預言者にまさる ヘブル1:1-3
本日からヘブル人への手紙を学んでいきたいと思います。ヘブル人への手紙は旧約聖書と大変深い関係があります。だれが書いたのか分かりませんが、ユダヤ教に精通している人です。おそらく、その当時の祭司がこの書物を読んだならば、「イエスはキリストだな」と、信仰を持つことができたでしょう。私たちは異邦人ですので、「それが、どうしたの」という、リアクションしか起こらないかもしれません。しかし、私たちがこの書を学ぶならば、イエス・キリストに対する信仰が増し加わることは間違いありません。よく、人々は信仰があるとかないとか言いますが、問題は、イエス・キリストをどんなお方として信じているかであります。本日は、1章1節から3節だけを学びますが、この短い箇所だけで、消化不良になるくらいの情報が収められています。きょうは、イエス・キリストがどんなお方か、5つのポイントで学びたいと思います。
1.啓示者
1節「神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られました」。神様は、父祖であるアブラハム、ヤコブ、イサク、そしてヨセフに語りました。預言者といえばモーセも入るでしょう。あとは、エリヤ、イザヤ、エレミヤ、ダニエルなど有名な預言者がおります。預言者の「預」はあえて「預かる」という言葉を使っています。これは、神様のことばを代弁するという意味であり、彼らは「主はこう言われる」とよく言いました。預言者が言ったことが、まとめられているのが、旧約聖書です。このところに、「多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られた」とありますが、これがミソであります。聖書の霊感を信じない、自由神学者たちは、進化論のごとく聖書が寄せ集められたように考えますがそうではありません。預言者たちは、異なった時代において、異なった場所で、勝手に語った感じがしますがそうではありません。聖霊なる神がちゃんと管理していたのであります。Ⅱペテロ1:21「なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです」と書いてあるとおりです。
でも、世の終わりに神様は御子を送り、御子によって語られました。マタイの山上の説教にもありますが、イエス様は「私はこう言う」「私はこう言う」と言われました。人々は「なんと権威があるのだろう!」と驚きました。ロゴスなる神が、語ったのですから、権威があるのは当たり前です。つまり、イエス・キリストは究極的な啓示者であるということです。究極的、アルティメイト、もう、それ以上のものはないということです。変貌の山で、モーセとエリヤが現れ、イエス様と何やら話し合っていました。いわば、サミット会議があります。ペテロは「いやー、これはすばらしい。幕屋を3つ建てましょう」と提案しました。突然、輝く雲が人々を包み、雲の中から声がありました。「これは、私の愛する子、私はこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい」。だれもいなくなり、だだ一人イエス様だけが残りました。これは、どういう意味でしょう。イエス・キリストがモーセやエリヤよりも優るお方だということです。20世紀最大の神学者カールバルトは、自由主義神学からキリスト教を救った偉大な神学者だといわれています。彼は、たとえ聖書に間違いがあっても、受肉された御子だけは間違いはない。御子イエスこそは究極的な神のことばであると言いました。ま、私は聖書全巻、間違いないと信じていますが、イエスのことばだけは間違いないと言ったわけです。聖霊が背後で語らせているわけですから、人間が語ろうが、御子が語ろうが変わりありません。でも、イエス・キリストは受肉したみことばであり、最高の啓示者であることは間違いありません。ですから、私たちはイエス・キリストのことばをとことん信じるべきであります。たとえば、「まことに、まことに」と二度も重ねているところは、「んー、本当なんだなー」と敬意を払うべきであります。ヨハネ15:24、25「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。」みなさん、救いに関しては、イエス様が「まことに、まことに」と強調しているわけですから、疑う余地は全くないということです。
2.万物の相続者
2節後半に、「神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました」とあります。コロサイ1章にも「万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです」と書いてあります。神様は、御子を通して万物、宇宙全体を創造したわけですが、一体だれのものでしょうか父なる神が先頭に立って、世界を創造され、御子イエスに譲り渡したのです。ですから、万物は、御子イエス・キリストのものであります。私たちの小さな頭ではとっても理解できません。それで、御子イエスを信じた人はどうなるのでしょうか?ローマ8章には、「私たちが神の子どもであることは、相続人でもある」と書かれています。つまり、私たちもイエス様と一緒に、万物を相続し、受け継ぐということです。そうすると、その量たるやどのくらいになるでしょう。「億万長者の遺産を相続したらなんとすばらしいだろう!」という夢を一度や二度くらいは、だれしも持たれたことがあるでしょう。でも、万物を相続するとなると、億万長者以上の相続です。旧約聖書で、エサウという人物は長子の権利を軽んじました。なんと、鍋物と交換したんです。しかし、弟のヤコブは長子の権利がいかにすばらしいか、見逃しませんでした。兄と父を騙してでも、その権利を奪い取ったのです。神様はヤコブを叱ったでしょうか?いいえ。神様はヤコブの神であることを恥とはせず、いつまでも共にいることを約束しました。
