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2006年3月26日 (日)

ヨシュアにまさる      ヘブル4:1-13

 桜が咲き、いよいよ本格的な春到来と言う感じです。しかし、どんなに美しい花や風景を見ても、心に憂いがあるときは、色あせて見えます。きょうの礼拝で、憂いを解消していただいて、神様から希望が見える、眼鏡をいただきたいと思います。本日は「ヨシュアにまさる」と題して、ヘブル人への手紙4章から3つのポイントで学びたいと思います。

1.神の安息

 4:1「こういうわけで、神の安息にはいるための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれにはいれないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか」。ヘブル人への手紙3章には「安息」ということばが3回、4章には9回も出てきます。「安息」とは、労苦や悩みから解放されて平安のうちにある状態を言います。しかしそれだけではなく、安息は「神の救い」と関係があります。エジプトを出た民は安息の地カナンを目指しましたが、不信仰のゆえに入ることができませんでした。神の安息は、40年後、ヨシュアと共にカナンに入った若い世代の人々に与えられました。では、今日、神の安息に入るための約束は残されていないのでしょうか。ヘブル書はダビデの言葉を引用して、「きょう、もし御声を聞くなら、あなたがたの心をかたくなにしてはならない」と勧告しています。ダビデはヨシュアよりも何百年もあとの人ですから、「安息への招き」は、まだ残されているということです。しかし、ヨシュアが入った安息とダビデや私たちが入る安息は、質が違います。前者は地上における安息であり、後者は天の御国における安息であります。イエス様は「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言われ、宣教を開始されました。つまり、世の終わりに来る神の御国こそが、真の安息であるということです。

 ところで、旧約聖書はヘブル語で書かれていますが、70人訳という、ギリシヤ語で翻訳されたものもあります。ヨシュアは「主は救い」という意味ですが、ギリシヤ語では「イエースース」と言います。イエス様の発音も同じ、「イエースース」なのであります。つまり、旧約のヨシュアは新約のイエス様の型、タイプということになります。ヨシュアはイスラエルの民を約束の地カナンに導き入れました。一方、イエス様は新しいイスラエルである神の民を天の御国に導き入れて下さる方です。ヨシュアとイエス様は似ていますが、イエス様はヨシュアにまさるお方です。なぜなら、イエス様はイスラエルという1部族だけではなく、全世界の人を導き入れてくださるからです。しかも、イエス様はカナンよりもまさる、天の御国を私たちにお与えになります。みことばにあるように、神の安息、神の御国に入るための約束は、まだ残されています。では、神の御国に入る鍵とは何でしょうか?なんでも鍵が必要です。金庫は力ずくでは開けられません。でも、鍵さえあれば子どもでも開けられます。神の御国に入る鍵とは信仰であります。4:2、3「福音を解き明かされていることは、私たちも彼らも同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。信じた私たちは安息に入るのです」。ここに、「福音を聞いて、信じた者が安息(御国)に入る」とはっきり告げられています。

 救いを得るためには信仰が必要です。たとえ良い知らせ、福音を聞いても、それを信じなければ自分のものになりません。私は27年前、職場の先輩から、個人伝道されました。彼はたとえ話を用いてこのように説明してくれました。ある人が鈴木君にブリタニカの百科事典をプレゼントしてくれたとします。今はインターネットで何でも調べられますが、昔、百科事典はとても価値がありました。ある人が言いました。「私は本屋さんに百科事典の代金をすでに払ってあります。だから、あなたがその本屋さんに行って、『私は鈴木と申します。百科事典を受け取りに来ました』と言えば、渡してくれます」。鈴木君はどうしますか?「そんなうまい話などあるわけがない」と受け取りに行かなければどうでしょうか。「売約済み」として、その百科事典がずーっと本屋さんに並んでいることでしょう。でも、何年も取りに行かなければ、場所をふさいで困るので、処分するか、他の人に売るかもしれません。でも、だまされたと思って、その本屋さんに行って、「私が鈴木です。ブリタニカの百科事典を受け取りに来ました」と言えばどうでしょうか。「はい、お待ちしておりました。こちらの品物です。代金は既にいただいておりますので、ここに受け取りのサインだけをお願いします」と言われるでしょう。本屋さんに受け取りに行かなければ、永遠に百科事典はあなたのものにはなりません。信じて、本屋さんに行けば、百科事典はあなたのものになります。救いも同じです。・・・このように話してくれました。イエス様はあなたが御国に入るための代価を十字架で払ってくださいました。「私はイエス様を救い主として信じます。御国を私にください」と願えば、即、あなたのものになります。

 ところで、ナントカ太蔵という人は本当にうまくやったナーと思います。たまたま、申し込んだのに、比例区で当選。「ヒラリーマンから、衆議院議員になった」と本人が申しております。給料も年1千何百万、新幹線グリーン車乗り放題、通信費毎月100万。最近は、結婚宣言までしました。多くの人たちは「羨ましい」を越えて、「まっこと腹立つ」と思っているんじゃないでしょうか。でも、私たちはどうでしょうか。イエス様を信じただけで、神の子になれたんです。いわば、ジーザス・チルドレンです。罪赦され、御国に入れるばかりか、様々な特権が与えられています。祈れば何でも叶うという「イエスの御名」までいただいています。何の功績もなしに、福音を信じただけで救われたという恵みを思い起こしましょう。

2.神のことば

 神のことばは私たちの信仰を本物にしてくれます。みことばは、内側にある、不純なものや悪いものを判別してくれます。12節「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます」。私たちはだれでも心を持っています。聖書では、心は魂をさします。心は、感情、意志、知性をつかさどっています。私たちは、心で、いろんなことを考えたり、決定したり、判断したりしています。神様は私たちに「意志を全くなくしてロボットのように従いなさい」とおっしゃっておりません。「何も考えないで、無になれ」というのは、キリストの教えではありません。それは、カルト宗教やニューエイジの間違った教えです。私たちは常に考え、常に悩み、常に選択し、常に何かを欲しています。これは魂が、生きている証拠です。でも、私たちは魂だけを持っているわけではありません。魂の奥に、霊があります。この霊こそが信仰の拠点であります。私たちは、この霊によって神様と交わることができるのです。でも、霊だけでは生きていけません。霊は魂を必要としています。別な言い方をしますと、霊は魂を着ており、魂は肉体を着ています。霊と魂と肉体はがっちりとくっついており、3つを切り離すことは容易ではありません。

 みなさん、私たちは霊、魂、肉体、それぞれの分野で病気になります。肉体が病気になると病院に行っていろんな検査を受けます。血液検査、尿検査、心電図、CTスキャン、MRIなどがあります。お医者さんは「ここが悪い」と、病名を知った後にはじめて治療します。何の病気か分からないのに、「とりあえず注射を1本打っておきましょう」ということはありません。それは危ないお医者さんです。それでは魂、心の病気はどうでしょうか?最近の精神科医も随分と進んできております。昔は分裂症とかノイローゼぐらいがおもな病名でした。でも、今は恐怖神経症、強迫神経症、統合失調症、他動性障害、学習障害・・・数え切れないほどの病名があります。現在のところ、様々な病名はつけられていますが、治療の方が追いついていないというのが現状でしょう。では、霊の方はどうでしょうか?これは最も遅れている分野です。なぜなら、宗教の領域とされ、アンタッチャブルな世界だからです。でも、霊は存在します。「霊が弱い人は病気になったり、怪我や事故を拾いやすい」とエリヤハウスで学びました。イエス様を信じていない人の霊は開店休業。霊はあっても、ほとんど働いていない状態です。霊、魂、肉体、それぞれの分野で病気になります。でも、それだけではありません。アダム以来の罪、自分が犯してきた罪が、霊と魂と肉体にも影響を及ぼしています。人間は霊・魂・肉体ともども堕落した存在であります。こういう人がイエス様を信じて、新しく生まれ変わったとして、果たして何の問題もなく信仰生活を歩むことができるでしょうか。「あなたはイエス様を信じてクリスチャンになったんですから、死んでも天国にいけます。だから、安心してください」と言われても、安心できません。私たちは天国に行ってからの安息だけではなく、地上においても神の安息が欲しいですね。

