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2006年4月30日 (日)

契約の仲介者     ヘブル8:1-7

 聖書は英語で、Holy Bibleと言いますが、他の呼び方もあります。旧約聖書はOld Testamentと呼びます。これは古い契約という意味です。そして、新約聖書はNew Testament、新しい契約という意味です。契約という意味を理解すると、私たちの救いとか信仰ということがよく分かります。残念ながら、日本には「契約」という概念が乏しいようです。なぜなら、単一民族で、毎日顔を合わせているので改めて約束を交わすというのは水臭いように思われるからです。酒場においてもツケが効いたりするのはそういうことからも来ています。でも、聖書の神様との関係は、顔見知りとか会ったことがあるくらいでは成り立ちません。聖書の神様は、契約を交わさないと、私たちを救ったり、守ったりできない方なのです。ですから、契約関係ということを知ることは信仰生活にとても重要です。

1.契約の仲介者

 神様はエデンにおいて、アダムと契約を交わしました。でも、アダムは食べてはいけない木から取って食べてしまいました。その行為は、「私も神のようになりたい」と言う反逆罪でした。それから神様は、アブラハムを選び、その子孫であるイスラエルと契約を結びました。神様はイスラエルを祭司として立てて、すべての国民を祝福しようとお考えになられたのです。ところが、モーセが神様から十戒をもらうために40日間、山に登っていた間に、イスラエルの民は罪を犯したのです。エジプトにならって、金の子牛を作って、拝んでいました。モーセはそれを見て、怒って、十戒が記された石の板を、砕いてしまいました。その後、レビ人が祭司として立てられました。しかし、レビ人はイスラエルの12部族だけの祭司であり、すべての国民のための祭司ではありません。確かに、大祭司も立てられましたが、それは神様とイスラエルとの仲介者でしかなかったのです。モーセは神様から示されたように幕屋を建てました。そして、レビ族や大祭司は律法に従って、ささげ物やいけにえをもって神様の前に出ました。でも、それは地上のイスラエルという部族のためだけであったのです。

 では、ヘブル8:5,6に何と書いてあるでしょうか。「その人たちは、天にあるものの写しと影とに仕えているのであって、それらはモーセが幕屋を建てようとしたとき、神から御告げを受けたとおりのものです。神はこう言われたのです。『よく注意しなさい。山であなたに示された型に従って、すべてのものを作りなさい。』しかし今、キリストはさらにすぐれた務めを得られました。それは彼が、さらにすぐれた約束に基づいて制定された、さらにすぐれた契約の仲介者であるからです」。モーセが建てた幕屋は、天にあるものの写しであり影だったのです。写しとはコピーですから、オリジナルがあるはずです。影とはシャドゥですから、本体があるはずです。地上の幕屋に対して、天の幕屋があります。地上の大祭司に対して、天の大祭司がおられます。また、地上のささげ物といけにえに対して、永遠のいけにえがありました。新しい契約の仲介者であるイエス・キリストが、それらすべてを完成されたのです。もう、幕屋もいけにえも、大祭司も不要になりました。イエス・キリストが神からの大祭司として、完成されたからです。どのようになさったのでしょうか?古い契約の違反をご自分が贖い、さらに新しい契約を結ばれました。イエス・キリストは人間がなしえない律法の要求を全うされたのです。みなさん、契約書には必ず守るべき条件項目が記されています。自動車保険や生命保険の契約書にも必ず付いています。ローンでお金を借りる時も条件項目が記されています。それがまたみんな薄くて小さい文字なんです。ほとんどの人はそんなの読みません。でも、契約に違反したときに、小さな文字が生きてくるのです「ほら、ここにちゃんと書いてありますよ」なんて言われます。契約の条件にあたるものが、十戒をはじめとする数々の律法です。「イスラエルの民は分かりました。すべて守ります」と言ったんです。でも、ダメでした。そのため、天よりも高くされた大祭司、イエス・キリストが来られたのです。すべての律法を全うし、ご自身の命でイスラエルの罪を贖われたのです。

