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2006年2月26日 (日)

御使いにまさる      ヘブル1:4-9

 本日はヘブル人への手紙の第二回目です。ヘブル人への手紙は旧約聖書の引用が多いので、とても堅い書物です。でも、この書を読んでいくと、御子イエスがいかにすばらしいお方か、また、私たちがいただいている贖いがなんとすばらしいものか改めて知ることができるでしょう。教会成長とか、信仰の成長、色々なテキストや方策があるでしょう。でも、もっとも大切なのは、聖書のみことばから養いを受けることです。毎週の礼拝は、神様に礼拝とさんびを捧げるという行為と、神様から命のみことばと祝福をいただくという恵みもあります。そういう意味で聖日礼拝は私たちの特権であり、信仰の生命線であります。

1.御使いの存在

 聖書は、御使い、つまり天使の存在をはっきり告げています。しかし、フランス革命以降、西洋では、霊的なことをあまり言わなくなりました。人々は理神論をとなえ、「宗教とは神様に関するものであり、地上とはかけ離れた出来事である。一方、地上の出来事は現実そのものであり、私たちはそこで生きている」と言いました。つまり、宗教と地上の出来事を全く2つに分けて考えるようになったのです。その結果、宗教と教育、宗教と科学、宗教と政治は別物だという考えが定着してしまいました。しかし、聖書は神様がおられるところと、私たちが住んでいる地上との間に、霊的な存在がいるとはっきり告げています。霊的な存在とは天使及び堕落した天使たちであります。一方、日本をはじめとする東洋はどうでしょうか。西洋のように、絶対者なる神概念はありません。そのかわり、霊界と地上との境目もありません。霊界には目には見えないけれど、さまざまな精霊がいると考えます。精霊たちを自由にあやつるのが、祈祷師、魔術師、陰陽師であります。日本人は頭では西洋の教育を受けていますが、心は東洋的な宗教観を持っています。ですから、科学的なことを言いながらも、風水だとか占いを信じています。ある大会社は、スーパー・コンピューターを設置するときに、神主を呼んで祝詞をあげてもらうそうです。科学万能と言っているのに、それがおかしいとは思わないのです。西洋には西洋的な、東洋には東洋的な見方があります。これを世界観と言います。私たちは生まれ育ったところで、無意識ながらも、それぞれの世界観を持っています。それは眼鏡のようなものであり、その眼鏡をかけて見ると、ある物は見えても、ある物は見えないという現象が起こってきます。

日本におけるプロテスタント教会は明治から始まります。ヨーロッパ、アメリカからたくさんの宣教師、宣教団体が犠牲を払って来られました。それは大変ありがたいことであります。しかし、残念なことに、彼らは西洋の世界観を持って来たのです。福音そのものは間違いありませんが、西洋の衣をまとった福音です。日本人の良いところは恩を忘れないで、教えられたことを忠実に守るということです。しかし、その弊害として、日本のキリスト教会は西洋の世界観をもって聖書を読み、物事を考えるようになってしまいました。その代表的なものが、霊的なものと地上の現実を分けて考えるということです。私たち人間は霊と魂と肉体でできています。病気1つをとってみると分かりますが、肉体的なものが原因でなる病気があります。この手のものは、お医者さんへ行って薬を飲めばなおります。しかし、悪霊によって、あるいは先祖から渡って来た呪いによって病気になる場合もあります。この手のものは、聖霊の力とイエスの御名の権威で祈るしかありません。しかし、多くの保守的なキリスト教会は、悪霊を追い出したり、病のために手をあてて祈ることをしません。何故でしょう。それは、宣教師や宣教団体が持って来た、西洋の世界観という眼鏡をかけているからです。私たちは彼らの恩を忘れてはいけませんが、聖書的な世界観を持つ必要があります。ですから、今も天使はいるし、堕落した天使である悪魔や悪霊がいるということです。でも、間違えてはいけません。天使や悪魔よりも力ある神様が天上にいらっしゃるということです。私たちは日本にあって、絶対者なる神様がおられるということを忘れてはいけません。この絶対者なる神様が霊的なものから物質的なものまでも創造し、そして支配しておられるのです。ハレルヤ!ですから、神様に対する信仰は、学校教育においても、政治においても、科学においても絶対に必要だということです。神様に対する信仰がない教育や政治や科学は、羅針盤のない船のように、目的地に達することができません。漂流して、いずれは、難破してしまうでしょう。聖書のみことばは、私たちの道を照らすひかりであり、羅針盤です。

2.御使いと御子

 なぜ、ヘブル人への記者は「御子は御使いにまさる」と旧約聖書を引用して語っているのでしょうか。おそらく、その時代、天使を礼拝する密儀教があったのではないかと思います。その人たちは御子イエスも天使の一人と考えていました。そして、他の天使たちにも御子イエスと同じような礼拝をささげていたのであります。ローマ・カトリックでは天使や聖人などに、祈願をささげるようでありますが、それは聖書的ではありません。では、御使いと御子の違いは何なのでしょうか。4節から13節までたくさんのことが書かれています。御子に関しては、旧約聖書から7つほど引用されていますが、詩篇からものが多いことが特徴的です。では、具体的にどのような点で御子が御使いよりもまさるのでしょうか。

その1つは、「御子は神様の子どもである」ということです。5節「あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ」「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる」と書いてあります。中には、「父なる神様は男性なのに、子どもを生むのか?」と文句を言う人がいます。たしかに人間は女性が子どもを生みます。男性は生みませんし、生めません。でも、神様はあえて、人間を男と女に2つに分けて創造されました。それは、夫婦が交わって、子どもを生むためであります。でも、人間を創造した神様ご自身は、父性と母性の両方を持っておられます。父なる神様は、両性を持っていらっしゃるので、女神は不要なのであります。女神などと言うのは、人間が考え出した神話の世界であります。父なる神は、永遠の昔、独り子を生んだのであります。それが御子であります。ちなみに、「生む」は、ギリシヤ語はゲネアーです。英語ではbegetであり、父親が子をもうけるという意味です。一方、bornは、bearの過去分詞形で、赤ちゃんが生まれるという一般的な意味です。赤ちゃんは母親からボーンと生まれます。御子は父が生みましたが、御使いは、父なる神様の被造物であります。7節に「神は、御使いたちを風とし、仕える炎とされる」と書いてあります。神様はご自分の腕として、御使いたちを創造したのであります。イスラエルの民がエジプトから脱出するとき、御使いは強い東風となって紅海を分けました。また、エジプト軍が追いかけてきたとき、火と雲の柱となって彼らの行く手をはばんだのであります。神様はご自分のために、御使いたちを造りました。くれぐれも、子どもを作るなどとは言わないようにしましょう。子どもは所有物ではなく、神様から授けられた存在です。アーメン。

2つ目は、御子は支配者であり油注がれた方です。8節と9節にあります。「御子については、こう言われます。『神よ。あなたの御座は世々限りなく、あなたの御国の杖こそ、まっすぐな杖です。あなたは義を愛し、不正を憎まれます。それゆえ、神よ。あなたの神は、あふれるばかりの喜びの油を、あなたとともに立つ者にまして、あなたに注ぎなさいました。』」御子がいつから支配者になったのでしょうか。これは先週も学びましたが、復活・昇天してからだと考えることができます。なぜなら、「喜びの油を注ぐ」とは、キリストという名前にも関係するからです。実の意味で、イエスがキリスト(メシヤ)になったのは、神の右の座に着かれてからであります。旧約の人たちは、ダビデの子孫からメシヤが起こると考えました。母マリヤも「キリストはダビデの子孫として生まれ、神が彼に王位を与え、その国は永遠に続く」と理解していました。ですから、主イエス・キリストは御国の王であり、天使とは格が違うのであります。ブラックゴスペルには、クリスマスソングもあります。ある歌詞は、ジーザスは、キング・オブ・エンジェルス「天使たちの王」となっています。イエス様は馬小屋にひっそりと生まれました。でも、空には、天の軍勢がベツレヘムに集まり神様を賛美しました。あまりにも多くの天使が、集まったので、一時、天が空っぽになったことでしょう。もしかしたら、あなたがこの地上で生まれたときも、御使いが喜んだかもしれません。ある人が「子どもには複数の天の使いが付いており、子どもを守っているんだ」と言っていました。