 私たちの信仰をチェックし、問題点を捜し、そして神の安息が得られるように回復してくれるものは何でしょうか。それは神の言葉です。まず、神の言葉は私たちの考えや思い、そして動機の分野をチェックしてくれます。やっていることが正しくても動機が汚れている場合があります。清く正しそうに見えても、内側には情欲や汚れた思いがうずまいているかもしれません。思想が整っていても、聖書的でないかもしれません。儒教や仏教から来たもの、あるいは唯物論から来た思想もあります。日本という独特な文化的要塞もあるでしょう。「男はこういうものだ」「女はこういうものだ」「仕事とはこういうものだ」「結婚とはこういうものだ」「家とはこういうものだ」・・・いろんな価値観があるでしょう。神様を信じると口では言いながらも、「天は自らを助けるものを助ける」「祈るだけではだめで、自分の努力も必要だ」「最後に頼れるものは自分だ」など思ってはいませんか。それらは、この世であなたが学んで得たことかもしれません。中高生のときにイエス様を信じたのならともかく、30代、40代、50代でイエス様を信じた人は、リフォームぐらいじゃ済まされません。本当に、土台をひっくり返す、リボリューション、革命が必要です。だから、聖書は古い自分に死になさいといろんな箇所で言っているのであります。クリスチャンは改善とかリフォームではありません。生まれ変わりであり、回心です。あのパウロも本当のクリスチャンになるまで、10数年かかっております。信じた直後アラビアに逃れ、生まれ故郷のタルソで、しばらく隠遁していました。その間、第三の天に上る経験をしたり、特別な取り扱いを受けて、本物の使徒になったのです。

 「神のことばは両刃の剣よりも鋭く、魂と霊、間接と骨髄の分かれ目さえも刺し通す」とありますが、お医者さんのメスのようなものであります。榎本保郎先生は、「私たちがみことばを切るのではなく、みことばによって私たちが切られるのである」と言われました。聖書を読むとき、「ここは従えないから無理」「ここは信じられないから無理」と切って読む人がいます。それは聖書よりも自分が主体になっています。そうではなく、自分が聖書に屈服する。「ああ、ここが私の足りないところです」「ああ、ここが矯正されなければならないところです。アーメン」。このように、聖書を読むべきです。みことばによって点検され、そして弱点が強化されるとき、力強い歩みができてきます。最近、JALの飛行機が点検整備を怠って、飛ばしていたということがあからさまにされました。他人ごとではありません。クリスチャンでも、むやみに怒ったり、権威・権力をふりまわすことがないわけでもありません。ですから、私たちも、みことばから、日々、点検整備される必要があります。ある人が格言のようなものを与えています。「聖書はあなたを罪から遠ざける。もしくは、罪があなたを聖書から遠ざける」。神のことばに親しみ、より良い信仰を築き上げていきたいと思います。

3.神の子イエス

 13節「造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです」。私たちは神様の前ではすべてが裸であり、さらけ出されています。隠せおおせるものは何1つありません。この言葉を聞いて、安心する人と、「エー、困ったどうしよう」という2種類の人が出てきます。神様はすべてをご存知であり、すべての人が神の前でいつかは弁明をしなければなりません。このことを聞いて、「良かったー」という点があります。それは、この世でごまかして、悪いことをしている人が、裁かれるということです。私はクリスチャンになる前、「この世には悪いことをしている人がいるのに、だれも裁いてくれないのか」と腹立たしく思いました。多くの人たちはテレビや新聞を見て、「こんなの赦せない」「こんな不条理があって良いのか!」と怒りを覚えたり、悲しくなったりします。もちろん、この世で裁かれることもありますが、裁かれないでそのまま隠される場合もあります。でも、聖書は言います。「やがて、神の前に立とき、白日のもとにさらされ、1つ1つ弁明しなければならないときがくる」と。たとえ人間の裁きをまぬがれたとしても、神様の前ではそんなことはできません。最終的には神様がすべてをさばかれます。そうしますと、1つ1つの悪いニュースに腹を立てたり、苦い思いをしなくて良くなります。でも、それが自分の場合であったらどうでしょうか。自分が罪を犯している場合です。知らないで犯した罪もあれば、わかってやったもの、仕方なくやったものもあります。罪を犯している魂には安息がありません。

 でも、ここにすばらしいニュースがあります。14節「さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか」。私たちのために、偉大な大祭司である神の子イエス様がおられます。この方が、神様と私たちの間に立って弁護してくださるのです。しかも、この方が「私に免じて赦してください」と父なる神様にご自分の命を差し出してくださった。なんとありがたいことでしょう。私たちの信仰がたとえ不完全であっても、大祭司である神の子イエスがおられるなら大丈夫です。私たちはキリストにあって、神様の前にすべてがあらわにされても平気な存在です。なぜなら、イエス・キリストがどんなに醜い罪も贖ってくださったからです。しかも、義の衣で、罪や汚れが覆われている状態です。たとえ、サタンが裁いても、キリストのゆえに私たちはさばかれないのです。先週は、ナルニア国物語「ライオンと魔女」を有悟と二人で見に行きました。アリオの映画館も奇麗で良かったですね。なんと、そのストーリはイエス・キリストの贖いとそっくり。アスランというライオンが裏切った一人の少年の身代わりに死ぬんです。アスランが代価を払ったので、その少年は自由の身となりました。こんど、その少年は勇敢に魔女に立ち向かいます。私も映画を見て、ポロッときましたね。イエス・キリストは贖い主であり、さらに神様と私たちの間をとしなす大祭司なのであります。

 また、イエス様がわざわざ人間になったのは何故でしょうか。それは、私たちの弱さに同情し、深いあわれみを与えてくださるためであります。イエス様は罪こそ犯されませんでしたが、すべての点で私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、イエス様は私たちにとって、一番の理解者であります。ある人たちは、心の傷を癒すためにカウンセラーのところに通っています。カウンセラーの重要な要素は「クランケを理解することだ」そうです。もちろん、お金をかけて、そういうところに通うのも良いでしょう。でも、所詮、カウンセラーも人間ですから、限界があります。私たちクリスチャンには、ザ・カウンセラーが共におられることをお忘れなく。イザヤ書9章には「その名は、不思議な助言者」と書いてあります。英語では、ザ・ワンダフル・カウンセラーであります。イエス様は私たちを理解するために、人間となって、同じ試みに会われたのです。ですから、私たちに同情し、憐れみと助けを与えることがおできになります。しかも、神様ですから、私たちを癒し、新たに作り変えてくださることができるのです。みなさん、これが、信仰の極意です。「人に相談するな」と言っているわけではありません。信頼のおえる人に相談することは良いことです。でも、人に依存してはいけません。私たちは大祭司なるイエス様に依存すべきであります。4:16「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」。イエス様の場合は面談のための予約はいりません。1時間でも、2時間でも無料です。いつでも、どんなときでも、助けをいただくことができるのです。コンピューターを買いますと、「3年間無料サポート付き」というのがあります。私たちの信仰は、天国に行くまで、無料サポート付きなんです。

 恵みの御座とはイエス様と神様がおられる至聖所です。かつては、大祭司が年に1回、きよい動物の血を携えて至聖所に入ることができました。でも、ヘブル書の主題はこうです。神の子が大祭司になり、動物ではなく、ご自身の地を携えて聖所にお入りになった。そして、1回で永遠の贖いを成し遂げた。だから、私たちは恐れることなく、大胆に、神の恵みの御座にころがりこむことができるのです。「あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」。

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2006年3月19日 (日)

神の民への警告      ヘブル3:7-19

 3月は卒業のシーズンであり、4月は入学のシーズンでもあります。何事においても、始まりがあれば終わりがあります。信仰においても、スタートがあります。だれでも「信じます」という決定的なときがあるはずです。それを信仰における「点」と言っても良いかもしれません。また、信仰は1回だけ信じるというものではなく、天国に入るまで信じ続けるという要素もあります。「あのときは信じたけど、今はもう忘れちゃった」というのは問題があります。ですから、信仰というのは信じ続ける「線」という意味もあります。きょうの説教題は、「神の民への警告」でありますが、内容は「信仰における点と線」であります。