 でも、それだけだとまだ不十分です。本来、神様がイスラエルを選んだのは、イスラエルを通してすべての国民を祝福するためでした。すぐれた契約の仲介者、イエス・キリストは何をされたでしょうか。ご自分が死んで、三日目に復活し、教会という体をとおして神様の前に立たれたのです。かしらはイエス・キリストです。そして、体は教会、私たちなんです。聖書に、教会はキリストのからだであると書いてあります。体の中に、あなたもわたしも含まれているのです。これまでは人間が神様と契約を結びましたが、ことごとく失敗しました。でも、新約では、イエス・キリストが契約の仲介者として、父なる神様と契約を結ばれたのです。人間であれば、何度やっても失敗するでしょう。しかし、イエス・キリストは失敗しません。Jesus doesnt fail. Jesus never fail.イエス・キリストが父なる神様と契約を結ばれたとき、私たちはどこにいたのでしょうか。そうです、イエス・キリストの体の中にいたのです。ですから、神様はキリストを通して、私たちと契約を結ばれたことになります。新しい契約は、キリストが間におられるのです。もし、私たちが失敗したら、誰が責任を取るでしょうか。イエス・キリストです。もし、私たちが要求を満たさなかったなら、誰が満たしてくれるでしょうか。イエス・キリストです。もちろん、私たちが個人的に守る義務もあります。でも、私たちがこの契約において、一番、守るべきことは何でしょうか。それは、「キリストにおる」ということです。新約聖書では、「キリストの内に」、「キリストにあって」、「キリストにあるならば」、「キリストにとどまるなら」と口をすっぱく言っているのはそのためです。みなさん、あなたがキリストの体からはみ出してしまうので、悪魔にやられるのです。悪魔は律法を犯した者を罰する、力があるのです。悪魔は神様の前にあなたを訴えるでしょう。でも、あなたがキリストの内にあれば、キリストの血によってガードされるのです。愚かなクリスチャンは、ときどき、キリストの体から飛び出して、痛い目に会ってしまいます。「キリストの内にとどまる」「キリストのうちに隠れる」。これが重要です。

 私たちには契約の内を歩む必要が残されています。そのことによって契約の条件を満たし、豊かな祝福を得ることができるのです。契約の内を歩むとは、みことばを読んで、従うことです。イエス様を愛する人は、イエス様の戒めも守ります。それは罰せられるのが怖いからではなく、イエス様を愛しているからです。イスラエルの民は、「律法を守らないと呪われる。それを守らないと救われない」ということで、イヤイヤ従ったのです。彼らは、律法を救いの条件みたいに考えたのです。新約の私たちはそうではありません。新しい契約の仲介者なるイエス様が、律法の条件を全部満たしてくれました。また、イエス様は十字架で律法のろいから解放してくれました。ですから、律法自体が変わったのです。律法は私たちをガードする境界線になったのです。車で道路を走るとき、センターラインとかガードレールがあります。街中では、車はゆっくり走るので、センターラインとかガードレールがないところもあります。でも、一旦、高速に出たらどうでしょうか。高速道路に、車線とかガードレールがないと、怖くて走ることができません。あなたは、「車線とかガードレールなんかいらない」と言うでしょうか。律法は越えてはいけない、神の戒めです。律法というガードレールを飛び越えたら、命の保証はありません。律法の内側を歩むとき、あなたは安全なのです。そういう意味で、信仰生活において、神様の戒めとか教えは必要不可欠なのであります。私たちは神の義を知るために、聖書を読む必要があります。「義」ということばには、はかりとか物差し、基準という意味があります。残念ならが、この世は神様から離れ、人間の基準で生きています。法律も「それをしたら、他の人が害されたり、迷惑を被るので、それをしてはいけない」と、人との関係が基準です。でも、神様の律法は、神の義を教えます。「人を殺してはいけない」というのは、人間が定めた法律ではなく、神が定めた律法なのです。今、多くの若者が親や友人を殺しています。なぜでしょう?人間の道徳や法律が基準になっているからです。結婚もそうです。人間が決めた契約だったら、うまくいかなければ離婚がなりたちます。しかし、結婚は神様が定めた契約です。そうなれば、人間ではなく、神様に対して責任があるということです。

