言われる。それらの日の後、わたしが、イスラエルの家と結ぶ契約は、これであると、主が言われる。わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」このみことばが、実現したのは、ペンテコステ以降からであります。古い契約の場合は、石の板に律法を書き記しました。しかし、あらゆる人間はそれを守ることができません。一方、新しい契約の場合は、石の板ではなく、心の板に律法を書きつけると言うのであります。これはどういうことかと申しますと、聖霊によって人間の心を作り直し、聖霊によって神様の思いを入れるということです。第一のポイントでは、私たちがみことばを読んで、それを守り行なうということでした。ま、それはそれですばらしいのですが、聖霊の働きを忘れてはいけません。新しく生まれる前の人は、聖書を読んでもちんぷんかんぷんなのであります。一般に、夜眠れない人は、聖書を読むと本当によく眠れます。なぜなら、この世で、聖書ほど難しくて、退屈な書物はないからです。ギデオンで聖書を配っている人には申し訳ないですが、学生が聖書を読むということはとても困難です。大体、挿絵もないし、文字が小さい。大昔の事柄やカタカナの人物、おとぎ話のような奇跡物語。へびが口をきいたとか、死んだ人が生き返ったとか、「それを信じろ」という方が無理です。しかも、教えている内容が、実行不可能なものばかりです。「右の頬を打つ者には、左の頬も向けなさい」。「7の70倍赦しなさい」。全く不可能なことばかりです。言っておきますが、聖書は道徳の書物ではありません。生まれつきの人間にとって、不可能なのは当たり前です。

 でも、みなさん。イエス・キリストを信じて生まれ変わりますと、聖書がわかるようになります。聖霊様が教えてくださるのです。同時に、今まで、開店休業中だった霊が働き出して、神様の思いがキャッチできるようになります。これまでは、悪いことをしても全然、平気だったのです。が、今は、小さな罪でも心が痛みます。クリスチャンになって、良い面ももちろんありますが、罪に敏感になって、悪いことができなくなります。神様のみこころに従っているときは平安と喜びがあります。しかし、神様のみこころに反して生きていると、平安も喜びもありません。なぜでしょう?それは、聖霊様が心の中で、働いておられるからです。聖霊様があなたの心に、神様の思いを注入しているんです。そうすると、あなたの心がどうなるでしょうか?あなたには従来、肉の思いがあります。一方、あなたの中に御霊の思いが新たに注入されました。この2つは水と油の関係です。ガラテヤ書5:17「なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです」。クリスチャンになったのは良いけど、新たな葛藤が起こるようになります。肉の思いと、御霊の思いが合い争うという、1つの内乱が起こります。クリスチャンになって、初期の頃は、ハネムーン期間で、救われた喜びでいっぱいです。でも、半年くらい過ぎると、非常に不安定な時を過ごすことになります。あなたはどっちに従ったら良いのか、とまどうでしょう。肉の思いに従うべきか、御霊の思いに従うべきか、一種の分裂状態になります。あなたはこれまで、この世の価値観で生きてきました。でも、聖書と御霊の言うことは、別な価値観です。使徒パウロもローマ7章で「私は自分のしていることがわからない。したいことができない」と、ものすごく悩んでいます。みなさんは、そういう時期を通ったことはないでしょうか?クリスチャンになって、逆に苦しくなってしまったということです。

 でも、みなさん、良い知らせがあります。それは、あなたが聖霊に降参するということです。イースターの日、KGCの皆さんが、「われささぐ、みなささぐ」という賛美をささげました。英語では、I surrender All. I surrender All.です。Surrenderは「降伏する」とか、「明け渡す」という意味です。あなたは人生の舵を握っています。明け渡すとは、舵をイエス様に渡して、あなたは寝て良いということではありません。人生の主導権をイエス様に渡すということなのです。イエス様が「面舵一杯」と言ったら、あなたは「面舵一杯」と言って、舵を回せば良いのです。イエス様が「取り舵一杯」と言ったら、あなたは「取り舵一杯」と言って、舵を回せば良いのです。そうしますと、あなたの人生は正しい方向に進みます。パウロは、ガラテヤ書5:16で言いました。「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません」。御霊によって歩むとは、日々、イエス様に従う選択をするということです。肉の思いではなく、イエス様の御声に従うことが、御霊によって歩むということなのです。ですから、クリスチャンになってから、一時、葛藤の期間がだれでもあります。しかし、イエス様に降参し、御霊によって歩むことを決断したその時から、安定するようになります。これは信仰が頭から、腹に達したとも言います。信仰が頭にあるうちは、疑いや反抗心が襲ってきます。でも、信仰が腹に達したら、「生きるにもキリスト、死ぬのもキリスト。槍でも鉄砲でも持って来い!」となります。どうぞ、同じ、クリスチャンになるなら、明け渡すまで行ってください。どうか、半生のクリスチャンになりませんように。旧約聖書には、半生のパン菓子というのがあります。片方しか焼いていないパンは半生です。それではいけません。裏も表も、焼いたパン菓子を主にささげましょう。あなたの人生の裏も表も、主のご支配を受けましょう。

 聖霊の助けは、新しい契約における保証であります。旧約時代の人々には残念ながら与えられていませんでした。しかし、私たちは契約の条件を満たすことができるように、聖霊の助けが与えられているのです。「私たちはイエス様を信じて従います」と契約にサインすると同時に、天からあなたのもとに聖霊が賜物として添付されるんです。もし、クリスチャンが聖霊の助けなしに、信仰生活を行なうとしたら、3日も続けられません。私たち自身の中には、神様に従う力とか、敬虔さなどないのです。真面目な人ほど、要注意であります。そういう人たちは、自分の力でがんばろうとします。そうではありません。私たちには神様に従って行けるように、助け主、聖霊が与えられていることを発見しましょう。昔、ある人が、アメリカに渡って、新しい生活をしようと思い、太平洋を渡る船の切符を予約しました。彼は切符を買うために、一生懸命働き、やっと切符を手にいれることが出来ました。しかし、何日も船の食堂で食事をするには、たくさんのお金がかかると思い、彼はビスケットを用意しました。さて、船旅が始まって、最初の数日間は、用意したビスケットと水を飲んでいました。さて、旅も進んで行くと、ビスケットも少なくなり、水だけで耐えなければならなくなってきました。レストランでは、大きなビフテキやえび料理などが、おいしそうに並べられています。彼はそれを見て泣きました。次第に、体は痩せ細り、病人ようになりました。ついに、彼は、レストランのコックの前にひざまずき、懇願しました。「コックさんお願いです。皿洗いでも何でもしますから、どうかそのビフテキを、食べさせてください。」すると、コックはいぶかしげに彼を見ながら、「お客さん、あなたは、ちゃんと切符を買って、この船に乗ったんでしょう。」「はい。買いました。」「お客さん、その切符には食事代もすべて入っていますよ。」この男は、残念なことに、初めから、食事代が運賃に含まれていたことを知らず、餓死しそうになりました。このように、聖霊の恵みを知らないで、クリスチャン生活を続けている人がいます。イエス様を信じて、新しい契約結んだ人には、聖霊の力と助けがあることを発見しましょう。

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2006年4月23日 (日)

レビ族にまさる祭司     ヘブル7:1-10

 旧約の時代は、大祭司は民の代表として神様の前に出ました。そして、民の罪のためにささげ物といけにえをささげました。しかし、新約の時代は、大祭司イエスによって、全く変わりました。そういうものをささげなくても、大胆に神様に近づくことができるようになったのです。旧約の時代だったら、羊とかヤギ、穀物や油を携えて来なければなりませんでした。しかし、きょう来られた方々を見ますと、みんな手ぶらであります。「いや、私は献金を持ってきました」と言うかもしれません。しかし、それくらいで罪が赦され、神様の御前に近づくことが可能なのでしょうか?脅かすつもりはありませんが、その答えとして、キリストがレビ族にまさる祭司であることを2つのポイントで学びたいと思います。

1.神からの大祭司

 7章の1つ手前の、6:20をお読みいたします。「イエスは私たちの先駆けとしてそこにはいり、永遠にメルキゼデクの位に等しい大祭司となられました」。7章にもメルキゼデクという名前が何度も出てきますが、なぜ、メルキゼデクという人物が登場しなければならないのでしょうか。実は、旧約聖書では、祭司と言えば、レビ族と決まっていました。そして、最初の大祭司はアロンでした。祭司らが民の代表として、神様の前に出て、いけにえを捧げたわけです。他の部族は、大庭に入ることは許されましたが、幕屋には決して入れませんでした。出エジプト記に書いてありますが、神様の前に出るために、さまざまな律法があります。祭司になるための条件もあり、こまごまとしたことが定められていました。もし、勝手なことをしたら、神様から打たれ、死ぬこともあります。それだけ、神様の前に出るということは大変なことなのであります。みなさんも神様の前に出ておられるのですが、果たして、緊張しておられるでしょうか?それとも、何も考えないでボーっとして出ていらしているでしょうか。旧約でしたら、異邦人は庭にも入れなかったんです。庭の外というか「蚊帳の外」であります。なのに、今日の私たちは神の御座に大胆に進み出ることができるのであります。なぜでしょうか?それは、レビ族にまさる祭司、アロンにまさる大祭司が来られたからであります。ハレルヤ!