1.信仰における点

 7と8節をお読みいたします。「ですから、聖霊が言われるとおりです。『きょう、御声を聞くならば、荒野での試みの日に』、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない」。ヘブル人への手紙3章には、「きょう」という言葉が3回あります。そして、4章には2回あります。「きょう」とは、何か決断をせまられるような主の御声を聞いたときであります。主が「私に従いなさい」、「○○しなさい」とお声をかけるときがあります。そういうときは、一生に何度もあるわけではありません。人生においてとても重要なとき、危機的なときであります。イスラエルの民がなぜ、荒野を40年間も旅することになったのでしょうか。民数記14:22「主は『エジプトとこの荒野で、私の栄光と私の行なったしるしを見ながら、このように10度も私を試みて、私の声に聞き従わなかった』」と言われました。10度の中には、食べ物がないときつぶやいたこと、水がないとモーセと争ったことも含まれます。彼らは「本当に主私たちたちと共におられるのだろうか」何度も主を試みました。でも、決定的な出来事は、シナイ山を越え、カデシュ・バルネアというところに来たときです。ヨルダン川を越えれば、向こうは約束の地・カナンであります。カナンは乳と蜜が流れる肥沃な地でありました。しかし、ヨシュアとカレブ以外の偵察隊は「あの民は私たちよりも強いから攻め上れない。私たちには自分たちがいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう」と言いました。全会衆はそれを聞いて大声をあげて叫び、泣き明かしました。そして、「私たちはエジプトの地で死んでいたらよかったのに。できれば、この荒野で死んだほうがましだ」とつぶやきました。ヨシュアとカレブは「主にそむいてはならない。その地の人々を恐れてはならない。今攻め上るべきだ」と主張しました。しかし、全会衆は、彼らを石で打ち殺そうとしました。そこで主がモーセを通して言われました。「ヨシュアとカレブ以外は、約束の地に入ることができない。あなたがたは、荒野で40年羊を飼う者となり、死体となってこの荒野で倒れてしまう」。これが、20歳以上の者たちが、約束の地に入れなかった直接的な原因です。

 私たちの人生において、明日ではなくて、「きょう」主の御声に従わなければならないときがあります。もし、その時を失うならば、40年後に再び来るか、もしかしたら永遠にその時は来ないかもしれません。ある時、ザアカイはイエス様が来るのを木の上から待ち伏せしていました。イエス様は上を見上げて、「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから」と言われました。ザアカイは、急いで降りて来て、大喜びでイエス様を迎えました。そのとき、イエス様は「きょう。救いがこの家に来ました」と言われました。もし、ザアカイが手帳を出して、「えーと、きょうはダメです。急にお客さん連れ行ったら家内に怒られてしまいます。えーと、こんどの木曜日か、金曜日ならスケジュールが空いていますよ」と答えたらどうなったでしょうか。イエス様はそのままエルサレムに行って、十字架にかかるおつもりでしたから、この次はありません。ザアカイが救われたのは、「きょう」と言われたときに従ったからです。使徒パウロがアテネで福音を語りました。ある者たちは「このことについては、またいつか聞くことにしよう」と言いました。信仰の決断を迫られたとき、ある人たちは「またいつか」「またこんど」と断るかもしれません。一方、パウロがピリピの看守に「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」と言ったときです。「看守は、その夜、時を移さず、二人を引き取り、その打ち傷を洗った。そして、そのあとですぐ、彼とその家の者全部がバプテスマを受けた」と使徒16章に書いてあります。イエス様を信じるチャンスというのは、一生に何度もあるものではありません。私が教会に行って、まもない頃のことです。3月か4月頃、洗礼式がありました。その中に、白髪の姉妹がひざまずいていました。「女学校時代、戦争があって教会にいけなくなり、40年ぶりに教会に戻って来ました」と証しておられました。そうしますとクリスチャンになれた人は、「いやー、あのとき決断して良かったなー」と思っていらっしゃるのではないでしょうか。今度、TPWが来られますが、アンドレの招きは、かなりしつこいですね。「まだ、イエス様は待っています。Come!そう、きょうがあなたの救いの日です」とかなんとか言って、10分以上、伸ばすんですね。私などは、こんなにしつこいのでは躓く人が出るんじゃないかとハラハラドキドキしていました。でも、TPWで少なくとも、3人は洗礼受けました。押されたり、ひっぱられたりしながらの決断ですが、後からでは無理だったかもしれません。

 40という数字は忍耐とかさばきを表しています。天に召された戸叶長老から聞いた話ですが、この教会の方で、若い時、牧師になろうかなと思った人がいたそうです。ところが、ちょうど子どもたちの学費がかかるときでした。その方は、仕事をやめないで、子どもたちが独り立ちしてから献身しようと考え直しました。ところが、あれやこれやと、40年経ち、70歳くらいになってから牧師になりました。私はその方に、お会いしたことがありますが、「それがみこころだったのですか」と、聞けませんでした。私は伝道師や牧師をおやめになった方を何人も知っていますが、一度やめてしまうと復帰することがなかなかできません。皮肉にも世の中で成功して、戻る気がしなくなるようです。牧師は主のあわれみでなったのですから、それを蹴ってしまうと、戻りたくても戻れなくなってしまう。だから、私は牧師になった以上は、石にかじりついてでもやめない、やめられないと思っています。イスラエルの民が40年も荒野をさまよった原因は、不従順であり、不信仰でした。ヘブル3:17-19「神は四十年の間だれを怒っておられたのですか。罪を犯した人々、しかばねを荒野にさらした、あの人たちをではありませんか。また、わたしの安息にはいらせないと神が誓われたのは、ほかでもない、従おうとしなかった人たちのことではありませんか」。安息とは何でしょうか。一度、信じたとしても、離れるならば天国に入れないということでしょうか?ここで、「信じた者が滅びる可能性があるのか」という、神学的な話をするつもりはありません。安息というのは、「恵まれた信仰生活」と言う方が、福音的であります。つまり、神様が「きょう、従いなさい」と言われたときに、従わなかったならば荒野をぐるぐるさまよってしまうということです。ヘブル書には「従わない人は、さらに心がかたくなになり、生ける神様から離れてしまう」と書いてあります。みなさんの信仰生活を振り返ってみて、「あの時、従うことができたので、今日の私がある」という人はいないでしょうか?私が座間教会でスタッフしているときこういうことがありました。大川先生から、第一礼拝は田中伝道師に、第二は私に、第三礼拝は吉永副牧師が証をするように依頼されました。その日のため、一週間前から準備して臨みました。ところが、第一礼拝が終わった直後、大川先生から「第二礼拝も田中伝道師に証をしてもらうので、鈴木兄弟はいい」と言われました。なぜなら、田中伝道師の証がものすごく受けが良かったからです。お父さんが開業医で教会の長老さん。自分は次男だったが高校のときからぐれて、東京に来て大学を1年で中退。その後、水商売をして、最近までキャバレーを3つ持っていた。ところが強迫神経症にかかり、やっとのことで教会に戻ってきた。最初の日、礼拝堂に入ったとたん、メラメラと炎が燃えていた。そんな劇的な証でした。私は第二礼拝のアッシャーをして、後ろの階段に腰掛けていました。田中伝道師の証が今、始まろうとしていた時です。私の中に、「それでは、私の証はたいしたことはないのだろうか。俺だってイエス様から救われたんだ」という思いが湧き上がってきました。そして、「馬鹿ヤロー、ふざけるんじゃない」と叫びたい衝動にかられました。そのとき、イエス様の御声が聞こえました。「あなたはだれのために証をするのですか?」「はい、あなたのためです」。そのとたん、嗚咽と言いましょうか、私は後ろの席で泣きじゃくってしまいました。もし、私があのとき、立ち上がって、「馬鹿ヤロー、ふざけるんじゃない」と叫んでいたら、今日の私はありません。私にとってはものすごい誘惑でありましたが、確かにイエス様の御声があったんですね。

