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2006年4月16日 (日)

なぜ泣いているのですか       ヨハネ20:11-18

 イースターおめでとうございます。と、言っても、「イースターって何」という人もおられるかもしれません。ある説によりますと、北方神話の春の女神「Eostre」に由来します。本来はキリスト教とは関係のない異教徒の春の祭りでしたが、キリスト教の布教の際に、意味を変え、普及したようです。寒さ厳しい暗い冬から、草木が芽吹き動物たちが繁殖する春へと移り変わる様が、十字架で死んだ後に復活したキリストのイメージと重なり、統合されていったと見られています。呼び方はともあれ、イエス・キリストの復活祭であります。きょうは、ヨハネの20章から、3つのポイントでイースターのメッセージを取り次ぎたいと思います。

1.愛と復活

 新約聖書にはマリヤという名前が6人ほど出てきます。きょうは、マグダラのマリヤが主人公です。他の福音書を見ますとわかりますが、朝早く、墓に来たのはマグダラのマリヤだけではありません。ヤコブの母マリヤとかサロメが同行していたようです。でも、ヨハネはどういうわけか、マグダラのマリヤだけが、復活のイエスと出会ったように書いています。マルコ16章の後半には、このように書かれています。「女たちは、墓を出て、そこから逃げ去った。すっかり震え上がって、気も転倒していたからである。そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。さて、週の初めの日の朝早くによみがえったイエスは、まずマグダラのマリヤにご自分を現わされた。イエスは、以前に、この女から七つの悪霊を追い出されたのであった」。おそらく、他の女性たちは怖くて逃げ去ったのでしょうが、マリヤだけが墓のところに残っていたと思われます。マリヤはイエス様といつも一緒でした。男たちは十字架を前にして逃げたのですが、マグダラのマリヤは十字架の側から離れませんでした。イエス様が亡くなられて、墓に納めるときも側にいました。そして、日曜日の朝は、真っ先に他の数名の女性と墓にやって来たのです。これは、マリヤがイエス様をとても愛していたという証拠です。マグダラのマリヤは、かつて、7つの悪霊を追い出してもらった女性です。7つと言うのは聖書で完全と言う意味ですから、悪霊によって完全に支配されていたのかもしれません。また、マグダラというのはガリラヤの一都市でありましたが、彼女はその町の遊女ではなかったかという説もあります。

ルカ福音書に「多く赦された人は多く愛する」というみことばがあります。彼女は、イエス様から多く赦され、また、完全に解放されたので、イエス様にぞっこん惚れちゃったんじゃないかと思います。でも、男女の愛ではなく、救い主に対するアガペーの愛であります。今、日本では韓流ブームであり、ヨン様じゃありませんが、いわゆる「おっかけがおります」。しかし、マリヤの愛は、そういう、アイドルを求めるフアンの愛ではありません。罪と悪魔の奴隷から解放してくれたイエス様と出会ったので、離れられなくなった。イエス様が人生のすべて、「イエス命」になったのです。恐らく、生まれた時から家庭や才能に恵まれて、幸せに生きてきた人がイエス様に出会ったとしても、命を賭ける人は少ないでしょう。逆に、家庭にも健康にも恵まれず、ひどい生活をしていた人が、イエス様に出会うと、「もうジーザスしかいない」というふうになるのではないでしょうか。私が座間にいたとき、ある姉妹がいました。ご主人は米軍の人でしたが、結婚後、捨てられて、二人の子供を育てていました。彼女は本当に貧しい生活をしていました。あるとき、「何もささげられないので、公告の紙を折って作った、花瓶敷きを持ってきました」と届けに来られたことがありました。彼女は救われて一番の喜びは、毎朝、二人の息子と聖書を読んで、お祈りすることだと証していました。「ああ、この人は本当にイエス様を愛している人だなー」と思いました。もちろん育ちが良くて、大きな罪も犯さず、傷もなく、恵まれた中から救われる人もいます。ナイチンゲールとか、マザーテレサ、サンダースホームの沢田ミキさんも、いい所の生まれですけど、救われてからすばらしい働きをした人もいないわけではありません。でも、マグダラのマリヤのように、ひどい状況から救われた人は、イエス様に献身する可能性が高いのではないでしょうか。

