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2006年3月19日 (日)

神の民への警告      ヘブル3:7-19

 3月は卒業のシーズンであり、4月は入学のシーズンでもあります。何事においても、始まりがあれば終わりがあります。信仰においても、スタートがあります。だれでも「信じます」という決定的なときがあるはずです。それを信仰における「点」と言っても良いかもしれません。また、信仰は1回だけ信じるというものではなく、天国に入るまで信じ続けるという要素もあります。「あのときは信じたけど、今はもう忘れちゃった」というのは問題があります。ですから、信仰というのは信じ続ける「線」という意味もあります。きょうの説教題は、「神の民への警告」でありますが、内容は「信仰における点と線」であります。

1.信仰における点

 7と8節をお読みいたします。「ですから、聖霊が言われるとおりです。『きょう、御声を聞くならば、荒野での試みの日に』、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない」。ヘブル人への手紙3章には、「きょう」という言葉が3回あります。そして、4章には2回あります。「きょう」とは、何か決断をせまられるような主の御声を聞いたときであります。主が「私に従いなさい」、「○○しなさい」とお声をかけるときがあります。そういうときは、一生に何度もあるわけではありません。人生においてとても重要なとき、危機的なときであります。イスラエルの民がなぜ、荒野を40年間も旅することになったのでしょうか。民数記14:22「主は『エジプトとこの荒野で、私の栄光と私の行なったしるしを見ながら、このように10度も私を試みて、私の声に聞き従わなかった』」と言われました。10度の中には、食べ物がないときつぶやいたこと、水がないとモーセと争ったことも含まれます。彼らは「本当に主私たちたちと共におられるのだろうか」何度も主を試みました。でも、決定的な出来事は、シナイ山を越え、カデシュ・バルネアというところに来たときです。ヨルダン川を越えれば、向こうは約束の地・カナンであります。カナンは乳と蜜が流れる肥沃な地でありました。しかし、ヨシュアとカレブ以外の偵察隊は「あの民は私たちよりも強いから攻め上れない。私たちには自分たちがいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう」と言いました。全会衆はそれを聞いて大声をあげて叫び、泣き明かしました。そして、「私たちはエジプトの地で死んでいたらよかったのに。できれば、この荒野で死んだほうがましだ」とつぶやきました。ヨシュアとカレブは「主にそむいてはならない。その地の人々を恐れてはならない。今攻め上るべきだ」と主張しました。しかし、全会衆は、彼らを石で打ち殺そうとしました。そこで主がモーセを通して言われました。「ヨシュアとカレブ以外は、約束の地に入ることができない。あなたがたは、荒野で40年羊を飼う者となり、死体となってこの荒野で倒れてしまう」。これが、20歳以上の者たちが、約束の地に入れなかった直接的な原因です。

 私たちの人生において、明日ではなくて、「きょう」主の御声に従わなければならないときがあります。もし、その時を失うならば、40年後に再び来るか、もしかしたら永遠にその時は来ないかもしれません。ある時、ザアカイはイエス様が来るのを木の上から待ち伏せしていました。イエス様は上を見上げて、「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから」と言われました。ザアカイは、急いで降りて来て、大喜びでイエス様を迎えました。そのとき、イエス様は「きょう。救いがこの家に来ました」と言われました。もし、ザアカイが手帳を出して、「えーと、きょうはダメです。急にお客さん連れ行ったら家内に怒られてしまいます。えーと、こんどの木曜日か、金曜日ならスケジュールが空いていますよ」と答えたらどうなったでしょうか。イエス様はそのままエルサレムに行って、十字架にかかるおつもりでしたから、この次はありません。ザアカイが救われたのは、「きょう」と言われたときに従ったからです。使徒パウロがアテネで福音を語りました。ある者たちは「このことについては、またいつか聞くことにしよう」と言いました。信仰の決断を迫られたとき、ある人たちは「またいつか」「またこんど」と断るかもしれません。一方、パウロがピリピの看守に「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」と言ったときです。「看守は、その夜、時を移さず、二人を引き取り、その打ち傷を洗った。そして、そのあとですぐ、彼とその家の者全部がバプテスマを受けた」と使徒16章に書いてあります。イエス様を信じるチャンスというのは、一生に何度もあるものではありません。私が教会に行って、まもない頃のことです。3月か4月頃、洗礼式がありました。その中に、白髪の姉妹がひざまずいていました。「女学校時代、戦争があって教会にいけなくなり、40年ぶりに教会に戻って来ました」と証しておられました。そうしますとクリスチャンになれた人は、「いやー、あのとき決断して良かったなー」と思っていらっしゃるのではないでしょうか。今度、TPWが来られますが、アンドレの招きは、かなりしつこいですね。「まだ、イエス様は待っています。Come!そう、きょうがあなたの救いの日です」とかなんとか言って、10分以上、伸ばすんですね。私などは、こんなにしつこいのでは躓く人が出るんじゃないかとハラハラドキドキしていました。でも、TPWで少なくとも、3人は洗礼受けました。押されたり、ひっぱられたりしながらの決断ですが、後からでは無理だったかもしれません。