 イエス・キリストはメルキゼデクの位に等しい大祭司であります。創世記14章に書いてありますが、アブラハムがケドルラオメル軍と戦って、ロトの財産を奪回しました。そのとき突然、現れたのが、メルキゼデクであります。彼はサレムの王であり、同時にいと高き神の祭司でした。メルキゼデクがアブラハムを祝福し、アブラハムはすべてのものの10分の1を彼に与えました。レビの祖父にあたるアブラハムが、メルキゼデクにささげものをしたのです。それが何を意味するのかが、ヘブル7章に書いてあります。一ことで言いますと、イエス・キリストとメルキゼデクが似ているということです。7:3「父もなく、母もなく、系図もなく、その生涯の初めもなく、いのちの終わりもなく、神の子に似た者とされ、いつまでも祭司としてとどまっているのです」。イエス・キリストはメルキゼデクのように、神からの祭司だということです。メシヤである、キリストの本当の父や母は分かりません。その生涯の初めもなく、いのちの終わりもなく、神から来られたお方です。イエス様はレビ族とは全く異なる、別の経路から来られた大祭司です。イスラエルでは系図がとても重要であります。レビ族にもいくつかの種族があり、色んな奉仕に携わっていました。どこの馬の骨か分からない人が、勝手に祭司になることはできないのであります。でも、イエス・キリストはレビの系図を無視して、神様から直接、来られた大祭司なのであります。イエス・キリストが神からの大祭司であるなら、私たちクリスチャンは、神からの祭司であります。

 きょうは、伝道師の就任式があります。これは、日本基督教団のものではなく、当、亀有教会が独自で行なう就任式であります。伝道師も牧師も、神様にお仕えする祭司みたいなものであります。でも、新約聖書においては、イエス・キリストを信じる者すべてが、祭司なのであります。ありていに言えば、伝道師や牧師は祭司長にあたるかもしれません。でも、大祭司は人間ではなく、イエス・キリストです。残念ながら、キリスト教会は歴史において、系図とか階級を重んじる過ちを犯してきました。典型的なのがローマ・カトリックであります。彼らはペテロが教会の首長であり、教皇はペテロの後継者であると考えます。今は、教皇ではなく法王と言うようでありますが、あれはだれもがなれるわけではありません。2000年間、代々、継承しているわけです。また、位階制度の職務につかせるための叙階と言う典礼があります。叙階は、ローマ・カトリックでは大事なサクラメントです。皆さんも、司教とか司祭などという聖職をお聞きになられたことがあるでしょう。そこには、いろんな決まりや制度があるんであります。しかし、プロテスタント教会では、ずいぶん簡単です。教団・教派によって、多少の違いがありますが、按手礼という叙階に似たものがあります。でも、どの教派にも属していない単立教会であれば、「私が牧師です」と言ってもだれも文句は言えません。極端に言えば、「神様が私を牧師に召した」「伝道師に召した」と言っても、言えないわけではないということです。パウロは、「私が使徒となったのは、人間から出たことではなく、キリストと父なる神様からです」と言っています。

 では、なぜ、血筋によらず、系図にもよらず、伝道師も牧師になれるのでしょうか。それは、イエス・キリストが大祭司であり、キリストを信じるすべての人が祭司だからです。ペテロ2:9「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です」と書いてあります。では、伝道師や牧師とは何でしょうか?それは、神様が与えた職務の賜物であり、使命であります。何か、偉いわけではなく、「それを専門にしなさい」と命じられたから、成る、それだけであります。一般的に、教団・教派が、キリストの権威によって、牧師や伝道師を任命します。でも、それは人間から出たものもあり、神様が与えていない場合もありえます。牧師の賜物が与えられていないのに、牧師になった人がいないわけでもないでしょう。大切なのは、神から召されたという信仰がなくてはなりません。正確には、神様から召されたものを教会が承認するということです。もう1つ大切なことは、名称とかステイタスではないということです。「イエス・キリストが救い主であり、神様であり、大祭司である」と本当に受け入れられたのはいつでしょうか。イエス様はこの地上に来て、「私はメシヤだ。救い主だ。私を拝め」と自分の口から言ったことはありません。イエス様が十字架の死まで神と人々に仕えた、その結果であります。本当に、イエスがキリストと受け入れられたのは、復活・昇天後であります。同じように、地位や身分が先に来るのではありません。人々に仕えていくときに、「ああ、牧師だ、伝道師だ」と認められていくということです。しかし、この世では、地位や身分が先にきます。教団・教派も、牧師や伝道師に任命したから、「教会員たちよ、そのように認めよ」というところがあります。ベン・ウォンという香港の牧師がいます。彼は「自分が牧師になります」と言ったわけではありません。みんなが、「牧師になれ」と言ったから、なったということです。つまり、牧師という肩書きが与えられる前から、牧師の働きをしていました。すると、「あなたが牧師になるのが一番だ」とみんなから推薦されたということです。

 では、「鈴木はどうなんだ」といわれれば、どこかに隠れたくなります。私ははじめ、志願兵でした。8年間、母教会で奉仕をしました。その間に神学校も行かせてもらいました。8年間、教会に仕えてたんです。すると、当亀有教会から牧師として招聘されたのであります。来る方も信仰が必要でしたが、招く方も信仰が必要だったと思います。私は恥ずかしながら、生まれも育ちも悪いし、知性も中途半端であります。ギリシヤ語やヘブル語は辞書を引けば分かりますが、原典で読むことはできません。品性や行ないも、聖職者などととても言えません。そのことは家内が一番よく知っています。では、何が決め手なんですか。それは、みなさんにも言えることです。ヨハネ1:12,13「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである」。私たちは、イエス・キリストを信じただけで、神の子になれたのです。血筋とか努力、がんばりではありません。特権であり、恵みです。イエス・キリストは神からの大祭司として来られました。系図も種族も飛ばしたのです。私たちも、イエス様を信じたことによって、系図も種族も関係なく、神の子、祭司となったのです。すべてのクリスチャンは牧師や伝道師ではありませんが、すべてのクリスチャンは祭司として召されているのです。大事なのは、それぞれが神様からの召しにしたがって、生きるということです。

2.大祭司の務め

 大祭司とはどのようなことをするのでしょうか。詳しい内容は、ヘブル8章、9章、10章に書かれています。しかし、7章後半にも少し書かれています。7:24-27「しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。また、このようにきよく、悪も汚れもなく、罪人から離れ、また、天よりも高くされた大祭司こそ、私たちにとってまさに必要な方です。ほかの大祭司たちとは違い、キリストには、まず自分の罪のために、その次に、民の罪のために毎日いけにえをささげる必要はありません。というのは、キリストは自分自身をささげ、ただ一度でこのことを成し遂げられたからです。」大祭司の役目は、神様と民の間に立って、とりなすということです。とりなすとは、旧約では、民の代表として祭司が罪のいけにえをささげ、罪の赦しを求めました。特に大祭司は、年に1度、小羊の血を携えて、至聖所に入りました。至聖所は幕屋の奥にあり、神の箱が安置されています。神の箱の蓋は、贖罪所と呼ばれ、そこに血を注ぎかけます。これは、民全体の罪が贖われるもっとも重要な儀式でした。でも、ここにも書かれていますとおり、大祭司が人間であること、またささげるいけにえが動物であることから、限界がありました。そのため、イスラエルの民は、毎日、毎年、様々な犠牲をささげる必要があったのです。でも、ヘブル書が言いたいのは、「罪のない大祭司が、ご自分のからだをいけにえとしてささげた。キリストはただ一度であがないを成し遂げたので、いけにえは不要だ」ということです。みなさん、イエス・キリストが神の小羊として、十字架で血を流したので、罪の贖いはもう不要なのです。神様はキリストの贖いで満足されたので、罪のために捧げものを持ってくる必要はなくなったのです。わおー、これが新約の恵みです。手ぶらで来て良いのです。でも、厳密に言うならば、それではダメです。イエス・キリストの血潮を信じる、信仰が必要です。つまり、「イエス・キリストによって、私の罪が贖われたことを感謝します」という信仰です。