 人生において大切な岐路があります。信仰生活においても何度かあるでしょう。そのとき、だれの声に従うかであります。イスラエルの会衆は、「できない」という10人の偵察隊の言うことを聞きました。主の声に従った人は、ヨシュアとカレブの2人だけでした。人生においても、カデシュ・バルネアがあるんじゃないでしょうか。そのとき、ヨルダン川を渡れば安息の地・カナンに入ることができます。でも、彼らは不信仰になり、手前で座り込んでしまいました。そのためチャンスは2度とこなかったのです。40年後、ヨシュアとカレブと若い世代だけが入ることができました。ヘブル人への記者は、「きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない」と教訓を与えています。ダビデは預言者ナタンから「あなたがその男です」と言われたとき、「はい、そうです」と悔い改めました。ダビデが「私はそうじゃない」と否定していたなら、あのダビデ王はいなかったのです。私たちは主を恐れることが必要です。パットブーンとエリビスプレスリーの二人は友人でした。ある日、パットブーンは「私はクリスチャンだから、教会へ行くよ」と言いました。しかし、エルビスは「ぼくは、ラスベガスに行くよ」と言って分かれました。エルビスは華やかな生涯を送りました。が、最後はドラッグのせいで体がおかしくなりました。エルビスには腹違いの弟がいました。ある朝、弟がエルビスに言いました。「お兄さん、きょうは、神様に立ち返る日じゃかい?」エルビスは「ああ、ぼくもそう思っていたんだ。ボクのために祈ってくれるかい」と願ったそうです。その日にエルビスは亡くなったそうです。「きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない」ということです。

2.信仰における線

 信仰には「信じる」とか「決断する」いう点の要素もありますが「信じ続ける」という線の要素もあります。もちろん、点がなければ線もありませんが、点だけではだめだとヘブル書は言います。3:6後半には「確信と希望による誇りとを、終わりまでしっかりと持ち続ける」と書いてあります。また、14節には「もし最初の確信を終わりまでしっかりと保ちさえすれば、私たちはキリストに預かる者となるのです」とあります。4:11「ですから、私たちは、この安息にはいるよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか」と書いてあります。ここだけを見ますと、1度、信じただけじゃダメなのかなという疑問が起こってきます。改革派は「予定という絶対的な選びがあるので、救いは失うことはない」と答えるでしょう。しかし、アルミニアンは「信じ続けなければ、滅びる可能性がある」と言うかもしれません。改革派の信仰は、「1度、信じたんだから滅びることはない」と悠然として生きるでしょう。後者は「ああ、しんがりでも良いから、救いから漏れないようについて行こう」と悲痛な努力をするでしょう。ある統計によると、洗礼を受けてから3年以内に50%の人が教会に来なくなるということです。これは日本の教会の統計です。私も信仰生活が27年くらいになりますが、まわりを見て、最後まで残っている人は3割くらいかもしれません。もちろん、他の教会に通っている人もいますし、一人で信仰を守っている人もいるでしょう。教会イコール、神様というつもりはありませんが、「信じ続ける」ということはやはり難しいですね。

 インドネシヤのエディ・レオ師がこのようなことをおっしゃっていました。多くの人たちは「私は神を信じる」と言う。しかし、どんな神だろうか。イエス様は「これは永遠の命である」と言われた。神を知ることは、永遠の命である。だから、本当の神を知るならば、あなたは救われる。もしあなたが間違った神を知っていたとしても、あなたは救われない。「イエス様を信じなさい。彼は良き神様です」。この信仰だけでは救われない。イエス様は私たちの救い主だけであるだけではなく、私たちの主である。主とは、私たちの人生の唯一の支配者である。だから、イエス様はあなたの支配者である。あなたは従わなければならない。ある人たちは「私はイエス様を信じます。しかし、イエス様には従いません」と言う。ということは、その人たちの信仰は本当でないことを意味する。彼らの信仰は救い主イエスだけである。イエス様は救い主というだけではなく、私たちの主である。だから主は「わが子よ。悔い改めなさい」言われる。あなたはどんな信仰を持っているだろうか。本当の信仰とは何か。ただ救い主としてイエス様を信じることではない。イエス様に弟子として従って行く者である。本当の信仰のある人は、実が残り、また多くの実を結ぶ。・・・このように言われますと、スタートの地点から問題があるのかナーと思います。「イエス様を救い主として信じるだけではなく、主として信じる。最初から、弟子としてイエス様に従う」。これが重要だということです。私も家内もそうですが、洗礼を受けたとき、本をもらいました。その本の裏表紙に「死に至るまで忠実であれ」(黙示録2:10)と書いてありました。私は、そのとき「ああー、信仰とはそういうものなのか?」とピリッとした気持ちになりました。

 しかし、皆さん、信仰が継続できることは努力ということもありますが、主の恵みであります。ある教会の役員さんが「私は何をやっても、三日坊主でしたが、信仰だけは長続きしています」と証ししていました。神様は私たちの信仰が継続するように、「恵みの手段」というものを備えておられます。英語では、means of graceと言います。私たちは神様が見えないので、直接、交わることは困難です。しかし、神様と私たちの間に、「恵みの手段」があれば大丈夫です。その代表的なものに、聖書、讃美歌、教会の礼拝、聖餐式、交わりがあります。その中で、聖日礼拝を守るということはとても重要な要素です。ある先生は、「カーテンのレールのように、定期的に礼拝を守るべきです」と言われました。カーテンのレールがところどころはずれているのは格好が良くないですね。なんか、独身者のアパートのカーテンみたいですね。礼拝出席が、ばらついているのは良くない、定期的である方が良いということです。でも、礼拝を守るというのは消極的であります。礼拝は天国に行くための顔つなぎではありません。礼拝は心を尽くし、力を尽くし、知性を尽くして積極的にささげるものであります。賛美も礼拝の大切な1部です。これは感謝と賛美のささげものと言うことができます。ペンテコステ系の教会は叫び、手を挙げ、踊って、体全体で賛美をしています。そして、交わりは祈りとみことばの分かち合いです。この交わりは、互いを建て上げるためにとても大切です。ヘブル3:13に「『きょう。』と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい」とあります。つまり、群の中にいると、罪から守られるということです。群から離れてしまうと、罪に惑わされ、心がさらにかたくなになってしまいます。私は毎朝、散歩して気づくことがあります。ゆりかもめ、はと、すずめ、カモ、ムクドリ?とにかく、群をなしています。一羽が飛ぶと、みんなパーッとそちらの方に行きます。付和雷同みたいなところもありますが、外敵から身を守るため群をなしているのでしょう。

 信仰は生き物です。昨日、信仰的に満たされていたと思うと、きょうはどん底に下ることもあります。霊的に下るのは簡単ですが、登るのは難しいですね。アスリートも音楽家も自分の技術をキープすることが大切であります。練習をなまけると、すぐ、落ちてしまいます。彼らもスランプになることがあるでしょう。私たちも霊的なスランプに陥るときがあるかもしれません。失望落胆の沼にはまり込み、なかなか出られない。疑いの雲から抜け出せない場合があるかもしれません。そんな時はどうしたら良いのでしょうか。それは基本に返るということです。おそらく、スポーツマンも芸術家も同じことを言うでしょう。クリスチャンの基本とは何でしょうか?それは「十字架の福音」です。イエス・キリストの十字架の贖いによって、罪が赦されたということが信仰の原点です。私たちは、以前は神から離れ、霊的に死んでいた存在です。自分の肉と心の望むままを行い、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださり、キリストとともに生かしてくださいました。私たちは行ないとか努力ではなく、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。私たちの確信と希望による誇りはどこにあるのでしょうか。それは、イエス・キリストの十字架です。この十字架の信仰を持ち続けるならば、安息からもれることはありません。本日は、旧約のイスラエルから教訓を学びました。「きょう、もし御声を聞くならば従う」という、やわらかい心を持ちましょう。神様を試みることなく、神様が共におられることを意識して歩みましょう。

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2006年3月12日 (日)

モーセにまさる      ヘブル3:1-6

 旧約聖書にはイエス様を現している事柄がたくさんあります。その中には、出来事もありますし、人物の場合もあります。これを予表とか予型(タイプ)なとど言います。モーセもある部分ではイエス様と似ています。「似てはいますが、イエス・キリストはモーセにまさるお方ですよ」というのが本日のテーマです。