私たちはこの世で生まれ、この世の教育を受けてきました。キリスト教国でない日本は特にそうです。小学校でクリスチャンになったのならともかく、20代、30代、40代でクリスチャンになった人は、考え方や思想を聖書のものと入れ替えなければならないのです。そのために、私たちは日々、聖書に親しみ、聖書から教えられる必要があります。聖書には神様の基準、神様のみこころが示されているからです。前半のポイントのまとめです。私たちは新しい仲介者によって、救いの中に入れられました。それでは私たちの義務とは何でしょうか。第一はキリストにとどまる。キリストに従うということです。第二は、みことばを読み、それを守るということです。私たちがみことばを読んで、それを行なうとき、契約の内を歩んでいることになるのです。契約の内を歩む人生とはどういう人生でしょうか。詩篇1:3「その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える」。ヨシュア1:8「この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そのうちにしるされているすべてのことを守り行なうためである。そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである」。神様の愛は無条件です。でも、神様の祝福は条件付きです。多くの人たちは誤解しています。神様の愛は条件付きで、神様の祝福は無条件だと。そうではありません。私たちが祝福を得たいならば、契約の内を歩むということです。そのために、みことばを読み、みことばを守り行なうということです。

2.新しい契約

 新しい契約において、神様はもう1つ、すばらしい恵みを与えてくださいました。ヘブル8:9-10「それは、わたしが彼らの先祖たちの手を引いて、彼らをエジプトの地から導き出した日に彼らと結んだ契約のようなものではない。彼らがわたしの契約を守り通さないので、わたしも、彼らを顧みなかったと、主は言われる。それらの日の後、わたしが、イスラエルの家と結ぶ契約は、これであると、主が言われる。わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」このみことばが、実現したのは、ペンテコステ以降からであります。古い契約の場合は、石の板に律法を書き記しました。しかし、あらゆる人間はそれを守ることができません。一方、新しい契約の場合は、石の板ではなく、心の板に律法を書きつけると言うのであります。これはどういうことかと申しますと、聖霊によって人間の心を作り直し、聖霊によって神様の思いを入れるということです。第一のポイントでは、私たちがみことばを読んで、それを守り行なうということでした。ま、それはそれですばらしいのですが、聖霊の働きを忘れてはいけません。新しく生まれる前の人は、聖書を読んでもちんぷんかんぷんなのであります。一般に、夜眠れない人は、聖書を読むと本当によく眠れます。なぜなら、この世で、聖書ほど難しくて、退屈な書物はないからです。ギデオンで聖書を配っている人には申し訳ないですが、学生が聖書を読むということはとても困難です。大体、挿絵もないし、文字が小さい。大昔の事柄やカタカナの人物、おとぎ話のような奇跡物語。へびが口をきいたとか、死んだ人が生き返ったとか、「それを信じろ」という方が無理です。しかも、教えている内容が、実行不可能なものばかりです。「右の頬を打つ者には、左の頬も向けなさい」。「7の70倍赦しなさい」。全く不可能なことばかりです。言っておきますが、聖書は道徳の書物ではありません。生まれつきの人間にとって、不可能なのは当たり前です。

 でも、みなさん。イエス・キリストを信じて生まれ変わりますと、聖書がわかるようになります。聖霊様が教えてくださるのです。同時に、今まで、開店休業中だった霊が働き出して、神様の思いがキャッチできるようになります。これまでは、悪いことをしても全然、平気だったのです。が、今は、小さな罪でも心が痛みます。クリスチャンになって、良い面ももちろんありますが、罪に敏感になって、悪いことができなくなります。神様のみこころに従っているときは平安と喜びがあります。しかし、神様のみこころに反して生きていると、平安も喜びもありません。なぜでしょう?それは、聖霊様が心の中で、働いておられるからです。聖霊様があなたの心に、神様の思いを注入しているんです。そうすると、あなたの心がどうなるでしょうか?あなたには従来、肉の思いがあります。一方、あなたの中に御霊の思いが新たに注入されました。この2つは水と油の関係です。ガラテヤ書5:17「なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです」。クリスチャンになったのは良いけど、新たな葛藤が起こるようになります。肉の思いと、御霊の思いが合い争うという、1つの内乱が起こります。クリスチャンになって、初期の頃は、ハネムーン期間で、救われた喜びでいっぱいです。でも、半年くらい過ぎると、非常に不安定な時を過ごすことになります。あなたはどっちに従ったら良いのか、とまどうでしょう。肉の思いに従うべきか、御霊の思いに従うべきか、一種の分裂状態になります。あなたはこれまで、この世の価値観で生きてきました。でも、聖書と御霊の言うことは、別な価値観です。使徒パウロもローマ7章で「私は自分のしていることがわからない。したいことができない」と、ものすごく悩んでいます。みなさんは、そういう時期を通ったことはないでしょうか?クリスチャンになって、逆に苦しくなってしまったということです。

