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2006年3月26日 (日)

ヨシュアにまさる      ヘブル4:1-13

 桜が咲き、いよいよ本格的な春到来と言う感じです。しかし、どんなに美しい花や風景を見ても、心に憂いがあるときは、色あせて見えます。きょうの礼拝で、憂いを解消していただいて、神様から希望が見える、眼鏡をいただきたいと思います。本日は「ヨシュアにまさる」と題して、ヘブル人への手紙4章から3つのポイントで学びたいと思います。

1.神の安息

 4:1「こういうわけで、神の安息にはいるための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれにはいれないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか」。ヘブル人への手紙3章には「安息」ということばが3回、4章には9回も出てきます。「安息」とは、労苦や悩みから解放されて平安のうちにある状態を言います。しかしそれだけではなく、安息は「神の救い」と関係があります。エジプトを出た民は安息の地カナンを目指しましたが、不信仰のゆえに入ることができませんでした。神の安息は、40年後、ヨシュアと共にカナンに入った若い世代の人々に与えられました。では、今日、神の安息に入るための約束は残されていないのでしょうか。ヘブル書はダビデの言葉を引用して、「きょう、もし御声を聞くなら、あなたがたの心をかたくなにしてはならない」と勧告しています。ダビデはヨシュアよりも何百年もあとの人ですから、「安息への招き」は、まだ残されているということです。しかし、ヨシュアが入った安息とダビデや私たちが入る安息は、質が違います。前者は地上における安息であり、後者は天の御国における安息であります。イエス様は「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言われ、宣教を開始されました。つまり、世の終わりに来る神の御国こそが、真の安息であるということです。

 ところで、旧約聖書はヘブル語で書かれていますが、70人訳という、ギリシヤ語で翻訳されたものもあります。ヨシュアは「主は救い」という意味ですが、ギリシヤ語では「イエースース」と言います。イエス様の発音も同じ、「イエースース」なのであります。つまり、旧約のヨシュアは新約のイエス様の型、タイプということになります。ヨシュアはイスラエルの民を約束の地カナンに導き入れました。一方、イエス様は新しいイスラエルである神の民を天の御国に導き入れて下さる方です。ヨシュアとイエス様は似ていますが、イエス様はヨシュアにまさるお方です。なぜなら、イエス様はイスラエルという1部族だけではなく、全世界の人を導き入れてくださるからです。しかも、イエス様はカナンよりもまさる、天の御国を私たちにお与えになります。みことばにあるように、神の安息、神の御国に入るための約束は、まだ残されています。では、神の御国に入る鍵とは何でしょうか?なんでも鍵が必要です。金庫は力ずくでは開けられません。でも、鍵さえあれば子どもでも開けられます。神の御国に入る鍵とは信仰であります。4:2、3「福音を解き明かされていることは、私たちも彼らも同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。信じた私たちは安息に入るのです」。ここに、「福音を聞いて、信じた者が安息(御国)に入る」とはっきり告げられています。

 救いを得るためには信仰が必要です。たとえ良い知らせ、福音を聞いても、それを信じなければ自分のものになりません。私は27年前、職場の先輩から、個人伝道されました。彼はたとえ話を用いてこのように説明してくれました。ある人が鈴木君にブリタニカの百科事典をプレゼントしてくれたとします。今はインターネットで何でも調べられますが、昔、百科事典はとても価値がありました。ある人が言いました。「私は本屋さんに百科事典の代金をすでに払ってあります。だから、あなたがその本屋さんに行って、『私は鈴木と申します。百科事典を受け取りに来ました』と言えば、渡してくれます」。鈴木君はどうしますか?「そんなうまい話などあるわけがない」と受け取りに行かなければどうでしょうか。「売約済み」として、その百科事典がずーっと本屋さんに並んでいることでしょう。でも、何年も取りに行かなければ、場所をふさいで困るので、処分するか、他の人に売るかもしれません。でも、だまされたと思って、その本屋さんに行って、「私が鈴木です。ブリタニカの百科事典を受け取りに来ました」と言えばどうでしょうか。「はい、お待ちしておりました。こちらの品物です。代金は既にいただいておりますので、ここに受け取りのサインだけをお願いします」と言われるでしょう。本屋さんに受け取りに行かなければ、永遠に百科事典はあなたのものにはなりません。信じて、本屋さんに行けば、百科事典はあなたのものになります。救いも同じです。・・・このように話してくれました。イエス様はあなたが御国に入るための代価を十字架で払ってくださいました。「私はイエス様を救い主として信じます。御国を私にください」と願えば、即、あなたのものになります。

