岩の上の人生 マタイ7:24-29
本日が山上の説教の最後のメッセージであります。このテキストを選んだそもそもの目的は、キリストの教えを学び、キリストに似た者となるということでした。イエス様は山上の説教の終わりに、「これらのことばを聞いて行なう者は、岩の上に自分の家を建てた賢い人である」と言われました。聞いても行なわない人は、砂の上に自分の家を建てた愚かな人であります。土台がないので、土台無理と言うわけです。だれでも、岩の上に建てられた安定した人生を送りたいと思います。そのためには、3つのことが要求されます。
1.みことばを受け入れる
私たちは聖書のことばをあえて「みことば」と呼びます。「み」というのは、尊敬の気持ちを表す形容詞です。教会用語には、御国、みこころ、御子、御霊、み教え、御名、み救い、みことばと「御」のつくのが沢山あります。私たちが聖書に対して、尊敬の気持つのは、なぜでしょう。それは、聖書は誤りなき神のことばだからです。Ⅱテモテ3:16「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。」聖書はただの書物ではありません。神の霊感を受けて書かれた、特別な書物であります。しかし、19世紀末からドイツやアメリカにおいて聖書に対する攻撃がはじまりました。創世記は本当にモーセが書いたのだろうか?科学的にみて天地創造はどうなのか?いわゆる批評学というものが発展して、聖書をバラバラに解体しました。とうとう、「聖書は人間が書いたものであり、神のことばがそこに含まれる」と結論付けたのです。そうしますと、どれとどれが神のことばであり、どれとどれが人間の考え出したものなのか分からなくなってきます。もう、危なくて、聖書をそのまま読めなくなります。だれか信頼のおける神学者や牧師のもとで読むしかなくなります。それに対して立ち上がったのが、福音派という人たちです。ビリーグラハムという大伝道者はBut the Bible said「しかし聖書はこう言っている」とメッセージしたのであります。つまり、不毛な学問をやめて、本来の聖書信仰に立ち返ろうという運動が起こりました。
実は何を申しましょうか。私は、聖書はすべて誤りなき神のことばと信じる「聖書信仰」の持ち主です。私はそういうところから、18年前、この日本基督教団亀有教会に呼ばれて来たのです。その当時の役員さんは、座間教会のように成長させてほしいと願って招いたのであります。だから、あれを変え、これを変え、みんな変えてしまいました。もう、中身は、日本基督教団でなくなってしまったんです。一番違うのは、聖書に対する信仰であります。みなさんは当たり前だろうと思っているかもしれませんが、日本基督教団の9割強はリベラル的な信仰を持っています。「あちこちに間違いもあるし、当時の教えを寄せ集めたものだ。奇跡も数字も本当かどうか分からない」。これがこの教団の先生方の本心であります。そういう学問の流れを受けた神学校で学んだので仕方がないのかもしれません。私も昔は教師会で、聖書信仰について話しました。他の先生から、「それは純福音」だとか、「聖書主義、根本主義」などと言われました。今は、「ああ、何を言っても無理だなー」と諦めています。みなさん、私たちの寄って立つところは、聖書であります。聖書が誤りなき神のことばだからこそ、私はここで堂々と説教できるのであります。イエス様は「天地は崩れ去るであろう、しかし私のことばは永遠に残る」とおっしゃいました。人間の考えや価値観、倫理、学問などは時代と共に変わります。昨日まで正しかった学説が、今日は嘘になるということがあり得るのです。皮肉なことに、科学や考古学が発展していくにつれて、聖書の記述が本当であることが分かってきました。一歩引いて申し上げます。聖書は科学や歴史、文学の書物ではありませんので、「あれ?」と思うところがあるかもしれません。でも、聖書は救いのための専門書であります。救いに関しては絶対であります。ですから私たちは、この聖書を「この記述は本当だろうか」という疑いをはずして、「これは真理のみことば、いのちのみことばである」と丸ごと受け入れるべきであります。聖書のみことばを丸ごと受け入れましょう。そうしますと、真理の御霊が思う存分に働いてくださり、あなたに信仰を与え、力を与え、命を与え、導きを与えてくださるのです。どうぞ、聖書に対する信仰を持ちましょう。聖書には神の権威があるのです。