 イエス・キリストが十字架の上で「父よ。彼らをお赦しください」と祈って、ご自分の体をささげられました。イエス様が十字架にかかられたのは、ちょうど小羊がささげられる過ぎ越しの祭の時でした。イエス様は神の小羊として、ご自分の血をささげたのです。だから、イエス様のとりなしと犠牲によって、私たちの罪は赦されたのです。その結果どうなったでしょうか。父なる神様と私たちの間に、道が開かれたということです。マタイ福音書に書いてありますが、イエス様が息を引き取られたその時、神殿の幕が上から下までまっぷたつに裂けました。そのことは何を象徴しているかと言いますと、神様と私たちをへだてるものがなくなったということです。ヘブル4:16にすばらしいみことばがあります。「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」。恵みの御座とは、神様がおられるところです。なんという恵みでしょうか。ですから、大祭司イエス様がすべてのことを成し遂げたので、神様との間には、人間も、儀式も一切不要だということです。ローマ・カトリックでは、神様に近づくためにイエス様の他に必要なものがたくさんあります。ミサという儀式が必要です。神父が神様と信徒の間に立つでしょう。祈祷文とか良い行ないも必要です。でも、聖書は「イエス・キリストが唯一の道である」と告げています。牧師が神様との間に立つのではありません。一人ひとりの信仰によって、だれでも大胆に父なる神様のもとに近づき、助けを得ることができる。これが新約の恵みです。

 すると、第一ポイントの牧師や伝道師の務めとはどのようなものになるでしょうか。それは、イエス様を紹介して、神様のもとにお連れするということです。もっと言うと、「イエス様がおられるので、イエス様と一緒にやってください」と、その人とイエス様とくっつけることなんです。「私がその人を救わなければならない」。「私がその人を変えなければならない」。「私がその人を命がけで守る」。気持ちはわかりますが、そんなことできるわけがありません。人を救うのは神様であり、人を変えるのは神様であり、人を守るのも神様です。そうしますと、伝道師や牧師は、楽な仕事だなーと思うでしょう。そのとおり、結構、楽な仕事です。もちろん、悲壮な顔をして、がんばっている方々もおられるでしょう。でも、神様がなさる分と、私たちが行なう分をわきまえていたら、結構、楽であります。逆に、私たちが神様の分野に立ち入り、神様の御手を動かそうとすると、重労働になります。「イエス様、私があなたの手になります」。「イエス様、私があなたの口になります」。「イエス様、私があなたの代わりに支配します」。これだと、カルトになります。牧師はさしずめ教祖です。神様に手がないのでしょうか。神様に口がないのでしょうか。神様はご自分で考えることができないのでしょうか。そうじゃないですね。神様は万能であり、すべてのものを持っておられ、すべてものを支配しておられます。私が間に入り込んで、何かをやろうとするなら、かえって複雑になり、神様の働きを邪魔することになります。ある先生がおっしゃいました。「聖霊様のおじゃまをしないように」。聖霊様が、ご自分のご意志をもって、なさるのですから、余計なことはしなくて良いということです。こういうことが分かりますと、非常に楽な気持ちになって奉仕ができます。

 でも、私たちクリスチャンにも、牧師にも伝道師にも、神様から与えられた使命というものがあります。神様はご自分がしないで、「あなたがせよ」と命じていることです。神様はしようと思えば、何でもできるのですが、あえてしないことがあります。それは、福音を宣べ伝えることです。福音を宣べ伝えることは、すべてのクリスチャンに与えられた使命です。では、牧師にも伝道師は何をするのでしょうか。それは、自分も福音を宣べ伝えると共に、クリスチャンに福音を宣べ伝えるように教えるということであります。さらに、もう1つは、神様から与えられた賜物をフルに用いるということです。聖書には神様から与えられる、たくさんの賜物が記されています。教えること、指導すること、仕えること、憐れみを示すこと、与えること、助けること、管理することなどがあります。他に聖霊様が知恵の言葉、知識の言葉、預言の言葉を与えます。他に、生まれつき与えられた才能や努力して勝ち取った能力、お金、体力、声、手足・・・みんな神様からの賜物です。神様は私たちの体を通して働きたいのです。神様は私たちの口を通して働きたいのです。神様は私たちの賜物を通して働きたいのです。主役は私たちではありません。主役はいつも神様です。神様が私たちを通して働くので、栄光は私たちのものではなく、常に神様のものなのです。こういうふうに理解すると、「奉仕って楽だなー」と思いませんか。もし、私たちが何かできるとしたら、それは神からの恵みなのです。私たち自身から出たことではありません。なぜなら、神様が私たちに預けたものを、私たちが用いたに過ぎないからです。

 大祭司イエス・キリストが贖いに必要な一切を成し遂げてくださったのです。ですから、私たちのやることというのは、わずかなことなんです。そして、何か1つでもできたら、それは神さまの恵みです。しかし、律法主義は、「それくらいじゃダメだ。もっとがんばれ」と言います。律法主義は、神様に頼るのではなく、自分のがんばりや努力に頼ります。その人にとって神様のイメージは、仁王様のように怒っている神様です。かつての私も業績指向で、数にこだわっていました。大きな教会を目指していました。早天祈祷会、徹夜祈祷、断食祈祷、特別伝道集会、チラシ配布、訪問伝道、家庭集会・・・ありとあらゆることをしました。それでも教会は大して大きくなりませんでした。そのとき、「パウロや神様は、きっと歯がゆいを思っているんだろうなー」と思いました。しかし、『恵みの歩み』という本を読んだとき、そうじゃないと分かりました。「そんなにがんばらなくて良いから。大切なのは恵みなんだよ」と教えられました。神様はすべてを所有し、何でもできるお方です。でも、神様は一緒に働きたいのです。新約の祭司がなすべき重要なことがあります。それは、神様と人々の手をつなぎ合わせるということです。宗教は英語でリリジョンと言います。そのもとのラテン語は、「再び結ぶ」という意味があります。神様と人とを結ぶ役目をする、これが祭司の役割です。神様と人が結ばれたら、もう大丈夫です。最初は、手助けして、一緒に行動するかもしれません。でも、いつまでも助ける共依存的なことはしません。その人が神様と共に生活する。これがゴールです。また、新約では、動物のいけにえをささげることは不要です。新約の祭司がささげるのは、感謝と賛美のいけにえです。使徒パウロは、贖われた人々を神様のところにお連れする、「これもいけにえだ」と言いました。滅びの運命から、生かされた体をもって、神様と人々に仕えたいと思います。

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2006年4月16日 (日)

なぜ泣いているのですか       ヨハネ20:11-18

 イースターおめでとうございます。と、言っても、「イースターって何」という人もおられるかもしれません。ある説によりますと、北方神話の春の女神「Eostre」に由来します。本来はキリスト教とは関係のない異教徒の春の祭りでしたが、キリスト教の布教の際に、意味を変え、普及したようです。寒さ厳しい暗い冬から、草木が芽吹き動物たちが繁殖する春へと移り変わる様が、十字架で死んだ後に復活したキリストのイメージと重なり、統合されていったと見られています。呼び方はともあれ、イエス・キリストの復活祭であります。きょうは、ヨハネの20章から、3つのポイントでイースターのメッセージを取り次ぎたいと思います。

1.愛と復活

 新約聖書にはマリヤという名前が6人ほど出てきます。きょうは、マグダラのマリヤが主人公です。他の福音書を見ますとわかりますが、朝早く、墓に来たのはマグダラのマリヤだけではありません。ヤコブの母マリヤとかサロメが同行していたようです。でも、ヨハネはどういうわけか、マグダラのマリヤだけが、復活のイエスと出会ったように書いています。マルコ16章の後半には、このように書かれています。「女たちは、墓を出て、そこから逃げ去った。すっかり震え上がって、気も転倒していたからである。そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。さて、週の初めの日の朝早くによみがえったイエスは、まずマグダラのマリヤにご自分を現わされた。イエスは、以前に、この女から七つの悪霊を追い出されたのであった」。おそらく、他の女性たちは怖くて逃げ去ったのでしょうが、マリヤだけが墓のところに残っていたと思われます。マリヤはイエス様といつも一緒でした。男たちは十字架を前にして逃げたのですが、マグダラのマリヤは十字架の側から離れませんでした。イエス様が亡くなられて、墓に納めるときも側にいました。そして、日曜日の朝は、真っ先に他の数名の女性と墓にやって来たのです。これは、マリヤがイエス様をとても愛していたという証拠です。マグダラのマリヤは、かつて、7つの悪霊を追い出してもらった女性です。7つと言うのは聖書で完全と言う意味ですから、悪霊によって完全に支配されていたのかもしれません。また、マグダラというのはガリラヤの一都市でありましたが、彼女はその町の遊女ではなかったかという説もあります。

ルカ福音書に「多く赦された人は多く愛する」というみことばがあります。彼女は、イエス様から多く赦され、また、完全に解放されたので、イエス様にぞっこん惚れちゃったんじゃないかと思います。でも、男女の愛ではなく、救い主に対するアガペーの愛であります。今、日本では韓流ブームであり、ヨン様じゃありませんが、いわゆる「おっかけがおります」。しかし、マリヤの愛は、そういう、アイドルを求めるフアンの愛ではありません。罪と悪魔の奴隷から解放してくれたイエス様と出会ったので、離れられなくなった。イエス様が人生のすべて、「イエス命」になったのです。恐らく、生まれた時から家庭や才能に恵まれて、幸せに生きてきた人がイエス様に出会ったとしても、命を賭ける人は少ないでしょう。逆に、家庭にも健康にも恵まれず、ひどい生活をしていた人が、イエス様に出会うと、「もうジーザスしかいない」というふうになるのではないでしょうか。私が座間にいたとき、ある姉妹がいました。ご主人は米軍の人でしたが、結婚後、捨てられて、二人の子供を育てていました。彼女は本当に貧しい生活をしていました。あるとき、「何もささげられないので、公告の紙を折って作った、花瓶敷きを持ってきました」と届けに来られたことがありました。彼女は救われて一番の喜びは、毎朝、二人の息子と聖書を読んで、お祈りすることだと証していました。「ああ、この人は本当にイエス様を愛している人だなー」と思いました。もちろん育ちが良くて、大きな罪も犯さず、傷もなく、恵まれた中から救われる人もいます。ナイチンゲールとか、マザーテレサ、サンダースホームの沢田ミキさんも、いい所の生まれですけど、救われてからすばらしい働きをした人もいないわけではありません。でも、マグダラのマリヤのように、ひどい状況から救われた人は、イエス様に献身する可能性が高いのではないでしょうか。

