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2006年3月 5日 (日)

救いの創始者        ヘブル2:9-18 

 3月に入りました。3月は梅が咲き誇り、後半は桜が咲き始めるという、すばらしい季節です。と言いながら、3月は卒業とか年度末で忙しい時でもあります。忙中閑有りと申しますように、聖書のみことばに耳を傾ける時も「有り」だと思います。ところで、ヘブル1章では、御子が神であることに重点が置かれていました。しかし、2章には、御子が人間になる必要があったということが述べられています。きょうは、何故、御子が人間になる必要があったのかということを学びたいと思います。

1.創始者の条件

 10節に「イエス・キリストは救いの創始者となられた」とあります。創始者とはギリシヤ語のアルケーから来た言葉で、始めた者、開始した者という意味です。よく、宗教には開祖と言われる人々がおり、仏陀、マホメット、イエス・キリストが有名です。他に、天理教とか立正佼成会、天台宗、さらに少林寺拳法にもそれぞれ開祖がおります。イエス様も開祖と言えば言えるのですが、他の方々と違うのは、もともと神である方が人となって救いを開いたということです。しかも、イエス様は救いを開いただけではなく、ご自身が救いの道となられました。そのためには、神が人となって、人間が味わうあらゆる苦しみを味わう必要がありました。もちろん、神様は全知全能ですから、あらゆることを知ってはいます。しかし、体験的に知るためには、やはり神が人間にならなければダメであります。ところで、人間が味わう最大のイベントとは何でしょうか。昔、「谷間に3つの鐘がなる」という歌がありました。人間が生まれたとき、結婚のとき、そして死んだときに教会の鐘がなるということです。きっと、鐘の音色が違ったのではないかと思います。山間の人々はその音色で判断したことでしょう。誕生のときの鐘は軽やかで早いテンポかもしれません。結婚はあらゆる音色の鐘を鳴り響かせ、豪華な感じをもりたてるでしょう。しかし、お葬式の場合は1つの鐘、しかも、低い音色の鐘をゆっくりならしたのではないかと想像できます。誕生、結婚、死の中で、最大のイベントはやはり「死」ではないでしょうか。神様は永遠なる方ですから、「死」というものを味わったことがありません。御子は人間の最大のイベントである、死を体験するために人間となられたのです。

 11節に「それで、主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥としない」と書かれています。御子イエスは神のひとり子ですが、私たちを兄弟と呼んでくださるということです。つまり、神様が父であり、御子イエスが長男、そして、私たちはそれぞれ弟であり妹だということです。なぜ、イエス様は私たちの兄弟となってくださったのでしょうか。これも、救いの創始者となるために必要なことであります。旧約聖書のルツ記には、「買戻しの権利」ということが書かれています。エリメレクとナオミはききんがあったため、息子たちを連れて、ベツレヘムからモアブに移り住みました。モアブで息子たちは嫁を迎えました。ところが、そのあと夫エリメレクが死に、二人の息子が死に、ナオミと二人の嫁だけが残されました。意を決して、ナオミはふるさとのベツレヘムに帰ろうとしましたが、嫁のルツは「あなたの民は私の民、あなたの神は私の神」と言って、離れませんでした。嫁と姑というのは、確執があるのが当たり前ですが、彼女らは例外でした。ナオミは故郷に戻りはしたものの、自分の土地は既に人手に渡っていました。嫁のルツはいじらしく、その日の食物を得るために、落穂を拾いに出かけます。これが「落穂拾い」という絵になっています。はからずも、ルツが落穂を拾っていた畑がボアズの畑でした。ボアズという人は、ナオミの近親者で土地を買い戻す権利のある人だったのです。長い話を短くしますと、ボアズがルツと結婚し、ナオミの土地が買い戻されたということです。「買戻しの権利のある親戚」をゴエールと言いますが、これは「贖う者」という意味にも使われます。レビ記には、「あなたの兄弟が貧しくなり、先祖伝来の土地を手放そうとするならば、親類のゴエールが来て、兄弟の売った土地の買い戻しをしなければならない」と、書いてあります。つまり、イエス様が私たちを贖うためには、親戚に、あるいは兄弟の一人にならなければならなかったということです。

