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2006年2月 5日 (日)

実によって知る      マタイ7:15-23

 春が近づいたせいでしょうか。最近、雨が多いですね。おそらく、乾いた地面が、水分を吸収して、木や植物の根に潤いを与え、芽を出すための準備をしているのではないかと思います。私は植物が繁茂している夏よりも、ああ、これから芽が出るぞ!という季節が好きです。外から見たら枯れている木々も、内側ではちゃんと芽を出す準備をしています。なんか、信仰と共通するところがあります。日本の教会は冬が長すぎます、やってもやっても芽が出ないという諦めムード一色です。どうか、日本にリバイバルの季節がやってきますようにと祈らざるをえません。

1.偽預言者

 偽預言者の出現は、旧約聖書から終末にいたる全時代にまで及んでいます。イエス様の時代は、パリサイ人・律法学者がそういう人たちでした。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼でした。偽預言者とは、神の言葉を用いて羊を養うような振る舞いをしながら、その実、飼っている羊を食べてしまう人たちです。偽預言者は全時代に出現しますが、彼らの戦略はその教えにあります。偽預言者と教えは、ペアーになっています。マホメットは旧約聖書の上にコーランを乗せました。モルモン教は、聖書の他にモルモン経典があります。統一教会は原理講論をもって聖書を解釈します。キリスト教であっても、ヒューマニズムや哲学を土台としているものもないわけではありません。教えというのは、私たちの思想を作ります。思想はやがてその人の生き方や人格、品性、価値観を決定していきます。それが実であります。良い教えは良い実を結びますが、悪い教えは悪い実を結ぶと言い換えても結構であります。たとえば、イスラムの教えを受けた人は、一般に好戦的であります。「片手にコーラン、片手に剣」と言うことを聞きたことがあります。それに、女性の地位は低くて、外で働くことができません。アメリカはキリスト教国と言うことで知られています。本来は聖書に基づいた国を作ろうと始めたんですが、いろいろな教えも入り込んできました。その1つは功利主義であり、幸福を人生の目的として生きることです。そうなると「幸福になるために結婚する。幸福でなければ離婚する」という理論が生まれます。みなさん、幸福は目的ではありません。神様のみこころを行なうときに、与えられるボーナスです。ですから、「幸福の科学」を教えている人も、偽預言者です。幸福は追求するものではありません。追いかけたら、青い鳥のように逃げていきます。幸福は、神様に従うときに与えられる、「恵み」です。

 ですから、偽物の教えなのか、本物の教えなのか彼らの生活を見ればわかります。ヘブル人への手紙13:7「神のみことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生活の結末をよく見て、その信仰にならいなさい」とあります。指導者たちの生活の結末とは、実であります。実とは何でしょうか?その人の歩み、人格、品性、生活、そして最期であります。偽預言者本人と偽預言者に追従している人は、どうなるでしょうか?富んでいるけれど、非常に利己的であるかもしれません。あるいは反社会的で生活がなりたたなくなるかもしれません。あるいは虚偽で塗り固められた嘘つき集団かもしれません。彼らは、世界中を歩き回り、自分よりももっとひどい悪魔の子を作り出すためにやっきになっています。どことは申しませんが、そういう人たちに限って、ものすごく熱心なのであります。パウロはガラテヤ4:17「あなたがたに対するあの人々の熱心は正しいものではありません」と言っています。熱心であれば良いというものではありません。私などはセールスマンに熱心に勧められると弱いところがあります。コピー機とか、電話回線、新聞の勧誘・・・たいしたもんだなーと感心します。みなさん、悪い教えは、悪い実を結びます。その教えを広めている人と、信奉している人たちを見たら良いですね。今は占いが非常に流行っています。四柱推命学、風水、星座・・・そういう人は本人もそうですが、受けた人も、最終的にはどうなるでしょうか。恐れの霊にしばられ、外に一歩、出るのも大変になります。ある女性は占いが大変良くあたり金持ちになりました。しかし、夜になると夢の中に蛇が現われ、「お前を支配したい」とやって来たそうであります。これは悪魔であります。占いの背後には、悪魔が働いているのです。この世の中には、黒とは言えないけれど、限りなく黒に近い灰色がたくさんあります。競輪、競馬、パチンコなどは毎日やっていないとダメなんです。データーが必要なんです。でも、ギャンブルをやって家を建てた人はいないとよく言われます。酒やタバコも灰色です。「酒は百薬の長」などとも言われます。でも、それらをやった結果、どうなるでしょうか。病気になったり、中毒になります。家庭も崩壊します。結末は分かっているんです。