すばらしいことに、イエス様を愛する人には、イエス様が現れてくださいます。マグダラのマリヤが一番先に、復活の主と出会ったのはそのためです。逆に言うと、イエス様にとって、復活した姿を一番、最初に現したかった人が、マリヤだったということです。かなり前のことですが、茨城県の鵜の岬という国民宿舎に旅行に行ったことがあります。そこは、とても人気があるところで、申し込んでも当たらないといわれているところです。どういう訳か、はがきを出したら、当たって、家族で行きました。そこに着くと、中継車が玄関前に止めてあり、撮影隊が何やら準備をしていました。聞くところによると、あと30分後に、ここから生中継するということです。確か、放映は、夕方の6時半ごろの特番だったと思います。「いやー、テレビに出られるぞ」と言うことで、私は教会員に知らせたくなりました。「だれに電話しようかな?」家内は、「みっともないからやめなさい」と止めました。だけど、だれかに知らせたいと思って、柏さんと中野さんに「私たち、テレビに映るからビデオとっておいて」電話しました。柏姉妹が実際に見たそうですが、「豆粒くらいしか映っていなかったよー」と言われました。そういえば、私たちは一番奥のスタンダードのテーブルでした。刺身の舟盛りとか乗っている前のテーブルが、写されていたようです。でも、そのとき、「テレビに出るから、見てよ」と、だれに電話するかです。やっぱり親しい人、愛している人じゃないでしょうか?イエス様もご自身の姿を現したのは、マリヤとか弟子たちに限られていたのはそのためです。ヨハネ14:21にすばらしいみことばがあります。「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現わします。」今でも、イエス様を愛する人に対して、イエス様が現れてくださるということです。うちの子供たちはイエス様を信じて洗礼を受けました。救われたんですから、一安心です。でも、欲を言うなら、イエス様を愛する人になってもらいたいなーと願って祈っています。私は、皆さんのように、毎週礼拝を守る人は、イエス様を愛している人だと思います。特に、朝早く、礼拝のはじまる時間前から来る人は特にそうかもしれません。アーメン。

2.信仰と復活

 マグダラのマリヤはイエス様を愛していましたが、信仰の方は今一歩でした。なぜなら、彼女が墓に来たのは、復活の主と出会うためではありませんでした。他の福音書を見てわかりますが、イエス様のお体に香料を塗るために、やって来たのです。つまり、生きているイエス様ではなく、イエスのからだ、Bodyを捜しに来たのです。Bodyは英語では死体という意味があります。墓の前にやってくると、なんとイエス様のからだはありませんでした。13節に御使いとのやりとりが書かれています。「彼らは彼女に言った。『なぜ泣いているのですか。』彼女は言った。「だれかが私の主を取って行きました。どこに置いたのか、私にはわからないのです。」マリヤはなぜ泣いていたのでしょう。それは、イエス様のご遺体をだれかが盗んで行ったと思ったからです。彼女の涙は、美しい涙かもしれませんが、信仰に欠けた涙です。つまり、マリヤにはイエス様に対する強い愛がありましたが、イエス様が復活するという信仰がなかったのです。だから、聖書は「信仰がなければ神に喜ばれない」と言うのです。15節では、直接、イエス様が「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか」と尋ねました。しかし、マリヤは、イエス様を墓の管理人だと思ったんですね。これを見ると、「えー、なんで?」と言いたくなります。なぜ、目の前の人がイエス様だと分からなかったのでしょうか?1つは死んだ人が復活するはずがないという不信仰のゆえです。2つ目は、イエス様の姿が生前よりも、栄光の姿に変わっていたからかもしれません。そういえば、エマオの途上の二人の弟子もイエス様と出会いました。ずーっと一緒に歩いていたにも関わらず、その方がイエス様だと分からなかった。聖書は「ふたりの目がさえぎられていて、イエスだとわからなかった」(ルカ24:16)と言っています。不信仰のために、目がさえぎられていたのです。

 私はこういう記事を見ますと、「肉眼でイエス様を見た弟子たちは確かにすばらしいけど、信仰とは関係ないんだなー」と思います。つまり、信仰とは肉眼でイエス様を見るのではなく、もっと別の作業なのであります。弟子たちは3年半もイエス様と同行し、そばで見て、聴いて、触ったことがあった。だけど、主が復活するとは信じられなかった。マルコ16:8「女たちは、墓を出て、そこから逃げ去った。すっかり震え上がって、気も転倒していたからである。そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」。マルコ16:11「ところが、彼らは、イエスが生きておられ、お姿をよく見た、と聞いても、それを信じようとはしなかった」と書いてあります。このヨハネ20章の後半には、トマスという弟子が信じようとしなかったことが記されています。これだけ、死んだ人が復活するということが信じられない出来事だということです。でも、復活したイエス様と出会っても分からないどういうことでしょうか。それは、ヨハネ20:9にあります。「彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかったのである。」アーメン。つまり、イエス様を信じるとは、肉眼でイエス様を見るということではなく、聖書から信じるということだからです。「聖書にイエス様がよみがえることが預言されている。だから、私は復活の主を信じます」。これが、本当の信仰であります。そういう意味では、当時の弟子たちも私たちも同じ立場であります。彼らも預言書や詩篇から、「ああ、主イエスは本当によみがえる必要があったんだ!」と悟ったんです。聖書を通して、イエス様を信じる。これが最も正統的な信仰です。奇跡とか神秘的な体験もすばらしいと思います。でも、もっと根本的で永続的な信仰とはどこから来るのでしょうか。それは、みことばを通して、主イエス・キリストと出会うということです。つまり、みことばとキリストを切り離すことはできないのです。ローマ10:17「そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです」。

 今は、映像の時代です。キリスト教のセミナーでも、パワーポイントとか動画を駆使してやっています。確かに、現代文明のものは目に訴え、役に立つ所があります。でも、パワーポイントだと情報量が多すぎて、私たちの中にある、信仰という機能が働かない場合があります。おそらく、信仰とは、肉眼で見る作業ではなく、もっと深いところにある機能です。逆に目を閉じて、みことばを瞑想すると、神様に対する信仰が湧いてくる、これが真理ではないかと思います。世の中の多くのものは、私たちの五感に「これでもか、これでもか」と訴えます。テレビやDVDの映像、MDとかMP3という音楽、そして鳴り響く携帯・・・人々はいつも騒がしくしています。しかし、信仰とは静かな環境で、みことばと祈りを通して、神様と交わることからやって来るものではないかと思います。エリヤは、天から火を下し、450人のバアルの祭司たちを滅ぼした力ある預言者でした。しかし、一人でがんばったので燃え尽き、バーンアウトしてしまいました。彼は神様の声を聞こうとします。Ⅰ列王記19章にはこのように書いてあります。「風の中に主はおられなかった。地震の中にも主はおられなかった。火の中にも主はおられなかった。その後に、かすかな細い声があった」と書かれています。つまり、エリヤが静まった時、主のかすかな細い声が聞こえたのです。現代は喧騒の時代、あまりにも騒がしい時代です。情報が多すぎて、私たちの頭がパンク状態です。私たちは世の喧騒から離れ、静まるときに、信仰という機能が活発に働くのです。主と交わる静かな時を持ちましょう。復活の主があなたに現れ、あなたに語りかけてくださいます

3.伝道と復活

 伝道という言葉はあまり好きではありませんが、他に用語がないので、使います。復活の主と出会ったマグダラのマリヤはその後、どうしたでしょうか?ヨハネ20:18「マグダラのマリヤは、行って、『私は主にお目にかかりました。』と言い、また、主が彼女にこれらのことを話されたと弟子たちに告げた。」アーメン。「伝道」と言うと、緊張してしまいますが、「私は主と出会いました」と伝えることは難しいことではありません。ヨハネ1章でもアンデレやピリポは「私たちはキリストに会った」と伝道しました。正確に言うと、これは伝道ではなく、「証し」であります。自分が体験したことを告げているだけですから・・・。そうなんです。「伝道」と言うと、「人に信じさせなければならない」というプレッシャーがかかって、唇が硬直します。いままでは、べらべらしゃべっていたのに、「伝道しなければ・・・」と思うと、「キ、キ、キ、キリ」と詰まってしまいます。ですから、伝道ではなく、「自分が体験したことをお伝えする」と考えれば良いのです。私たちは自分が発見したすばらしい事柄を、ぜひ分かち合いたいと思うでしょう。健康食品、化粧品、すぐれもののグッズ、家庭の裏技、おいしいレストラン、感動した映画・・・「これを、あの人に知らせたら、きっと喜ぶにちがいない。ぜひ、知らせたい」。これと同じように、救い主イエス様を伝えることなんです。信じさせようとか、クリスチャンにしようとすると大変です。それは、神様の分野です。私たちは自分が体験したことを分かち合えば良いだけなんです。