T.L.オズーンという世界的伝道者がこのようにおっしゃっています。「今日、人々が犯している最大の誤りの1つは、神のみことばを一般の本か何かのように扱っていることです。もしキリストが、現にあなたのいる所に肉体をもって来られるとしたら、あなたがキリストに払うのと同じ敬意を、そのみことばに対しても払うべきです。主のみことばは、あなたに語りかけます。そして、もし主があなたの耳に聞こえるように話されたら、実際に語っているのと同じことを、あなたに告げているのです。神のみことばから、神を引き離すことはできません。神はみことばの中におられるだけではなく、その背後についておられ、みことばの1つでも効力を失うことがないように、みことばを裏づけようと絶えず見守っておられるのです。アーメン。
2.みことばを聞く
マタイ7:24には「これらのことばを聞いてそれを行なう」と書いてあります。ですから、第二番目は聞くであります。ローマ10:17「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです」と書いてあります。つまり、人は聞かなければ、信じることができません。そのために、イエス様は人々に福音を宣べ伝えました。でも、聞き方に問題があります。マタイ13章には4種類の土地に蒔かれた種のたとえが書いてあります。最初は道端、次に岩地、茨、良い地であります。道端は神のことばを受け入れることをしない頑なな人であります。岩地は、最初は受け入れるけれど、困難や迫害が起こるとつまずく人たちです。日本は、道端と岩地の人が非常に多いんじゃないかと思います。そして、茨は、受け入れはしたものの、この世の心づかいや富の惑わしによって塞がれ、実を結べない人たちです。このタイプはヨーロッパ、アメリカかもしれません。最後に良い地です。良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことです。イエス様は群集に向かって、「耳のある者は聞きなさい」と言われました。これはすごいことであります。今は預言者のことばやイエス様のことばが聖書に書き記されています。ですから、直接、神様の声を肉声で聞くということはほとんどありません。ごくまれに聞く人はいます。でも一般的な方法は、神様の御声に傾けるために聖書を読むということです。言い換えると、聖書を読みながら、「神様が私に何とおっしゃっているのかなー」と御声を聞くということです。神様は肉声ではほとんど語りませんが、思いの中に示してくださいます。そのとき、人は「アーメン」と、納得するわけです。それを「悟り」とか、「みことばが与えられた」とか言うわけです。もちろん、神様は他の方法でも語りかけてくださいます。でも、聖書が基本中の基本だということです。
問題はどのように聞くかということです。榎本保郎先生は、「みことばに聴く」とおっしゃいました。聴くというのは、注意して耳を傾ける、つまり「傾聴」ということです。私は、それを瞑想のとき、ディボーションと言い換えても良いと思います。つまり、神様は「私に何を語っておられるのだろうか」とじっくり聖書を読むということです。そうするとそこから戒めや約束、励ましが与えられます。パラパラと何章も急いで読むと、何も残りません。もし、ピーナッツをほとんど噛まないで飲んだら、翌朝どうなるでしょう。バラバラ、ビヒューンとそのまま出てくるでしょう。私も、ディボーションの良さということが本当に分かったのは、15年くらい前からです。それまでは人に教えるために聖書を読んできました。しかし、それだと自分の魂がカラカラになります。そうではなく、まず自分がみことばに聞いて、まず自分が養われる必要があります。するとどうでしょう。「聖書がこんなに面白いものなのか!一字、一句に意味があるんだなー!」と味わえるようになります。昔、イスラエルの民は荒野を行進していたとき、マナを集めました。マナは天から降ってくる綿菓子のような食べ物です。彼らは毎朝、自分が食べる分だけ集めました。ある人は2合、ある人は3合、ある人は1とう(18ℓ)。古いー。でも、次の日までには持たない。安息日以外は、毎朝、集めなければならないのです。これは、現代の私たちに対して「霊の糧を毎日いただきなさい」と言われていることではないかと思います。「聖書はただ読んだだけでわかるんですかー」と言う人もいます。もちろん全部は理解できません。でも、聖霊は真理の御霊ですから、じっくり読んでいると「これはこういう意味ですよ」と教えてくださいます。聖霊はあなたのために神様から派遣された家庭教師であります。この世の中にはたくさんの家庭教師(…トライ)がいますが、聖霊様は最高です。なんていったって、聖書を書いた張本人なのですから。分からないときは、原著者、オーサーに聞くのが一番です。ハレルヤ!日本には文盲はおりません。なのに聖書を読みません。インドネシヤでは今でも文盲がおります。ある婦人はセルリーダーになりたかったのですが、文盲のため聖書を読むことができませんでした。そのご婦人は神様に祈り求めました。そうしたら聖書だけは読めるようになりました。新聞や週刊誌を読んでも分からないのですが、聖書だけが読める。これは神様の奇跡であります。