 私は「それで、主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥としない」という言葉に感動いたします。私は田舎で育ちましたが、村ではだれかが刑務所に入ると「あそこの家は前科者を出した家だ」とレッテルを貼られました。人の噂も49日と言われますが、田舎では何年、何十年も残ります。ですから、お兄さんが服役した人だとすると、兄弟全部が「前科者もの兄弟」と言われ、とても肩身の狭い思いをするわけです。もし、自分がその兄弟だったら、自分のせいじゃないのに嫌な思いをするでしょう。私は8人兄弟の7番目ですが、下に妹がおります。妹は3月の末に生まれました。母は4月生まれの子どもより1年もハンディがあるので、とても心配しました。妹は勉強についていけないのか、小学校2,3年生のとき、特殊学級にはいりました。今は「仲良し学級」と言うようですが、当時は、強烈なイメージがありました。私は上の方のクラスで級長をしていました。全校生徒の朝礼のときは、私が先頭に立って体育館に入ります。そのとき、クラスの友達から、「お前の妹は特殊学級に入っているのか?」と言われ、とても恥ずかしい思いをしました。私はそのことで妹を「馬鹿、馬鹿」と言っていじめました。残念ながら、私は、自分の妹を恥みたいに思ったわけです。それから、私は高校生のとき、ボクシングで挫折して精神的におかしくなりました。学校の帰り、スーパーで万引きして、母が学校に呼ばれました。そのとき、土木科の先生が「何と破廉恥なことをしたんだ。お前の兄は優秀だった。その舎弟が何ごとか!」とたしなめられました。今度は私が逆の立場になったわけです。そういうこともあって、イエス様が「彼らを兄弟と呼ぶことを恥としない」というところを読むと胸が熱くなります。日本人は、恥という言葉にとても弱いんじゃないかと思います。そのぶん、イエス様が「私たちを恥としない」と言ってくれると、本当に嬉しくなります。

 イエス様はこの地上に降りてこられ、私たち罪人と同じになられました。馬小屋で生まれたのは貧しい人の友となるためです。マリヤの子、私生児と馬鹿にされたのはそういう人たちの理解者になるためです。イエス様の父は早く亡くなくなったようですが、母を支え、弟や妹たちのめんどうをみました。だから、イエス様は、そういう立場の人を理解できます。イエス様が割礼を受けたのはユダヤ人と同じになるためでした。また、洗礼を受けたのは、罪人と同じ立場に立つためでした。さらに、福音書を見ますと、イエス様は「大酒飲みや遊女の友」だと言われました。また、「罪人の家にはいって一緒に食事するとは何事だ」とパリサイ人や律法学者たちから非難されました。最後に、十字架に付けられたとき、罪ある人と一緒に数えられました。イエス様はお一人で十字架にかかられたのではなく、右と左に犯罪者がいました。イエス様が中央だったので、道行く人は、「ああ、あの真ん中のヤツが一番悪いんだろうなー」と思ったことでしょう。右か左の犯罪人の一人が今わの際で、「私を思い出してください」と言いました。普通だったら、「あほ、私は罪のない神の子だ、お前と一緒にしないでくれ!」と言うかもしれません。でも、イエス様は「あなたはきょう、私とともにパラダイスにいます」と言われました。「犯罪者とともにパラダイスに行く」ということであります。これはものすごいことであります。最後には、神に捨てられ、死人が入る墓に入りました。イエス様は拒絶を味わい、死まで味わわれたのであります。それは何のためでしょうか。それは、私たちの近親者になり、本当の贖いを成し遂げるためであります。イエス様は贖い主でありますが、同時に、あわれみ深い大祭司です。17、18節「そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。」イエス・キリストは、高いところから「お前たちを救ってやるぞ」という救い主ではありません。主ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。私たちのためにすべての苦しみを味わい、死まで味わってくださったイエスさ様に感謝しましょう。