 でも、そこには「キリストと出会った」という、感激的なものがなければなりません。人が本当にキリストと出会ったなら、「やめろ!」と言われても、伝えたくなるのです。6月9-11日、インドネシアのエディ・レオが来られます。金・土・日ですから、金曜日、有給休暇を取って、セミナーに参加してください。そのエディ師がin & out ということを言われました。In とは内側であり、兄弟姉妹に対する愛です。Outとは未信者への伝道の力です。教会(セル)は、内側に対する愛の交わりと、外に向けての伝道が必要であります。しかし、エディ師が言うのは、兄弟姉妹が愛し合ったら、外に向けて伝道できるかというとそうではないということです。もう1つ、up、上がある。それは神様との出会いです。神様との出会いがあると、兄弟姉妹への愛が与えられ、さらには、未信者に対する愛が与えられる。つまり、上なる神様との出会いこそが、外に向けての伝道の力になるということです。なぜ、初代教会の弟子たちは地の果てにまで、伝道したのか。それは復活の主と出会い、上から聖霊の力をいただいたからであります。すべての解決の鍵はup、上にあるのではないでしょうか。横、つまり人間ではありません。上との関係こそが、力の源であると信じます。特に、伝道はそうであります。

最後に、死から生還された、須佐婦人牧師のお証をしたいと思います。長野の安曇野に教会があります。今年の1月に「教会売ります」という公告を教会の新聞に出しました。その教会は婦人が牧師でご主人は一般のサラリーマンです。その教会もセル教会で、一度お会いしたときに、「安曇野だったら、いやー、一度おじゃましたいですね」などと、話したことがあります。しかし、彼女は昨年の9月頃、くも膜下出血で倒れ、「緊急の祈り」として、メールに流れてきました。私は「いやー、この間まで元気だったのにー」と心配して祈りました。ところが、今年1月の「教会売ります」です。「いやー、もう、教会を続けることができないんだーと」淋しい思いをしました。ところが、先週の新聞に「天国を見て、使命を再発見」という大きな見出しを見ました。すると、婦人牧師の元気そうな顔も載っていました。記事を見ますと、教会建設のとき、ストレスがたまって、倒れたということです。搬送先の脳神経外科医はご主人に「手術の成功は50%。回復しても記憶喪失、半身不随、言語障害、味覚障害、視覚障害など後遺症が残ります」と告げました。ところが、ICUで目が覚めるまで、婦人牧師は主イエス様から天国に連れて行ってもらったということです。「天国は、神様の臨在の光に満ちていた。その光は金色に輝きながらも目には優しく、見上げると空にかかる虹の中には、救われた人々の魂を象徴する無数の宝石たちが光に照らされてキラキラと輝いていた。宝石たちは水のようなオリーブオイルのような聖霊の流れに乗って、私の身の周りを回り、続いていのちの木の周りを回って、再び虹の方に流れていった。もう、素晴らしくて、私は両手を挙げて、「うわぁ、凄い、凄い!天国の真ん中だぁ!」って純真無垢な子供になって喜んでいた。その時、神の声が聞こえた。「あなたには、使命と御霊の賜物が与えられている。私はあなたを地上に遣わす。行きなさい」。その瞬間、目が開いた。入院後10日以上経った集中治療室のベッドの上だった。婦人牧師の体は多くの関係者の祈りに支えられて、奇跡的に回復。そして退院までの期間、他の重症患者たちを次々と伝道し救いに導いた。婦人牧師が「突然の死に遭遇し、天国を見、生かされた」と題した小冊子にまとめ方々に配ると、大きな反響となり、各教会から「ぜひ、証に来てください」と招待された。婦人牧師が天国の素晴らしさ、そこにいる本物の神を伝え、「イエス様を信じないと天国にはいけないのよ!」と語ると、未信者たちは心を開き、次々と救いを受けていった。その婦人牧師のお体はますます回復し、今は伝道の賜物を活かして人々を救いに導きたいと願っておられます。この方は、まさしく肉体が復活し、さらに主を伝える伝道者として復活したわけです。私たち全員が牧師とか伝道者として召されているわけではありません。でも、死からよみがえられ、今も生きておられるイエス・キリストを証することができます。私たちを罪と死と暗闇から解放してくださったイエス様と出会うとき、人々に伝えずにはいられなくなるのです。私たちも、弟子たちのように古い生活である墓を離れ、復活の主を証する者となりたいと思います。

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2006年4月 9日 (日)

信仰と忍耐       ヘブル6:9-15

 さきほどお読みしましたヘブル6:9-15節を見ますと、希望あるいは望みという言葉が3回でてきます。それから、確信もしくは信仰という言葉が合わせて3回、そして忍耐が2回です。希望と信仰と忍耐は御国に入るための大切な要素ではないかと思います。

1.希望

 ヘブル書における希望とは、神の安息に入る希望であります。エジプトから脱出したイスラエルの民にとってカナンの地こそが安息の地でありました。ところが、不信仰のゆえにヨルダン川の手前で諦め、荒野を40年間もさまようことになります。では、私たちにとっての希望とは何でしょうか。エルピスという希望の意味を調べてみました。「特に、超自然的事物や来世の救いに対する望み」と書いてありました。ですから、希望を端的に言いますと、来世に対する望みであります。考えてみれば、どの宗教にも来世観があります。神道では常世の国です。仏教では極楽浄土とか、「あの世」と言います。エジプト、チベット、ポリネシアでも死後の世界というものを信じています。人間の本能の中に、来世観というものが組み込まれているのかもしれません。聖書における来世は、御国とか天国、神の国と呼ばれています。ある人が、極楽と天国は2階でつながっていると言いましたが、そんなことはありません。天国は単に死後に行くところではなく、神様が与える報いであり、完成であります。天国があるから、この世の不平等が解決されるのであります。この世では金持ちもいれば貧しい人もいます。生まれたときから目が見えなかったり、足の不自由な人がいます。10歳で死ぬ人もいれば、100歳まで生きる人もいます。この地上は不平等で不条理に満ちています。でも、御国はどうでしょうか?イザヤ35:1、4-5「荒野と砂漠は楽しみ、荒地は喜び、サフランのように花を咲かせる・・・心騒ぐ者たちに言え。『強くあれ、恐れるな。見よ、あなたがたの神を。復讐が、神の報いが来る。神は来て、あなたがたを救われる。』そのとき、盲人の目は開かれ、耳しいた者の耳はあけられる。そのとき、足なえは鹿のようにとびはね、おしの舌は喜び歌う。荒野に水がわき出し、荒地に川が流れるからだ」

 もちろん、イエス様を信じたら多くのものがこの地上でも回復されます。でも、私たちの最終的な癒しと回復は御国であります。この世で不自由な人こそ、向こうに行ったら、はち切れんばかりの喜びがあるのです。ですから、御国に入ることこそが私たちの究極的な希望なのであります。逆に言えば、御国がない人、御国に入りそこなった人ほど、不幸な人はいないということです。私たちクリスチャンは、天国に行くのを楽しみにしています。年を取れば取るほど、待ち焦がれるようになります。来世の希望のない人は、老後の問題で押しつぶされてしまいます。みなさん、旅行に行くときはどんな気持ちでしょうか。行ってからももちろん楽しいですが、パンフレットとか、ガイドブックを見ながら準備するのも楽しいですね。「あそこへも行きたいなー」「あれも見たいなー」とか、言いながら、出発の日を待ちます。死ぬことはもちろん怖いですが、あちらに行く希望の方が大きいのであります。先日、TPWのゴスペルワークショップがありました。彼らの賛美は、天国に関したものが多いということに驚きました。「ヨルダン川を越えるとそこは天国だ。俺たちは黄金の道を歩くんだ。そこに行ったら死も苦しみもない。毎日が日曜日。毎日、賛美して暮らすんだ。あんたも行こうぜ、天国へ」。そのような歌詞が多いんです。なぜなら、当時の黒人は奴隷であり、天国に行ったら自由になれると信じていたからです。極端な話、「地上では苦しいのはしょうがないけど、御国に行ったら報われる。御国こそすべてだ」と考えていたわけです。私たちはそのことを逃避だとか、愚かだと思うでしょうか。もちろん、地上においても天国の豊かさを味わえるし、天国の先取りも大切であります。でも、自分たちの行くところ、ゴールがはっきりしている人は、どんな境遇の中でも、喜ぶことができるのです。かなり前、ハリソンフォード主演の映画、インディ・ジョーンズのシリーズがありました。長男がそれにはまって、考古学者になる夢を持ったこともありました。私も脇で随分とビデオを見ました。トロッコで下るシーン、縄梯子を上るシーン・・・とにかく、スリル満点です。でも、どんなことがあってもこの主人公は助かるんです。映画の結末も知っていますから、途中、どんなことがあっても安心して見られます。私たちの人生も途中、いろんなことがあったとしても、最終的には、御国に行けるんです。こういう来世の希望がとても重要です。ヘブル6:19「この望みは、私たちのたましいのために、安全で確かな錨の役を果たし、またこの望みは幕の内側にはいるのです」。船の錨(アンカー)はどんな役目をするでしょうか。錨があれば、船は流されないでしょう。私たちの錨とは何でしょうか。御国に入る望みであります。聖歌472は、神の安息を歌った賛美です。「人生の海の嵐に、もまれきしこの身も、不思議なる神の手により、命拾いしぬ。いと静けき、港につき我は今、安ろう。救い主イェスの手にある身はいとも安し」。