1.解放者イエス

 モーセはエジプトからイスラエルの民を解放した人物です。イスラエルの民は400年以上も、エジプトに住んでいました。そのうち民の数が多くなり、パロ王は「いつ彼らが敵側に寝返るか」と心配になり、彼らを奴隷として扱いました。さらに、「生まれる男子は川に投げ込め」とまで、命じました。あるお母さんは男の赤ちゃんを3ヶ月間、隠しておきました。だが、隠し切れなくなって、パピルスで編んだ籠に入れてナイルに流しました。ちょうどそこに、パロの娘が水浴びをしようと降りて来ていました。彼女はその赤ちゃんを引き取り、モーセと名づけました。モーセとは「水の中から引き出した」という意味です。モーセは40歳までパロの王子として育てられました。しかし、ある日、喧嘩の仲裁に入ったとき、エジプト人を殺してしまいました。そのとき、自分がヘブル人であることが公になり、ミデヤンの荒野に逃げました。それから40年後、モーセが80歳になってから、神様の召命がありました。主は「今、私の民、イスラエルをエジプトから連れ出せ!」と命じました。モーセは「私はいったい何者なのでしょう。私は舌が重いんです」とかなんとか言って、何度も断ります。しかし、ようやく立ち上がり、杖を持って、パロのところに行きます。案の定、パロから相手にされません。それで、モーセは、たくさんの奇跡を行ないました。しかし、パロの心はかたくなで、一向にイスラエルを解放しようとしません。しかし、10番目の「過ぎ越しの奇跡」によって、長男という長男が死んだとき、手放しました。モーセは100万人以上の民の前に立ち、紅海を渡って、脱出するわけです。後から追いかけてきた、エジプト軍は海に飲み込まれ、全滅しました。これが、栄光の脱出、エクダサスであります。

 一方、イエス・キリストは罪の世から、神の民を解放するためにこの世にやってこられました。罪の世の支配者はパロならぬ、悪魔であります。御子は乙女マリヤから生まれ、名前が「イエス」と名付けられした。イエスとは「罪から救う者」という意味です。しかし、すぐ活躍したわけではありません。30歳までひっそりとナザレで暮らしました。30歳になり、ヨハネからバプテスマを受けました。そのとき、天から「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」とお声がありました。父なる神様がメシヤとしてイエス様を任命したわけです。イエス様はナザレの会堂で、イザヤ書61章を引用し、「私は貧しい者に福音を伝え、捕らわれている人を自由にする」と宣言しました。当時の人たちは、モーセの律法を知っていましたが、律法主義によって、がんじがらめになっていました。イエス様はモーセの律法を引用しながら、「私はこういう」と、正しい解釈をほどこしてあげました。イエス様もたくさんの奇跡を行ない、悪霊を追い出しました。しかし、決定的なことは、自分が十字架にかかり罪の贖いを成し遂げることでした。出エジプトのときは小羊が殺されましたが、最後のときは、神の小羊であるイエス様が自ら犠牲となったのです。モーセは「私の名前を命の書から消しても構いませんから、民を赦してください」と破れ口に立ちました。これもすばらしいことであります。しかし、イエス様はご自分の命を差し出し、「父よ、彼らをお赦しください」と全人類のために祈られました。そのため、イエス様は神から捨てられ「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ(我が神、我が神、どうして私をお見捨てになったのですか)と叫ばれました。イエス様は死んで、葬られ、陰府に下り、三日目によみがえられました。十字架と復活が決め手になり、全人類の罪が贖われました。それ以来、人々は救い主イエスを信じるだけで、恵みによって救われるようになったのです。

 キリストが地上に来られてから、約2000年たちます。数え切れないほどの人たちが、福音を聞いて、救われ、御国に入っています。福音はエルサレムから始まり、ヨーロッパ、アメリカ、アジアを通過して、今やアフリカまで達しました。もうまもなく地球を一周して、世の終わりが近づいています。なぜなら、マタイ24:14に「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます」と書いてあるからです。もう1つ終わりが近いというしるしは、イスラエルが1948年5月14日に建国したことであります。ご存知のとおり、ユダヤ人は紀元70年に国を失い1900年間も流浪していました。ところが、エレミヤ書やエゼキエル書が預言しているように、ユダヤの民が世界中から集まり国を作りました。ある本に「300万人もの人たちが帰ってきたことは、モーセの出エジプトにまさる」と書いてありました。キリスト教会の一番の悩みは、日本が置き去りにされてしまったのではないかということです。今の日本の関心は「どうしたら景気が回復するか」であります。お金の量を増やしたらよいのだろうか、どうだろうかと悩んでいます。中国を初めとするアジアとの国交もなかなか進みません。少子化問題、老人大国で、福祉が追いつく見込みはありません。新聞やテレビを見ても悪いニュースばかりです。でも、イエス・キリストよる、神の国が私たち日本人にも提示されています。神様は全世界を作ったお方ですから、全世界の人たちを養えないお方ではありません。もし、父なる神様と和解するならば、中国や韓国、東南アジアと和解することも可能になります。政治家や政府高官が、聖書の価値観で生きるならば、日本は変わるのではないでしょうか。本当の改革は、聖書の価値観に基づいた改革しかありません。

私は、自分ところの教会が大きくなることばかりしか考えてきませんでした。もちろん、自分たちが任されている地域のために仕えることがとても重要です。でも、小売店のように、ただ人が来るのを待っていても、らちがあかないような気がします。ステレオタイプと言う言葉があります。「遠くを見る目と近くを見る目。日本全体を見る目と自分の地域を見る目」です。自分ところの教会ばかり考えていたのでは、あの人の問題、この人の問題とこじんまりしてしまいます。そうではなく、日本の救いのために、フォーカスしていく必要があります。先週は、常磐牧師セルがありました。1ヶ月1回、常磐線沿線の牧師たちが集まります。この間は松戸でやりました。牛久の大喜多先生は最近、保守バプテストの代表になったようです。その団体は、教会を開拓することが最大の使命です。そのやり方は、イチゴが増えていくようは方式で、「ストロベリーなんとか」という名前があるそうです。親株から枝が伸びて、そこに根を張ります。やがてそれが独立して、次の枝が伸びていきます。大喜多先生は「癒しや解放も良いけれど、教会が伝道をしないならば不健康になる」とおっしゃっていました。アーメンです。日本にとっても、救いはイエス様しかありません。ペテロは使徒4章で「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです」(使徒4:12)と言いました。石原牧師と心理学者の服部先生はこのようなことをおっしゃっています。日本は今、終戦1ヶ月前の7月と同じだ。そのときは「日本は勝っている、勝っている」と新聞は嘘をついていた。ところが、8月15日、降伏した。その後、1ヶ月もかからないうちに、日本がらっと変わった。今の日本は滅びようとしているのに、マスコミは本当のことを言えない。しかし、やがて真実が暴露され、戦後のようなことが再び起こる。今、本当に日本のことを考える指導者が必要だ・・・。まもなく日本という国が沈没するかもしれません。経済的な理由か、精神的な理由か、大地震なのか分かりません。でも、それはキリストの福音を宣べ伝えるチャンスでもあります。私たちは崖っぷちに立たされているのかもしれません。日本がそのまま滅びるか、それとも日本がキリストによって救われるか、どちらかであります。1教会だけに目をとめるのではなく、王なる祭司として、日本の救いということにフォーカスをあてて行きたいと思います。1教会のためだけではなく、日本の救いのために何ができるか。祈り求めて行きたいと思います。

