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2006年2月26日 (日)

御使いにまさる      ヘブル1:4-9

 本日はヘブル人への手紙の第二回目です。ヘブル人への手紙は旧約聖書の引用が多いので、とても堅い書物です。でも、この書を読んでいくと、御子イエスがいかにすばらしいお方か、また、私たちがいただいている贖いがなんとすばらしいものか改めて知ることができるでしょう。教会成長とか、信仰の成長、色々なテキストや方策があるでしょう。でも、もっとも大切なのは、聖書のみことばから養いを受けることです。毎週の礼拝は、神様に礼拝とさんびを捧げるという行為と、神様から命のみことばと祝福をいただくという恵みもあります。そういう意味で聖日礼拝は私たちの特権であり、信仰の生命線であります。

1.御使いの存在

 聖書は、御使い、つまり天使の存在をはっきり告げています。しかし、フランス革命以降、西洋では、霊的なことをあまり言わなくなりました。人々は理神論をとなえ、「宗教とは神様に関するものであり、地上とはかけ離れた出来事である。一方、地上の出来事は現実そのものであり、私たちはそこで生きている」と言いました。つまり、宗教と地上の出来事を全く2つに分けて考えるようになったのです。その結果、宗教と教育、宗教と科学、宗教と政治は別物だという考えが定着してしまいました。しかし、聖書は神様がおられるところと、私たちが住んでいる地上との間に、霊的な存在がいるとはっきり告げています。霊的な存在とは天使及び堕落した天使たちであります。一方、日本をはじめとする東洋はどうでしょうか。西洋のように、絶対者なる神概念はありません。そのかわり、霊界と地上との境目もありません。霊界には目には見えないけれど、さまざまな精霊がいると考えます。精霊たちを自由にあやつるのが、祈祷師、魔術師、陰陽師であります。日本人は頭では西洋の教育を受けていますが、心は東洋的な宗教観を持っています。ですから、科学的なことを言いながらも、風水だとか占いを信じています。ある大会社は、スーパー・コンピューターを設置するときに、神主を呼んで祝詞をあげてもらうそうです。科学万能と言っているのに、それがおかしいとは思わないのです。西洋には西洋的な、東洋には東洋的な見方があります。これを世界観と言います。私たちは生まれ育ったところで、無意識ながらも、それぞれの世界観を持っています。それは眼鏡のようなものであり、その眼鏡をかけて見ると、ある物は見えても、ある物は見えないという現象が起こってきます。

日本におけるプロテスタント教会は明治から始まります。ヨーロッパ、アメリカからたくさんの宣教師、宣教団体が犠牲を払って来られました。それは大変ありがたいことであります。しかし、残念なことに、彼らは西洋の世界観を持って来たのです。福音そのものは間違いありませんが、西洋の衣をまとった福音です。日本人の良いところは恩を忘れないで、教えられたことを忠実に守るということです。しかし、その弊害として、日本のキリスト教会は西洋の世界観をもって聖書を読み、物事を考えるようになってしまいました。その代表的なものが、霊的なものと地上の現実を分けて考えるということです。私たち人間は霊と魂と肉体でできています。病気1つをとってみると分かりますが、肉体的なものが原因でなる病気があります。この手のものは、お医者さんへ行って薬を飲めばなおります。しかし、悪霊によって、あるいは先祖から渡って来た呪いによって病気になる場合もあります。この手のものは、聖霊の力とイエスの御名の権威で祈るしかありません。しかし、多くの保守的なキリスト教会は、悪霊を追い出したり、病のために手をあてて祈ることをしません。何故でしょう。それは、宣教師や宣教団体が持って来た、西洋の世界観という眼鏡をかけているからです。私たちは彼らの恩を忘れてはいけませんが、聖書的な世界観を持つ必要があります。ですから、今も天使はいるし、堕落した天使である悪魔や悪霊がいるということです。でも、間違えてはいけません。天使や悪魔よりも力ある神様が天上にいらっしゃるということです。私たちは日本にあって、絶対者なる神様がおられるということを忘れてはいけません。この絶対者なる神様が霊的なものから物質的なものまでも創造し、そして支配しておられるのです。ハレルヤ!ですから、神様に対する信仰は、学校教育においても、政治においても、科学においても絶対に必要だということです。神様に対する信仰がない教育や政治や科学は、羅針盤のない船のように、目的地に達することができません。漂流して、いずれは、難破してしまうでしょう。聖書のみことばは、私たちの道を照らすひかりであり、羅針盤です。