先週、『真珠湾から説教壇まで』という小冊子を読みました。そこにディシェーザーというパイロットの証がありました。あまりご存知のない方もおられるでしょうが、真珠湾攻撃を受けた直後、アメリカ軍は日本に向けて16機の爆撃機を飛ばしました。彼らはみんな片道燃料で、爆弾を投下した後、すべて墜落しました。死んだ者、中国ゲリラに助けられた者もいましたが、ディシェーザーを含む4人は捕虜として捕らえられました。拷問を受け、食べ物もろくに与えられず、三角の木に座らされました。一人の中尉は栄養失調で死にましたが、彼はクリスチャンで聖書を残してくれました。ディシェーザーはその聖書を3週間だけ、手許に置くことを許されました。彼は真剣に聖書を読みました。一章一章が彼の心をとらえました。預言書たちの言葉がみな、罪からあがなう方のことをさしているように思われました。新約聖書に進むと、イエス様が預言を成就した方だとわかりました。そして、ローマ10:9が目に飛び込んできました。「あなたの口でイエスを主と告白するなら救われる」という聖句です。彼がそのとおり告白したら、肉体はひどく弱っているにも関わらず、霊的な喜びで溢れました。すると、食物もろくに与えず、残酷に打ち叩いた日本人将校や看守を見ても腹が立たなくなりました。彼は洗礼を受けたくなりましたが、独房ではそれは叶いません。ある晩、風によって雨が独房の隅に吹き込んできました。彼はこの吹き込む雨の中に立ったまま、それを自分の洗礼として受け入れました。彼は3年4ヶ月後、骨と皮の状態で釈放されました。しかし、彼は宣教師になって日本に行きました。そのとき、真珠湾に爆弾を落とした淵田大佐と劇的な出会いがありました。淵田大佐はディシェーザーのチラシを読んで、聖書を買いました。それで、淵田大佐も聖書を読んで救われたのです。伝道者になった淵田氏はこう言いました。「日本は世界で最も文盲の少ない国ですが、教育は救いをもたらしませんでした。平和と自由、これは国家的にも個人的にも、イエス・キリストに出会うことによってのみ、やって来るものです」。聖書は人を救いに導き、人を変えることができる書物です。そのためには聞くことが必要です。
3.みことばを行なう
イエス様は、「これらのことばを聞いてそれを行なう者は」と言われました。聞いても行なわないならば、やはりそれは、砂の上の人生であります。聞いて行なうところまで行かなければなりません。教会はこれが一番弱い。教えっぱなし、聞きっぱなしで終わります。聖書の知識ばかりが増え、理屈ばかり唱えるクリスチャンになります。日本にはそういう頭でっかちのクリスチャンがいっぱいおります。なぜなら、みことばを毎日の生活の中に適用しないからです。ヤコブ1:22、23「また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。みことばを聞いても行なわない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。」つまり、成長しないということです。きびしいですね。初代教会がなぜ力があったか、それはイエス様の教えを守るところまで、見ていたからです。だれが見ていたのですか?使徒たち12人で、3000人を見ることは不可能です。おそらく、家々に集まった人たち、つまりセルでやっていたんじゃないかと思います。「先週、ふりかえってどうでしたか?」「みことばを守ることができましたか?それとも、やぶっちゃったでしょうか?」互いに教え、互いに戒め、互いに励まし、互いに祈りあったわけです。たとえ立派な教師がいなくても、お互いが正直に告白するただ中に、聖霊様が働かれたのだと思います。セルは単なる集まりではなく、説明責任があります。「どうでしたか?」と問われたとき「はい、こうでした?」と答えるには勇気がいります。うやむやにしたくなりますけど、聞く方も、答える方も、真剣にならざるを得ません。セルが単なるうっぷん晴らしになるのは、自分のことを告白しないからです。人のことはともかく、自分がみことば通り生きたかどうか、これが一番重要です。人のことを語っているだけなら、変わりません。自分は神様の前にどうだったか、これが重要なのです。