 ところで、ナントカ太蔵という人は本当にうまくやったナーと思います。たまたま、申し込んだのに、比例区で当選。「ヒラリーマンから、衆議院議員になった」と本人が申しております。給料も年1千何百万、新幹線グリーン車乗り放題、通信費毎月100万。最近は、結婚宣言までしました。多くの人たちは「羨ましい」を越えて、「まっこと腹立つ」と思っているんじゃないでしょうか。でも、私たちはどうでしょうか。イエス様を信じただけで、神の子になれたんです。いわば、ジーザス・チルドレンです。罪赦され、御国に入れるばかりか、様々な特権が与えられています。祈れば何でも叶うという「イエスの御名」までいただいています。何の功績もなしに、福音を信じただけで救われたという恵みを思い起こしましょう。

2.神のことば

 神のことばは私たちの信仰を本物にしてくれます。みことばは、内側にある、不純なものや悪いものを判別してくれます。12節「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます」。私たちはだれでも心を持っています。聖書では、心は魂をさします。心は、感情、意志、知性をつかさどっています。私たちは、心で、いろんなことを考えたり、決定したり、判断したりしています。神様は私たちに「意志を全くなくしてロボットのように従いなさい」とおっしゃっておりません。「何も考えないで、無になれ」というのは、キリストの教えではありません。それは、カルト宗教やニューエイジの間違った教えです。私たちは常に考え、常に悩み、常に選択し、常に何かを欲しています。これは魂が、生きている証拠です。でも、私たちは魂だけを持っているわけではありません。魂の奥に、霊があります。この霊こそが信仰の拠点であります。私たちは、この霊によって神様と交わることができるのです。でも、霊だけでは生きていけません。霊は魂を必要としています。別な言い方をしますと、霊は魂を着ており、魂は肉体を着ています。霊と魂と肉体はがっちりとくっついており、3つを切り離すことは容易ではありません。

 みなさん、私たちは霊、魂、肉体、それぞれの分野で病気になります。肉体が病気になると病院に行っていろんな検査を受けます。血液検査、尿検査、心電図、CTスキャン、MRIなどがあります。お医者さんは「ここが悪い」と、病名を知った後にはじめて治療します。何の病気か分からないのに、「とりあえず注射を1本打っておきましょう」ということはありません。それは危ないお医者さんです。それでは魂、心の病気はどうでしょうか?最近の精神科医も随分と進んできております。昔は分裂症とかノイローゼぐらいがおもな病名でした。でも、今は恐怖神経症、強迫神経症、統合失調症、他動性障害、学習障害・・・数え切れないほどの病名があります。現在のところ、様々な病名はつけられていますが、治療の方が追いついていないというのが現状でしょう。では、霊の方はどうでしょうか?これは最も遅れている分野です。なぜなら、宗教の領域とされ、アンタッチャブルな世界だからです。でも、霊は存在します。「霊が弱い人は病気になったり、怪我や事故を拾いやすい」とエリヤハウスで学びました。イエス様を信じていない人の霊は開店休業。霊はあっても、ほとんど働いていない状態です。霊、魂、肉体、それぞれの分野で病気になります。でも、それだけではありません。アダム以来の罪、自分が犯してきた罪が、霊と魂と肉体にも影響を及ぼしています。人間は霊・魂・肉体ともども堕落した存在であります。こういう人がイエス様を信じて、新しく生まれ変わったとして、果たして何の問題もなく信仰生活を歩むことができるでしょうか。「あなたはイエス様を信じてクリスチャンになったんですから、死んでも天国にいけます。だから、安心してください」と言われても、安心できません。私たちは天国に行ってからの安息だけではなく、地上においても神の安息が欲しいですね。