すばらしいことに、イエス様を愛する人には、イエス様が現れてくださいます。マグダラのマリヤが一番先に、復活の主と出会ったのはそのためです。逆に言うと、イエス様にとって、復活した姿を一番、最初に現したかった人が、マリヤだったということです。かなり前のことですが、茨城県の鵜の岬という国民宿舎に旅行に行ったことがあります。そこは、とても人気があるところで、申し込んでも当たらないといわれているところです。どういう訳か、はがきを出したら、当たって、家族で行きました。そこに着くと、中継車が玄関前に止めてあり、撮影隊が何やら準備をしていました。聞くところによると、あと30分後に、ここから生中継するということです。確か、放映は、夕方の6時半ごろの特番だったと思います。「いやー、テレビに出られるぞ」と言うことで、私は教会員に知らせたくなりました。「だれに電話しようかな?」家内は、「みっともないからやめなさい」と止めました。だけど、だれかに知らせたいと思って、柏さんと中野さんに「私たち、テレビに映るからビデオとっておいて」電話しました。柏姉妹が実際に見たそうですが、「豆粒くらいしか映っていなかったよー」と言われました。そういえば、私たちは一番奥のスタンダードのテーブルでした。刺身の舟盛りとか乗っている前のテーブルが、写されていたようです。でも、そのとき、「テレビに出るから、見てよ」と、だれに電話するかです。やっぱり親しい人、愛している人じゃないでしょうか?イエス様もご自身の姿を現したのは、マリヤとか弟子たちに限られていたのはそのためです。ヨハネ14:21にすばらしいみことばがあります。「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現わします。」今でも、イエス様を愛する人に対して、イエス様が現れてくださるということです。うちの子供たちはイエス様を信じて洗礼を受けました。救われたんですから、一安心です。でも、欲を言うなら、イエス様を愛する人になってもらいたいなーと願って祈っています。私は、皆さんのように、毎週礼拝を守る人は、イエス様を愛している人だと思います。特に、朝早く、礼拝のはじまる時間前から来る人は特にそうかもしれません。アーメン。

2.信仰と復活

 マグダラのマリヤはイエス様を愛していましたが、信仰の方は今一歩でした。なぜなら、彼女が墓に来たのは、復活の主と出会うためではありませんでした。他の福音書を見てわかりますが、イエス様のお体に香料を塗るために、やって来たのです。つまり、生きているイエス様ではなく、イエスのからだ、Bodyを捜しに来たのです。Bodyは英語では死体という意味があります。墓の前にやってくると、なんとイエス様のからだはありませんでした。13節に御使いとのやりとりが書かれています。「彼らは彼女に言った。『なぜ泣いているのですか。』彼女は言った。「だれかが私の主を取って行きました。どこに置いたのか、私にはわからないのです。」マリヤはなぜ泣いていたのでしょう。それは、イエス様のご遺体をだれかが盗んで行ったと思ったからです。彼女の涙は、美しい涙かもしれませんが、信仰に欠けた涙です。つまり、マリヤにはイエス様に対する強い愛がありましたが、イエス様が復活するという信仰がなかったのです。だから、聖書は「信仰がなければ神に喜ばれない」と言うのです。15節では、直接、イエス様が「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか」と尋ねました。しかし、マリヤは、イエス様を墓の管理人だと思ったんですね。これを見ると、「えー、なんで?」と言いたくなります。なぜ、目の前の人がイエス様だと分からなかったのでしょうか?1つは死んだ人が復活するはずがないという不信仰のゆえです。2つ目は、イエス様の姿が生前よりも、栄光の姿に変わっていたからかもしれません。そういえば、エマオの途上の二人の弟子もイエス様と出会いました。ずーっと一緒に歩いていたにも関わらず、その方がイエス様だと分からなかった。聖書は「ふたりの目がさえぎられていて、イエスだとわからなかった」(ルカ24:16)と言っています。不信仰のために、目がさえぎられていたのです。