私もよく経験しますが、人に対してしゃべる内容は、ほとんど頭から出たものです。だけど、祈りながら告白する内容は、心の奥底から出たものです。なぜなら、神様との関係で語っているからです。ですから、時々、祈りながら、分かち合うということをしたら良いですね。私は安海先生ご夫妻を尊敬しています。お二人は、祈りながら喧嘩をするそうであります。これは私が半分、創作したものです。お二人は背中合わせにお祈りしています。「イエス様、主人は口ばかり達者で、優しさがありません。でも、私は主人に逆らってばかりいます。どうかお許しください」。すると先生が「アーメン」と答えます。こんどは先生が「イエス様、家内はすぐ感情的になります。でも、私はああだ、こうだと言いますが、心情的な面を疎かにしてしまいます。どうかお許しください」。すると奥様が背中から「アーメン」と、大声で答えます。本当にそうなのか分かりませんよ。大先輩に大変失礼ですが、そのように祈るということをご本人から聞いたことがあります。どうか、兄弟姉妹の間で、結婚している方々でやってみてください。祈りながら分かち合う、祈りながら喧嘩をする、祈りながら和解する。でも、祈りながら教えたり、説教してはいけません。あくまでも、神様との関係で自分を見るということです。とにかく、自分がみことば通り生きているか、確認し合う、フィードバックするグループがなくてはなりません。サドルバック教会のサポートグループというものがあります。彼らの多くはアルコール中毒、性的中毒、薬物中毒、共依存、虐待…という重たい人たちです。でも、そういう人たちが毎週1回集まり、報告し合います。先週1週間どうでしたか?「失敗しました」とか「なんとか誘惑から守られました」とか、分かち合います。1週間、1回の集まりですが、彼らにとって、ものすごく大きな助けになると聞いたことがあります。小グループの中で、告白し、祈り合うことがどんなに力があるか、今、改めて気づかされています。
聖書を読んで与えられたみことばを守り行ないたいと思います。でも、あまり大きなことを一度にはできません。具体的で、小さなことを1つでも実行できたらOKです。夫が、妻を愛しなさいという教えをいただいたなら、お茶碗を洗うことだけでも良いのです。妻であるなら、「ありがとう、感謝しているわ」だけでも良いですね。牧師に、「きょうのメッセージ恵まれました」などと言ってごらんなさい。もう、月曜日から次の日曜日の準備をするかもしれません。今のはおまけでしたが、具体的なこと1つでも実行するのです。そうすると、だんだん筋肉がついてきて、みことばを行なうことが容易になり、また楽しくなります。するとまたみことばを読みたくなります。しまいに、みことばに中毒になる。聖書を読まない日は何か気持ち悪い。みことば依存症くらいになりたいですね。聖書に土台した人生は岩の上の人生であります。人生における嵐や洪水はだれにでも起きます。肉体的危機、経済的危機、家庭の危機、仕事の危機、精神的な危機、いろいろな危機が起こるでしょう。そのとき、見えてくるのが、その人が一体、何の上に土台しているかであります。荒れ狂う洪水で家の土台が削られるかもしれません。でも、よく見たら、岩の上にのっかっていました。危機的なことが起こると、その人の土台が見えてきます。そして、家というのは日本の木造家屋というよりも、西洋の石で造られた建造物であります。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけましたが、それでも倒れませんでした。どうしてでしょう。岩の上に建てられていたからです。人が何と言うか、人の意見はどうだろうか?それもある程度大切です。助言もいただくことも良いでしょう。でも、一番大切なのは、聖書がなんと言っているか?神様がなんと言っているかであります。自分の思いは他にあるかもしれません。でも、最終的に「みことばがそうおっしゃるのでしたら喜んで従います」。これが岩の上に土台する人生です。岩の上に土台した人生は、この世の嵐がいくら来ても関係ありません。これは契約の内を歩んでいる人の人生でもあります。みことばを受け入れ、聞いて、行ない、契約の内を歩み続けましょう。
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