2.御使いと御子

 なぜ、ヘブル人への記者は「御子は御使いにまさる」と旧約聖書を引用して語っているのでしょうか。おそらく、その時代、天使を礼拝する密儀教があったのではないかと思います。その人たちは御子イエスも天使の一人と考えていました。そして、他の天使たちにも御子イエスと同じような礼拝をささげていたのであります。ローマ・カトリックでは天使や聖人などに、祈願をささげるようでありますが、それは聖書的ではありません。では、御使いと御子の違いは何なのでしょうか。4節から13節までたくさんのことが書かれています。御子に関しては、旧約聖書から7つほど引用されていますが、詩篇からものが多いことが特徴的です。では、具体的にどのような点で御子が御使いよりもまさるのでしょうか。

その1つは、「御子は神様の子どもである」ということです。5節「あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ」「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる」と書いてあります。中には、「父なる神様は男性なのに、子どもを生むのか?」と文句を言う人がいます。たしかに人間は女性が子どもを生みます。男性は生みませんし、生めません。でも、神様はあえて、人間を男と女に2つに分けて創造されました。それは、夫婦が交わって、子どもを生むためであります。でも、人間を創造した神様ご自身は、父性と母性の両方を持っておられます。父なる神様は、両性を持っていらっしゃるので、女神は不要なのであります。女神などと言うのは、人間が考え出した神話の世界であります。父なる神は、永遠の昔、独り子を生んだのであります。それが御子であります。ちなみに、「生む」は、ギリシヤ語はゲネアーです。英語ではbegetであり、父親が子をもうけるという意味です。一方、bornは、bearの過去分詞形で、赤ちゃんが生まれるという一般的な意味です。赤ちゃんは母親からボーンと生まれます。御子は父が生みましたが、御使いは、父なる神様の被造物であります。7節に「神は、御使いたちを風とし、仕える炎とされる」と書いてあります。神様はご自分の腕として、御使いたちを創造したのであります。イスラエルの民がエジプトから脱出するとき、御使いは強い東風となって紅海を分けました。また、エジプト軍が追いかけてきたとき、火と雲の柱となって彼らの行く手をはばんだのであります。神様はご自分のために、御使いたちを造りました。くれぐれも、子どもを作るなどとは言わないようにしましょう。子どもは所有物ではなく、神様から授けられた存在です。アーメン。

2つ目は、御子は支配者であり油注がれた方です。8節と9節にあります。「御子については、こう言われます。『神よ。あなたの御座は世々限りなく、あなたの御国の杖こそ、まっすぐな杖です。あなたは義を愛し、不正を憎まれます。それゆえ、神よ。あなたの神は、あふれるばかりの喜びの油を、あなたとともに立つ者にまして、あなたに注ぎなさいました。』」御子がいつから支配者になったのでしょうか。これは先週も学びましたが、復活・昇天してからだと考えることができます。なぜなら、「喜びの油を注ぐ」とは、キリストという名前にも関係するからです。実の意味で、イエスがキリスト(メシヤ)になったのは、神の右の座に着かれてからであります。旧約の人たちは、ダビデの子孫からメシヤが起こると考えました。母マリヤも「キリストはダビデの子孫として生まれ、神が彼に王位を与え、その国は永遠に続く」と理解していました。ですから、主イエス・キリストは御国の王であり、天使とは格が違うのであります。ブラックゴスペルには、クリスマスソングもあります。ある歌詞は、ジーザスは、キング・オブ・エンジェルス「天使たちの王」となっています。イエス様は馬小屋にひっそりと生まれました。でも、空には、天の軍勢がベツレヘムに集まり神様を賛美しました。あまりにも多くの天使が、集まったので、一時、天が空っぽになったことでしょう。もしかしたら、あなたがこの地上で生まれたときも、御使いが喜んだかもしれません。ある人が「子どもには複数の天の使いが付いており、子どもを守っているんだ」と言っていました。