2.忠実なるイエス

 ヘブル書3章には、「モーセが神の家全体のために忠実であった」と2度も書かれています。一方、イエス・キリストは「ご自分を立てた方に忠実である」と書かれています。家と家を建てる者とはどちらが、栄誉があるのでしょうか。家を建てる者であります。ちょっと見ただけでは何のことなのかわかりません。私はこういうことを言っているのだと思います。モーセは神の家のしもべとして忠実でした。一方、イエス・キリストは神の家の支配者として忠実であったということです。もちろん、家を建てた方は父なる神様です。モーセもイエス様も忠実ではありました。しかし、モーセは神の家に対して、イエス様は神の家を建てた神様に対して忠実でありました。家はギリシャ語ではオイコスですが、これは家族とも訳せる言葉です。モーセは40年間もイスラエルの民を荒野からカナンの一歩手前まで導きました。モーセほど謙遜で忠実な人は他にいなかったかもしれません。人々は「水が飲みたい、腹が減った」といつも不平不満を並べ立てていました。ある時は、「なんでお前だけが主の前に立つんだ。我々だってそれができるはずだ」と反抗しました。そのたびに、モーセは主の前に出て、とりなし、導きをいだだきました。モーセも人間ですからたった1回だけ癇癪を起こしたことがありました。そのとき、杖で岩を二度も打ってしまいました。確かに岩から水が出ましたが、本当は命じるだけでよかったのです。たった1回の過ちで、モーセはカナンの地に入ることができませんでした。100万人以上の民と40年間も付き合って、120歳になってピスガの頂で約束の地を見て、死んだのであります。モーセほど神の家に対して忠実な人はいませんでした。忠実、これは神の人が持つべき、もっとも重要な資質であります。使徒パウロも忠実な人でした。パウロは主が私を忠実な者と認めてくださったので、それに答えたわけです。忠実は英語ではfaithful、信仰に満ちたとか真実に満ちたという意味であります。つまり、信仰に満ちた人、真実に満ちた人が忠実な人だということです。神のしもべにとって、最も大切な資質は忠実さであります。すばらしい賜物や大きな能力もあればこしたことがありません。でも、忠実さがなければ砂上の楼閣であります。賜物や能力のある人に限って、忠実さがないのは残念なことです。私もイエス様の前に立ったとき、「善かつ忠なるしもべだ」と言われたいなーと心から思います。神の人モーセから学ぶ第一のことは、忠実であります。

 では、イエス様はどうでしょうか。イエス様もモーセと同様に忠実でありました。でも、イエス様は神の家と言うよりも、神の家を建てた神様に忠実であったということです。しかも、イエス様は神の家を忠実に治めるお方です。6節「しかし、キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし私たちが、確信と、希望による誇りとを、終わりまでしっかりと持ち続けるならば、私たちが神の家なのです」。なぜ、こんな分かりきったことを述べているのでしょうか。おそらく、その当時「あのイエスよりも、モーセの方が偉大だ」と思っていた人たちがいたからでしょう。ヘブル書の記者は、「モーセは神のしもべであったが、イエスは神の家を治める御子である」と言いたかったのです。ですから、当然、何に対して忠実であったかという違いが出てきます。モーセは神の民に対して忠実でありました。それは神の民に仕えることを通してであります。一方、イエス様は父なる神様に対して忠実でありました。それは神の民を治めることを通してであります。祭司や律法学者からクリスチャンになった人は、モーセには従うけれど、イエスにはどうかな?と思っている人がいたのでしょう。そうではなく、神の家を治める御子イエスに従うべきであると教えているのです。私たちの時代には、こういうことはさほど問題にならない話題であります。でも、イエス様はどのように神様に忠実であったのか、知るならば、私たちの信仰がものすごく強められます。イエス・キリストは神の家の代表者として、父なる神様に忠実でした。あらゆる律法を全うし、父なる神様に死に至るまで忠実でした。それはどういうことかと申しますと、私たちの代表として神様に忠実であったわけです。ですから、神様はイエス様に従う者たちすべてが、「ああ、あなたがたも忠実な人たちだなー」と見えるわけです。モーセは確かに忠実でありましたが、そこまでの影響力はありませんでした。しかし、御子イエス様は神の家を忠実に治める者として、神様に忠実だったのです。私たちは「イエス様の忠実」という大きな傘の下で、忠実とみなされている者たちなのです。なぜなら、イエス様が私たちの代わりに律法を全部全うし、私たちの代わりに父なる神様に従順だったからです。こんなありがたいことはありません。

 Ⅱテモテ2:11-13にすばらしいみことばがあります。次のことばは信頼すべきことばです。「もし私たちが、彼とともに死んだのなら、彼とともに生きるようになる。もし耐え忍んでいるなら、彼とともに治めるようになる。もし彼を否んだなら、彼もまた私たちを否まれる。私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。」これは、使徒パウロが言ったことばです。「私たちは真実でなくても、彼は真実である」とは、どういう意味でしょうか。この真実という言葉は、faithfulですから、忠実とも訳せる言葉です。英語の聖書には真実も忠実も区別がありません。ですから、このところを「私たちは忠実でなくても、イエス様は常に忠実である」と当然置き換えることもできます。つまり、私たちはイエス様の真実、あるいはイエス様の忠実さによって、救われているということです。私たちはよく「心から」という表現を用います。「心から愛します」「心から信じます」「心から従います」「心から悔い改めます」。とは言っても、心がそんなに純粋で、1本気なわけがありません。妻を愛しますと言いながら、あの女性も良いなと思うのが男性です。もう罪を犯しませんと約束しても、すぐ、悪いことを考えます。人間の心ほどいい加減なものはありません。もし、「あなたの心の全体を管理して、すべての悪い考えを撤去せよ!」と言われたら、ノイローゼになってしまいます。私たちはいい加減なところがあるんです。不真実なところ、不忠実なところもあります。でも、それらを全部含めて、イエス様によって、真実な者、忠実な者としてみなされているということです。

ヘブル語に「贖い」を表わすことばは、2あります。1つはゴエールであり、これは先週学びましたが、買い戻すという意味です。もう1つは、カーハールと言う言葉があります。これは覆うという意味です。私たちの罪は贖われる必要もありますが、同時に、覆い隠してもらう必要もあるのです。イエス様を信じると、義の衣で覆われます。義の衣を着ていますと、神様からは「あー、あなたには罪がない。イエスと同じ義なる人だ」と見えるわけです。内側には多少、罪や汚れがあったとしても、義の衣で覆われていれば平気です。

もう、15年も前のことですが、ある方からラムのハーフコートを贈られました。警官が着るような、黒のコートです。その方は、「これを着るとボロ隠しになって良いよ」と言って私にくれました。本当に、コートを着ると、下に何を着ても平気ですね。ラム、小羊の皮のコート、良かったですね。彼は、私と一緒に教文屋館で2年間勉強したことがあります。彼は信徒牧師になるため、私は教団の試験を取るために勉強しました。その人が「いつぞやはお世話になりました」と言うんですね。「えー、失礼ですがどなた様でしょうか?」と聞きました。私が座間教会でスタッフしていた頃、こういうことがありました。「近くの病院で入院していましたが、召されたのでお葬式をして欲しい」と2,3人来られました。まもなく、亡くなられたご老人が運ばれて来たのですが、なんと浴衣だけのスタイルです。講壇に毛布を敷いて、しばらくの間、そのご老人を守ることになりました。葬儀屋さんがくるまで、かなり時間がありました。もう一人のスタッフと「ちょっと気持ち悪いですね」とか言いながら、守っていたのです。あとから分かったのですが、そのご老人は山梨で牧師として働いておられたのですが、引退後、ご病気になられ座間の近く(相模原病院か北里病院)で入院していたわけです。一緒に付き添ってこられた人の中に、コートをくれた人が混じっていたわけです。おそらく、教会の信徒だったのでしょう。それで私たちの教会で葬儀をしてくれたので、その方は恩義を感じて、あのスタッフにお礼を差し上げたいと思ったわけですね。長い話・・・。で、メッセージと何の関係があるのでしょう。そのご老人は牧師として神様に長年仕えた人でありました。でも、死んだ時には、山梨を離れ、どこかの教会の講壇に浴衣1枚で寝かされていたということです。私がスタッフとして少しお手伝いしましたが、その信徒はそのことに感謝して、ラムのハーフコートを下さいました。いろいろ考えてみて、私たちは覆いが必要なんだなーと思います。死ぬときは本当に素っ裸です。地位も名誉も関係ありません。でも、イエス様を信じているならば、どんなに汚れた人であろうとも、義の衣が与えられます。また、イエス様を信じているならば、どんなに不忠実でも、忠実な者とみなされます。ここに、私たちのよりどころがあるんだなーと思います。「よりどころ」なんと良い言葉でしょうか。イエス・キリストの真実、イエス・キリストの忠実さこそ、私たちのよりどころです。私たちの信仰深さ、私たちの真実さには限りがあります。でも、イエス・キリストは大丈夫です。神の家の解放者であり、忠実なお方であるイエス・キリストに従って行きましょう。