この地上に住んでいますと、物入りになることがよくあります。銀行も貸してくれない。「はー」、神の子どもなのに、なんでお金がないのだろうとため息が出てきます。お金がないんじゃなくて、夢とビジョンがないのかなーと思ったりします。夢とビジョンがあれば、出資してくれる人がいるのかもしれません。私もここいら辺には、自信がありません。なぜなら、私自身もその訓練を受けている最中だからです。モーセが幕屋を作るときも、余るほどの品物が集まりました。ソロモンが神殿を作るときも、海外から木材や石、宝石が運ばれてきました。神殿を再建するときは、敵国が資金を援助してくれました。ハガイ書には「私は、すべての国々を揺り動かす・・・銀は私のもの、金は私のもの」と書いてあります。日本は借金大国ですが、「教会だけは、クリスチャンだけは、なんとかしてもらいたい」というのが本音であります。私も今、このことに関しては、勉強中であります。イエス様が所有者であるなら、イエス様の御名で求めるときに、本当に与えられるのか?これは各自、勉強しなければなりません。10数年前、この会堂を建てるときは、お金がどんどん集まり、ハガイ書の通りだなーと思いました。1億4千万、借金なしで建てられたということは誇るべきことかもしれません。ま、借金も財産ですけど、地上に住んでいる、私たちに天の神様が、イエス様が豊かに恵んでくださることを期待しましょう。そのためには、口を大きく開けて願わなければなりません。子供なんですから、ストレートに「お金をください」と祈れば良いのです。子どもは親のふところを全然、心配していません。子どもは、明日のことはどもかく、今日、今がすべであります。ですから、私たちたちも幼子のように、「今日の糧を今日、下さい」と祈りましょう。
3.神そのもの
3節「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。」聖書には「イエス・キリストが神である」と断言しているところは、ほとんどありません。ただし、イエス様は神様と同等の方であるとは、いろんなところで言われています。この箇所でも、御子は「神の栄光の輝き、神の本質の完全な現われ」と言われていますので、只者ではありません。サタンは天使の中で完全であり、最高の輝きを持っていました。そのためサタンは「いと高きところに上ろう」と高慢になり、地に投げ落とされました。神以外の者が、神様と等しくはなれないのです。御子は三位一体の神なので、まさしく、神の本質を現していたのです。ピリポという弟子が、私たちに父を見せてくれと願いました。イエス様は大変憤慨し、「私を見た者は、父を見たのです。私が父におり、父が私におられることを信じないのですか」と言われました。「私が父におり、父が私におられる」とはどんなことか、学校で数学習った方ならだれでも知っています。イエス様の円と父なる神の円が二つあります。「私が父におり、父が私におられる」ことを満足するためには、二つの円が同じ大きさでなければなりません。つまり、父なる神とイエス様は全く、同等だということです。だから、私たちはイエス様を見るとき、同時に、神様を見ているということなのです。
多くの異端者が世にはびこっていますが、キリストをどんなお方としてとらえるか、この一点にかかっています。エホバの証人はキリストが被造物であり、天使の長だと言います。神の子は、神様ではないと言うのです。しかし、サルの子はサルです。人間の子は人間です。では、神の子ならば何でしょうか。イエス様は神の子であり、神なのです。ある有名な文学者が言いました。この部屋にシェークスピアが入って来たら、立ち上がって最高の敬意を表するでしょう。では、この部屋にイエス・キリストが入って来たらどうするでしょうか。地にひれ伏して、拝みます。弟子たちは復活の主と出会ったとき、礼拝しました。また、黙示録では、御座に座る方と小羊とに、賛美と誉れと栄光をささげています。小羊イエスは父なる神と共に、礼拝を受けておられるのです。聖書には神以外の者は礼拝してはいけないと書いてあります。ところが、御子イエスは礼拝を受けておられます。ということは、イエス・キリストは神であるということです。神とは私たちの最高の価値であり、私たちが仕えるべきお方だということです。なぜ、キリスト教会と言うのでしょうか?それは、キリストが神であることを信じている集団だからです。その人は何を一番大切にしているか、その人が何にひれ伏しているかで決まります。お金を一番大切にし、お金にひれ伏している人もいます。地位であったり名誉であったりします。また、ある人にとっては、異性、快楽、持ち物かもしれません。でも、それらは偶像であり、神ではありません。偶像は人を縛り、命を奪い取ります。しかし、本当の神様は自由と命をお与えになります。
4.贖罪者
イエス・キリストは贖罪者です。3節後半に、「罪のきよめを成し遂げて」と書いてあります。ヘブル人への手紙の主題は、イエス・キリストが真の贖罪者であることを述べています。それも、旧約聖書のあちこちを引用して、「一回で、永遠の贖罪をなされたお方である」と証明しています。贖罪とは罪を贖うという意味ですが、旧約の時代はきよい動物を身代わりにささげました。自分が犯した罪を赦してもらうために、動物が身代わりに殺されなければなりませんでした。よく、キリスト教を誤解する人が「ごめんなさい」で良いのか言います。しかし、本当は、ただでは赦されないんです。何故、今日、ごめんなさいで神様が赦してくださるかと申しますと、イエス・キリストの贖いがあるからです。イエス様が代価を払ってくださったので、今の私たちはただで赦されるのです。もちろん、人に損害を与えた場合は、社会的な責任は問われます。でも、民事だとか刑事事件だとか関係なく、すべての罪は神様に対して犯した罪であります。ですから、私たちはまず第一に、神様から罪を赦していただく必要があるのです。