 10年くらい前のことですが、ミッション・バラバの鈴木啓之先生が家族で韓国の伝道に行きました。奉仕が終わり、車で帰ろうとしたときです。小学校に入ったくらいの、おじょうさんが一人だけ駐車場に走っていきました。教会のとても広い駐車場で、あたりはもう暗くなっていました。おじょうさんは、車の間を歩いていました。先生ご夫妻からかなり、離れていたところにいました。すると、一台の車が運転をミスしたのか、音を立てて、急にバックしました。そのままでは、おじょうさんが車と車の間に挟まってしまいます。鈴木先生は、どうにもできなくて「主よ!」と叫んだそうです。夢が幻か、おじょうさんの体が一瞬、垂直にふっと飛び上がったそうです。すぐ現場にかけつけてみると、車のバンパーとバンパーとががっちりぶつかっていました。しかし、おじょうさんには怪我1つなかったそうです。鈴木先生は「天使がうちの娘を守ってくれたんだ」と証しておられました。こういう証をすると、「兵庫県の2人の園児はどうして守られなかったのか?」と聞く人がおられるでしょう。これは次のポイントでお話します。でも、14節を引用いたします。「御使いはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるため遣わされたのではありませんか」。差別するわけではありませんが、「救いの相続者となる人々に仕えるため遣わされた」と書いてあります。私は、子どもが天使に助けられたという証をいくつか聞いたことがあります。ここでのポイントは、御子イエスは王なる支配者であり、御使いはそうではないということです。

3.御使いの使命

 もう一度、14節をお読みいたします。「御使いはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるため遣わされたのではありませんか」。マルチン・ルターは、「天使は肉体を持たない霊的被造物であり、キリスト教世界のため、教会のために奉仕するように、神によって造られた者である」と言いました。では、御使いはどのような奉仕をするのでしょうか?まず、御使いのギリシヤ語は、アンゲロスであります。この言葉は、何かを伝達することと関係があります。アメリカのロス・アンジェルスという町があります。これも、やはり伝達することと関係があります。その証拠に、ロス・アンジェルスにはハリウッドという映画の中心地があります。神様は良い意味でも悪い意味でも、ロス・アンジェルスがそういう場所になることを予知していたのかもしれません。御使いガブリエルは、大祭司ヨシュアに、乙女マリヤに、神からの大切なメッセージを伝えました。また、御使いの大きな使命は、神のしもべや民、子どもたちを守ることです。創世記では、ロトの家族が御使いによってソドム・ゴモラから助け出されました。ダニエル書を見ますと、御使いがダニエルを力づけています。新約聖書ではペテロが捕えられたとき、御使いが鎖を壊し、鉄の扉を開けて、ペテロを救い出しました。また、御使いはイエス様の誕生から復活まで、イエス様に仕えていました。イエス様がゲツセマネの園で血の汗を流して祈っておられた時、御使いがイエス様を励ましました。イエス様が復活したとき、墓石をどかしたのは御使いであります。イエス様が昇天したとき、弟子たちに対して「なぜ天を見上げてたっているのですか。天にあげられたイエスは、同じ有様でまたおいでになります」と告げました。今でも、見えないところで、御使いが救いの相続者となる人々に仕えておられるに違いありません。神学者たちは、「今も、空中において、天の御使いたちは、悪霊たちと戦っている」と言います。御使いは神のみこころが地上でなされるために、日夜、働いているのであります。

 でも、私たちは御使いに関して、とても重要なことを知らなければなりません。御使いつまり、天使は私たちの要請では発動しないということです。「天使長ミカエル様、どうかお助けください」と言っても無理です。御使いは我々の願いで動くのではありません。御使いは神様の言いつけがあると、はじめて動くのであります。このことは、ヨシュアがエリコに上ったときのことでも分かります。ヨシュアがエリコをこれから攻撃しようとしたときです。抜き身の剣を持った御使いがまん前に現れました。ヨシュアは「あなたは、私たちの味方ですか。それとも私たちの敵なのですか」と尋ねました。すると御使いは「いや、私は主の軍の将として、今、来たのだ」と言いました。このことは何を意味するでしょう。神がヨシュアと共にいるかどうかではなく、ヨシュア自身が神の側にいるかどうかであります。ヨシュアは顔を地につけ、そして足の履物を脱ぎました。これは、神様に全き服従しますという行為です。モーセもかつて、そのようにしました。御使いはヨシュアが神の側にいるならば、ヨシュアのために戦うのであります。その証拠として、エリコの城はヨシュアたちが7日間城を回り、角笛を吹いただけで崩れ落ちました。これは人間ではなく、あきらかに、御使いがやったことでした。このように、御使いは私たちからの願いを聞くことはありません。御使いは神様の命令があれば、私たちのために動くのであります。逆に、神様の命令があれば、御使いはさばきの代行として働くのであります。みなさん、御使いをなめってかかってはいけません。御使いは、森永製菓のような可愛い羽の生えた子どもではありません。Ⅱ列王記19章にありますが、エルサレムが兵糧攻めに遭いました。どこからも助けがありません。ところが、主の使いが一晩で、アッシリアの陣営で、18万5000人を打ち殺しました。ヒゼキヤ王は戦わずにして勝ったのであります。神を敵に回したら、えらいことになります。でも、御使いは私たちが死ぬとき、私たちの魂をパラダイスまで運んでくれます。貧乏人のラザロが死んだとき、御使いたちが彼をアブラハムのいるところに連れて行きました。おそらく、両脇を支えられて、ラザロは天に上ったことでしょう。私たちも、いずれお世話になるかもしれません。

 黙示録からも分かりますように、空中では御使いの軍勢と悪魔の軍勢が戦っています。私たちも悪しき霊と戦わなければなりません。敵はいるのです。パウロは「私たちの格闘は、血肉との戦いではなく、主権、力、この暗闇の世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです」と言いました。主権とか力、この暗闇の支配者、もろもろの悪霊は、堕落した天使たちの支配階級ではないかと言われています。私たちの敵は人間ではなく、その背後で働いている悪しき霊との戦いなのです。悪霊は個人個人ばかりではなく、空中から疑いや否定的な思いをばらまいています。また、日本人が持っている宗教や、いろいろな要塞を用いて、まことの神から引き離そうと賢明になっています。日本の教会が成長しないのは、悪しき霊と戦わないで、味方同志戦っているからです。敵は信徒でも牧師でも、未信者の夫や妻でもありません。背後で策略をもって働いている堕落した天使たちです。では、どのようにしたら勝利できるのでしょうか。まず、守りのために、神の武具で身を固めることです。頭には救いのかぶとを被り、悪い思いや疑いを排除します。神様の約束にとどまるならマインドが守られます。胸には正義の胸当てを着けます。胸当ての下には大事な心臓があります。心臓は感情とか情熱を象徴します。正義を行なっていればハートが守られます。腰には真理の帯を締めるとあります。腰は力の源です。真理に従えば力があるのです。足には平和の靴を履きます。この足で私たちは福音を運ばなければなりません。奥山実先生がこのようにおっしゃっておりました。福音は口で語るのではなく、聖書は、足をもって福音を運べと教えています。愛と親切をもって、足しげく通うと、未信者は落ちるということです。そして、左手には信仰の大盾、これによって悪い者が放つ火矢を消すことができます。火矢とは悪い言葉、破壊的な言葉であります。ある人たちは、この矢がささっていることを知らないで生活しています。右手(サウスポーの人は左手)には、御霊の剣です。これは、神の言葉であります。神のことばこそが、唯一の攻撃の道具です。イエス様も悪魔の誘惑に遭ったとき、聖書にこう書いてあると対抗して勝利しました。