2.信仰

 「信じる」はギリシャ語でピステゥオーですが、何か事物を信じることであります。聖書では、「福音を信じる」あるいは「神、キリストを信じる」というふうに用いられます。しかし、日本語の「信仰」は、どちらかと言うと、対象はどうでも良くて、信心そのものがすばらしいという意味合いがあります。「いわしの頭も信心」と言われるように、どんなものでも信じていたら何かご利益があると考えます。だから、ある人によっては仏様、またある人にとっては観音様、ある人にとってはキリストさんでも良いということになります。「うちは仏教だから」と言う人がいますが、仏教でもいろんな宗派があり、その由来を知っている人は稀です。身内に死んだ人が出たときだけ考え、普段の生活では関係ありません。そういう人たちにとっては、対象はどうでも良いのです。信じる心が大切なのであります。しかしみなさん、何でも信じて良いでしょうか?風を引いたら風邪薬を飲みます。薬箱をあけて、何でも良いから飲もうなんていう人はいません。結婚するのでも、誰でも良いという訳にはいかないでしょう。「男だったら誰でも良い」「女だったら誰でも良い」という人はいないでしょう。やはり、自分の人生を任せられる人を選ぶでしょう。神様も同じではないでしょうか。自分の人生を任せられる。信じるに価する方を信じるべきでしょう。イエス・キリストは私たちのために命を投げ出してくれました。十字架につき、三日目によみがえり、父なる神様への道になってくれました。今週は受難週であり、来週は復活祭です。使徒パウロはⅠコリント15章で信じる内容について語っています。「この福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと。」つまり、私たちは架空の出来事を信じているのではなく、事実に基づく信仰であります。この世の多くの人たちは、教祖が勝手に作ったものを信じています。信じるためには、ちゃんとした根拠がなくてはいけません。しかし、事実(インザファクト)、キリストはよみがえり、死を打ち破ってくださったのです。福音の事実を信じていく、これが信仰です。

 でも、信仰は私たちが信じるというよりも、信じさせていただくという面もあります。私たちが数ある神様から、キリストを選んだのではありません。ヨハネ15:16「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです」とあります。つまり、キリスト様が私たちを選んで下さったので、私たちが信じられたということなのです。もしこのことが分かるならば、信仰生活が楽になります。つまり、自分が握っているという信仰であるなら、何かの拍子に手放してしまうかもしれません。でも、キリストによって自分が握られているならば、信仰生活を力まなくてもやって行けます。ペテロが誘惑にまけてイエス様を3度も知らないと言いました。しかし、イエス様は「あなたの信仰がなくならないように祈った」と言われました。ある時、ペテロが嵐の海を二三歩渡ることができました。しかし、波を見て怖くなり、沈みました。その直後、イエス様がペテロの腕をつかまえて引き揚げてくださいました。その絵があるそうですが、イエス様がペテロの手の平ではなく、腕を捕まえている。ペテロもイエス様の腕をつかんでいます。つまり、ペテロが離しても、イエス様が離さないということなんです。これが信仰です。自分の信仰だけだと不安がありますが、イエス様の信仰には間違いはありません。やがて私たちも年老いて、自分がだれかも分からなくなるかもしれません。アメリカの日系人牧師がある本に書いてありました。信仰生活、何十年も経つおばあちゃんが、今、召されようとしたとき、「南無阿弥陀仏」と唱えたそうです。福沢満雄先生は子供のときから日蓮宗を学び、お経を全部そらんじているそうです。先生は、もし、「私が訳がわからなくなって、お経を唱えたら、面会謝絶にしてくれ」と身内に頼んでいるそうです。私だってボケたら、若い頃覚えた、「1つでたほいのよさほいのほい」を歌うかもしれません。でも、信仰は霊の領域ですから、ボケとは関係ありません。たとえ、自分がだれか分からない。あるいはキリストが誰かも分からなくなるかもしれません。でも、大丈夫です。神様は私たちの名前をたなごころ、手の平に書き記しておられます。「神様は私を離さない」、これが本当の信仰です。

3.忍耐
 
 私たちは天国に行くまで、信仰を持ち続ける必要があります。忍耐とは信じ続けること、あるいは待ち望むことであります。ですから、希望と信仰と忍耐は三位一体なのであります。忍耐のギリシヤ語は、「根気よく待つ」あるいは「辛抱」という意味です。英語ではlongsuffering、「長く苦しむ」という意味であります。長く苦しむというのは、リュウマチとか痛風などの病気を連想させます。お相撲さんの稽古場に行くと、「辛抱」という額があるんじゃないかと思います。相撲の解説でも、「よく、辛抱したなー」と言います。まわりを見ても、あまり辛抱できない人と辛抱できる人がいます。スケートの荒川静香さんも、よく辛抱しました。8年前の長野では、プレッシャーに耐えかねて転倒、10何位。もうやめようと思った。実際、大学生のときは第一線から離れて、アルバイトをしていたようです。お母さんに信仰があった。信仰と言って良いのかわからないけど。彼女は、2年前の世界選手権で優勝。だれかが「もうやめて良いよ」と言ったら、やめていた。でも、だれも、「やめて良い」と言わなかった。オリンピックの前の年、採点方法とかが自分に合わなくて、またダメだった。しかし、静香は諦めなかった。採点法に詳しい、コーチに替え、またやり直しました。それで、この間のトリノです。日本人だれもメダルを取った人がいなかった。荒川静香さんの金メダル1ケです。まさしく、価千金であります。あれで、私もフィギア・スケートを習いたいという人が多く出たそうです。本当に、日本中の人に希望を与えました。

 なぜ、信仰だけではなく、忍耐が必要なのでしょうか?もし、イエス様を信じて、即天国に行くのであれば忍耐は必要ありません。イエス様を信じた後も、この地上でしばらく信仰を持ち続けなければならないからです。この世は神と敵対しています。ですから、この世で信仰を持って生きようすると、数々の試練や迫害、誘惑が襲ってきます。「私には全然、戦いはありません」と言う人は、この世と妥協しているクリスチャンかもしれません。しかし、キリストの名を掲げ、敬虔に生きようとするなら、どうしても迫害が起こります。中国は毛沢東の文化大革命以来、キリストの迫害が続いています。宣教師という宣教師は国外に追放され、すべての教会の門が閉じられました。純粋に信仰を守ろうとする人は地下に潜るしかありませんでした。潜るったって、地面の中にではなく、「秘密に」ということです。ある実の姉妹二人が当局に捕らえられました。その当時の拷問はものすごく過激でした。右と左の足それぞれにロープを結わえ、1本のロープを1頭の牛につなぎ、もう1本を別の牛につなぎます。当局は、「信仰を捨てたら許してやる。どうだ、キリストを捨てるか」と聴きます。もし、「ノー」と言えば、両方の牛を鞭打って、別方向に走らせます。これは大変なことになります。妹の方が「お姉ちゃん怖いよー」と言いました。お姉さんが輝いた顔で、「お前には見えないか。ほら、天が開けて、イエス様が待っておられるよ」。二人はキリストを否まなかったので処刑されました。信仰は1度だけ信じるだけではなく、たとえどんなことがっても、信じ続ける必要があります。なぜなら、この世は信仰と敵対するからであります。