 私たちの信仰をチェックし、問題点を捜し、そして神の安息が得られるように回復してくれるものは何でしょうか。それは神の言葉です。まず、神の言葉は私たちの考えや思い、そして動機の分野をチェックしてくれます。やっていることが正しくても動機が汚れている場合があります。清く正しそうに見えても、内側には情欲や汚れた思いがうずまいているかもしれません。思想が整っていても、聖書的でないかもしれません。儒教や仏教から来たもの、あるいは唯物論から来た思想もあります。日本という独特な文化的要塞もあるでしょう。「男はこういうものだ」「女はこういうものだ」「仕事とはこういうものだ」「結婚とはこういうものだ」「家とはこういうものだ」・・・いろんな価値観があるでしょう。神様を信じると口では言いながらも、「天は自らを助けるものを助ける」「祈るだけではだめで、自分の努力も必要だ」「最後に頼れるものは自分だ」など思ってはいませんか。それらは、この世であなたが学んで得たことかもしれません。中高生のときにイエス様を信じたのならともかく、30代、40代、50代でイエス様を信じた人は、リフォームぐらいじゃ済まされません。本当に、土台をひっくり返す、リボリューション、革命が必要です。だから、聖書は古い自分に死になさいといろんな箇所で言っているのであります。クリスチャンは改善とかリフォームではありません。生まれ変わりであり、回心です。あのパウロも本当のクリスチャンになるまで、10数年かかっております。信じた直後アラビアに逃れ、生まれ故郷のタルソで、しばらく隠遁していました。その間、第三の天に上る経験をしたり、特別な取り扱いを受けて、本物の使徒になったのです。

 「神のことばは両刃の剣よりも鋭く、魂と霊、間接と骨髄の分かれ目さえも刺し通す」とありますが、お医者さんのメスのようなものであります。榎本保郎先生は、「私たちがみことばを切るのではなく、みことばによって私たちが切られるのである」と言われました。聖書を読むとき、「ここは従えないから無理」「ここは信じられないから無理」と切って読む人がいます。それは聖書よりも自分が主体になっています。そうではなく、自分が聖書に屈服する。「ああ、ここが私の足りないところです」「ああ、ここが矯正されなければならないところです。アーメン」。このように、聖書を読むべきです。みことばによって点検され、そして弱点が強化されるとき、力強い歩みができてきます。最近、JALの飛行機が点検整備を怠って、飛ばしていたということがあからさまにされました。他人ごとではありません。クリスチャンでも、むやみに怒ったり、権威・権力をふりまわすことがないわけでもありません。ですから、私たちも、みことばから、日々、点検整備される必要があります。ある人が格言のようなものを与えています。「聖書はあなたを罪から遠ざける。もしくは、罪があなたを聖書から遠ざける」。神のことばに親しみ、より良い信仰を築き上げていきたいと思います。

3.神の子イエス

 13節「造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです」。私たちは神様の前ではすべてが裸であり、さらけ出されています。隠せおおせるものは何1つありません。この言葉を聞いて、安心する人と、「エー、困ったどうしよう」という2種類の人が出てきます。神様はすべてをご存知であり、すべての人が神の前でいつかは弁明をしなければなりません。このことを聞いて、「良かったー」という点があります。それは、この世でごまかして、悪いことをしている人が、裁かれるということです。私はクリスチャンになる前、「この世には悪いことをしている人がいるのに、だれも裁いてくれないのか」と腹立たしく思いました。多くの人たちはテレビや新聞を見て、「こんなの赦せない」「こんな不条理があって良いのか!」と怒りを覚えたり、悲しくなったりします。もちろん、この世で裁かれることもありますが、裁かれないでそのまま隠される場合もあります。でも、聖書は言います。「やがて、神の前に立とき、白日のもとにさらされ、1つ1つ弁明しなければならないときがくる」と。たとえ人間の裁きをまぬがれたとしても、神様の前ではそんなことはできません。最終的には神様がすべてをさばかれます。そうしますと、1つ1つの悪いニュースに腹を立てたり、苦い思いをしなくて良くなります。でも、それが自分の場合であったらどうでしょうか。自分が罪を犯している場合です。知らないで犯した罪もあれば、わかってやったもの、仕方なくやったものもあります。罪を犯している魂には安息がありません。