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2006年3月 5日 (日)

救いの創始者        ヘブル2:9-18 

 3月に入りました。3月は梅が咲き誇り、後半は桜が咲き始めるという、すばらしい季節です。と言いながら、3月は卒業とか年度末で忙しい時でもあります。忙中閑有りと申しますように、聖書のみことばに耳を傾ける時も「有り」だと思います。ところで、ヘブル1章では、御子が神であることに重点が置かれていました。しかし、2章には、御子が人間になる必要があったということが述べられています。きょうは、何故、御子が人間になる必要があったのかということを学びたいと思います。

1.創始者の条件

 10節に「イエス・キリストは救いの創始者となられた」とあります。創始者とはギリシヤ語のアルケーから来た言葉で、始めた者、開始した者という意味です。よく、宗教には開祖と言われる人々がおり、仏陀、マホメット、イエス・キリストが有名です。他に、天理教とか立正佼成会、天台宗、さらに少林寺拳法にもそれぞれ開祖がおります。イエス様も開祖と言えば言えるのですが、他の方々と違うのは、もともと神である方が人となって救いを開いたということです。しかも、イエス様は救いを開いただけではなく、ご自身が救いの道となられました。そのためには、神が人となって、人間が味わうあらゆる苦しみを味わう必要がありました。もちろん、神様は全知全能ですから、あらゆることを知ってはいます。しかし、体験的に知るためには、やはり神が人間にならなければダメであります。ところで、人間が味わう最大のイベントとは何でしょうか。昔、「谷間に3つの鐘がなる」という歌がありました。人間が生まれたとき、結婚のとき、そして死んだときに教会の鐘がなるということです。きっと、鐘の音色が違ったのではないかと思います。山間の人々はその音色で判断したことでしょう。誕生のときの鐘は軽やかで早いテンポかもしれません。結婚はあらゆる音色の鐘を鳴り響かせ、豪華な感じをもりたてるでしょう。しかし、お葬式の場合は1つの鐘、しかも、低い音色の鐘をゆっくりならしたのではないかと想像できます。誕生、結婚、死の中で、最大のイベントはやはり「死」ではないでしょうか。神様は永遠なる方ですから、「死」というものを味わったことがありません。御子は人間の最大のイベントである、死を体験するために人間となられたのです。

 11節に「それで、主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥としない」と書かれています。御子イエスは神のひとり子ですが、私たちを兄弟と呼んでくださるということです。つまり、神様が父であり、御子イエスが長男、そして、私たちはそれぞれ弟であり妹だということです。なぜ、イエス様は私たちの兄弟となってくださったのでしょうか。これも、救いの創始者となるために必要なことであります。旧約聖書のルツ記には、「買戻しの権利」ということが書かれています。エリメレクとナオミはききんがあったため、息子たちを連れて、ベツレヘムからモアブに移り住みました。モアブで息子たちは嫁を迎えました。ところが、そのあと夫エリメレクが死に、二人の息子が死に、ナオミと二人の嫁だけが残されました。意を決して、ナオミはふるさとのベツレヘムに帰ろうとしましたが、嫁のルツは「あなたの民は私の民、あなたの神は私の神」と言って、離れませんでした。嫁と姑というのは、確執があるのが当たり前ですが、彼女らは例外でした。ナオミは故郷に戻りはしたものの、自分の土地は既に人手に渡っていました。嫁のルツはいじらしく、その日の食物を得るために、落穂を拾いに出かけます。これが「落穂拾い」という絵になっています。はからずも、ルツが落穂を拾っていた畑がボアズの畑でした。ボアズという人は、ナオミの近親者で土地を買い戻す権利のある人だったのです。長い話を短くしますと、ボアズがルツと結婚し、ナオミの土地が買い戻されたということです。「買戻しの権利のある親戚」をゴエールと言いますが、これは「贖う者」という意味にも使われます。レビ記には、「あなたの兄弟が貧しくなり、先祖伝来の土地を手放そうとするならば、親類のゴエールが来て、兄弟の売った土地の買い戻しをしなければならない」と、書いてあります。つまり、イエス様が私たちを贖うためには、親戚に、あるいは兄弟の一人にならなければならなかったということです。

 私は「それで、主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥としない」という言葉に感動いたします。私は田舎で育ちましたが、村ではだれかが刑務所に入ると「あそこの家は前科者を出した家だ」とレッテルを貼られました。人の噂も49日と言われますが、田舎では何年、何十年も残ります。ですから、お兄さんが服役した人だとすると、兄弟全部が「前科者もの兄弟」と言われ、とても肩身の狭い思いをするわけです。もし、自分がその兄弟だったら、自分のせいじゃないのに嫌な思いをするでしょう。私は8人兄弟の7番目ですが、下に妹がおります。妹は3月の末に生まれました。母は4月生まれの子どもより1年もハンディがあるので、とても心配しました。妹は勉強についていけないのか、小学校2,3年生のとき、特殊学級にはいりました。今は「仲良し学級」と言うようですが、当時は、強烈なイメージがありました。私は上の方のクラスで級長をしていました。全校生徒の朝礼のときは、私が先頭に立って体育館に入ります。そのとき、クラスの友達から、「お前の妹は特殊学級に入っているのか?」と言われ、とても恥ずかしい思いをしました。私はそのことで妹を「馬鹿、馬鹿」と言っていじめました。残念ながら、私は、自分の妹を恥みたいに思ったわけです。それから、私は高校生のとき、ボクシングで挫折して精神的におかしくなりました。学校の帰り、スーパーで万引きして、母が学校に呼ばれました。そのとき、土木科の先生が「何と破廉恥なことをしたんだ。お前の兄は優秀だった。その舎弟が何ごとか!」とたしなめられました。今度は私が逆の立場になったわけです。そういうこともあって、イエス様が「彼らを兄弟と呼ぶことを恥としない」というところを読むと胸が熱くなります。日本人は、恥という言葉にとても弱いんじゃないかと思います。そのぶん、イエス様が「私たちを恥としない」と言ってくれると、本当に嬉しくなります。

 イエス様はこの地上に降りてこられ、私たち罪人と同じになられました。馬小屋で生まれたのは貧しい人の友となるためです。マリヤの子、私生児と馬鹿にされたのはそういう人たちの理解者になるためです。イエス様の父は早く亡くなくなったようですが、母を支え、弟や妹たちのめんどうをみました。だから、イエス様は、そういう立場の人を理解できます。イエス様が割礼を受けたのはユダヤ人と同じになるためでした。また、洗礼を受けたのは、罪人と同じ立場に立つためでした。さらに、福音書を見ますと、イエス様は「大酒飲みや遊女の友」だと言われました。また、「罪人の家にはいって一緒に食事するとは何事だ」とパリサイ人や律法学者たちから非難されました。最後に、十字架に付けられたとき、罪ある人と一緒に数えられました。イエス様はお一人で十字架にかかられたのではなく、右と左に犯罪者がいました。イエス様が中央だったので、道行く人は、「ああ、あの真ん中のヤツが一番悪いんだろうなー」と思ったことでしょう。右か左の犯罪人の一人が今わの際で、「私を思い出してください」と言いました。普通だったら、「あほ、私は罪のない神の子だ、お前と一緒にしないでくれ!」と言うかもしれません。でも、イエス様は「あなたはきょう、私とともにパラダイスにいます」と言われました。「犯罪者とともにパラダイスに行く」ということであります。これはものすごいことであります。最後には、神に捨てられ、死人が入る墓に入りました。イエス様は拒絶を味わい、死まで味わわれたのであります。それは何のためでしょうか。それは、私たちの近親者になり、本当の贖いを成し遂げるためであります。イエス様は贖い主でありますが、同時に、あわれみ深い大祭司です。17、18節「そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。」イエス・キリストは、高いところから「お前たちを救ってやるぞ」という救い主ではありません。主ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。私たちのためにすべての苦しみを味わい、死まで味わってくださったイエスさ様に感謝しましょう。