ジョン・バニヤンという人が『天路歴程』という本を書きました。クリスチャンは都を目指していました。ところが、その途中に、「空の市」、バニティ・フェアーがあります。「空の市」には、あらゆるものが売られています。金銀・宝石だけではなく、人の命まで売られています。でも、その本は言っています。都は「空の市」を通って行かなければならないと。私たちはこの世を通っていかないと、天の都には入れないのです。残念ですが、この世の誘惑、試練、苦しみを逃れることはできません。だから、信仰の他に忍耐が必要なのです。でも、試練や苦しみには良い点もあります。ロマ5章「患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出す」と書いてあります。そうです、試練や苦しみは私たちのキリストの似姿に整える、ノミになるのです。ある人が牧師のところに行って、「私が忍耐強くなるように祈ってください」と頼んだそうです。牧師は、「どうか、この兄弟に多くの試練を与えたまえ!」と祈ってくれたそうです。私たちの品性の中に、「忍耐」が生まれたら、多くのものがうまくいきます。結婚も忍耐が必要です。子育も教育も忍耐が必要です。仕事も奉仕も忍耐が必要です。でも、その先には練られた品性、キリストの義の実が待っています。忍耐を通して、多くの収穫を得ることができるのです。途中で諦めてしまう人は、収穫を得ることができません。忍耐の後に、多くの収穫が待っているのです。詩篇126「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、束をかかえ、喜び叫びながら帰って来る」

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2006年4月 2日 (日)

初歩の教えにとどまるな ヘブル5:11-6:8

 昔、クリスチャンになる前は、桜を見て、「すぐ散るんだから可愛そうだなー」と悲しい気持ちになりました。しかし、今は「ああ、今年も咲いたんだなー、偉いなー」と喜ぶようになりました。自然界も神様から与えられた命を喜び、神様の栄光を現しています。残念ながら、人間は神様から離れているため、与えられた命を喜べないで、逆に恨んでいます。そして、自らの命を絶つ人さえいます。そうなるのは、人間自体が壊れている証拠です。しかし、神様につながったなら、正常になります。神様が今年も、私たちに春を与えてくださったことを感謝します。

1.初歩の教えにとどまるな

6:1「ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか」初歩の教えとは、いわゆる信仰の「いろは」であります。ここには、死んだ行ないからの回心、神に対する信仰、きよめの洗い、手を置く儀式、死者の復活、とこしえのさばきなどがあげられています。残念ながらこの中の、きよめの洗いの教えとか、手を置く儀式はよくわかりません。「ヘブル人への手紙」と言われているくらいですから、祭儀や律法が背景にあるのかもしれません。初代教会では、祭司たちも大勢救われたので、新約的に切り替える必要があったのでしょう。私たちも洗礼準備会とか入門クラスを行います。こういう礼拝説教も、未信者の人でもわかるように、噛み砕いて話しているつもりです。「鈴木牧師は難しい話ができないのか」と言われたら、ま、私もやればできるかもしれません。しかし、自分でも良く分からない難しいことを話したら、会堂いっぱい、クエスチョンマークが浮かんで、しまいにみんな寝込んでしまうでしょう。話す私も寝込むかもしれません。でも、ヘブル人への手紙は、「初歩の教えをあとにして、成熟を目指して進もうではありませんか」とチェレンジを与えております。食べ物にたとえますと、「ミルクばっかり飲んでいないで、堅い食物を食べなさい」と言うのであります。

では、具体的に初歩の教えとはどういうことでしょうか?最初、神様を信じるとき、強調されることは何でしょうか?それは、無条件の愛であります。「ありのままで良いよー。あなたの存在そのものがすばらしいよー」と言うことです。赤ちゃんが生まれたときも、そうであります。目が細いとか、口が大きいとか関係ありません。存在そのものがすばらしいんです。親は、赤ちゃんにミルクを与え、おしめを取替え、1から10までお世話をします。そのとき、赤ちゃんは「泣けば」なんでも与えられると思うでしょう。ところがどうでしょうか?3才、4才になりますと、「おしっこはトイレでやって」「危ないからそっちへ行っちゃだめ」「おもちゃを片付けなさい」とか、色々訓練を受けます。同じように、教会でも、神のみことばから「やってはいけないこと」「守るべき戒め」「従うべきこと」「あなたがやるべき使命」などを与えるようになります。いつまでも、「ありのままで良いよー」ということではないんです。我がままであったり、自分の責任を果たしていなかったりする場合は、同じように訓練が必要ではないでしょうか?ところが、霊的に生まれたても、体つきはもう立派な大人です。この世の知識やプライドもあるでしょう。心の傷やトラウマもありますので、簡単にはいきません。何かを指示したり、忠告するものなら「それは律法です。愛じゃありません。私をさばくのですか?」。そんな風に言い返されます。解放のキャンプに行った人は、何でも共依存にしてしまいます。自分に何かを命令する人、何かを指示する人は、共依存ヘルトをかける悪役であります。そういう人は、いつまでも、ありのままの自分で生きていたいのかもしれません。もちろん、クリスチャンは、ありのままで良いし、無条件で愛されています。それは基本的なものであり、信仰の大切な土台であります。私たちは何をしても赦される十字架の贖いの上に生きています。救いは行ないではなく、恵みであります。でも、これは初歩の教えであり、赤ちゃんのためのものです。もし、何歳になっても、赤ちゃんのままであったら、親は悲しい思いをするでしょう。人間の赤ちゃんと同じように、クリスチャンも、成熟を目指して進む必要があります。

では、上級の教え、アドバンストコースとは何でしょうか。英会話でもスキーでも、ゲームでも上級コースというのがあります。いつまでも、簡単なものばかりやってもつまらないです。もっと、歯が立つというか、全力でやるべき対象が欲しくなります。そのためには、訓練を受け、スキルというか、技術を体得していく必要があります。では、キリスト教会の上級コースとは何でしょうか。それは一言で言うなら、キリストの弟子になるということです。弟子はギリシャ語ではマセテーセであり、「学ぶ」とか「倣う」という動詞から来たものです。弟子はキリストに学び、キリストに倣う者であります。また、英語の弟子はデサイプルですが、これは「訓練する」とか「しつけをする」いう言葉から来たものです。つまり、訓練を受けた者こそが、弟子なのであります。訓練を受けたくない人は、成長しない赤ん坊と同じであります。みなさんは、赤ん坊のままが良いでしょうか?それとも、整えられてたキリストの兵士になりたいでしょうか?私はときどき、消防署の前を通るときがあります。彼らは毎日走っています。ときどき、やぐらの上に上り、消火訓練をしています。テレビでも見ましたが、上官から「もうやめろ!」とか「家に帰れ!」などと、どやされています。教会で、奉仕をしている人に同じこと言ったらどうなるでしょうか?教会へ二度と来なくなるでしょう。私は洗礼を受けて半年後、「私もキリストの弟子になりたいです。献身します」と大川牧師に表明しました。なんと、その次の日から、私に対する態度が急に冷たくなりました。「もう、兄弟には気を使わないから」と言われました。悲しい気持ちもありましたが、「弟子とはこういうものなんだ!」と、きりっとした気持ちになりました。

 韓国のクリスチャンがなぜ、弟子訓練がうまくいくか。それは、儒教の教えがあり、親や目上の人を尊敬することが体に染み込んでいるからです。牧師も「ボクサンニー(牧師先生様)」と尊敬されるのであります。アーメン。でも、実力がないと、留守中に、副牧師がその座を奪ってしまいます。もう1つは、兵役の義務があるからです。2年間、うむを言わさず、軍隊に入らされます。そこでは、上官の命令は絶対です。軍隊は、自分の要求とか感情は後回し、任務遂行が第一であります。彼らは、使命のために生きるとはどういうことかを学ぶわけです。そこを出た人が、クリスチャンになりますと、「ああ、キリストの弟子とはこういうもなんだ。キリストの兵士として、司令官を喜ばせるため働きます」となるわけです。日本は敗戦後、すべての権威を否定し、個人の権利だけを主張するようになりました。だから、教育も教会もやりにくいわけです。もちろん、権威主義とか全体主義は反対です。でも、神の国には、神の国の法があり、義務があり、使命があります。ぼーっとしていたら、悪魔にやられてしまいます。それだけではありません。罪を持っていたままでは、教会を破壊する道具として悪魔から用いられてしまいます。神の栄光を現すどころか、キリストの名を辱めることになるわけです。どちらが良いでしょうか?救われたまま、生まれたままの赤ん坊で良いでしょうか。「あれしてくれ、これしてくれ」「これがない、あれがない」と要求することばかりしていて良いでしょうか。上級クラスは、そういう受け身ではなく、与える人になることです。老人ホームに入った人は、何でもかんでもやってもらいます。そうすると、ボケるのが早いそうです。でも、自分で買い物をし、お洗濯をし、あれやこれやとやることがある人はボケない。姑がにくたらしい場合は、何でもかんでもやってあげてください。すぐボケますから。それはともかく、多少、厳しい方が良いということです。