 私はこういう記事を見ますと、「肉眼でイエス様を見た弟子たちは確かにすばらしいけど、信仰とは関係ないんだなー」と思います。つまり、信仰とは肉眼でイエス様を見るのではなく、もっと別の作業なのであります。弟子たちは3年半もイエス様と同行し、そばで見て、聴いて、触ったことがあった。だけど、主が復活するとは信じられなかった。マルコ16:8「女たちは、墓を出て、そこから逃げ去った。すっかり震え上がって、気も転倒していたからである。そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」。マルコ16:11「ところが、彼らは、イエスが生きておられ、お姿をよく見た、と聞いても、それを信じようとはしなかった」と書いてあります。このヨハネ20章の後半には、トマスという弟子が信じようとしなかったことが記されています。これだけ、死んだ人が復活するということが信じられない出来事だということです。でも、復活したイエス様と出会っても分からないどういうことでしょうか。それは、ヨハネ20:9にあります。「彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかったのである。」アーメン。つまり、イエス様を信じるとは、肉眼でイエス様を見るということではなく、聖書から信じるということだからです。「聖書にイエス様がよみがえることが預言されている。だから、私は復活の主を信じます」。これが、本当の信仰であります。そういう意味では、当時の弟子たちも私たちも同じ立場であります。彼らも預言書や詩篇から、「ああ、主イエスは本当によみがえる必要があったんだ!」と悟ったんです。聖書を通して、イエス様を信じる。これが最も正統的な信仰です。奇跡とか神秘的な体験もすばらしいと思います。でも、もっと根本的で永続的な信仰とはどこから来るのでしょうか。それは、みことばを通して、主イエス・キリストと出会うということです。つまり、みことばとキリストを切り離すことはできないのです。ローマ10:17「そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです」。

 今は、映像の時代です。キリスト教のセミナーでも、パワーポイントとか動画を駆使してやっています。確かに、現代文明のものは目に訴え、役に立つ所があります。でも、パワーポイントだと情報量が多すぎて、私たちの中にある、信仰という機能が働かない場合があります。おそらく、信仰とは、肉眼で見る作業ではなく、もっと深いところにある機能です。逆に目を閉じて、みことばを瞑想すると、神様に対する信仰が湧いてくる、これが真理ではないかと思います。世の中の多くのものは、私たちの五感に「これでもか、これでもか」と訴えます。テレビやDVDの映像、MDとかMP3という音楽、そして鳴り響く携帯・・・人々はいつも騒がしくしています。しかし、信仰とは静かな環境で、みことばと祈りを通して、神様と交わることからやって来るものではないかと思います。エリヤは、天から火を下し、450人のバアルの祭司たちを滅ぼした力ある預言者でした。しかし、一人でがんばったので燃え尽き、バーンアウトしてしまいました。彼は神様の声を聞こうとします。Ⅰ列王記19章にはこのように書いてあります。「風の中に主はおられなかった。地震の中にも主はおられなかった。火の中にも主はおられなかった。その後に、かすかな細い声があった」と書かれています。つまり、エリヤが静まった時、主のかすかな細い声が聞こえたのです。現代は喧騒の時代、あまりにも騒がしい時代です。情報が多すぎて、私たちの頭がパンク状態です。私たちは世の喧騒から離れ、静まるときに、信仰という機能が活発に働くのです。主と交わる静かな時を持ちましょう。復活の主があなたに現れ、あなたに語りかけてくださいます

3.伝道と復活

 伝道という言葉はあまり好きではありませんが、他に用語がないので、使います。復活の主と出会ったマグダラのマリヤはその後、どうしたでしょうか?ヨハネ20:18「マグダラのマリヤは、行って、『私は主にお目にかかりました。』と言い、また、主が彼女にこれらのことを話されたと弟子たちに告げた。」アーメン。「伝道」と言うと、緊張してしまいますが、「私は主と出会いました」と伝えることは難しいことではありません。ヨハネ1章でもアンデレやピリポは「私たちはキリストに会った」と伝道しました。正確に言うと、これは伝道ではなく、「証し」であります。自分が体験したことを告げているだけですから・・・。そうなんです。「伝道」と言うと、「人に信じさせなければならない」というプレッシャーがかかって、唇が硬直します。いままでは、べらべらしゃべっていたのに、「伝道しなければ・・・」と思うと、「キ、キ、キ、キリ」と詰まってしまいます。ですから、伝道ではなく、「自分が体験したことをお伝えする」と考えれば良いのです。私たちは自分が発見したすばらしい事柄を、ぜひ分かち合いたいと思うでしょう。健康食品、化粧品、すぐれもののグッズ、家庭の裏技、おいしいレストラン、感動した映画・・・「これを、あの人に知らせたら、きっと喜ぶにちがいない。ぜひ、知らせたい」。これと同じように、救い主イエス様を伝えることなんです。信じさせようとか、クリスチャンにしようとすると大変です。それは、神様の分野です。私たちは自分が体験したことを分かち合えば良いだけなんです。