 私たちは偽預言者を避け、本物の教えを受ける必要があります。みなさん、この世のものはすべて相対的であります。「絶対」なんて言うと嫌われます。しかし、聖書の教え、イエス様の教えは絶対であります。確かに、聖書を解くための、色んな神学や教理は存在します。教会の歴史をふりかえりますと、ある時はそれてしまったこともあります。でも、私たちは絶えず聖霊に聞き、まことのみことばをいただく必要があります。大学の神学部とか、神学大学、神学者が必ずしも正しいとは言えません。学問も必要ですが、最終的には真理の御霊が証をしてくださるんです。真理の御霊に逆らっているなら、たとえ有名な神学者であってもそれは「ノー」であります。日本にも福音派の大御所があります。どことは申しませんが、最近、おかしくなっている。そこの教会の信徒がこうおっしゃっていました。「あれこれ神学を語ってもわかりません。どうか、聖書から語ってほしい」と。「聖書だけ読んで分かるんですか?」とある人は言います。分かります。ルターは「聖書は聖書が解釈する」と言いました。こちらで分からないところがあれば、別のところで語ってくれるのです。では、偽物はどうやって分かるのでしょうか?銀行の人は、偽札を知るために、偽札を研究しません。本物に触っていると、偽物がわかるそうです。私たちも、たえず聖書からの本物の教えに触れていると、偽物がやって来たとき「あれっ?」と分かるのです。牧師自身もこの世に生きていますので、たえず軌道修正しながら、真理の道を歩んで行きたいと思います。どうか、私のためにもお祈りください。使徒パウロがおっしゃっています。Ⅱテモテ2:15「あなたは熟練した者、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神にささげるよう、努め励みなさい」。アーメン。

2.偽クリスチャン

 使徒パウロは偽兄弟の難にあったとⅡコリント11章で述べています。偽預言者がいるなら、偽クリスチャンが当然いるはずです。そのことは、マタイ7:21-23に書いてあります。わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』この人たちは、イエス様を「主」と呼んでいました。また、イエス様の名前で、預言をしたり、悪霊を追い出したり、奇跡もたくさん行いました。でも、イエス様は「わたしはあなたがたを全然知らない。わたしから離れて行け。」とおっしゃっています。私がこう言われたら、困るなーと思います。イエス様は群集に向かって、このような冷たい言葉をときどき投げかけています。ヨハネ6章には、「弟子たちのうちの多くの者が、去って行った」と書いてあります。みなさん、イエス様のみわざや教えを聞いて集まって来る人たちすべてが、クリスチャンとは言えません。中には、「主よ」と呼んだり、「主の御名によって」と奇跡を行なう器用な者までいたようです。わー、驚きます。私もこれまで、100名以上の洗礼を授けてきましたが、中には本当に信じていないで受けた人たちもいたかもしれません。日本は義理と人情の国ですから、「世話になったので、とりあえず受けておこう」という人もいたかもしれません。私自身も、本当にその人たちが信じたのか、形だけだったのか分かりません。