最後に敵の要塞を打ち破るミサイルがあります。これは偉大な飛び道具であります。それは、御霊による祈りです。あるおばあちゃんが、「私はもう年なので、何の奉仕もできません。ただ、祈ることしかできません」と言ったそうです。しかし、それはどういう意味でしょうか。「私は拳銃も機関銃もありません。ミサイルしか持っていません」と同じことであります。ミサイルがあったら、敵の要塞を破壊することができます。みなさん、祈りはミサイルほどの力があります。なぜでしょう。神様が動いてくださるからです。正確には、神様から天の御使いが遣わされ、御使いが悪霊どもの巣窟を破壊してくれるからです。だから、祈りが霊的戦いの一番の武器なのです。私たちは祈りを軽く見てはいけません。御使いは、私たちの祈りや願いでは動きません。でも、神様が私たちの祈りと願いを聞き、ご命令を御使いたちに与えます。御使いたちはその命令を聞いて発動するのです。問題は、私たちが神の側にあるかどうかです。私たちが神の側についているなら、御使いも私たちの側についてくれるのです。御使いにまさる、主イエス・キリストに従っていきましょう。

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2006年2月19日 (日)

預言者にまさる      ヘブル1:1-3

 本日からヘブル人への手紙を学んでいきたいと思います。ヘブル人への手紙は旧約聖書と大変深い関係があります。だれが書いたのか分かりませんが、ユダヤ教に精通している人です。おそらく、その当時の祭司がこの書物を読んだならば、「イエスはキリストだな」と、信仰を持つことができたでしょう。私たちは異邦人ですので、「それが、どうしたの」という、リアクションしか起こらないかもしれません。しかし、私たちがこの書を学ぶならば、イエス・キリストに対する信仰が増し加わることは間違いありません。よく、人々は信仰があるとかないとか言いますが、問題は、イエス・キリストをどんなお方として信じているかであります。本日は、1章1節から3節だけを学びますが、この短い箇所だけで、消化不良になるくらいの情報が収められています。きょうは、イエス・キリストがどんなお方か、5つのポイントで学びたいと思います。

1.啓示者

 1節「神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られました」。神様は、父祖であるアブラハム、ヤコブ、イサク、そしてヨセフに語りました。預言者といえばモーセも入るでしょう。あとは、エリヤ、イザヤ、エレミヤ、ダニエルなど有名な預言者がおります。預言者の「預」はあえて「預かる」という言葉を使っています。これは、神様のことばを代弁するという意味であり、彼らは「主はこう言われる」とよく言いました。預言者が言ったことが、まとめられているのが、旧約聖書です。このところに、「多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られた」とありますが、これがミソであります。聖書の霊感を信じない、自由神学者たちは、進化論のごとく聖書が寄せ集められたように考えますがそうではありません。預言者たちは、異なった時代において、異なった場所で、勝手に語った感じがしますがそうではありません。聖霊なる神がちゃんと管理していたのであります。Ⅱペテロ1:21「なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです」と書いてあるとおりです。

 でも、世の終わりに神様は御子を送り、御子によって語られました。マタイの山上の説教にもありますが、イエス様は「私はこう言う」「私はこう言う」と言われました。人々は「なんと権威があるのだろう!」と驚きました。ロゴスなる神が、語ったのですから、権威があるのは当たり前です。つまり、イエス・キリストは究極的な啓示者であるということです。究極的、アルティメイト、もう、それ以上のものはないということです。変貌の山で、モーセとエリヤが現れ、イエス様と何やら話し合っていました。いわば、サミット会議があります。ペテロは「いやー、これはすばらしい。幕屋を3つ建てましょう」と提案しました。突然、輝く雲が人々を包み、雲の中から声がありました。「これは、私の愛する子、私はこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい」。だれもいなくなり、だだ一人イエス様だけが残りました。これは、どういう意味でしょう。イエス・キリストがモーセやエリヤよりも優るお方だということです。20世紀最大の神学者カールバルトは、自由主義神学からキリスト教を救った偉大な神学者だといわれています。彼は、たとえ聖書に間違いがあっても、受肉された御子だけは間違いはない。御子イエスこそは究極的な神のことばであると言いました。ま、私は聖書全巻、間違いないと信じていますが、イエスのことばだけは間違いないと言ったわけです。聖霊が背後で語らせているわけですから、人間が語ろうが、御子が語ろうが変わりありません。でも、イエス・キリストは受肉したみことばであり、最高の啓示者であることは間違いありません。ですから、私たちはイエス・キリストのことばをとことん信じるべきであります。たとえば、「まことに、まことに」と二度も重ねているところは、「んー、本当なんだなー」と敬意を払うべきであります。ヨハネ15:24、25「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。」みなさん、救いに関しては、イエス様が「まことに、まことに」と強調しているわけですから、疑う余地は全くないということです。

2.万物の相続者

 2節後半に、「神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました」とあります。コロサイ1章にも「万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです」と書いてあります。神様は、御子を通して万物、宇宙全体を創造したわけですが、一体だれのものでしょうか父なる神が先頭に立って、世界を創造され、御子イエスに譲り渡したのです。ですから、万物は、御子イエス・キリストのものであります。私たちの小さな頭ではとっても理解できません。それで、御子イエスを信じた人はどうなるのでしょうか?ローマ8章には、「私たちが神の子どもであることは、相続人でもある」と書かれています。つまり、私たちもイエス様と一緒に、万物を相続し、受け継ぐということです。そうすると、その量たるやどのくらいになるでしょう。「億万長者の遺産を相続したらなんとすばらしいだろう!」という夢を一度や二度くらいは、だれしも持たれたことがあるでしょう。でも、万物を相続するとなると、億万長者以上の相続です。旧約聖書で、エサウという人物は長子の権利を軽んじました。なんと、鍋物と交換したんです。しかし、弟のヤコブは長子の権利がいかにすばらしいか、見逃しませんでした。兄と父を騙してでも、その権利を奪い取ったのです。神様はヤコブを叱ったでしょうか?いいえ。神様はヤコブの神であることを恥とはせず、いつまでも共にいることを約束しました。

 この地上に住んでいますと、物入りになることがよくあります。銀行も貸してくれない。「はー」、神の子どもなのに、なんでお金がないのだろうとため息が出てきます。お金がないんじゃなくて、夢とビジョンがないのかなーと思ったりします。夢とビジョンがあれば、出資してくれる人がいるのかもしれません。私もここいら辺には、自信がありません。なぜなら、私自身もその訓練を受けている最中だからです。モーセが幕屋を作るときも、余るほどの品物が集まりました。ソロモンが神殿を作るときも、海外から木材や石、宝石が運ばれてきました。神殿を再建するときは、敵国が資金を援助してくれました。ハガイ書には「私は、すべての国々を揺り動かす・・・銀は私のもの、金は私のもの」と書いてあります。日本は借金大国ですが、「教会だけは、クリスチャンだけは、なんとかしてもらいたい」というのが本音であります。私も今、このことに関しては、勉強中であります。イエス様が所有者であるなら、イエス様の御名で求めるときに、本当に与えられるのか?これは各自、勉強しなければなりません。10数年前、この会堂を建てるときは、お金がどんどん集まり、ハガイ書の通りだなーと思いました。1億4千万、借金なしで建てられたということは誇るべきことかもしれません。ま、借金も財産ですけど、地上に住んでいる、私たちに天の神様が、イエス様が豊かに恵んでくださることを期待しましょう。そのためには、口を大きく開けて願わなければなりません。子供なんですから、ストレートに「お金をください」と祈れば良いのです。子どもは親のふところを全然、心配していません。子どもは、明日のことはどもかく、今日、今がすべであります。ですから、私たちたちも幼子のように、「今日の糧を今日、下さい」と祈りましょう。