 でも、みなさん、良い知らせがあります。それは、あなたが聖霊に降参するということです。イースターの日、KGCの皆さんが、「われささぐ、みなささぐ」という賛美をささげました。英語では、I surrender All. I surrender All.です。Surrenderは「降伏する」とか、「明け渡す」という意味です。あなたは人生の舵を握っています。明け渡すとは、舵をイエス様に渡して、あなたは寝て良いということではありません。人生の主導権をイエス様に渡すということなのです。イエス様が「面舵一杯」と言ったら、あなたは「面舵一杯」と言って、舵を回せば良いのです。イエス様が「取り舵一杯」と言ったら、あなたは「取り舵一杯」と言って、舵を回せば良いのです。そうしますと、あなたの人生は正しい方向に進みます。パウロは、ガラテヤ書5:16で言いました。「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません」。御霊によって歩むとは、日々、イエス様に従う選択をするということです。肉の思いではなく、イエス様の御声に従うことが、御霊によって歩むということなのです。ですから、クリスチャンになってから、一時、葛藤の期間がだれでもあります。しかし、イエス様に降参し、御霊によって歩むことを決断したその時から、安定するようになります。これは信仰が頭から、腹に達したとも言います。信仰が頭にあるうちは、疑いや反抗心が襲ってきます。でも、信仰が腹に達したら、「生きるにもキリスト、死ぬのもキリスト。槍でも鉄砲でも持って来い!」となります。どうぞ、同じ、クリスチャンになるなら、明け渡すまで行ってください。どうか、半生のクリスチャンになりませんように。旧約聖書には、半生のパン菓子というのがあります。片方しか焼いていないパンは半生です。それではいけません。裏も表も、焼いたパン菓子を主にささげましょう。あなたの人生の裏も表も、主のご支配を受けましょう。

 聖霊の助けは、新しい契約における保証であります。旧約時代の人々には残念ながら与えられていませんでした。しかし、私たちは契約の条件を満たすことができるように、聖霊の助けが与えられているのです。「私たちはイエス様を信じて従います」と契約にサインすると同時に、天からあなたのもとに聖霊が賜物として添付されるんです。もし、クリスチャンが聖霊の助けなしに、信仰生活を行なうとしたら、3日も続けられません。私たち自身の中には、神様に従う力とか、敬虔さなどないのです。真面目な人ほど、要注意であります。そういう人たちは、自分の力でがんばろうとします。そうではありません。私たちには神様に従って行けるように、助け主、聖霊が与えられていることを発見しましょう。昔、ある人が、アメリカに渡って、新しい生活をしようと思い、太平洋を渡る船の切符を予約しました。彼は切符を買うために、一生懸命働き、やっと切符を手にいれることが出来ました。しかし、何日も船の食堂で食事をするには、たくさんのお金がかかると思い、彼はビスケットを用意しました。さて、船旅が始まって、最初の数日間は、用意したビスケットと水を飲んでいました。さて、旅も進んで行くと、ビスケットも少なくなり、水だけで耐えなければならなくなってきました。レストランでは、大きなビフテキやえび料理などが、おいしそうに並べられています。彼はそれを見て泣きました。次第に、体は痩せ細り、病人ようになりました。ついに、彼は、レストランのコックの前にひざまずき、懇願しました。「コックさんお願いです。皿洗いでも何でもしますから、どうかそのビフテキを、食べさせてください。」すると、コックはいぶかしげに彼を見ながら、「お客さん、あなたは、ちゃんと切符を買って、この船に乗ったんでしょう。」「はい。買いました。」「お客さん、その切符には食事代もすべて入っていますよ。」この男は、残念なことに、初めから、食事代が運賃に含まれていたことを知らず、餓死しそうになりました。このように、聖霊の恵みを知らないで、クリスチャン生活を続けている人がいます。イエス様を信じて、新しい契約結んだ人には、聖霊の力と助けがあることを発見しましょう。

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