さきほど、イエス様は神と同等のお方だと申し上げました。なぜ、神様が人間の身代わりに死ななければならないのでしょう。これがまた、キリスト教の神秘であり奥義なのです。罪とは元来、赦されざるものなのです。神様がどんな罪でも、「いいよ、いいよ、赦すよ」と言ったならば、その時点で神様ではなくなります。神様は何にもまして義なるお方なんです。罪であるなら、どんなものでもさばかなければならないのです。一方、人類を愛していますので、赦してあげたい。でも、赦してあげるなら、ご自分の義が立たない。愛を立てれば義が立たず、義を立てれば愛が立たない。そのときに、神の御子であるイエスが身代わりに立てられたのです。父なる神様は御子を人類が犯した罪の代わりにさばいたのです。これがキリストの十字架であります。私たちは十字架を見るときに、まっすぐな神の義と水平な神の愛とが交差していることが分かります。父なる神様は御子の贖いに満足され、もう人類をさばなかいとおっしゃっているのであります。でも、条件が1つだけあります。御子を救い主として信じる者に、贖いが適用されるのです。キリストによって、罪を贖われた者しか天国に入ることはできません。これは狭い門と言われるかもしれませんが、確かな道なのです。マタイ7:13,14「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです」。
5.支配者
イエス・キリストは支配者です。3節後半「また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました」。イエス様は復活されてから40日後、天に昇り、神の右にお座りになられました。ピリピ2:9-11「それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、『イエス・キリストは主である。』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」イエス様は天に戻られてから、「主」という称号を与えられました。主とは、かつて、神様がモーセに現れて「私は主である」と言われた同じ称号であります。旧約時代は父なる神様が「主」でありましたが、新約時代はイエスが「主」になったのであります。主とは、支配者とか王様を意味する神様の別名であります。天の御国で「イエスは主なり」と言うならば、千々、万々の御使いたちが、「アーメン」とひれ伏すわけであります。しかし、天だけではありません。イエス・キリストはこの地に対しても、主権があります。マタイ28:18で、イエス様は「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています」とおっしゃられたとおりです。この事実を知らないのは、人間だけであります。悪魔はそれを知っていながら逆らっています。人間も逆らっています。もし神様が悪魔を滅ぼすならば、人間も一緒に滅ぼさなければなりません。だから、今、それができないのです。時間を延ばしてでも、一人でもご自分のところに立ち返るのを長く忍耐して待ち望んでおられます。
イエス様が「大能者の右の座に着かれた」ということはどういうことでしょうか。私たちは「ああ、イエス様は贖いのわざを成し遂げられ、神の右の座に着かれ、お休みなったんだなー」と考えてしまいます。私たちも「ああ、やれやれ」とテーブルに腰掛け、お茶を飲んだりします。でも、これはそうではありません。聖書で「右」とは権威を象徴する言葉であります。また、そこ座られたということは、執務中ということであります。検事とか、裁判官が席に着いたならば、休むのではなく、仕事中ということであります。ですから、イエス様は、父なる神様から全権を受け、善と悪を裁いておられるのです。また、使徒信条にあるように、「生ける者と死にたるものを裁く」のであります。つまり、だれが永遠の御国に入るのか、だれが永遠の滅びに行くのか、主イエス・キリストがさばくのであります。みなさん、このことを知ったならば、和解するしかないのではないでしょうか。悪霊どもは「イエスは主」と信じて身震いしています。「そんなの関係ない」とうそぶいているのは、神から離れた人間だけです。日本は特に、イエス・キリストの知名度が低いです。ついでに牧師の権威も低いです。それは言いとしても、アメリカとかアフリカの大教会で司会者が、「イエスは主です!」と、宣言すると、全会衆が立ち上がり、「アーメン、ハレルヤ!」と拍手喝采するそうであります。なぜ、私たちに力がないのでしょうか。「イエスは主、主権者」という信仰がないからです。水戸黄門では「この印籠が目に入らぬか!」で人々は「ははー、とひれ伏します」。それで決まりなんです。でも、日本のキリスト教会では、「イエスは主」と言っても決まらない。主権者であるイエス様に従おうとしません。自分が王様になると、信仰がおかしくなります。イエス・キリストはどんなお方でしょうか。イエス・キリストは預言者にまさるお方です。なぜなら、イエス様は「啓示者、万物の相続者、神そのもの、贖罪者、そして権威者」だからです。このお方を心からあがめ、従って行きましょう。
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