3.神そのもの

 3節「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。」聖書には「イエス・キリストが神である」と断言しているところは、ほとんどありません。ただし、イエス様は神様と同等の方であるとは、いろんなところで言われています。この箇所でも、御子は「神の栄光の輝き、神の本質の完全な現われ」と言われていますので、只者ではありません。サタンは天使の中で完全であり、最高の輝きを持っていました。そのためサタンは「いと高きところに上ろう」と高慢になり、地に投げ落とされました。神以外の者が、神様と等しくはなれないのです。御子は三位一体の神なので、まさしく、神の本質を現していたのです。ピリポという弟子が、私たちに父を見せてくれと願いました。イエス様は大変憤慨し、「私を見た者は、父を見たのです。私が父におり、父が私におられることを信じないのですか」と言われました。「私が父におり、父が私におられる」とはどんなことか、学校で数学習った方ならだれでも知っています。イエス様の円と父なる神の円が二つあります。「私が父におり、父が私におられる」ことを満足するためには、二つの円が同じ大きさでなければなりません。つまり、父なる神とイエス様は全く、同等だということです。だから、私たちはイエス様を見るとき、同時に、神様を見ているということなのです。

 多くの異端者が世にはびこっていますが、キリストをどんなお方としてとらえるか、この一点にかかっています。エホバの証人はキリストが被造物であり、天使の長だと言います。神の子は、神様ではないと言うのです。しかし、サルの子はサルです。人間の子は人間です。では、神の子ならば何でしょうか。イエス様は神の子であり、神なのです。ある有名な文学者が言いました。この部屋にシェークスピアが入って来たら、立ち上がって最高の敬意を表するでしょう。では、この部屋にイエス・キリストが入って来たらどうするでしょうか。地にひれ伏して、拝みます。弟子たちは復活の主と出会ったとき、礼拝しました。また、黙示録では、御座に座る方と小羊とに、賛美と誉れと栄光をささげています。小羊イエスは父なる神と共に、礼拝を受けておられるのです。聖書には神以外の者は礼拝してはいけないと書いてあります。ところが、御子イエスは礼拝を受けておられます。ということは、イエス・キリストは神であるということです。神とは私たちの最高の価値であり、私たちが仕えるべきお方だということです。なぜ、キリスト教会と言うのでしょうか?それは、キリストが神であることを信じている集団だからです。その人は何を一番大切にしているか、その人が何にひれ伏しているかで決まります。お金を一番大切にし、お金にひれ伏している人もいます。地位であったり名誉であったりします。また、ある人にとっては、異性、快楽、持ち物かもしれません。でも、それらは偶像であり、神ではありません。偶像は人を縛り、命を奪い取ります。しかし、本当の神様は自由と命をお与えになります。

4.贖罪者

 イエス・キリストは贖罪者です。3節後半に、「罪のきよめを成し遂げて」と書いてあります。ヘブル人への手紙の主題は、イエス・キリストが真の贖罪者であることを述べています。それも、旧約聖書のあちこちを引用して、「一回で、永遠の贖罪をなされたお方である」と証明しています。贖罪とは罪を贖うという意味ですが、旧約の時代はきよい動物を身代わりにささげました。自分が犯した罪を赦してもらうために、動物が身代わりに殺されなければなりませんでした。よく、キリスト教を誤解する人が「ごめんなさい」で良いのか言います。しかし、本当は、ただでは赦されないんです。何故、今日、ごめんなさいで神様が赦してくださるかと申しますと、イエス・キリストの贖いがあるからです。イエス様が代価を払ってくださったので、今の私たちはただで赦されるのです。もちろん、人に損害を与えた場合は、社会的な責任は問われます。でも、民事だとか刑事事件だとか関係なく、すべての罪は神様に対して犯した罪であります。ですから、私たちはまず第一に、神様から罪を赦していただく必要があるのです。

 さきほど、イエス様は神と同等のお方だと申し上げました。なぜ、神様が人間の身代わりに死ななければならないのでしょう。これがまた、キリスト教の神秘であり奥義なのです。罪とは元来、赦されざるものなのです。神様がどんな罪でも、「いいよ、いいよ、赦すよ」と言ったならば、その時点で神様ではなくなります。神様は何にもまして義なるお方なんです。罪であるなら、どんなものでもさばかなければならないのです。一方、人類を愛していますので、赦してあげたい。でも、赦してあげるなら、ご自分の義が立たない。愛を立てれば義が立たず、義を立てれば愛が立たない。そのときに、神の御子であるイエスが身代わりに立てられたのです。父なる神様は御子を人類が犯した罪の代わりにさばいたのです。これがキリストの十字架であります。私たちは十字架を見るときに、まっすぐな神の義と水平な神の愛とが交差していることが分かります。父なる神様は御子の贖いに満足され、もう人類をさばなかいとおっしゃっているのであります。でも、条件が1つだけあります。御子を救い主として信じる者に、贖いが適用されるのです。キリストによって、罪を贖われた者しか天国に入ることはできません。これは狭い門と言われるかもしれませんが、確かな道なのです。マタイ7:13,14「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです」。

5.支配者

 イエス・キリストは支配者です。3節後半「また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました」。イエス様は復活されてから40日後、天に昇り、神の右にお座りになられました。ピリピ2:9-11「それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、『イエス・キリストは主である。』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」イエス様は天に戻られてから、「主」という称号を与えられました。主とは、かつて、神様がモーセに現れて「私は主である」と言われた同じ称号であります。旧約時代は父なる神様が「主」でありましたが、新約時代はイエスが「主」になったのであります。主とは、支配者とか王様を意味する神様の別名であります。天の御国で「イエスは主なり」と言うならば、千々、万々の御使いたちが、「アーメン」とひれ伏すわけであります。しかし、天だけではありません。イエス・キリストはこの地に対しても、主権があります。マタイ28:18で、イエス様は「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています」とおっしゃられたとおりです。この事実を知らないのは、人間だけであります。悪魔はそれを知っていながら逆らっています。人間も逆らっています。もし神様が悪魔を滅ぼすならば、人間も一緒に滅ぼさなければなりません。だから、今、それができないのです。時間を延ばしてでも、一人でもご自分のところに立ち返るのを長く忍耐して待ち望んでおられます。

 イエス様が「大能者の右の座に着かれた」ということはどういうことでしょうか。私たちは「ああ、イエス様は贖いのわざを成し遂げられ、神の右の座に着かれ、お休みなったんだなー」と考えてしまいます。私たちも「ああ、やれやれ」とテーブルに腰掛け、お茶を飲んだりします。でも、これはそうではありません。聖書で「右」とは権威を象徴する言葉であります。また、そこ座られたということは、執務中ということであります。検事とか、裁判官が席に着いたならば、休むのではなく、仕事中ということであります。ですから、イエス様は、父なる神様から全権を受け、善と悪を裁いておられるのです。また、使徒信条にあるように、「生ける者と死にたるものを裁く」のであります。つまり、だれが永遠の御国に入るのか、だれが永遠の滅びに行くのか、主イエス・キリストがさばくのであります。みなさん、このことを知ったならば、和解するしかないのではないでしょうか。悪霊どもは「イエスは主」と信じて身震いしています。「そんなの関係ない」とうそぶいているのは、神から離れた人間だけです。日本は特に、イエス・キリストの知名度が低いです。ついでに牧師の権威も低いです。それは言いとしても、アメリカとかアフリカの大教会で司会者が、「イエスは主です!」と、宣言すると、全会衆が立ち上がり、「アーメン、ハレルヤ!」と拍手喝采するそうであります。なぜ、私たちに力がないのでしょうか。「イエスは主、主権者」という信仰がないからです。水戸黄門では「この印籠が目に入らぬか!」で人々は「ははー、とひれ伏します」。それで決まりなんです。でも、日本のキリスト教会では、「イエスは主」と言っても決まらない。主権者であるイエス様に従おうとしません。自分が王様になると、信仰がおかしくなります。イエス・キリストはどんなお方でしょうか。イエス・キリストは預言者にまさるお方です。なぜなら、イエス様は「啓示者、万物の相続者、神そのもの、贖罪者、そして権威者」だからです。このお方を心からあがめ、従って行きましょう。

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2006年2月12日 (日)

岩の上の人生   マタイ7:24-29 

本日が山上の説教の最後のメッセージであります。このテキストを選んだそもそもの目的は、キリストの教えを学び、キリストに似た者となるということでした。イエス様は山上の説教の終わりに、「これらのことばを聞いて行なう者は、岩の上に自分の家を建てた賢い人である」と言われました。聞いても行なわない人は、砂の上に自分の家を建てた愚かな人であります。土台がないので、土台無理と言うわけです。だれでも、岩の上に建てられた安定した人生を送りたいと思います。そのためには、3つのことが要求されます。