 10年くらい前のことですが、ミッション・バラバの鈴木啓之先生が家族で韓国の伝道に行きました。奉仕が終わり、車で帰ろうとしたときです。小学校に入ったくらいの、おじょうさんが一人だけ駐車場に走っていきました。教会のとても広い駐車場で、あたりはもう暗くなっていました。おじょうさんは、車の間を歩いていました。先生ご夫妻からかなり、離れていたところにいました。すると、一台の車が運転をミスしたのか、音を立てて、急にバックしました。そのままでは、おじょうさんが車と車の間に挟まってしまいます。鈴木先生は、どうにもできなくて「主よ!」と叫んだそうです。夢が幻か、おじょうさんの体が一瞬、垂直にふっと飛び上がったそうです。すぐ現場にかけつけてみると、車のバンパーとバンパーとががっちりぶつかっていました。しかし、おじょうさんには怪我1つなかったそうです。鈴木先生は「天使がうちの娘を守ってくれたんだ」と証しておられました。こういう証をすると、「兵庫県の2人の園児はどうして守られなかったのか?」と聞く人がおられるでしょう。これは次のポイントでお話します。でも、14節を引用いたします。「御使いはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるため遣わされたのではありませんか」。差別するわけではありませんが、「救いの相続者となる人々に仕えるため遣わされた」と書いてあります。私は、子どもが天使に助けられたという証をいくつか聞いたことがあります。ここでのポイントは、御子イエスは王なる支配者であり、御使いはそうではないということです。

3.御使いの使命

 もう一度、14節をお読みいたします。「御使いはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるため遣わされたのではありませんか」。マルチン・ルターは、「天使は肉体を持たない霊的被造物であり、キリスト教世界のため、教会のために奉仕するように、神によって造られた者である」と言いました。では、御使いはどのような奉仕をするのでしょうか?まず、御使いのギリシヤ語は、アンゲロスであります。この言葉は、何かを伝達することと関係があります。アメリカのロス・アンジェルスという町があります。これも、やはり伝達することと関係があります。その証拠に、ロス・アンジェルスにはハリウッドという映画の中心地があります。神様は良い意味でも悪い意味でも、ロス・アンジェルスがそういう場所になることを予知していたのかもしれません。御使いガブリエルは、大祭司ヨシュアに、乙女マリヤに、神からの大切なメッセージを伝えました。また、御使いの大きな使命は、神のしもべや民、子どもたちを守ることです。創世記では、ロトの家族が御使いによってソドム・ゴモラから助け出されました。ダニエル書を見ますと、御使いがダニエルを力づけています。新約聖書ではペテロが捕えられたとき、御使いが鎖を壊し、鉄の扉を開けて、ペテロを救い出しました。また、御使いはイエス様の誕生から復活まで、イエス様に仕えていました。イエス様がゲツセマネの園で血の汗を流して祈っておられた時、御使いがイエス様を励ましました。イエス様が復活したとき、墓石をどかしたのは御使いであります。イエス様が昇天したとき、弟子たちに対して「なぜ天を見上げてたっているのですか。天にあげられたイエスは、同じ有様でまたおいでになります」と告げました。今でも、見えないところで、御使いが救いの相続者となる人々に仕えておられるに違いありません。神学者たちは、「今も、空中において、天の御使いたちは、悪霊たちと戦っている」と言います。御使いは神のみこころが地上でなされるために、日夜、働いているのであります。

 でも、私たちは御使いに関して、とても重要なことを知らなければなりません。御使いつまり、天使は私たちの要請では発動しないということです。「天使長ミカエル様、どうかお助けください」と言っても無理です。御使いは我々の願いで動くのではありません。御使いは神様の言いつけがあると、はじめて動くのであります。このことは、ヨシュアがエリコに上ったときのことでも分かります。ヨシュアがエリコをこれから攻撃しようとしたときです。抜き身の剣を持った御使いがまん前に現れました。ヨシュアは「あなたは、私たちの味方ですか。それとも私たちの敵なのですか」と尋ねました。すると御使いは「いや、私は主の軍の将として、今、来たのだ」と言いました。このことは何を意味するでしょう。神がヨシュアと共にいるかどうかではなく、ヨシュア自身が神の側にいるかどうかであります。ヨシュアは顔を地につけ、そして足の履物を脱ぎました。これは、神様に全き服従しますという行為です。モーセもかつて、そのようにしました。御使いはヨシュアが神の側にいるならば、ヨシュアのために戦うのであります。その証拠として、エリコの城はヨシュアたちが7日間城を回り、角笛を吹いただけで崩れ落ちました。これは人間ではなく、あきらかに、御使いがやったことでした。このように、御使いは私たちからの願いを聞くことはありません。御使いは神様の命令があれば、私たちのために動くのであります。逆に、神様の命令があれば、御使いはさばきの代行として働くのであります。みなさん、御使いをなめってかかってはいけません。御使いは、森永製菓のような可愛い羽の生えた子どもではありません。Ⅱ列王記19章にありますが、エルサレムが兵糧攻めに遭いました。どこからも助けがありません。ところが、主の使いが一晩で、アッシリアの陣営で、18万5000人を打ち殺しました。ヒゼキヤ王は戦わずにして勝ったのであります。神を敵に回したら、えらいことになります。でも、御使いは私たちが死ぬとき、私たちの魂をパラダイスまで運んでくれます。貧乏人のラザロが死んだとき、御使いたちが彼をアブラハムのいるところに連れて行きました。おそらく、両脇を支えられて、ラザロは天に上ったことでしょう。私たちも、いずれお世話になるかもしれません。