 でも、ここにすばらしいニュースがあります。14節「さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか」。私たちのために、偉大な大祭司である神の子イエス様がおられます。この方が、神様と私たちの間に立って弁護してくださるのです。しかも、この方が「私に免じて赦してください」と父なる神様にご自分の命を差し出してくださった。なんとありがたいことでしょう。私たちの信仰がたとえ不完全であっても、大祭司である神の子イエスがおられるなら大丈夫です。私たちはキリストにあって、神様の前にすべてがあらわにされても平気な存在です。なぜなら、イエス・キリストがどんなに醜い罪も贖ってくださったからです。しかも、義の衣で、罪や汚れが覆われている状態です。たとえ、サタンが裁いても、キリストのゆえに私たちはさばかれないのです。先週は、ナルニア国物語「ライオンと魔女」を有悟と二人で見に行きました。アリオの映画館も奇麗で良かったですね。なんと、そのストーリはイエス・キリストの贖いとそっくり。アスランというライオンが裏切った一人の少年の身代わりに死ぬんです。アスランが代価を払ったので、その少年は自由の身となりました。こんど、その少年は勇敢に魔女に立ち向かいます。私も映画を見て、ポロッときましたね。イエス・キリストは贖い主であり、さらに神様と私たちの間をとしなす大祭司なのであります。

 また、イエス様がわざわざ人間になったのは何故でしょうか。それは、私たちの弱さに同情し、深いあわれみを与えてくださるためであります。イエス様は罪こそ犯されませんでしたが、すべての点で私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、イエス様は私たちにとって、一番の理解者であります。ある人たちは、心の傷を癒すためにカウンセラーのところに通っています。カウンセラーの重要な要素は「クランケを理解することだ」そうです。もちろん、お金をかけて、そういうところに通うのも良いでしょう。でも、所詮、カウンセラーも人間ですから、限界があります。私たちクリスチャンには、ザ・カウンセラーが共におられることをお忘れなく。イザヤ書9章には「その名は、不思議な助言者」と書いてあります。英語では、ザ・ワンダフル・カウンセラーであります。イエス様は私たちを理解するために、人間となって、同じ試みに会われたのです。ですから、私たちに同情し、憐れみと助けを与えることがおできになります。しかも、神様ですから、私たちを癒し、新たに作り変えてくださることができるのです。みなさん、これが、信仰の極意です。「人に相談するな」と言っているわけではありません。信頼のおえる人に相談することは良いことです。でも、人に依存してはいけません。私たちは大祭司なるイエス様に依存すべきであります。4:16「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」。イエス様の場合は面談のための予約はいりません。1時間でも、2時間でも無料です。いつでも、どんなときでも、助けをいただくことができるのです。コンピューターを買いますと、「3年間無料サポート付き」というのがあります。私たちの信仰は、天国に行くまで、無料サポート付きなんです。

 恵みの御座とはイエス様と神様がおられる至聖所です。かつては、大祭司が年に1回、きよい動物の血を携えて至聖所に入ることができました。でも、ヘブル書の主題はこうです。神の子が大祭司になり、動物ではなく、ご自身の地を携えて聖所にお入りになった。そして、1回で永遠の贖いを成し遂げた。だから、私たちは恐れることなく、大胆に、神の恵みの御座にころがりこむことができるのです。「あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」。

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