 40という数字は忍耐とかさばきを表しています。天に召された戸叶長老から聞いた話ですが、この教会の方で、若い時、牧師になろうかなと思った人がいたそうです。ところが、ちょうど子どもたちの学費がかかるときでした。その方は、仕事をやめないで、子どもたちが独り立ちしてから献身しようと考え直しました。ところが、あれやこれやと、40年経ち、70歳くらいになってから牧師になりました。私はその方に、お会いしたことがありますが、「それがみこころだったのですか」と、聞けませんでした。私は伝道師や牧師をおやめになった方を何人も知っていますが、一度やめてしまうと復帰することがなかなかできません。皮肉にも世の中で成功して、戻る気がしなくなるようです。牧師は主のあわれみでなったのですから、それを蹴ってしまうと、戻りたくても戻れなくなってしまう。だから、私は牧師になった以上は、石にかじりついてでもやめない、やめられないと思っています。イスラエルの民が40年も荒野をさまよった原因は、不従順であり、不信仰でした。ヘブル3:17-19「神は四十年の間だれを怒っておられたのですか。罪を犯した人々、しかばねを荒野にさらした、あの人たちをではありませんか。また、わたしの安息にはいらせないと神が誓われたのは、ほかでもない、従おうとしなかった人たちのことではありませんか」。安息とは何でしょうか。一度、信じたとしても、離れるならば天国に入れないということでしょうか?ここで、「信じた者が滅びる可能性があるのか」という、神学的な話をするつもりはありません。安息というのは、「恵まれた信仰生活」と言う方が、福音的であります。つまり、神様が「きょう、従いなさい」と言われたときに、従わなかったならば荒野をぐるぐるさまよってしまうということです。ヘブル書には「従わない人は、さらに心がかたくなになり、生ける神様から離れてしまう」と書いてあります。みなさんの信仰生活を振り返ってみて、「あの時、従うことができたので、今日の私がある」という人はいないでしょうか?私が座間教会でスタッフしているときこういうことがありました。大川先生から、第一礼拝は田中伝道師に、第二は私に、第三礼拝は吉永副牧師が証をするように依頼されました。その日のため、一週間前から準備して臨みました。ところが、第一礼拝が終わった直後、大川先生から「第二礼拝も田中伝道師に証をしてもらうので、鈴木兄弟はいい」と言われました。なぜなら、田中伝道師の証がものすごく受けが良かったからです。お父さんが開業医で教会の長老さん。自分は次男だったが高校のときからぐれて、東京に来て大学を1年で中退。その後、水商売をして、最近までキャバレーを3つ持っていた。ところが強迫神経症にかかり、やっとのことで教会に戻ってきた。最初の日、礼拝堂に入ったとたん、メラメラと炎が燃えていた。そんな劇的な証でした。私は第二礼拝のアッシャーをして、後ろの階段に腰掛けていました。田中伝道師の証が今、始まろうとしていた時です。私の中に、「それでは、私の証はたいしたことはないのだろうか。俺だってイエス様から救われたんだ」という思いが湧き上がってきました。そして、「馬鹿ヤロー、ふざけるんじゃない」と叫びたい衝動にかられました。そのとき、イエス様の御声が聞こえました。「あなたはだれのために証をするのですか?」「はい、あなたのためです」。そのとたん、嗚咽と言いましょうか、私は後ろの席で泣きじゃくってしまいました。もし、私があのとき、立ち上がって、「馬鹿ヤロー、ふざけるんじゃない」と叫んでいたら、今日の私はありません。私にとってはものすごい誘惑でありましたが、確かにイエス様の御声があったんですね。