 初歩の教えにとどまらないで、上級(弟子)コースを目指すために、どうすべきか、4つあげてみました。①喜んで訓練を受ける。成熟を目指す人は、注意や忠告を受けてもムカッと来ません。「私のことを本当に愛しているからなんですね。感謝します!」と受け止める人です。②罪を悔い改め、罪を捨てる人です。いつまでも癒しを受けたいと、被害者意識にとどまっていてはいけません。あなたにも罪があるのです。罪を悔い改め、神のきよさに預かる人です。私たちの一番の強敵は、他の人や悪魔ではなく、古い自分です。自己中心の古い人をいつも十字架につけ、キリストの品性を身に付ける人です。③受けるより与える人です。赤ん坊は何でも受けようとします。気に入らないとすぐ泣きます。泣けば良いというものではありません。大人になるとは、自分のことよりも、他の人の必要を考えることです。もらう喜びから、与える喜びに変わりたいです。④試練に耐える、忍耐深い人です。子どもは「今すぐ」であり明日まで待つことができません。とても気まぐれで、うまくいかないとすぐ諦めます。しかし、成熟を目指す人は、神の約束を握りしめ、「3歩前進、2歩後退」しても、めげません。みなさんは、ずーとミルクとか離乳食を食べていたいですか?それとも、肉とか形のあるものでしょうか?子どものときは苦いものとか、辛いものは食べません。しかし、大人になるとピーマンとか、わざびの効いた寿司を食べるようになります。おお、みことばには堅いもの、苦いもの、辛いものがあります。それは、弟子クリスチャンの食べ物です。どうぞ、堅いみことばをお皿の脇に寄せないで、まっこう勝負をさせていただきましょう。実行するのが困難なみことばにこそ、本当の栄養があります。どうぞ、せっかく信仰をもったのですから、強いクリスチャン、強い教会を目指そうではありませんか。

2.初歩のすばらしい体験

 ヘブル6:6,8「しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです。・・・しかし、いばらやあざみなどを生えさせるなら、無用なものであって、やがてのろいを受け、ついには焼かれてしまいます」。ここで起こる問題は、一度、信じた者が堕落する可能性があるかどうかということです。聖書は、はっきり可能性があると告げています。しかし、かっこ付きであります。福音的に理解するならば、一度、イエス様を信じた者はその後、どんな生活をしようと天国には行けます。なぜなら、永遠の命は信じたとき、賜物として与えられたからです。でも、その人は地上で堕落する可能性があります。8節で「やがて呪いを受け、ついには焼かれる」と書いてあります。おそらく、これは永遠の滅びではなく、その人がなして来た行ないのわざが火でやかれ報われないということでしょう。なぜなら、Ⅰコリント3:15「もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります」と書いてあるからです。その人は、すべてを失いますが、焼けどしながらも天国に入ることはできるということです。李光雨先生がこのようなことをおっしゃっていました。「怨念をエネルギーにして生きている人がいます。彼らはたとえ十字架と出会っても、怨念を手放そうとしません。そういう人は私たちの範囲を越えています。怨念を抱えたままでも、天国になだれ込むことはできますから、それはそれで良いでしょう。」イエス様を本当に信じたら、永遠の命はもらえます。でも、この世で堕落する可能性はあるということです。ある先生がおっしゃいました。この世でもっとも麗しい人はだれですか?それはクリスチャンです。では、この世でもっとも醜い人はだれですか?それはクリスチャンです。堕落したクリスチャンは、未信者よりもタチが悪い。未信者は神を恐れます。しかし、堕落したクリスチャンは神を知っていて、恐れないからです。キリスト教国にはそういう人たちがいっぱいいます。イエス・キリストを呪いのことばに使ったりしています

 しかし、ヘブル書が言わんとしていることは、「クリスチャンが堕落するか、しないか」ということではありません。「このようなすばらしいことを味わったなら、堕落する可能性はなよ。いや、堕落する方がおかしい」と言っているのです。では、初代教会の人たちはどのような経験をしたのでしょうか。4節と5節にあります。第一は天の賜物を知る。第二は聖霊にあずかる者となる。第三は神のすばらしいみことばを味わう。第四は後にやがて来る世の力を味わう。すばらしいですね。使徒パウロは第三の天に上った経験があります。初代教会の人たちは聖霊に満たされ、異言や預言を語っています。彼らは力で満たされ、悪霊を追い出したり、さまざまな奇跡を行ないました。新しいぶどう酒である、聖霊に酔って喜び賛美していました。彼らはイエス様を頭で信じただけではなくて、そういうすばらしいことを味わったのです。「そういうことを味わった人が堕落する可能性があるだろうか?」とヘブルの記者は言うのです。すると、現代の教会がいかに、そういうことを味わっていないかということです。日本のキリスト教会の大半は、頭で信仰を理解します。日本基督教団は哲学に近い。福音派は「神のすばらしいみことばを味わう」「聖霊にあずかる」というところまでは行くかもしれません。しかし、「天の賜物を知る」とか、「やがて来る世の力を味わう」ところまで行く人が少ないように思います。なぜなら、神秘主義だとかカリスマだとか言って、求めないからです。その点、ペンテコステ教会は違います。悪霊を追い出し、さまざまな奇跡を行ない。聖霊に酔って喜び踊ります。立川だったか、あるペンテコステ教会では、毎日曜日、礼拝が終わると牧師先生が一人ひとりに按手する。そして、みんな帰って行くそうです。ちょっと、共依存的なところがあるかもしれませんが、それだけ聖霊の体験を重んじているということです。キリスト教は西洋まわりで伝わってきたので、本来あった、そういう脂っこいものがなくなって、さっぱりしてしまった。何でも頭で理解する文化に影響されてしまったのかもしれません。でも、アジアとか南米、アフリカは、体験的に学習するとことがあります。どちらかと言いますと、聖書の世界はアジアであり、体験的であります。みことばを体験し、聖霊を体験し、天国を体験し、神の力を体験する。だから、神様から離れるということが稀になるということではないでしょうか?

 私たちは信仰を頭で理解するだけではなく、もっと体験する必要があります。そのためには、こういう一方的な教えではなく、交互に、個人的に、熱く交わる必要があります。イエス様もおそらく、そうではなかったかと思います。なぜなら、寝食を共にし、一緒に出かけ、そこで見て、聴いて、実際に行なったりしました。先週、TPWのワークショップがありました。こんどの5月の連休は名古屋に来るそうです。しかし、東京のドニー・マクラーキンと重なってしまいました。アンドレは、「ドニーの方に行っても、あなたたちを愛しているよ。でも、ドニーは亀有に来てくれるかい?」とおっしゃっていました。TPWは日本に既に10回以上も来ています。今回も、名古屋、大阪、群馬、東京とぐるぐる回っています。「来てくれ」と呼んでもいないのに、TPWは「この日、行くから」とやって来るんです。半分、押しかけであります。でも、小さなワークショップも喜んで奉仕してくれます。もう、体臭までわかるくらい、親しくしてくれます。そういう意味で、アラバマはカルフォルニアよりも濃いですね。そう、キリスト教は、本来、濃いんです。私も韓国に3回くらい行きましたが、韓国の牧師の聖会に数え切れないくらい行きました。そのたびに私は、前に出て、先生方から按手を受けました。韓国では按手は当たり前で、それがない聖会は淋しいようです。日本人も先生も按手をしますが、韓国の先生方はグー、グーと力を入れ、本当に祝福しますという感じがします。ベニーヒンも祈りますが、100メートルも離れたところから、「タッチ」なんて、ちょっと冷たい感じがします。松戸の津村先生は「どうせ愛してくれるんだったら、腹いっぱい愛して欲しい。ちょっとだけ愛するくらいなら、愛してもらわない方がましだ」と言われました。だから、津村先生も個人個人、じっくり祈って下さいます。おそらく、初代教会も愛が濃かった。聖霊の賜物を与えようと、ペテロやパウロは手を置いています。クリスチャンたちも、天の賜物を知り、神のすばらしいみことばを味わい、聖霊に酔って喜び賛美しました。だから、「そういうことを味わった人が堕落する可能性があるだろうか?いや、あるはずがない」とヘブルの記者は言うのです。

 それとくらべて日本の教会は本当によそよそしいです。特に関東の教会は冷たいと言われます。主にあってもっと濃く熱くなりましょう。セルでも天の賜物を知り、神のすばらしいみことばを味わい、聖霊に酔って喜び賛美したいですね。そのためには覚悟が必要です。傷つくことを恐れないということです。近寄れば、必ず「えー?こんな人だったの?」ドッキリすることはあります。本音で言い合うと、結構、傷つくものです。でも、そこを越えると本当に親しさが湧き上がってきます。多くの人たちは、最初の段階で、身を引いてしまいます。もう1つは、聖霊様に期待しましょう。人間の魅力とか人間の器量には限界があります。そういうものを求めえていると必ず失望します。そうではなく、お互いの間にいらっしゃる、聖霊様に期待するのです。そうすると、聖霊がダイナミックに働いてくださいます。初代教会のような体験をお互いに求めましょう。そうするならば、簡単に落ちることはありません。もう、この世の喜びでは満たされなくなります。天国のぶどう酒に酔うなら、この世の酒はまずくなります。さらに、自分が人々の救いと癒しのために用いられたらもっとすばらしいですね。神様に用いられる喜び、自分を通して聖霊様が働く喜び。これを体験しましょう。みなさん、イエス様を1度でも、信じたなら必ず天国に行けます。でも、同じ天国に行くなら、恵まれて行きましょう。イエス様を信じているなら、恨みや憎しみを持っても天国に行けます。しかし、どうせ天国に行くなら、そんなものは手放して、おめでたいクリスチャンになりましょう。

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