 でも、そこには「キリストと出会った」という、感激的なものがなければなりません。人が本当にキリストと出会ったなら、「やめろ!」と言われても、伝えたくなるのです。6月9-11日、インドネシアのエディ・レオが来られます。金・土・日ですから、金曜日、有給休暇を取って、セミナーに参加してください。そのエディ師がin & out ということを言われました。In とは内側であり、兄弟姉妹に対する愛です。Outとは未信者への伝道の力です。教会(セル)は、内側に対する愛の交わりと、外に向けての伝道が必要であります。しかし、エディ師が言うのは、兄弟姉妹が愛し合ったら、外に向けて伝道できるかというとそうではないということです。もう1つ、up、上がある。それは神様との出会いです。神様との出会いがあると、兄弟姉妹への愛が与えられ、さらには、未信者に対する愛が与えられる。つまり、上なる神様との出会いこそが、外に向けての伝道の力になるということです。なぜ、初代教会の弟子たちは地の果てにまで、伝道したのか。それは復活の主と出会い、上から聖霊の力をいただいたからであります。すべての解決の鍵はup、上にあるのではないでしょうか。横、つまり人間ではありません。上との関係こそが、力の源であると信じます。特に、伝道はそうであります。

最後に、死から生還された、須佐婦人牧師のお証をしたいと思います。長野の安曇野に教会があります。今年の1月に「教会売ります」という公告を教会の新聞に出しました。その教会は婦人が牧師でご主人は一般のサラリーマンです。その教会もセル教会で、一度お会いしたときに、「安曇野だったら、いやー、一度おじゃましたいですね」などと、話したことがあります。しかし、彼女は昨年の9月頃、くも膜下出血で倒れ、「緊急の祈り」として、メールに流れてきました。私は「いやー、この間まで元気だったのにー」と心配して祈りました。ところが、今年1月の「教会売ります」です。「いやー、もう、教会を続けることができないんだーと」淋しい思いをしました。ところが、先週の新聞に「天国を見て、使命を再発見」という大きな見出しを見ました。すると、婦人牧師の元気そうな顔も載っていました。記事を見ますと、教会建設のとき、ストレスがたまって、倒れたということです。搬送先の脳神経外科医はご主人に「手術の成功は50%。回復しても記憶喪失、半身不随、言語障害、味覚障害、視覚障害など後遺症が残ります」と告げました。ところが、ICUで目が覚めるまで、婦人牧師は主イエス様から天国に連れて行ってもらったということです。「天国は、神様の臨在の光に満ちていた。その光は金色に輝きながらも目には優しく、見上げると空にかかる虹の中には、救われた人々の魂を象徴する無数の宝石たちが光に照らされてキラキラと輝いていた。宝石たちは水のようなオリーブオイルのような聖霊の流れに乗って、私の身の周りを回り、続いていのちの木の周りを回って、再び虹の方に流れていった。もう、素晴らしくて、私は両手を挙げて、「うわぁ、凄い、凄い!天国の真ん中だぁ!」って純真無垢な子供になって喜んでいた。その時、神の声が聞こえた。「あなたには、使命と御霊の賜物が与えられている。私はあなたを地上に遣わす。行きなさい」。その瞬間、目が開いた。入院後10日以上経った集中治療室のベッドの上だった。婦人牧師の体は多くの関係者の祈りに支えられて、奇跡的に回復。そして退院までの期間、他の重症患者たちを次々と伝道し救いに導いた。婦人牧師が「突然の死に遭遇し、天国を見、生かされた」と題した小冊子にまとめ方々に配ると、大きな反響となり、各教会から「ぜひ、証に来てください」と招待された。婦人牧師が天国の素晴らしさ、そこにいる本物の神を伝え、「イエス様を信じないと天国にはいけないのよ!」と語ると、未信者たちは心を開き、次々と救いを受けていった。その婦人牧師のお体はますます回復し、今は伝道の賜物を活かして人々を救いに導きたいと願っておられます。この方は、まさしく肉体が復活し、さらに主を伝える伝道者として復活したわけです。私たち全員が牧師とか伝道者として召されているわけではありません。でも、死からよみがえられ、今も生きておられるイエス・キリストを証することができます。私たちを罪と死と暗闇から解放してくださったイエス様と出会うとき、人々に伝えずにはいられなくなるのです。私たちも、弟子たちのように古い生活である墓を離れ、復活の主を証する者となりたいと思います。

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