1.みことばを受け入れる

 私たちは聖書のことばをあえて「みことば」と呼びます。「み」というのは、尊敬の気持ちを表す形容詞です。教会用語には、御国、みこころ、御子、御霊、み教え、御名、み救い、みことばと「御」のつくのが沢山あります。私たちが聖書に対して、尊敬の気持つのは、なぜでしょう。それは、聖書は誤りなき神のことばだからです。Ⅱテモテ3:16「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。」聖書はただの書物ではありません。神の霊感を受けて書かれた、特別な書物であります。しかし、19世紀末からドイツやアメリカにおいて聖書に対する攻撃がはじまりました。創世記は本当にモーセが書いたのだろうか?科学的にみて天地創造はどうなのか?いわゆる批評学というものが発展して、聖書をバラバラに解体しました。とうとう、「聖書は人間が書いたものであり、神のことばがそこに含まれる」と結論付けたのです。そうしますと、どれとどれが神のことばであり、どれとどれが人間の考え出したものなのか分からなくなってきます。もう、危なくて、聖書をそのまま読めなくなります。だれか信頼のおける神学者や牧師のもとで読むしかなくなります。それに対して立ち上がったのが、福音派という人たちです。ビリーグラハムという大伝道者はBut the Bible said「しかし聖書はこう言っている」とメッセージしたのであります。つまり、不毛な学問をやめて、本来の聖書信仰に立ち返ろうという運動が起こりました。

 実は何を申しましょうか。私は、聖書はすべて誤りなき神のことばと信じる「聖書信仰」の持ち主です。私はそういうところから、18年前、この日本基督教団亀有教会に呼ばれて来たのです。その当時の役員さんは、座間教会のように成長させてほしいと願って招いたのであります。だから、あれを変え、これを変え、みんな変えてしまいました。もう、中身は、日本基督教団でなくなってしまったんです。一番違うのは、聖書に対する信仰であります。みなさんは当たり前だろうと思っているかもしれませんが、日本基督教団の9割強はリベラル的な信仰を持っています。「あちこちに間違いもあるし、当時の教えを寄せ集めたものだ。奇跡も数字も本当かどうか分からない」。これがこの教団の先生方の本心であります。そういう学問の流れを受けた神学校で学んだので仕方がないのかもしれません。私も昔は教師会で、聖書信仰について話しました。他の先生から、「それは純福音」だとか、「聖書主義、根本主義」などと言われました。今は、「ああ、何を言っても無理だなー」と諦めています。みなさん、私たちの寄って立つところは、聖書であります。聖書が誤りなき神のことばだからこそ、私はここで堂々と説教できるのであります。イエス様は「天地は崩れ去るであろう、しかし私のことばは永遠に残る」とおっしゃいました。人間の考えや価値観、倫理、学問などは時代と共に変わります。昨日まで正しかった学説が、今日は嘘になるということがあり得るのです。皮肉なことに、科学や考古学が発展していくにつれて、聖書の記述が本当であることが分かってきました。一歩引いて申し上げます。聖書は科学や歴史、文学の書物ではありませんので、「あれ?」と思うところがあるかもしれません。でも、聖書は救いのための専門書であります。救いに関しては絶対であります。ですから私たちは、この聖書を「この記述は本当だろうか」という疑いをはずして、「これは真理のみことば、いのちのみことばである」と丸ごと受け入れるべきであります。聖書のみことばを丸ごと受け入れましょう。そうしますと、真理の御霊が思う存分に働いてくださり、あなたに信仰を与え、力を与え、命を与え、導きを与えてくださるのです。どうぞ、聖書に対する信仰を持ちましょう。聖書には神の権威があるのです。
 T.L.オズーンという世界的伝道者がこのようにおっしゃっています。「今日、人々が犯している最大の誤りの1つは、神のみことばを一般の本か何かのように扱っていることです。もしキリストが、現にあなたのいる所に肉体をもって来られるとしたら、あなたがキリストに払うのと同じ敬意を、そのみことばに対しても払うべきです。主のみことばは、あなたに語りかけます。そして、もし主があなたの耳に聞こえるように話されたら、実際に語っているのと同じことを、あなたに告げているのです。神のみことばから、神を引き離すことはできません。神はみことばの中におられるだけではなく、その背後についておられ、みことばの1つでも効力を失うことがないように、みことばを裏づけようと絶えず見守っておられるのです。アーメン。

2.みことばを聞く

 マタイ7:24には「これらのことばを聞いてそれを行なう」と書いてあります。ですから、第二番目は聞くであります。ローマ10:17「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです」と書いてあります。つまり、人は聞かなければ、信じることができません。そのために、イエス様は人々に福音を宣べ伝えました。でも、聞き方に問題があります。マタイ13章には4種類の土地に蒔かれた種のたとえが書いてあります。最初は道端、次に岩地、茨、良い地であります。道端は神のことばを受け入れることをしない頑なな人であります。岩地は、最初は受け入れるけれど、困難や迫害が起こるとつまずく人たちです。日本は、道端と岩地の人が非常に多いんじゃないかと思います。そして、茨は、受け入れはしたものの、この世の心づかいや富の惑わしによって塞がれ、実を結べない人たちです。このタイプはヨーロッパ、アメリカかもしれません。最後に良い地です。良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことです。イエス様は群集に向かって、「耳のある者は聞きなさい」と言われました。これはすごいことであります。今は預言者のことばやイエス様のことばが聖書に書き記されています。ですから、直接、神様の声を肉声で聞くということはほとんどありません。ごくまれに聞く人はいます。でも一般的な方法は、神様の御声に傾けるために聖書を読むということです。言い換えると、聖書を読みながら、「神様が私に何とおっしゃっているのかなー」と御声を聞くということです。神様は肉声ではほとんど語りませんが、思いの中に示してくださいます。そのとき、人は「アーメン」と、納得するわけです。それを「悟り」とか、「みことばが与えられた」とか言うわけです。もちろん、神様は他の方法でも語りかけてくださいます。でも、聖書が基本中の基本だということです。

 問題はどのように聞くかということです。榎本保郎先生は、「みことばに聴く」とおっしゃいました。聴くというのは、注意して耳を傾ける、つまり「傾聴」ということです。私は、それを瞑想のとき、ディボーションと言い換えても良いと思います。つまり、神様は「私に何を語っておられるのだろうか」とじっくり聖書を読むということです。そうするとそこから戒めや約束、励ましが与えられます。パラパラと何章も急いで読むと、何も残りません。もし、ピーナッツをほとんど噛まないで飲んだら、翌朝どうなるでしょう。バラバラ、ビヒューンとそのまま出てくるでしょう。私も、ディボーションの良さということが本当に分かったのは、15年くらい前からです。それまでは人に教えるために聖書を読んできました。しかし、それだと自分の魂がカラカラになります。そうではなく、まず自分がみことばに聞いて、まず自分が養われる必要があります。するとどうでしょう。「聖書がこんなに面白いものなのか!一字、一句に意味があるんだなー!」と味わえるようになります。昔、イスラエルの民は荒野を行進していたとき、マナを集めました。マナは天から降ってくる綿菓子のような食べ物です。彼らは毎朝、自分が食べる分だけ集めました。ある人は2合、ある人は3合、ある人は1とう(18ℓ)。古いー。でも、次の日までには持たない。安息日以外は、毎朝、集めなければならないのです。これは、現代の私たちに対して「霊の糧を毎日いただきなさい」と言われていることではないかと思います。「聖書はただ読んだだけでわかるんですかー」と言う人もいます。もちろん全部は理解できません。でも、聖霊は真理の御霊ですから、じっくり読んでいると「これはこういう意味ですよ」と教えてくださいます。聖霊はあなたのために神様から派遣された家庭教師であります。この世の中にはたくさんの家庭教師(…トライ)がいますが、聖霊様は最高です。なんていったって、聖書を書いた張本人なのですから。分からないときは、原著者、オーサーに聞くのが一番です。ハレルヤ!日本には文盲はおりません。なのに聖書を読みません。インドネシヤでは今でも文盲がおります。ある婦人はセルリーダーになりたかったのですが、文盲のため聖書を読むことができませんでした。そのご婦人は神様に祈り求めました。そうしたら聖書だけは読めるようになりました。新聞や週刊誌を読んでも分からないのですが、聖書だけが読める。これは神様の奇跡であります。