 でも、ここではっきり分かることがあります。実によって知ることができます。20節「こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです」とあります。良い木は良い実を結びます。悪い木は、悪い実を結びます。実とは何だったでしょうか?その人の歩み、人格、品性、生活、そして結末であります。もし、その人が悔い改めて、新生していれば、おのずと救いの実が実るはずであります。ガラテヤ書に「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です」と書いてあります。もし、クリスチャンになったのに、不品行、偶像礼拝、魔術、争い、憤り、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興などを続けていたら、問題かもしれません。もちろん、クリスチャンになって罪を全く犯さなくなるということはありません。でも、救いを得ている人たちの中には、神の種が宿っているので、罪を犯し続けることができません。むしろ、きよさに至る実を結んでいくはずです。私も「きよさ」などとは、ほど遠い存在でありましたが、27年近くクリスチャンをやっていますと、「随分と変わったかなー」と自分でも驚きます。高校生の頃は本当に人を殺そうと思いました。殺意なんか抱いたことないという人がいますが、私は殺意、敵意、情欲、自己中心のかたまりでした。でも、本当に不思議であります。救いは目には見えませんが、実としてやがて現れてくるんだなーと心から思います。イエス様はヨハネ15章で、「あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためである」とおっしゃいました」。実が残るとはいろんなことが考えられます。多くの草花は、種を残して、春にまた新しい芽を出します。クリスチャンも最後まで、忠実でありたいと思います。また、自分だけではなく、救いの実を他にも残したいと思います。

 良い木か悪い木なのか、実によって知ることができます。私たちは、クリスチャンであっても、それは本当に正しいことなのか、間違っているのか善悪をつけがたいものがあります。ときどき、だれが悪いとか良いとか批判し合うこともあるかもしれません。教会内で、悪口とかゴシップがないほうが良いです。でも、「本当はこうなんだ!」と言うと言い訳になります。私はそのとき、「木は実によって知る」というみことばを思い出します。つまり、その人の生活や人格の結ぶ実によって、その人が言っていることが真実なのか偽りなのか分かるということです。実が結ぶまではある程度の時間がかかります。でも、良い木であれば良い実を結びますし、悪い木であれば悪い実を結びます。最終的には、実で判断できるということです。私たちは、そういう意味で、神の前に厳粛になるべきです。使徒パウロは、Ⅱコリント13:5で「あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい」と言われました。つまり、人のことをどうこう言う前に、「自分はどうなのか?信仰に立っているのだろうか?」と問うべきです。それは人からの賛同を得なさいという意味ではありません。神様からの賛同を得よということです。現代はあまりにも人と人との関係を強調するところがあります。もちろん、人との関係も大切です。しかし、最終的には神様がどう言われるか、ここに信仰者は立つべきです。ある教会で、牧師はふさわしくないので、退任してもらいたいという提案が出たそうです。そのとき、教団から3名の牧師がやって来られ、双方の言い分を聞いたそうです。先生たちがお帰りになるときこのように言ったそうです。「2週間後にまた来ます。しかし、それまでだれとも連絡を取り合ったりせず、神様の前に静まって、神様から直接、聞きなさい」と言ったそうです。私はそれを聞いて、感動しました。IT時代、情報過多の時代に私たちは生きています。でも、「神様に聞く」、これが信仰者にとって、最も大切なことだと思います。Ⅱコリント13:5をもう一度引用いたします。「あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい」

3.実を結ぶために

これで終わってしまうと、なんかシュンとして、帰ることになります。最後は恵みで終わりたいと思います。かつての私たちは野ぶどうでした。イスラエルがぶどうの木なら、私たちは野生のぶどうです。そして、イエス様はまことのぶどうの木です。聖書でとても有名なみことばがあります。Ⅱコリント5:17「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」。原文では、キリストにあるなら」は「キリストに接木されるなら」とも訳せるそうです。私たちクリスチャンは、イエス様という木に接木された者であります。接木された以上は、幹であられるイエス様から力と命をいただいて生きるべきであります。もし、私たちが離れてしまうなら、枯れてしまいます。ヨハネ15:5,6「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます」。火に投げ込むとは、地獄に落とされるという意味ではありません。もし、そういうふうに解釈してしまうと、信仰義認の福音と矛盾してしまうことになります。そうではなく、キリストから離れてしまったら、その人のしたことが無駄になるということです。つまり、実を残すことができないということです。豊かな実を結ぶためには、私たちはキリストにとどまり続ける必要があります。「キリストを離れて、私自身では実を結ぶことはできない」とはどういうことでしょうか。たしかに、ある人たちはこの地上で有名になり、偉大な功績を残すでしょう。教科書に載ったり、銅像が建ったり、記念館が建ったりするかもしれません。しかし、問題は、御国にそれが残るかであります。「地上では有名であっても、天国ではまったく無名」ということもあり得るのです。ですから、クリスチャンの目指すものは、地上における実ではなく、永遠の御国まで残る実であります。ま、できれば地上でも実を見たいし、御国でも見たいです。でも、最終的なゴールは、あっちの方じゃないかなーと思います。極端なことを言えば、地上ではさっぱりだったけど、天国ではすごいということもあるかもしれません。牧師などは、毎週、講壇の上で報いられていますので、天国に行ったら、一人の兄弟かもしれません。有名な牧師ほど、天国に行ったら報いはわずかでしょう。