 人生において大切な岐路があります。信仰生活においても何度かあるでしょう。そのとき、だれの声に従うかであります。イスラエルの会衆は、「できない」という10人の偵察隊の言うことを聞きました。主の声に従った人は、ヨシュアとカレブの2人だけでした。人生においても、カデシュ・バルネアがあるんじゃないでしょうか。そのとき、ヨルダン川を渡れば安息の地・カナンに入ることができます。でも、彼らは不信仰になり、手前で座り込んでしまいました。そのためチャンスは2度とこなかったのです。40年後、ヨシュアとカレブと若い世代だけが入ることができました。ヘブル人への記者は、「きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない」と教訓を与えています。ダビデは預言者ナタンから「あなたがその男です」と言われたとき、「はい、そうです」と悔い改めました。ダビデが「私はそうじゃない」と否定していたなら、あのダビデ王はいなかったのです。私たちは主を恐れることが必要です。パットブーンとエリビスプレスリーの二人は友人でした。ある日、パットブーンは「私はクリスチャンだから、教会へ行くよ」と言いました。しかし、エルビスは「ぼくは、ラスベガスに行くよ」と言って分かれました。エルビスは華やかな生涯を送りました。が、最後はドラッグのせいで体がおかしくなりました。エルビスには腹違いの弟がいました。ある朝、弟がエルビスに言いました。「お兄さん、きょうは、神様に立ち返る日じゃかい?」エルビスは「ああ、ぼくもそう思っていたんだ。ボクのために祈ってくれるかい」と願ったそうです。その日にエルビスは亡くなったそうです。「きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない」ということです。

2.信仰における線

 信仰には「信じる」とか「決断する」いう点の要素もありますが「信じ続ける」という線の要素もあります。もちろん、点がなければ線もありませんが、点だけではだめだとヘブル書は言います。3:6後半には「確信と希望による誇りとを、終わりまでしっかりと持ち続ける」と書いてあります。また、14節には「もし最初の確信を終わりまでしっかりと保ちさえすれば、私たちはキリストに預かる者となるのです」とあります。4:11「ですから、私たちは、この安息にはいるよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか」と書いてあります。ここだけを見ますと、1度、信じただけじゃダメなのかなという疑問が起こってきます。改革派は「予定という絶対的な選びがあるので、救いは失うことはない」と答えるでしょう。しかし、アルミニアンは「信じ続けなければ、滅びる可能性がある」と言うかもしれません。改革派の信仰は、「1度、信じたんだから滅びることはない」と悠然として生きるでしょう。後者は「ああ、しんがりでも良いから、救いから漏れないようについて行こう」と悲痛な努力をするでしょう。ある統計によると、洗礼を受けてから3年以内に50%の人が教会に来なくなるということです。これは日本の教会の統計です。私も信仰生活が27年くらいになりますが、まわりを見て、最後まで残っている人は3割くらいかもしれません。もちろん、他の教会に通っている人もいますし、一人で信仰を守っている人もいるでしょう。教会イコール、神様というつもりはありませんが、「信じ続ける」ということはやはり難しいですね。