先週、『真珠湾から説教壇まで』という小冊子を読みました。そこにディシェーザーというパイロットの証がありました。あまりご存知のない方もおられるでしょうが、真珠湾攻撃を受けた直後、アメリカ軍は日本に向けて16機の爆撃機を飛ばしました。彼らはみんな片道燃料で、爆弾を投下した後、すべて墜落しました。死んだ者、中国ゲリラに助けられた者もいましたが、ディシェーザーを含む4人は捕虜として捕らえられました。拷問を受け、食べ物もろくに与えられず、三角の木に座らされました。一人の中尉は栄養失調で死にましたが、彼はクリスチャンで聖書を残してくれました。ディシェーザーはその聖書を3週間だけ、手許に置くことを許されました。彼は真剣に聖書を読みました。一章一章が彼の心をとらえました。預言書たちの言葉がみな、罪からあがなう方のことをさしているように思われました。新約聖書に進むと、イエス様が預言を成就した方だとわかりました。そして、ローマ10:9が目に飛び込んできました。「あなたの口でイエスを主と告白するなら救われる」という聖句です。彼がそのとおり告白したら、肉体はひどく弱っているにも関わらず、霊的な喜びで溢れました。すると、食物もろくに与えず、残酷に打ち叩いた日本人将校や看守を見ても腹が立たなくなりました。彼は洗礼を受けたくなりましたが、独房ではそれは叶いません。ある晩、風によって雨が独房の隅に吹き込んできました。彼はこの吹き込む雨の中に立ったまま、それを自分の洗礼として受け入れました。彼は3年4ヶ月後、骨と皮の状態で釈放されました。しかし、彼は宣教師になって日本に行きました。そのとき、真珠湾に爆弾を落とした淵田大佐と劇的な出会いがありました。淵田大佐はディシェーザーのチラシを読んで、聖書を買いました。それで、淵田大佐も聖書を読んで救われたのです。伝道者になった淵田氏はこう言いました。「日本は世界で最も文盲の少ない国ですが、教育は救いをもたらしませんでした。平和と自由、これは国家的にも個人的にも、イエス・キリストに出会うことによってのみ、やって来るものです」。聖書は人を救いに導き、人を変えることができる書物です。そのためには聞くことが必要です。

3.みことばを行なう

イエス様は、「これらのことばを聞いてそれを行なう者は」と言われました。聞いても行なわないならば、やはりそれは、砂の上の人生であります。聞いて行なうところまで行かなければなりません。教会はこれが一番弱い。教えっぱなし、聞きっぱなしで終わります。聖書の知識ばかりが増え、理屈ばかり唱えるクリスチャンになります。日本にはそういう頭でっかちのクリスチャンがいっぱいおります。なぜなら、みことばを毎日の生活の中に適用しないからです。ヤコブ1:22、23「また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。みことばを聞いても行なわない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。」つまり、成長しないということです。きびしいですね。初代教会がなぜ力があったか、それはイエス様の教えを守るところまで、見ていたからです。だれが見ていたのですか?使徒たち12人で、3000人を見ることは不可能です。おそらく、家々に集まった人たち、つまりセルでやっていたんじゃないかと思います。「先週、ふりかえってどうでしたか?」「みことばを守ることができましたか?それとも、やぶっちゃったでしょうか?」互いに教え、互いに戒め、互いに励まし、互いに祈りあったわけです。たとえ立派な教師がいなくても、お互いが正直に告白するただ中に、聖霊様が働かれたのだと思います。セルは単なる集まりではなく、説明責任があります。「どうでしたか?」と問われたとき「はい、こうでした?」と答えるには勇気がいります。うやむやにしたくなりますけど、聞く方も、答える方も、真剣にならざるを得ません。セルが単なるうっぷん晴らしになるのは、自分のことを告白しないからです。人のことはともかく、自分がみことば通り生きたかどうか、これが一番重要です。人のことを語っているだけなら、変わりません。自分は神様の前にどうだったか、これが重要なのです。
 私もよく経験しますが、人に対してしゃべる内容は、ほとんど頭から出たものです。だけど、祈りながら告白する内容は、心の奥底から出たものです。なぜなら、神様との関係で語っているからです。ですから、時々、祈りながら、分かち合うということをしたら良いですね。私は安海先生ご夫妻を尊敬しています。お二人は、祈りながら喧嘩をするそうであります。これは私が半分、創作したものです。お二人は背中合わせにお祈りしています。「イエス様、主人は口ばかり達者で、優しさがありません。でも、私は主人に逆らってばかりいます。どうかお許しください」。すると先生が「アーメン」と答えます。こんどは先生が「イエス様、家内はすぐ感情的になります。でも、私はああだ、こうだと言いますが、心情的な面を疎かにしてしまいます。どうかお許しください」。すると奥様が背中から「アーメン」と、大声で答えます。本当にそうなのか分かりませんよ。大先輩に大変失礼ですが、そのように祈るということをご本人から聞いたことがあります。どうか、兄弟姉妹の間で、結婚している方々でやってみてください。祈りながら分かち合う、祈りながら喧嘩をする、祈りながら和解する。でも、祈りながら教えたり、説教してはいけません。あくまでも、神様との関係で自分を見るということです。とにかく、自分がみことば通り生きているか、確認し合う、フィードバックするグループがなくてはなりません。サドルバック教会のサポートグループというものがあります。彼らの多くはアルコール中毒、性的中毒、薬物中毒、共依存、虐待…という重たい人たちです。でも、そういう人たちが毎週1回集まり、報告し合います。先週1週間どうでしたか?「失敗しました」とか「なんとか誘惑から守られました」とか、分かち合います。1週間、1回の集まりですが、彼らにとって、ものすごく大きな助けになると聞いたことがあります。小グループの中で、告白し、祈り合うことがどんなに力があるか、今、改めて気づかされています。 
 聖書を読んで与えられたみことばを守り行ないたいと思います。でも、あまり大きなことを一度にはできません。具体的で、小さなことを1つでも実行できたらOKです。夫が、妻を愛しなさいという教えをいただいたなら、お茶碗を洗うことだけでも良いのです。妻であるなら、「ありがとう、感謝しているわ」だけでも良いですね。牧師に、「きょうのメッセージ恵まれました」などと言ってごらんなさい。もう、月曜日から次の日曜日の準備をするかもしれません。今のはおまけでしたが、具体的なこと1つでも実行するのです。そうすると、だんだん筋肉がついてきて、みことばを行なうことが容易になり、また楽しくなります。するとまたみことばを読みたくなります。しまいに、みことばに中毒になる。聖書を読まない日は何か気持ち悪い。みことば依存症くらいになりたいですね。聖書に土台した人生は岩の上の人生であります。人生における嵐や洪水はだれにでも起きます。肉体的危機、経済的危機、家庭の危機、仕事の危機、精神的な危機、いろいろな危機が起こるでしょう。そのとき、見えてくるのが、その人が一体、何の上に土台しているかであります。荒れ狂う洪水で家の土台が削られるかもしれません。でも、よく見たら、岩の上にのっかっていました。危機的なことが起こると、その人の土台が見えてきます。そして、家というのは日本の木造家屋というよりも、西洋の石で造られた建造物であります。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけましたが、それでも倒れませんでした。どうしてでしょう。岩の上に建てられていたからです。人が何と言うか、人の意見はどうだろうか?それもある程度大切です。助言もいただくことも良いでしょう。でも、一番大切なのは、聖書がなんと言っているか?神様がなんと言っているかであります。自分の思いは他にあるかもしれません。でも、最終的に「みことばがそうおっしゃるのでしたら喜んで従います」。これが岩の上に土台する人生です。岩の上に土台した人生は、この世の嵐がいくら来ても関係ありません。これは契約の内を歩んでいる人の人生でもあります。みことばを受け入れ、聞いて、行ない、契約の内を歩み続けましょう。