 黙示録からも分かりますように、空中では御使いの軍勢と悪魔の軍勢が戦っています。私たちも悪しき霊と戦わなければなりません。敵はいるのです。パウロは「私たちの格闘は、血肉との戦いではなく、主権、力、この暗闇の世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです」と言いました。主権とか力、この暗闇の支配者、もろもろの悪霊は、堕落した天使たちの支配階級ではないかと言われています。私たちの敵は人間ではなく、その背後で働いている悪しき霊との戦いなのです。悪霊は個人個人ばかりではなく、空中から疑いや否定的な思いをばらまいています。また、日本人が持っている宗教や、いろいろな要塞を用いて、まことの神から引き離そうと賢明になっています。日本の教会が成長しないのは、悪しき霊と戦わないで、味方同志戦っているからです。敵は信徒でも牧師でも、未信者の夫や妻でもありません。背後で策略をもって働いている堕落した天使たちです。では、どのようにしたら勝利できるのでしょうか。まず、守りのために、神の武具で身を固めることです。頭には救いのかぶとを被り、悪い思いや疑いを排除します。神様の約束にとどまるならマインドが守られます。胸には正義の胸当てを着けます。胸当ての下には大事な心臓があります。心臓は感情とか情熱を象徴します。正義を行なっていればハートが守られます。腰には真理の帯を締めるとあります。腰は力の源です。真理に従えば力があるのです。足には平和の靴を履きます。この足で私たちは福音を運ばなければなりません。奥山実先生がこのようにおっしゃっておりました。福音は口で語るのではなく、聖書は、足をもって福音を運べと教えています。愛と親切をもって、足しげく通うと、未信者は落ちるということです。そして、左手には信仰の大盾、これによって悪い者が放つ火矢を消すことができます。火矢とは悪い言葉、破壊的な言葉であります。ある人たちは、この矢がささっていることを知らないで生活しています。右手(サウスポーの人は左手)には、御霊の剣です。これは、神の言葉であります。神のことばこそが、唯一の攻撃の道具です。イエス様も悪魔の誘惑に遭ったとき、聖書にこう書いてあると対抗して勝利しました。

最後に敵の要塞を打ち破るミサイルがあります。これは偉大な飛び道具であります。それは、御霊による祈りです。あるおばあちゃんが、「私はもう年なので、何の奉仕もできません。ただ、祈ることしかできません」と言ったそうです。しかし、それはどういう意味でしょうか。「私は拳銃も機関銃もありません。ミサイルしか持っていません」と同じことであります。ミサイルがあったら、敵の要塞を破壊することができます。みなさん、祈りはミサイルほどの力があります。なぜでしょう。神様が動いてくださるからです。正確には、神様から天の御使いが遣わされ、御使いが悪霊どもの巣窟を破壊してくれるからです。だから、祈りが霊的戦いの一番の武器なのです。私たちは祈りを軽く見てはいけません。御使いは、私たちの祈りや願いでは動きません。でも、神様が私たちの祈りと願いを聞き、ご命令を御使いたちに与えます。御使いたちはその命令を聞いて発動するのです。問題は、私たちが神の側にあるかどうかです。私たちが神の側についているなら、御使いも私たちの側についてくれるのです。御使いにまさる、主イエス・キリストに従っていきましょう。

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