2.創始者の目的

 イエス様は人間になりすべての苦しみを味わい、死まで味わってくださいました。それは、私たちを贖うためであり、理解ある大祭司になるためでした。しかし、それだけではありません。イエス様が死なれたのは、死と悪魔を滅ぼすためでもあったのです。14節「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。」「子たち」とは、私たち人間のことであります。私たちは血と肉をもっているので、イエス様も同じように、血と肉をもってこの地上に生まれたのです。そして、イエス様は人間として十字架で死なれました。イエス様の死は単なる死ではなく、罪の身代わりの死、贖罪の死でありました。でも、それだけではなかったのです。イエス様は死という敵をも滅ぼす必要がありました。私たちは「死」はだれにも来るものであって、それは諦めるしかないという文化に生きています。しかし、死は初めからあったものではありません。死はアダムとエバが神に逆らってから、やって来た罪の結果であります。創世記3章に、「あなたはちりだから、ちりに返らなければならない」と書いてあります。神様は人間を永遠に生きるものとして創造されたのに、死が人間に入り込んできたのです。福音書を見てもわかりますが、イエス様は死と遭遇すると、命に替えました。ヤイロの娘を生き返らせ、ナインのやもめの一人息子を生き返らせました。イエス様は葬儀をしたことありません。むしろ、葬儀をぶち壊しにしてしまうのです。ラザロの場合は死んで4日もたっていましたので、すでに墓の中に納められていました。イエス様がマルタとマリヤが泣いている時、どう思われたでしょうか。ヨハネ11:33「霊の憤りを覚え、心の動揺を感じた」と書かれています。イエス様は死に対して憤られたのです。「憤り」というギリシヤ語は、「馬が怒って鼻を鳴らす」という意味があります。馬をご覧になったことがあるでしょうか。馬がこれから走るぞというときには、興奮して、「ぶるぶるるー」と鼻を鳴らします。イエス様も「これから死と戦ってやるぞ」と霊的に興奮していたのです。その次に、イエス様は感謝の祈りをささげた後、「ラザロよ。出て来なさい」と墓穴に向かって叫びました。すると、布でまかれたラザロが生き返って出て来たのです。ハレルヤ!またもや、イエス様は死に打ち勝たれました。このように、イエス様はこの地上におられたときには、少なくとも3人を生き返らせております。でも、人類全体を死から解き放つ必要があります。そのためにイエス様自ら死んで、死に勝利する必要があったのです。イエス様は「私はよみがえりです。いのちです。私を信じる者は、死んでも生きるのです」(ヨハネ11:25)と約束されましたが、よみがえりの創始者になる必要があったのです。

 しかし、みなさん、ヘブル人への手紙には、復活のことは書かれていません。「その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした」と書いてあります。このみことばをそのまんま見ますと、イエス様の死そのものが勝利だったことがわかります。そして、良く見ると、イエス様がご自分の死によって滅ぼしたのは、死ではなく、死の力を持つ悪魔だということです。確か、パッションという映画で、イエス様が十字架で死んだ直後、悪魔が「わー」と頭を抱えて自滅しているシーンがありました。まず、死そのものがやって来たのは、アダムとエバが罪を犯したからでした。そのために、イエス様はご自分が罪の罰を身代わりに受けたことにより、罪が贖われました。つまり、死がやって来た、死の源が解決されたわけです。では、悪魔は何のでしょう?悪魔はヨハネ10章には「盗み、殺し、滅ぼす者」だと書かれています。つまり、人間に罪を犯させ、死に至らせる誘惑者であります。イエス様が死んだことは、悪魔にとってとても良いニュースでありました。ところが、イエス様の死は、悪魔の頭を打ち砕くことになったのです。なぜでしょう。悪魔は罪のないイエス様を殺す手助けをしたからです。悪魔は罪のないイエス様をさばいたことにより、今度は逆に自分がさばかれることになったのです。悪魔はそのときまで、イエス様の死が、自分の滅亡につながることを知らなかったのです。だから、十字架は神の知恵であります。神の愚かさは人間よりも、悪魔よりも賢かったのです。イエス・キリストは復活の前に、罪を贖い、悪魔が持つ死の力を滅ぼしてくださったのです。イエス様は「十字架ですべてが終わった」と叫ばれました。弟子たちは「ああ、もうおしまいだ。何もかも終わってしまった」と捉えたかもしれません。しかし、終わったという言葉の意味は、「完了した」とか、「完済した」という意味です。ですから、この叫びは失意の言葉ではなく、勝利の宣言であったわけです。ある人は、イエス様の喜びがあまりにも大きかったので、イエス様の心臓がそのとき破裂したのだと言います。それは定かではありませんが、イエス様は死によって、死の力を持つ悪魔に勝利されたのです。