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2006年2月 5日 (日)

実によって知る      マタイ7:15-23

 春が近づいたせいでしょうか。最近、雨が多いですね。おそらく、乾いた地面が、水分を吸収して、木や植物の根に潤いを与え、芽を出すための準備をしているのではないかと思います。私は植物が繁茂している夏よりも、ああ、これから芽が出るぞ!という季節が好きです。外から見たら枯れている木々も、内側ではちゃんと芽を出す準備をしています。なんか、信仰と共通するところがあります。日本の教会は冬が長すぎます、やってもやっても芽が出ないという諦めムード一色です。どうか、日本にリバイバルの季節がやってきますようにと祈らざるをえません。

1.偽預言者

 偽預言者の出現は、旧約聖書から終末にいたる全時代にまで及んでいます。イエス様の時代は、パリサイ人・律法学者がそういう人たちでした。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼でした。偽預言者とは、神の言葉を用いて羊を養うような振る舞いをしながら、その実、飼っている羊を食べてしまう人たちです。偽預言者は全時代に出現しますが、彼らの戦略はその教えにあります。偽預言者と教えは、ペアーになっています。マホメットは旧約聖書の上にコーランを乗せました。モルモン教は、聖書の他にモルモン経典があります。統一教会は原理講論をもって聖書を解釈します。キリスト教であっても、ヒューマニズムや哲学を土台としているものもないわけではありません。教えというのは、私たちの思想を作ります。思想はやがてその人の生き方や人格、品性、価値観を決定していきます。それが実であります。良い教えは良い実を結びますが、悪い教えは悪い実を結ぶと言い換えても結構であります。たとえば、イスラムの教えを受けた人は、一般に好戦的であります。「片手にコーラン、片手に剣」と言うことを聞きたことがあります。それに、女性の地位は低くて、外で働くことができません。アメリカはキリスト教国と言うことで知られています。本来は聖書に基づいた国を作ろうと始めたんですが、いろいろな教えも入り込んできました。その1つは功利主義であり、幸福を人生の目的として生きることです。そうなると「幸福になるために結婚する。幸福でなければ離婚する」という理論が生まれます。みなさん、幸福は目的ではありません。神様のみこころを行なうときに、与えられるボーナスです。ですから、「幸福の科学」を教えている人も、偽預言者です。幸福は追求するものではありません。追いかけたら、青い鳥のように逃げていきます。幸福は、神様に従うときに与えられる、「恵み」です。

 ですから、偽物の教えなのか、本物の教えなのか彼らの生活を見ればわかります。ヘブル人への手紙13:7「神のみことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生活の結末をよく見て、その信仰にならいなさい」とあります。指導者たちの生活の結末とは、実であります。実とは何でしょうか?その人の歩み、人格、品性、生活、そして最期であります。偽預言者本人と偽預言者に追従している人は、どうなるでしょうか?富んでいるけれど、非常に利己的であるかもしれません。あるいは反社会的で生活がなりたたなくなるかもしれません。あるいは虚偽で塗り固められた嘘つき集団かもしれません。彼らは、世界中を歩き回り、自分よりももっとひどい悪魔の子を作り出すためにやっきになっています。どことは申しませんが、そういう人たちに限って、ものすごく熱心なのであります。パウロはガラテヤ4:17「あなたがたに対するあの人々の熱心は正しいものではありません」と言っています。熱心であれば良いというものではありません。私などはセールスマンに熱心に勧められると弱いところがあります。コピー機とか、電話回線、新聞の勧誘・・・たいしたもんだなーと感心します。みなさん、悪い教えは、悪い実を結びます。その教えを広めている人と、信奉している人たちを見たら良いですね。今は占いが非常に流行っています。四柱推命学、風水、星座・・・そういう人は本人もそうですが、受けた人も、最終的にはどうなるでしょうか。恐れの霊にしばられ、外に一歩、出るのも大変になります。ある女性は占いが大変良くあたり金持ちになりました。しかし、夜になると夢の中に蛇が現われ、「お前を支配したい」とやって来たそうであります。これは悪魔であります。占いの背後には、悪魔が働いているのです。この世の中には、黒とは言えないけれど、限りなく黒に近い灰色がたくさんあります。競輪、競馬、パチンコなどは毎日やっていないとダメなんです。データーが必要なんです。でも、ギャンブルをやって家を建てた人はいないとよく言われます。酒やタバコも灰色です。「酒は百薬の長」などとも言われます。でも、それらをやった結果、どうなるでしょうか。病気になったり、中毒になります。家庭も崩壊します。結末は分かっているんです。

 私たちは偽預言者を避け、本物の教えを受ける必要があります。みなさん、この世のものはすべて相対的であります。「絶対」なんて言うと嫌われます。しかし、聖書の教え、イエス様の教えは絶対であります。確かに、聖書を解くための、色んな神学や教理は存在します。教会の歴史をふりかえりますと、ある時はそれてしまったこともあります。でも、私たちは絶えず聖霊に聞き、まことのみことばをいただく必要があります。大学の神学部とか、神学大学、神学者が必ずしも正しいとは言えません。学問も必要ですが、最終的には真理の御霊が証をしてくださるんです。真理の御霊に逆らっているなら、たとえ有名な神学者であってもそれは「ノー」であります。日本にも福音派の大御所があります。どことは申しませんが、最近、おかしくなっている。そこの教会の信徒がこうおっしゃっていました。「あれこれ神学を語ってもわかりません。どうか、聖書から語ってほしい」と。「聖書だけ読んで分かるんですか?」とある人は言います。分かります。ルターは「聖書は聖書が解釈する」と言いました。こちらで分からないところがあれば、別のところで語ってくれるのです。では、偽物はどうやって分かるのでしょうか?銀行の人は、偽札を知るために、偽札を研究しません。本物に触っていると、偽物がわかるそうです。私たちも、たえず聖書からの本物の教えに触れていると、偽物がやって来たとき「あれっ?」と分かるのです。牧師自身もこの世に生きていますので、たえず軌道修正しながら、真理の道を歩んで行きたいと思います。どうか、私のためにもお祈りください。使徒パウロがおっしゃっています。Ⅱテモテ2:15「あなたは熟練した者、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神にささげるよう、努め励みなさい」。アーメン。

2.偽クリスチャン

 使徒パウロは偽兄弟の難にあったとⅡコリント11章で述べています。偽預言者がいるなら、偽クリスチャンが当然いるはずです。そのことは、マタイ7:21-23に書いてあります。わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』この人たちは、イエス様を「主」と呼んでいました。また、イエス様の名前で、預言をしたり、悪霊を追い出したり、奇跡もたくさん行いました。でも、イエス様は「わたしはあなたがたを全然知らない。わたしから離れて行け。」とおっしゃっています。私がこう言われたら、困るなーと思います。イエス様は群集に向かって、このような冷たい言葉をときどき投げかけています。ヨハネ6章には、「弟子たちのうちの多くの者が、去って行った」と書いてあります。みなさん、イエス様のみわざや教えを聞いて集まって来る人たちすべてが、クリスチャンとは言えません。中には、「主よ」と呼んだり、「主の御名によって」と奇跡を行なう器用な者までいたようです。わー、驚きます。私もこれまで、100名以上の洗礼を授けてきましたが、中には本当に信じていないで受けた人たちもいたかもしれません。日本は義理と人情の国ですから、「世話になったので、とりあえず受けておこう」という人もいたかもしれません。私自身も、本当にその人たちが信じたのか、形だけだったのか分かりません。