2.創始者の目的

 イエス様は人間になりすべての苦しみを味わい、死まで味わってくださいました。それは、私たちを贖うためであり、理解ある大祭司になるためでした。しかし、それだけではありません。イエス様が死なれたのは、死と悪魔を滅ぼすためでもあったのです。14節「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。」「子たち」とは、私たち人間のことであります。私たちは血と肉をもっているので、イエス様も同じように、血と肉をもってこの地上に生まれたのです。そして、イエス様は人間として十字架で死なれました。イエス様の死は単なる死ではなく、罪の身代わりの死、贖罪の死でありました。でも、それだけではなかったのです。イエス様は死という敵をも滅ぼす必要がありました。私たちは「死」はだれにも来るものであって、それは諦めるしかないという文化に生きています。しかし、死は初めからあったものではありません。死はアダムとエバが神に逆らってから、やって来た罪の結果であります。創世記3章に、「あなたはちりだから、ちりに返らなければならない」と書いてあります。神様は人間を永遠に生きるものとして創造されたのに、死が人間に入り込んできたのです。福音書を見てもわかりますが、イエス様は死と遭遇すると、命に替えました。ヤイロの娘を生き返らせ、ナインのやもめの一人息子を生き返らせました。イエス様は葬儀をしたことありません。むしろ、葬儀をぶち壊しにしてしまうのです。ラザロの場合は死んで4日もたっていましたので、すでに墓の中に納められていました。イエス様がマルタとマリヤが泣いている時、どう思われたでしょうか。ヨハネ11:33「霊の憤りを覚え、心の動揺を感じた」と書かれています。イエス様は死に対して憤られたのです。「憤り」というギリシヤ語は、「馬が怒って鼻を鳴らす」という意味があります。馬をご覧になったことがあるでしょうか。馬がこれから走るぞというときには、興奮して、「ぶるぶるるー」と鼻を鳴らします。イエス様も「これから死と戦ってやるぞ」と霊的に興奮していたのです。その次に、イエス様は感謝の祈りをささげた後、「ラザロよ。出て来なさい」と墓穴に向かって叫びました。すると、布でまかれたラザロが生き返って出て来たのです。ハレルヤ!またもや、イエス様は死に打ち勝たれました。このように、イエス様はこの地上におられたときには、少なくとも3人を生き返らせております。でも、人類全体を死から解き放つ必要があります。そのためにイエス様自ら死んで、死に勝利する必要があったのです。イエス様は「私はよみがえりです。いのちです。私を信じる者は、死んでも生きるのです」(ヨハネ11:25)と約束されましたが、よみがえりの創始者になる必要があったのです。

 しかし、みなさん、ヘブル人への手紙には、復活のことは書かれていません。「その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした」と書いてあります。このみことばをそのまんま見ますと、イエス様の死そのものが勝利だったことがわかります。そして、良く見ると、イエス様がご自分の死によって滅ぼしたのは、死ではなく、死の力を持つ悪魔だということです。確か、パッションという映画で、イエス様が十字架で死んだ直後、悪魔が「わー」と頭を抱えて自滅しているシーンがありました。まず、死そのものがやって来たのは、アダムとエバが罪を犯したからでした。そのために、イエス様はご自分が罪の罰を身代わりに受けたことにより、罪が贖われました。つまり、死がやって来た、死の源が解決されたわけです。では、悪魔は何のでしょう?悪魔はヨハネ10章には「盗み、殺し、滅ぼす者」だと書かれています。つまり、人間に罪を犯させ、死に至らせる誘惑者であります。イエス様が死んだことは、悪魔にとってとても良いニュースでありました。ところが、イエス様の死は、悪魔の頭を打ち砕くことになったのです。なぜでしょう。悪魔は罪のないイエス様を殺す手助けをしたからです。悪魔は罪のないイエス様をさばいたことにより、今度は逆に自分がさばかれることになったのです。悪魔はそのときまで、イエス様の死が、自分の滅亡につながることを知らなかったのです。だから、十字架は神の知恵であります。神の愚かさは人間よりも、悪魔よりも賢かったのです。イエス・キリストは復活の前に、罪を贖い、悪魔が持つ死の力を滅ぼしてくださったのです。イエス様は「十字架ですべてが終わった」と叫ばれました。弟子たちは「ああ、もうおしまいだ。何もかも終わってしまった」と捉えたかもしれません。しかし、終わったという言葉の意味は、「完了した」とか、「完済した」という意味です。ですから、この叫びは失意の言葉ではなく、勝利の宣言であったわけです。ある人は、イエス様の喜びがあまりにも大きかったので、イエス様の心臓がそのとき破裂したのだと言います。それは定かではありませんが、イエス様は死によって、死の力を持つ悪魔に勝利されたのです。

 私たちは十字架の死の勝利と、復活による死の勝利をダブルでいただいていることになります。イエス様が死の刺を抜き去ってくだったのです。ですから、クリスチャンの死は滅びではなく、天国に凱旋する門出になるということです。そのことが信じられたら、死が怖くなくなります。死の毒針が取り去られたのですから、当然、死の恐れからも解放されます。私はイエス様の死は、血清と似ているんじゃないかなーと思います。マムシやハブで噛まれたとき、血清があると大丈夫です。ところで、血清はどのように作られるのでしょうか。ある動物、馬とか牛に病原菌(毒)を打ち込みます。すると動物は死ぬかもしれませんが、病原体(毒)に対する抗体ができます。それから血清を作ることができます。その血清を打った人は、その病気(毒)に打ち勝つことができるのです。イエス様を馬や牛にたとえるのは大変失礼かとは思いますが、イエス様は死という病原菌(毒)を打ち込まれたのです。そして、死にました。しかし、イエス様の死によって、死という毒に打ち勝つ血清が作られたのです。イエス様はヨハネ6章で「私の肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠の命を持っています。私は終わりの日にその人をよみがえらせます」(ヨハネ6:54)と言われました。イエス様はご自分の血を飲めと言われました。まさしく、血清であります。聖餐式で私たちは肉と血を象徴する、パンとぶどう液をいただきます。飲むとどうなるでしょうか?死が怖くなるのです。なぜなら、信仰によって、贖いの命が私たちの内に入ったからです。ハレルヤ!私たちの肉体は日々、死に向かっています。死んでから血清を打っても効果はありません。生きているうちに、死ぬ前に、死に打ち勝つ血清を打っておりましょう

 うちには、6歳の子どもがおります。夜、寝る時、いろんな話をします。「有悟が24歳になると、パパは70歳。有悟が結婚するまで生きているかなー。有悟が30歳のときは、パパは76歳、『おお、有悟やー』となるよ」言います。その声が面白いのか、もういっぺん言ってと頼まれます。「おお、有悟やー」と言うと、けらけらと笑います。その後、「それからどうなるの」と聞きます。「死んで、一足先に天国に行って待っているよ」と答えます。この間の夜は、「パパ、死ぬのが怖い」と言いました。「いや、有悟はまだ、まだ死なないよ。おじいちゃんになってからだよ」と答えました。すると、「おじいちゃんになってからも、死ぬのが嫌だ」と言いました。「いやいや、有悟が大きくなる頃は、イエス様が天から戻って来て、生きたまんまで天国に行けるかもよ」と答えました。ま、果たして、再臨のことが理解できたか分かりませんが、6歳の子どもが「死ぬのが怖い」と言うのには驚きました。私もお風呂上りで子どもと寝ると、体が暖かいせいか、すぐ眠気が襲ってきます。意識がもうろうとしてくるのが分かります。「ああ、死ぬときは、こんな感じなのかなー。だれにも言葉も伝えられず、闇に飲み込まれていくのかなー」と思います。死は子どもでも、大人でも怖いもんなんだなーと思います。でも、みなさん、イエス様はだれもが迎える死を経験して、死の毒針を抜いて下ったのです。死ぬときは「イエス様―、我が霊を御手にゆだねまーす」と言って逝きましょう。イエス様が私たちと同じになり、十字架にかかられたのは仕方なくではありません。喜びのゆえであります。死の恐れよりも、天国の喜びの方が大きいのです。そのためには、信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいる必要があります。最後に、ヘブル12:2を引用して終えたいと思います。「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました」。

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