 インドネシヤのエディ・レオ師がこのようなことをおっしゃっていました。多くの人たちは「私は神を信じる」と言う。しかし、どんな神だろうか。イエス様は「これは永遠の命である」と言われた。神を知ることは、永遠の命である。だから、本当の神を知るならば、あなたは救われる。もしあなたが間違った神を知っていたとしても、あなたは救われない。「イエス様を信じなさい。彼は良き神様です」。この信仰だけでは救われない。イエス様は私たちの救い主だけであるだけではなく、私たちの主である。主とは、私たちの人生の唯一の支配者である。だから、イエス様はあなたの支配者である。あなたは従わなければならない。ある人たちは「私はイエス様を信じます。しかし、イエス様には従いません」と言う。ということは、その人たちの信仰は本当でないことを意味する。彼らの信仰は救い主イエスだけである。イエス様は救い主というだけではなく、私たちの主である。だから主は「わが子よ。悔い改めなさい」言われる。あなたはどんな信仰を持っているだろうか。本当の信仰とは何か。ただ救い主としてイエス様を信じることではない。イエス様に弟子として従って行く者である。本当の信仰のある人は、実が残り、また多くの実を結ぶ。・・・このように言われますと、スタートの地点から問題があるのかナーと思います。「イエス様を救い主として信じるだけではなく、主として信じる。最初から、弟子としてイエス様に従う」。これが重要だということです。私も家内もそうですが、洗礼を受けたとき、本をもらいました。その本の裏表紙に「死に至るまで忠実であれ」(黙示録2:10)と書いてありました。私は、そのとき「ああー、信仰とはそういうものなのか?」とピリッとした気持ちになりました。

 しかし、皆さん、信仰が継続できることは努力ということもありますが、主の恵みであります。ある教会の役員さんが「私は何をやっても、三日坊主でしたが、信仰だけは長続きしています」と証ししていました。神様は私たちの信仰が継続するように、「恵みの手段」というものを備えておられます。英語では、means of graceと言います。私たちは神様が見えないので、直接、交わることは困難です。しかし、神様と私たちの間に、「恵みの手段」があれば大丈夫です。その代表的なものに、聖書、讃美歌、教会の礼拝、聖餐式、交わりがあります。その中で、聖日礼拝を守るということはとても重要な要素です。ある先生は、「カーテンのレールのように、定期的に礼拝を守るべきです」と言われました。カーテンのレールがところどころはずれているのは格好が良くないですね。なんか、独身者のアパートのカーテンみたいですね。礼拝出席が、ばらついているのは良くない、定期的である方が良いということです。でも、礼拝を守るというのは消極的であります。礼拝は天国に行くための顔つなぎではありません。礼拝は心を尽くし、力を尽くし、知性を尽くして積極的にささげるものであります。賛美も礼拝の大切な1部です。これは感謝と賛美のささげものと言うことができます。ペンテコステ系の教会は叫び、手を挙げ、踊って、体全体で賛美をしています。そして、交わりは祈りとみことばの分かち合いです。この交わりは、互いを建て上げるためにとても大切です。ヘブル3:13に「『きょう。』と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい」とあります。つまり、群の中にいると、罪から守られるということです。群から離れてしまうと、罪に惑わされ、心がさらにかたくなになってしまいます。私は毎朝、散歩して気づくことがあります。ゆりかもめ、はと、すずめ、カモ、ムクドリ?とにかく、群をなしています。一羽が飛ぶと、みんなパーッとそちらの方に行きます。付和雷同みたいなところもありますが、外敵から身を守るため群をなしているのでしょう。

 信仰は生き物です。昨日、信仰的に満たされていたと思うと、きょうはどん底に下ることもあります。霊的に下るのは簡単ですが、登るのは難しいですね。アスリートも音楽家も自分の技術をキープすることが大切であります。練習をなまけると、すぐ、落ちてしまいます。彼らもスランプになることがあるでしょう。私たちも霊的なスランプに陥るときがあるかもしれません。失望落胆の沼にはまり込み、なかなか出られない。疑いの雲から抜け出せない場合があるかもしれません。そんな時はどうしたら良いのでしょうか。それは基本に返るということです。おそらく、スポーツマンも芸術家も同じことを言うでしょう。クリスチャンの基本とは何でしょうか?それは「十字架の福音」です。イエス・キリストの十字架の贖いによって、罪が赦されたということが信仰の原点です。私たちは、以前は神から離れ、霊的に死んでいた存在です。自分の肉と心の望むままを行い、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださり、キリストとともに生かしてくださいました。私たちは行ないとか努力ではなく、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。私たちの確信と希望による誇りはどこにあるのでしょうか。それは、イエス・キリストの十字架です。この十字架の信仰を持ち続けるならば、安息からもれることはありません。本日は、旧約のイスラエルから教訓を学びました。「きょう、もし御声を聞くならば従う」という、やわらかい心を持ちましょう。神様を試みることなく、神様が共におられることを意識して歩みましょう。

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