 でも、ここではっきり分かることがあります。実によって知ることができます。20節「こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです」とあります。良い木は良い実を結びます。悪い木は、悪い実を結びます。実とは何だったでしょうか?その人の歩み、人格、品性、生活、そして結末であります。もし、その人が悔い改めて、新生していれば、おのずと救いの実が実るはずであります。ガラテヤ書に「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です」と書いてあります。もし、クリスチャンになったのに、不品行、偶像礼拝、魔術、争い、憤り、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興などを続けていたら、問題かもしれません。もちろん、クリスチャンになって罪を全く犯さなくなるということはありません。でも、救いを得ている人たちの中には、神の種が宿っているので、罪を犯し続けることができません。むしろ、きよさに至る実を結んでいくはずです。私も「きよさ」などとは、ほど遠い存在でありましたが、27年近くクリスチャンをやっていますと、「随分と変わったかなー」と自分でも驚きます。高校生の頃は本当に人を殺そうと思いました。殺意なんか抱いたことないという人がいますが、私は殺意、敵意、情欲、自己中心のかたまりでした。でも、本当に不思議であります。救いは目には見えませんが、実としてやがて現れてくるんだなーと心から思います。イエス様はヨハネ15章で、「あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためである」とおっしゃいました」。実が残るとはいろんなことが考えられます。多くの草花は、種を残して、春にまた新しい芽を出します。クリスチャンも最後まで、忠実でありたいと思います。また、自分だけではなく、救いの実を他にも残したいと思います。

 良い木か悪い木なのか、実によって知ることができます。私たちは、クリスチャンであっても、それは本当に正しいことなのか、間違っているのか善悪をつけがたいものがあります。ときどき、だれが悪いとか良いとか批判し合うこともあるかもしれません。教会内で、悪口とかゴシップがないほうが良いです。でも、「本当はこうなんだ!」と言うと言い訳になります。私はそのとき、「木は実によって知る」というみことばを思い出します。つまり、その人の生活や人格の結ぶ実によって、その人が言っていることが真実なのか偽りなのか分かるということです。実が結ぶまではある程度の時間がかかります。でも、良い木であれば良い実を結びますし、悪い木であれば悪い実を結びます。最終的には、実で判断できるということです。私たちは、そういう意味で、神の前に厳粛になるべきです。使徒パウロは、Ⅱコリント13:5で「あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい」と言われました。つまり、人のことをどうこう言う前に、「自分はどうなのか?信仰に立っているのだろうか?」と問うべきです。それは人からの賛同を得なさいという意味ではありません。神様からの賛同を得よということです。現代はあまりにも人と人との関係を強調するところがあります。もちろん、人との関係も大切です。しかし、最終的には神様がどう言われるか、ここに信仰者は立つべきです。ある教会で、牧師はふさわしくないので、退任してもらいたいという提案が出たそうです。そのとき、教団から3名の牧師がやって来られ、双方の言い分を聞いたそうです。先生たちがお帰りになるときこのように言ったそうです。「2週間後にまた来ます。しかし、それまでだれとも連絡を取り合ったりせず、神様の前に静まって、神様から直接、聞きなさい」と言ったそうです。私はそれを聞いて、感動しました。IT時代、情報過多の時代に私たちは生きています。でも、「神様に聞く」、これが信仰者にとって、最も大切なことだと思います。Ⅱコリント13:5をもう一度引用いたします。「あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい」

3.実を結ぶために

これで終わってしまうと、なんかシュンとして、帰ることになります。最後は恵みで終わりたいと思います。かつての私たちは野ぶどうでした。イスラエルがぶどうの木なら、私たちは野生のぶどうです。そして、イエス様はまことのぶどうの木です。聖書でとても有名なみことばがあります。Ⅱコリント5:17「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」。原文では、キリストにあるなら」は「キリストに接木されるなら」とも訳せるそうです。私たちクリスチャンは、イエス様という木に接木された者であります。接木された以上は、幹であられるイエス様から力と命をいただいて生きるべきであります。もし、私たちが離れてしまうなら、枯れてしまいます。ヨハネ15:5,6「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます」。火に投げ込むとは、地獄に落とされるという意味ではありません。もし、そういうふうに解釈してしまうと、信仰義認の福音と矛盾してしまうことになります。そうではなく、キリストから離れてしまったら、その人のしたことが無駄になるということです。つまり、実を残すことができないということです。豊かな実を結ぶためには、私たちはキリストにとどまり続ける必要があります。「キリストを離れて、私自身では実を結ぶことはできない」とはどういうことでしょうか。たしかに、ある人たちはこの地上で有名になり、偉大な功績を残すでしょう。教科書に載ったり、銅像が建ったり、記念館が建ったりするかもしれません。しかし、問題は、御国にそれが残るかであります。「地上では有名であっても、天国ではまったく無名」ということもあり得るのです。ですから、クリスチャンの目指すものは、地上における実ではなく、永遠の御国まで残る実であります。ま、できれば地上でも実を見たいし、御国でも見たいです。でも、最終的なゴールは、あっちの方じゃないかなーと思います。極端なことを言えば、地上ではさっぱりだったけど、天国ではすごいということもあるかもしれません。牧師などは、毎週、講壇の上で報いられていますので、天国に行ったら、一人の兄弟かもしれません。有名な牧師ほど、天国に行ったら報いはわずかでしょう。

 実を結ぶためにどうしたら良いでしょうか?良い地にまかれた種は、みことばを聞いて悟る人だと福音書に書いてあります。ヨハネ15:7にも「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます」とあります。ですから、聖書を抜きにして実を結ぶことはできません。つまり、キリストにとどまるということは、みことばにとどまるということです。「イエス様を愛しますけど、みことばには従いません」、これは嘘です。前のポイントの偽クリスチャンですね。イエス様を愛するために、みことばを読み、みことばを守ることが絶対、欠かすことはできません。なぜなら、「イエス様=ことば、ことば=イエス様」だからです。おおー、こうなると聖書に親しむしかありません。うちにも来られたメル・ボンドという人はある本にこのように書いてありました。「あなたの考えはあなたの霊の入口です。満ち満ちた神の力や油注ぎが、現実に私たちに現されるために、神のみ言葉が私たちの考えの中に入るようにし、そこにとどまることが必要です。考えたことが霊の奥に入り、その結果してしるしと不思議の働きが起こってきます。すなわち、喜んでみことばを考え続ける人に、神様の力が生み出されるからです。もし私たちが心を守って、キリスト・イエスを通してくる考えだけに、すなわち神のみ言葉を通してくる考えだけに、心の扉を開けるようにするなら、あらゆる人知を超えた神様からの平安を持つことができるのです。ある時、私はテレビを観ていました。その番組は、全米から集まってきた特定のグループを、専門家が分析をするショーでした。分析を受けるグループは百歳以上の人たちでした。彼らは「百歳隊」と呼ばれていました。医学に通じている人々が導きだした驚くべき結論は、これらの人々の長寿は、栄養のバランスが良いとか、運動をしているせいだとかいうような、はじめに考えられていた要因とは違っていたことです。そうではなく、長寿の要因は、彼らの肯定的な思考方式にあったのです。「百歳隊」の人は、たとえ自分にとって大切な人が亡くなっても、落ち込むことを拒否したのです。彼らの心の中に、失望や憂鬱がとどまるのを拒否したのです。もし私たちが超自然的な刷新を願うなら、私たちの考えから始めなくてはなりません。刷新はまず頭の中で起こり、それから霊の中に起こってくるのです。神様のみ言葉が私たちの考えの中に入ると、罪、悪い行ない、誤り、失敗、弱さ、不十分さが私たちの人生から消し去られます。悪魔は私たちが勝利できないように、種々の考えで、私たちの頭がいっぱいになるようにさせるのです。私たちは神さまのみ言葉にとどまっている時、健康で、人からの好意を得、安全で、安息のある、経済的に繁栄し、幸せに満ちた、超自然的な領域に保たれるのです。」

 私たちの思いをどうすべきでしょうか。私たちの思いを悪いことばや否定的なことばに任せてはいけません。そうではなく、神様のことばにこの思いを占領してもらいましょう。そうするなら、霊が祝福されます。霊が祝福されたら、その結果として、肉体において物質において幸いがやってくるのです。この世のものではなく、イエス様とみ言葉にとどまり続けたいと思います。アーメン。

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