 私たちは十字架の死の勝利と、復活による死の勝利をダブルでいただいていることになります。イエス様が死の刺を抜き去ってくだったのです。ですから、クリスチャンの死は滅びではなく、天国に凱旋する門出になるということです。そのことが信じられたら、死が怖くなくなります。死の毒針が取り去られたのですから、当然、死の恐れからも解放されます。私はイエス様の死は、血清と似ているんじゃないかなーと思います。マムシやハブで噛まれたとき、血清があると大丈夫です。ところで、血清はどのように作られるのでしょうか。ある動物、馬とか牛に病原菌(毒)を打ち込みます。すると動物は死ぬかもしれませんが、病原体(毒)に対する抗体ができます。それから血清を作ることができます。その血清を打った人は、その病気(毒)に打ち勝つことができるのです。イエス様を馬や牛にたとえるのは大変失礼かとは思いますが、イエス様は死という病原菌(毒)を打ち込まれたのです。そして、死にました。しかし、イエス様の死によって、死という毒に打ち勝つ血清が作られたのです。イエス様はヨハネ6章で「私の肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠の命を持っています。私は終わりの日にその人をよみがえらせます」(ヨハネ6:54)と言われました。イエス様はご自分の血を飲めと言われました。まさしく、血清であります。聖餐式で私たちは肉と血を象徴する、パンとぶどう液をいただきます。飲むとどうなるでしょうか?死が怖くなるのです。なぜなら、信仰によって、贖いの命が私たちの内に入ったからです。ハレルヤ!私たちの肉体は日々、死に向かっています。死んでから血清を打っても効果はありません。生きているうちに、死ぬ前に、死に打ち勝つ血清を打っておりましょう

 うちには、6歳の子どもがおります。夜、寝る時、いろんな話をします。「有悟が24歳になると、パパは70歳。有悟が結婚するまで生きているかなー。有悟が30歳のときは、パパは76歳、『おお、有悟やー』となるよ」言います。その声が面白いのか、もういっぺん言ってと頼まれます。「おお、有悟やー」と言うと、けらけらと笑います。その後、「それからどうなるの」と聞きます。「死んで、一足先に天国に行って待っているよ」と答えます。この間の夜は、「パパ、死ぬのが怖い」と言いました。「いや、有悟はまだ、まだ死なないよ。おじいちゃんになってからだよ」と答えました。すると、「おじいちゃんになってからも、死ぬのが嫌だ」と言いました。「いやいや、有悟が大きくなる頃は、イエス様が天から戻って来て、生きたまんまで天国に行けるかもよ」と答えました。ま、果たして、再臨のことが理解できたか分かりませんが、6歳の子どもが「死ぬのが怖い」と言うのには驚きました。私もお風呂上りで子どもと寝ると、体が暖かいせいか、すぐ眠気が襲ってきます。意識がもうろうとしてくるのが分かります。「ああ、死ぬときは、こんな感じなのかなー。だれにも言葉も伝えられず、闇に飲み込まれていくのかなー」と思います。死は子どもでも、大人でも怖いもんなんだなーと思います。でも、みなさん、イエス様はだれもが迎える死を経験して、死の毒針を抜いて下ったのです。死ぬときは「イエス様―、我が霊を御手にゆだねまーす」と言って逝きましょう。イエス様が私たちと同じになり、十字架にかかられたのは仕方なくではありません。喜びのゆえであります。死の恐れよりも、天国の喜びの方が大きいのです。そのためには、信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいる必要があります。最後に、ヘブル12:2を引用して終えたいと思います。「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました」。

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