 実を結ぶためにどうしたら良いでしょうか?良い地にまかれた種は、みことばを聞いて悟る人だと福音書に書いてあります。ヨハネ15:7にも「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます」とあります。ですから、聖書を抜きにして実を結ぶことはできません。つまり、キリストにとどまるということは、みことばにとどまるということです。「イエス様を愛しますけど、みことばには従いません」、これは嘘です。前のポイントの偽クリスチャンですね。イエス様を愛するために、みことばを読み、みことばを守ることが絶対、欠かすことはできません。なぜなら、「イエス様=ことば、ことば=イエス様」だからです。おおー、こうなると聖書に親しむしかありません。うちにも来られたメル・ボンドという人はある本にこのように書いてありました。「あなたの考えはあなたの霊の入口です。満ち満ちた神の力や油注ぎが、現実に私たちに現されるために、神のみ言葉が私たちの考えの中に入るようにし、そこにとどまることが必要です。考えたことが霊の奥に入り、その結果してしるしと不思議の働きが起こってきます。すなわち、喜んでみことばを考え続ける人に、神様の力が生み出されるからです。もし私たちが心を守って、キリスト・イエスを通してくる考えだけに、すなわち神のみ言葉を通してくる考えだけに、心の扉を開けるようにするなら、あらゆる人知を超えた神様からの平安を持つことができるのです。ある時、私はテレビを観ていました。その番組は、全米から集まってきた特定のグループを、専門家が分析をするショーでした。分析を受けるグループは百歳以上の人たちでした。彼らは「百歳隊」と呼ばれていました。医学に通じている人々が導きだした驚くべき結論は、これらの人々の長寿は、栄養のバランスが良いとか、運動をしているせいだとかいうような、はじめに考えられていた要因とは違っていたことです。そうではなく、長寿の要因は、彼らの肯定的な思考方式にあったのです。「百歳隊」の人は、たとえ自分にとって大切な人が亡くなっても、落ち込むことを拒否したのです。彼らの心の中に、失望や憂鬱がとどまるのを拒否したのです。もし私たちが超自然的な刷新を願うなら、私たちの考えから始めなくてはなりません。刷新はまず頭の中で起こり、それから霊の中に起こってくるのです。神様のみ言葉が私たちの考えの中に入ると、罪、悪い行ない、誤り、失敗、弱さ、不十分さが私たちの人生から消し去られます。悪魔は私たちが勝利できないように、種々の考えで、私たちの頭がいっぱいになるようにさせるのです。私たちは神さまのみ言葉にとどまっている時、健康で、人からの好意を得、安全で、安息のある、経済的に繁栄し、幸せに満ちた、超自然的な領域に保たれるのです。」

 私たちの思いをどうすべきでしょうか。私たちの思いを悪いことばや否定的なことばに任せてはいけません。そうではなく、神様のことばにこの思いを占領してもらいましょう。そうするなら、霊が祝福されます。霊が祝福されたら、その結果として、肉体において物質において幸いがやってくるのです。この世のものではなく、イエス様とみ言葉にとどまり続けたいと思います。アーメン。

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